回想ラトック1峰


回想ラトックⅠ峰      高田 直樹

  最後の難峰などといわれたラトックⅠの初登頂は1979年のことであるから、あれからもう28年もたったことになる。部屋の壁にかけてあるラトックの岩壁のパネルもアクリルがすっかり黄ばんできたし、ぼくがタバコを持ってモデルになっている<ナイスデー、ナイスモーキング>の日本専売公社のポスターもすっかり色あせた。
ラトック1峰.jpg 5年ばかり前、山渓の池田さんから、ラトックⅠの第2登はまだないんです、と聞いておどろいた。
 それ以後も登られていないようで、初登の後30年近くも第2登の記録なしというのは、なんとも不思議だ。バインター・ルクパル氷河のラトック・グループといわれる峰々はⅠ〜Ⅳまであるが、第2登の記録はⅡとⅢのみである。それだけ困難で危険だということなのだろうか。

英語のWikipedia Latokを参照英語Wikipedia

 ぼくが、このあたりに興味を持ったのは、たしか「岩と雪」25号に載ったラトックⅡの大垂壁を見たときだった。そして京都登攀倶楽部という大変な攀り屋さんたちの遠征隊を率いることになる。
 この遠征隊は、登頂できなかったのはしかたないとしても、ぼくにとってきわめて不本意なものであった。登攀リーダーとなるべき隊員が、ラワルピンディーで急性肝炎で倒れたことが、影響したのかもしれない。
 表面的には、雇われ隊長の形であったけれど、ソ連のコーカサス遠征隊とはまったく違うものだったし、ぼく自身、形だけの隊長とは思っていなかった。
 前回の第2次RCCのコーカサス遠征隊の隊員から、京都の隊長はよかった。「皆さん気をつけて」というだけで、ベースの留守番をしてくれたという話を聞いていた。だから、ぼくもコーカサスに行ったときは、隊長は登ってはいけないのだと思っていた。しかしみんなから「隊長一緒に攀りましょうよ」と何度も誘われ、結局は一緒に攀ったのだが。
 京都の登攀倶楽部隊は、自分で組織したものではなかったけれど、準備やトレーニングの段階からかかわってきた。だから、この時はソ連のときのように人ごとではなかったのである。
 ラトックの山々では、極地法の感覚で群れ集いながら登るという雰囲気はフィットしない。
 基本的に自立した個人が、自発的な登行への集中力を燃焼させた結果の総和が成功に結びつくなどと考えていた。
 だからぼくは隊の方針として、荷揚げの重量に関して、もちろん大枠は定めるが、自分で管理するようにし、チェックは行わなかった。ところが、それは、上部テントに有り余るトイレットペーパーが荷揚げされるという笑い話のような結果が生んだ。みんな楽をしたいだけだったのだ。
 この隊には登攀倶楽部のメンバーではないクライマーも参加していたが、大遠征隊に参加した先輩から彼が受けた忠告は、使い捨てにされるな、最終アタック段階のために体力を温存しろというものだったそうである。こういう隊員がいたのでは登れないと思った。
 最終段階では、これは後に分かったことだったが、上部テントの隊員が、テントに入ったままトランシーバーで、あたかも行動しているかのごとき通信をベースに送るという信じられないような事が起こっていた。
 ぼくはほとほといやになっていた。
 でも、あの美しいラトックⅡには、ぜひもう一度挑んでみたかった。納得できる自分の隊を組織して。

