Essay『北山のぼくの好場』


京都北山表紙S.jpg 「ジャニスは、どうしてるのかなぁ。しばらく電話もメールもないし」という家内の言葉で、ジャニスのことを思い出しました。彼女のことをヤマケイの雑誌に書いたことも思い出し、本棚を探してそれが山渓別冊『ヤマケイ関西』であったことが分かりました。 
 <京都生まれの岳人、高田直樹氏。’70年代『山と渓谷』で連載された「なんで山登るねん」でおなじみの軽快な口調で、北山の思い出を語る。>というリード文で始まるエッセイ『北山のぼくの好場(すいば)』を紹介します。

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北山好場TitleS.jpg 北山というところは、ぼくにとって結構特殊なところです。大学に入っにて山岳に入った頃、暇さえあれば北山を放浪したものでした。何日も山に入っていました。山里の大根を失敬したこともあったし、蛇をはじめ食べられそうなものは、何でも食べました。
 何日ぶりかで大学にゆくと、クラスメートがボクの冒険談を聞こうと、周りに輸を作ったものです。
 当時のぼくの北山歩きは、ピークハンティングではなかったし、渓流歩きでもありません。魚釣りでもありませんでした。もちろん、手づかみで、あまごは捉えましたが、これは食糧補給でした。
 まあいつてみれば、〈やみくも歩き〉みたいなものだったようです。まず、陸地測量部の五万分の一の地図を広げます。ある点を決め、現在地からその点へのルートのラインを想定します。このラインは、沢である場合も尾根の場合もある。岩の壁は避けます。さらに次の点を選びます。予想したとおり進めることは、あんまりありません。だいたい当時の地図は、大まかだし、間違いも多かった。でも、その地図と現実の地形とのずれを読み解きながら、藪をこぎ、渡渉し、歩き回る。 問題を設定し、解決法を考え、実際に試し、結果を見る。とまあ、そんなに大げさなことではないにしても、夕まぐれ、予想したような場所に出て、綺麗な渓流が流れ、小ぶりの流木がある。そんなときは、本当に心浮き立つ気分になったものでした。
 でも、考えてみれば、こんなことが出来るのは、北山だからこそであって、他の場所では無理なのではないかと思うのです。
 そもそも北山というのは京の都から北に広がる山地が日本海の若狭湾に至るまでの広い地域を指す言葉のようです。
 室町や平安の昔、若狭や福井から京の都に至るルートは六つか七つもあったそうです。こうしたルートは、ほとんど北山を通って京都に至りました。日本に最初に来たらくだや象もこうしたルートを通ったと聞きました。
 これらの道は、その途中でいくつもに分岐し、尾根や沢を越える無数のルートあったと考えられます。
 当時の人々は、野麦峠のように、盆暮れだけではなく、常時、点在する北山の山里に往来したのでしょう。

