脱亜論 福沢諭吉

 現在、西洋人の地球規模での行動の迅速さには目を見張るものがあるが、ただこれは科学技術革命の結果である蒸気機関を利用しているにすぎず、人間精神において何か急激な進歩が起こったわけではない。したがって、西洋列強の東洋侵略に対してこれを防ごうと思えば、まずは精神的な覚悟を固めるだけで充分である。西洋人も同じ人間なのだ。とはいえ西洋に起こった科学技術革命という現実を忘れてはならない。国家の独立のためには、科学技術革命の波に進んで身を投じ、その利益だけでなく不利益までも受け入れる他はない。これは近代文明社会で生き残るための必須条件である。
 近代文明とはインフルエンザのようなものである。インフルエンザを水際で防げるだろうか。私は防げないと断言する。百害あって一利も無いインフルエンザでも、一度生じてしまえば防げないのである。それが、利益と不利益を相伴うものの、常に利益の方が多い近代文明を、どのようにして水際で防げるというのだろう。近代文明の流入を防ごうとするのではなく、むしろその流行感染を促しつつ国民に免疫を与えるのは知識人の義務でさえある。

 西洋の科学技術革命について日本人が知ったのはペリーの黒船以来であって、これによって、国民も、次第に、近代文明を受け入れるべきだという認識を持つようになった。ところが、その進歩の前に横たわっていたのが徳川幕府である。徳川幕府がある限り、近代文明を受け入れることは出来なかった。近代文明か、それとも幕府を中心とした旧体制の維持か。この二者択一が迫られた。もしここで旧体制を選んでいたら、日本の独立は危うかっただろう。なぜなら、科学技術を利用しつつ互いに激しく競いながら世界に飛び出した西洋人たちは、東洋の島国が旧体制のなかにひとり眠っていることを許すほどの余裕を持ち合わせてはいなかったからである。

 ここに、日本の有志たちは、徳川幕府よりも国家の独立を重んじることを大義として、皇室の権威に依拠することで旧体制を倒し、新政府をうちたてた。かくして日本は、国家・国民規模で、西洋に生じた科学技術と近代文明を受け入れることを決めたのだった。これは全てのアジア諸国に先駆けており、つまり近代文明の受容とは、日本にとって脱アジアという意味でもあったのである。

 日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を受け入れた。ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。そのひとつはシナであり、もうひとつは朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、もともと人種的に異なっているのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。情報がこれほど速く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。

 私の見るところ、このままではシナ・朝鮮が独立を維持することは不可能である。もしこの二国に改革の志士が現れて明治維新のような政治改革を達成しつつ上からの近代化を推し進めることが出来れば話は別だが、そうでなければ亡国と国土の分割・分断が待っていることに一点の疑いもない。なぜならインフルエンザのような近代文明の波に洗われながら、それを避けようと一室に閉じこもって空気の流れを絶っていれば、結局は窒息してしまう他はないからである。

『春秋左氏伝』の「輔車唇歯」とは隣国同志が助け合うことを言うが、現在のシナ・朝鮮は日本にとって何の助けにもならないばかりか、この三国が地理的に近い故に欧米人から同一視されかねない危険性をも持っている。すなわちシナ・朝鮮が独裁体制であれば日本もそうかと疑われ、向こうが儒教の国であればこちらも陰陽五行の国かと疑われ、国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国であればそれを咎める日本も同じ穴の狢かと邪推され、朝鮮で政治犯への弾圧が行われていれば日本もまたそのような国かと疑われ、等々、例を挙げていけばきりがない。これを例えれば、一つの村の村人全員が無法で残忍でトチ狂っておれば、たとえ一人がまともでそれを咎めていたとしても、村の外からはどっちもどっちに見えると言うことだ。実際、アジア外交を評する場面ではこのような見方も散見され、日本にとって一大不幸だと言わざるを得ない。

 もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。(明治18年3月16日)

*「行橋市 市議会議員 小坪しんや」ホームページよりコピペーさせていただきました。

大日本帝国憲法の現代語訳

 たしか5・6年前頃からだったと思うのですが、憲法改正論議が盛んになりました。だからぼくは、<葉巻のけむり>でもいろいろと取り上げました。
 プライムニュースで憲法問題が対談シリーズで報道されると、それを文字起こしして<葉巻のけむり>に載せました。そうした流れの中で、大日本帝国憲法を読む必要を感じたのです。
 古い国ではその国の慣わしは不文律とし流布されており、特に文章化したものは必要ないわけで、だから文字化された憲法いわゆる憲法典は、例えば英国のようになくてもいいのです。
 我が国では、古くは聖徳太子が作った17条憲法があります。大政奉還時に出された天皇が神に誓った五箇条の御誓文も立派な憲法典と言えるでしょう。だから英国よりはるかに古い日本でも憲法典を持つ必要はなかったにもかかわらず、大日本帝国憲法が作られたのには理由がありました。
 国体を整える方策を探るために西欧に向かった伊藤博文は、ビスマルクから次のように忠告されます。国際法など勝手に無視され役に立たない。国の法である憲法が必要であると。
 その成立の過程、伊藤博文や井上毅がいかに苦労して、日本の独自性を保ちつつ、世界でも先進的な憲法典を作ったかを知るにつけ、ますますその実態を知る必要を感じさせられたわけです。

 読んでみると、それは教えられていたようなものではなく、前近代なものでもなく、基本的人権などにも配慮された立派なものであることが分かりました。このことは、みんなに知ってもらう必要があると感じました。
 しかし文語体で地の文がカタカナで書かれたそれは読みづらいものでありました。口語訳をネットで調べても冗談半分みたいなものが散見されるばかりでした(現在は、あの頃と異なり、多くの記事や出版物も沢山あります)。そこでこれを現代的なものに書き換えることにした訳です。
 これを<高田直樹ウェブサイトへようこそ>に資料として載せたのです。ところがサーバーがクラッシュしたことで、これは失われてしまいました。下書きも見つからず、またあんな苦労をする気にもならなくて、本当にがっくりきました。藁にもすがる気分で、ネットを探したら、ありました。これはいい、これにリンクを張ろう。そう思いながら、最後を見ると、なんと、「高田直樹ウェブサイトより」と書いてあったのです。
 なんとそれは、ぼくのサイトからコピペーされたものだったのです。おまけに、このサイトが「完全護憲の会」だったので、少々戸惑いを覚え、苦笑いしたものでした。
 なんにしても、ぼくのサイトから消失したものが、保存されていたことは幸運でした。もう一度あんな面倒くさい作業をする気にはならなかったのですから・・・。
 

大日本帝国憲法現代語版
第1章 天皇(第1条-第17条)
第2章 臣民権利義務(第33条-第54条)
第3章 帝国議会
第4章 国務大臣及枢密顧問(第55条-第56条)
第5章 司法(第57条-第61条)
第6章 会計(第62条-第72条)
第7章 補則(第73条-第76条)

大日本帝国憲法発布勅語
朕は、国家の繁栄と臣民の幸福とを、我が喜びと光栄の光栄の思いとし、朕が祖先から受け継いだ大権によって、現在と将来の臣民に対して、この永遠に滅びることのない大法典を宣布する。
思うに、我が祖先の神々と歴代天皇は、臣民の祖先たちの助けを借りて我が帝国を造り上げ、これを永遠に伝え給うた。
これは、我が神聖なる祖先の威徳、そして臣民が忠実に勇敢に国家を愛し、公に従ったこと、それらによって光り輝ける国家の歴史を遺して来たということである。
朕は、我が臣民は、まさに歴代天皇をよく助けてきた善良な臣民たちの子孫であることにかんがみて、朕の考えをよく理解して、朕の事業を助けるためによく働き臣民同士は心を通わせ協力し合いますます我が帝国の素晴らしいところを海外に広めて祖先たちに遺業を永久に強固なものにして行きたいという希望を、朕と共有し朕とともにこれからの国家の運営に努力して行く覚悟が充分に備わっていることを疑わないのである。

上諭(前文に当たる部分)
朕は、先祖の輝かしい偉業を受け継いで、永遠に一系で続いていく天皇の位を継ぎ、朕の愛する日本臣民は、朕の祖先が大事にしてきた臣民たちの子孫であることを忘れず、臣民たちの安全と幸福を増進して、その臣民たちの優れた美徳と能力をますます発展させることを望む。
そのために、明治14年10月12日に下した国家開設の勅諭を実行し、そしてここに憲法を制定して、朕と将来の天皇、そして臣民と臣民の子孫が永遠にこれに従うべきである事を知らせる。
国家を統治する権利は、朕が先祖から受け継いで子孫に伝えるものである。朕と朕の子孫は、この憲法の決まりに従って統治権を行使するという事に違反してはならない。
朕は臣民の権利と財産の安全を重んじ、これを保護して、この憲法と法律の範囲内で、完全にこれを守り尊重していく事を宣言する。
帝国議会は明治23年に招集し、議会んが開会したと同時にこの憲法も有効となる。もし将来この憲法の条項を変更する必要が出てきた場合は、朕が朕の子孫は発議権を発動して議会に命じ、議会がこの憲法で決められた手順に沿ってその内容を変更する。朕と朕の子孫そして臣民は、それ以外の方法でこの憲法をみだりに変更する事はしてはならない。
国務大臣は、朕のため憲法施行の責任を負い、臣民と臣民の子孫は、永遠にこの憲法に従う義務を負いなさい。

