無事帰国

盗難にあうなどの災難はあったものの、おかげさまで無事帰国しました。
去年の今頃は、松葉杖をついての帰国だったのですが・・・。

IMGP4100.jpg帰りのスキポール空港では、オランダではほんとに珍しい降雪に見舞われました。
空港についたころから振り出した雪は、見る見るうちに積もり、10センチとなりました。機体に載った雪の除去と、付着した氷を溶かすのに時間がかかり、出発は2時間遅れとなりました。
でも、機長が急いだので関空到着は1時間10分の遅れでした。

家に着いても、いつも大喜びだったビータスはなく、何とも悲しい気分になりました。

SPA(スパ)語源の町へ行く

ブリュッセルのホテルで、ガイドブックを見ていたら、SPAの項を見つけました。
そこにはこうありました。
<ドイツ国境に近いスパは温泉の町としても有名だ。英語や日本語にもなっている”スパ(温泉)”は、実はこの町の名が起源。ローマ時代から温泉地として知られ、16世紀以降は王侯・貴族・芸術家たちの集まる高級温泉保養地としてにぎわった>
ホテルも多数あり、F1グランプリレースも開かれるそうです。
よしここに行こう。そう決めてインターネットで2つ星ホテルのル・ルレを予約しました。自動車で約4時間の距離です。

IMGP4028.jpgシャモニーで泊まった宿のマダム・アンナの母親は、一人でベルギーに住んでいると聞いていました。
アンナは「ベルギーでディナンの近くに行ったら寄って行って。電話しておくから」といっていました。
スパーに行く途中にはディナンがあります。電話すると「どうぞ寄ってください」という話なので、寄り道することにしました。
おばあさんは、73歳なのですが、はるかに年上に見えました。家に寄ってお茶を頂き、村にある中世期のお城に案内してもらったのですが、シーズンオフで閉まっていました。
一人暮らしで寂しいおばあさんを慰問したような気分でした。田舎で一人で暮らすお袋のことを思い出してしまいました。

IMGP4052.jpg貧しそうな片田舎の街町を走り抜けて行くと突然整然とした町並みのスパの町に入りました。ウィーンやアムステルダムなどからそのまま移築したような家が並んでいます。ブティックやレストランが多くいかにもリゾートという感じの町です。

IMGP4056.jpg小山の上にケーブルで上がると、そこにはかなり大きなクアハウスがありました。少し意外だったのは、若者やハネムーンカップルが多く、年寄りが少ないことでした。

IMGP4055.jpg円形プールや各種のジャクジー、打たせ湯(きわめて強力なジェットで筋を違えそうになる)などを楽しみ、サウナに入って、檜のような強い芳香が漂う暗いリラクゼーションルームの安楽椅子に横たわると、安らかな眠りに誘われました。

IMGP4069.jpg余り気分がいいので、2泊の予定を3泊に延長することにしました。
明日は早めに起きてアムステルダムに戻らないといけません。夕方からのコンセルトヘボウのコンサートの予約を取っているからです。

ブリュッセルでの食事

Thalysで着いてホテルにチェックインすると、夜の9時を回りました。
大急ぎでタクシーでレストランに向かうことにしました。
その通りの名前が出てこなかったので、「シーフードのレストランへ連れて行って」と頼みました。
そこは、グランプラスのそばで、細い通りの両側にシーフード・レストランが軒をつらねています。まあ京都・錦通りのお店のすべてがシーフード・レストランと思ってください。
IMGP4001.jpgどん突きの角の地元の人にも人気のある老舗のレストラン「オー・ザルム・ド・ブリュッセル」に入りました。

IMGP4002.jpg定番のムール貝のワイン蒸しを注文。

IMGP4003.jpgそれと温野菜。
白ワインをお任せで頼んだら、三ツ矢サイダーみたいな、ただの瓶に入ったハウスワインがでてきました。これが実に美味しかった。アルザスのなんとかブランという品種で、樽で仕入れているのだそうです。

次の夜は、魚専門の高級レストランが集まっている、聖カトリーヌ教会界隈に出かけました。
ブリュッセルに来るのは、もう6回目くらいで色んなお店に行っているのですが、店の名前などは余りしっかり覚えておらず、入ってから気がつくことがおおい。
今回は、たぶんまだ行ったことがない老舗の「フランソア」に入ることにしました。

