<クンジェラーブ峠越えでフンザへ>
現在、中国からパキスタン・フンザに向かう旅の途中です。
関空から上海経由で西安へ。西安・ウルムチと泊まりを重ねて、現在天山山脈の上をカシュガルへ向け飛行中です。
カシュガルを出た後は、タシュクルガンで一泊して、クンジェラーブ峠を越えてフンザに入ります。
クンジェラーブ峠越えは、今回で3度目です。
この前の時は、中国共産党創立80周年記念行事で、新彊旅行協会の王さんからタクラマカン砂漠縦断の旅に招待された時でした。
この年には、ちょうど関田・角倉・岩佐君らとパキスタンに行く約束をしていました。そこで家内を含めた5人で参加したいのだがと返事をしたら、日本・中国間の飛行機代はあなた一人しか負担できないけれど、それでよろしければ、みんな招待しましょうという返事が来ました。
こうして、ぼく達5人は、パトカ-5台に先導されて、外国人に初公開されるタクラマカン砂漠縦断とタクラマカン半周の約10日間の旅を楽しむことが出来ました。
あれは2002年、それから6年しか経っていないのに、中国の変化は驚くべきものがあります。
わずか6年での中国の変化は目を見張るばかりで、西安もウルムチもカシュガルもまるで別の町のようです。泊まっているホテルは、みんな去年から今年に建ったものばかりです。
●日本を発ち西安からウルムチへ
朝の9時半に関空を飛び立つと、10時半に上海に着きます。北海道の千歳と同じくらいの遠さ。
上海空港のレストランで軽く食事をとり、13時25分発の西安行きのフライトに乗ると、16時に西安に着きました。
西安空港は、違うところに着いたのかと思うぐらい変わっていました。どうやら隣に新しい建物が建ったらしい。
ホテルに行く途中で、大雁塔を見に寄ろうということになりました。
雨の大雁塔をゆっくり見学していると、ホテルの西安城堡大酒店にチェックインしたのは、19時になりました。
大急ぎで、市内のレストランに夕食を摂りに出かけることになりました。
ぼく達を西安空港で出迎えたガイド嬢は、けっこううまい日本語を操るお嬢さんとおばさんの中間ぐらいの女性でした。彼女が、「日本には何度も行った。ヨーロッパにも行った」というので、同行の富田ドクターが彼女に、今一番行きたい国はどこ?と尋ねたのです。
「北朝鮮です」と彼女は答え、われわれ一同は同時に「えッ」と驚いた。それは全く予期しようもない答えでした。なんでや、と尋ねる前ににぼくは、近くにいる数人の女性店員に同じ質問をしたのです。全員が、「そうよ。北朝鮮よ」
なんでなんや。ぼくはガイド嬢に「北朝鮮の拉致問題って知ってる」と尋ねましたが、誰も知りません。聞いたこともないようでした。
いろいろと質問して、彼女達が北朝鮮に行きたがる理由は次のようなことだと分かりました。
中国は、経済的に大発展を続けているが、建国の主旨はどんどん失われている。それを固く守っている模範的な国が北朝鮮なのである。そういうことのようで、一つの理想の国ととらえられているらしいのです。
いや全く驚きました。これは中国国民の一般的な感情というからさらに驚きでした。
●ウルムチにて
昨夜は、ウルムチで、王さんが北京ダックに招待してくれましたが、そのカンペイ、カンペイが繰り返された席で、彼はこんなことをスピーチしました。
中国の急速な変化が多くの問題を引き起こしている。だから、中国はこの変化と発展のスピードを出来るだけ遅める努力をしなければいけない。
王さんは、ウィグル人を差別しない珍しい漢族で、彼の大自然旅行社には何人ものウィグル族社員がいますが、そんな会社は他にはありません。
ぼくが、歯に衣着せぬ言い方で、王さんに質問したり、中国批判をしたりするので、ガイドのグルメラは、ハラハラしているようです。そこで、ぼくは英語で話すことにしました。王さんはもともとコングール峰遠征時、ぼくの依頼で英語の通訳として登山隊にやってきたのです。
英語で話しておれば、公安のスパイがいても多分大丈夫ではないか。
西安では、定番の兵馬俑や歴史博物館を見学。以前と比べて大変完備されていると感じました。
ただ、歴史博物館がものを売りつけるのに熱心なのは、今も変わりません。ぼく以外のメンバーは高価な買い物をしたようです。
