宗教登山の位置づけについて

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登山と「神話」その二

宗教登山の位置づけについて

 先号では、「スポーツ」に関係する「神話」をとりあげて述べました。これについて、ぼくにとっては予想以上の反応があり、いろいろの人から、いろいろのコメントを頂きました。
 ぼくとしては、くさされても、別にしょげ返るわけではありませんが、逆にほめられると、どうも具合が悪い。もちろん、ほめられ、持ちあげられて、気分が悪いわけではありません。でも、たとえば、「次に期待する」などと、偉い人から云われると、どうもペン先がこわばってしまいそうです。
 ぼくは「論文」を書いているつもりはないし、一つの「読物」と受けとってほしいのです。ただ「それはおかしい」というところがあれば、反論してもらうことが有難いわけで、たとえ、こてんぱんにやっつけられてもぼくとしては、大いに満足です。

 さて、「神話」についてですが、ぼくがいう「神話」は、いわゆる「現代の神話」といわれるやつで、「政治神話」あるいは「社会的神話」という部類のものです。ヤマトタケルノミコトと直接的には関係ありません。
 しかし、全く関係がないわけじゃない。むしろ大いにあるというべきかも知れません。
 どうしてかというと、たとえば、『古事記』『日本書記』は、日本の歴史であるか否か、という問題をとりあげて、考えてみましょう。
 これは、そのもっと後の、楠木正成にしても、家康にしてもおなじことです。要するに、何が歴史で、何が歴史でないかの判断点は、「歴史が、少数の人の歴史であっては、それは歴史ではない」ということです。
「万里の長城」は、明らかに、古代中国の人民の力によって造られたものです。しかし、学校では「秦の始皇帝」が造ったと教える。そのアイデアを考えついたのさえ、始皇帝ではなく、おそらく歴史に現われない誰かだったに違いない。つまり、書かれた歴史は、みんな大ウソということになります。それは、人民不在の歴史であるからです。
 次に、「すべての歴史は、現在のことだ」といえます。これは、イタリーの哲学者のクローチェがいっていることです。
 たとえば、いまいった「始皇帝」は、儒者を生きうめにして、儒教を説いた書物をもやした、とんでもない暴君だとされていました。いわゆる〈焚書坑儒〉です。ところが、中国では、最近の儒教批判が起ると、「奴隷制社会」から「封建制社会」への移行を促進した、名君ということになりました。一方、孟子などは「奴隷道徳」を説いた、けしからん奴だということになり、「孟老二」つまり「孟家の次男坊」という蔑称でよばれることになってしまいました。
 また、敗戦まで日本で使っていた小学校の歴史教科書は、占領軍の命令で、まっ黒に墨をぬらされた。これをけしからんと怒っている人もいるようです。この教科書には、神代に「人民が騒いだからこれを平らげたもうた」と書いてある。墨をぬって当然で、けしからんと思う方がどうかしています。
 大体、「騒いだら平らげる」という発想がけしからんわけで、騒ぐにはそれなりの理由があると考えるべきです。こういうことをいうとすぐ「かたよってる」という人がいる。事実、先号のぼくの文章をよんで、共産党、民青の思想ときめつけた人がいます。本居宣長は、マルキストでも、唯物論者でもないけれども、百姓が一揆を起す、つまり騒ぐには、それなりのよくよくの理由があるはずだ、といっています。こんなことはあったりまえの話ではないですか。
 話をもとにもどして、ともかく、歴史はたえず書き直されている。それは歴史が、クローチェがいうごとく、現在であるからなのです。
 ところが、古文書を並べてそれを歴史だと考える人がいる。材料を並べて、それをつないだら歴史だと考えるらしい。そういうバカみたいな歴史家や学者もいます。そんな人にとっては、歴史は不変なのでしょうが、これは全くの間違いというべきでしょう。
 やたらと長い前書きになりそうです。はしょって締めくくります。
 歴史つまり過去が現在に生かされると、よくいわれます。これはしかし、現在が過去によって否定されるということです。過去にやったようなことを、もう一ぺんやろうとする。ところが「すべての歴史は現在だ」というのは、まさに逆なのであって、過去のために現在が拘束されるのではなく、現在をつくるために、あるいは未来をつくるために、過去が追放されるということです。
 さて、歴史において本質的なものは何なのでしょうか。たとえば、「ヤマトタケルノミコト」が実在したかどうか、それは本質的な問題ではない。現在にかかわる歴史の本質というのは、過去へ現代を引きつけるために歴史が学ばれるのではなく、現在が未来に向かうために役立つような歴史でなければなりません。
 過去に動かすべからざる過去というものがあるのではなく、現在のぼくたちの必要によって、過去の〈歴史現象〉の中に、本質的なものとそうでないものとを区別しないといけない。そうすることによって始めて、本質的なものをとらえうる、とぼくは考えます。
 こういう観点で、登山の歴史を見たら、どういうことになるでしょうか。これまでの登山の歴史といわれてきたものは、全く疑わしい、ということになる。そして、全然別の登山史が書かれることになるでしょう。
 ぼくには、そんなものを書くだけの能力はとてもありませんので、ここでは、適当にピックアップなどしながら、進みたいと思います。一というようなわけで、今回は、「登山史の神話」ということになります。

