西パキスタンの旅 第3話「シンド砂漠を走る−−その2−−カラチからラワルピンディヘ」

暑いのではなく、熱いのだ
シンド砂漠2
 十時ごろから、暑さが厳しくなった。そして、正午を過ぎると、それはもう堪えがたいという感じになった。
 まわりから、熱気が、ガーンとしめつけてくるようで、それをはねのけるために、最大限の気力をふりしぼらねばならない。
 ジープは、まさに走るオーブンだ。
 道は、地平に一直線に消え、視野いっぱいに、かげろうがもえ立っている。
十一時に小さな村を見たが、それからは家影も見えず、この熱線を避ける場所もない。私たちは、ただ突走るしかないのだ。
 そんな時、ふと自分を観察する。姿勢は前かがみになり、ハンドルに両肘をのせんばかりだ。ロが開いている。舌がだらりと下り、顔の筋肉は、完全に脱力している。こんな顔をどっかで見たことがある。そうだ、これはディラン隊の荷物を陸送した、アクバルの顔だ。あの時、夜、ピンディーの町をこの顔で運転する彼を見て、私は、こいつ大口あけて馬鹿じゃないかと思ったものだ。だが、何度も暑い所を走るうちに、この顔が、習慣となったらしい。
 気をつけて見ると、安田も、まったく同じ顔で同じ姿勢になっている。してみると、これは砂漠の運転姿勢なのだろう。

 それにしても、この熱さを何と表現したらよいだろう。これはまったく、暑いのではなく、熱いのだ。
 ある在留邦人は、パキスタンの熟さを、次のように表現した。〈まわりに十個の赤外線ヒーターを置き、十個のスポットライトで照らされた感じ〉。だが、これでも充分な表現とはいえない。
 中村が、時々壷から水をくんで、渡してくれる。
 この水の温度、二九度C。これでも結構冷たいと感じる。ジープの室内気温四三度Cより、十四度Cも低いのだ。この秘密は、素焼の壷にある。にじみでた水が、どんどん蒸発して、壷全体を冷やすのだ。この、たかが二百円ほどの壷が、これほどの偉力をもつとは知らなかった。

砂漠の調査活動

 午後一時、ようやく前方に、ポチリと家が見えてきた。トラックが止っている。ありがたい。やっとこの熱さをのがれることができる。そう思ったのは、とんだ早合点だった。
 この土造りの家の中も、四四度C。深呼吸すると、胸の中まで熱くなる。ただ、火ぶくれのできそうな熱気が、直接にあたらないのはありがたい。
 木の枠に、麻なわを編んだ網をはったベッドが三つ。あばた面のトラックの運チャンが、起きあがり、ベッドをすすめてくれる。(パキスタンには、天然痘によるあばた面が多い)
「サーブ、カハンセ、アーヤータ(旦那、どこからいらした)」
「カラチセ(カラチから)」
「アープ、キスムルクカ、アドミーハイン(あなた、どこの国の人でか)」
「ジャパニーヘー(日本人だ)」
「アッチャー(へェー)」
 この運チャン、きれいなウルドーで、敬語まで知っている。あとの二人の助手は駄目らしい。彼は少々得意なんだろう。「サーブ。キャカーム、カルナーチャーテーハイン(どんな仕事をなさるつもりか)」
 しきりに話しかけてくるが、こっちは、熱さでぐったりして、しゃべる気にもならない。
 この店の主人が運んできた、パキスタニーチャエ(ミルクでたきだした紅茶)をのんだら、少々元気が出てきた。

 安田は、この熱さの中を、戸外で化石を探している。アンモン貝ばかりで、大したものはなかったそうだ。
 戸外気温を、影がないので、掌で影を作って測定したら、いつまでも昇りつづけ、五六度Cになつた時、目がくらんできたので止めにした。まだ昇りそうだったという。
 中村は、子供の体力測定を始めている。この熱さでは、50m走をやらすわけにもいくまい。安田も一緒で、ヘルスメーターを取り出して、体重測定を始めた。ウルドーの苦手な中村は、大奮闘である。
 身長、胸囲、座高、手首囲などを測り、ジャンプ測定までやったのは立派だ。
 私も負けずに、調査開始だ。
「名前は」そばの大人が「プンヌン」と答える。
「年令は」「ウーン」と考えこむ。そばから、大人が「十四歳」別の男が「十五歳」
 私はしかりつける。
「お前たちに聞いておるのではない。この少年に聞いておるのだ。お前たちはだまっておれ」

学校に行っているか。
どうして行かないのか。
大人になったらどんな職業につきたいか。
父親と母親とどちらが好きか。 等々の設定しておいた質問をつづけて行く。
「世界で一番偉い人は、誰だと思うか」
 またしても、そばの大人どもが、
「そりあ、村長だ」
 今度は、大人向きの調査だ。一〇枚の女の写真(これはJALのカレンダーを写真にとったもの。大体各国の女性を網羅している)を取り出す。
 この中で、一番いいと思うのはどれか、それを取り出せといって、さらにその次はという具合に三番目までを選ばせる。最後に、最もよくないのを示させるものだ。
 彼らは、大喜びだ。
 ダークバンガローのある、メーハルまでは二百キロ以上ある。調査はこれ位にして、先を急がねばならない。
 二時半、私たちは再び、灼熱の大地に走り出た。

暗い家−ダークバンガロー

 メーハルのレストハウスにたどりついた時、三人は、まったく気息えんえんの状態だった。途中で道が分らなくなり、だいぶ苦労した。このあたりは、シンディ(シンド語)の領域で、道も満足に聞き出せないのだ。
 何度も「トゥム、ウルドージャンテーホ(君、ウルドーがしゃべれるか)」と呼びかけても、手を横に振る者がほとんどだった。
 ようやくレストハウスの一室で、ベッドに腰をおろしたのは、夜の十時に近かった。
 チョキダール(番人)に水を運ばせ、砂だらけの身体を洗う。タルカムを振りかけると、少々すがすがしくなった。
 ところが、安田は身体を洗うのを止めにした。田圃の水のような泥水なので、おぞ気をふるったのだ。その結果、彼の身体は、一面のあせもにおおわれることになった。

 それにしても、レストハウスはありがたい。パキスタンには、どんなへんぴな地域にもレストハウスがある。これを利用できねば、パキスタンの辺地旅行は無理だといってよい。
 これは、イギリス植民地時代からのもので、役人らが旅行して、宿泊するためのものである。部屋は、やたらに天井が高く、小さな窓があり、冬寒い地方では、暖房用に暖炉がついている。
 建物は、土蔵のような造りである(熱をさえぎる生活の知恵か)。レストハウスが、ダークバンガローと呼ぼれるのは、イギリス官吏がそうよんだのではないかと思う。
 レストハウスにはチョキダールとコックがいる。一人二役の場合もある。炊事、洗濯、何でもいいつければ、彼らがやってくれる。
 排泄に関しては、少々問題がある。これはバスルームでやる。バスルームといっても、大きいばかり(大体四〜五畳)のガランとした部屋である。普通は、次のものが置いてある。
 水浴(ナハーナ)用の金だらい。水をくんで身体にかけるための把手のついた水さし。すのこ板。それに、おまるの入った、大きな黒ぬりの箱。
 この箱のふたをめくると、直径二十センチばかりの円筒形で、ホーロー引きのおまるがはめ込まれている。この上にのって、しやがんで用を足す。小さい方のときも同様だ(パキスタン人は、大小とも同じ姿勢をとる)。済んだら、外の方のドアの鍵をはずしておかねばならない。
 すると、間もなく、そこから入ってきたチョキダールが、おまるを運び去るという寸法だ。
 チヨキダールが気づかない時は、命じて直ぐに運び去らせる。ところが、これが仲々大変だ。どうしてもいい出せず、あふれそうになったおまるが、部屋中に臭気を充満させるということになる。
 大体、自分のオヤジ位の年恰好の男を、アゴで使うということ自体、日本人にとっては、抵抗を感じることなのだ。
 ましてや、自分のウンコやオシッコを持ち去れなどと命じることは、いくらパキスタンに慣れてきても、やはり気遅れするのは事実だ。
 ある日本人旅行者がいた。彼らは、自分で水浴の水を運び、ウンコも自分で始末した。その結果はどうだったか。彼らは、感謝されるどころか、チョキダールの軽蔑を買っただけだった。
 郷に入っては郷に従うことは、私たちにとって一つの技術といえそうだ。

 夜半を過ぎても、暑さは一向に衰えない。私たちは、外で寝ることに決めた。ベッドを外に運ばせ、蚊帳を吊った。この蚊帳は、私の妻が嫁入道具でもってきたものだ。ふと日本のことを思った。
 月が中天にかかっている。

モヘンジョダロ見物

 七時半にレストハウスを出発。モヘンジョダロには十時半についた。
 立派な建物がある。事務所、レストハウス(エアコン付きの部屋もある)、出土品陳列館。砂漠の土くれのような家を見なれた目には、驚きだ。
 もっと驚きは、遺跡そのものだった。
 一 家屋はすべてレンガ造りで、非常に強固に造られている。ことに土台は、素焼の土球や土レンガで固めてある。二階、三階建も多い。ほとんどの家に浴室があり、井戸がある。これらの整然と並んだ家並をぬって、約10m幅のメインストリートが、市街を東西、南北に貫き、さらに4〜5mの道路が縦横に走る。道はレンガで舗装されている。ー
 この道にそって下水溝があり、家々からは、土管を伝って下水が流れ込むようにしてある.公衆浴場は、水泳競技ができる位の大きな長円形である。上手の井戸で水をくむと、土管を通って水が浴場に入る仕組になっている。混浴であったとガイドはいった。一時間ばかり、あちこち見て回ったら、熱さに目がくらみそうになった。レストハウスで昼食とする。
 安田が「チキンカリー、チャワール、ジャルディー、ティケー(チキンカレー、飯、大急ぎ、分ったか」とオーダーしている。彼、だいぶふんぱつしたようだ。パキスタンでは、肉のうちでは、ニワトリが最も高く、羊の三倍位するのだ。
 コックが、ニワトリを追い回している。庖丁を持って追いかけられては、ニワトリとて必死だ。
 その間に、私たちは本日第一回目のナハーナ(水浴び)を行なう。機会あるごとに、水をかぶるのが、砂漠旅行の秘訣だ。肌着もついでに洗う。そのまま着ていれば、直ぐ乾いてしまう。
 ここのツーリストビューローのオフィサーが観光案内の本と、ポスターを三十枚も持ってあいさつにきた。私たちも『山渓カラーガイド一京都』を贈る。この本には、英語で〈友情と共に、京都カラコルムクラブ〉と墨で書いた和紙がはってある。

 昨日の経験で、日中走ることは、消耗以外の何物でもないことが分った。夕方までここで仮眠することにする。
 ベッドに横たわり、空ろな頭で、先程見た遺跡のことを考えた一。
 モヘンジョダロ。インダス文化の中心。紀元前二千年の昔にあれほどの都市。強力な都市計画。壮大な規模だ。それに、道路の角には、たしかポリスの詰所まであった。
 この熱さの中で、人々はどうやってあんな都市を築き得たのか・・・。まったく信じられない。きっと地球は今より冷たかったんだ?
 人々は、その時すでに文字を知っていた(インダス文字とよばれる未解読文字)。うわぐすりをつけた陶器も作った。一体全体、これはどうしたことなのだ。今から四千年も昔に、これほどの文化をもった都市が存在した。
 そして四千年経った今。この遺跡から何キロも離れない所には、土くれで固めた家に、数個のアルミ茶碗しかない人間が生活している。一体どういうことなのだ。
 四〇〇〇年! この間、自らを偉大と呼ぶ人類は何をしていたのだ。これが文化の不連続とか、文明の断絶で片づけられる問題なのだろうか。
 熱さのせいか、耳鳴りが、頭全体にひびいている。頭が変になったのか。

