『マギーの山』
あるてんらん会場で、けわしい山の絵を前にして、思い出にふけるふたりの老人があった。ふたりは、それぞれにわすれられない思い出を持っていたのだが……
—思い出の山
「すばらしい! さすが、一流の山の画家がかいただけのことはある!」
ひとりの老しん士が、もう三十分以上も、へやのまん中にあるソファーにこしをおろして、じっと正面の絵を見つめていた。
それは、あるてんらん会場で、その絵の題名は、「東南からあおぎ見たフォレスター山」というものだった。
切り立ったような、けわしいちょう上には万年雪がかがやき、そこに登る者をすべて追い返そうと立ちふさぐ、大小無数の岩山、ひとたび足をふみすべらしたら最後、絶対に生きて帰れぬ深い深い谷、何十年という間、世界の登山家たちが、この山のちょう上をせい服しょうとしたが、みんな失敗した。命を落としたり、重傷をおったりした気の毒な人たちもいた。
けれど、ついにその山をせい服した人がいた。アメリカの登山家フォレスターで、山はその名を記念して、「フォレスター山」と名づけられた。フォレスターの名は、新聞や放送で全世界にとどろいた。 それから三十年近くの月日がたった。が、フォレスター山には、その後、だれも登れなかった。それほどけわしく、きけんな山なのであった。
いまその山の絵を前にして、老しん士は、じっともの思いにふけっている。その目は山のいただきに向けられたままだ。
そのとき、もうひとりの老人が、見物人のなかからあらわれ、静かにソファーのはしにすわり、そのまま身動きもせずに、山の絵を見つめていた。そまつを身なりだが、しらが頭のその老人の顔は、おだやかで明るかった。老人は、十五分、二十分と、ながめ続けている。その様子に老しん士は、思わず声をかけた。
「失礼ですが、あなたもずいぶん山がおすきなようですね。」
「えつ? わしですか。山はきらいじゃないですな。なにしろ、山国生まれなもんで………。でも、この絵の山は、わしにとっては、特別をんですよ。」
「ほほう、特別?」
「そうです。ほんとは家内のマギーも、いっしょに連れてきたかったんですがね、びんぼうな工員じゃ、高い入場料をふたり分もはらえません。そこで、わしが家内の分までよく見て、あとでよく話して聞かせようってわけです…。あの山は、わしらにとって、わすれられない思い出があるんですよ。」
「なるほど、そうですか。実はわたしにとっても、あの山には一生わすれることのできない思い出があるんです。」
「それで、年よりがこうしてふたりそろって思い出にふけってるってわけですかね。」
「どうでしょう。おたがいに思い出を話し合おうではありませんか。」
「それはおもしろいですな。」
「では、わたしから話しましょうか……。」
不思議な足場
「じつは、わたしはフォレスターです。」
「えっ? では、あなたが、このフォレスタ一山のフォレスターさんですか?。」
「そうです。」
「これはいい人に会えました。うちへ帰ったらマギーに話してやります。きっと喜びますよ。早く話を聞かせてください。」
「あの山は、それまで人をよせつけをいほどけわしく、とてもきけんでした。一つ一つの岩場をこえるのが、まったく命がけでした。岩場と岩場の間には氷や雪がはりつめ、クレバス(われ目)だらけで、つるつるです。もしすべってそこに落ちたが最後、数百メートルのまっ暗なあなの底に落ちこみ、永久に出られないでしょう。谷は千メートルも二千メートルも、びょうぶのように切り立っていて、下を見ると目がくらむようです。
けれど、さいわいわたしはふたりのすぐれた案内人の協力のおかげで、どうにかちょう上近くまでたどりつくことができました。そこから先はわたしひとりで登らねばなりませんでした。ちょう上まであと百メートルほどです。けれど、その百メートルは、一万メートルにも感じられるほどでした。きりのように、まっすぐに大空につきささっているそのいただきを、どう登ったらいいか、わたしはため息をついて見上げました。
『なるほど、だれも登れないはずだ。が、山である以上、人間が登れないはずはない。よし、きっと登ってみせる!』
わたしの心のおく底から、むくむくと、いままでにないほどの勇気がわき上がってきました。わたしは、ピッケルで、注意深く、一つ一つ足場をきざみながら、一足ずつよじ登っていきました。二十メートルほど登り、ある岩場を右に回りかけたとき、もうれつな風で、ふっとばされそうになり、はっと岩角にしがみつきました。そのひょうしに、大事なピッケルを落としてしまったのです。ピッケルは、はるか谷底に小石のように落ちていき、見えなくなりました。風はますますはげしくふきあれ、岩角にへばりついているわたしを、ひきはがそうとします。わたしは死にものぐるいで岩にしがみついていました。二十分ほどすると、風はうそみたいにやみました。
『どうしようか? ひき返そうか?』
わたしはてつぺんを見上げて、ちょっと考えこみました。が、『よし、まだ登山ナイフがある。登れる所まで登ろう。』と、決心しました。わたしは、大型の登山ナイフで足場をきざんで、また一足ずつよじ登っていきました。おりるときのことを考え、できるだけしっかりと足場をきざみました。さもないと、せっかくちょう上に登っても、おりるときつい落してしまいます。『登山とは、おりることなり』ということばがあるほどですからね。