ぼくだけが知っている素敵な場所
 どんな山域であれ、なんどもそこへ行っていると、気に入っだ場所が出来て来るのではないでしょうか。そうした場所は、できればあまり人に知られていないほうがいい。自分だけが知っている素敵な場所。そういう所をぼくは、勝手に好場(すいば)と呼んでいます。
 そして、ぼくには、北山にもその好場があるのです。
 その場所は、そばを程良い渓流が流れています。谷川は、大きすぎてはいけません。瀬音が安眠妨害になるというのは論外として、やはり日本庭園のイメージにかなうようなものがいい。とはいっても、一気に飛び越せるというのでは小さすぎます。
 そこでは太目の薪が得られないといけません。そしてなによりも、その谷の水が美味しいことが必須条件です。
 ボクがあの谷を見つけたのは、もう十年以上も昔のことでした。ちょうどその頃、ぼくは、念願の小屋泊まりでの槍・剱縦走を行いました。学生の頃から、小屋に泊まって縦走するというのが夢でしたから。
 そのとき、北山のあの谷の水の味を五として、北アルプスの各場所の水を五段階で評価してみたのです。ほとんどが三かそれ以下で、大好きな剱沢の水も評価は二でした。昧が荒いのです。雪渓が解けて花尚岩を流れる水が美味しいわけがありません。だいたい花尚岩の水は、それが商品になったりもしていますが美味しくありません。
 北山は、秩父古生層という大変古い地層からなっているそうで、その上を豊かな樹林が覆っているのですから、どの谷の水もおいしい。
 そしておいしい水で調理した食物は、また極めて美味です。もともと、あのぽくの好場のある谷を見つけたのは、その谷の水を飲んで気付いたのではありませんでした。
 ある時、日暮れて、やむなく泊まって炊いた飯倉の飯が、なんとも甘みを帯びて旨かったからなのです。水はすべての料理の基本です。
 しかし、おいしい水だけあればいいというものでもありません。材料だけでなく調理具もおろそかにはできません。当然飯盆の飯は、コツフェルの飯よりおいしい。でも圧力釜の飯は、もつとおいしい。ぼくは、山だからしかたがないという考え方は、基本的には好みません。
 ぼくが、顧問をしていた高校山岳部には、イギリス製の山用プレツシャークッカーを購人させていましたから、北アルプスの縦走路のキャンプ場などでは、周りの登山者から羨ましがられたものでした。
 北山のぽくの好場での食事のメニューは、酢の物とか和え物などはごく普通で、ほとんどは下界のものと変わらないのです。

金髪碧眼の美女ジャニス
 あれは、たしか昨年の一月だったと思います。スコットランドのジャニスからしばらくぶりにメールが来ました。日本に行きたいというのです。彼女が、日本に来るのは二回目です。
北山Cut1S.jpg ちょうど十年前のこと。ぼくは、まったくの偶然で、地球の反対側から単身やってきた、中年の金髪碧眼のあの美しい女性に出会ったのでした。その時、ぼくは京都の中心ではないけれど、まあ町なかと言ってもいい辺りのホテルの地階のバーで飲んでいました。
 連れの女性との会話がとぎれると、カウンターの端から外人女性の声が聞こえてきました。聞くとはなしに聞いていると、彼女に数人の青年が、明日のスケジュールの相談に乗ってあげているようでした。
 彼らは、一生懸命、東寺の「弘法さん」について説明しています。でも彼女には全然通じてないようです。ぼくは、そっちに向かって、少し声を張り上げて、「ジャパニーズバザール」とだけいいました。たったそれだけで彼女は理解し、大きく手をあげて感謝の意を表しました。しばらくすると、バーテンダーが「あの外人のお客さんから」とカクテルを運んで来ました。馴染みのバーテンさんの話では、彼女は昨日から泊まっていて一人旅だそうです。
 それにしても、どうしてまったく日本語が理解できない外人女性が、一人で日本を旅しているのか。すぐに、グラスを持ってそばにやって来た彼女が、問わず語りに話した内容というのは、こんなことでした。
 ジャニス・フォーサイスは、ティーンエージャーの頃から日本に憧れていた。ご存じだと思いますが、十九世紀の終わり頃、日本では明治の半ば頃、ヨーロッパでいわゆる「ジャポニスム」が大流行します。代表は、浮世絵や伊万里焼なのですが、あらゆる文物がヨーロッパで驚嘆と共に受け入れられたのです。
 浮世絵をはじめとするそうした作品が、貴族ではなく、一般庶民の嗜好の対象となっていたことは、ヨーロッパでは考えられないことだったと思われます。ゴッホなどは、遠近法など浮世絵の独自の技法だけではなく、そうした芸術の存在する極東の国に憧れ、まるで模写のような絵を描きました。ところで、スコットランドには、ジャポニスムの影響を受けた画家が五人いたそうです。そして、ジャニスの日本への憧れは、そのうちの一人が画いた花魁の油絵から始まったのだそうです。ジャニスは、一人娘のエマが幼稚園の時、学芸会で日本の着物を着せたといいますから、その傾倒ぶりはかなりのものだったと思われます。
 「三十年来の思いがようやく叶って日本に来たの」という話に、いたく感動したボクは、早速、普通では行けないような夜の京都を案内したのでした。