 宗教登山の復権

 日本の近代登山は、明治に始まった、とされています。そうすると、それまでに行なわれていた「登山」はどうなるのでしょう。
 巨大な丘ともいうべき日本の山岳は、大昔から人々によって、自由に登られていた、とぼくは考えます。
 たとえば、日本の山の中では、まあ一番険しいと思われる劔岳でさえ、奈良時代(七一〇〜七四八年)に登られているのです。
 ところが、明治以前の「登山」は、「宗教登山」であった、ときめつけられて、登山史では極めて軽くあつかわれるか、あるいは全く抹殺されています。理由は、その動機が宗教であって、「純粋に山に登ることを目的としていないからである」とされています。いくら、「ものの本」にそう書いてあったからといって、こんなことをうのみにしているのは、ちょっと頭がおかしいのではないか、とぼくは思うのです。
「日本山岳会」の創立発起人であり、日山協初代会長の武田久吉は、植物学者であり、採集するために山に登った。今日の日本でも、蝶々とりにヒマラヤへ出かける名登山家を、ぼくは何人も知っています。
 また、夏の劔の頂上の祠には、お賽銭がいっぱいです。もちろん、今の人たちは、おまいりするために登るわけではありません。たまたま祠があったから、おいのりして賽銭を上げたのかも知れません。
 ところで、封建社会の民衆は、「講」登山といわれている集団で、山に登りました。彼等の全部が、熱烈な宗教心で山に登ったのではない、とぼくは考えます。ある若者は、おとうからきいた高山の厳しさ、美しさにあこがれて出かけたに違いありません。それよりなにより、彼にとって、「講」登山は、過酷な労働をはなれ、「家」と「村」の束縛から解放された「別世界」への旅立ちであったはずです。とすれば、心情的に今日の若者とあまり変らない。
 そもそも、封建社会における宗教は、民衆にとって、一つの「救い」であり「遊び」であり、また「解放の場」でしたし、時には「反逆の場」ともなりました。
 こういう立場で、「講」登山は、とらえ直されねばならないと、ぼくは考えます。「講」登山を考えるには、それを含むものとして「講」をとらえる必要があります。しかしどうも、これはぼくにはしんどいことです。
 ただ、この「講」を母体として起り、ある意味では幕府の崩壊をうながし、そして明治政府によって抹殺された、一つの特異な「歴史現象」について、ふれねばならないと考えます。この〈歴史現象〉とは、いわゆる「おかげまいり」であり、「ええじゃないか」です。
 この「おかげまいり」「ええじゃないか」は、「たんに神道史や宗教史上の問題であるだけでなく、日本歴史の本筋にかかわる問題であり、その歴史を動かす底流と考えられる、民衆の自発的行動の形式や法則を知るうえでの、重要な歴史事実」とされているものです。
 それはともかくとして、たとえば幕末の一八〇〇(寛政十二)年夏、富士山の登山者が、須走口だけで約五四〇〇人に及んだ、というような事実は、この「おかげまいり」の考察なくしては解釈できないと、ぼくは思うのです。「それほど日本民族は山好きだ」などという単純な子供だましの説明では、どうも納得ゆかないのです。