ところで、あと二十メートルまでたどり着いたわたしは、そこで立ち往生してしまいました。カチンカチンにこおって、ナイフのはがたたないのです。
『あと、たった二十メートルなんだ。足場さえきざめれば、なんとか登りきれるのに、残念だなあ…。』
わたしは、くつのつま先しかかからをい足場の上に立ったまま、どこかに足がかりはないものかと見回しました。変わりやすい山の天気で、いつまた強風がふきあれるかわかりません。そうなったら、数千メートル下にふっとばされるでしょう。気が気ではありません。いや、ほんとのところ、気がくるいそうでした。
『落ち着け! 落ち着け!』
わたしは、自分にいい聞かせながら、つるつるにこおった岩はだをにらみ回しました。すると、一か所光のちがうところが、すぐそばにあるのに気がつきました。ぐさりとナイフをさしこんでみますと、そこの氷がパラパラかけて、その下からふいに足場があらわれたのです。わたしはびっくりし、自分の目をうたがいました。が、それはたしかに、だれかがきぎみこんだ足場なのです。とすると、すでにこの山のちょう上にはだれかが、わたしより先に登ったにちがいありません。が、その人は、だれにもそのことを告げなかったのです。
光にすかしてみると、足場は次々と見つかりました。わたしは氷をはがし、足場を見つけだしては、よじ登り、ついにちょう上にアメリカ国旗を立てることができました。わたしは、この不思議な足場のことを山がく協会にくわしく話しましたが、
『フォレスターさん、それはあをたの目のくるいですよ。』とだれも信じてくれません。が、わたしは、だれかがわたしより先にあの山に登ったと、いまでもかたく信じています。そうです。山に登るのは登山家だけではありませんからね。ですから、わたしの名があの山につけられたのを、わたしはその人に対して、すまないと思っています。」
世界一のプレゼント
フォレスターの話を聞いているうちに、老人の目は、生き生きとかがやいてきた。
「フォレスターさん、あなたはちょう上で何か見つけませんでしたか?」
「いいえ、わたしも、前の人が何か残していかなかったかと見回しましたが、何も見つかりませんでした。それに天気がくずれそうになったので、よくさがすひまもなく、急いでおりなければなりませんでした。」
「そうでしたか。もっとよくさがせば、古い、さびついたランタン(ランプ)があったかもしれませんよ。」
「ランタンが?」
「ええ、わしが、マギーのためにともして、置いてきたものです。」
「あんたが、あそこに? こりやあ、たまげた。」
「なあに、わしは山で育ったし、小さいときからきこりをしていたから、山にはなれています。ただ、あの山には初めて登ったんです。かわいいマギーのためにね。ハハハ。」
「それはどういうわけです?」
「わしはあの山のこっちの村、マギーは山のあっちの町に住んでいました。クリスマスに、わしらは結こんするはずでしたが、わしはびんぼうなきこり、マギーは店員、どちらもお金がありません。それでわしは、春まで結こんを待ってくれと手紙を出しました。
マギーの返事には、『どうかクリスマスには、わたしのことを思い出して…』と書いてありました。わしは、やさしいマギーのために、ダイヤモンドなんかよりもかがやく心のおくり物をしよう、クリスマスの最高のプレゼントをしようと思いつき、そのことを手紙に書きました。『愛するマギーよ、クリスマスのばんに、となりのおじさんからそうがん鏡を借りて、いちばん高い山のてっぺんをのぞいてごらん。きっとそこにわしの真心のプレゼントが見えるよ。』とね。いやあ、あのクリスマスのばんは、風もなく、とても静かでしたよ。山のてっぺんには、一ばんじゅうランタンの火がかがやいていて、あとでマギーは、『世界一のプレゼントをもらった。』と大喜びでしたよ。
あの山のてっぺんに登るため、わしは二日がかりでじゅんびしましたが、登り始めてからは、少しでも早くあそこにランタンをともしたい気持ちでいっぱいでした。ひどくけわしい、あぶない山だとは思いましたが、マギーを喜ばせたい一心で、むがむちゅうで登りましたよ。山育ちのわしですから、山の登り方くらいは、少しは知ってますし、体力には自信がありました。
いまはこうして町で工員をしていますが、三十年前のあのことを、いまでもときどきマギーと話し合いますよ……。」
フォレスターは、深いため息をついて、感動にあふれたまなざしをその老人に向けた。
「いい話です。りつぱです。美しい話だ。」
「なあに、びんぼうなわしが、心からのプレゼントをしてやりたかっただけですよ。」
ふたりの老人は、かたいあく手をして、だまったまま顔を見つめあった。もう人気のなくなった、ひっそりとした会場には、夕日がさしこみ、二本の木のように立ちつくすふたりの老人を見つめるのは、「フォレスタ一山」の絵だけであった。
そして、老人は、別れを言って立ち去った。後に残ったフォレスターは、とつ然会場に鳴りひびいたへい館を知らせるベルに、われにかえった。
フォレスターは、絵に近よると、「フォレスター山」と書いてあるふだのフォレスターという字を消して、「マギー」と書いて、静かに立ち去った。
(終わり)
★この話は、”岩と雪”40号(山と渓谷社)『槍ヶ岳からの黎明』高田直樹・文より四年生向きに書き直したものです。