明日(10/9)サンフランシスコに移ります。US旅行報告(1)の続きですが、その前にパキスタン地震について。
ご存知の通り、パキスタンで大地震があったとのニュースがあったので、家内からの依頼もあり、早速お見舞いメールを出しました。
その返事がパキスタンの友人のナジールサビールから来ました。それによると被害状況は(既にニュースで報じられていますが);
イスラマバード:高層ビル一つだけ倒壊、300人被災。他は見たところ被害なし。
ラワルピンディ:学校の塀の倒壊により女子学生一人死亡、7人負傷。
地震の矛先は、アザッドカシミール、ジャンムカシミールなどカシミール州に向かったので、首都のムザファラバードの70%が倒壊、近隣の小村も被害を受けた。
死者の合計は伝えられるところでは、25000位。北西辺境州では、3000人が死亡。結局のところ死傷者3万から4万あるいはそれ以上で5万。家を失ったものは250万人と見られる。
彼は、復興は友好国の支援を得て全力で進められており、貴方のお見舞いと支援の申し出はこの悲劇に立ち向かう勇気を与えるものですと書いています。
私としては、アフガン難民支援の3度目のパキスタン行きを11月に考えていたところでした。あわせて地震の被災支援も考えないといけないと思っているところです。
(ナジールは、有名な登山家でエベレスト、カラコルムの八千メートル峰5座に登頂しています。私とは古い友人で、拙宅脇のアパートに長く逗留してコンピュータの勉強をしていたことがあります。そして帰国して直後、フンザから国会議員に立候補。ブット派の代議士になりました)
アメリカ報告に戻ります。
朝に地下鉄テロ予告のニュースが流れたのですが、あまり気にせずに、グラウンドゼロに行くことにしました。あのツウィン・タワーのあった場所です。
ぼくのいるところは、アッパー・ウェストサイドですから、南端のゼロポイントまでは結構距離があり、やはり地下鉄が便利。
地下鉄に乗りながら、「これでテロにあったら、けっこう笑い者になるかな」と、ちょっと思いましたけど。
乗り場の駅の入り口では、新聞売りが、一面にテロ予告の記事の乗った新聞を地面から高く積み上げていましたが、買う人は誰もいませんでした。車内の様子もいつもと変わりません。
もともと車内には、常設の赤色の掲示「地下鉄緊急避難のおしらせ」があり、そこには「地下鉄避難は度々はおこりません。でもおこった時のために乗客の皆様が準備をされるよう望みます。詳細はオンラインビデオmta.infoをご覧ください」などと書いてある。
乗換駅のチェンバース・ストリート駅では、階段ののぼり口にテーブルがしつらえられ、荷物チェックの構えはしてある。でも、男女で6人の警官が立っているだけで、そんなに目を光らせている訳でもないようでした。
日本では、テロ対策のためか公共の場所には、ゴミ箱が撤去されていることが多いのですが、地下鉄構内やプラットフォームにはどこにもたくさんの鉄製黒色円筒形の大きなゴミ箱がたくさん置いてある。ちょっと気になったりしました。
グラウンドゼロ(爆心地)見物を済ませ、そこからはからあまり遠くないグッゲンハイム美術館に行くことにしていました。そこにはモジリアニの「裸婦」があるということです。高校時代から大好きだったので、それを見に行こうと思い立った訳です。
それにこの美術館、毎金曜日の18:30分からは、普通は15ドルのところが任意料金となるとのこと。これはラッキーと少々時間をつぶすためにウィンドウ・ショッピングをしながら行ってみると、とんでもない混みようです。
9月1日からロシア絵画特別展覧会が開かれていたのです。何ドルでもいいのですが5ドルを払って入場しました。
モスクワから運ばれて来た250点以上の油絵が、グッゲンハイム美術館の螺旋状に6階まで登る回廊に、年代順にぎっしりとかけてある。それらのほとんどは、これまでにヨーロッパの各地で見た歴史的な名画とひけを取るものではなく、それ以上と思えるものもありました。