ここで、今回の旅の概要を書いておきます。
メンバーは、ぼくの木津小学校の同窓の富田ドクター夫妻、高岡の知人の小嵐夫妻、それにぼく達の3夫婦という高齢者ツアーです。
中国経由にしたのは、このところパキスタン情勢が剣呑なので、目的のフンザへのダイレクトルートともいえるクンジェラーブ峠越えはより安全でもあるし、より楽しんでもらえるのではないかと思ったからです。日程は、北京オリンピックに近くない程いいけれど、早すぎるとクンジェラーブの雪が融けない。などと考えているうちに、どんどん日が経ってしまったという訳です。
関空ー上海ー西安ーウルムチーカシュガルと中国を進み、クンジェラーブ峠(4733m)を越えて、いわゆるカラコルム・ハイウェイを走って、フンザーギルギットーイスラマバードへ達した後、バンコックで休養するというものです。日程は結局次のような、参加者の都合に合わせた結果、ぼくにとって初めてともいえる強行日程となりました。
6/30 関西空港ー上海ー西安
7/1 西安ーウルムチ
7/3 ウルムチーカシュガル
7/4 カシュガルータシュクルガン
7/5 タシュクルガンークンジェラーブ峠ーフンザ
7/8 フンザーギルギット
7/9 ギルギットーイスラマバード
7/11 イスラマバードーバンコック
7/13 帰国
●カシュガルへ
カシュガルへは、10時半に着き、ホテルにチェックイン。
市内観光をして、午後4時頃ホテルに戻り仮眠。6時半からバザールでショッピングを楽しみました。
いまは、外で食事をして、昨年の6月に建ったばかりの国際大酒店というホテルに戻ったところです。夜の10時半ですが、まだ充分に明るい。緯度が高い上に遥か東の北京時間が使われている所為です。
このホテルは、インターネットのラインが部屋に来ており、コネクトする料金はまったくフリーです。昨日泊まったウルムチのシェラトンホテルでは、今朝出がけに小さな手ふきのタオルが無くなっているからから、一枚10元を払えといわれました。「シェラトンチェーンでそんなことをいわれたことはない。マネージャーから請求書が届いたら払いましょう」と文句を言い、それで済んだのですが。
そんな中国で、インターネット料金がフリーというのは、なんとも不思議な気がします
明日は、ここを9時半に出発、高度4000mほどのタシュクルガンに向かいます。途中のカラクリ湖まで4時間。そこからタシュクルガンまでは1時間を見込んでいます。
●タシュクルガンへ
カシというのは中国語の言い方で、ウイグル語ではカシュガルなんです。
そう教えてくれたのは、カシュガルから同行したウイグル人の男性ガイドのアデリでした。
ずっと昔から、カシュガルという言い方になじんでいたぼくは、コングール遠征で高所工作員などのカァシィという上声の言い方になじんで、単純に呼び方が変わったのだと思い込んでいました。アデリの説明を聞いて、そうだったのかと思ったことでした。ウイグルを侵略しつつある中国に対するある怨嗟の響きを感じ取ったような気がしました。
中国はチベットだけではなく、ここでもどんどん中国化を押し進めようとしているようなのです。
やはりウィグル人のウルムチのガイドのグルミラに教えてもらった、「ラフマット(ありがとう)」という言葉を発した時、ウイグル人の顔が一瞬ひきつるのが不思議でした。どうやら、ぼくを公安の回し者と思うらしいのです。かつてはなかったことでした。
中国のウイグル人に対する予備拘束は、過酷を極めているという話を、エスケルから聞いていました。エスケルというのは、かつて王さんの旅行社の社員だったのですが、いまは日本人の女性と結婚して近畿ツーリストの契約社員をしています。
今回の旅のアレンジを頼んだら「日本のツーリスト抜きでやりましょう。そのほうが安くつきますから」といって、妹のグルミラを紹介してくれたのでした。
ところで、27歳のこのぼーっとしたした男アデリは、けっこう流暢な日本語を話します。名古屋大学に留学していたそうです。
よく聞いてみると、新彊大学電気科卒だそうで、今年の秋にある弁護士の試験を目指しているのだそうです。ただ、ウィグル族からの合格者は極めて少ないのだそうです。