スコットランドのジャニスの家へ
 それから毎年のように、スコットランドに来て下さいという手紙がくるようになります。
 その頃、ぼくは毎年のようにヨーロッパに行っていたので、「はい、行きます」と答えていました。いつもスコットランドに回るつもりで出かけ、そして日がなくなり、決まったように「ごめんなさい。行けなくなった」とヨーロッパから電話していました。
 そんなことが五年続いた後、ぽくは、ようやくジャニスの家を訪れることになります。その年の夏、十六人の日本人がべ二スに向かいます。教え子たちがそこで、ぼくの還暦パーティーをやってくれることになったからです。ベニスの四日間の後、オランダに戻ります。アムステルダムの友人パペルのガイドで、バイクでツーリングして、ドイツ国境リンバーグの森に行き、三日間のアウトドアライフを楽しみました。
 このツアーは、アムステルダムで解散したので、その後ぼくは、スコットランドはグラスゴー郊外のジヤニスの家に向かったのです。
 キヤンプシー・ヒルという崖を立てかけた巨大な丘の裾の森の中にあるジヤニスの家は、驚くほど立派なものでした。なにしろ寝室が六つもあるのです。廊下には、何十点もの油絵が照明付で飾ってあり、まるで美術館みたいです。
 このときから、ぽくは時々、スコットランドのジヤニス邸を訪れるようになります。
北山好場カット2Small.jpg 旦那のエディはぼくと同い年くらいで、大のお酒好きです。夕食には、地下の酒蔵から年代物のワインを取り出してきますが、それだけでは足りません。さらにシングルモルトのスコッチ瓶が空になるのが常でした。彼は自分で起こした会社を四十歳代でリタイアして、ずっと悠悠自適の主夫をしています。なんでも、三十代で姶めたスチールパイプの商売で、大儲けしたのですが、部下たちに背かれ、会社を追われたのだそうです。
 夜更け、ぼくと二人きりになると、ジヤニスは「ナオキ。エディはネ、自分を会社から追い出した部下たちを呪いながらお酒を飲んでいるのよ」と話したものです。
 一方、エディは酔っ払うと、「ジヤニスは死んでも絶対天国には行けない。なぜって彼女は、家事を全部おれに押し付けているだろ」。
 ぼくとしては、相槌を打っているしか仕方がありません
でした。
 ぼくがスコットランドを離れる日の朝、ジヤニスは、目を真っ赤にしています。エディが、「ナオキ。ジヤニスが別れるのが悲しくて泣いている。出発をもう一日遅らせたらどうかね」といい、ぼくは一応「そうだね」とだけ答える。これは毎回繰り返される情景でした。