<魚屋さんと直結したレストラン。ブリュッセル魚料理の伝統と、祖先から正統的に受け継いだレストランを誇りにしている>と、ガイドブックの紹介があります。
年配のお客たちは、決まったようにオマール海老を食べています。オマール海老よりマツバガニや伊勢エビと思うぼくは、チェックをかねて舌平目のムニエルを頼みました。身の間にはやはりオマール海老の身が挿んであり、マッシュルームも炊き込まれていました。ソースの味はさすがでした。
食べ終わっての感想、まあ中京区のうなぎの「かねよ」みたいなもんかなあ。サービスが伝統的に素っ気なさ過ぎる。そのうちに落ち目になるぞ。

IMGP4014.jpgどこのレストランでもたばこはだめ。デザートを止めて、早々に店を出ました。
メトロポリタンホテルまで歩き、ここの屋外バーで、ビールを飲みながらシガーを楽しむことにしました。
ベルギーには、300種類のビールがあるといわれ、普通のビールより美味しく飲みやすい気がします。お昼時など老若男女誰でもビールを飲んでいます。
ビールを頼むと、黒いのか普通のかと聞き返されることがおおい。普通のというと、決まったようにLeffeという銘柄のビールが出てきます。

IMGP4017.jpg椅子は全席歩道に向いています。一番端の席に座って、隣りの椅子にバッグを置くと、斜め後ろの紳士が「コートで隠しなさい」と教えてくれました。ここもやはり危険なようです。
レギュラービールを頼みました。

IMGP4020.jpgボーイが「You enjoy?」とご機嫌伺いにやってきました。
「いやぁ、このビールは美味しいよ」
「そうでしょう」
「ところで、このグラスもなかなか素敵だね。どこで手に入る」

IMGP4018.jpgそれは、Leffeというマークの入ったきれいなビールグラスです。
しばらく考えた後、彼は身を屈め、小声で、
「Here(ここで)」
といい、それから、口に人差し指を当てました。そっと持って帰りなさい、内緒で、という意味です。ぼくも小声で、「メルシー、ボクゥー」
しばらくすると、彼が紙ナプキンをそっとテーブルに持ってきました。これで包めということです。

IMGP4021.jpgぼくは、どうやらボーイに好かれるらしい。ヴァルススキー場でも、レストランの高校生の年格好のボーイが、彼は全く英語が駄目だったのですが、色々話しかけ、最後に全員にジェネピーというフランスのリキュールを振る舞ってくれました。ぼく自身日本にいるよりも外国の方が遥かに快適という感じがしています。

シャモニーに行く

シャモニーに行く

IMGP3696.jpg1月25日、ぼくたちはシャモニに向かいました。
リモネットからクーネオを経て1時間走り、フォッサノから高速道路A6に乗ります。ここから運転は高速道路の運転に強い岡井に交代。
約4時間でモンブラントンネルを抜けてシャモニー着。
シャモニーの町を散策し、ついでに日本では入手困難なモンブランの男性化粧品を購入。

IMGP3739.jpg町を抜け半時間スイス方向に走って、目的地バロシン村の民宿ホテル、ラ・フォンテーヌに着きました。
週末にかかるということもあって、シャモニーのホテルはすべてフルブッキング。困り果てて一昨年泊まったペンシオーネのオーナーのミシェルに頼むと、ラ・フォンテーヌを紹介してくれた訳です。

IMGP3718.jpgここの夫婦は、ベルギー人で山が好きなのでここに移り住んだという話です。
主人は、ベルギーでコンピュータ関係の仕事をやっていましたが、 8年前ここに移り、旅行エージェントの仕事につきます。
ところが2000年問題の折に、運良くシャモニでコンピューターの仕事が見つかり、今もその仕事をつづけています。

IMGP3821.jpg一人息子のアレクサンドル・ニコラは6歳。彼は貰い児で生まれはウクライナです。
16ヶ月で貰われた彼は、記憶にないはずですが、それを知らされていて貰い児であることを知っているのだそうです。
とても活発で人懐っこい腕白坊主です。

