8.ナジールに会う

 イスラマ出発の前日、ナジールと電話が繋がり、彼のオフィスで会うことになりました。
ナジール.jpg ナジールというのは、ナジール・サビールという世界的に有名な登山家です。
 パキスタンには世界の14のうち5つの8000峰がありますが、ナジールはナンガパルバットを除く4座のパキスタンの8000m峰と、エベレストに登頂しています。
 彼と知り合ったのは、はるか昔のことです。
 その頃、ぼくはパキスタンを毎年のように訪れていました。パキスタンに行きたいという教え子などが毎年いて、例年行事のようにパキスタンツァーをしていました。 
 その旅は、毎日が新鮮な驚きにあふれ、古き良き時代のパキスタンはほんとに楽しい国だったのです。
 ラワルピンディでは、その頃にはもう2・3流ホテルになってしまった、かつての高級ホテル・フラッシュマンホテルを、ぼくは定宿としていました。
 ナジールは、ナジールサビール・エキスペディション(ナジールサビール遠征隊)という少々変な名前の旅行エージェントをやっていましたから、時々このエージェントを使うこともありました。
 彼のエージントを使っていないときでも、ふらりとホテルに現れ、いつも宿泊費を払ってくれました。「いえいえ、私が払えば安いもんですから、気にしないで」というのです。
 
 彼は、ムスリムですが、イスマイリー派という極めてマイナーで、余り戒律にとらわれい柔軟な宗派に属しています。イスマイリー派の本山は、彼の生地のフンザにあります。
 フンザは、かつて不老長寿の桃源郷として世界に紹介されました。中国との国境近く、パキスタンの最北端に位置する山岳地帯にあるこの地は、近づくことが困難でした。だから世界中の旅行者の垂涎の地となり、その後も世界の観光スポットとなっています。
 フンザには、桑の実から作った「フンザパニー(フンザの水)」という名前の蒸留酒があり、イスマイリー派の住民はムスリムでありながら、みんなこれを飲んでいたのです。またフンザでは、ブルカという顔面を覆う布をかぶった女性を見ることはありません。パキスタンを旅してきた旅行者にとっては、これは新鮮な驚きであったでしょう。

 中国からカシュガルを経て、4700メートルのクンジェラーブ峠を越え、フンザを通ってラワルピンディに至るルートは、昔から存在していました。ぼくが、1965年のディラン峰遠征の帰途、ギルギットにいた時、中華人民共和国となった中国からの初めての駱駝のキャラバン(隊商)がやってくると大騒ぎでした。
 その後、中国によって、このルートは自動車道路いわゆるカラコルム・ハイウェイとして開通しました。
 また、インドに発する仏教はこのルートを通って大陸に伝えられました。そのため、カラコルム・ハイウェイ沿いには、約2000カ所の磨崖仏(岩面に彫られた仏画)が存在するといわれます。
 ナジールの話では、インダスにダム建設の話があり、そうすれば磨崖仏はダムの底に没する。切り取って保存するなど何かの対策を講じないといけないと思うが、なかなか難しい。何か訴え方を考えてくれませんかという話でした。
 パルベイツを通じてムシャラフに頼むのが早道とも思いましたが、ムシャラフはそんなことを聞く状態ではありません。
 アマンに聞くと、「この国では、何かやろうとすると、必ずああでもないこうでもないという反対が起こり、なかなか事は進まない。まだ計画段階ではっきりしない話だと思いますよ」といっていました。

 ぼくが教師を辞めて直ぐの頃のことだと思います。フラッシュマンに滞在するぼくの所にナジールが現れ、突然こう切り出しました。
 「タカダさん。ぼくにコンピューターを教えてくれませんか。私日本に行きますから」
 彼は、前年にハリウッドに招かれ、K2登山を題材にした映画のアドバイザーを務めたのだそうです。彼の登山エージェントの仕事も繁華を極め、ファックスの整理が大変で、コンピューターの導入が急務だという話です。ハリウッドから少しまとまったお金が入ったのでコンピューターを買いたい。教えてください。とまあ、そんな話でした。
 ぼくがOKしたので、彼は来日し、ぼくが紹介した我が家の隣の安アパートに住みます。ぼくの会社で、勉強することより、あちこち出歩くことが多かったようです。
 ぼくの家でお酒を飲みながら語り明かすこともままありました。特に話が合ったのは、スーフィズムについてでした。これについてはまたの機会に書きます。
 そんな訳で、コンピューターは結局ものになりませんでした。
 40日ほどが過ぎて、彼は帰国するのですが、その後しばらくして、フンザ選出の国会議員に立候補して見事当選します。
 その時、彼は教育担当だったので、ぼくに補佐官になって計画立案をしてくれないか、ギルギットに住まいは用意するからと依頼してきましたが、断りました。
 約5年間PPP(あのベナジール・ブットーの)議員を務めます。止めて直ぐ、エベレスト登頂を目指し、2年越しで成功を勝ち取りました。
 そんな訳で、かれはいまや、パキスタンでは唯一のエベレスト登頂者、えらい有名人なのです。
 フンザに家を新築したのですが、空き家の侭なので、いつでも使ってくれればいいといつも言ってくれています。季節のいい時期に数ヶ月フンザに滞在するのもいいかなあとも思うのですが、通信環境も悪いし、テレビの「鬼平犯科帳」も「相棒」も見れないなあとつい二の足をふんでしまいます。

