西パキスタンの旅 第2話「シンド砂漠を走る(その1)−−カラチからラワルピンディヘ」


シンド砂漠1
砂漠始まる

 地平線から、砂漠の太陽が昇ってきた。ランドクルーザーの四千ccエンジンが、快調なひびきをあげている。
 六月二八日、私たちは、カラチを発って、陸路ラワルピンディを目指した。
 カラチ−ピンディは、直線にして、約千二百キロ。これは、京都−札幌あるいは束京−稚内くらいにあたるだろう。
 大体インダス河(インダス沿岸の住民は、〈シンドの河〉と呼び、インダスでは通じない)にそって、北上する道を進む。途中で、モヘンジョダロの遺跡を見て、七月二日に、ラワルピンディで後発の関田隊員と合流する予定だ。
 ジープの乗組員は、安田、中村、それに私の三名。
 ジープの後部座席はおりたたまれ、天井までぎつしり荷物がつまっている。屋根には、カラチで苦心さんたんの末、あつらえたルーフキャリーが装着され、一五〇キロの荷物がのっている。前座席の足もとには、大きな素焼の水がめがすえてある。貴重な飲料水だ。
 ドアには、日の丸のワッペンがはってある。

 何やかやと忙しい出発の準備で、カラチ滞在は二週間になっていた。
 住みなれた、タージホテルのベアラー(ボーイ)、チョキダール(門番)たちが見送る中を、私たちは出発した。
 薄明のカラチの街を走り抜けると、すぐに砂漠が始まった。
 さあ、いよいよ出発だ。私たちの前途には、何が待っているのだろうか。私たちはどこに行こうとするのか。最終日約地は今問題でない。まず、ピンディまでを走る、この行程が第一課題だ。
 私たちの胸は、未知への期待に高鳴り、エンジンの唸りと気持よく調和している。

 カラチでは、多くのパキスタン人が、いろいろのアドバイスをしてくれた。いわく、生水を飲むな。コーラとセブンナップを積み込んで行くべきだ。いわく、夜走って昼眠れ。いわく、蜂蜜をなめて、レモンをかじれば疲れない。俺はラホールまでノンストッブで走った。いわく、ペシャワールの長距離トラックに気をつけろ。チャラス(大麻)をのんだヨッパライが多い。いわく、道をはずしたら、無暗に走るな。方向が分らなくなって、ひぼしになるぞ。(事実そういうことがあった。四年前、イギリス人が死んだ。Englishmen Dry Upと新聞にでたのを、私も記憶している)
 領事館の今川氏いわく、「ラクダと水牛に気をつけなさい。この間本当にあった話だが、乗用車がラクダの股ぐらにつっこみ、ちょうどラクダがすわったもんだから、車はペシャンコになりました。その時ラクダは何といったと思います?……」
 これはスコッチを飲みながらの話−。

 もう百キロ以上走った。一時間半ばかりだから、かなり快調だ。道もそんなに悪くない。ただ屋根に荷物を満載しているので、くぼみでゆれると、ベコンボコン音がする。どうやらへこんできたらしい。でも屋根がぬけることもあるまい。
 それにそんなに暑くない。何だ、一向に暑くないじゃないか。パキスタンの連中は、おどかしてやろうと、いいかげんの嘘をいったのだろうか。

砂漠の路上教習
砂漠マップこのあたりで、安田君と運転を交代しようと決心した。相当の覚悟がいった—。
 私も彼も、うかつにも日本から国際免許証を持ってこなかった。
 しかたがないので、領事館で〈この者は日本国の運転免許証を保持し、充分の経験と運転技術を有する〉という証明書を書いてもらった。領事館クラークのミスター・マーチャントと一緒に、カラチ警察署に日参した。そして、四日目に、OFFICER of traffic Karachi(カラチ交通部長というところか)の特別許可がおりた。
 そこで、免許検査官(Inspector of Licence)が私たちのジープに同乗し、カラチ市街を走らせた。彼が横から巻き舌のパキスタン英語で、「右折の手信号は‥…・。市内制限速度は……」等と説明していたが、私も安田もほとんど上の空だった。
 検査官が、「You can drive」といった時、二人は、パキスタンのドライバーライセンスを得た。(通常の手続では、早くて三カ月かかるという)
 パキスタンの免許証は写真がいらない。サインだけでよい。写真は、字の書けない者に必要なのだ。そして、五年間有効だ。
 安田が、「今度来た時も使える」と喜んでいる。彼は、二週間ほどの間に、二カ国のライセンスを得たことになる。というのは、彼は日本出発直前に免許をとった。いわばホヤホヤドライバーだ。
 もう免許もあるからということで、警察の前から、安田君が運転席にすわった。動き出した時、小さな鈍い普がした。止めてあったパトカーの横腹がへこんでいる。
 彼は知らん顔で走り出した。どうも気がついていないらしい。マーチャントも、知ってか知らぬか、知らん顔をしている。私一人、気が気ではなかった。

 こんなこともあったから、運転の交代に覚悟がいったというわけだ。
 ピンディまでの千八〇〇キロの道を、私一人で運転できるならともかく、なるべく早く、道の条件がいい間に、彼がジープの運転をマスターすることが先決だと思った。
 二回目の事件は、交代後直ぐ起こった。
 直線道路を、ジープは約七〇キロのスピードで走っていた。前方に何やら見えてきたと思うと、それは片側通行を示す石だ。柱状の石が、道路の真中に点々と一列に並べてある。「ブレーキ、ブレーキ」私は叫んだ。
 ジープは一向に止まらない。そして、どちらにも寄らず、真直ぐに石に向かって行く。一つ目の石はうまい具合にまたげた。二つ目だ。今度はガーンと音がした。まだ止らない。三つ目の手前でようやく止った。
 私が、屋根に荷物があるから急ハンドルを切ると引っくり返るぞと話していたのが、よはど頭にこびりついていたらしい。彼はいささかもハンドルを切ろうとはしなかったのだ。幸い、ジープには何の損傷もなく、ホッとした。
 安田君はこの後、実にさまざまなものにぶつかった。しかし、いずれも大したことではなかったのはまことに幸運であった。
 なにしろ、あの暑さとあの悪路で、四〇〇キロもの荷物を、屋根にまで満載したジープを操るのはそんなにたやすくはない。

 彼のあたった物の中で、最もケッサクはラクダであった。正に、追突したのだ。今川氏の話が、単なる駄ジャレでなかったことが、その時初めて分った。
 私たちに、幸せだったのは、ラクダが比較的小さかったことと、私たちの車が背のひくい乗用車でなかったことだ。
 そして、気の毒にも、飼主の鞭で、こっぴどくたたかれたのは、安田君ではなく、ラクダの方であった。

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