19.問題生徒はぼくのカウンセラー


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 大阪のある一流ホテルから学校に電話がかかり、「おたくの生徒に、次のような名前の生徒おりますか」と、五人ほどの名前をあげたのです。調べるまでもなく、その名前は、みんな、教師の名前だった。これが、いわゆる「ホテル事件」の発端でした。そのホテルの説明によれば、ことのいきさつは、こんなことでした。
 ある日、同志社の学生のなにがしと名乗って、予約電話がかかった。翌日、その学生達が現われると、それぞれの部屋に投宿した。彼等は、その夜、ホテル内のレストランやバーで飲み喰いし、もちろんサイソだけで、です。そして、多分夜が明けてからでしょうが、いずこともなく姿を消してしまった。喰い逃げ、泊り逃げという訳です。
 ホテルはすぐ調べました。これといった手掛りがある訳ではなかったのですが、ただひとつ、彼等が、夜、市外通話をした電話番号が記録されていたのです。それがみんな京都だった。ホテルは、その電話番号をダイヤルし、「お宅には、大学生がおいでになりますか」とたずねました。すると、その三つ四つの電話先はほとんど大学生の子供はいなかったけれど、共通して、カツラ高校に行っている女子高生がいるということが分ったのです。
 そういう訳で、学校に電話が掛ってきたということだったのです。
 学校はすぐ調査を始め、女生徒達のつながりから、泊り逃げ生徒を割り出すのに、ほとんど時間はかかりませんでした。彼等はみんな、ごく普通の、どっちかといえば成績もよい方に属する生徒でした。もう十数年も前のことで、ぼくは、もう彼等の名前さえ憶えていません。
 さて、この泊り逃げ計画を思いついたのはAでした。それも、全くの思いつきなのです。彼は、小さい頃から、父親に連れられて、ホテルに泊ることがよくあって、ホテルの仕組みに詳しくなりました。今とちがって、もう十年以上も前のその頃は、ホテルは、なんか特殊な所という感じだったようです。
 彼は、友人達と学校の芝生でだべっている時、ホテルという所は、サインだけで飲み喰いできるし、その気にさえなれば、ただで泊れるはずだといったんです。
 それを聞いていた連中の意見は二つに分れたそうです。いや、そら無理やで、という者と、彼がそういうからには、やれるのとちがうかな、というグループとに、です。無理や、いややれる、と議論しているうちに、もともと架空の話として楽しんでいたみたいなこの計画は、だんだんと現実株を帯びてきて、可能性をとなえるグループは真剣になったのです。
「よし、これを証明するためには、実際やってみるよりしかたない。やるぞ」そういうことになり、「やれる」グループから何人かがおりて、五人ほどが残ったのです。

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問題生徒S.jpg 生徒がなんらかの問題を起こした時には、その事実関係の取調べには担任があたるという規定があります。その内容は、補導委員会に報告され、五人の委員が、「生徒処置規定」に基づいて、生徒処置の原案を決めます。この会議には、生徒部長や担任はオブザーバーとして討議には参加できますが、票決権はありません。
 この、生徒部が生徒処置の票決に参加できないという制度は、極めて異例の制度のようです。これは、生徒部(補導部あるいは指導部という名の所が多い)というところが、生徒を取り締まるのではなく、生徒の側に立って生徒指導の企画を行うという考え方を示したものです。
 ほとんどの高校では、補導部というのは「学校警察」のように考えられているのですが、わがカツラ高校では、警察はなく、処罰機関として補導委員会がある。そういうことなのだと、ぼくは考えていました。京都教育というのが、ひところ有名で、他府県から、視察・見学の先生方が次々とやってきました。生徒部で、いまいったような仕組みを聞いて、
「へえ、変ってますねえ」とか「素晴らしい制度ですね」とかコメントしたものでした。
 そういうことですから、この「ホテル事件」でも当然、それぞれの生徒の担任が取調べに当ることになります。ただ、問題生徒が、いくつかのクラスに分散していた場合には、担任の連絡係を兼ねて、生徒部の教師が、事情聴取に加わることになっていました。
 それで、生徒部に属しており、カウンセラーみたいなことをやっていたぼくは、この係になった訳です。
 ぼくが、カウソセリングというものに興味をもったのは、ずっと昔、学生時代にさかのぼるようです。山岳部のリーダーで少数精鋭主義を唱えてつっ走っていた頃が終り、リーダーを後輩にゆずり、OBとなって、「年寄り」みたいな立場になると、下級生の相談にいかに対応するかという問題に直面したからです。
 この立場は、教師としてのぼくにも共通した状況ともいえました。ぼくは、カウンセリングの本を買い集め勉強を始めました。相談に来る生徒、いわゆるクライエントはいくらでもありましたし、参考書通り、面談をテープにとって、後で分析することもできました。
 カウンセリングという、アメリカでできた治療法は、いわゆるノンディレクティブ・メソッド、非指示的方法によって、自己分析を助けるというものでした。このノンディレクティブ・カウンセリングでは、カウンセラーは、クライエントの前では、絶対に、価値判断を示していけないし、自分の感情を出してもいけない。
「これから死にます」といわれても「やめなさい」というべきではない。「あなたに抱かれたい。ねたい」などとといわれたとしても、「なんかこう、大変感情が高ぶっているんですネ」などと、その状況を反射する。
 相手を無限に受容し、完全に密着しつつ、かつ厳然として一定の距離を保つ、一つの鏡のような状態に自分を保つカウンセリングという作業は、なかなか大変なことでした。