着いたときには、泊まり客は我々4人だけでした。マダムのアンナは、「前日までベルギーに帰っていて留守だった。よかった」と気さくな笑顔をみせました。

IMGP3831.jpg翌日、フランスのリヨンからノエル夫妻がやってきました。40代のノエルは、ワクチンのセールスをしていて世界を飛び回っています。たいした日本通ですが、来たことはないそうです。

IMGP3824.jpg次の日は、マルセーユの近くの町から、麻酔医のジャンピエールと看護婦の奥さんがやってきました。この宿はこれで3回目だそうです。
ノエル夫妻はこの宿は初めてで、奥さんがインターネットで見つけたのだそうです。

IMGP3823.jpg日曜日にはみんな帰るので、土曜日の夜にパーティーをすることになりました。
ぼくたちが持って来た白トリフとアルバのワインを振る舞うことにしました。
彼らは、かなりのワイン通ですが、イタリアのワインは初めてです。トリフも味わうのは初めての経験で、パーティーは大いに盛り上がりました。
スキーも大いに楽しかったけれど、フランスの人たちとの交流も心に残りました。

Thalys車中より

2007年1月
Thalys車中より

これは、府大山岳会MLへの記事の転載です

皆さまお元気でしょうか?
今朝、リモーネのホテルを引き払って帰路に着いた岡井・関田より2時間遅れで、リモーネを出て車でニースへ向かいました。
ニース空港でお昼の食事をとっているときに、携帯で電話したら、彼らはモナコ観光中とのことでした。
汽車でニースに着いてホテルに入ってすぐに、また汽車でモナコ に向かったのでしょう。

IMGP3998.jpgぼくはいま、ブリュッセルに向かうTHALYSの車中です。
ニースから1時間45分ほどでアムステルダム空港に着きます。
アムステルダム空港から地階におりると、そこがTHALYS乗り場です。
THALYSというのは、ヨーロッパの新幹線で、この列車はパリ行きです。
全席指定のTHALYSは2時間ほどでベルギー・ブリュッセルに着きます。運賃は46.5ユーロ。1ユーロ160円計算で、7440円。日本の新幹線よりは安いようです。

IMGP3678.jpg今回のスキー行は、岡井の要請によるものなのですが、雪不足は極端で、困ったことだと思ったのですが、不運が幸いしたというべきか、結果として、フランスのスキー場を巡ることが出来ました。
まずは、リモーネから国境沿いに北上して車で2時間の距離にある、ヴァルススキー場。それから、3泊4日で遠出したシャモニーのラ・トゥールスキー場とグランモンテススキー場。

IMGP3887.jpgこのシャモニースキーからの帰路、スイスに回り、ラクレット(これは日本の椀子そばにあたるもので、もういいというまで、火でとろかしたチーズが供される)の昼食を楽しんでイタリアに戻りました。
すると、このスキー遠征の間に、イタリアのリモーネでも雪が降り、90%のコースが滑走可能となっており、思う存分最終日のスキ−を楽しむことが出来ました。
岡井たちは、2週間でイタリアとフランスの都合4つのスキー場を滑ることが出来た訳です。

岡井と関田が会うのは、関田が新人の時、岡井がサブリーダーでの時以来のことで、ほとんど50年ぶりなのです。
あの時は剣沢の定着の後、薬師越えで縦走し、祖父沢の出会いで解散したのですが、岡井は鬼軍曹の異名で新人に恐れられていました。
その時の感覚にタイムスリップしたのか、関田はまるで大学生に戻ったようにはしゃいでいるように見えました。

では近いうちに総会でお会いしましょう。
20:00 1/Feb/2007 Thalys車中にて
高田直樹

歯医者さんに行く

日本を出る2日前、突然前歯が折れました。
もともと上の前歯1本が抜け落ちたので、両側の歯を削って二本の棒状にし、この棒状になった歯に、両サイドに穴のあいた三枚の連結義歯を差し込むという治療が施されていました。このやり方をブリッジというのではないかと思うのですが。

ところが、お歳暮に貰った芋するめを噛み切ろうとしたとき、パキンという音ともに前歯三枚が欠け落ちました。
鏡を見て仰天。何とも好々爺の顔がそこにあったからです。

水野先生は、「明後日出発ですか。応急処置しか出来ませんが」
「一ヶ月ですか。両側の歯に接着剤で留めてあるだけですから、外れないとはいえません。お出かけはどこですか」
「イタリアなら歯科技術も進んでますから大丈夫でしょう」