 六時。日が傾いた。
 私たちはジープに乗り込み、ほとんど休みなく、翌日の明け方四時半まで走った。そして二時間の仮眠の後、今度は正午まで走り、ウチという村のレストハウスで、夕方まで眠った。
 大体このように、夜明け前の数時間の仮眠と、午後の睡眠というぐあいにして、ジープは北上を続けたのである。
 このあいだ、道をはずし、ジープが砂にうずまって立往生したこともあった。好奇心にみちた村人にとりまかれ、荷物をうばわれそうな危険を感じたこともあった。
 とにかく、私たち三名は無事に、七月二日十三時十五分、ラワルピンディーの街に走り込んだ。
 五日間の砂漠の旅は終わった。ジープのメーターは、カラチより一八三四キロの走行を示していた。
 ちょうどこの日の夕刻、空路ピンディ一についた関田と合流。ここに、調査隊は全員顔をそろえた。ホテル・カムランの一室で、関田が運んできた菜の花漬をつまみに、私たちはナポレオンで祝杯をあげた。そして次のプランをねった。

西パキスタンの旅 第2話「シンド砂漠を走る(その1)−−カラチからラワルピンディヘ」

シンド砂漠1
砂漠始まる

 地平線から、砂漠の太陽が昇ってきた。ランドクルーザーの四千ccエンジンが、快調なひびきをあげている。
 六月二八日、私たちは、カラチを発って、陸路ラワルピンディを目指した。
 カラチ−ピンディは、直線にして、約千二百キロ。これは、京都−札幌あるいは束京−稚内くらいにあたるだろう。
 大体インダス河(インダス沿岸の住民は、〈シンドの河〉と呼び、インダスでは通じない)にそって、北上する道を進む。途中で、モヘンジョダロの遺跡を見て、七月二日に、ラワルピンディで後発の関田隊員と合流する予定だ。
 ジープの乗組員は、安田、中村、それに私の三名。
 ジープの後部座席はおりたたまれ、天井までぎつしり荷物がつまっている。屋根には、カラチで苦心さんたんの末、あつらえたルーフキャリーが装着され、一五〇キロの荷物がのっている。前座席の足もとには、大きな素焼の水がめがすえてある。貴重な飲料水だ。
 ドアには、日の丸のワッペンがはってある。

 何やかやと忙しい出発の準備で、カラチ滞在は二週間になっていた。
 住みなれた、タージホテルのベアラー(ボーイ)、チョキダール(門番)たちが見送る中を、私たちは出発した。
 薄明のカラチの街を走り抜けると、すぐに砂漠が始まった。
 さあ、いよいよ出発だ。私たちの前途には、何が待っているのだろうか。私たちはどこに行こうとするのか。最終日約地は今問題でない。まず、ピンディまでを走る、この行程が第一課題だ。
 私たちの胸は、未知への期待に高鳴り、エンジンの唸りと気持よく調和している。

 カラチでは、多くのパキスタン人が、いろいろのアドバイスをしてくれた。いわく、生水を飲むな。コーラとセブンナップを積み込んで行くべきだ。いわく、夜走って昼眠れ。いわく、蜂蜜をなめて、レモンをかじれば疲れない。俺はラホールまでノンストッブで走った。いわく、ペシャワールの長距離トラックに気をつけろ。チャラス(大麻)をのんだヨッパライが多い。いわく、道をはずしたら、無暗に走るな。方向が分らなくなって、ひぼしになるぞ。(事実そういうことがあった。四年前、イギリス人が死んだ。Englishmen Dry Upと新聞にでたのを、私も記憶している)
 領事館の今川氏いわく、「ラクダと水牛に気をつけなさい。この間本当にあった話だが、乗用車がラクダの股ぐらにつっこみ、ちょうどラクダがすわったもんだから、車はペシャンコになりました。その時ラクダは何といったと思います?……」
 これはスコッチを飲みながらの話−。

 もう百キロ以上走った。一時間半ばかりだから、かなり快調だ。道もそんなに悪くない。ただ屋根に荷物を満載しているので、くぼみでゆれると、ベコンボコン音がする。どうやらへこんできたらしい。でも屋根がぬけることもあるまい。
 それにそんなに暑くない。何だ、一向に暑くないじゃないか。パキスタンの連中は、おどかしてやろうと、いいかげんの嘘をいったのだろうか。

砂漠の路上教習
砂漠マップこのあたりで、安田君と運転を交代しようと決心した。相当の覚悟がいった—。
 私も彼も、うかつにも日本から国際免許証を持ってこなかった。
 しかたがないので、領事館で〈この者は日本国の運転免許証を保持し、充分の経験と運転技術を有する〉という証明書を書いてもらった。領事館クラークのミスター・マーチャントと一緒に、カラチ警察署に日参した。そして、四日目に、OFFICER of traffic Karachi(カラチ交通部長というところか)の特別許可がおりた。
 そこで、免許検査官(Inspector of Licence)が私たちのジープに同乗し、カラチ市街を走らせた。彼が横から巻き舌のパキスタン英語で、「右折の手信号は‥…・。市内制限速度は……」等と説明していたが、私も安田もほとんど上の空だった。
 検査官が、「You can drive」といった時、二人は、パキスタンのドライバーライセンスを得た。(通常の手続では、早くて三カ月かかるという)
 パキスタンの免許証は写真がいらない。サインだけでよい。写真は、字の書けない者に必要なのだ。そして、五年間有効だ。
 安田が、「今度来た時も使える」と喜んでいる。彼は、二週間ほどの間に、二カ国のライセンスを得たことになる。というのは、彼は日本出発直前に免許をとった。いわばホヤホヤドライバーだ。
 もう免許もあるからということで、警察の前から、安田君が運転席にすわった。動き出した時、小さな鈍い普がした。止めてあったパトカーの横腹がへこんでいる。
 彼は知らん顔で走り出した。どうも気がついていないらしい。マーチャントも、知ってか知らぬか、知らん顔をしている。私一人、気が気ではなかった。

 こんなこともあったから、運転の交代に覚悟がいったというわけだ。
 ピンディまでの千八〇〇キロの道を、私一人で運転できるならともかく、なるべく早く、道の条件がいい間に、彼がジープの運転をマスターすることが先決だと思った。
 二回目の事件は、交代後直ぐ起こった。
 直線道路を、ジープは約七〇キロのスピードで走っていた。前方に何やら見えてきたと思うと、それは片側通行を示す石だ。柱状の石が、道路の真中に点々と一列に並べてある。「ブレーキ、ブレーキ」私は叫んだ。
 ジープは一向に止まらない。そして、どちらにも寄らず、真直ぐに石に向かって行く。一つ目の石はうまい具合にまたげた。二つ目だ。今度はガーンと音がした。まだ止らない。三つ目の手前でようやく止った。
 私が、屋根に荷物があるから急ハンドルを切ると引っくり返るぞと話していたのが、よはど頭にこびりついていたらしい。彼はいささかもハンドルを切ろうとはしなかったのだ。幸い、ジープには何の損傷もなく、ホッとした。
 安田君はこの後、実にさまざまなものにぶつかった。しかし、いずれも大したことではなかったのはまことに幸運であった。
 なにしろ、あの暑さとあの悪路で、四〇〇キロもの荷物を、屋根にまで満載したジープを操るのはそんなにたやすくはない。

 彼のあたった物の中で、最もケッサクはラクダであった。正に、追突したのだ。今川氏の話が、単なる駄ジャレでなかったことが、その時初めて分った。
 私たちに、幸せだったのは、ラクダが比較的小さかったことと、私たちの車が背のひくい乗用車でなかったことだ。
 そして、気の毒にも、飼主の鞭で、こっぴどくたたかれたのは、安田君ではなく、ラクダの方であった。

西パキスタンの旅 第1話「辺地教育調査隊の出発」

西パ1
カラコルム辺地教育調査隊の出発
変化をとげる回教の国

車と女−カラチの変化

一九六九年、四年振りにカラチにやって来てまず感じたこと。
一つ、車の増えたこと。
一つ、ブルカの女性が減ったこと。

 車がやたらに増えた。それも日本の車が目立つ。四年前は、タクシーもモーリス等の英車ばかりで、ブルーバード等珍しいぐらいだった。ところが今度は、日本車なら全車種あるといってもいい。サニーのタクシーなどザラである。
 また日本車はとばしているのが多い。そしてクラクションをならして、猛然と追越しをかけてくる。これは丁度、日本でムスタングがとばしているのと同じではないかと話しあった。
 車が増えると共に事故も増え、パキスタンでも、交通事故は大きな社会問題となりつつある。そのためだろうが、映画館では、事故防止のキャンペーンが行なわれている。

 はだしの少年、手に紅茶の盆をもち道路を横切る。突進してくる乗用車。少年の恐怖にゆがんだ顔のアップ。ブレーキのきしり。次のカットで道路に散乱した茶わんと盆。大きな血痕がうつり、アナウンスが流れるのである。「かくて少年の生命は去ったのであります」

 車が増えたと反対にブルカ(回教徒女性が外出時に用いるベール)の女性は減った。パキスタンは、正式にはパキスタン回教徒共和国といい、回教徒の国である。そのコーランの教えの一つに、女性の隔離がある。
 コーランには次のようにある。〈それから女の信仰者にもいっておやり、慎しみ深く目をさげて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方がないが、そのほかの美しいところは人に見せぬよう‥‥(24−31)〉ブルカの習俗はこの字句から生れた。
 だからブルカの女性が減ったということは、重大な変化である。少々オーバーにいえばイスラム文化の変容ともいえるかも知れない。しかしよく考えれば、回教というのは生やさしいものではないことが分かる。
 私たちがカラチについた六月十八日の夕刊、Evening Starには面白い記事があった一カラチの中心にあるジンナー公園に、午後、アベックがいた。恐らくベンチでほほを寄せ合っていたのであろう。ところが、警官はこの二人をキスと抱ようのかどで逮捕したのである。

 冒頭から車と女が飛びだした。しかしこれは私たちに全く関係ないことではない。私たちはこの二カ月間、車で西パキスタンの調査を行なったのである。けれど後者に関しては、断じて関係はなかった。何しろ私たちは、教育調査隊というおかたい隊であった。

京都カラコルム辺地教育調査隊

 京都に京都カラコルムクラブという‥・後につづける言葉に迷う。一般にいう山岳会では勿論ない。しかし山岳連盟に登録されたレッキとした社会人山岳団体ではある。強いていえば、海外登山の経験者及び経験予定者のみで構成された、海外登山クラブといえるだろう。(余談であるが、カラコルムクラブ婦人会なるものもあり、これはカラコルムクラブと異なり標語を持っている。曰く、銃後の守りは固し!)
 カラコルムクラブでは、一九六五年のディラン峰が失敗したので、以後パキスタンに申請をつづけ再起を期していた。小谷代表も毎年外国出張の帰途パキスタンに寄って、プッシュを行なっていたが、いつもキャンセルの通知が来るだけだった。
 そのうち一九六八年の秋、ディランが登られたという情報が入った。薬師さんによれば、松田雄一氏よりの手紙に書いてあるという。情報魔といわれる松田氏のニュースとあらばまず間違いなかろうが、念のため、直ちに問合せることにした。
 返事によると、これは一橋大の倉知さんよりのニュースで、登ったのはオーストリアのハンス・シェル、八月に登ったと葉書で知らせてきたという。
 全く予期していないことであった。私たちは毎年申請していたし、それにこの年の分には拒否の回答にも接していなかった。
 恐らく奴はひそかにもぐりこんで一気に登ったに違いないということになった。
 なお、この情報を疑問視する見方もあり、問題の倉知氏あてのハガキを見ることになった。そこには「幸運にも、私はディランに登ることができた」とのみ書いてあった。そこで文中のClimbというのは、必ずしも頂上に達するということを意味しない。普通は入域できない場所に入り得たという解釈が成立つ——という迷論を私は唱えた。
 何とか登られてほしくないという気持だったのだろう。この気持は誰しも同じであった。
 四月になって、ようやく、問合せの返事がハンス・シェルより、小谷さん宛に来た。彼はやはり登っていた。たったの三名で、オーストリアから装備と共に、フォルクスワーゲンで走ってきて、許可なしであっさり登ってしまったのだ。

