今日は、アフガン難民局長官のサイード・アシフ・カーンの部屋で、いろいろの説明をするという昨日の約束通り、朝の10時に2台の迎えの車が現れました。
ぼくと、家内と、土田君は、バイクでこちらに向かっているという岩橋を待ち、すぐに出発しました。ここでは、当方4人に相手方6人がミーティングを行いました。
でも、しゃべるのはほとんど、サイードで、ドクターイムランが時々口をはさむ程度でした。
一行を紹介します。
岩橋というのは、ぼくが教師を辞める直前の教え子で、コンピュータの弟子、大学にも行かず、パチプロの生活を続けていたのですが、昨年ぼくに拉致されイスラマバードで、英語とウルドー語の勉強をしています。
土田は、桂高校山岳部のリーダーでした。UNIXプログラマーで、ここ5年ほど香港で、香港新空港のベルトコンベア−システムのソフト構築にかかわっていたのですが、昨年帰国し今はぼくの仕事を手伝ってくれています。
家内の秀子は、この仕事の言いだしべえです。ぼくが、イタリアに滞在中メールが来て、「アフガン難民のために何かをしたいのだが、どう思いますか?」
それはいいことだ、ぜひやってくださいと答えを受けた彼女は、早速支援の呼びかけを行ったわけです。
サイード長官は、地図や統計のグラフなどを多用して、難民の推移変遷を分かりやすく説明してくれました。戦乱と政治情勢の変化によって、帰る難民があり、同時にやってくる難民があるということが、1980年代より繰り返されています。ただ、カルザイ政権より後は、明らかにその数が半減し150万人となっていました。
難民キャンプは、数万単位の大きなものがいくつもあり、小さなものは、各地に点在。イスラマバード郊外にもあります。その数は、数百に及びます。
アフガニスタンとの国境ラインに沿っての、難民キャンプが列状に存在し、これらは逃れてきた難民たちを、おもにNGOがキャンプを作って受け入れたために生まれたのだそうです。
9.11後の各国の援助では、USが最高で、ドイツがそれに次ぎ、日本は4番手位だったのは、少し意外でした。