第1条
 大日本帝国は、永遠に一つの系統を継承していく万世一系の天皇が統治する。
第2条
 天皇の御位は皇室典範の決まりに従って、皇室の血を受け継げる男子が継いで行く。
第3条
 天皇は神聖だから非難したりしてはならない。天皇は政治をはじめ一切の事の責任を負わないし天皇をやめさせることもできない。
第4条
 天皇は日本の元首で日本を治める権利を持ち、憲法の決まりに従って日本を治める。
第5条
 天皇は議会の協力と賛成をもらって法律を制定する。
第6条
 天皇は議会が作った法律に判子を押して、世の中に広めてその法律を守らせるよう命令する。
第7条
 天皇は国会議員を集めて、議会を始めさせたり、終わらせたり、中断させたり、衆議院を解散させたりする。
第8条
 天皇は世の中の安全を保ったり、非常事態を避けたりしなければならない緊急の時に、もし国会が閉会していたりしたら、法律の代りに勅令を出せる。
第8条2項
 勅令は、次に議会が始まったら、その勅令を残すか取り消すか話し合わないといけない。取り消すことになったら勅令は無効になり、政府はこのことを国民に知らせなければならない。
第9条
 天皇は法律を実際に運用したり、世の中の安定や秩序を守ったり、臣民をもっと幸せにするために、必要な命令を出したり、出させたりすることができる。ただし、命令では法律を変えることはできない。
(内閣と省庁が出す命令は、この天皇の権利の委任である)
第10条
 天皇は行政機関の制度とか、大臣とか公務員や軍人の給料を決めたり、それらを任命したりやめさせたりする。ただし、憲法や法律でなにか特例があるときはその条項による。
第11条
 天皇は陸軍と海軍を率いる。
第12条
 天皇は陸海軍の編成や予算とかを定める。
第13条
 天皇は外国に宣戦布告したり、講和したり、条約を結んだりする。
第14条
 天皇は非常事態の時、戒厳(臣民の権利を制限する)を宣言する。戒厳の要件や効力は法律で定める。
第15条
 天皇は爵位とか勲章とか栄典とか、その他の名誉を与える。
第16条
 天皇は受刑者に恩赦を与えて減刑したり復権の命令を出す。
第17条
 天皇の代理人の摂政を置くときは皇室典範の決まりにしたがう。摂政は天皇の代理として権限を行使する。
第18条
 日本臣民であることの基準は法律で定める。
第19条
 日本臣民は法律・命令で決まった資格を満たせば誰でも平等に公務員とか軍人になれるし、その仕事ができる。
第20条
 日本臣民は法律の決まりにしたがって、一定期間軍人にならなければならない。
第21条
 日本臣民は法律の決まりにしたがって税金を納めないといけない。
第22条
 日本臣民は法律に違反しない範囲でならどこに住んでもよいし、移転も自由である。
第23条
 日本臣民は法律に違反しない限り、逮捕・監禁・審問・処罰されることはない。
第24条
 日本臣民は法律に決められた裁判官による裁判を受ける権利を奪われることはない。
第25条
 日本臣民は法律に定めた場合を除いて許可なく家に入られたり、捜索されたりしない。
第26条
 日本臣民は法律で定めた場合を除いて勝手に外信書(手紙など)の秘密を侵されることはない。
第27条
 日本臣民は所有権(自分の財産など)を奪われることはない。
 2項 公共の利益のためにどうしようもないときは法律で決まったことに従う。
第28条
 日本臣民は社会に迷惑をかけず、臣民の義務を果たしてさえいればどんな宗教を信じても自由である。
第29条
 日本臣民は法律に違反しない範囲でなら、(言論・著作・印行・集会及結社の自由を有す)何を言っても、何を書いても、どんな本を発行しても、みんなで集まったり、何かしらの団体を組織したりしてもよい。
第30条
 日本臣民は礼儀正しく、決められた手順を踏めば国に請願(お願いごと)をすることができる。
第31条
 この章の決まりごとは、戦争中や国家の非常事態の時には天皇の権力行使の邪魔をすることはない。
第32条
 この章の決まりごとは、陸軍海軍に関する法律や規律に触れないことなら軍人にも適用される。
第33条
 議会には衆議院と貴族院をおく。
第34条
 貴族院は貴族院令で決められた皇族・華族と天皇に任命された議員で組織する。
第35条
 衆議院は選挙で選ばれた議員で組織する。
第36条
 同時に両方の議院の議員にはなれない。
第37条
 全ての法律は議会の賛成がないと決めることはできない。
第38条
 両議院は政府が提案した法律案に賛成するか話し合ったり法律案を提案したりできる。
第39条
 どっちかの議院で否決された法律はどう会期中にはは再提出できない。
第40条
 両議院は法律やその他の件について政府に意見や希望を述べることはできる。ただし政府がそれを取り上げなかった場合、どう会期中に再度の試みることはできない。
第41条
 国会は毎年開く
第42条
 議会は3ヶ月の会期である。必要なときは勅命で延長できる。
第43条
 臨時緊急の必要あるときは臨時会を開くことができる。
 2項 臨時会の会期は勅命で定める。
第44条
 議会の開会、閉会、会期の延長、あるいは停会は、両院同時に行わないといけない。
 2項 衆議院が解散したら貴族院も一旦中止する。
第45条
 衆議院が解散したら勅命で新しい議員を選挙し5ヶ月以内に招集すべし。
第46条
 議員が3分の1以上出席していないと議会は開けないし議決もできない。
第47条
 両議院の議事は過半数で可決、同数のときは議長が決める。
第48条
 両議員の会議は公開しないといけない。ただし政府が要求したり、議会で決議した場合は秘密会とすることもできる。
第49条
 両議院はそれぞれ天皇に意見を伝えたり、報告することができる。
第50条
 両議院は臣民が提出した請願書を受け取ることができる。
第51条
 両議院は、権謀や議院法で決められていない議会の運営に必要な諸規則を決めることができる。
第52条
 議員は、議会の中で何をいいどんな評決をしてもそれに責任を問われることはない。ただし、議会の外で演説したり執筆して表明したことについては自分の責任となる。
第53条
 議員は現行犯とか、内乱を起こそうとしたとか、外国による侵略に加担するとかした時以外は、会期中に議院の許可なく逮捕されない。
第54条
 国務大臣と政府委員はいつでも議会に出席して発言できる。

第4章 国務大臣及枢密顧問
第55条
 国務各大臣は天皇を助け手伝って実務を行いその責任を負う。天皇は責任を負わない。全ての法律、勅令、国務に関する詔勅は大臣の署名が必要。
第56条
 枢密顧問は枢密院管制の決まりにしたがって、天皇の質問に答え、重要な国の事柄について審議する。

第5章 司法
第57条
 裁判など司法に関することは、天皇の名の下に法律に従って裁判所が行う。
 2項 裁判所の構成は法律で定める。
第58条
 裁判官は法律で定める資格を持ったものが任命される。
 2項 裁判官は法律を犯して実刑が決まったり、懲戒処分を受けない限り辞めさせられない。
 3項 懲戒に関する決まりは法律で定める。
第59条
 裁判とその判決は公開すること。ただし安寧秩序又は風俗を害するおそれがあるときは、法律によってもしくは裁判所の決議によって裁判を非公開にできる。(しかし、判決は公開する)
第60条
 普通の裁判所とは別に、特別に裁判所を設置した方がいい場合には法律で決める。
第61条
 行政官庁に違法に権利を侵害されたとする訴訟で、別に法律で定めた特別な行政裁判所で裁判できるものは、通常の司法裁判所で行わなくてもよい。

第6章 会計
第62条
 新しく税金を取ったり、税額を変更したりする場合は法律でこれを決める。
 2項 ただし、役所の手数料、鉄道の切符代、学校の授業料などは決めなくてよい。
 3項 国債などや予算で定めたもの以外の国庫の負担となるものには議会の許可が必要である。
第63条
 現行の税金に関しては、法律の変更がない限り、そのまま続行徴収を行う。
第64条
 国家の歳出歳入は、毎年の予算として議会の許可を必要とする。
 2項 予算が超過したり、予算以外の支出があったときは後日議会の承諾を得る必要がある。
第65条
 予算はまず衆議院に提出する。
第66条
 皇室の経費は定額を毎年国庫から支出し、増額を要する時以外は議会の承認は必要でない。
第67条
 第一章の天皇の権限に関する予算と、政府の義務であることに関する予算は政府の許可がないと変更することはできない。
第68条
 政府は特別に必要な場合には、何年かにわたって継続する予算を求めることができる。
第69条
 予想外の支出に当てるため、または予算オーバーの場合(64条)には予備費を設ける。
第70条
 社会の安全を保つためどうしても必要で、しかも議会を開くことができない場合には、勅命で財政に関することを決めることができる。
 2項 この場合次の議会が始まった時に承諾を得る必要がある。
第71条
 議会が予算に関して議決が得られず、又は承諾が得られなかった場合は、前年度の予算を執行する。
第72条
 国家の歳出歳入の決算は、会計監査員が検査した後、検査報告と一緒に議会に提出する。
 2項 会計検査院の組織や職権については法律で定める。

第7章 補則
第73条
 将来この憲法の条項を改正する必要があるときは、勅命で議案を提出する。
 2項 この場合、議席の3分の2以上の出席がないと審議できない。出席議員んお3分の2以上の賛成がないと改正できない。
第74条
 皇室典範を変更する場合は議会の賛成を得る必要はない。(皇室典範の改正に関しては皇室会議と枢密院顧問で決める)
 2項 皇室典範の内容によって憲法を変更することはできない。
第75条
 憲法と皇室典範は、摂政が置かれている間は変更できない。
第76条
 現行の法律規則命令は、この憲法と矛盾しない限りその効力を失わない。
 2項 歳出に関して、政府の義務にかかわる契約や命令は第67条に定めた通りである。.