彼の両親はどちらも新彊大学の数学の教授だそうで、けっこう特殊な家庭に育ったボンボンのようです。もともとこのガイドという職種を目指している訳でもなく、一時の賃稼ぎだとしたら、気の利かないぼんやりガイドもうなづけるというものです。
カシュガルの町から走り出て驚いたことは、その道路でした。6年前と違って完全な広い舗装道路になっていました。2年前にクンジェラーブ峠までの完全舗装が完成したのだそうです。
オパルのバザールで半時間の小休止。ここから1時間半でゲズのチェックポストに達します。
ここは、1981年のコングール峰遠征の時のBCへの登り口です。あの当時は、小さな掘建て小屋のような兵舎がぽつんと一軒だけ建っていました。そこでは少年のような解放人民軍の兵士がいつも丸い板のボールの玉突きをして遊んでいたものです。6年前の時も昔とあまり変わらなかったように記憶しています。
ところが今回、そこはまったく別の場所のようになっていました。いくつもの建物が建ち並んでいます。川向こうの崖のまるで切り出しナイフで傷をつけたような感じのジグザグ道が見えなければ、とても同じ場所とは思えないほどの変化です。
中国人の観光バス、トラックなどが道ばたに長く連なって停車しており、検問所の建物の入り口には、人の長い列が出来ています。
道の対岸の建物の屋上には土塁があり、そこに据えられた機関銃で一人の兵士がこちらを狙っていました。ぼく達のグループの一人が写真を撮っていると、群れている兵士の一人が、有無をいわさずカメラを取り上げ、持ち去ってしまいました。しばらく経ってから、一枚を消去したといって返してはくれましたが。
道の中央分離帯には、兵士が銃を持ち直立不動の姿勢を崩さずに立っていました。
一体何をいきっとるんじゃ、とういう感じなのです。
ゲズでパスポートのチェックを受け、西遊記を思い出すような眺望の道を2時間ほど進むとカラクリ湖に達します。湖の向こうにはコングールが覆いかぶさるようにそびえています。
ここの変化もすごいもので、パーキングには何十台という自家用車や観光バスがとまっています。みんな中国人の観光客で、カシュガルからここまで観光にやって来ているのです。
カラクリ湖レストランの入り口には、まるで竜宮城のような門が出来ていました。
前の時、我々5人の日本人の他には、10人ほどの日本人のツアーグループとヨーロッパから自転車で来たという2人のドイツ人だけの静かな湖畔の食堂は、いまは中国人でいっぱいでした。窓の外には以前は2・3頭だった観光客用の馬が、十何頭にもなってお客は待っているのが見えました。
この喧噪と雑踏のような食堂では、とても食事する気にはなれません。ぼくたちは、昼食はタシュクルガンまで我慢することにしたのでした。
空腹を抱えて、タシュクルガン到着は午後の4時になりました。ホテルの食堂で食事をとりました。
Hondaの650ccのオフロード車が2台停まっていました。2人のイタリア人が伴走のランドクルーザーの女性と一緒に世界一周の途中なのだそうです。
彼らはミラノを発ち、トルコからパキスタンへ、そしてクンジェラーブ峠を越えてここまで来たのだそうで、ちょうど一周行程の半分だそうです。「ボンジョルノ」と挨拶を交わし、「アリベデルチィ、ボンボヤージュ」と別れました。
この標高4100mほどの町、タシュクルガンでは以前目についたパキスタン人はほとんど見かけなくなり、漢人がはやたら増えているようでした。寂れていた町は、いまは活気に溢れています。原チャリやスクーターが行き交っているにしては、静かで、昔のままの静寂が保たれているのが不思議でした。
訊いてみると、原チャリはすべて電気駆動なのだそうです。中国も先進的なこともやってるいるんだなと感じました。
●クンジェラーブ峠(4733m)
タシュクルガンのまったくの静寂の朝を迎えました。日本アルプスなどの山の中が静かだとはいっても、沢の音鳥の声が聞こえる。でもここはまったく無音の世界のようです。頭がシーンと痛い感じで、耳の奥での耳鳴りが聞こえるような気がするのは、この静寂の所為なのでしょう。
