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新年度が始まり、ぼくは3年生の担任となりました。すぐに遠足があって、奈良方面へ行ったと思います。
京都駅に何百人という生徒が、黒づくめの服をきて集まりました。生徒達は、プラットフォームに整然と並び、しやがまされました。
一人の教師が階段を四・五段上ると、全員を睨み回し、大声をはりあげて、
「お前たちは、これから奈良に向う。・……」
と訓示し始めました。
そのカン高い声は、ビンビンとひびき渡り、ぼくは、これはすごい、と感心していました。傍の先生にきくと、ヤマキンは軍隊帰りで、あの声が得意なのだ、ということです。そういわれてみると、その訓示は、これからの作戦行動を告げる上官のようでした。
その遠足、どういうコースだったのか、もうすっかり忘れてしまっています。でも、ハイキングコースを歩いて、「石舞台」をみたのは憶えています。
その「石舞台」に向かうハイキング・コースの坂道を登っている時のことです。その時、ぼくは、ぼくのクラスの集団の真ん中あたりを歩いていました。一人の生徒が、追いついてくると、なんとか君が、調子が悪いから引き返した、と報告しました。友人が、一緒について帰ったそうです。調子が悪いんだったら、追いかけてつれ戻す訳にもゆくまい。まあ、付き添いがいるんだったら問題もなかろう。人里離れた山の中という訳でもなし……。ぼくはそう思い、「ああ、そうか」といっただけでした。
ところが、しばらくしてその事を知った他の先生達は、意外にも、それは大変だといって、あわてました。大変だといっても、どうする訳にもゆきません。その生徒はもう帰りの電車か汽車に乗っているはずでした。
その時ぼくは気付いたのですが、一ケ月近くも、人跡まれという感じの山の中で過ごすということを何回となくやっているぼくには、こんなコースは、街中みたいな感覚があった。ところが他の先生達はそうではなく、その辺のところで先ずズレがあったんだろう。
ぼくは学生の頃、体育科に依頼されて、百人近い学生を引率して、北アルプスの数日間の山旅をしたことが二回ほどありましたが、そういう場所では、調子が悪いからといって勝手に引き返すような奴はいなかった。そんなことしたら、死ぬかも知れんと思うから、誰もやらない。
その生徒が引き返したのは、自分で帰れると思ったからなので、それはそれでいいのではないかと思いました。むしろ、引き返した瞬間から、彼等二人にとっては、非常に貴重な体験が始まるのではないだろうか。帰りに奈良市街から電話したら、まだ家に帰っていないというので、少し心配しましたが、ぼくが帰宅してもう一度電話したら、帰っていました。途中で寄り道したらしい。
翌日、大職員室で、ぼくを見るなり、ヤマキンは、例の大声で、「オマエー、きのうのことは軍隊なら重営倉だ」と怒鳴りつけたんです。
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「重営倉だ」
と怒鳴りつけられて、ぼくほポカンとしていました。
その意味ぐらいは分りましたが、なにしろ、どっちかというと戦争を知らない世代に属するぼくとしては、もう一つピンとこなかったのです。でも、すぐムカムカと腹が立ってきて、何といい返そうかと考えてもいい文句も浮かばず、
「学校は、軍隊とちがいますよ」
と、もぞもぞいっていました。
しかし、よく考えてみれば、学校は、もしかしたら、兵営とおんなじなのかも知れません。
まず、制服があること。やたら細かい規則。時間割による身体的拘束、点呼。集団訓練。罰則。そして、「無用の者立入を禁ず」の閉鎖性。そうすると学生服は一種の軍服である、といえるかも知れません。
まあ、こんな風に思いだしたのは、大分後のことで、その当時ぼくは、なんともイノセントに、学校は真理を教える所、なんて思っていたんです。
数年して、制服問題が起こりました。生徒が制服を廃止しろと要求し始めたのです。その頃には、もう、帽子をかぶっている者なぞは、一人もいません。制服を着ない、いわゆる異装生徒が増えていました。
学生服とちがう服を着る場合には、「異装届」を出さないといけない、という規定がありました。これを受付けるのは「生徒部」です。この 「生徒部」というのは、「生徒補導部」という名称だったのですが、ぼくが、補導というのでは、生徒全体を非行生徒扱いしていることになる、と主張して補導を抜き取ることになったのです。
さて、「異装届」は届けですから、適切な指導はできても、拒否はできません。取締りは、もっぱら、無届けの異装に限られていました。ぼくたち教師は、毎朝一時間目の授業で、異装の生徒には、届けの用紙の提示を求め確認し、不携帯生徒を報告するという申し合せをしていました。ぼくは、なんとくだらんことかいなと思いつつ、それでも、時々はやっていたんです。
ちょうどこの頃だったと思います。「赤シャツ」が出現したのは……。「赤シャツ」といっても、『坊ちゃん』のそれではなく、これは生徒なのでした。三年の「赤シャツ」君は、それこそ真赤なセーターを着て毎日登校しました。
当時は、世人の色彩感覚も、おそらく今とは大ちがいだったはずでした。「赤シャツ」は一躍有名になり、「目障りでしようがない。なんとかしてくれ」という教師の苦情が、再々「生徒部」に持ち込まれてきます。彼ほ、いつも三階の窓べりの席に座り、その赤は、どこからでも、目に刺さるが如き鋭どさで映じたようでした。
いつもカメラを肩にかけ、「赤シャツ」君は、一人で、威風堂々と潤歩していました。