高田直樹ウェブサイトより

回想の東大谷

回想の東大谷タイトルS.jpg 私の場合、日本の山といわれたらやっぱり、それは剣でしょう。いちおう登山家ということになっているぼくですが、日本で登った山の数なんぞしれたもの。ほとんどが剣かもしれません。
 初めて私が剣に向かったのは、それはずっとむかし、もう四十年以上も前の1957年の3月のことでした。ぼくはまだ20歳代に入ったばかりの若さでした。
 富山地鉄の本宮から線路を歩き、立山駅入り。ケーブルの階段を二往復して、美女平らまでの荷揚げ。荷物は40キロを超えていたでしょう。その重荷を背にシールをつけたスキーで、エッチラオッチラと弥陀ヶ原を進みました。
 泊まりはすべて雪洞でした。駆け出しのぼくにとって、これは強烈な体験でした。
 今みたいに優秀な装備はありません。寝具は、朝鮮戦線から死体をくるんできたといわれている、米軍放出の寝袋。シュラフカバーは棉製でした。靴が凍らないように脇に抱えて眠りました。
 つらかったけれど、今ではできないこともできました。天気さえよければ、雪上に作った火床の上で、豪華なたき火が楽しめました。
 視界が利かないと、まったく進めないルートなので、なかなか捗らず、雪洞に十数泊してようやく、雷鳥平にたどり着いたのです。
 ここの雪洞から、友人の芝やんがOBと一緒に剣岳にアタックに向かうことになりました。
 朝食の炊事当番を命じられたぼくは、夜中の2時起きだし、雪を溶かして水を作り、餅入りのみそ汁を作り、アタック隊のお茶をテルモスに詰めました。
 4時。外に出ると一面の星空でした。大日岳から別山、真砂、大汝、雄山とつづく雪山は、青黒く立ち並び太古の静寂があたりを支配していました。
 芝ヤンは別れ際に、「どうや、タカダ。テンジン(エベレストに初登頂したシェルパ)みたいやろ」と高ぶった声でいい、星空の下その白い歯だけが、くっきりとぼくの瞼に焼き付いたのです。

カット2S.jpg むくろと変わり果てた芝ヤンと再会したのは、それから4ヵ月たった7月、東大谷中ノ右俣の堅く凍った雪渓の上でした。
 剣岳登頂の帰り、前剣の腐った雪に足をとられ、転落行方不明となった芝ヤンを求めて、捜索が繰り返されていたのです。いまだ地形さえ定かでない谷での危険な捜索でした。
 融雪によって芝ヤンは雪上に出てきたのですが、それは同時に、東大谷の下部の通過不能の滝が現れることでもありました。遺体の搬出は不可能です。
 荼毘は現場でやらねばなりません。でもそこは、地元の人夫衆でもあの谷へは入るなというのが親父の遺言で、などというようなところでした。
 剣の主とされる剣沢小屋の文蔵さんと芦峅ガイドでは岩登り一番という栄治さんに導かれ、ぼくと先輩のオナベさんは、なかば決死の覚悟で、剣岳の一般登路から東大谷中ノ右俣を下降したのでした。
 大きく組んだ丸木のファイアーが赤々と燃え、そこに横たえられた岳人は、山仲間の「雪山賛歌」に送られる。映画で見たり、聞き知っていた山での荼毘は、そうした厳粛でロマンチックなものだった。でも、東大谷の荼毘はそんな生やさしいものではありませんでした。まず自分たちが生きて帰ることを考えねばならなかったのです。
 首の骨が折れているのか、体はうつぶせなのに顔が空を見ていても、芝ヤンが死んでいるとは思えませんでした。その体を動かしたとき、強烈な腐臭が鼻を突きました。ぼくは激しく嘔吐しながら、頭の芯を貫くように彼の死を知ったのです。
 雪渓上の乏しい薪を拾い集め、ガレ場の斜面に作った火で、荼毘を行いました。ガスが巻きはじめ、落石の音が響きました。
 帰りを急ぐ文さんにいわれるまま、ぼくは遺体の燃えづらい部分を、棒でかきおとす作業を続けていました。そして、文さんの差し出した握り飯をほおばると、不思議なことに、それがまたおいしかったのです。
 それは、感傷などの立ち入る余地のない極めて乾いた時間でした。ぼくはあえて無感動になることによって、自分の平静さを保とうとしていたのかもしれません。

 あの遭難事件を機に、山から遠ざかった人もいました。でもぼくの場合、もっと過酷な山登りにのめり込んでいったように思います。まったく記録のなかった厳冬期や積雪期の東大谷の尾根や稜の登攀を目指しました。
 これはひとつには、芝ヤンの捜索を続けた結果として、未知であった東大谷が解明されてきたこともありました。でも一方で、ぼくは明らかに芝ヤンが落下していった空間に身を置こうとしていたのではないだろうか。
 今になって思うのですが、中国大陸での戦争でそうした経験をした人もいるでしょうが、東大谷の荼毘のような過酷な体験をした人は極めて少ないはずです。
 年若くしてのそうした体験は、たぶん私の人生観までも変えたに違いありません。
 考えてみれば、ぼくが親しかった山の友人で山で死んだ人は、十指にあまります。よく知っていた人となると数十人を超えるでしょう。
 ぼくが今まで生き続けられたのは、たぶん芝ヤンはいつもぼくと一緒にいて、ぼくを守ってくれたのだ。そんな気がしているのです。
山と渓谷社の写真集シリーズ[日本の山と渓谷]全30巻17「剣岳(畠山高)」2000年8月刊の巻頭エッセイより引用(イラストレーション=古田忠男)

回想ラトック1峰

回想ラトックⅠ峰    高田 直樹

  最後の難峰などといわれたラトックⅠの初登頂は1979年のことであるから、あれからもう28年もたったことになる。部屋の壁にかけてあるラトックの岩壁のパネルもアクリルがすっかり黄ばんできたし、ぼくがタバコを持ってモデルになっている<ナイスデー、ナイスモーキング>の日本専売公社のポスターもすっかり色あせた。
ラトック1峰.jpg 5年ばかり前、山渓の池田さんから、ラトックⅠの第2登はまだないんです、と聞いておどろいた。
 それ以後も登られていないようで、初登の後30年近くも第2登の記録なしというのは、なんとも不思議だ。バインター・ルクパル氷河のラトック・グループといわれる峰々はⅠ〜Ⅳまであるが、第2登の記録はⅡとⅢのみである。それだけ困難で危険だということなのだろうか。

英語のWikipedia Latokを参照英語Wikipedia

 ぼくが、このあたりに興味を持ったのは、たしか「岩と雪」25号に載ったラトックⅡの大垂壁を見たときだった。そして京都登攀倶楽部という大変な攀り屋さんたちの遠征隊を率いることになる。
 この遠征隊は、登頂できなかったのはしかたないとしても、ぼくにとってきわめて不本意なものであった。登攀リーダーとなるべき隊員が、ラワルピンディーで急性肝炎で倒れたことが、影響したのかもしれない。
 表面的には、雇われ隊長の形であったけれど、ソ連のコーカサス遠征隊とはまったく違うものだったし、ぼく自身、形だけの隊長とは思っていなかった。
 前回の第2次RCCのコーカサス遠征隊の隊員から、京都の隊長はよかった。「皆さん気をつけて」というだけで、ベースの留守番をしてくれたという話を聞いていた。だから、ぼくもコーカサスに行ったときは、隊長は登ってはいけないのだと思っていた。しかしみんなから「隊長一緒に攀りましょうよ」と何度も誘われ、結局は一緒に攀ったのだが。
 京都の登攀倶楽部隊は、自分で組織したものではなかったけれど、準備やトレーニングの段階からかかわってきた。だから、この時はソ連のときのように人ごとではなかったのである。
 ラトックの山々では、極地法の感覚で群れ集いながら登るという雰囲気はフィットしない。
 基本的に自立した個人が、自発的な登行への集中力を燃焼させた結果の総和が成功に結びつくなどと考えていた。
 だからぼくは隊の方針として、荷揚げの重量に関して、もちろん大枠は定めるが、自分で管理するようにし、チェックは行わなかった。ところが、それは、上部テントに有り余るトイレットペーパーが荷揚げされるという笑い話のような結果が生んだ。みんな楽をしたいだけだったのだ。
 この隊には登攀倶楽部のメンバーではないクライマーも参加していたが、大遠征隊に参加した先輩から彼が受けた忠告は、使い捨てにされるな、最終アタック段階のために体力を温存しろというものだったそうである。こういう隊員がいたのでは登れないと思った。
 最終段階では、これは後に分かったことだったが、上部テントの隊員が、テントに入ったままトランシーバーで、あたかも行動しているかのごとき通信をベースに送るという信じられないような事が起こっていた。
 ぼくはほとほといやになっていた。
 でも、あの美しいラトックⅡには、ぜひもう一度挑んでみたかった。納得できる自分の隊を組織して。

