番外2「パベルとカントリーハウスへ」

 明日はカントリーハウスへ出かけようという日の夕刻、パベルはぼくをある銃器屋さんへ連れて行きました。そこは裏町の工場街の一角で、店に入ると壁沿いに各種の鉄砲がずらりと並んでいました。チェコの鉄砲やナイフは世界一なのだそうです。
 パベルは空気銃を買うつもりです。子供の頃、カントリーハウスで空気銃を撃って遊んだ思い出があるんだなと思いました。ぼくにも空気銃で雀撃ちをした記憶がありました。よし、二人で射撃大会をしよう。ぼく達は盛り上がっていました。

 パベルのカントリーハウスが、どこにあったのかは憶えていません。この頃の記録がどこかに消えてしまって見当たらないのです。プラハから高速道路を2・3時間走って小さな町に着き、その町外れにカントリーハウスはありました。
 そこは、どちらを向いても畑が地平線までつながっている場所で、家はほとんど見当たりませんでした。低い生け垣に囲まれたカントリーハウスには、大きな芝生の庭がありました。
 一隅にある物置小屋から板切れを取り出すと、ぼくは空気銃の的を作りました。射撃の腕前は、圧倒的にぼくが上で、負けず嫌いのパベルはすぐにこのコンペを止めてしまいました。

「パべール」と許嫁のポーリンが叫んでいます。お茶を飲むポットやカップ、ナイフやフォークはあるけれど、鍋類が一切無いのだそうです。
 この共産党に接収されていたカントリーハウスは、ベルリンの壁崩壊、ソ連邦崩壊の後、パベルの父親パボルの交渉の結果、ようやく戻ってきたばかりで、まったく整備されていない状態だったのです。
 鍋が無くても、パンを買ってきているから大丈夫。でも、肉はどうしよう。ステーキを焼くつもりで大きなブロックを買ってきたのに。パベルは困っていました。

 ローストビーフを焼けばいい。パベルに町まで連れてってと頼むと、ぼくはそこの荒物屋で、ノコギリと手斧を買いました。町からカントリーハウスに戻る途中、ぼくは目を凝らしてきょろきょろと四方を見回し、森を探しました。四方八方見渡す限り、森、林の類はまったく見当たらないのです。
 ようやく点のように見える林、木々の集落を見つけ、進路をそっちにとりました。そこは植林された林のようで、なかに入っても必要な枝を探し出すのには苦労しました。
 ローストビーフには、Y字型の木の枝2本と、長めでまっすぐな串用の枝1本が必要です。火の両側にこのY字型の枝を立て、これに渡した串に刺した肉を回転させながらゆっくりと火を通すのです。
 薪によるローストビーフは、ぼくの特技で、たき火の火力の微妙な調節が自在にできる必要があり、誰にも出来るというものではありません。

 ピンク色に焼き上がったローストビーフで、お腹がいっぱいになった頃、パベルはこれから昔なじみの農家のおじさん・おばさんに会いに行くといいました。彼が子供の頃、可愛がってくれた夫婦なのだそうです。
 隣といっても、2キロ近くも離れているのです。畑を貫く夜の地道を延々と歩くと、灯火が見えてきました。
 ちょうどロシア民話の絵本に出てくるような感じのおじいさんとおばあさんは、テレビに見入っていました。パベルは感激の再会です。
 作ったばかりなのよ、食べなさい食べなさいと、クッキーを山盛りの皿で勧めてくれましたが、すっかり満腹のぼく達は、そんなに食べられません。帰りにはもっとたくさんを新聞紙に包んでくれました。まるで昔ぼくを育ててくれたおばあちゃんみたいでした。

 パベルとおじいさんは、テレビの話題で話し込んでいますが、チェコ語なのでなんの話か分かりません。後で聞くと、チェコとスロバキアの分離の話題でした。
 チェコスロバキアは、元々二つの国が合体しているのです。チェコは工業国、スロバキアは農業国と、まったく性格が異なります。
 生産性の高いチェコに取ってスロバキアはお荷物、スロバキアにもチェコの言いなりになれるかという自負があって、以前から分離の話はあったのだそうです。ソ連邦崩壊後の情勢の中、急にこの話が再燃したようです。
 実際この後すぐに、この二国は分離しました。(分離後すぐに、家内とスロバキアを訪れ、自然が豊かで物価も大変安かったので、その翌年の夏スロバキアのハイ・タトラ山脈山麓のリゾートホテルで、2週間ほど滞在したことがあります)

 もう夜中の12時でした。再びくらい夜道をたどり、カントリーハウスに近づくと、こうこうと明るい電気に照らされた門が見えました。パベルのカントリーハウスに接した隣家です。家中の電気がついていました。門の前には数人が立っておりました。どうやらぼく達を待ち構えていたようです。
 「どうぞどうぞ、中へ中へ」と否応無く招じ入れられたのです。部屋には8人ほどが集っていました。
 この家の主人は、共産党の仕事をしていたひとで、自分たちとはほとんど付き合いはなかったのだと、パベルは小声で告げました。
 我が家でとっておきの最高のものですというワインで、全員が乾杯しました。
 そのうちに、誰かが「私たちは、日本語を聞いたことがありません。何か日本語をしゃべってくれませんか」といいました。
 しゃべってくれといわれても、相手もいないのにしゃべれません。ちょうどポケットに入っていたチェコガイドの日本語のチラシを読むことにしました。
 全員が、しんとして聞き入っています。
 読み終わって、しばらく沈黙が続いた後、主人はさも感に堪えないという感じで、吐息をつくように、「なんというやさしく(gentle)て、優雅な(elegant)響きなんだ。美しい」といい、全員が頷いたのでした。
 この出来事はぼくにとって忘れられない記憶となって残ったのです。