驚くばかりの精緻な描写で、まるでカラー写真以上とも思える油絵が並んでいます。ひょっとしたらヨーロッパの印象派等の絵描きなどは、これにはとてもかなわないと別の技法を生み出したのではないかなどと、突飛な邪推をしたくらいでした。
トルストイ、ドストイェフスキー、レーニンなどの見事なポートレイトもありました。
ところが、スターリンが現れる時期になると、一気に粗雑なと思える絵になるのは興味のあるところでした。歴史的記録として価値はあっても、芸術的価値はない。
スターリンが中央で少女から花束を受け握手しているパーティ会場とも思える巨大な絵は、まわりにいっぱい人が描かれており、幾人かの知ってる顔もありました。
その絵を見入っている時、後ろで「ニエット、なんとかかんとか」とロシア語が聞こえたので、振り返るとピンクのワンピースを着た大柄の夫人が立っていました。ぼくの顔を見て「あなた、フルシチョフがいるでしょ」というので、
「順に名前を教えてくれませんか」と頼みました。
「ほれ、そこにブハーリン、それからミコヤン...」
8時の閉館で追い出されてしまい、結局モジリアニには巡り会えませんでした。
しかし、近代美術館にもない初期(20歳代)のピカソも見れましたし、見たこともないセザンヌやモネーの絵、またアムステルダムのゴッホ美術館にもないゴッホやゴーギャン等もたくさんあったのです。
タクシーでセントラルパークを横切ってアパートに帰ると、8時半でした。
なにか上気した気分で、近くのスーパー「フェアウェイ」で買い求めたエビをアペタイザーにソノマの白、ソービニヨン・ブランを飲みました。
次の日、ニューヨーク最終日の夜は、ニューヨークシティオペラで「蝶々夫人」を観ました。これを観るためにニューヨーク出発の予定を、当初のスケジュールより一日遅らせたのですから、ニューヨークではこれが本命と言えました。
ところで、歌劇「蝶々夫人」には少々曰く因縁があるんです。
10年ほど前のことですが、私の還暦パーティがベニスでありました。
ほとんどが教え子の15人ほどの参加者は、有名なオペラ座「フェニーチェ」で蝶々夫人を観劇することになっていた。
ところが、日本出発の一ヶ月ほど前に、「フェニーチェ劇場」は焼失してしまい、ぼくたちは、ベニス郊外のテント公演での「蝶々夫人」を観たのでした。
消失したフェニーチェは大変惜しまれ、すぐに再建の動きが始まりました。世界的な基金が始まったので、ぼくたちもなにがしかのお金を寄付しました。
8年経ってフェニーチェは、見事に再建されました。しかし、すぐにオペラ公演は行われませんでした。
アコースティックは世界一といわれるフェニーチェ。1年間は、音のエージングのため、コンサートのみの公演だったのだそうです。
そして1年経ち、それは昨年11月のことなのですが、初めての歌劇公演が行われることになりました。演目は「椿姫」。この歌劇「椿姫」が初演されたのは、フェニーチェでしたから、曰く付きの演目設定といえます。この柿落としにはどうしても行きたくて、大変苦労した末、切符を手に入れることが出来たのでした。
ニューヨークシティオペラの「蝶々夫人」ですが、ついつい引き込まれてしまう出来だったと思います。プリマドンナの中国人Shu-Ying Liは、山東省の生まれで、アメリカ各地で「蝶々夫人」を演じており、NYシティオペラの日本公演で、日本に来たこともあるそうです。
フェニーチェの「蝶々夫人」とは、振り付けが大いに異なっていて、日本人役は着物を着ていてよりリアル、最後の自殺の場面もより迫力がありました。
オペラがはねて、外に出ると激しい雨が降っていました。タクシーがつかまりません。ようやく捕まえると、帰るのと方向が違うとかいって乗車拒否されたり、タクシーを追いかけて40分近くがたちました。距離が近すぎるのです。地下鉄の一駅間ですから。
結局かなり濡れそぼってから、地下鉄で帰宅したのでした。