 ディランが登られたという最初のニュースの時、最も残念がったのはディラン隊の登頂隊員であった小山さんであった。彼は、われわれも同じやり方が可能であると確信した。勿論、ギルギットに長く滞在している友人の法政大探検部の平氏とも連絡をとり、充分の裏づけのもとにである。そこで彼は、カンピレディオールを狙うことにした。
 小山隊は、現地合流も含めて六名となった。一方私は、登山隊は二の次とした四名の調査隊を組み、カンピレ隊と共に、カラコルムクラブ一九六九年遠征の一部にしてもらうことになった。カラコルム西部の総合的解明を行なったシュナイダー隊は、常に登山と調査の二つの部分よりなっていたし、現在でも充分意義のある形式だとの小谷代表の判断であった。

 時は世界的にスチューデント・パワーがいわれ、京都もさわがしくなっていた。考えるに、これは機械文明の高度発達との関連が予想できた。私たちは、機械文明から遠く隔った場所において、人間が見失い、あるいは忘れ去った、何か貴重なものが発見できるかも知れないと考えた。だから本当は人間探求隊とでも名付けたかったが、メンバーの職業も考慮して、辺地教育調査隊と名付けることになった。できれば、チョゴルンマ氷河最奥の部落あたりを狙いたかったが、情勢悪化の報が次々と入り、場所は行ってからということになった。年末より始めていた準備のうちで、私たち調査隊が最も力を入れたのは、ウルドー語の勉強であった。

『ホモ・ルーデンス』について

ホモ・ルーデンス
登山と「神話」その五

『ホモ・ルーデンス』について

 遠藤周作の「ぐうたらシリーズ」が、どんどん売れつづけているのだそうです。
 だいぶ前には、「マジメ人間」ということばが流行しました。こういうことばができ上ったこと自体、「フマジメ人間」がある存在意義を認められたことを意味していた、ぼくはそう思います。「まじめに働くことが、日本の繁栄と幸福につながるのですよ」という、支配者のかけ声に、民衆が首をかしげ始めたことをも意味していたかも知れません。
「まじめ」の対極にあるのが「ぐうたら」です。
「まじめ」はいいが「ぐうたら」はわるい。単純にいえば、そうなります。
 しかし、そう単純には考えられない。考えるべきではない。ただただ真面目に働いた結果として加速度的におこってきた、いろいろの、とんでもない社会現象を見て、民衆は考え始めたのではないでしょうか。
 気づいている人は多くはないかも知れませんが、日本的なタテマエ主義の「マジメ人間」の時代は、もう去りました。そして「グウタラ人間」あるいは「ハミダシ人間」の時代がきているのかも知れない。
 さて先号で、「山の死」の問題には「遊び」の社会的位置づけの問題が関わっている、とチラリと触れました。
 このごろでは山関係の文章の中に、「遊び」ということばを見つけるのは、さほど難しいことではありません。「ホモ・ルーデンス」などというのは、ごろごろしています。
 最近では、カイヨワも流行のようで、例えば、野村哲也さんは、「山と渓谷」一月号に次のように書いておられます。
 一登山が所詮は個人の遊びであるとすれば、記録のためとか、登山のハクをつけるために人のお膳立てした遠征隊にのっかるといったような要素が加わっては、カイヨワ『遊びと人間』のいう恍惚と目まいの境地に酔いしれることはできない一
 ところで、登山が個人の遊びであることがはっきりと、そういわれだしたのは、そんなに古いことではなさそうです。
 そんなにバッチリ調べたわけではありませんが、明確にそう規定した「云い出しべえ」は、どうやら京都の塚本珪一さんみたいです。
 一いろいろと理屈をこねたとしても、やはり登山は〈あそび〉である。〈あそび〉ではなく、人間限界に対する自己への挑戦、自然征服であるとしても、それは単に自己の行動の理屈づけとごまかしだと思う。正直にたのしい〈あそび〉、自分のための、自分を大切にする〈あそび〉といえばすっきりするだろう。徹底した〈あそび〉としての登山は結果として〈個人に属する登山〉の成立を見るだろう。(『岩と雪』10号、「続・登山は個人に属すべきである」一九六七)一
 一九六七年当時としては、これは極めて新鮮な主張でした。一方的なおしつけ的ムードで、伝統的な「聖なる登山」論がありましたが、登山はすでに大衆化の時代に入っていたからです。しかし、今日では、こういうことは常識となってしまいました。
 むしろ「個人に属し」きって、個人個人に分断孤立させられている、ぼくたち山に登るものたちは、どのようにして連帯を回復すればよいのか。それが問題となってきている。そう考えます。
 ここに「遊び」の問題が浮かび上ってきます。ぼくたちは、「山の世界」でよく「遊び」をロにしますが、はたして「遊び」を正確に理解しているのだろうか。はなはだ疑問です。特にこの日本の精神風土においては……。
「アルピニズム」などというものが、ぼくたちの連帯に、もう何の効果ももたなくなった今日、「遊び」の再検討は何かの「ヒント」になるかも知れない。
 そういうわけで、今回は、「遊び」をとりあげたいと思います。〈レジャー〉から「遊び」へ

「遊び」について語られるとき、きまってでてくるのは、〈ホモ・ルーデンス〉です。
 これは、あなたもとっくにご存知の通り、遊戯人という意味です。遊び人間といってもいい。こうした「ホモナントカ」というやつは、これに限らず、ほかにもいっぱいあります。〈ホモ・サピエンス(知性人)〉〈ホモ・ファーベル(工作人)〉〈ホモ・エコノミクス(経済人)〉〈ホモ・ポリティコス(社会人)〉……。さらには、梅棹忠夫のいう〈ホモ・エクスプローラートル(探検人)〉や黒川紀章の〈ホモ・モーべンス(移動人)〉なんてのもあって、これはもう「いっぱいある」というより、「いくらでも作れる」といった方が正しいかも知れません。
 さて、〈ホモ・ルーデンス〉を作ったのはオランダの学者であるホイジンガーです。
 彼は、一九三二年に『ホモ・ルーデンス』を書きました。三〇年代というヨーロッパ社会の激動期にでたということには意味があるはずですが、それについては後にふれます。
 さらに、ホイジンガーの「遊び」論を、一部手直し的に批判しながら継承したのが、カイヨワの『遊びと人間』です。
 よく知られているのは、この二つなのですが、他にもいろいろあるようで、たとえば、フィンクの『遊戯の存在論』(一九五七)。
 ところで、ぼくが面白いと思うのは、こうした「遊び」論が日本で続々と出版されるのは、七〇年代に入ってからなのです。
 ちょっと列記してみましょう。
一九七〇年 一 カイヨワ『遊びと人間』清水幾太郎・露生和夫訳(岩波書店)
一九七一年 一 『ホモ・ルーデンス』里見元一郎訳(河出書房新書)。多田道太郎・塚崎幹夫訳(講談社)。フィンク『遊戯の存在論』石原達二訳(せりか書房)
 とまあこんな具合なんです。
 どうしてなのか、ぼくもあんまりよく分りません。けれども、「遊び」に対する関心の高まりがあったことは否定できないと思います。
 もしかしたら、学園紛争・七〇年安保と続いた日本の激動が、何らかの作用をおよぼしたのかも知れない。
 さらには、クラシック・コンサートの不況、マンガ本、ポスター・ブーム、ポップ・アートの隆盛、ボーリング・ブーム、蒸発人間や家出少年少女の激増等は、一見何のつながりもないようでいて、深いところでつながっているように、ぼくには思えます。
 六〇年代になって、日本は、いわゆる〈レジャー・ブーム〉の時代に入ります。〈レジャー〉は流行語となりました。ところで、この〈レジャー・ブーム〉は、明らかに企業によって、意図的に作りだされた。これは重要な点です。
 物見遊山その他で民衆が遊ぶことで、利潤が追求できることに気づいた。おまけに、それによって、勤労意欲が高まり労働効率が高まれば、こんな結構な話はない。まさに一石二鳥というわけです。
 ところで、そもそも〈レジャー〉とは、余暇なのでして、労働・仕事に従属したもので、それの効率を高めるためのものというニュアンスが強い。「余暇の善用」というたぐいです。
 ところが、「遊び」となると少々異なります。だから、「遊び」が関心をもたれるようになったということは、単なる言葉のはやりすたりというだけの問題ではなく、実に興味あることだと思うのです。
 こうして、「遊び」に関心をもつ人がふえ、「遊び」が前面にでてきたということは、日本という特殊な国では注目すべきことではあります。がそれは、人々が「遊び」を、正確にとらえたことを意味しません。

ホイジンガーの危機感

 ご承知の通り、「遊び」についてもっとも総合的に考えた最初の人が、J・ホイジンガー(一八七二〜一九四五)というオランダの文化史家です。
 彼は、『ホモ・ルーデンス』(一九三二)を著わし、〈ホモ・ルーデンス(遊戯人)〉を〈ホモ・サピエンス〉、〈ホモ・ファーベル〉と同じく、というよりか、より本質なのだとしました。
 彼はまず、「遊び」の理念、あるいはモデル概念を構成し、それを考察の出発点としました。
 一形式について考察したところをまとめて述べて見れば、遊びは自由な行為であり、〈ほんとうのことではない〉としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何の効用を織り込まれているのでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間のなかで遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範を作りだす。それは自ら好んで秘蜜で取り囲み、あるいは仮装をもって、ありきたりの世界とは別のものであることを強調する。一
 つまり、ホイジンガーの定義によれば、「遊び」は次の五つの点によって特徴づけられることになるようです。
 1.自由 2.非日常性 3.没利害 4.時間的・空間的な分離 5.特定のルールの支配
 さて、まえにいったように、これが書かれたのは、三〇年代のヨーロッパ社会の混乱期でした。「遊び」が乱れてきた。ホイジンガ一には、そう感じられたのだと思います。
 こうした危機意識あるいは間題意識は、『ホモ・ルーデンス』を流れるモチーフです。
 それは次のようなところでも明らかです。
 一 文化はある意味では、いつの時代でもやはり一定の規律への相互の合意に基づいて遊ばれることを欲している。真の文明はいかなる見方に立とうと常にフェアプレーを要求する。……遊びの協定破りは文化自体を破壊する。一
 さらに、
一 文明のもつ遊びの内容が文化創造的であろうとするなら、……それは理性や人間性や信仰によって定められた規範から迷いだしたり、それに違反してはならない 一
 どうですか。あんまり有難がるようなものではないでしょう。まったくけったくそわるい。
 つまり、ホイジンガーとは、「遊びの大衆化」の傾向を感じとり、それに反発した学者という定義ができるわけです。「遊び」を人間の本質としたのは、当時としては冴えた見解ではあったのでしょうが、民主制をきらう彼の「遊び概念」は、美的表現の方に傾き、貴族的個人主義のそれにとどまってしまいました。
 そして、「遊び」のもつ「共同生活」性を一応指摘しただけで、〈遊戯人〉と〈社会人(ホモ・ポリティコス)〉とを関連づける視点をもなかったわけです。