「おかげまいり」とは

「おかげまいり」、はて何だろう。ヤクザの「お礼参り」みたいなものかしら、などと考える人もあるかも知れません。
「おかげまいり」(御蔭参り・御影参り)とは、近世日本において周期的になんどかくりかえされた、集団巡礼運動です。その最盛期、たとえば一七七一(明和八)年には、関束以西、北九州に至るほとんど全域にわたり、約二〇〇万人の民衆が参加したといいますし、一八三〇(文政十三)年には、約五〇〇万に達しました。
 単純に二〇〇万とか五〇〇万とかいいますが、いまみたいな交通機関がある時代じゃないですし、一般人民には自由な旅行がゆるされなかった封建時代のことですから、それは大へんなことであったはずです。
 しかもその間、天からお札がふったとか、死人がよみがえったとか、いろんな奇蹟がいい伝えられました。人びとは踊ったり歌ったりして、熱狂のうずの中を伊勢へと参宮したわけです。
 幕末の一八六七(慶応三)年の「ええじゃないか」は、明らかに、この近世「おかげまいり」の伝統を利用して、政治的にひき起された混乱であったようです。
 人びとは、仮装したり、あるいは裸になったりして、手ぶり身ぶりおかしく踊り歩き、商人の家などへ土足のまま「ええじゃないか、ええじゃないか」と上りこむと、主人は酒肴でもてなして、「ええじゃないか、ええじゃないか」と笑っていたといいます。E・H・ノーマンは、「大衆的熱狂が、徳川の行政機能を麻ひさせ」たとしており、この時期に、倒幕、王政復古が行われたわけです。
 さて、近世「おかげまいり」は、文献にあるものだけで、七回あります。一六五〇(慶安三)年に始まって、大体六〇年おきにくりかえされております。
 そして、この「おかげまいり」は中世の巡礼運動につづくものです。
 中世の民衆は、おいつめられた希望のない現実をのがれでるために巡礼を行なったようです。途中でうえ死する人もありました。しかし、巡礼者はみな、「生きて罪業をつくるより、死んで善因をむすぶほうがよい」といったと、『天陰語録』にあります。そうでありましたから、関所役人は通過を黙認し、茶店の主人はお代を求めず、渡しの船師もほどこしをさえ、したわけです。そして、こういう風潮がさらに、巡礼運動をもりあげたのでしょう。
 こうした状況認識がなくては、天正年間における、立山登拝者数が十五万数千人に及んだなどいうことは、理解できないはずです。天正年間というのは、一五七三年に始まる一九年間ですから、ならして一年に八千人、おそらく多い年は一万をこえたことでしょう。
 そして、織田信長による関所撤廃(天正中頃)、豊臣秀吉、徳川家康の天下統一によって、近世「おかげまいり」発達の歴史条件の一つが作られたことになります。
 近世に入って最初の「おかげまいり」は、前に述べたように、一六五〇年のものです。この時は、江戸から伊勢へ向った人の数は、箱根関所の調べでは、正月頃には一日五、六百人から八、九百人、三月中旬頃よりは一日二千百人に達したといいます。
 彼等民衆が身にまとったのは「白衣」でした。これは、中世以来の社寺巡礼者の風俗で、「清浄」をたっとぶところから用いられました。また彼等は、組ごとに印をたてており、これは「講」を意味するものであったわけです。