朝食を済まして、すぐに出発。
クンジェラーブ峠の遥か手前、タシュクルガンの近くに出入国管理所の建物があります。しばらく走って10時には、このイミグレの建物につきました。ここもえらく立派に建て変わっていて、銃を持った兵隊が物々しく警備しています。ここも6年前とはまったく違っています。
出国の手続きを出国カウンターで済ませ、出国してから、別のゲートを通って外にやってくる車を出口で待っている時、トイレに行きたくなりました。
出口に直立不動で立っている兵士に「トイレット?」というと、これが不思議にも通じて、外の庭の向こうを指差しました。庭の隅には小さなトイレの建物がありました。
外に出て歩いて行くと、どこからか兵士が飛び出して来て、「停まれ、戻れ」と大声で叫びました。銃は突きつけなかったけれど、文句を言ったら撃つぞという気迫です。むかっときたので、こちらも大声で「トイレット!」と叫んだら、黙って引き上げて行きました。
少し様子を見たら、トイレに向かっているのは明瞭のはず。そばの塀を乗り越えるなんてその必要もない。どうやらいきりかえって、なんか叫びたいのではなかろうか。そんな気がしたのです。
こうした警備の兵士と違い、イミグレの係官は服装は兵士と同じに見えても、その対応はまったく異なりました。上手な英語で物腰は丁寧、これが同じ国の人間かと思えるぐらいでした。たぶん警備の兵士は、学はなく英語などはまったく分からず、昔と違って給料の差別化も進んでいる。訳の分からぬ欲求不満で周りに当たり散らしているのではなかろうか。そんな気がしました。
イミグレからクンジェラーブ峠までには、数カ所のチェックポストが増設されており、物々しい警戒ぶりで、以前との違いに戸惑う程でした。
クンジェラーブ峠で、写真を撮ろうとしたら青年民兵がすっ飛んできて静止しました。撮影禁止だと言います。
国境線はどこだ、と聞いて確認してから、「今オレはパキスタンに立っている。パキスタンにいる者にお前が指図することは出来ん」とぼくは怒鳴り、大声での怒鳴り合いになりました。パキスタン軍の警備兵二人が間に割って入り「まあまあ」となだめにかかかりました。「この中国人めが」ぼくは本当に激昂していたようです。
この諍いの間にメンバーは、好き勝手に写真を撮ったことを後で知りました。
峠を越えると道は急に悪くなります。九十九折りの道を下り、さらに激流沿いの道を走ると最初のチェックポストに着きました。「アッサラームアライクン」「ウォー、アライクムアッサラーム」と挨拶を交わします。
木陰の茶店でお茶を頼みました。芝生の上にマットを敷いてくれました。中国にはない、なんという優雅さ。
代金を問うと、「いりません」といいます。驚いて、チップを渡しました
岩峰が聳え、フンザが近づいたあたりで、針峰群をバックに集合写真を撮りました。
●フンザにて
フンザからは、ディラン峰が間近かに見えます。
泊まったホテル、バルチット・イン
ジープに乗って、オーパル氷河まで遠足に出かけました。氷河の後退が大きいのに驚きました。
ナガール村の子供たち
ここナガール村にもケシ畑があって、奇麗な花が咲いていました。この地方では、ケシは昔から家庭薬として栽培されていたそうです。ナジールも子供の時、風邪を引いたりしたときなどは、ミルクに少量入れたものを飲まされたと言っていました。
フンザには、制服のある小学校があります。
ネットカフェだってあるんですよ。でも、光ファイバーは来ていないので、YouTubeなどは見れません。
ナジールが新築したという家を見に行きました。建てただけで全く使ってないのだそうです。いつでも使ってくれと言ってくれています。
中央は、ナジールの甥。ナジールの兄は、ディラン峰に登りに出かけ亡くなりました。彼はその遺児です。
彼が案内してくれたナジール邸の屋上からは、ラカポシがよく見えました。
●フンザ~イスラマバード
道がよくなっているからギルギットは近いとのんびり構えていてフンザ発は、10:20になりました。途中1回パンクがありましたが、グルミットのレストハウスでゆっくり休憩して、ギルギットの大好きなセレナ・ホテルに着いたのは、14:20。