カイヨワの「遊び」論

 さて、このようなホイジンガーの「遊び」論を、批判しつつ継承したのが、ロジェ・カイヨワ(Ro-ger Caillois 1913〜)です。
 彼によれば、ホイジンガーは「遊び」の〈文化創造的な面〉にあまりにとらわれすぎ、そのため、たとえば賭博といった〈非文化的〉な遊びを見落した。ホイジンガーのいう「遊び」は、〈闘争の遊び〉と〈表現〉の二つになってしまう。そう批判したのです。
 彼も、ホイジンガーと同じく、「遊び」のモデル概念を設定しました。
 それは次の四つの基本原理によって成立つことになります。
 1.競争−スポーツ(身体的能力)、チェス(知的能力)
 2.偶然−くじ、賭け
 3.模倣−芝居、変装、仮面、「変身の遊び」
 4.眩暈(めまい)一こどものぐるぐるまい、ジェットコースター、オートバイ、スキー
 以上なのですが、特にこの4がカイヨワの独創であって、カイヨワの「遊び」論は、これによって印象づけられているといってもいい位です。
 さらに彼は、(1)と(2)の要素が結合したものを、「脱所属の遊び」。(3)と(4)を「脱自我の遊び」と規定し、「脱所属の遊び」から「脱自我の遊び」への移行のなかに、文明化の道を見ようとしました。(しかし、それにもかかわらず、「脱所属の遊び」が、再湧出することを否定的に予見しています)
 さて、カイヨワのホイジンガー批判のもう一つは次のようなものです。〈ホイジンガーは「遊戯的もの」と「聖なるもの」とを混同している〉
 つまり、ホイジンガーの場合、常に「遊び」と共に「聖」の力が働いていました。彼にとっての「遊び」は「聖なるもの」でありました。
 だからこそ、文化のなかの「遊戯要素」の衰退は、「世俗化」の進展のしからしむるところであり即「聖」の力の衰弱であると感じ、危機感をいだいたわけです。
 ところが、カイヨワの場合、「遊び」は「聖」でも「俗」でもありません。「遊び」そのものです。だから「遊び」は厳粛である必要はなく、「聖」に較べてはもちろん、「俗」に較べても、はるかに気楽で自由な領域だったのです。
 この二人の場合を較べると、あなたがお気づきのように、カイヨワの方がはるかにドライでナウイです。
 このことは、カイヨワの『遊びと人間』が一九五八年に書かれたことを考えれば、容易に納得がゆきます。ヨーロッパ社会は、ホイジンガーの三〇年代とは、すっかり変っていたのです。

真の〈自由〉と真の〈遊び〉

 さて、プラトンはこう書いています。
一 最高のまじめさをもっておこなうだけの価値のあるものは、ただ神に関することがらだけであり、人間はただ神の遊びの玩具になるようにつくられている 一
 オリンピアの競技も、人間が神の玩具となって競われるものであり、本当に遊んだのは神だったのだそうです。
 神代には、人間は遊ぶ存在ではなかった。これは日本の場合も同じです。天の岩戸の前でストリップを楽しんだのは神々です。余談ですが、「面白い」の語源は、この時岩戸が開いて、神さまの面が白く光ったところにあるといいます。
 中世になって、人間も遊べるようになりました。とはいっても、「遊ぶ自由」を有したのは、「自由」をもった特権階級の貴族だけだった。
 そしてこうした特権階級を打倒すべく、力をたくわえてきたブルジョアジーが革命をおこします。この時、ブルジョアジーが要求したものの一つは「自由」でした。
 彼等が、貴族が独占していた「自由」をうばい取ったということは、同時に「遊び」を手にしたということでした。
 ところで、こんなことがよくいわれます。「自由には、「……からの自由」と「……への自由」とがある。いやちがう。「自由」をうばいとろうとするプロセスのなかにこそ真の「自由」があるのだと。
 これを「遊び」におきかえても、ピッタリ成立つと、ぼくは思います。
 いずれにしろ、いま極めて雑にザッと見てきた「遊び」の歴史からでも、「大衆化の方向性」という現在にまで続く時代の流れは、賢明な諸氏には充分おわかりでしょう。
 すでに述べたように、ホイジンガーは、こうした流れを認めませんでした。むしろそれに危険を感じたのです。
 それではカイヨワはどうでしょうか。彼の「遊び」における〈めまい〉要素の指摘は卓見ではあります。でも、それはそれだけのことだと思うのです。たしかに、カイヨワの「遊び」論の方がナウいフィーリングがある。とはゆうものの、結局は五十歩百歩の似たようなもんだ。ぼくはそう思います。
 ホイジンガーも、カイヨワも、「遊び」を〈なによりもまず自由な活動である〉と規定し、その本質に「自由」があることを明確にしました。
 しかしながら、その「自由」に関しての、歴史的視点を全く欠いている。というよりか、そういうことには意識的に目をふさぎ、「自由」は、「仮構の世界」としての「遊びの世界」にだけ存在すべきだ。そう考えているかのようです。
 たとえば、カイヨワは『遊びと人間』に第四章「遊びの堕落」の項を設け、「遊び」を「遊び」たらしめている〈実生活からの隔離〉が失われると、「遊び」は堕落する。そう述べているのです。

ホイジンガー、カイヨワの〈ルール信仰〉

 そもそも、「遊び」に関して最初に論じたのがホイジンガーというわけではありません。
 さきほどのプラトンに始まって、シラー、スペンサーをはじめとして、いろいろの人が、いろいろのことを言っているようです。
 だれもそうは言っていないかも知れませんが、もしホイジンガーが「遊び」論の元祖なんだとしても、それは、彼が最初に本をだしたというだけのことだと思うのです。
 それに、もうかなりしつこい位いいましたが、そんなにアリガタイものではない。『ホモ・ルーデンス』より二四年も前に、フロイドが述べていることの方が、ある意味は、はるかに方向性があります。
 一 遊んでいる子供はみな、ひとつの独特な世界を創りだしている。もっと正確にいうなら、自分の世界の事物を、自分の気に入った、ある新しい秩序に置き直している。
「遊び」の特徴は、そうした想像的な仮構性にあり、したがって、「遊び」の反対物は真剣ではなく現実なのだ。大人の空想や、その空想活動の所産である神話、演劇、文学作品なども、基本的には子供の遊びの延長線上にある。それらはすべて「人を満足させてくれない現実の修正」にほかならない。(「詩人に空想すること」一九〇八・『フロイド著作集』第三巻・人文書院) −
 さて、ホイジンガー・カイヨワの「遊び」論のもう一つの問題点は、二人に共通する〈ルール信仰〉です。
 この〈ルール信仰〉については、この「登山と「神話」の最初、スポーツ神話の項で少しふれました。
 とにかく、彼等は、ともに、プレーヤーによるルールの変更・修正を考慮していません。
 彼等によれば、「遊び」のルールは、〈有無をいわせぬ絶対的なもの〉〈一切の議論を超越Lたもの〉であり、よい遊戯者はその根拠を問うことなく、そのままの形でルールを受け入れねばならず、ルール自体に異議をとなえるものは、「遊び」の破壊者ときめつけられてしまうのです。
 こうした考えがいかに反動的であるかは説明するまでもないでしょう。歴史の流れに目をふさいで、それを否定しようというような人間は、いくら偉大な学者であっても、抹殺されるのがまた歴史の必然だと、ぼくは思います。

ピアジェの分析と考察

 ホイジンガー、カイヨワの〈ルール信仰〉に対して、「反動的だ」「抹殺される」などと、血走ったようなことばかり言ってたのではしかたありませんので、ここに有効な反論の素材を引用したいと思います。
 ジャン・ピアジェ(Jean Piaget 1896〜)。スイスの心理学者。彼は特に子供についての実験的臨床研究をおこなって、世界の心理学者の注目をあつめ、著しい影響をあたえたのですが、彼の研究を紹介します。
 子供の遊戯集団の詳細な研究をとおして、彼はゲームのルールに対する子供たちの態度を分析しました。
一〇歳以下、特に七〜八歳の子供の場合 一 年長者に教わった規則を厳守するルールは「強制的で神聖な何ものか」で、絶対的な拘束力をもち変更は許されないとみなされる。
一一〜一二歳の子供の場合 一 ルールは年長者の「権威」にではなく、遊戯集団の仲間たちの「同意」に基礎をおく。だから、強制的にではなく自発的に受入れられるものであり、より楽しく遊ぶために必要とあらば、「合意」によって変更される。
 興味深い分析だと思います。
 それに、なんともケッサクではないですか。ぼくたちのまわりには、股ぐらに毛だけは生えていても、実は七、八歳の子供相当の人間がそこらじゆうにゴロゴロなどというのは‥…。
 さて、ピアジェはこの観察・分析から、次のような考察にいたります。
 一 すべての道徳は規則の体系からなり立っており、すべての道徳の本質は、個人がかれらの規則をどれだけ尊敬しているかという点に求められる。
 道徳は二つに分けられ、ひとつは権威において不平等な社会関係での「一方的尊敬」にもとづく「拘束」の道徳ないし他律の道徳であり、もう一つは、平等な諸個人のあいだでの「相互的尊敬」にもとづく「協同」の道徳ないしは「自律」の道徳である。
 そして前者からは「義務」の観念が、後者からは「より自発的な理想であり強制的というより魅力的なもの」である「善」の観念が形成される。善は義務とちがって、個人の上に社会によって課せられた拘束の結果ではない。(J・ピアジェ『児童道徳判断の発達』同文書院一九五五) −
 小学校の「父親学級」というやつで、ある一流国立大学の助教授が、それは難しい横文字ばかりのでてくる講演をしたんです。その語の中には数限りなく、「子供」と「大人」ということばが使われていたんです。
 あとで聴衆の一人が、「子供と大人とはどこで区別してお話なさいましたか?」と、極めてその質問の意地悪さをかくしながらきいたと思って下さい。
 そのオランダに一年間留学していたという教育学部助教授は、おどろいたことに、全く返答に窮したあげく、「やっぱり経済的に独立して結婚したら大人ではないですか」などといったのです。彼の講演の内容が、これですべてぶちこわしになったことは当然です。
 ピアジェの分析より導き出される「大人への方向性」とは、「より楽しく周囲を作り変える努力をすること」ということになります。
 ところが、普通一般には、これが全く逆転していて、そういう努力を放棄したときに、「大人になった」などとほめそやす。
 そうであれば、この国は子供ばかりであることになり、べつに大橋巨泉の指摘をまつまでもなく、ぼくたちは「遊び」が下手で、「遊べない人々」ということになります。

〈遊びの隔離〉の意味と機能

「人間は、文字通り人間であるときだけ遊んでいるのであって、彼が遊んでいるところでだけ彼は真の人間なのだ」(『人間の美的教育について』一七九五)
 こういったのはシラーです。そして、理想の状態においては「人間は美といっしょにただ遊んでおればよい。ただ美とだけ遊んでおればよい」としたのです。
 しかし、「遊び」がどんどん民衆に解放されてゆくにつれ、そんなことはいっておれなくなりました。
 ここに、ホイジンガー、カイヨワの「遊び」の隔離の主張があらわれてきたのだと思います。〈遊びの隔離〉つまり「遊び」は実生活から隔離されねばならないという主張には、普通二通りの意味があるとされています。一つは、「遊び」の側からの「純粋性保持の要請」によるものであり、もう一つは、体制の側からの「秩序維持の要請」によるものだというのです。
 しかし、よく考えてみれば前者はおかしいことになります。というのは、「遊び」の側などというのは現実にはありません。
 あるのは「遊び」を遊ぶ個人があるだけで、もしその個人が「「遊び」は純粋であらねばならない」と考えたとしたら、そう考えながら遊んだらよいだけで、とやかく口出しする必要は全くないのです。
 どうやら「遊び」の側というのは、タテマエの立場が、ホンネをかくすために強調されるのではないだろうか。そんな気がしてなりません。
 さて、ぼくたちは現実生活でさまざまのフラストレーションをいだきます。隔離された「遊び」は、こうした不満やいきどおりを、秩序にとって無害な形で放出させ、解消させ、そしてふたたび現実生活へと動機づける働きをしているわけです。
 つまり、「遊び」は秩序にとっては、一つの「安全弁」であり、「気つけ薬」みたいなものなのです。
「遊び」がいまいったような機能をはたすためには、「遊び」と「現実生活」との間に明確な隔壁がなければならないことになります。もしそれがなくなったら、「遊び」は「安全弁」どころか「爆薬」となる。支配者は、それに大昔から気づいていたがゆえに、〈遊びの隔離〉が強調されてきたのだと、ぼくは考えています。