 強い隊員を集めなければならないが、まず良い山、攀りたくなるような山が必要だった。攀りたくなる山があれば、それが攀れる強いメンバーが集まる。強い隊ができれば、スポンサーは付く。そう考えていた。
 とりあえず登山申請を急いだ。目標は勝手知ったるラトックⅡが第一志望、第2志望はラトックⅠ、第三志望にはラトックⅢを据えた。
 このどれに許可がきてもよかった。どれもが極めて困難でまた魅力的だったからである。
『岩と雪』の編集長に隊員セレクトの助言を求めた。池田氏とは彼が山渓に入社したばかりの頃から知り合いだった。
 この難しい山を成功させるためには、強力で経験のある登攀隊長が必要であると考えたとき、頭に浮かんだのが、重廣恒夫だった。彼とは、第2次RCC隊のエベレスト遠征のときからの知り合いだった。ぼくはあの当時、奥山章さんに命じられて、京都から西の隊員選考の元締めをやっていた。
 関西以西のすべての自薦他薦の隊員志望者は、ぼくを通って候補者になる仕組みだった。
 奥山さんが急逝したことで、この隊は湯浅道夫を隊長にすえ、ぼくは彼を補佐する形をとった。
 ところが、東京の隊員グループがぼくを担いで湯浅隊長を引きおろすクーデターを画策し、これを知ってぼくは、あっさりとこの隊から遠ざかることにした。もともと第2次RCCだけでエベレストに行けとけしかけたのはぼくだったのだが、そうした裏話はここの本題ではないので、話を戻す。
 重廣恒夫とは、そういう訳で、古くからの知りあいだった。また彼がエベレストから帰ってきた年の夏には、文登研(文部省登山研修所)制作の16mm映画『岩登り技術・応用編』で、彼と二人でモデルをつとめ、一緒に剱岳のチンネを攀ったこともあった。
 たしか、大阪の梅田駅の近くの喫茶店だったと思うのだが、ぼくは彼にラトックの話を持ちかけた。案の定、彼は乗り気を示さず、むしろ引き気味だった。たぶんぼくについて、あまりいい情報を得ていなかっただろう。でもぼくは、めげずに切り込んだ。
 「君なあ、これからもずっと大遠征隊に参加して、隊長にかわいがられて、それで成功して、おもろいんけ。やっぱり山はなぁ、自分で組織して、既成の山の団体には出来んような山をやらんとなぁ。いまみたいな自分像で一生過ごすつもりなんか」
 この時、ぼくがイメージしていたのは、かのスティーブ・ジョブスが、ペプシ・コーラの社長スカーリを、アップルの社長に引き抜いたときのせりふだったのではないかと思う。
 ジョブスは、スカーリに「あなたは、一生を女子供に甘い清涼飲料水を売って過ごすつもりですか」と迫ったのだった。
 このぼくの説得がどれだけ効いたのかは分からない。でも彼は行くことにしたのだ。そして、すぐに渡辺と奥を誘って隊員とした。

**

 松見は、池田氏の推薦だった。赤蜘蛛同人の井上、松見の両名は、ヨーロッパの困難な氷のルートを初登しているという。ぼくの電話の誘いで二人は信州から京都にやってきた。井上氏は、「こういう話は、屋台の飲み屋で酒を飲みながら切り出すものですよ」とぼくに忠告してくれた。
 ソ連のシュロフスキー峰・シヘリダ峰のときの最年少隊員だった雲表倶楽部の武藤君は、ぼくの誘いをスンナリと受けた。
 教え子で高校生の時から絶え間なく付き合っている二人を参加させることにした。一人は1969年のスワット隊の中村達をマネージャーとして、もう一人はスキーの名手の城崎だった。彼は高校でスキー部を作り、すぐのシーズンに全関西高校スキー滑降競技で5位に入賞した。ぼくと彼は、毎冬のように信州の彼の別荘で、スキー三昧の日々を過ごすのが常だった。この二人に関しては、BC以上の危険なところには、上げないことを家族にも約束した。しかし、現地で荷上げがはかどらないのを知った城崎の申し出を受けて、結局彼には、C1までの荷上げに従事させたのである。
 遠藤甲太は、ぼくが大変興味を持っていたクライマーであった。なにか明治大正の放蕩文人を髣髴とさせる男ではあったが、谷川岳で多くのルートを拓いていた。池田氏は、「彼はもう酒びたしで攀れませんよ」といったが、ぼくは遠征したら立ち直るんじゃないかと反論した。
 たぶんぼくは、彼の書く文章や文体に惹かれていたのだと思う。重廣はけっこう強く反対したが、ぼくのわがままを許してくれたようだった。
 こうして、隊は出来上がっていった。

***

 スポンサーを出来るだけつけて隊員の自己負担を減らすのは、隊長の務めだった。日本専売公社がついてくれた。翌年に発売する予定の新ブランドのタバコを持って宣伝用の写真を撮ってくるのが条件だった。タバコは軽いし宣伝写真はどこでも撮れる。楽な条件といえた。紙上後援ということで朝日新聞社が応援してくれることになった。京都の酒造会社がスポンサーになってくれたが、この条件は厳しかった。頂上でのお酒の小瓶をもった写真とムービーというのが条件だった。
 京都祇園にある教え子が経営するクラブで、交渉の会議を持った。こちらは要求する金額を示し、相手は条件を示す。そしてこう確認を求めた。
「きっと登れるんですね」
 ぼくはたじろいだ。そのときはもう許可はきていた。あの危険な難峰のラトックⅠが100%登れると言い切れないではないか。ぼくが、ぐっとつまっているとき、横の重廣が、
 「大丈夫です。登れます」ときっぱりといった。これで話は成立したのである。
  隊員はみんな仕事が忙しいので、山での合宿などはやれなかった。月に一回のミーティングを京都、名古屋、信州と場所を変えて行っていた。
 ぼくは、隊の融和とかチームワークとかに意を注いだわけでなかった。チームワークの本義は、優れた個人の仕事量の総和という意味だとぼくは考えていて、みんなにもそう説いていた。
 きわめて困難な岩壁では、自分を守るだけが精一杯であり、それで十分だと思っていた。
 そして、行って、見て、「ラインが引けたら攀れる」と、これを合言葉のように唱えていた。
 しかし実際に成功するためには、きわめて科学的で冷徹なロジェスティックスが必須であり、これを作り上げていったのは、ぼくと同じ応用化学科専攻の重廣だった。
 名古屋でのミーティングの時のこと。そこはスポーツ選手がよく合宿するというユースホステルだった。管理人のおじさんが、帰り際に説教した。「皆さんは難しい山に攀りに行かれるんでしょ。こんなにてんでばらばらで、大丈夫なんですか」
 ぼくは、すみませんと謝っておいたが、なにゆうとるんじゃい、お前らに分かるかと心の中で思っていた。
 登攀の最初のオペレーション、C2までのルート開拓は、落石をかいくぐってのものだった。神経をすり減らす一日のルート開拓を終わってC1に戻った隊員たちは、みんな互いに、遠く離れた氷河上の石に座って黙り込んでいた。きっと打ちひしがれた自分を他のメンバーに見せたくないのだとぼくは思った。それは一種のメディテーションの時間であり、精神的に強い自分を取り戻すための行動のように見えた。

****

 岩壁に張り付いた氷を削って、C2が建設された。
 C2から上部へのルート開拓が始まった段階で、ぼくもC2にあがることにした。開拓のオペレーションは、二つのグループが交互に開拓を行うことになっていた。ぼくと重廣はどちらのグループにも属さず、フリーで動けるようになっていた。
 この頃、C2では深刻なトイレットペーパー不足に悩まされていた。ぼくが何度か話して聞かせたラトックⅡでの状況が必要以上に隊員のみんなに浸み込み、誰もだれもがトイレットペーパーを荷物に入れるのを躊躇したらしいのだ。
 だからぼくは、トイレットペーパーの補給ということで、トイレットペーパーばかりを運びあげてもよかった。でも、ぼくはそうはせず、むしろうんと重い荷物を担いでC2に向かった。俺でもこれだけ担ぐんだぞというプレッシャーを与えてやろうと思ったのだった。
 しばらく氷河を進むと危険な氷のガリーに入る。
 すばやいステップでのぼり、止まるとすぐ上部をうかがう。氷を飛び跳ねながら握り拳から頭くらいの大きさの落石がやってくる。じっと待つ。当たりそうな直前にすばやく身をかわすのがコツである。
 しばらく登って大岩壁の取付きに達する。張られたフィックスに2個のユマールをセット。ユマーリングというのは、普通は垂れ下がったローブにぶら下がって10センチ刻みでずり上がる、なんとも単調な労働なのである。でもここでは、そんなのんびりしたものではなかった。
 朝日に照らされて、アイスキャップが白銀に輝いている。はるか上部の岩壁にも日が当たりだした。その美しい光景を、痛くなるほど首を曲げ仰ぎ見ていると、「ブゥーン」という蜂の羽音のような、なんだか耳の奥がくすぐったくなるような低周波の音が聞こえてきた。
 落石がくる!。岩に張り付き、顔を岩に擦り付け、目を閉じて身体を硬くする。音はだんだん周波数が高くなって、「ウゥーン」となり、そして耳元で「ピュッ」と鳴って、通り過ぎるのだ。不思議なことに岩にはねる音がない。落石はまったくノーバウンドで空中を飛んでくる。これに当たれば、銃で撃たれたようなものでひとたまりもないだろう。当たったら運が悪いのだ。そう思いながら、岩に張り付くことを10回もくり返さないうちに、まるで鷹の巣のようなC2に着いた。