自己解放としての「おかげまいり」

 さて、「おかげまいり」と「ええじゃないか」を簡単に説明したわけです。これについての研究はあまりされていないようです。おそらく、明治政府の官製「国家神道」に吸収されてしまったのと、これを研究することは、即「国家神道」にそむくことになるのがその理由でしょう。
 それと、もう一つには、学者のエリート思想と儒教道徳がじゃまをして、「そんな下賤な、野卑な」という感じとなり、いわゆる学者の「ナンセンス論」になったと思われます。
 たとえば、江戸の国学者、本居宣長でさえ、その『玉勝間』で宝永二年の「おかげまいり」の人数を書きとめているだけで、ほとんど無硯しています。
 それでは、「おかげまいり」はどうとらえるべきなのか。
 ぼくとしては、宗教登山との関連でとらえてみたいと思うわけです。といっても、詳しく調べたわけではありませんし、とてもぼくの任ではない。ただ、直観として、「おかげまいり」は、宗教登山の本質へせまるアプローチではないかと思うのです。
 ちなみに、一六世紀後半から始まった富士講の、中興の行者月行削仲(かつぎょうそうちゅう)(一六三三〜一七一七)、その門人食行身禄(じきぎょうみろく)(一六七一〜一七三三)は、ともに伊勢の出身で伊勢信仰の影響をうけています。これは暗示的です。
 そこで、まず、「おかげまいり」が「ぬけまいり」ともいわれたことに注目したいと考えます。この二つは、同じ意味で用られました。
「おかげまいり」が「ぬけまいり」といわれたのは、封建的支配関係、すなわち主従関係や家族関係に、身分的に束縛されている民衆が、自主的にそれを「ぬけ」で、断ち切ることを意味していたからです。それは、明らかに封建制下での、民衆の一種の自己解放であった、ということです。この「自己解放」に関しては、現代の山登りにもその方向性として、あてはまるのではないか、という気がしています。

現代の「おかげまいり」

 二番目には、「おかげまいり」と「世直し」思想との関連です。「おかげまいり」には、早くから「世直し」的思想がともなっていた、といわれます。「世直し」が最も明瞭にあらわれてくるのは、百姓一揆の過程において、でしょう。しかし、この百姓一揆と「おかげまいり」の関連については、人によって意見の分れるところです。つまり、「おかげまいり」が、民衆の闘争エネルギーを発散させる「代償」の役割を果したという見方があり、一方では、そうではないとする人がいるわけです。
 ぼくとしては、どちらかというと、前者はとりたくありません。前者の意見の根拠となっているのは、「おかげまいり」の年には米価が下がっており、一揆も激減しているという事実です。しかし、それだけが納得させうる根拠とはならないと考えます。
 むしろ、「おかげまいり」のような民衆の大移動は、人びとの社会的視野を広めることに役立ったはずですし、それは、「一揆」をより組織的、計画的なものにするのに役立ったのではないでしょうか。
 戦後の日本で、「このおかげまいり」にたとえられるような、民衆大移動が起りました。一九六五年の開国(外貨の自由化)後の、外国旅行ブームです。それは、明治以来、日本の支配者どもが、「御神体」としてまつりあげたヨーロッパへの「おかげまいり」であったかも知れません。
 それはちょうど、「おかげまいり」がそうであったように、「支配者があがめるもの」を民衆の側へうばいとろうとする運動であった、といえます。一九六五年の開国後の、ヨーロッパ・アルプス・ブームは、そういう意味をもっていた。つまり「アイガー東山稜神話」への「おかげまいり」は、同時に、それをうばいとり、崩壊させるための行動であったといえます。
 また、「労山」の行なった、百人をこすヨーロッパ・アルプス集中登山は、まさに現代の「おかげまいり」「講」登山ではなかったでしょうか。そして、「ヒマラヤ・トレッキング」あるいは、ヒマラヤ登山ブームも、こうした文脈の中で初めてとらえ得るのではないか、と考えています。