 強い隊員を集めなければならないが、まず良い山、攀りたくなるような山が必要だった。攀りたくなる山があれば、それが攀れる強いメンバーが集まる。強い隊ができれば、スポンサーは付く。そう考えていた。
 とりあえず登山申請を急いだ。目標は勝手知ったるラトックⅡが第一志望、第2志望はラトックⅠ、第三志望にはラトックⅢを据えた。
 このどれに許可がきてもよかった。どれもが極めて困難でまた魅力的だったからである。
『岩と雪』の編集長に隊員セレクトの助言を求めた。池田氏とは彼が山渓に入社したばかりの頃から知り合いだった。
 この難しい山を成功させるためには、強力で経験のある登攀隊長が必要であると考えたとき、頭に浮かんだのが、重廣恒夫だった。彼とは、第2次RCC隊のエベレスト遠征のときからの知り合いだった。ぼくはあの当時、奥山章さんに命じられて、京都から西の隊員選考の元締めをやっていた。
 関西以西のすべての自薦他薦の隊員志望者は、ぼくを通って候補者になる仕組みだった。
 奥山さんが急逝したことで、この隊は湯浅道夫を隊長にすえ、ぼくは彼を補佐する形をとった。
 ところが、東京の隊員グループがぼくを担いで湯浅隊長を引きおろすクーデターを画策し、これを知ってぼくは、あっさりとこの隊から遠ざかることにした。もともと第2次RCCだけでエベレストに行けとけしかけたのはぼくだったのだが、そうした裏話はここの本題ではないので、話を戻す。
 重廣恒夫とは、そういう訳で、古くからの知りあいだった。また彼がエベレストから帰ってきた年の夏には、文登研(文部省登山研修所)制作の16mm映画『岩登り技術・応用編』で、彼と二人でモデルをつとめ、一緒に剱岳のチンネを攀ったこともあった。
 たしか、大阪の梅田駅の近くの喫茶店だったと思うのだが、ぼくは彼にラトックの話を持ちかけた。案の定、彼は乗り気を示さず、むしろ引き気味だった。たぶんぼくについて、あまりいい情報を得ていなかっただろう。でもぼくは、めげずに切り込んだ。
 「君なあ、これからもずっと大遠征隊に参加して、隊長にかわいがられて、それで成功して、おもろいんけ。やっぱり山はなぁ、自分で組織して、既成の山の団体には出来んような山をやらんとなぁ。いまみたいな自分像で一生過ごすつもりなんか」
 この時、ぼくがイメージしていたのは、かのスティーブ・ジョブスが、ペプシ・コーラの社長スカーリを、アップルの社長に引き抜いたときのせりふだったのではないかと思う。
 ジョブスは、スカーリに「あなたは、一生を女子供に甘い清涼飲料水を売って過ごすつもりですか」と迫ったのだった。
 このぼくの説得がどれだけ効いたのかは分からない。でも彼は行くことにしたのだ。そして、すぐに渡辺と奥を誘って隊員とした。

**

 松見は、池田氏の推薦だった。赤蜘蛛同人の井上、松見の両名は、ヨーロッパの困難な氷のルートを初登しているという。ぼくの電話の誘いで二人は信州から京都にやってきた。井上氏は、「こういう話は、屋台の飲み屋で酒を飲みながら切り出すものですよ」とぼくに忠告してくれた。
 ソ連のシュロフスキー峰・シヘリダ峰のときの最年少隊員だった雲表倶楽部の武藤君は、ぼくの誘いをスンナリと受けた。
 教え子で高校生の時から絶え間なく付き合っている二人を参加させることにした。一人は1969年のスワット隊の中村達をマネージャーとして、もう一人はスキーの名手の城崎だった。彼は高校でスキー部を作り、すぐのシーズンに全関西高校スキー滑降競技で5位に入賞した。ぼくと彼は、毎冬のように信州の彼の別荘で、スキー三昧の日々を過ごすのが常だった。この二人に関しては、BC以上の危険なところには、上げないことを家族にも約束した。しかし、現地で荷上げがはかどらないのを知った城崎の申し出を受けて、結局彼には、C1までの荷上げに従事させたのである。
 遠藤甲太は、ぼくが大変興味を持っていたクライマーであった。なにか明治大正の放蕩文人を髣髴とさせる男ではあったが、谷川岳で多くのルートを拓いていた。池田氏は、「彼はもう酒びたしで攀れませんよ」といったが、ぼくは遠征したら立ち直るんじゃないかと反論した。
 たぶんぼくは、彼の書く文章や文体に惹かれていたのだと思う。重廣はけっこう強く反対したが、ぼくのわがままを許してくれたようだった。
 こうして、隊は出来上がっていった。