〈怠け〉思想の評価

 ぼくたちは、「遊び」の具体的イメージとして何を考えるのでしょうか。人によってさまざまではあるでしょう。
 それはそれでよい。「遊び」というのは、「これですよ」と人に決めてもらうのではありませんから‥‥‥。
 でも、ほとんどの人は、「遊び」を「何かすること」というカテゴリーでとらえるのではないでしょうか。
 けれども、そもそも「遊び」ということばには、「ハンドルの遊び」という用例にみられるように、「無駄」「余裕」という意味があります。〈究極の「遊び」は「生」よりむしろ「死」に似ている〉らしい。「遊び」をあくまでも「活動」としてとらえ、「無為」や「怠け」をあくまでも「遊び」のカテゴリーから除外してきた「西欧」の遊戯思想に、ぼくたちはかなり毒されているのではないでしょうか。
 一 生への執着という弱みから、われわれは「積極的」遊びという名の擬似遊戯に身をささげる(多田道太郎『遊びとは何か』)
 こうした「怠け」の思想は、「遊び」が体制に管理されているだけではなく、収奪の対象となっている今日、大いに考える必要があると思います。「ものぐさ太郎」や「三年寝太郎」の民話の世界を見直さねばならない。そう思います。
 また、カフカの『断食行者』の世界。主人公は、どの食物も気に入らず、気に入らぬ食物に手をのばすより、むしろ飢えてみせたのです。「一流アルピニスト」を目指してというかけ声や、かびの生えた「偉人伝」におどらされる必要はありません。憑かれたように海外登山をくりかえす、有名登山家の心の暗黒に気づく必要もあります。
 これはちょっといいすぎの独断かも知れませんが、彼等は何度も何度も世界の矛盾が集約されているような地域にでかけながら、そういう現実や不合理に全く無関心という態度でいることが、ぼくにはどうも理解できません。
 いずれにしろ、「遊び」を追求するにしても、「怠け」「ぐうたら」から出発し直さないことには、「遊び」の本質はつかめず、ただいたずらに肉体と精神をすりへらすことになってしまうのではないでしょうか。

 <自由の感覚〉の追求と連帯  現代社会は、巨大で複雑で、そして極めて巧妙な「管理社会」です。  そこでは、「遊び」までもが管理され、おまけに「利潤追求」の対象となる。  この、多くの亀裂を走らせつつも、一見「豊かな社会」において、「遊び」は大衆のものとなったかにも見えます。しかし、本当は「遊び」の本質はますます遠ざかっているようです。  隔離された「遊び」の世界で、ぼくたちは現実を離脱し、実生活のさまざまの重荷から解放され、ふだんは日常の塵に厚くおおわれて、ふれることのできない純粋な「生」にふれる体験をもちます。  正確にいえば、時として持つかも知れない。  この「純粋な生の体験」、つまり〈自由の感覚〉こそ追求すべきものだと、ぼくは考えます。  もちろん、それは、「時として」ですし、かぎられた時間のなかの、さらにかぎられた一瞬における体験かも知れない。  しかしそれで充分です。  こうした体験によって得た「自由」の感触は、既製の秩序・体制のあり方に刃を向ける拠点となるかも知れません。  さらには、〈隔離〉の限界そのものを越えようとする願望を必然的に生みだすはずです。  そして同時に、こうした意味で暗闇のなかの「自由」をまさぐる者同志が連帯するべきではないでしょうか。「祭」の伝統は、支配者の民衆コントロールの手段としてではなく、ぼくたち自身で再構成されねばなりません。革命は、「おまつり」のごとく「遊び」のごとくおこなわれるのでしょう。 (たかだ・なおき) 【『岩と雪』42号 1975年4月所収】

その4「山での死」について

山での死
登山と「神話」その四

「山での死」について

 現代は情報化時代などといわれます。ぼくたちは、まさに情報の洪水のなかで溺死しかかっているような気さえするくらいです。
 そういう状況の中では、一体何が本当なのか、物の見方にほんとうに客観的な立場などということがあるのか、なにがなんやら訳がわからなくなってきています。「真理は一つ」などということばは、なんとも白々しくひびくばかりです。
 そして、そういう現状を、〈価値観の多様化〉とか、〈既成概念の崩壊〉などと表現することは、「シラジラシサ」の上塗りにすぎないように思えます。
 しかし、ここに、だれでもが、どうしようもなく、認めざるを得ないことがあります。それは、「人は死ぬ」ということです。こればかりは、どうしようもない真理といえるでしょう。
 そういうわけで、「死」はだれにとっても決して避けて通ることのできない問題です。そして、「死」をどう考えるか、ということは、その人の生き方・人生観・世界観などに、根元的に関わる本質的な問題だと思えます。
 なんやら、話が宣教師めいてきて、いやになります。正直いって、ぼくは、こんな問題はあんまりとりあげたくありませんでした。なんとなく気が進みませんでした。
 なんしろ、話が大きすぎますし、あまり多方面に亘りすぎる気もします。そうかといって、避けて通れないという気もします。
 いろいろと迷ったあげく、結局、個人にとって避けて通れない問題であるのなら、この「登山と『神話』」でも、避けるべきでないというふうに思えてきました。
 そういうわけで、今回は、「山登りにおける死」をとりあげる決心をしたわけです。

 あなたは、「死」とはなんぞや、ときかれたらなんと答えますか。「生」の反対。
 そうです。「死」あっての「生」です。バカみたいですが、これはなかなか重大な問題で、〈死にがい〉←→〈生きがい〉論の出発点です。これについては後でふれます。
 「生」の終り。ごもっとも。「生」は必ず「死」に至ります。つまり「生」→「死」という図式が成り立ちます。これも極めて根元的なものです。
 たとえば、最も未開な社会から文明社会まで、あらゆる社会には、いわゆる「他界」の概念があります。死は単にこの世での終りを示すにすぎず、死者は、別の世界(「他界」)で永遠に生きつづけるとするわけです。
 さて、山登りには必然的に死が伴います。正直いってぼく自身、今なお生きているのは、幸運の女神に守られたか、あるいはそういう偶然の結果にすぎないと思っています。
 もしかりに、「自分は細心の注意とトレーニングを怠たらなかったから……」などという人がいたとしたら、その人は倣慢です。あるいは、山の恐ろしさに対する無知さの故か、山らしい山に登らなくなった人なのに違いありません。
 そもそも、山と「死」とは切っても切れない関係がある。ぼくはそう考えております。
 ところが、こういう具合にスパッといえない事情がどうやらあるらしい。この日本の特殊性みたいなものとして、です。その原因・理由は何なのか。そこのところをここで考えてみたい。これが一つのテーマです。
 それから、今いったこととも関係しますが、日本人には日本人の「死」についての考え方みたいなもの、つまり「死生観」があるはずです。これについて考察したいと思います。
 そして、この「死生観」が、どのように変化してきたのか。特に今日いわれる、若者文化(Youth Culture)と成人文化(Adult Culture)の分極・対立化の観点を基底として、そのそれぞれにおける「死生観」と「登山観」をみてみたいわけです。
 かなり大上段にふりかぶった前口上であることは、ぼくも認めます。実はあんまり自信ありません。
 はたしてどういうことになりますか。「しごき」はサド・マゾ文化

 このごろの若者は別として、ぼくたち日本人には、「死」の美学といったような発想があるようです。
 これはやはり、武士道からきているにちがいありません。あの有名な『葉隠』の、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というやつです。
 聞くところでは、武士は朝起きると、行水で身体を清め、サカヤキをそり、軽石で爪をけづったそうです。そして、前夜の深酒で顔色がすぐれない時などは、頬紅をさえつけたといいます。
 どうしてそんなことをしたのでしょう。それは、家の門を出たとたんに、切り殺されるかも知れない。その時に見苦しくないように、との配慮だったのです。
 屏風岩の一ルンゼを攀った、大阪の梶本徳次郎さんは、生前、自分は困難な登攀をする時には、真新しい下着をつける。もし雪崩等で死んだ時に見苦しいからだ。そういっておられたのを憶えています。
 さて、武士道というのは、主人に徹底的につくし、操を立て、そして美しく死ぬというほどのものです。『葉隠』が「忍ぶ恋」を最上として、衆道つまりホモの道を説いていることからも分るように、武士道は主人への思慕の世界といえます。
 そうしたヘテロな世界においては、その思いは、死によってしか完結することはない。ここに「死の美学」が生れるのでしょう。
 そして、ここには同時に、一種のサド・マゾ関係が成り立ちます。
 現代の日本人のカルチュアの底流には武士道がありますから、当然、サド・マゾ的カルチュアと呼べるものがあることになります。
 日本の社会のあらゆる分野に見られる、いわゆる「シゴキ」と呼ばれるものが、これであると、ぼくは考えております。
 日本の山登りの世界がもつ、一種独特の、陰惨な自虐的志向も、同様な発想でとらえられるはずです。
 かなりせっかちに話を進めすぎたかも知れません。少々補強しておく意味で、一つだけ実例をあげておきます。大松の「女子バレーチーム」を考えて下さい。あの場合、もし選手たちが男だったら、あのような異常なハード・トレーニングは成り立たなかっただろう。ぼくはそう考えております。
 もちろん、選手も監督もバレーを愛し、世界一になる欲望をもち、その案内役としての監督をアイドルと思ったのですが、決定的には、潜在意識として惚れたのだと思います。そして、あの「シゴキ」を通して陰と陽の歯車がかみあったのです。
 そして、そのようなトレーニングが、オリンピックの時に、外国で、「婦女虐待」として告発されたことから考えて、それがまさに日本独特のものであることを示していると考えられるのです。

武士道的死生観

 ところで、「死」または「死に方」へ向かって一途に結集してゆく、武士道的死生観には、強烈な目的意識があります。そして、その「死に方」には美学的序列まであるようです。
 しかし、こうした、武士道的死生観が作られてくるのは、一八世紀の初め頃からで、戦国時代には、そんなものはなかったようです。
 当時のものは、もっと利己的、もっと野蛮的でしたし「死に方」も単に面白い死に方、カツコよい死に方がもてはやされただけです。
 つまり、「忠義」を軸とした武士道的死生観が成立するのは徳川時代といえるでしょう。そして、その「主君への忠」、「主君のための死」の意味する「主君」は、徳川幕藩体制の中での、各藩主を意味していました。これはひとつ重要な点です。
 もっと重大な点は、こうした武士道モラルは、武士階級のみのものであったということで、人口の大多数を占めていた農民とは何のかかわりもなかったということです。
 ところが、薩長のイモザムライどもが作った明治政府は、この武士道モラルを人民に注入することに最大の努力をはらいました。
 彼等は、「忠」と「孝」をセットすることによって、天皇を家長とする大家族国家、大日本帝国を作りあげようとしたのです。そして大正期をへて完成した、天皇を家長とする巨大な擬制家族国家においては、人民は「天皇の赤子」とされ、民衆人民はその「死」を天皇に捧げることによってのみ、完結することとなりました。いわゆる「天皇陛下万才」思想の誕生であります。
 〈身体髪膚父母に受く。あえて毀損せざるは孝の始なり〉(『孝経』)は、修身教育の徳目として注入されました。この文句の意味するところは、あなたたちの身体は、髪の毛一本に至るまで、両親からもらったものです。それを傷つけないこと、それが孝行の始めです。という至極もっともなものなのですが、但し注釈が入ります。しかし、天皇のためには喜こんで差出しなさい、というものでした。
 こうした、いわゆる「散華」の思想は、その反対の極に「犬死」をおいて、皇国民教育として行なわれたのです。それは、敗戦後三〇年近くをへた今になってもどうしようもなく残っている位に、徹底したものであったと思われます。
 それが証拠に、あの三島の切腹事件のとき、外国人のとまどいと嫌悪感とはうらはらに、進歩的といわれる日本の多くの文化人でさえ、ある一種独特の反応を示したのを憶い起すべきだと思います。
 ところで、こうした武士道的死生観なり「天皇陛下万才」思想が、意識下にあるのですから、「山での死」は、目的を持たない無意味な死=「犬死」として、社会一般の指弾を受けることになるのは当然です。
 そして、山の世界においてさえ、いわゆる「アルピニズム」という大義に捧げられていない、ど素人の死は罪悪視されることになる。ぼくはそのように考えております。