大塩平八郎の富士登山

 「おかげまいり」の、封建制下での、人民解放運動としての側面については、すでに述べました。ところで、それは同時に、「日本民族形成運動」でもあった。これが、三番目です。
 こういういい方は、かなり誤解されやすい。「日本民族」などといういい方は、かなり特別のイメージをもたされてきたということです。
 しかし、民族の自主的な統一に、宗教がからんだのは、歴史の必然みたいなものでした。「事実、世界史における近代の形成過程においても、宗教改革運動がブルジョア革命に重大な役割を果している。つまり、宗教改革運動とは、中世的封建的宗教にたいする改革であり、民族的な宗教形成の運動であった」のです。
 ところが、わが日本においては、これがすべて、「天皇の祖先神にたいする、庶民の回帰運動」というふうに、歪曲されてしまいました。
 たとえば、「我が国体に対する庶民の自然発生的な自覚的、復古的運動」として、「おかげまいり」をとらえるというのが、これにあたります。
 こういうとらえ方が、戦中的皇国史観に立つものであるのは明らかです。しかし、伊勢信仰が、近世に至るまで、国民のあるいは民族の信仰であったことなど、一度たりとてなかったのですから、「回帰運動」などというのは大ウソです。
 さて、先ほどちょっと述べましたが、「富士講」も「伊勢講」とならんで大きな「講」です。富士山は、日本では一番大きな山であり、また美しい山です。そして、近世後期に入ると、この富士山にたいする人びとの関心が異常に高まってきます。こういうことも、日本人の民族意識の高まりと関係があると思われます。
 こうした「おかげまいり」に見られる。民族宗教への胎動は、時の支配者には歓迎されませんでした。とくに、「富士講」は、幕府から再三再四弾圧されています。
 この幕府の抑圧政策を、神道信仰が「尊王」と結びつくことを幕府がおそれた、と見るのは大きなあやまりです。それは、神道信仰が人民階級を自主的に結合させつつあることにたいする恐怖であった、に違いありません。
 さきに本居宣長が、「おかげまいり」に関心をもたなかったと述べましたが、一つには、こうした幕府の抑圧政策にも、大きな原因がある。支配者は、民衆エネルギーと知識人の結合を、もっとも恐れていたからです。
 そして、こういう状況をふまえて初めて、ぼくに、大塩平八郎(一七九三〜一八三七)の行動が理解できます。
 彼は、一八三三(天保四)年七月、前年より、もう天保の大飢饉が始まり、各地で一揆・打ちこわしが起っていますが、富士に登り、自著『洗心洞剳記(せんしんどうさつき)』を納めているのです。
 四年後に彼は、いわゆる「大塩の乱」を起しますが、その時の檄文、つまりアジビラの裏に、伊勢神宮の御礼をはりつけて、これをばらまいています。
 さらには、幕末に無数に行なわれたと考えられる、国学者、文人の登山も、一つにはこうした社会状況の中で、とらえらるべきだと思うのです。
 すでに、問屋制商業の広汎化とマニファクチァーの部分的完成が、プルジォアジーの成立を可能にし、ここに、登山を登山としてのみ楽しむ人びとが多数いたことは当然としても、そうした社会背景にのっとった考察が、どうしても必要だと、ぼくは考えるのです。

