12.学校生活監獄暮らし


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 学園紛争の大さわぎが終息して、高校がだいぶ平静をとりもどした頃、大学にゆくと、ぼくの先生のノダマンは、「どうや、そっちは」と、ぼくにたずねてから、
「こっちは、もう静かなもんや、みんな死んどる」
といいました。そして、「お前も、いま学生やったら、きっと、先頭切って、やっとったぞ」と断言したのです。
 勿論ぼくは即座に否定しました。でも、彼は、「いやちがうで」とがんばり、「眼がちがう。ああいう学生の眼の輝きは、君が山登りやっとった時とおんなじやで」と、いい切りました。
 そこまで確信をもっていわれると、もうどうしようもなく、なんやらほめられたみたいな気分になってしまい、「そうですかねえ」などといっていました。
 だいたい、ノダマンは、ぼくをあんまりほめることはなかったみたいです。
 卒論実験のやり方に関しては、いつもケンカみたいなことをしていました。実験の、ある段階で、やり方が五通りあったとする。ぼくは、一番成功しそうなのからやろうとする。ところが、ノダマンは、一番うまくゆきそうでないのからやれというのです。彼の考えは、ひとつの消去法で、これは正統的な科学の方法かも知れないけど、ぼくには時間の無駄に思えた。
12-1.jpg「その方法はアカンと思います」
「やってもみんと、なんで分る」
「そら分りませんけど、こっちの方がええという気がしますし」
「そんな気分だけでやるもんとちがう」
 そのうち、彼はカッカッと怒りだし、
「もうええ、君がやらん分のやり方は、ワシがやる」
 ぼくにしてみれば、そんなうまく行きそうにないことは、やる気がしなかった。でも、彼は、きっと、そういうぼくの要領のよさみたいなものが気に喰わなかったのでしょう。
 まだ教養課程の時、彼の講座の実験がありました。テーマは「アミノ酸のペーパークロマトグラフィー」でした。試料のアミノ酸は、自分の髪の毛を硫酸で加水分解して得ることになっていました。この加水分解だけに、まる二日位はかかります。回りくどいという気がしました。それでぼくは、先生に、
「アミノ酸は、毛髪のんでないといけないんですか」
と、きくと、「いや別に何でもええです」という話です。よし、言質はとった。
 そんならと、ぼくは薬局にある栄養剤の注射アンプルを考えたのですが、一本だけでは売ってくれないだろうし、お金がかかります。ただのものはと思案したら、ありました。うどんの汁。ぼくは学生食堂にゆき、「おばちゃん、ちょっとだし汁おくれえな」
 二日間準備にかかるところを、ぼくは半日ほどでやってしまい、できあがったペーパクロマトグラフを、その日のうちにもってゆくと、ノダマンは、ケゲンな顔をしました。
「いや、ウドンの汁でやりました」
 彼はムッとして、「お前みたいな要領のええ奴は知らん」

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 ぼくの先生は、ぼくに、職人的な、あるいはドイツ的な化学を教え込もうとしたのかも知れません。
 ドイツ人は、体系的で整然としたものが好きなようで、どうも、民族体質的に全体主義的です。ところが、フランス人は、もっと感覚的、直感的で、だから、もっと個人主義的ではないかと思うんです。
 たとえば、スキーの教程では、ドイツ・オーストリアのそれは、一つの技術を、細かく分解して、その一つ一つを順次教えるように配列する。全部やれるようになって始めて、その技術ができるようになるはずだと固く信じる。ところが、フランス・スキーでは、もっと個人のフィーリングを重視する。その教程はより人間的だという気がします。
 ぼくは、自分がフランス人的だという気なんて、さらさらありませんが、ただ、結果が分り切っていることを、忍の一字でやりとげるなんていうことは、どうも性に合わないようなんです。
12-2.jpg 高校一年生の時、生物の先生が、「植物の正常分布曲線」を作ること、という宿題をだしました。それが、木の葉っぱであれ、米粒であれ、その大きさの分布を調べると、うんと大きいものや、うんと小さいものは少なくて、普通の大きさのものが一番多い。だから、分布曲線というのは、裾野をひっぱった山型になる。ただ、そういう形になるためには、おそらく何千個という個体を測定しなければならない。数が多ければ多いほど、曲線はなめらかなものとなります。先生は、最低、千個から二千個は測る必要があります、といいました。
 あほらし、そんなどうなるか分っていることやってられるかい。時間の無駄ではないか。ぼくはそう思ったのです。
 ぼくは、それでも、よりもっともらしくするため、家にあった大豆二・三〇個の長径を測り、分布範囲の、大体のめやすをつけてから、教科書的な分布曲線を下画きしました。そして、こんどは、その曲線の近辺の点をえらんで、測定したことにしての個数をでっちあげた訳です。
 学校というところは、教科の中身を教えるということより、こうした教科を素材として、訓練を行なう場所のようです。そういう場所では、理解してるかどうかより、理解できるような、「真面目」な態度であるかどうかの方が、より問題となる。生徒にはいろいろあって、ある分類を試みれば、態度よくて理解してる者、態度はよいが理解できない者、態度は悪いが理解してる者、態度は悪く理解できない者。教師は、このうちの二類型を消して、別の二類型を浮かびあがらせ、「真面目な態度」であれば理解できると独善的に思い込む。「態度点」などを加減したらそうなるのは当り前でしょう。
 「真面目な態度」などというのも、自分に対する、犬のような従順さを要求している訳で、そうなると、学校は忍耐の学校となり、生徒はある無感動・無表情の仮面で対抗せざるを得ない。

