ラトックⅠから帰国し、あわただしい気分の抜けぬ1979年の暮れ、突然京都ホテルに集まれという京都カラコルムクラブからの招集がかかった。
かねてから申請していた中国新疆省のコングール峰の登山許可が得られる見通しとなったということが披露され、みんなは浮き立っているようであった。
1975年のラトックⅡ前後からカラコルムクラブとは疎遠になっており、コングール峰のことは全く知らなかった。帰ってきたばかりのぼくとしては、遠征登山はもういいわ、という感じであった。
数日して、ディラン隊の隊長でカラコルムクラブの会長の小谷さんから連絡があった。
ロータリークラブで、山の話を聞こうということになったので、重廣氏にエベレストの話を依頼してもらえないかということであった。重廣はこの年の5月にエベレストの北壁を尾崎隆氏と登っていた。
ロータリークラブの講演の後、小谷さんはお抱え運転手が運転するビュイックで、重廣君を電車の駅まで送った後、府庁に向かい、一人中に消えた。帰ってくると「いやぁ、副知事の野中さんが離してくれなくてねぇ」といった。
そして、コングールに登れる強力な隊を組織してほしい是非にと、強く私に依頼した。学校の休暇のほうは、心配しなくてもいいとのことだった。
考えてみれば、すでにこのときから、コングール隊は京都の特殊な政治的対立の代理戦争の素材になる運命を背負っていたのだが、その時そんなことが分かるはずもなかった。
ぼくは、しばらく考えさせてほしいと答えた。
数日後、大阪に向かって走るビュイックの中で、ぼくは隊長を引き受けることを承諾した。しかし、条件をつけた。隊員選考には、ぼくの考えを最優先させていただくこと。隊員の自己負担はゼロとすることの二点であったが、小谷さんは快く了承してくださった。
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隊員選びには、ラトックⅠのときと同じように、山渓の池田さんの推薦を参考にした。
1965年のディラン隊のとき、隊長のかばん持ちをしてあちこちを回ったりした経験から、ぼくには小谷さんの考えていることが、よく分かった。彼は重廣君の参加を望んでいたと思う。
しかしなぜか、ラトックの時のように重廣にすべてをゆだね、彼をを最優先する気にはならなかった。
まず、松見親衛。ラトックⅠの隊員で、彼のおおらかな人柄にほれ込んでいた。
寺西洋治さんは、ラトックⅠのとき、同時期にラトックⅢに登頂した広島隊の隊長さんで、ベースキャンプがそばだったこともあり、よく会話を交わしていた。その時、彼はぼくに、「次の計画の時には必ず声をかけてください。約束ですよ」といっていたのだ。
鴫満則さんは、池田さんの推薦で隊に加えた。鴫秋子さんを呼んではどうか。二人はペアだからと、池田さんは言ったのだが、ぼくはスンナリ受け入れられず、松見さんに聞いてみた。彼も賛成しなかった。鴫さんからの直接の要請がない限り何もいわないでおこうと思った。
松見は、重廣の去就を一番気にしていた。「シゲさんは来るんですかねぇ。きっと土壇場で参加するといいますよ」
ミーティングには、常に彼を呼んでいたのだが、隊員としてではなくアドバイザーとしてであったし、ぼくが言わない限り、彼が自分から参加を言い出すことはないことを、ぼくはよく知っていた。
重廣の参加に最も異を唱えたのは、鴫さんだった。「コングールは重廣さんの山ではないと思います」と強い口調で言い、松見も同意を示した。彼らは、明らかに、新しいスタイルの高所登山を望み、重廣の参加によって、そのスタイルが壊されることを危惧していたのだと思う。ぼくもまたそうした考えに共感を覚えていた。
しかし今にして思えば、重廣には参加を求めるべきだったし、鴫さんにも鴫秋子さんの参加を打診すべきだったと思う。もしこの二人の参加があれば、あのようなコングールの悲劇は避けられたのではないかと悔やまれる。
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イギリスのボニントン隊が、同じ時期に許可を得ていることが分かったのは、しばらく後のことである。
ボニントンは、ボニントン一家のメンバーを引き連れて、南面から攻めるという。それだけではない。彼らは強い政治力を働かせ、英中文化協定なるものを作り、その中には「処女峰を登らせること」との一項があるというのだ。日本隊には先を越させるなということである。イギリスのやりそうなことだと思ったものの、どうしようもない。
案の定、中国の登山協会からベースキャンプの建設は7月以降にするようにとの通達が来た。
それを守っていたら、登山のチャンスを逃してしまうではないか。ベースキャンプではなくてベースハウスと呼ぶことにすればいい、とぼくは考えた。それに、英国隊は条件のいい南面ルートを押さえているので、日本隊は北面のルートを取らざるを得なかった。
ボニントンはすでに、偵察に向かっているという。スポンサーは、あのアヘン商人の末裔のジャーディンマティソン。スコッチウィスキー・ホワイトホースの輸入元である。