『新宗教の発明』

 民衆の自己解放運動であり、「世直し」の欲求をはらんだものであり、自主的な宗教改革連動でもあった「おかげまいり」は、慶応の「ええじゃないか」一八六七(慶応三)年、で終息します。
 この時は、各地に「おふだふり」があり、それも、お礼のみではなく、神像、仏札、仏像、時に十七、八の美女がふったり、生首がふったところもあったと伝えられています。また、小判・金塊がふったり、唐人の家には石がふったりしています。これは、おそらくデマであって、こうゆうことが、京都方の謀略説が生れるところなのでしょう。
 そして、この時のは、各地ともその土地の踊りが中心であったことが、以前の「おかげまいり」と大いに異なるところです。さらに歌われる歌の文句が、また大いに露骨であったことも、その特徴でしょう。
 たとえば京都では、「ええじゃないか、ええじゃないか、おそそに紙はれ、破れりゃ又はれ、ええじゃないか、ええじゃないか」と歌ったといいます。
 そしてこの狂乱のうちに、反幕府方のクーデターが成功して、いわゆる「大政奉還」が行なわれたわけです。そして、この直後、国家の最高機関としての神祗官設置が明らかにされ、新政府の神道国教政策が発表されます。
 しかし、政府によって組織されていった「国家神道」は、けっして民衆が期待したようなものではなかった。それは、絶対主義君主としての、天皇の権威をうらづけるための、神道信仰のおしつけだったのです。
 ここにおいて、三百年の近世封建時代を通じて、民衆が生活の中から育ててきた、人民的な民族宗教は、歪曲され挫折してしまいます。
 同時に「おかげまいり」の伝統も、抹殺され、忘れられてしまうことになったのです。
 そして、ここで行なわれた、未完の維新は、民衆にとっては、幕藩による支配から、天皇による支配への移行にすぎなかった。それは丁度、インドの説話のごとく、鉄の籠からだしてもらったと喜んだ小鳥が、気がついたら、こんどは銅の籠に入れられていた、というようなものだったのです。
 だからこそ、維新政府は、この銅籠の正当性を、北は奥州から南は九州まで、民衆への布告でくりかえし呼びかけねばなりませんでした。
 一天子様は、天照皇太神宮様の御子孫様にて、此世の始より日本の主にましまし、神様の御位正一位など、国々にあるもの、みな天子様より御ゆるし遊ばされ候わけにて、誠に神さまより尊く、一尺の地も一人の民も、みな天子様のものにて、日本国の父母にましませば…‥(明治二年月「奥羽人民告諭」)ー
 これに対して、もちろん民衆は大抵抗を試みます。いわゆる「自由民権運動」です。しかし、悲しいかな、政府の方が強かった。後にも述べますが、明治の政権は、外国人顧問に多くのアドヴァイスを受けていました。
 フランスのとくに進んだ憲兵制度、ドイツの弾圧立法などの、欧米の最新民衆コントロール技術が、直輸入されて利用されました。
 この時、民衆弾圧の指揮をとったのは、松方正義内務卿でした。(この人の子息が、最近おなくなりになった、日本山岳会や日山協の会長を務めた松方三郎です)
 彼は、明治十四年から大蔵卿になり、全く破たんしていた、明治財政を立てなおします。この成功の秘密は、ヨーロッパ諸国が行なっていた「植民地からの収奪」方式を、日本民衆の大多数をしめていた、農民、小市民に適用したところにあるとされています。
 松方財政は、「ここ数年の間に数百万の小豪農・自作農をおしつぶし、六十万戸に近い農家を解体させ、五万社に近い小会社を倒産させて、死骸の山を戦車でひいてゆくように勝利のうちに驀進した」(中央公論社『日本の歴史21』)のです。
 かくして、明治の新政権をゆるがせた「民権運動」も息の根をとめられてしまうのです。
 こうして、完壁なまでの、日本天皇制は確立することになります。
 小島鳥水が、「チェンバレン先生の名は、明治早期の登山時代に、いち早く、しかも鮮明に、掲示された先駆者の標札である」(こういういい方のでたらめさについては、後に述べますが)として紹介した、B・H・チェンバレンは、ことの本質を見ていた、とぼくは思う。
 彼は、英国で天皇制批判の本を出版し、それに『新宗教の発明』という題をつけました。そして、この中で次のように書いているのです。
 一日本政府の官僚たちが、自分の利益のために天皇を神にまつりあげ、国民をして政府に盲従せしめる奸策を弄した。(中略)日本の学者は、日本の起源が伝説のような古いものではないとよく承知しているのに、政府がそれを許さないので、かれらはいわない。いえば、妻子が飢えるほかないからだ(「盗みの考現学」P一二五)