日本を出て一週間目、クーネオのレストランでチーズの薄切りをあげたものをかじったとき、かすかにピシッという音がしました。大変だ。接着剤が外れたようです。
少しはぐらついたような感じなのですが、そのまま数日間が過ぎた頃、夕飯のルッコラのサラダをかんだ時、前歯が抜け落ちて舌の上に載りました。
あわてて洗面所に駆け込み、注意深く挿入すると、もう落ちずにそのまま止まっています。引っ張らなければ大丈夫のようなので、絶対に前歯には触らないように注意して食事を終えました。

翌日、クーネオの歯医者に出かけました。英語のしゃべれる歯医者を捜してもらったのです。午後3時の予約です。
町の大通りに面したアパートの入り口の案内板のCANTA CARLOのボタンを押すと、ブザー音と共に、ドアーのオートロックが解除されました。
薄暗い階段を上ると2階に達し、Dr. CANTO CARLOと書いた金色の金属板がかかった部屋のブザーをまた鳴らします。
若い女性がドアを開けてくれ、そこが広い待合室でした。中央にテーブルがあり、大きな椅子が6脚置いてありました。

しばらくすると、歯医者さんのDr. Canta Carlo氏と看護婦さんが現れました。
結構上手な英語だったので安心しました。最初に今の状況を説明したいので紙をくださいといって、前歯の治療の状況と水野歯科の応急処置及び今の様子を図に書きながら説明しました。
「日本の歯科医は、1ヶ月持つかどうか心配して、どこの国に行くのか聞きました。イタリアと知るとあの国の歯科は進んでいるから大丈夫といったんです」
ドクター・カンタは「そうですか。とにかく努力します」といいました。
治療は1時間で終わりました。

IMGP3539.jpg日本と違うところは、水野歯科ではお医者が何をやっているのかほとんど分からない。でもイタリアでは目の前で準備などするので、すべてが分かります。
一度横に倒れると最後まで起き上がることはありません。日本のように「はい、ゆすいでください」という台詞は全くありません。
医者が口中に細管から水を注ぎ、口中を洗いたまる水は、そばの看護婦さんが吸い出してくれます。
日本の水野先生は「カチカチして下さい」といいますが、カンタ先生は「tak tak please」といいました。
ドクターも看護婦さんも日本と同じようにゴム手袋をしていました。

IMGP3542.jpg日本での治療で、水野先生は何種類の接着剤を使ったのか、見えないから分からなかったのですが、たぶん1種類、もしかしたら2種類ぐらいだと思いました。
ところが、こちらでは、まずセメントを使い、次に4種類の接着剤を使用しました。
最後のものは、光硬化樹脂で、看護婦さんが当てるグリーン色の細い光の下で、チューブより押し出された接着剤が塗られました。
どうもこちらの治療の方が丁寧で密度が高いと感じました。なにしろ常に2人掛かり時には3人で処置するのですから。

IMGP3925.jpgたぶん日本に帰るまでは大丈夫でしょう。でも前歯で噛んで前に引っ張ってはいけません。横に引いてください。カンタさんはそういいました。
日本に帰った時にぼくの歯医者さんに報告したいので、治療の内容を書いてくれませんかと、頼んでみました。
いいですよ。彼は軽く引き受け、看護婦さんに、君の方が英語がうまいから書いて頂戴などといいながら、口述筆記をさせました。
Dear friendで始まる手紙です。看護婦さんが、「最後はどう書くの、ウイズラブって書くの」などと冗談を言いながら、手紙を書き終えると、ドクターはそれを封筒にいれ、手渡してくれました。

IMGP3540.jpgそれで「診察料はおいくらでしょうか」と値段を聞きました。
「お代はいりません」というのです。
驚いたぼくは「どうして」とききました。
「あなたは遠い日本からのお客様です。治療代は私からのプレゼントです」
「グラーツェ、グラーツェ、モルトグラーツェ」でした。
一緒に記念写真を撮りました。

トリュフご飯を食す

IMGP3508.jpg写真はアルバのレストランで食べた白トリフの載ったタヤリン。
タヤリンというのは、卵の黄身のはいった黄色で細身のパスタで、トリュフにはよくあいます。
この白トリフのトッピング料は20ユーロ。日本円で3200円。やはり高い。