*****

 重廣と一緒にルート開拓から帰ってきた渡辺が、ぼくのザックを受け取って、驚いたようにぼくの顔を見た。それにしても、C2はとんでもない場所にあった。そこはテラスにのった氷を削り取った所に、テントがかろうじてのっていた。テントの周りにはほとんどスペースがなく、テントを出るやいなや岩壁に手すりのように張ってあるフィックスロープにゼルブストを取らないとならない。
 もちろんキジ場などはない。この固定ロープを頼りに岩壁をトラバースして、まるでアブザイレンの姿勢で大も小も用を足すのだ。面白いC2小咄を聞いた。ここにはトイレットペーパーがなかったから、指を使わないといけない。拭いてから、手を激しく振って着いた汚物を振り飛ばそうとする。その時手が岩壁に当たり、「あ痛ったたー」と思わず、その手を口に入れてしまうというのである。
 この夜重廣は、終始ぼくと顔を合わさなかった。渡辺が小声で、「重さんどうする。隊長は頂上に行くつもりですよ」というのが聞こえていた。ぼくが行ったらそれは大きなお荷物だ。来るなとも言えず、彼は困っていたのだろう。でもぼくも、心配するなそんな気はないよという本心は告げなかった。そして翌日、ぼくは下に向かったのだった。このなんでもない出来事は、後々までなぜか心に残った。
 話は遡るが、これは山に向かう時のラワルピンディでのこと。ぼくたちも当時各国遠征隊の定宿となっていた、ホテル・ミセスデービスに滞在し、スカルド便の飛行機待ちをしていた。ベランダで重廣が漫画の本を読んでいる。訊くと『はぐれ雲』ですよと答えた。「それなんや」。はぐれ雲とは主人公の名前であるという。「へえぇ、どんな男なんや」というぼくの問いに、彼は半ばはき捨てるように「高田さんみたいな男ですよ」と答えた。
 帰国してから、シリーズ物の『はぐれ雲』を読んでみた。そして、彼がぼくのことを、けっこう無頼な遊び人と捉えていたことが分かった。でもそれはぼくにとっての褒め言葉のように思えたのであった。この本の主人公は突如人の意表をつく動きをする。そう考えれば、重廣のC2での困惑も理解出来るような気がしたのだった。
 ラトックⅠ遠征隊の試みは、当時まだ一般的な概念ではなかったが、ぼくにとってはプロジェクトチームであり、一つの実験的な遠征隊であった。そしてその試みは、幸運にも成功したのだった。
 30年近くが経ち、あの時一緒した、松見、渡辺、奥の三君はもうだいぶ前からこの世の人ではない。
 ラトックの山々とともに、あのときの日々と人たちが想いだされ、長い年月がたったのだと今更のように思い浮かぶのである。

コングール峰・戻らなかった三人とぼくの最後の遠征登山

 ラトックⅠから帰国し、あわただしい気分の抜けぬ1979年の暮れ、突然京都ホテルに集まれという京都カラコルムクラブからの招集がかかった。
 かねてから申請していた中国新疆省のコングール峰の登山許可が得られる見通しとなったということが披露され、みんなは浮き立っているようであった。
 1975年のラトックⅡ前後からカラコルムクラブとは疎遠になっており、コングール峰のことは全く知らなかった。帰ってきたばかりのぼくとしては、遠征登山はもういいわ、という感じであった。
 数日して、ディラン隊の隊長でカラコルムクラブの会長の小谷さんから連絡があった。
 ロータリークラブで、山の話を聞こうということになったので、重廣氏にエベレストの話を依頼してもらえないかということであった。重廣はこの年の5月にエベレストの北壁を尾崎隆氏と登っていた。
 ロータリークラブの講演の後、小谷さんはお抱え運転手が運転するビュイックで、重廣君を電車の駅まで送った後、府庁に向かい、一人中に消えた。帰ってくると「いやぁ、副知事の野中さんが離してくれなくてねぇ」といった。
 そして、コングールに登れる強力な隊を組織してほしい是非にと、強く私に依頼した。学校の休暇のほうは、心配しなくてもいいとのことだった。
 考えてみれば、すでにこのときから、コングール隊は京都の特殊な政治的対立の代理戦争の素材になる運命を背負っていたのだが、その時そんなことが分かるはずもなかった。
 ぼくは、しばらく考えさせてほしいと答えた。
 数日後、大阪に向かって走るビュイックの中で、ぼくは隊長を引き受けることを承諾した。しかし、条件をつけた。隊員選考には、ぼくの考えを最優先させていただくこと。隊員の自己負担はゼロとすることの二点であったが、小谷さんは快く了承してくださった。

 隊員選びには、ラトックⅠのときと同じように、山渓の池田さんの推薦を参考にした。
 1965年のディラン隊のとき、隊長のかばん持ちをしてあちこちを回ったりした経験から、ぼくには小谷さんの考えていることが、よく分かった。彼は重廣君の参加を望んでいたと思う。
 しかしなぜか、ラトックの時のように重廣にすべてをゆだね、彼をを最優先する気にはならなかった。
 まず、松見親衛。ラトックⅠの隊員で、彼のおおらかな人柄にほれ込んでいた。
 寺西洋治さんは、ラトックⅠのとき、同時期にラトックⅢに登頂した広島隊の隊長さんで、ベースキャンプがそばだったこともあり、よく会話を交わしていた。その時、彼はぼくに、「次の計画の時には必ず声をかけてください。約束ですよ」といっていたのだ。
 鴫満則さんは、池田さんの推薦で隊に加えた。鴫秋子さんを呼んではどうか。二人はペアだからと、池田さんは言ったのだが、ぼくはスンナリ受け入れられず、松見さんに聞いてみた。彼も賛成しなかった。鴫さんからの直接の要請がない限り何もいわないでおこうと思った。
 松見は、重廣の去就を一番気にしていた。「シゲさんは来るんですかねぇ。きっと土壇場で参加するといいますよ」
 ミーティングには、常に彼を呼んでいたのだが、隊員としてではなくアドバイザーとしてであったし、ぼくが言わない限り、彼が自分から参加を言い出すことはないことを、ぼくはよく知っていた。
 重廣の参加に最も異を唱えたのは、鴫さんだった。「コングールは重廣さんの山ではないと思います」と強い口調で言い、松見も同意を示した。彼らは、明らかに、新しいスタイルの高所登山を望み、重廣の参加によって、そのスタイルが壊されることを危惧していたのだと思う。ぼくもまたそうした考えに共感を覚えていた。
 しかし今にして思えば、重廣には参加を求めるべきだったし、鴫さんにも鴫秋子さんの参加を打診すべきだったと思う。もしこの二人の参加があれば、あのようなコングールの悲劇は避けられたのではないかと悔やまれる。