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「赤シャツ」君が当時、まあ勇気あることだとはしても、存在し得たのは、半数近い教師が、その行為を是認していたからなのだと思うのです。もし、そうでなければ、たかが生徒の一人、たちまちのうちに誅殺されてしまったはずでした。
生徒部の部長のT先生は、なんとかして、「赤シャツ」君から、その赤シャツを脱がそうと、手を変え品を変えてやっていました。初めは部屋に呼んで説教に努めていました。全く効き目がないと分ると、今度は、彼をキッサ店に連れ出し、コーヒを飲みながらの説得に切り替えたということでした。
「赤シャツ」にごちそうしたコーヒ代だけでも相当の額になったはずです。それでも、「赤シャツ」君は信念を変えないまま卒業し、T先生の努力は全くの徒労に終ったのです。
軍隊の位では偉かったというT先生の、その教育的、いや正確には訓育的情熱には、ぼくも感心せざるを得なかった。そして、いつか、彼が、『あゝ江田島』という写真集を購入し、目を輝やかせて見入っているのを見て、なんとなく、「あゝこれは大変だ」と思ったのを憶えています。
あれはたしか「赤シャツ」君が卒業する時の卒業式でのことだったと思います。卒業式では、送辞・答辞の文案は、それをよむ生徒に任されているのが常でした。いつも、なかなかシビアな文句が飛びだして、ぼくは、いつもそれを聞くのだけが楽しみで、式に出席していたのです。答辞が始まり、その女生徒が、「大和は国のまはろば‥…・」とやり出し、「私たちは、日の丸を掲げることさえ許されませんでした」と続け、教師も生徒も一瞬あっけにとられて、シーンとなったその時、横に座っているT先生の腕がサッと動くのを、ぼくは感じました。
見ると、T先生の目からは、思わず涙が溢れており、手で目頭を押えているのです。ぼくは、ドキリとし、なんだか見てはならぬものを見た様に感じました。それは程度の差こそあれ、あの三島由起夫の割腹を知った時の感じと同質のものだったかも知れません。
T先生の思想というか考え方は、ぼくのそれとは相当にちがったものでした。でも、ぼくは、比較的よく彼とは議論したように思います。当時ぼくも生徒部に所属していたからということだけが、その理由ではないという気がしています。
彼には、千万人といえども我行かん、といった気概があるみたいで、それがちょっとよかった。彼の信条は、どうも軍隊体験と軍隊式教育の旧師範に依っているようで、気になりましたが、やたら教条主義的で、理論だけが先走りして、なんともちぐはぐな教師に較べたら、まだましだとも思いました。人間的にはなんか信頼できるという感じもありました。
教師と教師、あるいは生徒と教師、つまり人間と人間との関係というのは、思想信条、主義主張が同じかどうかではなく、つまるところ、お互いにどこかの一点に、一目おけるかどうかということではなかろうか、と思うのです。
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生徒会が制服を問題として取りあげ、生徒の討論をうながしたのには、相反する二つの意味があったようです。現状を規律の乱れととらえ生徒の自覚をうながそうということが一つ。もう一つは、制服規定自体が問題であるから、そんなものは削除すべしという考え。
そして、それはもう際限のない水かけ論が起こりました。たとえば生徒大会などでの討論で、一人が、制服の方が遅刻しなくなると主張します。そうだそうだその通りとの拍手。すると別の一人が、制服は、寝押しに時間がかかるし、ほこりが目立つので、ブラシュしているうちに時間がかかって、よけい遅刻すると反論。また大拍手、という具合‥‥・。
T先生は、こういう風に学校が乱れたのは、戦後のベビー・ブームの生徒急増期を機に、規律がみだれ、高校全入の状況がそれに輪をかけているのだと、ぼくに説明しました。彼の制服護持論に、ぼくはこんな反論をしました。
江戸時代には、武士を初めとして色んな階級があって、着物は規定されていた。女も丸まげ、お歯黒で、未婚・既婚が明らかになる仕組であった。その仕組をはずれた異装の者は傾者(かぶきもの)として社会から指弾、疎外された。こういう服装による身分規定はなくなってくるのが、時代の流れだとぼくは思う。それに、江戸の支配階級は、倹約令などを出して、華美の風潮をいましめていたから、目立たないもので、しかも高価な大島などを着用した。そこで、こうした支配階級の地味な好みが上品であるという観念が生れた。だから、こういう考え方に反逆するためには、むしろ下品なものこそいいという考えも生れるんではないでしょうか。
などと、いまから思うと、なんともいきった、ちょっと気はずかしいようなことを述べたてたものでした。
さて、生徒会は、全校投票で賛否を問い、僅少差で、制服は存続したのです。ところが次の年、もう一度投票が行われ、やはり僅少差で、こんどは逆転、制服廃止、自由服ということになりました。日本中、いや世界中をゆさぶった、スチューデントパワー、学園紛争は、もう目前にせまっていました。
T先生は、大分後に、新設校の校長となり、その学校は、制服はもちろんのこと、規則ずくめの厳格さで有名となりました。もしかしたら、彼は、なんとも時代錯誤的に、そこに現代の「江田島」を夢みたのかも知れない、とぼくは思ったのです。
桂高校は、そのままずっと自由服です。卒業生は、ぼくが聞く範囲で、自由服でよかったといっている。ところが、近ごろでは、「毎朝、子供が着る服に迷っているのを見るのがつらいから制服がよい」という親が現われるしまつで、ほんとにアホらしくなります。就職部では、就職試験には学生服を着ないとすぺります、と指導しています。
とはいえ、制服校では、校門で、スカートの丈、ズボンの幅を物差しで測ったりしている。そんなんよりは、かなりましなんではないか。ぼくはそう思っているのです。