Notaryのアルド氏に会った時、トリフの異常安値の話を聞きました。
ピエモンテ州は白トリフの産地です。
フランスでは、黒トリフしか取れず、黒は白の3分の一の価値しかない。香りが命のトリフは、匂いが弱いと値も安いのです。
今年はかつてなかった異常気象で、山に雪がありません。だからこの冬の時期でもトリフ犬(フランスでは豚)がトリフを嗅ぎ当てられる訳です。
トリフは、普通の大きさでは、大体梅干しくらいの大きさと思ってください。
普通の大きさで、1〜2万円。えらい高いと思いましたが、日本の松茸や鮒寿司だって高い。
岡井・関田とラ・モッラへご飯食べに行く予定で、レストランの宿も予約済みだったので、近くのアルバでトリフを買って帰ろうと思っていました。
家に電話した時、秀子が「そんならトリフご飯を食べたら」といい、「???」
日本のテレビでそういう番組があったそうです。
「だしで炊いた味付けご飯にトリフを振りかけるだけでいいの」
こちらでは、ふつうはタヤリンと称する卵入りで黄みがかった色の麺にバターを絡めたものに専用のスライサーでスライスした薄片をふりかけるのが一般的な賞味法で、ご飯にかけて悪い訳はありません。

美味しかった。
トリフご飯を食べた日本人は極めて少ないのではないかと思いながら、私たちはこの珍味を味わいました。
関田は、値段だけの味とは思えんと、例によってぶつぶつ言っていました。

ニースで盗難に遭う

1月19日昼前、ぼくたちはニースの町中を、車を走らせていました。
昨夜ニースに着き、ホテルアイビスでぼくの迎えを待っている、岡井と関田をピックアップするためです。
朝の9時にピエモンテを発ち、国境の峠を越えて峡谷を下り、リグリア海岸沿いの高速を走って、ニースに達したところでした。
信号待ちをしていた時、突然後ろのドアが開き、後部座席の手提げ鞄とカメラを引き出されました。車を飛び出した時、その少年は後ろに向かって走っており、待機したスクーターの後ろに飛び乗るとあっという間に横町に消え去りました。
全く一瞬の出来事でした。
車の中からものがかっさらわれるというのは、全く想定外の出来事で茫然自失とはあの事でしょう。生まれて初めての経験でした。

とにかく通行人に尋ね、近くの派出所に行きました。
ここでは、全く処理が出来ない。ニースの中央署に行きなさい。そういう不親切な一点張りの対応でした。
地図を書いてくれた訳ではなし、車ですんなり行き着けるとも思えなかったので、ニース駅前に駐車して、タクシーで中央署に向かいました。
この車中で、日本に電話し、家内にクレジットカードのストップ手続きを頼みました。
家内は、突然の電話で自動車で事故ったのかと思ったそうです。
このときに、パスポート番号と発行日を聞きました。こうしたデータはすべて盗まれた鞄の中のパームに入っており、何も調べられない状況です。

中央署の受付に座った2人の女性警官は、英語が話せるようで、自分では話せると思っているのでしょうが、実はほとんど会話が成立しません。
とにかくそばに設置されている、端末機のディスプレイで、被害の報告をします。タッチパネルを押して行くだけで、氏名、年齢、現住所や被害品目などが入力できるようになっています。
このあまり出来のよくないソフトに難渋しながら、ようやく入力を終えると、プリントアウトされ、ポリスがサインして、被害届の出来上がりです。

日本の在外公館の場所を聞きました。パスポートに関しては警察はなんの権限もありません。領事館はマルセイユにあるそうです。住所と電話番号を聞き、電話しましたが、つながりません。この国は、12〜2時は休みなのです。
ホテルアイビスに着いて、岡井・関田に再会。二人とも元気そうです。
「災難やったな」と岡井。
彼は連絡を受けてすぐに領事館の所在地を調べてくれたそうです。
「すぐに行った方がええで」
ぼくたちは、すぐさま200km離れたマルセイユに向かって高速にのりました。