**

 イギリスのボニントン隊が、同じ時期に許可を得ていることが分かったのは、しばらく後のことである。
 ボニントンは、ボニントン一家のメンバーを引き連れて、南面から攻めるという。それだけではない。彼らは強い政治力を働かせ、英中文化協定なるものを作り、その中には「処女峰を登らせること」との一項があるというのだ。日本隊には先を越させるなということである。イギリスのやりそうなことだと思ったものの、どうしようもない。
 案の定、中国の登山協会からベースキャンプの建設は7月以降にするようにとの通達が来た。
それを守っていたら、登山のチャンスを逃してしまうではないか。ベースキャンプではなくてベースハウスと呼ぶことにすればいい、とぼくは考えた。それに、英国隊は条件のいい南面ルートを押さえているので、日本隊は北面のルートを取らざるを得なかった。
 ボニントンはすでに、偵察に向かっているという。スポンサーは、あのアヘン商人の末裔のジャーディンマティソン。スコッチウィスキー・ホワイトホースの輸入元である。
 わが方日本隊の大口スポンサーは、すでにサントリーに決まっていた。
 山渓の池田さんから連絡があった。偵察を終えたボニントンが、帰りに香港を経由して日本に立ち寄る。レセプションをやるので、出席者の人選を頼まれた。「もちろん高田さんも挙げときました」
 ところが、数日して、「あのレセプション、高田さんの出席が拒否されました」という連絡があった。
 ジャーディンが、商売敵のサントリーをスポンサーにつけている隊の隊長はお断りといってきたという。
 きばって行くほどのこともなしと思っていたら、また数日して、ボニントンがぜひ会いたい。当日の朝、帝国ホテルの朝食を一緒にしてもらえないか、そう頼んでほしいといってきたという。
 実はこの少し前、池田さんから面白い話をきいていた。ラトックⅠの許可は、実は最初はボニントンに出ていたという。しかしボニントンは何人も死んでいるラトックⅠは危険すぎると考えキャンセルした。だからぼくたちの日本隊に許可がきたのか。そして、その難峰を日本隊はスンナリと登ってしまったのだ。
 ボニントンがぼくに会ってどんな奴かを確かめようと思っても何の不思議もない。ぼくはそう合点した。
 ぼくたちは、帝国ホテルの食堂で会って朝食をともにした。
 ボニントンはアラン・ラウスを伴って現れた。トーストを食べる間くらいの時間でたいした話もしなかったように記憶する。何をしゃべったかほとんど覚えていない。ぼくはけっこう敵愾心を抱いていたのかもしれない。でも好青年のアラン・ラウスには好感を持ち、彼からのアルパインスタイルについての話を興味深く聞いたように思う。
 コングール隊が悲劇的な結末を迎えたすぐ後、アラン・ラウスから丁寧なお悔やみの手紙が届いた。
 お悔やみの手紙は彼だけではなく、ピーター・ボードマンとジョー・タスカーからも来た。
 コングールの翌年の1982年春、ボニントン以下4名の登山隊がエベレストに行く。そしてピーター・ボードマンとジョー・タスカーは、8200mの第1ピナクルを越えた後、消息を絶ち二度と戻らなかった。
 世界のトップレベルの実力を備えた寺西、松見、鴫のパーティは、北稜からコングールを目指したが、運悪く悪天に囚われ再び戻ることはなかった。
 このコングールの日本隊と同じ状況をボニントンも経験したということなのであろう。そしてアラン・ラウスもまた、まもなく山で死んだ。

***

 コングール登頂のすぐ後、来日したピーター・ボードマンが池田さんに語ったという話は、大変印象深かった。
 コングール頂上に達したボードマンたちは、北の前方にもうひとつのピークを見た。それは、いま立っている頂上と同じかあるいは少し低いと思われた。日はすでに傾きつつあった。下山を急がねばならない状況であった。
 でも、あのピークがもし数メートルでも高かったら、そして北側の日本隊が登ったら・・・。
 彼らは必死の思いで山稜をたどり、そのピークに達したとき日が落ちた。雪洞を掘ろうとしたが、1メートル下は氷できわめて不十分な物しかできず、厳しく危険なビヴァークを強いられたという。
 彼らは、日本隊の成功を信じていた。寺西、松見、鴫の実力を高く評価していたといえる。この話を聞いたとき、貴重な3人を失った責任みたいなものを、悲しみとともに改めて強く感じたのを記憶している。
 戻ることのなかった3人にとって、山での死は想定内のことであったとぼくは思ったし、今でもそう思う。しかし帰国したとき、残された家族から投げかけられた言葉、「どうして主人を止めてくれなかったのですか」とか「どうして途中まででもいいから、ついて行ってくれなかったのですか」などなどの言葉は、名状しがたい苦痛とやるせない憤懣をぼくに与えた。それらの言葉が、肉親の限りない悲しみの産物であることを理解するのには、かなりの年月を必要としたようだ。
 山岳界からは、別の批判と冷たい視線が投げかけられた。それは、小谷総指揮の記者会見の場での発言「極地法から一足とびにアルパインスタイルを試みたのは冒険だった」に対するものだった。ぼくとしては、そうした批判に対して、もちろん反論ができるわけがなく、また弁解もできずで、苦しさと腹立たしさをこらえて、ただ沈黙を守るしかなかった。
 ぼくがその頃感じていたのは、山登りの世界で名をなした人であっても、死線を越えるような登攀体験をした人たちと、そうでない人たちとは決定的に違うんだということだった。
 今にして思えば、これらもまた極めて傑出したクライマーを失った損失に対する山の世界からの反応であったのだと思う。
 この遠征がぼくにとって最後になったのは、そうしたことが原因だったのかもしれないし、ぼくの興味が山登りよりも当時出回り始めたコンピューターに移行したことによるとも思える。
 考えてみれば、あの後さらに遠征登山を続けていたら、ぼくはもうとっくに生を終えていただろう、と今にして思う。
(左から、松見、寺西、鴫の3故人)コングール峰の三人.jpg

ラトック1峰遠征を終って(日本山岳会会報「山岳」1980年)

ラトック1峰遠征を終って                高田直樹

 成功したにしろ、失敗したにしろ、遠征隊に関する分析は、すべて結果論である。ぼくはそう思っています。だから、いかにも科学的な装いで行われる因果関係の分析は、時に、実に馬鹿げた結論を引きだすことがあります。
 というようなことを充分承知したうえで、なおかつ、ラトック1峰隊の分析を試みたいと思うのは、一つには、今の山の世界で、行ってきました、登れました、では何とも芸のない話であると考えること。また、テクニカルなデータを披露してもあんまり意味はないし、第一、ぼく自身、むろんベースのお守りをしていたのではないにせよ、頂上に立ってはいない以上、それはぼくの任ではないと思うのです。
 そして、さらには、ラトックー峰を目指した、<ビアフオ・カラコルム隊>が、あんまり前例のない隊であったと考えるからであります。
 何のトラブルもなく、しかも成功裡に終った隊であっても、すんでしばらくの間は、色々の雑然とした思いが錯綜して、思考は一種の混沌の中にあるのが常のようです。遠征が終って、約一年が経過した今、ようやく、少しは客観的に、自分達の隊のことが考えられるのではないかと思う訳です。
 『岩と雪』71号の TO FOREIGIN SUBSCRIBERS には、次の如き記載があります。
 -And it may be a success by new kind of a mauntaineering party in Japan.
 ぼくは、だから、ここで、では、どこが、どういう風に、「ニュー・カインド・オブ」であったのか、それを考えてみたいと思う訳です。

1.プロジェクト・チームとしての登山隊
 登山を目的とする人間集団は、本来的に、プロジェクトチーム的な色彩を持っているはずです。ところが、現実には、そうした事が明確な隊はあまりなかったのではないか。これは、遠征隊に於ては、その構成員の目的が、多岐に亘っているからだと思います。もちろん、みんな頂上に登りたいという一点では一致しているとしても・・・。もちろん、最初から、ベースキャンプで満足する、あるいはある高度に達したら、それでいい、という人がいるのは論外としての話です。
 遠征隊は普通の場合、日本における山岳集団、山岳会やあるいはそれに類するものによって構成されてきました。それはいわゆる中根千枝のいう「場の理論」による集団、平たくいえば、「おなじ釜のメシ」集団にすぎず、その遠征は山に場を貸りた一つの旅行にすぎない、人数の大小に関係なく、理念的には、トレッキングと同列だといえる、と思うのです。
 誤解があっては困るのですが、ぼくは、ここで、プロジェクト・チームだけが遠征隊で、他はちがうといっている訳ではありません。またプロジェクト・チームとしての遠征隊だけが成功するといっている訳でもありません。
 プロジェクト・チームとしての隊は、当然、セレクト隊、選抜メンバーということになり、そして、普通の場合「混成隊」となります。
 これまで、「混成隊」は成功しないもの、内輪もめを起すもの、という定説ができあがっていたようです。どうしてそうなったのか。
 これまで「混成隊」の指導者がとったポリシーは、次の二つではなかったかと、ぼくは考えます。一つは、「混成隊」にその場限りの付け焼刃的「同志意識」を作ろうと試みたり、短かい準備期間に大急ぎの合宿をしつらえ、山岳会的「結社意識」を期待したりします。このどれも、全て疑似幻想にすぎませんから、厳しい高山の現実に直面すると崩壊して当然で、メンバーは、思い違いのいらだちをぶっつけ合うことになります。
 また、上層部がメンバー個々に、秘かに、「君だけに期待している」みたいな感じのささやきを行う。このやり方は、日本的風土によく合っていて、うまくゆきそうな気がします。でも、これまで、うまくゆかなかったのは、きっと「秘話式トランシーバー」がなかったからだと、ぼくは考えています。
 ところで、こうした形の「混成隊」は、すでにもう、プロジエクト・チームとはいえないことになります。
 もう一つの「混成隊」ポリシーの形は、はっきりと、全員登頂を唱ったり、強いものが登頂できるとして、登頂チャンスの公平化のタクティックスをとる。この場合、全員登頂というのは、見込みによるウソをついている一種のサギ的要素がある。それと、こうした場合、「混成隊」はプロジェクト・チームというより、一つの「コンペ集団」となって、アクシデントの確率は高まる。エベレストの国際隊がいい例のようです。このような混成隊の決定的なデメリットは、メンバーが、最後の突込みに備えて、エネルギーを温存し、お互いに競争相手をうかがうという状況が生じて、一向に荷上げがはかどらないということになる点です。
 そして、成功しても、失敗したときはなおさら、こうした競争相手、いわば敵としてのメンバー同志には、冷やかなものが残ることになるでしょう。
 さて、プロジェクト・チームとしての<ビアフオ・カラコルム隊>はどうであったか。
 プロジェクト・チームというものは、まず、人間関係において、またその他あらゆる発想においても、あいまいさのない明快なものであり、かつドライなものでなければならないと考えました。
 これは、目標の山の設定、隊員への呼びかけに於ては、ほぼ貫けたようです。ただ一人の隊員に関しては、少々原則をはずれたと思われるふしがあり、このことのあやまりは、後に事実となって示されたように思います。もう少し明確にすれば、参加不参加の決定は、神経質なまでに、相手の判断にまかせねばならないということです。
 電話を心当りにかけ、目的、期間、費用等を話していた頃、一人の人は、こんなことを言って、ぼくに忠告してくれました。
 「やっぱりこういう話は、じかに会って、酒でもくみ交しながら、やられた方がいいと思いますよ。みんなそうするんですよ」
 しかし、ぼくは、そのやり方自体を忌避していたのですし、そうしないと来れないような人は、こっちも必要としていなかったのです。だから、この忠告を、ぼくは「ありがとう」と素直に受けとっておきました。
 いま考えてみて、私たちの遠征隊は、プロジェクト・チームであったとしても、完全なものではなかったし、それは未完のプロジェクト・チームであったといえるでしょう。ただそうした方向性と志向を持っていたということは、はっきりしているといえます。
 でも、本質的に、遠征隊は、プロジェクト・チームであり続けられるのか。とくに、苛酷な自然条件の中で、四六時中、生命の危険におびやかされるような空間において……。
 これは、遠征期間中に、だんだんと、ぼくの心に発生した問題でした。