大急ぎで遅めの昼食をとって、名所の磨崖仏を見学に出かけることにしました。
帰りにバザールと1965年のディラン峰遠征時から架かっている吊り橋を見にゆきました。44年も経っているのに、昔のままでした。
出発前から、ここギルギット・イスラマバード間の移動が一番問題だと考えていました。飛行機で飛べれば直ぐだし安全。でも天候がよくないと、この有視界飛行ルートは無理。フライトキャンセルが続くと、待ち行列はどんどん増え、シート確保は絶望的となります。
一方陸路は着実ですが、丸2日間かかります。日程に余裕のないぼく達は、出来ればフライトをつかみたいと思っていました。だから、フンザ滞在中からギルギットからの情報を得ていたのですが、フライトキャンセルが続いているということでした。
予想通りの悪天のため、ここ4日間ギルギット~イスラマバッドのフライトが飛んでなく、空路は無理なので、陸路に切り替えざるを得ませんでした。
ギルギットからは、峡谷のいわゆるカラコルムハイウェイを600キロ。普通は2日間の行程です。それを1日で走るという強行軍を余儀なくされました。
ギルギットを4時に出発。ところが、1時間ほど走ったところで、乗っているトヨタミニバスのブレーキが故障。ブレーキの引きづりでホイールが加熱し、ブレーキが利かなくなったということです。こんな早朝に車を探すのは至難と思われたのですが、2時間ほどの待ち時間で代車がやってきました。倍程も大型のミニバスです。こっちの方がより快適でしょう。ここで、フンザからのドライバーとは別れました
我々が辿っているこのインダス河沿いのコースは、いわゆる仏教が北伝した道でもあります。
道のそこここにこのような岩壁仏画があり、その数は数千ともいわれます。先頃、インダス河を塞き止めるインダスダム計画が持ち上がり、こうした仏教遺跡をどう保存するかがもんだいとなりました。幸いこの計画は、沙汰止みとなったのですが。
昼過ぎ、ダッソー到着。普通ならここまでで、一日の行程です。昼食。
後はただ走りに走りました。
ギルギットーイスラマバードの中間地点あたりにこの里程標のモニュメントがありました。
これに依ると、ギルギット360km、クンジェラーブ625km、カシュガル975kmとなっており、カシュガルから、1000キロを移動してきたことが分かりました。
そして、イスラマバード259kmとなっていました。あと260kmです。しばらく走ったある町で、ドライバーの友達が乗り込んできて運転を交代しました。
煌煌と明るいイスラマバードに走り込み、正面に国会議事堂を見えてから左に曲がるとすぐ定宿のマリオット・ホテルに着きました。
翌日、9時起床。10時、朝食。11時30分、タキシラ遺跡見物に向かいました。帰りに中華レストランで食事。
今日のラホールフライトは19:15です。
出来るだけ早くイスラマバードを離れたいと思っていたぼくは、到着翌日にバンコックに移動したいと思っていました。ところが、その次の日でないとバンコック便がないというのです。よく調べてもらうと、この日でも、ラホールからだとバンコックに向かう便があるというので、急遽国内線でラホールに移動することにしたのです。
食事もそこそこに、イスラマ市街の葉巻屋さんに葉巻買いに走りました。ここに来たら、必ず買って帰る決まりになっています。ここの葉巻は、世界中で最も安く品物もいいのです。イギリス植民地時代からこの国では葉巻は好まれており、今もここには、世界中の外交官が集まっているからなのでしょう。
定時に飛行機はラホールに飛び、夜中の0:15、ラホール空港に停泊中のバンコック便のシートに身を埋めることが出来ました。
後はバンコックでの2日間の休養が待っているだけでした。
ようやく、この駆け足の老人ツアーは終わったのでした。
(付記:イスラマバード、マリオットホテルは、2ヶ月後の9月20日に爆破されて、炎上し消失しましたが、先頃再建されました。中国でもウルムチ、カシュガルと事件が相次ぎました。その兆しをぼくは充分に感じていたので、ニュースを見聞きするたびに、とうとう、やはり、という感じを持ちました。)