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 ある時、進級判定会議で、一人の教師が、自分の教科で、その生徒を不認定にした理由を説明して、「この生徒は、0点となっていますが、はんとは、マイナス二五点なんです」
 きいていた他の教師達は、みんな、どうしてマイナスなのかといぶかりました。彼は続けて、
「どうしてマイナスかというと、私は、一分遅刻に対して、一点減点するという風に申し渡してあります。ただ、後から、医師の診断書その他の証明をもって、正当な理由を申し出た時は、帳消しにしております。この生徒は試験では二〇点の得点がありますが、一度も遅刻の申し出もなく、遅刻の減点が四五点となったので、マイナス二五点ということなんです」
と説明しました。まあこんな風に詳しく説明する人は珍しい。態度点をつけている人はごくふつうにあるのですが、そうした点なんて、あんまり合理的根拠はありません。ただ、どういう風に評価は行われるかということに関しては、あの、全ての問題が生徒の論議の俎上にのった学園紛争の時でさえ、手をつけようとされなかった。まあいってみれば教師の聖域みたいなものです。
12-3.jpg いまかりに、全部の生徒が、自分の点数を全部見せあい、評価を検討したら、どうしてそうなっているのか分らない点が続出するのではないかと思います。
 それはともかく、遅刻一分で一点というのでは、まあ理由を申告すれば帳消しになるとはいうものの、五〇点取っていても、トータル五〇分の遅刻で○点となってしまう。理屈は通るとしても、ちょっとひどい。ぼくはそう思いました。それで、その先生に質問し、
「なるほど、ご説明をきいてよく分りました。ただぼくがききたいのは、その理屈で先生が遅刻された場合はどうしておられるかということです。一分につき、全生徒に、一点づつ返しておられるか、ということです」
 その先生は、「そういうことはやっていません」と答えました。ぼく自身、それ以上追求する気は起りませんでした。遅刻で減点などということはあんまり突飛なことでもないのです。
 そもそも、学校教育には、最初から教科教育の後にかくされたカリキュラムがあったらしいのです。
〈労働の場が、田畑や家庭から工場へ移行するにつれ、工場労働に適合することを目的とした大衆教育のシステムには、その背後にかくされたカリキュラムがあったのである。大半の産業国家に共通することだが、そのカリキュラムは、時間厳守、従順、単純反復労働への適応という三つの要素から成り立っていた(アルビン・トフラー)〉
 流れ作業的な分業社会では、時間厳守は絶対的要請ですし、管理者の命令につべこべいわず従う労働者であることや、単純労働に忍耐強くたえることも必要とされる。だから、遅刻で減点し、生徒の生意気な態度で減点する教師は、なかなか立派な教師ということになる。そうするとぼくみたいに、それをおかしいと思う教師はおかしいということになるのかなあ。

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 大学に入って間もないある日の午後、ぼくは大学の図書館で、赤線で真赤になった五万分の一地図に、真剣に見入っている一人の学生を見出します。興味にかられて、ぼくは話しかけ、これが、ぼくにとって、一つの決定的出会いとなって、ぼくは、それまでの気ままな一人歩きではない、より高度な山登りを始めることになる訳です。
 この時、ぼくは誘われるまま、その日の夕方から、彼、スミさんと二人で比良山の縦走に出掛けることにします。彼の父は、京都府山岳連盟の会長をやっていて、比良の権威で、ガイドブックも書いている。この時の山行も、そうした本を書くための下調べを、オヤジさんから依頼されてのものだった。というようなことは、ずっと後で知りました。
 それで、ぼく達は、最終の電車で高島町までゆき、その日は、蛇谷ケ峰の登り口でごろ寝をします。
 翌日、「これメシの足しにしよう」と、出くわした青大将を二・三匹つかまえ、ザックにぶら下げて歩いていたら、山道を降って来た里のオバさんが、「ヘビがついてまっせ」と金切声をあげました。
12-4.jpg コヤマノ岳から八雲ケ原へ、夕闇の中を降ってゆくと小屋がありました。スミさんが、「シーッ、囚人小屋やぞ」などというので、ぼくは、なぜかひどくビビって足音をひそめて通り過ぎたのです。ところが、その次の時、一人で日中にここを通ったら、数十人のごく普通の若者が雑木を伐っていました。
 この、ぼくにとっては極めて印象的な山行で、最初の夜、たき火をしながら、スミさんは、こんな歌を唱ったんです。
 「朝のはよから弁当箱さげて学校通いはつらいもの/学校生活監獄暮らし足に鎖がないばかり/学校焼け焼け寄宿舎ぶっこわせ/校長コレラで死ねばよい/校長死んだとて誰泣くものか/彼のワイフが泣くばかり/彼のワイフが唯泣くものか/彼の月給の恋しさに…
 この歌は、彼の出身校、鴨折高校で昔から唱われていたそうです。そんな感じの歌をきいたのは初めてだったので、ひどく新鮮な驚きを覚えたのを憶えています。多分、一中あたりで、大正デモクラシー期頃にでもできたのでしょう。
 それにしても「学校生活監獄暮らし」とはよくいったものです。ちなみに、現代の極めてユニークなフランスの哲学者ミッシェル・フーコーは、こういっています。
 –拍子をつけるように明確に区分されたそこの時問経過、そこでの強制労働。監視と評点記入のそこでの審級段階、裁判官の機能を代理として果たし得る多様化するそこの規格化状態の専門家たち、そうした監獄が刑罰制度の近代化手段となったとしても何にも不思議ではない。監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよって何にも不思議はないのである(『監獄の誕生』)–

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