***

 スポンサーを出来るだけつけて隊員の自己負担を減らすのは、隊長の務めだった。日本専売公社がついてくれた。翌年に発売する予定の新ブランドのタバコを持って宣伝用の写真を撮ってくるのが条件だった。タバコは軽いし宣伝写真はどこでも撮れる。楽な条件といえた。紙上後援ということで朝日新聞社が応援してくれることになった。京都の酒造会社がスポンサーになってくれたが、この条件は厳しかった。頂上でのお酒の小瓶をもった写真とムービーというのが条件だった。
 京都祇園にある教え子が経営するクラブで、交渉の会議を持った。こちらは要求する金額を示し、相手は条件を示す。そしてこう確認を求めた。
「きっと登れるんですね」
 ぼくはたじろいだ。そのときはもう許可はきていた。あの危険な難峰のラトックⅠが100%登れると言い切れないではないか。ぼくが、ぐっとつまっているとき、横の重廣が、
 「大丈夫です。登れます」ときっぱりといった。これで話は成立したのである。
  隊員はみんな仕事が忙しいので、山での合宿などはやれなかった。月に一回のミーティングを京都、名古屋、信州と場所を変えて行っていた。
 ぼくは、隊の融和とかチームワークとかに意を注いだわけでなかった。チームワークの本義は、優れた個人の仕事量の総和という意味だとぼくは考えていて、みんなにもそう説いていた。
 きわめて困難な岩壁では、自分を守るだけが精一杯であり、それで十分だと思っていた。
 そして、行って、見て、「ラインが引けたら攀れる」と、これを合言葉のように唱えていた。
 しかし実際に成功するためには、きわめて科学的で冷徹なロジェスティックスが必須であり、これを作り上げていったのは、ぼくと同じ応用化学科専攻の重廣だった。
 名古屋でのミーティングの時のこと。そこはスポーツ選手がよく合宿するというユースホステルだった。管理人のおじさんが、帰り際に説教した。「皆さんは難しい山に攀りに行かれるんでしょ。こんなにてんでばらばらで、大丈夫なんですか」
 ぼくは、すみませんと謝っておいたが、なにゆうとるんじゃい、お前らに分かるかと心の中で思っていた。
 登攀の最初のオペレーション、C2までのルート開拓は、落石をかいくぐってのものだった。神経をすり減らす一日のルート開拓を終わってC1に戻った隊員たちは、みんな互いに、遠く離れた氷河上の石に座って黙り込んでいた。きっと打ちひしがれた自分を他のメンバーに見せたくないのだとぼくは思った。それは一種のメディテーションの時間であり、精神的に強い自分を取り戻すための行動のように見えた。

