連載第2回「新しい門出、スイスの旅」

スイスの旅トップS.jpg ぼくは、ロンドン行きの飛行機の中でした。
 今から数えて、丁度2年ほど前になります。いつもそうなのですが、飛行機で日本を飛び立ったときには、飛んだぞ、抜け出してやったぞというようなある成就感というか高揚感があったものです。当然とは言え、今回はいつもとは、全く感じが違っているようでした。
 30年を超える教職生活ではあったのですが、辞めると決めればなんの未練もありませんでした。教師の世界はこの20年ほどの間に急速に変化し、そこはもうお役人の世界と何の違いもなくなっていました。
 ぼくも一応何人かの人たちに相談してみました。大学の恩師で仲人でもあるノダマン先生は「定年で辞めてからなんかやるちゅうのは、やっぱり第二の人生みたいで気合いがはいらんわなあ。辞めるなら早いほうがええ」とはっぱをかけるようなことをおっしゃる。友人の地震学者でアセンブラーというコンピューター言語のエキスパートでもあるサワダ君は「そんな、しがみついておらんとあかんという職業とも思えませんがねえ」といいました。教え子で仲良しの高校生の一人は、ぼくの決意が堅いことを知ると「先生。頼むし、校長を一ぱつしばいてから辞めてくれませんか」とはなはだ穏やかならぬことをいいます。
 「あほか。あの校長はワシとはだいの仲良しなんじや」
 それで当の校長は、ぼくの大学の先輩でもあり大変よくしてくれていたのですが、ぼくが辞意を表明したとき、ちょっと複雑な表情で考えてから「教師の世界は君には狭すぎて身動き出来んかも知れんなあ。あえて慰留はせんよ」といい、ぼくはお愛想でもちょっとぐらい止めてくれてもいいではないかと思ったりしたのでした。
 春の退職の後すぐに、友人や弟子の連中が再出発の門出のパーティーをやってくれるという話です。
 「それはちょっと派手過ぎると思うで。遠くの東京でやるんやったらまあ問題ないやろうけど」そういってその時は、ぼくはみんなの好意を押し止めたのでした。
 6月の始め、『東京プリンスホテル』で、山と渓谷社とソフトバンク社肝煎りの『高田直樹の新しい門出を祝う会』というかなり派手なパーティーを終えて、その翌日ぼくは機上の人となっていたのです。

 ずっと昔、学生時代にお山のテントでみんなと一緒によく歌った歌がありました。ほんとに繰り返し愛唱しましたので今でもよく憶えています。こんな歌でした。

  希望にあふれ果てしなき 望みと共に登りしは
  遠き昔のことなりき 今は静かに老いてゆく
  朝な夕な窓に寄り 聞くは変わらぬ山村の
  昔を偲(しの)ぷ鐘のこえ その音(ね)は昔の夢を呼ぶ
  老いの眼(まなこ)に今もなお 消えず残るは岩こおり
  そびゆる峰のことばかり 心はいつしかそこにあり
  我に返りて心せば いろりのほだ火も消え失せて
  空に輝く星ひとつ ああハイマートアルペンよ

 老いというようなものとまったく無縁の20才やそこらの若者達がどうしてこのような歌を愛唱したのか、すこし不思議な気もします。たぶん、この歌にこめられたエキセントリックな山への限りない愛惜の念に共感を憶えていたのかも知れません。
 年老いたらこの唄のようにありたいものだと、若いぼくは考えていたのでしょうか。教職をリタイアし誰に気兼ねすることもなく、大義名分をでっちあげたり、どんな申請書を作ることもなく海外に向かえることになってぼくが最初に考えたのはスイス行きだったのでした。
スイスの旅カット1S.jpg スイスに一番詳しい『ヤマケイ』の編集長のガハさんは、ぼくの依頼どうり「日本人観光客がいなくて泊まりの安い所」という条件にあった場所を10力所も拾い上げ、地図を含むくわしい彼のコメント入りの情報を分厚い封筒で送ってくれました。
 読み通すだけでぼくは疲れ、10力所のどこも最高に思えて選択できず困ってしまったのです。ええい、そんなら順に巡回して決めればいいではないか。そう思って決定を投げ出した丁度その頃、オランダのパベルからFAXが入りました。
 パベルというのは、ぼくがバンコックに留学していた時、ロッテルダム大学の院生で、シェル石油のプログラムでバンコックシェルで研修中だったのですが、ぼくとアパートが一緒で知り合ったのです。その年の秋、バンコックからシカゴ大学の聴講コースヘ移る途中日本に立ち寄り、「ハッピーバースデイを言いに来たよ」とバンコックの友人からの誕生日プレゼントをたくさん持ってぼくの家にやってきたのでした。大学院を終えてからは、ぼくのアドバイスに従って、ペイのいいシェル石油を断念しKLM(オランダ航空)のコンピユーターソフト部門に勤めています。
 彼の卒業論文のテーマが傑作でした。「オランダ航空がもしカルフォルニア米と日本の醸造技術を輸入して作った日本酒を乗客に供した場合、KLMはどれだけの利益を得ることが出来るか」というのです。彼がこのテーマを考えたのはぼくの家に来て、初めて冷酒を飲んだ時だそうです。そしてこのテーマを最も喜んだのは彼の先生の教授で、その理由というのは、パベルが日本から取り寄せるサンプルの日本酒がふんだんに飲めたからなのだそうです。
 さて、パベルからのFAXにはこう書いてありました。「君の便りでヨーロッパに来るという話を聞くのは、いつも嬉しい。スイスの件だけど、お父さんが別荘の権利を持っているから君はいつでも使うことが出来る」そして、さらに続けて、「部屋にはダイレクト電話があって君は自由に使える。料金は後でお父さんに支払ってくれればいい。部屋にはFAXはないけれど車で5分のクラン・モンタナの町ではどこでもFAXは使える。しかし、最高の解決法は君が自分のFAXマシンを運びこんで、部屋にインストールすることだ。」
 一瞬にしてぼくの考えは決っていました。クラン・モンタナというのは、前年に母親を連れてヨーロッパを旅した時に、あの『オリエンタル急行』から見上げたシンプロン峠近くの山腹であることが分かりましたし、その他の条件も申し分なかったからです。