100キロほど走った時、「領事館に連絡を取った方がいい」と岡井がいい、パーキングエリアから電話しました。
岡井は日本からレンタルの携帯を持って来ています。この電話、日本経由で接続するので、レンタル料が1日100円で安いとはいえ、通話料はえらく高いものになります。
領事館は5時半まで開いているそうです。この時、氏名とパスポートナンバーを伝えました。高速をおりてからの経路を詳しく聞きました。
このひどく長い通話の途中で、電話の向こうのヤマダ担当官は、こちらが日本の携帯でかけていることを知ると、番号を聞き「こちらからかけ直しますから、いったん電話を切ってください」と云ったのです。
いやぁ、驚きました。日本の在外公館の対応とは思えませんでした。

マルセイユには4時前に着きました。道路指示が的確だったので、A8からA52へ、さらにA50へと入り、間違いなくハンブルグ道路へと達した時、電話が鳴りました。ヤマダ担当官が心配して電話したくれたのです。
ダビデ像を回って、領事館はすぐでした。
そこには、日本国旗もなくビルの二階の小さなオフィスに過ぎません。
「なんちゅうこっちゃ」「これが日本国の領事館か」
関田と岡井は憤慨する事しきりでした。

古いパスポート番号を廃棄しますからと、紛失届にサインし、さらに何枚もの書類のサインを要請されました。
「パスポートは5年にしますか10年にしますか」
10年ですと答えながら、なんでそんな事を聞くのかと思いました。仮のパスポートなら5年も10年もない。
云われた通り近くのスーパー、カールフールに出かけ、写真を撮りました。さらに何枚もの書類にサイン。しばらく待って5時過ぎに、出来ましたと手渡されたのは、エンジ色のあのパスポートでした。
本物そっくりではないか。よくできてるなぁ。
またまた大びっくり。本物のパスポートでした。ICチップ入りという最新のパスポート。日本でもこんなに早くは出来ません。
ヤマダさんは、「こんなことは普通はできませんので、これが通常だとは思わないでください」と云いました。

すぐそばのカールフールで、車エビ、貝柱、ムール貝や白ワインなどを買い込み、高速に乗ったのは、もう7時前でした。
ともさんが、「それにしてもセンセの本人確認はどうしたんでしょうね」と疑問を発しました。考えてみれば、パスポートがないぼくが高田直樹だという証拠はどこにもないのです。
きっと外務省がぼくの顔写真のデータを持っていたのだろう、ということで全員納得したのでした。しかしやはりどうも合点がいきません。ぼくの中では謎としてとどまりました。

マニュアルシフトの車に乗るのは40年ぶりという岡井の運転で、250キロ先のベンチミーリアまで走りました。ここで高速を降り、ここからの渓谷の割れ谷沿いのワインディングロードは頻繁なギアチェンジが必要となるので、運転はともさんに変わります。
A50での事故による大渋滞があり、そのためホテル・エクセルシオールに着いたのは深夜でした。
みんなのおかげで、信じられないほど素早くパスポートが再発行され、無事にホテルに帰り着けた。古希のお祝いに子供たちから贈られた、あの素敵なオレンジ色革のバッグがなくなったのは、ショックだったけど、それはそれ。
買って来たシャンパンで祝杯をあげました。

後悔は先に立たず。
さっきインターネットを見ていたら、オットトという記載を見つけました。< インターネットの記事
これを先に見ていたら、災難は回避できたはず。
まさに、後悔は先に立たず。
あのかっさらわれた瞬間の情景が脳裏にカットバックされると、頭がカァーッとして来ます。
マルセイユ領事館の話では、ニースとマルセイユを股にかけた窃盗団が暗躍中で、ニースの取り締まりが強くなるとマルセイユへ、ここで追われるとニースへと活動の場を移すのだそうです。

クーネオのレストラン(2)

DSC00433.jpg2本目のワインには、バルバレスコが選ばれた。
運ばれたネッビオーロををテイストしたアルド氏は、少し首を傾げ、ウェイターに、 「ちょっと飲んでご覧、少し軽すぎないか」
そこで、取り替えられたのがこれである。
ワインは、だんだん重くなる様に選ばねばならない。これが彼の持説である。
このワイン、味もさることながら、強い芳香が印象的だった。

