山はだれのもの
生き方をくらべてみよう 東京都成蹊小学校教諭 谷川澄雄
人が命をかけて、山にいどむのは、いったいをぜなのでしょう。
はてしないぼうけん心を満足させたいからでしょうか。成功のかがやかしい栄光をゆめみるからでしょうか。それとも、世界の登山レコードを争うことに生きがいを感じるからでしょうか。
あなたは、登山家フォレスターと名もないまずしい山男の物語を読んで、この問題をどう考えますか。
ふたりの山に対する感情をふり返ってみましょう。
フォレスターは、ちょう上をにらんで、「山であるいじょう、人間が登れないはずはない。よし、きっと登ってみせる!」と心にちかい、とうしをもやして山にいどんでいきました。
それにくらべ、名もないまずしい男は、こい人へのけがれない愛のおくり物として、ちょう上にランタンをともしたいと、ひたすらに登っていきました。
フォレスターは、登山家としての名よに囲まれましたが、名もない男は、愛のあかしとしてじっとむねにひそめました。
あなたは、山に対するふたりの愛をくらべ、どう考えるでしょう。
また、フォレスターが、山の名をマギーの山と書き直した心も考えてみてください。