わが方日本隊の大口スポンサーは、すでにサントリーに決まっていた。
山渓の池田さんから連絡があった。偵察を終えたボニントンが、帰りに香港を経由して日本に立ち寄る。レセプションをやるので、出席者の人選を頼まれた。「もちろん高田さんも挙げときました」
ところが、数日して、「あのレセプション、高田さんの出席が拒否されました」という連絡があった。
ジャーディンが、商売敵のサントリーをスポンサーにつけている隊の隊長はお断りといってきたという。
きばって行くほどのこともなしと思っていたら、また数日して、ボニントンがぜひ会いたい。当日の朝、帝国ホテルの朝食を一緒にしてもらえないか、そう頼んでほしいといってきたという。
実はこの少し前、池田さんから面白い話をきいていた。ラトックⅠの許可は、実は最初はボニントンに出ていたという。しかしボニントンは何人も死んでいるラトックⅠは危険すぎると考えキャンセルした。だからぼくたちの日本隊に許可がきたのか。そして、その難峰を日本隊はスンナリと登ってしまったのだ。
ボニントンがぼくに会ってどんな奴かを確かめようと思っても何の不思議もない。ぼくはそう合点した。
ぼくたちは、帝国ホテルの食堂で会って朝食をともにした。
ボニントンはアラン・ラウスを伴って現れた。トーストを食べる間くらいの時間でたいした話もしなかったように記憶する。何をしゃべったかほとんど覚えていない。ぼくはけっこう敵愾心を抱いていたのかもしれない。でも好青年のアラン・ラウスには好感を持ち、彼からのアルパインスタイルについての話を興味深く聞いたように思う。
コングール隊が悲劇的な結末を迎えたすぐ後、アラン・ラウスから丁寧なお悔やみの手紙が届いた。
お悔やみの手紙は彼だけではなく、ピーター・ボードマンとジョー・タスカーからも来た。
コングールの翌年の1982年春、ボニントン以下4名の登山隊がエベレストに行く。そしてピーター・ボードマンとジョー・タスカーは、8200mの第1ピナクルを越えた後、消息を絶ち二度と戻らなかった。
世界のトップレベルの実力を備えた寺西、松見、鴫のパーティは、北稜からコングールを目指したが、運悪く悪天に囚われ再び戻ることはなかった。
このコングールの日本隊と同じ状況をボニントンも経験したということなのであろう。そしてアラン・ラウスもまた、まもなく山で死んだ。
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コングール登頂のすぐ後、来日したピーター・ボードマンが池田さんに語ったという話は、大変印象深かった。
コングール頂上に達したボードマンたちは、北の前方にもうひとつのピークを見た。それは、いま立っている頂上と同じかあるいは少し低いと思われた。日はすでに傾きつつあった。下山を急がねばならない状況であった。
でも、あのピークがもし数メートルでも高かったら、そして北側の日本隊が登ったら・・・。
彼らは必死の思いで山稜をたどり、そのピークに達したとき日が落ちた。雪洞を掘ろうとしたが、1メートル下は氷できわめて不十分な物しかできず、厳しく危険なビヴァークを強いられたという。
彼らは、日本隊の成功を信じていた。寺西、松見、鴫の実力を高く評価していたといえる。この話を聞いたとき、貴重な3人を失った責任みたいなものを、悲しみとともに改めて強く感じたのを記憶している。
戻ることのなかった3人にとって、山での死は想定内のことであったとぼくは思ったし、今でもそう思う。しかし帰国したとき、残された家族から投げかけられた言葉、「どうして主人を止めてくれなかったのですか」とか「どうして途中まででもいいから、ついて行ってくれなかったのですか」などなどの言葉は、名状しがたい苦痛とやるせない憤懣をぼくに与えた。それらの言葉が、肉親の限りない悲しみの産物であることを理解するのには、かなりの年月を必要としたようだ。
山岳界からは、別の批判と冷たい視線が投げかけられた。それは、小谷総指揮の記者会見の場での発言「極地法から一足とびにアルパインスタイルを試みたのは冒険だった」に対するものだった。ぼくとしては、そうした批判に対して、もちろん反論ができるわけがなく、また弁解もできずで、苦しさと腹立たしさをこらえて、ただ沈黙を守るしかなかった。
ぼくがその頃感じていたのは、山登りの世界で名をなした人であっても、死線を越えるような登攀体験をした人たちと、そうでない人たちとは決定的に違うんだということだった。
今にして思えば、これらもまた極めて傑出したクライマーを失った損失に対する山の世界からの反応であったのだと思う。
この遠征がぼくにとって最後になったのは、そうしたことが原因だったのかもしれないし、ぼくの興味が山登りよりも当時出回り始めたコンピューターに移行したことによるとも思える。
考えてみれば、あの後さらに遠征登山を続けていたら、ぼくはもうとっくに生を終えていただろう、と今にして思う。
(左から、松見、寺西、鴫の3故人)