番外1「プラハの夏」

 いま、高田直樹著作纂の年表で調べてみると、ぼくがプラハに行ったのは54歳で教師を辞めた翌年、1992年の夏のことでした。
 それにしても、この頃、ものすごい勢いで外国に行っているし、国内でも矢継ぎ早に出歩いている。列挙してみましょうか。こんな具合です。
 1991年6・7月、退職して直ぐのスイスクラン・モンタナ滞在。7・8月、ボストンよりサンフランシスコ近郊ロス・ガトス滞在。9月帰国して、来日したパベルと若狭へバイクツーリング。12月より翌年1月、パキスタン旅行、ラワルピンディ、ペシャワール、クウェッタ、カラチを歴訪。
 1992年3月、サンフランシスコのウィンドウズ・エキスポへ。6月、ロンドンでの<Europe OOP Conference>へ。終了後、オランダに渡り、車でプラハへ。
 8月、帰国して直ぐ、野尻、佐々木と共に槍〜劔の縦走。そして、下山するや直ぐ、妻秀子を連れて、一週間のタイ・チェンマイ行。
 9月、受験勉強の次女を除いた、妻、長女、長男の高田家4人で、パキスタンへ向かい、念願のミナピン村再訪を果たす。ディラン峰遠征より27年ぶりのことでした。
 12月、教え子や、祇園の舞妓の美年子など12人を連れてパキスタンツアー。そして、翌1993年1月より、この「異国4景」を執筆することになります。さて、本題の番外編です。

 「べルリンの壁」崩壊からの2年少し、プラハの町は、何か活気にあふれているようでした。それにしても、それは、今から15年前のこと。デジカメもインターネットもない時代です。記憶はもどかしく霞がかかっている感じです。
 さて、プラハ近郊の団地の8階のアパートの一室で起きだしたぼくは、冷水のシャワーを使います。市の職員が夏休みのバカンスを取り、そのため給湯がストップしているのだそうです。震え上がるくらいの冷たい水です。息を止めて一気に水をかぶります。

 パベルは、ぼくを車に乗せ直ぐ近くのパブのような食堂に連れて行きました。ここの自慢料理は、ウサギのシチュウです。肉切れから散弾が2個出てきました。直ぐそばの草原や林には、野うさぎがいっぱいいるのだそうです。
 午後はショッピング。なんでもびっくりするほど安い。チェコグラスを大量に買いあさってしまいました。
 これは、あとでプラハ空港でのチェックインの際、重量オーバーの追加料金を請求されることになります。パベルとポーリンは、二人ともKLMの職員ですから、なんとかフリーで通そうと色々方策を尽くしてがんばってくれましたが、駄目でした。オランダと旧ソ連を脱したばかりのエアロフロートでは、どうにも勝手が違うようでした。

 プラハは、モーツアルトが大好きだった町です。彼が、この何度も訪れたプラハでいつも滞在したのは友人の別荘で、ベルトラムカ荘と呼ばれる館でした。
 交響曲第38番は通称「プラハ」と呼ばれていますが、これは彼がここで作曲した訳ではないようです。どうして、そう呼ばれるようになったかは、分かりません。ここで作曲されたのは、「ドン・ジョバンニ」でした。
 このベルトラムカ荘に行きました。午後には、中庭の芝生の上での弦楽合奏のコンサートがあり、シャンパンが振る舞われます。純白のガーデンチェアに座り、シャンパンを含みながら聞く弦楽四重奏は空中に漂い、そして青く澄み切ったプラハの空に消えて行きました。

 ちょうど、世界各国で演じられている『レ・ミゼラブル』を国立オペラ座でやっていて、パベルとポーリンは行く予定なので一緒しようと誘われました。切符は、と聞くと、パベルは「大丈夫。任せとけ」といいました。
 当日、劇場の前まで行くと、パベルはぼくを石の円柱の陰に隠し、劇場前に立っている数人の男と交渉を始めています。
 開演ギリギリになって、ようやく切符が手に入りました。なんと半値近い値段です。パベルは、そのダフ屋を値切り倒したようでした。
 実はぼくは、この「レ・ミゼラブル」ロンドンでも見たことがありました。だから今回はチェコ語の「レ・ミゼラブル」という訳でした。そばのポーリンが、あらすじを説明してくれようとするので、ぼくは「ありがとう。知ってるよ」と答えました。
 「えーっ、どうして知ってるの」とポーリンは驚いています。
 日本人は、大体こうした文芸作品や音楽に対しての知識は、世界でも抜きん出ているのではないかと、ぼくは思っています。
 ロス・ガトスのラリーの家にいた頃、彼がメキシコレストランに僕を連れて行きました。バンドグループがテーブルにやってきたので、ぼくは「ベサメムーチョ」とリクエストしました。
 演奏が始まると、店の客全員が大合唱を始め、ラリーは驚いて「どうして知っているんだ」と聞いたものです。だって、有名な曲だもんという答えに、彼はぽかんとしていました。