西パキスタンの旅 第4話「ギルギットへの突入−−その1−−」


陸の島−ギルギット
ギルギット1
 井上靖の「あしたくる人」には、ギルギットは、タマリスク(聖柳)風にそよぐ、主人公憧れの地として、描かれている。
 ギルギットは、現在でも最も多くの未登の高峰を持つ、カラコルムの玄関なのだ。
 カラコルムには、なぜ未登峰が多いか。それなりの理由がある。この地域は、東を印度、西をアフガン、北を中共に接する国境地帯である。そしてまた、いわゆるカシミール問題でもめている係争地(Disputed Area)でもある。そういう政治的にむずかしい場所だから、パキスタン政府は、なかなか入域を許可しない。

 ギルギットは、陸の孤島である。一九四七年、パキスタンが分離したとき、ギルギットは、カシミールに譲渡された。これは、多分当時の地理的状況によったものと思われる。つまり、そのころ、ギルギットと外部の世界を結んでいたのは、一年のうち数カ月だけ、それも好天のときだけ通れる、スリナガール−ギルギット道路だったからだ。
 英国政府のこの決定は、そのまま実行された。しかし、カシミール州政府のギルギット統治は、短命に終わった。ギルギットの住民は、イスラム教徒。カシミール官吏はヒンズー教徒。
 カシミール地方のイスラム教徒は、ヒンズー教徒官吏を追放できず、カシミール問題を今日に残した。しかし、ギルギットの住民は、四囲をとりまく、カラコルム山脈のおかげで、無血革命に成功し、ヒンズー官吏を追い払ったのだ。ギルギットは、カシミール政府統治からパキスタン政府統治に、自ら転じたわけだ。
 その結果、ギルギットは、印パ紛争にまきこまれ、何度も、空からの攻撃をうけた。パキスタンは、この軍事的要衝地点の、物資補給を確保するため、道路の建設に力を入れた。インドとの休戦ラインの西側に、バブサル峠(4200m)を越える道路を作った。とはいっても、トラックは通れず、積雪のため、夏にしか使えないのだ。
 五年前、ディラン遠征のときも、ここの物資は、すべて、航空輸送に頼っていた。好天のときには、軍用輸送機が相次いで着陸。ジリジリと前進しながら、お尻から、ドスン、ドスンと積荷を落とすと、そのまま離陸していった。
 そのころから、インダス峡谷の片側を掘りひろげる、道路工事が進められていた。そして、二年前ぐらいから、この道路は、大型トラックも通れるものとなった。今や、ギルギットは、陸の孤島ではない。
 ところが、この陸の補給線、インダス道路は、軍用道路で、私たち外国人は、通行できないのだ。私たちにとって、事情は何ら変わらない。やはり、ギルギットは、陸の孤島である。
 私たちは、ラワルピンディーで、忙しい毎日を過ごしていた。陸路、ギルギットへ入る予定はしているものの、いつどんな情勢の変化があるかも知れない。パキスタンは、まだ、政変後の戒厳令下にあった。
 どんな場合にも、柔軟に対応できるよう、準備しておかねばならない。最悪の場合、「パキスタン内で、一切の行動が不能になったとき、どうしよう」という話も出た。「なあに、そのときは、イランまで突っ走しろうや」
 そう決まると、ただちに、アフガン、イランのビザを取りに走った。

 日本大使館の、O書記官は、モーレツに、無愛想だった。開口一番「また山ですか。もう駄目ですよ」と、あまりしまりのよくない口をとがらせた。「いや、私どもは、登山ではないんでして……」
 しかし、彼にとって、そんなことはどっちでもよいことで、ともかく、大使舘に現われるすべての日本人を、憎悪するかのようだった。
 私が、さして動じなかったのは、彼についての予備知識を、先行している小山さんその他から、充分得ていたからに外ならない。
 私が会った登山隊、旅行者は、必ず、問わず語りに、彼の悪評をならした。
「人間、誰しも、どんな悪人でも、少しぐらいは、人によく思われたいという気があるもんや。ところが、彼にはそんなところがみじんもない。それどころか、必死に憎まれようと努力しているみたいや」関田はこういった。ある意味で、すこぶる興味ある人物ではないかというのだ。関田は、今でも、彼のホテルへ押しかけて、酒で対決できなかったのを残念がっている。
 ともかく、トレッキング申請の書類を託送していただくことになった。
 アプリケーションのフォーム作成に夜半までかかった。(今年から、トレッキングでも、登山と同一フォームが要求されることになった)
 まず駄目だろう。だが、万一ということもある。私は、必死に文を練った。

私たちの作戦
ギルギット1マップ

 私たちの行動予定は、霧の中のように、おぼろだった。まったくの思いつきのままに、とにかく走り回っているうちに、それは、明らかな形となってきた—。
パーミッション待ちをするのは、時間の空費である。これは、小山隊の例に照らして明らかだ。(ただし、小山隊はこの努力の結果、今年の許可を得たといえる)
ギルギット突入を試みる。最初はインダス・ルート。次はバブサル・ルート。
インダス・ルートが駄目なら、ただちにスワートへ転進する。ここは許可なしで行けるし、京都教育大の資料がある。バブサルは後回し。というのは、バブサル峠にはまだ雪がある、との情報を得ていたからだ。
 こういうように、目標が決まったので、準備行動は、的確になった。
 まず、私たちは、Tourist Introduction Cardをもらいに、ツーリスト・ビューローへ出向いた。ギルギットへ行こうとする観光客は、必ずこのカードが必要だ。パキスタン政府発行のもので、滞在日数、行先、ルートなどが明記される。
 ツーリスト・ビューローのオフィサーは、官僚的な奴だ。ギルギットから引返してきた、小山さんに聞いた通り、行先は、オープンゾーンと指示した。オープンゾーンの解釈も、聞いていたのと同じだ。
 私は、カードをもらってからちょっと聞いてみた。
「実は、われわれは、車が手に入るかも知れないんだが……。車でギルギットへ行けないか」
 もちろん、オフィサーは「NO」と答えた。予想通りの答だ。あんまり、深入りすると、ヤプヘビだが、ついもうちょっと聞きたくなって、
「どうしてなんだ」
「道路が危険だからだ」答は、用意されていたかのように、明快だ。
 しかし、この政府発行の、ギルギット訪問許可証ともいえるカードには、どこにも、空路に限るという記載はない。
 次は、大使館だ。伴参事官にお願いして、”To whom it may concern”を書いてもらった。〈関係者各位へ〉というやつだ。日本国紋章入りの紙に〈Mr.TAKADAに率いられる4名が、ギルギット・スワート方向へのジープ旅行を行なっている。各位の深甚なるご援助を要望する〉という主旨の文章が、インクうるわしく、タイプされている。
 カムランホテルに、古谷君(法政大探検部)が現われた。いろいろ、貴重なニュースをいただいた。彼らは、半年近くもギルギットにいた。そして、タクシージープで、オープンゾーンを突っ切って、「暁の脱走」もどきに、スカルドまで走ったという。
 私たちの計画を話すと、
「きっとうまくゆきますよ。ここの軍用ジープは、皆さんのと同じだから……。ギルギットに入れば、あとはこっちのもんです。大体、タクシージープと交渉しているときに、行先がわかって、ストップを喰うんだから」と励ましてくれた。
 私たちのスコッチを飲みながら、「優雅な隊ですネー。私も、ポーターでもいいから、連れてって欲しいぐらいです」と、お世辞とも、本心ともつかないようなことをいった。(この項つづく)

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