西パキスタンの旅 第1話「辺地教育調査隊の出発」


西パ1
カラコルム辺地教育調査隊の出発
変化をとげる回教の国

車と女−カラチの変化

一九六九年、四年振りにカラチにやって来てまず感じたこと。
一つ、車の増えたこと。
一つ、ブルカの女性が減ったこと。

 車がやたらに増えた。それも日本の車が目立つ。四年前は、タクシーもモーリス等の英車ばかりで、ブルーバード等珍しいぐらいだった。ところが今度は、日本車なら全車種あるといってもいい。サニーのタクシーなどザラである。
 また日本車はとばしているのが多い。そしてクラクションをならして、猛然と追越しをかけてくる。これは丁度、日本でムスタングがとばしているのと同じではないかと話しあった。
 車が増えると共に事故も増え、パキスタンでも、交通事故は大きな社会問題となりつつある。そのためだろうが、映画館では、事故防止のキャンペーンが行なわれている。

 はだしの少年、手に紅茶の盆をもち道路を横切る。突進してくる乗用車。少年の恐怖にゆがんだ顔のアップ。ブレーキのきしり。次のカットで道路に散乱した茶わんと盆。大きな血痕がうつり、アナウンスが流れるのである。「かくて少年の生命は去ったのであります」

 車が増えたと反対にブルカ(回教徒女性が外出時に用いるベール)の女性は減った。パキスタンは、正式にはパキスタン回教徒共和国といい、回教徒の国である。そのコーランの教えの一つに、女性の隔離がある。
 コーランには次のようにある。〈それから女の信仰者にもいっておやり、慎しみ深く目をさげて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方がないが、そのほかの美しいところは人に見せぬよう‥‥(24−31)〉ブルカの習俗はこの字句から生れた。
 だからブルカの女性が減ったということは、重大な変化である。少々オーバーにいえばイスラム文化の変容ともいえるかも知れない。しかしよく考えれば、回教というのは生やさしいものではないことが分かる。
 私たちがカラチについた六月十八日の夕刊、Evening Starには面白い記事があった一カラチの中心にあるジンナー公園に、午後、アベックがいた。恐らくベンチでほほを寄せ合っていたのであろう。ところが、警官はこの二人をキスと抱ようのかどで逮捕したのである。

 冒頭から車と女が飛びだした。しかしこれは私たちに全く関係ないことではない。私たちはこの二カ月間、車で西パキスタンの調査を行なったのである。けれど後者に関しては、断じて関係はなかった。何しろ私たちは、教育調査隊というおかたい隊であった。

京都カラコルム辺地教育調査隊

 京都に京都カラコルムクラブという‥・後につづける言葉に迷う。一般にいう山岳会では勿論ない。しかし山岳連盟に登録されたレッキとした社会人山岳団体ではある。強いていえば、海外登山の経験者及び経験予定者のみで構成された、海外登山クラブといえるだろう。(余談であるが、カラコルムクラブ婦人会なるものもあり、これはカラコルムクラブと異なり標語を持っている。曰く、銃後の守りは固し!)
 カラコルムクラブでは、一九六五年のディラン峰が失敗したので、以後パキスタンに申請をつづけ再起を期していた。小谷代表も毎年外国出張の帰途パキスタンに寄って、プッシュを行なっていたが、いつもキャンセルの通知が来るだけだった。
 そのうち一九六八年の秋、ディランが登られたという情報が入った。薬師さんによれば、松田雄一氏よりの手紙に書いてあるという。情報魔といわれる松田氏のニュースとあらばまず間違いなかろうが、念のため、直ちに問合せることにした。
 返事によると、これは一橋大の倉知さんよりのニュースで、登ったのはオーストリアのハンス・シェル、八月に登ったと葉書で知らせてきたという。
 全く予期していないことであった。私たちは毎年申請していたし、それにこの年の分には拒否の回答にも接していなかった。
 恐らく奴はひそかにもぐりこんで一気に登ったに違いないということになった。
 なお、この情報を疑問視する見方もあり、問題の倉知氏あてのハガキを見ることになった。そこには「幸運にも、私はディランに登ることができた」とのみ書いてあった。そこで文中のClimbというのは、必ずしも頂上に達するということを意味しない。普通は入域できない場所に入り得たという解釈が成立つ——という迷論を私は唱えた。
 何とか登られてほしくないという気持だったのだろう。この気持は誰しも同じであった。
 四月になって、ようやく、問合せの返事がハンス・シェルより、小谷さん宛に来た。彼はやはり登っていた。たったの三名で、オーストリアから装備と共に、フォルクスワーゲンで走ってきて、許可なしであっさり登ってしまったのだ。

 ディランが登られたという最初のニュースの時、最も残念がったのはディラン隊の登頂隊員であった小山さんであった。彼は、われわれも同じやり方が可能であると確信した。勿論、ギルギットに長く滞在している友人の法政大探検部の平氏とも連絡をとり、充分の裏づけのもとにである。そこで彼は、カンピレディオールを狙うことにした。
 小山隊は、現地合流も含めて六名となった。一方私は、登山隊は二の次とした四名の調査隊を組み、カンピレ隊と共に、カラコルムクラブ一九六九年遠征の一部にしてもらうことになった。カラコルム西部の総合的解明を行なったシュナイダー隊は、常に登山と調査の二つの部分よりなっていたし、現在でも充分意義のある形式だとの小谷代表の判断であった。

 時は世界的にスチューデント・パワーがいわれ、京都もさわがしくなっていた。考えるに、これは機械文明の高度発達との関連が予想できた。私たちは、機械文明から遠く隔った場所において、人間が見失い、あるいは忘れ去った、何か貴重なものが発見できるかも知れないと考えた。だから本当は人間探求隊とでも名付けたかったが、メンバーの職業も考慮して、辺地教育調査隊と名付けることになった。できれば、チョゴルンマ氷河最奥の部落あたりを狙いたかったが、情勢悪化の報が次々と入り、場所は行ってからということになった。年末より始めていた準備のうちで、私たち調査隊が最も力を入れたのは、ウルドー語の勉強であった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です