「戦無派」の「死」の否定

 さて、一つの世代の区分法としての「戦中派」「戦後派」「戦前派」というのを使って、若者の「死生観」「登山観」を考えてみることにします。
 ぼくなどはさしずめ、「戦後派」に属しますが、意識としては少々「戦無派」に入るかも知れないというところでしょう。
 ところで、「戦無派」の若者たちには、さきにのベたような「武士道的死生観」は、あんまりないように思います。「あんまりない」といういい方をしたのは、この死生観が、一つのカルチュアとして存在しているからには、若者といえども、何らかの影響を受けていると思うからです。
 しかし、普通一般には、彼らは「死」に対してまったく無関心です。平和の中に育ち、「死の前に立たされた」体験をほとんどもたない世代がそうなるのは当然のことです。
 他から見て、かなり必然的とも見える「死」が彼等に訪れたときでさえ、彼等はそれを単に事故死としてとらえます。
 もう一つのタイプは、「死」を否定するタイプです。前のタイプが、消極的否定とすれば、これは積極的否定といえます。いずれにしろ、「戦無派」世代の若者に共通しているのは、「死の否定」だと考えられるわけです。
 そこで、死を最初から勘定に入れて山登りをするような大学山岳部や、伝統ある山岳会は、拒否されることになりました。六〇年代に入って、スキー人口や登山人口のものすごい増加にもかかわらず、山岳部員や山岳会員の急速な減少がおこりました。この原因は、「山登りの行きづまり」などといわれましたが、本当は、いまいったような背景があったのです。
 「戦無派」世代の若者の中には、「なにかのために自分の命を犠牲にするのは愚かだ」「どんなにカツコ悪くても生きのびなければ意味がない」という人が少なくありません。彼らは、天皇のためであれ、国家のためであれ、あるいは革命のためであれ、人民のためであれ、とにかくいかなる「大義名分」であっても、一つしかない自分の命を賭けるのはゴメンだというのです。
 こうした主張は、かつての「タテマエ主義」に対しての「ホンネ」であり、一つの抵抗としての意味をもつと、ぼくは思います。ただそれが、「自分だけはどうしてでも生きのびる」というだけの発想になり、他人を見殺しにしたり、殺されて行く者への共感を欠落してしまう「弱さ」を持っていることを見過ごしてはならないと思うのです。
 このような弱点は、現代のクライマーにも見出されるところです。それは時としては、彼等の個人主義として、誤って肯定的に見られることもありますが、そうではないことが多いようです。
 かつて、『岩と雪』が行なったザイル事件のアンケートは、これを示していると思います。むしろ、「戦中派」のほうが、この弱さが少なかったのではないでしょうか。この点、大いに反省してもらいたいと思うのです。

「カツコよさ」の追求

 さきに、現代の若者には、「死の否定」があるといいました。もちろん、完全に否定しておれば、危険な山登りなどはやらないと思います。それでは、危険な山登りをやる若者はどうなるのでしょう。
 たしかにぼくは、現代の若者には、一般的に「死の否定」があるといいました。しかしこれは一つの傾向なのであって全部ではありません。
 ある学生が、彼は世間で普通に暴力学生などと呼ばれるセクトに属しているのですが、ぼくにこういったことがあります。「山登りの世界に自分は大いに引かれる。自分は素人だけど、やってみたい気がする」
 ぼくが理由を聞くと、「山ではカツコよく死ねるではないか」というのです。
 現代の若者は、たしかに「死の否定」を基調としてはいますが、同時に「死」への積極的受容の方向もあるようです。
 ただし、そうした「死」の受容があるとしても、それは決して「何かのための死」ではありません。これは重要な点です。そして、「何かのための死」は往々にして、ファナティック(狂信的)な傾向をおびます。
 だから、「アルピニズムの旗の下に」とか、「スーパー・アルピニズム」というファナティックな主張をかかげた、第二次RCCは、主として「戦中派」「戦後派」世代によって推進され、「戦無派」クライマーにそっぽをむかれたのではないか。ぼくはそう考えております。
 それでは、「戦無派」クライマーの特徴は何なのでしょうか。それは「ために」ではなくて、「いかに」が問題となるようなものです。自分の信ずる主義・大義との一体性の保持ではなく、それに殉ずるカツコよさに重点が置かれます。
 ファナチィシズムであるよりむしろダンディズムといえます。ダンディズムには、ファナティシズムとちがって、一種のゆとりがあり、「あそび」があります。いいことです。しかし人々は、彼等を次のような具合に非難しました。
 一ある救助隊員は、「最近は冬山登山者の質が変ってきている。″カツコイイ″登山者ばかりだが、技術のほうはどうも」とぼやいている。
 まず、広告から抜けでて来たようなファッション・モデルさながらの登山者が多い。上から下まで派手な原色の登山姿に身を固め、登山用具もスイス製のアイゼンにフランス製のピッケルといった具合だ(〈カツコよさでは登れぬ〉一九六八年一月四日付朝日新聞) ー
 しかし、彼等は、その「カツコよさ」をこそ追求していたのでした。

やさしく「死」をつつむ登攀

 戦後これだけの年数がたつと、生の肯定・尊重という価値体系が確立したようです。政府も本心かどうかは知りませんが、「生命尊重」などと唱えるようになりました。
 しかし、生の価値のみが肥大して、「死」にその位置づけを与えられなくなると、最初でふれたように、「生きがい」をも失うことになります。「死」という限定要因を失った「生」は、またその輝きをも失うことになります。
 よくバカの一つおぼえみたいにくりかえされる「安全登山」とか「山で死んではならない」というスローガンが、なんともアホらしくひびくのは、こうした理由によります。
 現代の若者クライマーは、いまいった「輝きをもった生」を求めて攀るのです。そして、「死」がもっとも明確に知覚されるとき、彼の「生」も最も鮮烈に認識されるのです。
 この時、もしかしたら訪れるかも知れない「死」は、きわめて自然に受容される、とぼくは考えております。
 その登攀は、「死」を勘定に入れての行動というニュアンスではなく、やさしく死をつつむ行為というべきでしょう。
 そして、その行為は、少なくとも『涸沢の岩小屋のある夜のこと』(大島亮吉)にある「人間が死ぬっていうことを考えのうちに入れてやっていることには、少なくともじょうだんごとはあんまりはいっていないからね……」などという、いかにもいじけた弁解がましさを全く必要としないものであるはずです。
 さて、ルネ・デメゾンの指摘をまつまでもなく、「山登りは明らかに危険なスポーツ」であります。そこには、時としては、当然の帰結としての「死」があります。
 そして、ここにのべたような気質と性向をもつ「戦無派」世代の若者が山に向かうとき、そこには当然「遭難」の多発が予想されます。
 事実、敗戦(一九四五)直後に生れた人が成人に達した一九六五年から、まさに日本の山では「大量遭難」の時代に入っているのです。
 その例を新聞で見てみましょう。
 一〈死者、ついに五七人、連休の山〉。連休入りの二十九日からの遭難者数はさらにふえ、朝日新聞社調べでは東日本関係だけで死者四六人、負傷者一四人、行方不明七人、西日本関係を入れると死者は五七人。文字通り″記録破り″の遭難となった。(一九六五年五月六日付朝日新聞)一
 一〈谷川の遭難新記録。今年一月〜十一月の集計〉谷川岳のこの間の登山者は、一般登山者六万九三〇〇人、観光登山者一八万三四〇〇人、計二五万一七〇〇人で昨年より三万人ほどふえている。遭難事故は死者三五人、行方不明二人、負傷者一六人で、昨年の死傷、不明数の二倍強、記録をとりはじめた昭和六年以来の新記録となった。(一九六六年十一月二十三日付朝日新聞)一
 一警察庁は十八日、前年十二月から今年二月にわたる冬山遭難自書をまとめた。それによると七三件で死者行方不明七一人、重傷二七人、軽傷二七人、救出六四人計一八九人にのぼり、一年前の同じシーズンに比べて倍増、史上最高を記録した(一九六七年三月十九日付朝日新聞)一

〈高度成長〉と大量「社会死」

 こうした「大量遭難」は、しかし、なにも突発的に始まったわけではありません。
 すでに六〇年代の経済成長と、大量消費時代への突入と共に、反面そのひずみがいたるところに現われてきます。
 一九五九年。マイカー時代始まる(ブルバード発売)。カミナリ族の横行。
 六〇年。テレビ受信機生産高は、三五七万台。米国についで世界第二位となり、二輪車生産高一四九万台で、世界第一位。また即席ラーメン、インスタント・コーヒーなど続々発売。〈インスタント時代〉に入ります。そして、十月までの集会・デモも全国で六八〇〇件と前年に比べて、三倍近くにふえております。「腹がへったらオマンマ喰べて、命つきればあの世行き」という〈アリガタヤ節〉が大流行しました。
 六一年になって〈レジャー・ブーム〉の時代に入ります。スキー客は一〇〇万人を突破、前年の二倍強となり、登山者も二六四万人とふえます。若者の間に、〈睡眠藁遊び〉が大流行。大人も「わかっちゃいるけど止められない」(〈スーダラ節〉この年流行)と酒に酔いしれたのです。
 そして、六三年。あの有名な〈薬師岳の大量遭難〉がおこりました。愛知大学の山岳部員が一三人凍死したのです。この遭難自体を考察してみることは、なかなか面白いのですが、ここでは止めます。
 とにかく、新聞はこれを大きく取上げました。そして、愛知大学学長は、「世間をさわがせた」と、辞表を提出します。
 きらには、これが後の「富山県登山禁止条例」のキッカケともなります。
 この年は、北陸地方では、大雪だったようで、一月二十八日までに八四人が死んだり行方不明になっています。少し極端かも知れませんが、あるいい方をすれぼ、一三人で、どうしてそんなに騒いだのかしらと思えます。
 沖縄連絡船みどり丸強風で転覆、死者・行方不明、一一二人(同年八月)
 草加次郎の時限バクダンによって一〇人負傷(九月)
 国鉄鶴見駅で二重衝突、死者一六一人(十一月九日)三池三川鉱でガス爆発死者四五八人(十一月十日)、二日間で一挙に六〇〇人をこえる人が、自ら望まない「死」を死んだのです。
 町には〈こんにちは赤ちゃん〉がながれていましたが、世はすでに「大量死」「社会死」の時代に入っていました。