2.母性原理と父性原理
 唐突なタイトルで恐縮ですが、この二つの対立概念は、遠征期間中に、ぼくの頭に漠然と浮かび、帰国後しばらくして、かなり明確になったものです。
 明察な諸氏は、すでにご承知と思いますが、母性原理とは、没契約的、包容的、許容的な母の愛の様な考え方であり、父性原理は、反対に、契約的、区別的、競争的、価値判断的な切り捨て原理といえます。
 ところで、少し話がそれるようですが、近代日本は、父性原理を軸に発展してきたといえます。でも、それまでの日本は、母性原理を基底にすえており、この母性原理を貫くための権力者として家長があり父権が存在していました。戦後、父権は消滅したものの、企業等には、終身雇用制、年功序列制に見られる如く、母性原理は厳然と生きているようです。
 ある言い方をすれば、前近代的ともいえる母性原理を温存し、父権原理との日本独自のバランスを按配したところに、近代目本の発展があったともいえると思うのです。
 ところが、山登りの世界では、リーダーシップとパーティシップとか、メンバーシップと、フェローシップというような極めてバタ臭い父権原理に基づく概念導入がなされました。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトというような舌をかみそうな考えが、喜々として語られ、それが現在に形を変えて生き残っているのではないかという気がするのです。
 「山登りは個人に属する」と考え、極めてヨーロッパ的な父権原理的発想で、海外登山に出掛けても、もともと「個人」の存在を許さない日本の風土に育った日本人であってみれば、すぐに馬脚が現われてくるという訳です。
 さて、<ビアフオ・カラコルム隊>の場合、ほとんどのメンバーが、海外登山の経験者でした。そうした経験を通じて、自分がどういう状況でどうなるかということを予測できる人間が多かったし、彼等においては、外国経験を通じて、ある程度、「個人」の確立が行われていたようです。
 そして、隊編成の始めから、明らかに父性原理的発想に基づくプロジェクト・チームとしての隊であることを感じ取っていたと思われます。
 ぼくは、遠征が、和気あいあいと遂行できるとは、全く考えませんでした。むしろそうしたムードは百害あって一利なしと思っていました。そうした見せかけのチーム・ワークと呼ばれるようなものは、どうでもよいと考えていました。
 もし、ピンディあたりのホテルの食堂で食事をしている私たちの隊を見た人がいたら、その人はきっと、なんと冷ややかな隊で、テンデンバラバラなチームか、と思ったことでしょう。
 登攀活動を開始すると、隊員は興味ある行動を示しました。一日の行動が終ると、各々、物理的にも精神的にも自分だけの場所に閉じこもる傾向を示したのです。肉体よりもむしろ神経をすりへらすような登攀が終った時、再び立直るためには、一人になるのが一番だったようです。とても、談笑のうちに回復するというような次元のものではないと思えました。それに、打ちひしがれている自分を人に見せたくないという気持が働いたのかも知れません。
 ぼくは隊長として、慰労に気を配るべきだったかも知れません。しかし、そんなことはあまり効果があるとは思えなかったし、ぼく自身まいっていて、自分がしやんとしていることだけで精一杯でした。
 ぼくは、荷上げに関しては、自己管理をするように申し渡してありました。自分の持てるだけ持って荷上げせよ、という訳です。もし、トータルとして予定量が上がらなかった場合は、ボッカ量の割り当てを行うことにしていました。結果、そうする必要はなく、予定通りの荷上げができました。
 でも、これは、皆が均等に持った訳では決してなく、誰かの分を誰かが肩代りして、余分に持上げていたことになります。
 トイレットペーパーばかり上部にあがったという、ぼくの過去の遠征隊での荷上げ自己管理の失敗は話しておきました。
「あんな奴はベースにおろせ」という要請が、あまリ持たない隊員に関してあった時、「なんにも上がらんよりましではないか」となだめたのは、隊長としての母性原理の行使でありました。そのため、だれもつぶれず、全員頂上に向えたのだと思うのです。
 今日の海外遠征登山に於て、隊の編成過程にあっては、父性原理にのっとり、遂行段階では日本の伝統的思考である母性原理を、うまい具合にからませてゆくのが、最もいいやり方ではないか。結論的にそういえるような気がしています。

3.メンバー相互の呼称
 「混成隊」の場合、メンバーがどう呼び合うかは、一つの重大な問題であると考えていました。なぜならば、高所登山というフィールドに於ては、登攀能力のみに限られない、総合的能力が必要とされ、そうした実力序列は、否応なしに、全メンバーの眼に明らかとなります。そして、そうした序列を反映するのが、呼称であると考えていたからです。
 基本的に、名前でよんだり、ニックネームをつけたり、あるいは「ちゃん」づけにするようなことには、賛成できませんでした。それは、安直に、擬似親近感を醸成するのみで「個人」の消滅につながるのではないかと考えていたのです。
 別の推論をやってみましょう。AとBがいて、Aの方が実力が上だとBは思っている。しかし、Bはその事実を認めたくないし、またAに、「ぼくは君が上だと思っている」ということを示したくないとします。この湯合、Bは、「Aさん」と呼んではいけないのです。たとえ、Aが「Bさん」と呼んでいたとしても、この時に現われる呼び方が、「Aちゃん」ではないのでしょうか。
 遠征登山に於ては、実力の序列は、それが自然なものならばあった方がよいと思います。例えば、トップを決める場合にも変な張り合いが起る危険も少ないのではないかと思うからです。「ちゃん」呼称は、無意味に序列づけを混乱させます。
 そんな風にぼくは考えていたので、準備段階で、「そんな幼稚園みたいな呼び方は止めよう」と提案しておきました。結論として、「ちゃん」呼称はなかったようです。ほとんどの隊員は、すべて、「さん」呼称で呼び合っていました。ぼくの場合は時として、「隊長」と呼ばれることがあった様です。ドクターは「ドクター」でした。
 ぼくが隊員を呼ぶ場合は、時として、呼びすてにすることもありました。これは、親近感をもった時には、そうなったようです。終始、呼びすてにしたメンバーも数人ありましたが、これは、この遠征に最初の段階からかかわったメンバーに対し、その事を明確にするためにそう呼んだのです。

4.終 り に
 いずれにしろ、ラトック1峰は、ぼく個人の見解ですが、一つの実験登山隊によって登られたと考えています。
 実験登山隊でありましたから、正直いってたとえ成功しなくても、ぼくとしては、それなりの成果はあったのだろうと思います。まあ、失敗していれば、こんなことを仰仰しく述べると、世間の失笑を買うことになったのでしょうから、やはり成功してよかったのでしょう。
 パキスタン放送のインタビューで、「これまでの隊が全て失敗していた山に、なぜ成功したか」という質問が出た時、ぼくは、つたないウルドー語で次の様に答えました。
 一つは、これまでの隊が見出せなかったルートのラインを見つけたこと。二つ、メンバーは、みんな経験があり極めて強力であった。三つ、アラーの神が、常に我々と共にあったからだ。
 いってみれば、成功とは何とも単純なことなのかも知れません。

<記録概要>
隊の名称 ビアフォ/カラコルム登山隊1979
活動期間 1959年5月〜7月
目  的 ラトック1峰初登頂

隊の構成
隊長=高田直樹(43)、登攀リーダー=重広恒夫(31)、隊員=松見親衛(32)、奥淳一(31)、遠藤甲太(30)、武藤英生(29)、中村達(29)、渡辺優(29)、城崎英明(22)、医師=五藤卓雄(34)