スイスの旅カット2S.jpg 窓の外には、まるで北アルプスのど真ん中・雲の平から切り取って来たかのような針葉樹の木立ちと、その向こうに青い空と白い雲が見えます。
 午後の一眠りから覚めて時計を見ると5時半でした。日差しはようやく傾きだしたかなという感じ。ここスイスでは緯度が高いせいで日が暮れるのは夜の10時なのです。だから5時といっても、まだお昼過ぎという感じです。夕暮れになったな、夜になったなと思い、時折聞こえるふくろうの声を聞きながらFAXの整理をしたり返事を書いたりしてから、夜も更けたから眠ろうかなと時計を見るともう朝方なのです。すると起きるのはお昼前になる。
 もしかしたら、いまのぼくの就寝起床のパターンはスイス仕込みなのかも知れない。今そう思ったことです。でもぼくは日本では決して昼寝はしません。クランの人たちは昼寝をするので全てのお店は1時から4時頃までは開きません。
 さて、お昼前に起き出し、まずお風呂に入ることからぼくの一日が始まります。それから眠っている間に受信したFAXに目を通しながら、いつものティーバックのラプソンソウチョンを啜ります。小鳥の嚇りが絶え間なく聞こえ時々樹々をリスが走るのが見えます。ぼくは昔の歌をくちずさんでいました。

  やまなみ見渡す牧場の小屋は 懐かしわが故郷よ
  鳥もリスも我に慕(した)い寄れば さみしさ苦労にならず
  おお青空のどかに白い雲 丘には羚羊(かもしか)駆けり
  自然を我が友とし暮らす身は 悩みもなくいと愉(たの)し

 空腹を覚え、時計を見るともう1時でした。ぼくは遅すぎるブランチの用意に掛かります。ご飯は昨夜の残りで清粥を作り、別に太い腸詰を5cmほどむしりとり、フライパンにばらしながら入れます。ほぐすように炒めてゆくと、油がどんどん出て来てミンチ肉のようになる。肉片を均等に広げたところへ卵を2個割り込むと出来上がりです。
 真っ白の卵の中に点々と赤い肉片が散りばめられて、とても美しい。味はベーコンエッグみたいですから、我流ベーコンエッグスイス風です。
 この腸詰、押さえるとふかふかしていて、いかにも美味しそうだったので買ったのですが、すごい油でおまけに塩辛く、そのままではとても頂ける代物ではなかったのです。でもこうするとけっこう使えます。

 次に、インスタントの粉末にお湯を注いで赤だし味噌汁を作ります。清粥に赤だしにベーコンエッグのブランチのデザートは、真っ白の大きめのお皿に切り出したバニラアイスクリームのブロックです。
 そして、もう一度ラプソンテイを飲んでこのシンプルな食事はおしまい。
 絶え間なく続く小鳥の嚇りを聴きながらつい眠り込んでしまいました。そして目覚めたら5時半だったという訳。大急ぎで夕食の買い物に出掛けねばなりません。牧場を突っ切って木の柵を飛び越すと直ぐに森に入ります。急な斜面の樅の樹々の間を縫いながら適当に踏み跡をたどると約15分でクランの町に着きます。
 夕食の買い物の愉しみはワインでした。この辺りは、極めて上質のワインを産することで有名です。それは丁度日本の地酒のように、他所には出さずここだけで消費されるのだそうです。ほとんど毎日のようにぼくは、新しい銘柄のワインを愉しんだのです。ワインのあてに何種類かのテリーヌを「ボンジュールマダーム。コムサ、トレ、コムサ、ドウ」などと片言のフランス語で買えるようになった頃、Iカ月のぼくのスイス滞在は終わり、アメリカに向かうことになったのでした。
 馴染みとなったクラン・モンタナの人たちに別れを告げ、長い山道を走り降りると道はローヌ河沿いの高速道路に入ります。真っ赤のワーゲン・ゴルフを走らせ、モントルー、ベベイ、ローザンヌとレマン湖沿いの道を過ぎながら、「永年の日本の教師の垢は、これでなんとか落ちたみたいや」とぼくは一人ごちたのでした。

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