「山での死」は〈自殺〉と同じ

 さて、山で人が死んだと聞いたとき、社会一般の人たちは、どんな感じをもつのでしょうか。
 もちろん、人はさまざまで、その受けとり方もいろいろでしょう。しかし、たとえば、マグロ漁船がシケでひっくりかえって、一三人死んだというときとは、かなりちがった感覚でとらえるのではないかと思います。
 このちがいは何か。これは大変むずかしい設問です。でも、よく考えてみるとおそらくそれは、一方では〈いたしかたのない死〉であり、一方はそうではないものだと感じられるのではないでしょうか。
 これをさらにつきつめると、二つの問題に行きつきます。一方は、「生活」のため、「社会」のための死であるのだから、しかたないのだ。ところが、もう一つはそうではない。「遊び」ではないか。そういうことでしょう。
 ここに現われてくる問題は、「遊び」です。「遊び」の社会的位置づけの問題であります。「遊び」はいまなお、市民権を得ていないとぼくは考えていますが、これについては次の機会にゆずりたいと思っています。
 さて、一般の人にとって、山は危険で死ぬ可能性が十分にある場所です。そんなところへどうして、のこのこ出かけるのだろう。そして、この時に浮かぶイメージは決して年配の人ではなく、「前途有為な青年」であります。「あたら苦い命を、山などで……」ということになります。まったく「犬死」ではないか、ということになります。
 また、死ぬかも知れない所に自ら出かけてゆくことは、一種の自殺行為ということになる。山の遭難記事が、ほかの死亡記事とちがった感覚でとらえられる理由の一つに、これがあるとぼくは考えます。
 そして、支配者に教えこまれた通りを信じた人々にとって、「自殺」は「犬死」の最たるものであったのです。
 以上要約すると、「山での死」には、「遊び」の問題と、「自殺」の問題がかかわっている。そういえるでしょう。

自分の命は自分のもの

 さて、「山での死」には、「遊び」と「自殺」がかかわっているといいました。
 実は、この二つの問題を支えている、もっとも大きなものがあります。それは、「個人」という問題であります。「個人」は、自分の「死」をほんとうに自分で掌握できているのか、ということです。これは同時に、「ぼくたち個人の生命は、本当に自分のものなのか」、という設問につながります。
 もちろん、「山の遭難」に関しては、「親の悲しみ」とか、「他人の迷惑」とかの問題がいわれますが、そうした「家族主義」や「日本的発想」は、いまいった観点よりみれば、なんとも色あせた口実にすぎなくなります。
 スマイスは、「山の魂」で次の様にいっています。
 一 毒ガスにやられるか、砲撃をうけるか、射殺されるか、その可能性に私はゾッとする。そういう過程の結果として私が死ぬからではなく、そんな人工的なこっけいな結末をとげるからだ。山から墜落するか、あらしのなかで死ぬか、そんな可能性には一向私はおどろかない。その中に私の個人的な興味と責任のある結末があるからである。(中略)自分でそうしたいのでなければナニもワザと山で自分の命を賭けたりおとしたりしないのだ。
ところが戦争では他人の命をうばい、自分の命を死の危険にさらしている(石一郎訳)一
 まったく十年一日のごとく、落語の「小言念仏」のごとく「モラル低下」をなげき、「山の遭難は赤信号無視の交通事故と一緒だ」(一九六七・一・一一、朝日)などといい、警察とタイアップして「無謀登山」「警告無視」と唱える「日山協」や「山岳界」のオエラガタは、このスマイスの文章はよんだことはなかったのか。
 もし知らなかったとしても、こんなことは、正確に物を見る目があり、本当に山登りをやったことのある人ならわかったのではないでしょうか。長いヨーロッバでの登山体験・生活経験があれば、それはなおさらのことです。
 あくまでも「ホンネ」を述べなかった欺瞞性と、その場のがれの官僚性。あるいは大衆の登山を認めないエリート性。
 これらのことは、責められてあまりあるというべきでしょう。
 ぼくはこんど、一九六〇年頃からの新聞の縮刷版を、主に遭難関係ですが、ずっと読んでみて、アホらしく、バカらしく、ほんとうにいやになりました。
 と同時に、時代の動きを知れなかった山の世界のオエラガタの認識のずれをも感じました。彼等は、古い時代の山登りの迷妄をすて、若い世代の山登りに共感はしなくても理解するべきだったのです。
 また、「マナスル遠征」と同じ年に、水俣水銀中毒患者が発生していることをも知るべきでした。そしてこれが、決して偶然の一致でないことをも認識するべきでした。
 そうすれば、あの下らない「エベレスト南壁劇」などは決して起らなかったでしょう。

「自殺権」の提唱

 一九七二年三月。全国より選抜された六名の白バイ隊員が、イギリスのロンドン近郊「ヘンドン警察運転学校」に、四週間留学しました。
 ここに引用するのは、その内の一人、警視庁第二交通機動隊副隊長、椎名警部の話です。「(制限速度は)ハイウェイでは七〇マイルとなっております。その他五〇マイルとか三〇マイルとかあります。
 その時は緊急出動と考えて八〇マイルで走っていたのです。ところがそれを追いこしてゆく車もあるのです。
 そんな場合、日本ではたちまちスピード違反で捕まってしまいますね。第一白バイやパトカーを追いこさない。
 私が捕まえようかといったら、指導員は、『いいんだよ、彼はいそぎたい用事があるのでとばしているのだろう。自ら安全を放棄したので、警官はそこまでは彼を保護する必要はない』といいました」
 どうです。面白いではありませんか。
 ぽくたち個人の「生」は、ぼくたち自身の所有に属します。それは他の誰のものでもありません。それは同時に、いつでも「死」を選ぶ自由があるということです。
「あらかじめ死を考えておくことは、自由を考えることである」(モンテーニュ)のです。
 一九六七年頃、京都宝池の国際会議場前の道路に、″サーキット族″と呼ばれる暴走族の若者が出現して話題となったことがありました。
 捕まって送検された″サーキット族″の一人は「スピードこそ生きがい。死んでもかまわぬ」とうそぶいた、といいます。
 世人のひんしゅくをかうこの考えは、ぼくたち大人の日本人の想像を絶した深い所で、肺ガンを宣告されてから「ヨット単独世界一周」をなしとげたチチェスターとつながっているにちがいありません。
 そして、「宝他の″サーキット族″を非難する良識は、じつはチマチマした小市民的おくびょうさではないのだろうか。その日の安穏だけを望むぬるま湯的な考え方は小心なセツナ主義でしかない」(米山俊直「サーキット族とチチェスター卿」)のです。
 人が自分で選んだ「死」に対して、他人がとやかくいうべきではない。
 人は「自分のデザイン通りの死」(『日本人のこころ』朝日新聞社)を選ぶ権利があります。問題は、自分は望まないのに死なねばならたかった「死」。これこそ問題です。これは、ある意味で殺人と同じです。「生存権」(基本的人権の一つ)と「自殺権」は、同じものの両面であるはずです。「自殺権」の認められないところに、「生存権」の主張やそれに対する共感・支持は生れえないはずです。あるのは無力なあきらめだけです。
 今日、大量の「社会死」があり、社会的殺人とも呼べるこれらの現状が一部手直し程度におわる原因は、このあたりにあると思います。
 たしかに、このような「大量死」の時代になって、「山での死」が、量的な比較において、ぼけてきたことも事実かも知れません。
 しかし論理的には、「山での死」を単純に責めるようなセンスこそ、この大量殺人的「社会死」を他人事と見過ごし、さまざまの矛盾と不正を根本的に変えるための何の力ともならない原因ではないのか。
 ぼくは、このように考えております。
        (たかだ・なおき)
【『岩と雪』41号 1975年2月所収】

『槍ヶ岳からの黎明』について

槍ヶ岳からの黎明
登山と「神話」その三
『槍ヶ岳からの黎明』について

 ぼくの職場に毎月のようにやってくる、保険外交員のおばちゃんがいます。
 ぼくに保険をすすめることが、絶望的に無駄であることには、彼女も、もうとっくに気付いているようです。それでも、毎月のように現われては、時計バンドにつけるカレンダーの金属片を渡し、世間話などしてから帰ってゆくのです。 ぼくの方としては、このカレンダーは結構重宝していますので、月末になっておばちゃんが現われないと、「どうしたのかな」などと思ったりするのです。
 この間のことです。いつもの様に、おばちゃんが現われ、ぼくは「アリガトウ」とカレンダーをもらってから、例のごとく世間話になりました。
 いったい何がきっかけだったのか、すっかり忘れてしまいましたが、とにかく、話が映画の『イージー・ライダー』になったのです。
「あの若い人、ほんまに可哀そうやった。あんな事故で死んでしもうて」
 ぼくは、ちょっとおどろいて、あれは事故ではなくて殺されたのだ、といったのですが、彼女は「ちがう」といいはります。
「そら、鉄砲は撃たはったよ。けど、あれは当ってへん。何かの事故で単車が爆発したんやろ。第一何にもしてへん人が殺されるわけ、あらへん」
 映画のストーリを追いながら、あるいはまた、アメリカの歴史背景なども含めて、ぼくは懸命に説明したのです。それでも彼女ほ、まだ信じられない、という面持で、
「そうやろか、殺されたんやろか」といいます。ぼくも、いいかげん頭にきて、
「あんた、眼あけて見てたんかいな。目あけてても、見えなんだんやろ」といいました。
 その時、ぼくは思いました。「固定観念」というものは、何とおそろしい。人を盲目の状態にするものだ、ということでした。
 彼女に、ぼくの説明が理解できなかったということは、まず考えられない。彼女はよく理解した。しかし、おそらく「人が全く理由もなく、しかも鉄砲で撃ち殺されるなどということはあり得ない」という「固定観念」が、彼女の判断をくるわせたのでしょう。

 さて、ぼくのいう「神話」も、一種の「固定観念」を意味しています。だから、「神話」は、破られるべくして存在している、といえるでしょう。
 ところが、ぼくの「登山と『神話』」に関して、こんなことをいう人がいます。
「あなたは、ああいうことを書くことによって、新しい『神話』を作っている」と。
 これに対するぼくの答えは、じつは、そう云われる前からあったのですが、それについてはこの連載の最後にするつもりです。
 それに、「神話をつぶすことによって、神話を作っているのだ」という云い方は、「『固定観念』はいけないというのも、一つの『固定観念』である」という云い方に似ております。
 こういう議論は、不毛の回転論議になりやすい。それで、ここでは避けたい。そう思うわけです。
 今回も、先回につづいて、「登山史」をとりあげたいと思います。<創始者の視座>から<麓の視座>へ

 色々な例が考えられるでしょうが、いまかりに「海外登山基準」をとりましょう。この「海外登山基準」が創られた時、これに大賛成した人は、ほとんどいなかったといっていいでしょう。
 でも日山協で、直接これを作った人は別でしょう。彼等はおそらく、色々の理由をつけて、もって回りますが、公式の記録には、大義名分をふりかざした報告を書くでしょう。
 そして、五十年、百年がたつ。
 その時に、最も信頼性があるとされるのは、無名の人の報告ではなく、いわゆる「エライヒト」、有名人のものなのです。
 もちろん、このたとえ話には少々無理があるかも知れません。
 でも、たとえば「カモンジ」なり「喜作」が「案内記」を書いたとしたら、それは、旦那衆の「登山記」「探検記」とは、全くちがったものになったでしょう。(もちろん、彼等にそんなものは書けなかったし、書く必要もなかったのですが……)
 このちがいが、大きな問題だと、ぼくは考えます。「登山史」は、つねにそうした、一方的なものとして存在し、現在を拘束してきたのではないだろうか。そんな気がするのです。
 これは、かりに〈創始者たちの華麗な視座〉からの映像による歴史、とよべます。これが真実の歴史と、どれだけの距離があるのか、それは問題ではなかった。
 これまでの「歴史」は、この〈視座〉を全く当然のこととして、そこから出発しているのです。そればかりか、おまけに、その「登山史」家自身が、自分の眼をこの視座に重ね合わせることさえあったようです。そうであっては、「登山史」は一つの玩具にすぎなくなります。「現在を登るためのもの」とはならなくなります。
 そこで、ぼくは、〈創始者の視座〉ではなく、〈麓の視座〉で見るべきだ。そう考えます。この〈麓の視座〉による「近代登山史」がもし書かれたとしたら、今の「登山史」とは、ずいぶんちがったものとなるでしょう。
 別に予言者ぶるわけじゃありませんが、いずれそういう「近代登山史」がでるでしょう。そして、それは個人の仕事としてではなくチーム・ワーク(集団の仕事)としてなされるでしょう。