ぼくの好場でジャニスとキャンプ
 さて、日本にくるというジャニスですが、できれば三、四週間は滞在したいようです。行きたいところは、着いてから考えることにしたらいいが、ぼくとしては、北山のキャンプに案内したい。京都のすぐ北方には、キタヤマという丘と渓流に恵まれた奥深い森がある。そこヘキャンプをしに行こうよ。
 彼女には、あんまりそうした経験はないことを知っていましたし、お城のような家に住む彼女には、きっといい体験だと思えたからです。
 すぐにファックスで返事が来ました。
 わたしは、テントで寝たことはない。自分の枕でないと寝られないから旅行には枕を持ち歩いている。お風呂に入らないで寝るなんて考えられない。でも、ブレアに話したら、「ママがキャンプする。そんなこと出来る訳ない」と大笑いをされた。腹が立つから、ウオーキングーブーツを買いました、と書いてありました。
 ブレアというのは、オックスフォード大学を出て、ロンドンの証券会社に入ったばかりの一人息子です。
 ぽくは、枕は自分のを担いで行けばいいじやないかと、返事を書いたのです。
 ぽくは、ジャニスを北山のぼくの好場に案内しようと思っていました。あの好場でジャニスには、ローストビーフを作ってやろう。たしかこの前に行ったとき、桜の倒木を見つけ、薪にしたのを大樹の股にあげて残してきています。
 ぽくには、焚き火でローストビーフを作るという特技があります。桜の薪の焚き火で作ったローストビーフというのは、比類なく美味です。これをやるにはもちろん経験が必要ですが、決定的に必須なのは焚き火の技術。火力の微妙なコントロールが出来ないと絶対駄目だと思っています。
 ぽくがこれを体得したのは、大学時代だったと考えられます。毎年、北山で新人部員のための新人歓迎コンパを開くのが慣わしでした。新入生だけには、ロースト。チキン丸々一匹が、供されました。地鶏は、麓で買い込み、ザックに詰めて登ります。ザックがうんこだらけになるのを嫌って、びもをつけて歩かせようとした部員がいましたが、これはうまくゆきませんでした。
 北山荘に着いたら、鶏をつぶします。おしりを輪に切ってそこから腸と臓物を取り去り、代わりに香昧野菜のみじん切りを詰めてゆきます。
 こんがりときつね色に焼けたローストチキンを両手で持って、「ほんとにこれみんな喰っていいんですか」とたまげ、喜んでいる新人部員を見ながら、二年部員が「笑うのは今のうちや。夏の合宿では泣かんならん」と陰口を言っていました。
 北山の好場でのキャンプには、大きな問題がありました。それは物資の輸送です。三泊四日の為の食料だけでも、かなりの量になります。ビールやワインなどをふんだんに用意し、天ぷら用の油や深鍋、あるいはアウトドア用の折り畳みイスなど、まるでオートキャンプみたいな食料装備となるのです。
 そこで一計を案じたぼくは、教え子でバイク仲間のナオトを誘うことにしました。彼とは高校山岳部員の時からのつきあいです。最近ではぽくと同じBMW1100RTに乗っていて、二ヵ月に一度はツーリングに誘ってくれるので二人で走っています。でも長らく山に行ったことはない。
 彼の125CCのモトクロスでなん往復かしたら、荷物なんか一気に運べる。まあ夜中ならモトクロス車の爆音もそんなにひんしゅくでもなかろう。そんなことで、この問題は解決したのでした。
 装備担当は、とっつぁん。料理担当は、ぼくの会社で一緒に仕事をしている、しのやんとともさん。
 こうして決まったメンバーは、ジャニスを除いて、みんな教え子で二、三十年以上の付き合いの面々となりました。それにもう一人、いや一匹。愛犬のビータス君。家でも会社でもずっと一緒で、まるで盲導犬か介護犬みたいです。
 四月の半ば頃、ジャニスがやってきました。数日は、弘法さんに行ったり、都おどりを見たりして、それからすぐに北山にむかいました。
 北山の好場では、幸いなことに、天気にも恵まれ、ただぼんやりと、しやべったり歌ったりしながら、おいしいものを食べ、穏やかな山中の日々を過ごしたのです。ジャニスもリラックスして楽しんでいるようでぱありました。
 帰路、たったIヵ所ある徒渉点に至り、千切れるような冷たい川を渡り終えた瞬間、ジャニスはぽくに抱きつき、おいおいと泣き出したのです。これには少しびっくりしたのですが、そこからは、もう崖もなく道が広くなるので安心して、緊張がほぐれたのかもしれません。
 その時はじめて、ジャニスにとって、このキャンプはけっこう過酷なものだったと悟ったのでした。
 今度彼女の家に行ったら、いつものように、暖炉の前のソファに横たわり、彼女が薪をくべている時にでも、北山キャンプの感想を聞いてみようかなと思っているのです。

たかだ・なおき 1936年京都生まれ。京都の府立高校で化学の教鞭をとるかたわら、カラコルムのディラン峰などに遠征。現在(2002年)、龍谷大学非常勤講師(教育情報処理)。株式会社クリエイトジャパン取締役。株式会社イージーコムサイト取締役。EZIComSlteFRANCE取締役。著書に『なんで山登るねん』(全3巻、山と渓谷社)

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