DSC00426.jpgメインディッシュのお肉。びっくりするような味では決してない。

DSC00428.jpgデザートチーズのワゴンが運ばれた頃、シェフのマーク・ランテーリさんがあいさつに来た。ぼくがイタリア語の辞書で単語を引きながら、「このガイド本には君のことをdiligente(努力家)と紹介してあるよ」というとうれしそうにニコニコしました。

DSC00429.jpgコーヒを頼んだら、どの銘柄にしますか?
メニューには10種類ほどが載っている。エスプレッソで豆を選ぶというのは初めてだった。 ブルマンを頼んだ。
この写真、飲み終わったときのものではありません。まだ口をつけていないんですよ。

DSC00431.jpgアルド氏が、ぼくはラムを飲むが君は何がいい?
コニャックを頼んだら、クルバジェともう一つ聞いた事もない銘柄があったのでそっちを頼んだ。
このブランデーグラス、初めて見る形で大変美しい。でも持ちにくいこと、飲みにくいことこの上なし。使い勝手よりデザインを重視するところはいかにもイタリア。

時計を見ると11時半。お客はもう誰もいなかった。
「我々は最後の客だね」
「そうですね。いつもそうなりますね」とぼくは答えた。
アルド氏は、駐車してあるところまで見送ってくれ、「気をつけて、事故が起こればぼくに責任があるから」
「おやすみなさい」と握手して別れた。

ところで、値段はいくらだったんだろう。ぼくはいつもゴチになってばかりで分からないのですが、関田たちが来たら一緒に行く予定なので、そこで判明するでしょう。

クーネオのレストラン(1)

 ピエモンテで旧知のCuneoのノータリー(公証人)、サロルド・アルド氏の招待でクーネオのレストランのディナーを頂いてきた。
 デッレ・アンティーケ・コントラーデ(Delle Antiche Contorade)と云う舌をかみそうな名前のレストランがあって、クーネオでは最高のレストランということになっている。
 アルド氏のひいきのお店で、彼はいつもここでご馳走してくれることになっています。

DSC00418.jpgプレゼントに差し上げた日本の陶器をオーナーに見せるアルド氏。アンティークですというと、オーナーは包んであった新聞を指して「この新聞もかい」と冗談を言った。

DSC00419.jpgイタリアのシャンパン、イタリアではシャンバンと云わずにスプマンテと称する。フランス・シャンバーニュのシャンパンにひけは取らない。

DSC00427.jpgここのオーナーは、英語が堪能で、髭を生やした豪放磊落な人柄で、ぼくは大好きなのです。
 ところで、昨年に日本で出版された「麗しのピエモンテ〜北イタリア未知なる王国へ〜」という本があります。
この本のクーネオの項に、このレストランが載りました。
数枚のグラビア写真とともに、次のように紹介してあります。 曰く、
—2005年版のミシュランで星を穫り、勢いに乗る話題のリストランテ。伝統とヌオーヴァ(新しさ)、イタリアとフランスが美しく混ざり合った皿は、瞬く間に舌の肥えたクネーゼたちをとりこにしてしまった。洗練された味わい、瀟洒な設えが大人の品格を教えてくれよう— (ところで上記の訳の、美しく混ざり合った<皿>というのは、明らかに<料理>の誤訳でしょう)
 と、ちょっと大げさとも云える紹介文があります。
もしかしてこの日本文は読めてないだろう。翻訳してあげたらきっと喜ぶだろうという、ともの提案で、この日本文を英訳して持参することにしました。
ぼくが苦労して作文した英訳文を見て、彼は「大丈夫、大丈夫。ぼくは日本語が読めるから」とまた冗談を言いました。

DSC00421.jpg一皿目のつまみの後、二皿目のカルネ・クルード(生肉)、ミンチしてある。
ウェイターが、ヒマラヤ産ですと岩塩をふりかけてくれた。肉とは思えぬあっさりとしたフレッシュな味。

DSC00434.jpgカルネクルードを食べ終わる頃から、ワインは、バルベラ・ダルバとなる。ピエモンテ産の赤。

DSC00422.jpgフォアグラの載ったリゾット。このフォアグラは、練り物ではなくレバーそのもの。逸品であった。

DSC00425.jpg同行者のともさんとアルド氏。スプマンテを美味しい美味しいと言っていたためか、彼女は別れ際にこのシャルドネ・スプマンテをプレゼントされた。