****

 岩壁に張り付いた氷を削って、C2が建設された。
 C2から上部へのルート開拓が始まった段階で、ぼくもC2にあがることにした。開拓のオペレーションは、二つのグループが交互に開拓を行うことになっていた。ぼくと重廣はどちらのグループにも属さず、フリーで動けるようになっていた。
 この頃、C2では深刻なトイレットペーパー不足に悩まされていた。ぼくが何度か話して聞かせたラトックⅡでの状況が必要以上に隊員のみんなに浸み込み、誰もだれもがトイレットペーパーを荷物に入れるのを躊躇したらしいのだ。
 だからぼくは、トイレットペーパーの補給ということで、トイレットペーパーばかりを運びあげてもよかった。でも、ぼくはそうはせず、むしろうんと重い荷物を担いでC2に向かった。俺でもこれだけ担ぐんだぞというプレッシャーを与えてやろうと思ったのだった。
 しばらく氷河を進むと危険な氷のガリーに入る。
 すばやいステップでのぼり、止まるとすぐ上部をうかがう。氷を飛び跳ねながら握り拳から頭くらいの大きさの落石がやってくる。じっと待つ。当たりそうな直前にすばやく身をかわすのがコツである。
 しばらく登って大岩壁の取付きに達する。張られたフィックスに2個のユマールをセット。ユマーリングというのは、普通は垂れ下がったローブにぶら下がって10センチ刻みでずり上がる、なんとも単調な労働なのである。でもここでは、そんなのんびりしたものではなかった。
 朝日に照らされて、アイスキャップが白銀に輝いている。はるか上部の岩壁にも日が当たりだした。その美しい光景を、痛くなるほど首を曲げ仰ぎ見ていると、「ブゥーン」という蜂の羽音のような、なんだか耳の奥がくすぐったくなるような低周波の音が聞こえてきた。
 落石がくる!。岩に張り付き、顔を岩に擦り付け、目を閉じて身体を硬くする。音はだんだん周波数が高くなって、「ウゥーン」となり、そして耳元で「ピュッ」と鳴って、通り過ぎるのだ。不思議なことに岩にはねる音がない。落石はまったくノーバウンドで空中を飛んでくる。これに当たれば、銃で撃たれたようなものでひとたまりもないだろう。当たったら運が悪いのだ。そう思いながら、岩に張り付くことを10回もくり返さないうちに、まるで鷹の巣のようなC2に着いた。

*****

 重廣と一緒にルート開拓から帰ってきた渡辺が、ぼくのザックを受け取って、驚いたようにぼくの顔を見た。それにしても、C2はとんでもない場所にあった。そこはテラスにのった氷を削り取った所に、テントがかろうじてのっていた。テントの周りにはほとんどスペースがなく、テントを出るやいなや岩壁に手すりのように張ってあるフィックスロープにゼルブストを取らないとならない。
 もちろんキジ場などはない。この固定ロープを頼りに岩壁をトラバースして、まるでアブザイレンの姿勢で大も小も用を足すのだ。面白いC2小咄を聞いた。ここにはトイレットペーパーがなかったから、指を使わないといけない。拭いてから、手を激しく振って着いた汚物を振り飛ばそうとする。その時手が岩壁に当たり、「あ痛ったたー」と思わず、その手を口に入れてしまうというのである。
 この夜重廣は、終始ぼくと顔を合わさなかった。渡辺が小声で、「重さんどうする。隊長は頂上に行くつもりですよ」というのが聞こえていた。ぼくが行ったらそれは大きなお荷物だ。来るなとも言えず、彼は困っていたのだろう。でもぼくも、心配するなそんな気はないよという本心は告げなかった。そして翌日、ぼくは下に向かったのだった。このなんでもない出来事は、後々までなぜか心に残った。
 話は遡るが、これは山に向かう時のラワルピンディでのこと。ぼくたちも当時各国遠征隊の定宿となっていた、ホテル・ミセスデービスに滞在し、スカルド便の飛行機待ちをしていた。ベランダで重廣が漫画の本を読んでいる。訊くと『はぐれ雲』ですよと答えた。「それなんや」。はぐれ雲とは主人公の名前であるという。「へえぇ、どんな男なんや」というぼくの問いに、彼は半ばはき捨てるように「高田さんみたいな男ですよ」と答えた。
 帰国してから、シリーズ物の『はぐれ雲』を読んでみた。そして、彼がぼくのことを、けっこう無頼な遊び人と捉えていたことが分かった。でもそれはぼくにとっての褒め言葉のように思えたのであった。この本の主人公は突如人の意表をつく動きをする。そう考えれば、重廣のC2での困惑も理解出来るような気がしたのだった。
 ラトックⅠ遠征隊の試みは、当時まだ一般的な概念ではなかったが、ぼくにとってはプロジェクトチームであり、一つの実験的な遠征隊であった。そしてその試みは、幸運にも成功したのだった。
 30年近くが経ち、あの時一緒した、松見、渡辺、奥の三君はもうだいぶ前からこの世の人ではない。
 ラトックの山々とともに、あのときの日々と人たちが想いだされ、長い年月がたったのだと今更のように思い浮かぶのである。

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