「ウェストンの宗敦登山観

 さきに述べた、チェンバレンは、一八七三(明治六)年、海軍大学講師として来日しました。彼もその一人なのですが、明治維新後、実に多くの雇われ外人がやってきます。初期の明治政府は、自分たちの力不足を、彼等の力でおぎなおうとしたわけです。
 その大半が技術関係であったのですが、その数は、わが国の技術陣が自主性を確立する明治十八年までに、のべ三千人以上に達したといいます。
 当然、外国人による登山が行われることになる。日本の山はもう、十分に登られていたのですから、彼等にとっては、一つの旅行にすぎなかったはずです。
 日本アルプスが、「白紙の山岳地、暗黒の秘密国」(小島烏水)などというのは、誇張もいいとこで、烏水が初めて槍ヶ岳へ行った時には、槍の穂にはくさりまでついていたのです。おまけに、彼はどうやら、喜作に案内さして、引っぱりあげてもらいながら、それをひたかくしにしたらしい、という人もいる位です。
 だいたい、小島烏水という人は、かなりけしからんと、ぼくは感じています。がまあ、それについては別の機会にゆずることにします。
 話をもとにもどして、外人による登山が増えた、あるいは相対的に増えた、ということには、それなりの理由が考えられます。
 当時は、激しい民衆運動の高まりがあり、明治新政権はゆらいでいました。その状況の中では、外国人は別として一般民衆は旅行できなかったということです。
 たとえば、一八八一(明治十四)年、横浜駐在アメリカ総領事ヴァン・ビュレンは、次のように述べています。
 彼は、日本の政治体制の中に「古い絶体主義の一特質だけは厳として存続している。それは全人民にたいする警察の監視である」とし、「こうした監視はきわめてきびしいので、日本人は当局の許可がなければ、旅行はおろか、他県で眠ることさえできない」と述べているのです。
 ウェストンも、二度目の富士登山の時(明治二十六年)、「野暮くさい紺の制服をきた日本の巡査」にとめられ、その「のっそりとした公安の番人」に旅行許可証の呈示を求められ、制止された経験を語っています。
 さて、これらの外国人は、日本の宗教登山をどう見たのでしょうか。
 ぼくも、極めて調べ足りませんが、たとえば、ウェストンの『日本アルプスの登山と探険』を、パラパラとめくっただけでも、次のような興味ある記述にぶつかります。
 一富士には毎年何千という巡礼が宗教的な熱情と結びついた登山の醍醐味を求めて登山する……(傍点は当方)(第十章)一
 −日本の巡礼はほとんどいつも信仰に名をかりた物見遊山の性質をおびているので、こうゆう騒がしさを生ずるのである。こうゆう東洋の山岳団体は、ヨーロッパのいわゆる山岳会とは組織が違っている(第十三章)ー
 彼は、宗教登山は登山でないなどと、少しも考えていないではないですか。さらに、
 一道中にくわしい経験者が先達に選ばれる。これは一種の案内人であり、世話役である。その点、クック観光団の案内人に似ている(第十三章)ー
 さらに決定的には、これはもしかしたら、訳の間違いかも知れませんが、ウエストンは、御嶽開山の祖のことを「登山家」と記しているのです。そして、この「普寛霊神」の名をしるした一枚岩の碑を見て、シャモニにあるモン・ブランのパルマ(モン・ブランの初登頂者)の記念碑を想い出すのです。
 どうです、みなさん。ウェストンは、実に素直で冴えた観察者ではなかったでしょうか。
 ぼくたちは、ある偏見にみちた、固定観念を吹きこまれていたのではないでしょうか。そして、そういう偏見を流布したのは、誰であったのか。それは、あばき出されねばならないと、ぼくは考えます。 (つづく)
(たかだ・なおき)

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