行動概要
 6月10日バインター・ルクパール氷河上4600メートル地点にBC建設。南壁右寄りのピラーにルートを取リ、途中ニケ所の中間デポを設けて6月20日CI(5500メートル)建設。6月21日雪崩によりCIが流失した為、以後はBC・CI間の第二デポをCIとして使用した。6月30日(5800メートル)建設。その後核心部である70メートルの重壁を二日間を費して突破し、7月8日C3予定地(6300メートル)に到達。C3予定地はテントを張るだけのスペースがなく、ビバークを繰り返すこととする。7月15日南壁上部のアイス・キャップに達し、C3(6500メートル)建設。7月17日重広、松見、渡辺の三隊員により第一回アタックを試みるが、ロープの不足と天候の悪化でに引返す。7月19日同じ三名にて再度アタック、新雪と頂上直下のスラブに苦労しながら19時45分初登頂に成功。7月22日第二次隊の三名(武藤、遠藤、奥)と重広がC3より第二次登頂を果す。

SWATマナリ・アン1969—マナリ・アン(マナリ峠)の位置の同定

 〜京都府山岳連盟西部カラコルム教育調査隊1969年の記録〜

 スワットというところは、あまり高い山もなく、いくつもの7000メーター級の未踏峰が残っていたその当時、訪れる人は少なく、未知の要素が多かった。
 マナリ・アンのことを知ったのは、1965年のディラン峰の遠征隊で同僚隊員だった土森君からの話だった。
 彼は、1967年、車とバイクでインドから北欧までを走破するという大遠征を行ったが、その途中スワットに立ち寄ったのだった。
 この文献でのみ知られる峠に興味を持った彼は、その所在を突き止めようとしたが果たさなかった。
 1969年、ディラン隊の隊員をそのままメンバーとする京都カラコルムクラブが、カラコルムの未踏峰カンピレディオールに隊を派遣することになった。
 ディラン峰登山の後、山ではなく人に的を絞った山登りなり旅なりをやってみたいと思い続けていた私は、これを好機と捉え、西パキスタン辺地教育調査隊を組織することにした。
 メンバーは、大学以来のザイル仲間の関田和雄、勤務していた高校の山岳部OBの安田越郎、中村達と私の4名。
 1965年のディラン峰遠征時、京大による日パ親善事業としてのガンダーラ合同発掘調査が行われており、そのために持ち込まれたトヨタのランドクルーザーがあった。その車はそのまま日本大使館に保管されていることを知っていたので、これを使うことを画策した。
 今川書記官の話では、この車は京大が無税で持ち込んだものであり、大使館でも処置に困っている。結局ペシャワールのミュージアムに寄贈することになったという。そこでその陸送を任せてもらえないかと持ちかけ、さらにじっくり話をつめて、渡す日取りにはいつまでという期限はないことにしてもらった。
 調査に関しては、京大人文研の梅棹忠夫教授に指導を仰いだ。各国女性のポートレートを見せて行う嗜好調査や音楽の嗜好調査などは、「そういう調査はパキスタンに限らず初めてでしょう」といわれた。調査には、ウルドー語が必要と思われたが、私たちはすでに、1年位前からウルドー語の勉強会を継続して行っていた。
 記録映画の作成も計画した。松竹映画社が、篠田監督による『白きたおやかな峰』の映画化を計画しているという話を聞き及んでいた。
 松竹映画社にボレックスの撮影機2台の貸与とフィルム10時間分の提供をお願いし、渋る相手を「あの映画化の話を諦めておいででなかったらOKしてくださいよ」と説得した。
 撮影は関田が担当し、帰国後、京都市役所広報課の映画製作のプロ、寺島卓二氏の編集協力によって、「ハラハリ〜幻の峠を求めて〜」(25分)の制作に取り掛かった。ナレーターは、劇団京芸の主任俳優にお願いし、インタビュアーは、桂高校放送部の女生徒に頼んだ。完成には約2ヶ月を要した。
 パキスタンはこの年、1958年の軍事クーデター以来ずっと軍政を敷いてきたアユブ・カーンが副官のヤヒア・カーンに取って代わられ、政情不安で戒厳令が敷かれているという状況であった。

【トヨタランドクルーザー。ルーフ・キャリーはカラチの鍛冶屋であつらえた】
ジープ.jpg 6月28日、カラチを出発した私たちはランドクルーザーを駆ってシンド砂漠を突き切りラホールにいたる。さらに北上を続け、7月12日ラワルピンディーに到着した。走行距離2900km。
 ハラハリ谷に入った私たちは、ゴジリー語といういまだ学会にも報告されていない言葉をしゃべる部族の夏村に達した。ここで、マナリアンを越えたことがあるという60歳の老猟師、アドラム・カーンを見つけ出す。4名のポーターを連れた彼の案内によってマナリ・アン越えは成功した。高度計によるマナリ・アンの標高は、4680mであった。
 後に彼の語ったところによると、これまでいくつかのヨーロッパの隊に依頼されたことがあったが、意思疎通のできない者と危険地に赴く気にはなれなかったという。私たちのウルドー語の勉強が実を結んだというべきか。

【滞在して調査を行った放牧夏村ハラハリ村の少女メラージ】
メラージ.jpg ハラハリ夏村に戻った私たちは、ここに定着して、調査を行った。この地の人たちが歌う民謡とその歌詞。子供の遊び、ゲームとそのルール。各家の配置および財産調べ(羊の頭数)など。
 スワットを後にした私たちは、カイバー峠をこえてアフガニスタンに行くことにして、まずはカブールを目指した。アフガニスタンのビザはもちろんイランのビザも取ってあった。ところが、カイバー峠を少し下ったところの検問所でストップをくらった。ロードパーミッションが必要ということだった。それに、車を無税で持ち込むにはカルネ(無税通関証)が必要だった。引き返さざるを得なかった。
(注:カルネとは他国に車を持ち込む際に、普通支払わねばならない関税を免除するための書類で、各国の自動車連盟が発行する。交付を受ける際には、当該自動車を売却しないように、かなり高額の保証金のデポジットが必要となる)
 そこで今度はギルギットに向かうことにした。

【ハラハリ氷河サイドモレーンを行くポーター】
ハラハリ谷ポーター.jpg いったんスワットに戻り、検問のないシャングラ峠を越えてインダス川へくだり、遡上することにした。
 私たちの服装といえば、全員白のパキスタン服。時に応じてランドクルーザの腹に日章旗を貼り付けたりした。
インダス川沿いのべシャンから川上に向かったが、パタンの工兵部隊にとめられた。
 スパイ容疑で部隊長のテントに留め置かれた。スパイ容疑とはいえ、毎夕部隊長と食事をともにして、いろいろと質問されるだけである。2日後に開放されたが、その時にはランドクルーザーは完全に整備されていた。
 次は、道を変えて、バブサル峠(4173m)を越えてパタンより上流のチラスに出ようと考えた。峠は越えられたが、しばらく下ったバタクンディ村の検問所で追い返された。
 車でのギルギット入りは、無理であった。
 たいした用事もないのに空路ギルギットに飛んだ私たちは、陸の孤島ギルギットで、帰りのフライトがなく、1週間の待機を余儀なくされた。 
ようやくラワルピンディに戻った私たちは、ペシャワールのミュージアムに行き、ここで、大使館との約束どおりランドクルーザーを渡し、カラチからペシャワールへのランドクルーザーの陸送は完了した。
 ランドクルーザの全走行距離:5108km。
この60日に及ぶドライブ遠征は、その日々がドラマにあふれ、実に楽しく、この思い出は消えることがないだろうとその時々に思ったものだったが、本当にその通りであった。(高田直樹記)

イプシロンのルーフキャリー

 イタリアの高級車ランチアの小型車イプシロンを買ったのは、ちょうど一年前だった。
 ランチアといえば、ヘミングウェイの愛車だったし、白州次郎の父親が花嫁の白州正子に結婚プレゼントしたのもこの車だった。そんな風で、ヨーロッパでは誰でもが知っている名車なのであるが、何故か日本ではあんまり知られていない。
ランチア・テーマ.jpg ぼくが、15年間乗っていたランチア・テーマという車は、日本でもたいそう人気があって、テーマクラブという愛好者のクラブが、テーマが消えてもう10年以上も経つのに、今も健在で活動を続けているようである。
 数年前、ランチア・テーマを手放すことにしてこのクラブに欲しい人にはあげますというメールを書いた。すると、3人の人が名乗りを上げ、そのうちの一人、つくば市の歯科医のSさんが、取りにおいでになった。

 イタリアでは、一番の大衆車はフィアット、高級車はアルファ・ロメオとランチアということになっている。
 リモネットに行きだした頃、クーネオに向かう道の途中のクーネオ郊外にランチアの大きな修理工場があった。何度かはここから部品を買って持って帰ったりした。しばらくしてこの工場はなくなった。ランチア経営はは調子が良くなかったようである。
 起死回生を願って出て来たのが、イプシロンである。何回かのモデルチェンジがあって、なかなかよくなって来た。
レンタルイプシロン.jpgイプシロン運転席2.jpg 数年前、その時はニースでシトローエンを借りていたのだが、イプシロンを2日間借りて、ラモッラまで走ってみた。なかなか快調だった。