10月5日
イスラマバッドのいつものホテル、マリオットホテルに落ち着きました。
3年前は正面入り口の向こうの屋根の上に機関銃を構えた兵士が常駐していましたが、今回はそんな気配はありません。
一夜明けて、スルタンとアマンに連絡を取りました。
スルタンというのは、あのナジール・サビールエキスペディションという変わった名前のエージェントの筆頭職員です。
エージェントのオーナーのナジール・サビールは、パキスタンの世界的登山家で、パキスタンにある8千メートル峰5座のうち4座を登頂しており、パキスタンで唯一人のエベレスト登頂者でもあります。
彼は、むかし日本の私の会社にコンピュータの特訓を受けにやってきて、40日間ほど滞在したことがありました。帰国して、すぐパキスタン北西辺境省選出の国会議員になります。
エベレスト登頂後、国会議員を辞め、現在はパキスタン山岳会の会長をしています。
アマンというのは古い付き合いのラワルピンディーの絨毯商、シャフィカーンの息子です。イギリスのカレッジを出て、昨年アメリカ生まれのパキスタン女性と結婚しています。
シャフィカーンは、昨年脳溢血で急死して息子のアマンが跡を継いでいます。
アマンが生まれた時、彼の祖父が孫の名前をつけた今のアマンカンパニーを立ち上げたのですが、父親のシャフィカーンがなくなり、アマンカンパニーは名実共にアマンのものとなった訳です。
こうした息の長さというか気の長さが、パキスタンの特徴といえそうです。
この首都イスラマバッドにしても、カラチからの遷都計画は15年計画で始まったのですが、実際はその倍近くかかったのかもしれません。
アマンは、ぼくの突然の来パに驚きつつおおいに喜び、すぐにホテルに駆けつけてきました。
彼のメルセデスの新車で、ナジールのオフィスに向かいました。
イスラマバッドの巨大な方眼の道を走りながら、その1ブロックを占める建設が始まったばかりの建物を指差して、アマンはあれが今評判の大ホテルなんだと説明しました。ビッグホテル、ビックアパートメント、ビッグショッピングモール...といくつもビッグのつく単語を並べ立てました。
どこの資本?パキスタンかい。じゃぁアメリカ?
ちがうよ。ドバイだよ。
ドバイか。その時ぼくの頭が急に目覚めたように回転し始めました。
ドバイに行こう。
ドバイは、2・3年前から大いに気になっていたところです。
ドバイを意識し始めたのが、カラチのパルベイツがドバイに新店舗を2つ同時に立ち上げたときだとしたら、もう10年近く前になります。
最近では、テレビなどでも自由港や観光地として報道され始めています。
ぼくが興味を持ったのは、楓の葉っぱ状に海岸線を長くした人口島ではなく、世界最大といわれる人口スキー場です。
まだ完成していないかもしれないけれど、それを見てみたいと思っていたのです。
ナジール事務所に着いて直ぐ、スルタンにドバイ往復の値段を調べてもらいます。高ければ止めようと思っていました。
料金は6万円ほど。イスラマ→ドバイ→カラチの経路です。この場合、すでに買ってあるイスラマーカラチのチケットは不要になります。
アマンが横から、カラチに戻ってからドバイ往復した方が安いはずだといい、そのほうが1万円ほど安くなることが分かりました。
スルタンの航空会社との電話のやり取りを聞いていたアマンが、
「ぼくのコネクションでアレンジしそのあとにあなたに御願いしますよ」
と、割って入ったアマンがスルタンにもちかけ、話をつけました。
ドバイの入国ビザが問題になった時、95%ドバイ空港でもらえると断言したのはアマンでした。
まずチケットを手配しましょう。車を走らせながら、アマンはひっきりなしに電話しています。エアーブルーという昨年にできた航空会社がおすすめだそうです。
彼が、すごいディスカウントチケットがあるよといいました。60%オフ。
ただこれは、2日間とか3日間とかで日にちと日程が固定されているそうです。
でも、カラチからバンコックへは、オープンチケットなので、問題なし。
電話で話しながら、ちょっとパスポートを見せて、とアマン。
その時、ぼくも気付きました。日本で取ってきたパキスタンのビザは、シングルエントリービザ、つまり一回きりの入出国用のものなのです。
そうか、駄目か。と、一瞬思い、まあ今回は諦めるか。いやいや、戻ってきたカラチで、入国せずにトランジットでバンコックに飛べばいい。
アマンは、運転しながらあちこちに電話して情報を集めています。
まあ、むかしからぼくの信じることわざに<パキスタンには、不可能の文字はない>
というのがあったなあ、などと考えていました。
「ミスター・タカダ、大丈夫です」
最近、新しいパスポートプログラムが施行され、これは日本人用の特例処置のようですが、とにかくビザがなくとも、パキスタンのしかるべきところからのインビテーションレターがあれば、入国が許可されるという事なのです。友達のエージェントがすぐに作ってくれるそうです。
そのエージェントに行き、招待状用にパスポートのコピーをとり、次にエアーブルーに向かいました。2人の女性職員と男性が一人だけのきわめてこじんまりとしたきれいなオフィスです。
アマンは、電話で自分の店の店員を呼び寄せると、彼に私たちのカラチ行きのオープンチケットを渡し、フライトの予約に向かわせました。
こうしてぼくたちが、壁際の椅子に1時間足らず座っているうちに、ドバイ往復と帰路のバンコックまでの全行程のセットがすべて完了したのです。
ドバイ往復の料金は、なんと2名で5万円少々の安さとなりました。
アマンの働きは、全く目を見張るばかりでした。
シャフィカーンは生前、アマンは俺が稼いだ金をみんな外国旅行に使ってしまう、といつもぼくにこぼし、ぼくは決まったように、
「シャフィカーン。それは浪費ではないよ。投資と思うべきだ」
と、いっていたものでした。
彼の動きは、親父を遥かに越えたもので、彼も墓の下で喜んでいるだろうと思えたのです。
ホテルに戻る車のハンドルを握りながら、アマンは、
「あのエアーブルーの女性は、実はむかしのぼくの恋人なのです」といいました。
「今は結婚して子供もいる。でも友人です」
「そういうのを、本当の友人(リアルフレンド)というべきで、リアル・フレンドシップ(真の友情)があるんだよ」とぼくは答えました。
そして「ぼくには、そういう友人が何人もいるよ」 と付け加えると、アマンは
「後ろで奥さんが聞いているよ」といいました。