 彼とは、前回も会えなかったので、ほぼ3年ぶりでした。
 積もる話もあって3時間以上も話しました。
 そのなかで中心になったのはパキスタンの状況についてでした。
 彼は、最高裁は「違憲」の判断をムシャラフに下す可能性が大きいといいました。ぼくは、「そうではないでしょう。そんなことになったら、パキスタンは大混乱ですよ」
 そうですよ。大変なことになります。でも判事の大半は違憲に傾いているといわれてますからねぇ。
 このナジールの判断は、結果的に正しかった。それでムシャラフは先回りして、非常事態(state of emargency)を宣言し、混乱を防いだことになります。とすれば、今回の状況は、ほとんどのパキスタン国民に取って、想定内の出来事だったといえそうです。
 ナジールがいつも言っていることは、一番悪いのはあごひげをつけた年寄りのムッラー(聖職者)たちである。コーランだけに凝り固まった彼らは世界を見ようとせずこの国を危険に落とし込んでいるというのです。
 この前の立てこもりの原因は、最も力のあるムッラーの息子が、秘密裏にあの教会にアフガニスタンより運び込んだ大量の武器弾薬を備蓄したことにあったそうです。
 「本当ですか。それにしても、9.11から世界はほんとに変わりましたねぇ」
 その通り、とナジール。でももっといえば、ホメイニ革命から変わり始めていたようにも思えますよ。そして決定的には9.11です。あの時、ブッシュはムシャラフに電話して、「テロリスト達につくか、アメリカにつくか」とおどした。ムシャラフはしかたなく、アメリカについたんだと私は思いますよ。
 この時、もしベナジール・ブットーがプレジデントだったら、恐怖のあまり頭真っ白、おしっこチビッタと思います。ナジールは手を股の間にやりながら、こう力説しました。彼は、PPP(パキスタン人民党)の議員だったし、党首のブットーのことはよく知っていますから、この説明には迫力がありました。
 アメリカが、ブットーを押し立てようとする意味が分かったように思えました。
 それから彼は、9.11の時ツウィンタワーには、一人のイスラエル人もいなかったという事実をあげながら、謀略説の説明を始めたので、いやよく知ってるよと遮りました。
 ナジールはアメリカと結託しているムシャラフを批判し始めました。これもぼくは遮り、「ぼくは、アユブカーン、ヤヒアカーン、ジアウルハクとずっとパキスタンの軍事政権を見てきたけれど、ムシャラフが最も世界状況に通じ、パワーポリティックスを理解していると思うんだが」
 ナジールは、でもアメリカの言いなりになりすぎるというので、「とにかく一番の悪者はアメリカです」
 そうです。ムッラーたちもそう主張しているのです。「そうですか。ムッラーは正しいじゃないですか」とぼく。
 そうですね、と意外にも簡単にナジールは同意しました。
 ぼくはなおも「ムシャラフは完全にアメリカの言いなりにはならず、うまい具合にやっていると思う」とムシャラフを支持すると、「それはタカダさん。日本だって同じでしょ」
 ぼくは黙ってうなづくしか仕方なかったのでした。

 いまウィキペディアのパキスタンの国内政治の項を見てみると、こんな記述がありました。
—–地方においては部族制社会の伝統が根強く、その慣習法が国法を上回る状態となっていて、中央政府による統制がほとんど効かない状態になっている。この無政府状態が、アフガニスタンとの国境地域にオサマ・ビンラディンなどのアル・カーイダ主要メンバーが潜伏しているという指摘の根拠となっている。南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。—-
 これはぼくにいわすれば、独立運動というより昔から独立国なのです。パキスタンのいうことなど聞かない。事実、この国に向かう物資は、カラチ港に陸揚げされても課税されないのです。イギリス統治の時代からそうだった。

 北西辺境州は、ぼくが何度か書いているパシュトーン語を話すパターン族の国であるし、ここにいう南西部とは、バローチ語を話すバローチの国でした。
 今度訪れたペシャワールは、アフガニスタン国境の町。ほとんどがパタン族です。
 一方昔よく訪れたクエッタは、イラン国境で、バローチの町です。ここはパキスタン軍隊の基地なのですが、大分前、バローチの族長と軍が対立関係となり、とんでもない危険な状況が続いていました。
 これが、ぼくが、十年このかたクウェッタに行かない理由です。
 何年か前、中学の先生がここを通ってイランに入ったところで殺されました。最近起こった拉致事件で拉致され、あちこちに連れ回されている日本人大学生もクウェッタからイランに入って難に遭いました。
 でも最近は状況は変わっているのだそうです。
 今回の旅で、イスラマ空港で、一人のパキスタン軍人に会いました。
 帰りのカラチへの便に乗るべく、イスラマ空港に行った時のことです。PIAのストによるフライトキャンセルを知り、送ってきてもう帰ってしまったアマンを呼び戻すため、そばにいた一人のパキスタン人に携帯を借りたのです。
 彼は、クウェッタ駐留の軍人だそうです。状況を聞くと大変平和だといいます。何年か前、軍が族長を殺し平和が戻ったのだそうです。
 考えてみれば、スワット渓谷の戦闘状態も昔のクウェッタと同じ状況かも知れないけれど、外国からアフガニスタン経由で外国人が流入してきているところが違うし、ムシャラフのいうようにそこが最も問題かもしれません。そして国内には、彼らを支持する勢力が存在する。とんでもないややこしい状況です。

 まあクウェッタに平和が戻ったのなら、僕の好きなクウェッタ・セレナ・ホテルに泊まりに行ってもいいなと思い、その軍人にそう言うと、いつでも来てくれ、モーストウェルカムだと答えました。

 スワットに流れ込むムシャラフいうところの無法者、それをたどると、アフガニスタン、そして中東、最後はイスラエル・パレスチナ問題に行き着く。ぼくにはそう思えてしまいます。現在の困難な世界状況のもつれの根源を知るには、イスラエル建国のあたりに戻る必要があるという気がしています。

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