パキスタンへ向かう初めての経路、インド経由というルートを取るにあたっては、何となく不安がありました。
ご存知のように、印パは基本的に仲が悪い。宗教的に違うといっても、その原因を作ったのは、イギリスです。現在の世界の争乱の原点とも言えるイスラエル問題を考えればいいでしょう。英国という国は、世界の紛争のことごとくを作り出したとんでもない国というのがぼくの昔からの認識なのですが。
それも自分は表に出ないで、うまい具合に裏に回ってどこかの国にやらせるところが狡猾でもっと悪いし腹が立つ。20世紀に入ってからは、主にアメリカを操っている。
さて、第二次大戦が終わり、インド亜大陸はイギリス植民地を脱して、独立したのですが、その時にインドとパキスタンに別れました。ムスリムとヒンズーの人々は混ざってすんでいた故郷の地を捨てて、極めて短期間のうちに定められた地域に移動しなければなりませんでした。
大混乱の中、ヒンズー教徒とムスリムは互いに血で血を洗うような暴虐の限りを尽くしながら移動して行ったのです。これが世に言うパーティション(分離)です。
パキスタンはインドを挿んで東と西という、およそ地政学的に信じられないような配置となりました。
こんなことが続くはずもなく、東パキスタンはインドの画策で独立運動が起こり、バングラデシュとして独立国となりました。同時に西パキスタンと言う名前もなくなりました。ぼくの「西パキスタンの旅」は、だからその少し前の旅行記なのです。
インドとパキスタンは、何度も戦争を繰り返しています。
話が脱線しましたが、もう少し続けます。
現在アメリカに取って頭が痛いことの一つは、パキスタンが核を持っていることです。印パともに核保有国です。
インドは以前からずっと、大国だけが核を持ちながら、核開発を他の国に認めないのは、理屈に合わないと至極理の当然の主張を繰り返していました。
世界には、自分の国が地球の中心にあると信じる国が二つあります。中国とインド。中国の中華思想というやつで、これはどうも手前勝手の論理を立てすぎる。大体漢民族とはそうしたものだと思うのですが。
一方インドの中華思想は、もっとグローバルで、論理的で、公正です。その一つの例を、極東軍事裁判のパール判事の主張に見ることができるでしょう。だから、インドが核実験を行ったのは、至極当然に思えます。
インドが核実験に成功するや、間髪を入れずにパキスタンも核実験を試み成功しました。大変皮肉なことに、それまで何度となく戦争を繰り返していた両国は、ともに核保有国となってから、急に接近し友好ムードが高まったようでした。
話を冒頭に戻して、インド経由でパキスタンに入るというのは、余り普通じゃない。それにぼくには、インド空港の様子などはまったく分かっていないし、空気が読めないのではないか。そう言う危惧を抱いていました。
そうした心配は、チェックインで、ライターがチェックにかかった後におこりました。葉巻用のトーチライターが見つかり、これを没収するというのです。
「俺は世界中の空港に行ったけれど、そんなことを言われたのは初めてだ」とがんばりました。でも、規則で駄目の一点張り。
そうか。そしたら小箱に詰めて荷物として載せてくれ。
そばの係官が、ヒンディー語で「きっと高いもんなんだよ」と言っているのを聞いて、「いやいや、高くはないけど、俺はこれが気に入っているから捨てられない」と言いました。そして、何日か後にここに戻ってくるから、その時まで保管しておいてくれないか、と頼みました。
すると、「分かった、それではそのライターのガスを抜いてくれ。そしたら持ち込んでもいいから」
かくして、ライターの持ち込みは許されたという訳です。
その時になって気付いたのですが、そばに3つの巨大な貯金箱状の透明で円筒形の函があって、中にはライターやはさみがぎっしりと詰まっているのが見えました。
やれやれと搭乗口に向かって歩いて行くと、向こうから2人のオフィサーがやってきて、ぼくの名前を手に持った紙切れを見ながら確認しました。税関まで戻ってくれというのです。どうして。理由を言ってくれという質問には答えず、とにかく戻せという指示が来ているというのです。