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 六〇年代の半ば前後には、カウンセリングという言葉だけは、かなり教育現場へ持込まれたとはいえ、一般的には、ほとんど理解されてはいませんでした。まあ、この状況は今も変っていませんが……。
 だいたい個人的な指導という考え方自体に強く反対する人達が多かったようです。「一人の悩みはみんなの悩み」といううたい文句がいつもでてくるのです。
 ある職員会議の時、またしても、そういううたい文句が高らかに述べられたので、ぼくは少し腹が立ち、一言ひやかしのつもりで、
「もしかりに、自分のペニスが小さいと思い悩んでる生徒がいたとして、そうした短少コンプレックスは、クラス全体の悩みとして解決できるでしょうか」
と発言し、大方の失笑を買ってしまったのでした。
 カウンセリングに興味を持っている教師などは、一人いるかいないかという状況で、コバヤシ校長との出合いは、ぼくの一生でも極めて印象的だったと今思います。彼は、ぼくが行った高校の、ぼくにとって二人目の校長としてやって来たのですが、就任しての初めての懇親会で、「君はカウンセリングに興味をもってるそうだネ」と話しかけてきました。どうして分ったんだろう。ぼくはちょっと驚きました。その夜は、二人で夜更けまで、カウンセリングについて語り合いました。「それは技術ではなく思想であり哲学だ」というような結論になったように記憶しています。
 組合役員の教師が、この新任校長にケンノミを食わせるべく、勢い込んで、「組合の集会」のための休暇を要求に出掛けたら、「ええ、ええ、もう手配済みです」とやられて面喰ったのだそうです。しばらくして、自衛隊が勧誘ビラを配りにくるというニュースが入り、[来ても断ってくれるように」と交渉すべく、やはり役員達が押しかけたら、「もう電話で断わっときました」という話。いやすごい奴がきたという噂でした。
 彼は、何かの折に行き合うと、それとなく、なん年なん組のだれそれという生徒がいて、英語が落ちそうで悩んでるから一度話してやってくれ、という調子で、ぼくがカウンセリングをやることをうながしました。
 それにしても、どうして、そんな細かいことを知ってるのだろうと、少し不思議でした。後で分ったのですが、校長室には、いつも、何人かの生徒が押しかけていたのです。事実、その頃の卒業アルバムを見ると、ほぼ半数近くの生徒が、校長室でグループ写真を取っているのです。おそらくそうした生徒にとって、校長室は最も印象深い想い出の場所だったのでしょう。
 ぼく自身、あれほどの大校長には、もう出合えないのではないかという気がしています。

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 さて、「ホテル事件」の調査を依頼されても、ぼくは、その生徒達を取調べる気など全くありませんでした。グループ・カウンセリングという感じで、数回にわたり彼等と会い、自由にしゃべってもらっただけでした。
 大変なことをしてしまった。親にも金銭的にだけではなく精神的にも迷惑をかけてしまった。みんな、そういう風にしょげ切ってはいました。しかしそういうことと、この行動の発端となった、「泊り逃げ」が出来るかどうかという問題とは別のことのようでした。彼らはやはり、それは出来ると思ったのでしょう。だって、あの電話から足がついただけなのですから……。誰かが、少し残念そうに、「あの電話さえかけへんかったらなあ……」といったものです。
 ぼくの立場としては、それはそれとして、話し合いを続けるうちに、「やっぱり悪いことはせんとこう」という認識が生れてきたらえらく結構なことや。でも、そんなことより、「沙汰あるまで自宅待機」を命じられ、近所の手前、一室に閉じ込められて、半ばノイローゼみたいになっている彼等が元気づくのを期待する方に気を奪われている状態だったのです。
 さて、職員会議で報告を求められ、ぼくは出来るだけ正確に彼等の心の状況を説明した積りでした。ところが意外にも、先生方の反応は、「何と不届きな、反省の色が見られんではないか」というものでした。後で分ったのですが、「電話さえかけなければ……」というB君の言葉をチラリとぼくが引用したのが決定的だったそうです。ぼくは、大いにあわてふためき、何とか誤解をとこうとしたのですが、もう後の祭りでした。処分は、えらく重いものになってしまったのです。
 教師というヤツラは、何と表面しか見ようとしないものか。うわっ面のつじつまさえ合っとれば、それでいいんか。
 自分も教師であるぼくがいうのも変な話なんでしょうが、ぼくに深い教師不信が住みついたとしたら、多分この時からだったように思います。もう決して、聞き知った生徒の心のうちは、教師には云わんぞ。ぼくはそう思い定めたのです。
 もしかしたら、ぼくは、カウンセリングというものが、学校という場所では不可能であることを、すでに感じ取っていたのかも知れません。個人の価値観、つまり個人を認める風土の中に、それは成立するはずなのですから……。そして、同時に、アメリカという異質文化の中で生れた非指示的な方法が、この国では、ある限界を持つ場合もあるということもうすうす感じ初めていました。
 ただ、ぼくが固く信じたことは、コバヤシ先生もいったように非指示的カウンセリングは一つの思想であり、〈人間は必ず自分自身でよくなり得る存在である〉という信念の上に成り立っているということでした。
 そうしたことを若いぼくに確認させてくれた、ぼくのクライエントたちは、多分、ぼくのカウンセラーだったのでしょう。

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