「奥さんはここで待っていてください」と通路脇の椅子を示すと、彼らはさあどうぞとぼくを促しました。
まず案内されたのは、荷物がデポされている荷物室。自分のスーツケースを示すと、彼らはそれを引っ張って税関事務所に向かいました。税関オフィスの中から偉そうな係官が出てきて、質問を浴びせかけました。
インドには何日滞在した。一晩だけ。
なにを買った。なんにも。
お金、ドルはいくら持っている。ぼくは持ってない。家内はいくらか持ってるが、いくらかは聞かないと。100ドルくらいかな。
このスーツケースにはなにが入っている。ぼくとワイフの着替えと下着・・・。そんなもんかな。
インドにはなにしにきたんだ。
ああそうか、一泊だけしてカラチに飛ぶというのは普通じゃないからかとぼくは気付き、こう説明しました。
娘がJALで働いているので、JALで飛ぼうと思ったけれどカラチには飛んでない。デリーには飛んでるからデリー経由にしたんだよ。
あなたは日本でどんな仕事をしてるんですか。ぼくは少し考えてから、「プロフェッサー」と答えました。彼は一瞬あごを引いた感じで、ぼくの顔を眺めていましたが、「それはそれは、なにを教えているんですか」
ぼくがさてなんと答えてやろうかなと考えていると、「Which proper subject do you teach?」
ぼくは、「コンピューター」と答え、彼はさらにあごを引いた感じで、「いいです。結構です」といいながら、手を脇に振りもう行っていいというジェスチャーをしました。僕を連れてきた男の一人が、スーツケースを「開けなくていいのですか」と訊き、かれは「オーケー、ノーニード」と答えたのです。
再度別の窓口のセキュリティーゲートを通ります。爪切り、ネイルカッター、シガーカッターと細かにチェックされます。色々珍しいものが出てくるので、係官はそれを楽しんでいるようでした。
その中国系の顔立ちをした係官が、突然「私は、5年間この仕事をしているが、あなたのように流暢に英語もヒンディー語もしゃべる日本人には初めて会いました」といいました。
「それはよかった(Nice to see you)」とぼくがいい、I’m happy tooと彼が返したので、ぼくは「アッチー、バータイ(その言やよし)」というと、周りにいる数人の係官が一斉に笑いました。
それにしても、どうしてこういうことになったのか。色々推測してもどうも理由が分かりません。なんか起こりそうという予感が的中したことは、確かです。
問題は、これだけにとどまりませんでした。
午後2時に搭乗。フライトは2時40分の予定でした。2時半にアナウンスがありエンジンの調整に時間がかかるので、出発は1時間程度遅れます。
3回ほど機長からのアナウンスがあり、もうしばらくかかりますというのが繰り返されました。結局テイクオフしたのは、6時でした。
なんと搭乗してから4時間も機内で待たされたのでした。
驚いたのは、乗客の誰一人文句を言う者やイライラする者がいなかったことです。最後まで、遅れてすみませんというお詫びの言葉もありませんでした。3回目のアナウンスでは、皆様の更なる忍耐をお願いしたい(もう少し我慢してください)。I ask your more patienceという言葉がありました。
ぼくもあんまり気にならなかったし、ゆっくり直してよ。確信の持てるまで飛ばないで、という気持ちでした。
ようやく6時になってテイクオフし、8時に無事カラチ空港に到着。なんと3時間半の延着です。迎えの車はいませんでした。
でも、ガンジー空港と違ってボリに来る運転手はいないし、コンピューターで制御された車の送迎システムで、極めて快適にシェラトンホテルに到着しました。
息子2人はどちらも日本人の女性と結婚して東京に住んでいるという運転手のアガ・サリームは、「ほら、ここがあの爆発騒ぎの場所だよ」と教えてくれました。
そこは、きれいな道路に歩道橋が架かっているところで、百人を超す死者の血しぶきと肉片は、どこへ行ったのだろうという気がしたのでした。