ピクソールの『山頂の燈火』

 日本の登山史、特に「近代登山史」などという書物を開いてみます。そうすると、探検時代そして縦走の時代などというのがでてくる。「日本山岳会」の創立会員諸氏の名前が、次々と現われます。
 そのあたりを見ると、ぼくはいつも、なにか一種奇妙な異和感みたいなものを感じる。どうしてなんだろう。色々理由を考えてみました。
 そのうちに、昔よんだ小説のことを想いだして、本棚をさがしてみました。
 ありました。ピクソールの短編で、『山頂の燈火』というのです。もとの題は”The Men who Climbed”
 ピクソール女史(M.L.C.Pickthal,1883〜1921)は、カナダの詩人で、三冊の詩集と三冊の小説を書いて、未婚のまま四十にならぬうちに病死しています。
 ところが、この『山頂の燈火』は、『ストランド』という雑誌に発表されているだけで、彼女のどの本にも入っていないのだそうです。
 戦前博文館で発行していた『新青年』という雑誌の第21巻13号(昭一五)に翻訳がのっています。
 とにかく、少く長くなりますが、内容を紹介してみましょう一。
 場面は、ある絵の展覧会場。その一部屋、三号室の一つの壁面を、ほとんど全部占領して、大きな絵がかかっています。身のひきしまるような、生々した巨大な山の絵は、題して、「東南より仰いだフォレスター峰」。
 そこへ、一人の紳士、フォレスターが登場します。彼は、絵を見て、一瞬目がくらみ、全身がひきしまります。
 −むりもない。天地開闢以来、あの雪渓を横断し、あの峻嶮を登攀して頂上に足を印した人間は彼一人なのだ。処女峰征服のレコードをつくった彼は登山協会から表彰され、同時に協会はその高峰に彼の名を冠し、全米はおろか世界に放送した。名誉ある騎士! 話題の冒険家!−
 彼は部屋の中央にあるソファ−に身を沈め、登攀の回想にふけります。
 ふと気がつくと、やはりもう一人、絵に見入っている男がいる。
 −みすぼらしい白髪の男で、どこかの職工か。職工にしては年をとりすぎている。百姓か。小使か。こんな男がどうして展覧会へまよいこんだのだろう。−
 フォレスターは疑います。その男は、「女房のマギーにもらった煙草銭で入場券を買ったら、これぽっちになってしまいました」と、七個の銅貨を見せて、また、うっとり絵に見入ります。
 フォレスターは同情的親しみを感じて、山について質問し、その男が、あまりに詳しいのに驚きます。そこで、彼は自分の名前をあかすのです。
「あなたがフォレスターさん!新聞で見ました。あなたに会ったといったら、女房が喜びます。旦那、この山に登った時のことを話して下さい。帰ってマギーに聞かせてやります」
 フォレスターは語りだします。
 自分が頂上に達しえたのは、二人の案内人のサポートによること。ピッケルを落したので、ナイフで足場を切ったこと。だいぶ上部で、氷化した岩場にはばまれて、立往生したこと。そして、そこで見つけた不思議なもの−−垂直の岩場の氷に点々ときざまれた足場のことを語るのです。

記録にない事実

「その足場は自然にできたものじゃない。確かに人間がきざんだものらしいのです。協会の連中にこの話をしますとね。そんなはずはない。あまり心配したので錯覚をおこしたのだろうといいます。
 とにかく私は誰かがそこまで登ったことを知りました。私はこんな危険な場所に足場を作った先駆者に感心してしまった。どんな男か知らないが、その男は星の世界へでものこのこ登って行く男にちがいない。
 私の口からいうのはおかしいが、世間では登山のレコードのことをやかましくいうけれど、これほど馬鹿げたことはないとおもう。なぜというに、山というものが天地開闢以来存在するものである以上、何百年前、何千年前にそこへ登った人間がないとは限らないからです。
 足場を発見してからは楽でした。足場には千年の氷がつまっているが、私はナイフでその氷をほじくりだして、ゆるゆると登っていった。そして頂上に達すると、用意の旗を出してそこへ立てたのです。」
 各種の会合で幾度もくりかえした話を機械的にしゃべっただけのことですが、こんな無知な老人を相手にそんな話をしたのが、フォレスタ一には、口惜しくも感じられました。
「こんどはあなたの番だ。あなたも山が好きだといいましたね。どこへ登りました。聞かしてくれませんか」
 老人は感慨ぶかげに絵を見ていたが、
「旦那は旗をお立てになると、すぐ頂上を降りられたそうですな。もっとよく頂上をさがしてごらんになったら、あすこに錆ついた古いランタンが落ちているはずなんです」
 あの不思議な足場を切ったのは、この老人だったのです。
「マギーとはクリスマスにいっしょになる約束だったのですが、当時マギーはカスカペディアの店の売子、私は山をへだてたウクワガンの木挽、どちらも金がないので、そう思い通りに家をもてません。しかたなく、手紙をだして、春まで待ってくれといってやったのです。返事がきて、わかった。春までまつ。けれどクリスマスになったら、私のことを想いだしてくれと書いてありました。マギーの町と私の町の間に大きな山脈があって、両方の町から同時に見えるのが、この山だったのです」
「二晩もかかって、ランタンに油を用意したり、ガラスの隙間をふさいだりしました。それからマギーに手紙を書いて、クリスマスの晩には、となりのおじさんから双眼鏡をかりて、一番高い山のてっぺんを見てくれ、もしそこに灯がともっていたら、おれがお前のことを思っている証拠だといってやったんです。頂上について、ランタンを置くとすぐ降りました」
 この男ほ自分のした話の意味を知っているのだろうか。
「なるほど。しゃにむに登ったのですね。そして無事にあなたが頂上に灯をつけてお帰りになると、それをカスカペディアの側から、美しいマギーさんが眺めたのですね」
「そうですよ、旦那。好いランタンだったので夜っぴて光りつづけ、油がなくなるまでともってましたよ」
 フォレスターは、また山の絵を仰ぎ、白雪をいただき、爛々たる星にかこまれたる高峰に、一点霊火のように、恋人を思っていることを知らせる灯がともっているさまを想像するのです。
 老人は、酔っ払いのたわごとと思ってくれ、といい置いて去ります。後に一人立ちつくすフォレスター。彼はやがてペンをとりだし、まわりを見まわしてから、「東南より仰いだフォレスター峰」とかいた札のフォレスターを抹殺して、黒い鮮やかな字で「マギー」と書き込みます。
 −翌朝の各新聞は、無気味な小さい出来事を報道した−この小説は、この一行で終ります。
 ぼくの感じる「一種奇妙な異和感」の原因は、ほぼ全部、この短編の中に含まれているようです。

『山頂の燈火』日本版

 たしかに、『山頂の燈火』はオハナシであります。しかも、万年雪をいただいた山が舞台とあっては、なおさらのこと、よくできた話に過ぎないかも知れません。
 しかし、舞台を日本の山に移してみると、ハナシは急に、極めて現実味をおびてきます。でも、本当に日本の山で全く同じことがあったとしても彼等は、「あれはランタンを置くために登ったのだから登山ではない」というかも知れません。
 さて、それはともかく、日本の高山は、小島烏水をはじめとする〈創始者〉の面々が出向く以前に登られてしまっていました。それをことさら、「私が、私が」と宣伝した首謀者は、やはり烏水であると考えられます。
 そういう調子の記述は、いたるところにあります。彼の著書『アルピニストの手記』を見てみましょう。
 これは、彼が六三歳の時にでた本ですから、かなり冷静に書いてあるし、以前の記述を訂正したり、あるいは弁解めいたことも書いてあります。それでもなお、次のごとしです。
 −日本山岳会の成立時代(明三八)には、日本アルプスは、まだぺージの切られない自然の秘書であった(「日本アルプスの早期登山時代」)−
 ほんまかいなァ、と首をかしげるより、むしろ、「ウソつけ」といいたくなります。
 なにしろ、「烏水が槍ヶ岳に登って有名になった頃には、喜作は陸地測量部の三角標−これは六〇キロ以上もある御影石−を一人で槍の穂先にかつぎあげていた」のです。これは、他に人夫・測量官が何度も登ったことを意味します。
 そして、「前穂高、白馬岳、御嶽に三角標のすえつけが終ったのは、烏水が槍へ登った八年前の明治二十七年である。つまり日本山岳会が出来た頃(明三八)には北アルプスのめぼしい山にはどれも陸地測量部の三角測量が終って、参謀本部の五万分の一地図は完成間近であった」のです。
 彼はこうも述べている。
 −アルプス地方の参考書としてまとまったものは、ジョン・マーレイの『日本案内記』、ウェストンの『日本アルプス』など、外人の手になった書籍以外にはほとんど見ることを得なかった。そこに探検時代の仕事であり、黄金時代の収穫があった。そして私がその一部分の仕事にたづさわったのも自然の回り合わせであった。(前に同じ)ー
 烏水のこの「パイオニアづら」はオワライです。だいたい、自分の「槍登山」のことを回想した文の題に『槍ヶ岳からの黎明』というのも、同じ意識です。
 さて、「烏水翁の著作は三十冊を教える」のだそうです。そして、「登山史家」によれば、彼の著書は「日本の登山史を知るうえにすこぶる重要な存在となっている」のだそうです。しかし、これはぼくからすれば、「日本の登山史」が、いかに〈創始者〉の手前勝手な〈視座〉によっているか、という証言にほかなりません。

小島烏水の「槍ヶ岳登山」

 烏水は、明治三十五年の夏、槍ヶ岳へ登りました。彼はその前に乗鞍に登っています。おそらく、乗鞍から見た槍ヶ岳が眼に焼きついたのでしょう。
 ところが、「彼は、この山に憧憬したのも久しい間であった。それは志賀重昂先生の『日本風景論」を読んで」影響されたのだ、とします。そして、これを、「ハリソンがラスキンの『近世画家論」に感化をうけたごとく、自分も『日本風景論』の感化をうけて、山の一路へと驀進した」というのです。おそらく、ヨーロッパの登山家に、自分を模したかったのでしょう。ぼくはそういう作意を感じます。
 それはさておいて、烏水の槍ヶ岳登山は、おかしいところだらけです。
 彼が雑誌『文庫』に発表した「槍ヶ岳紀行」は、大町桂月あたりから「オーバーだ」といわれますが、ともかく反響は呼びました。
 その中に次の一節があります。
 −土人が「赤沢の小舎」と呼んでいる自然の岩窟に一晩猟師といっしょに泊めてもらった。その夜は白樺で大きな火をもやし串刺しにした熊の肉を焼いて食べながら語りあったが、その時猟師のいうにはこんな奥山だからワシら猟師仲間のほかは誰もこないが、一度西洋人が登ってきてびっくりしたことがある。八・九年前でその日は大雨のため頂上のそばまで行って引返したが、よほど思い切れなかったものと見えて翌年もまた来た。その時は頂上をきわめて喜こんで下って行った。(私が)いったいどこの国の人か猟師に聞いてもだれも知らないといった(意訳)−
 この西洋人はウェストン。猟師は喜作、為右衛門でした。
 ところが、昭和十一年の『槍ヶ岳からの黎明』の最後で彼はこう書きます。
 −その時は、ウェストン、ガウランド、坂市太郎氏というような槍ヶ岳の先駆登山者があったことを全く知らなかった−
「全く知らなかった」どころではない。自分の「紀行」に、「猟師がいうには…‥」とちゃんと書いているのです。
 槍ヶ岳登山の後、半年ほどして、パートナーであった岡野が、ウェストンの『日本アルプスの登山と探検』という英文書を見つけるのです。われこそ一番乗り、と得意になっていた烏水の驚きは、心臓も止まるばかりだったでしょう。
 実は、先に引用した『文庫』の記事の西洋人の話も、原稿ではなかったのに、ウェストンを知ってから、あわててつけ加えたのだそうです。
 こうしたことがもし本当だとすれば、烏水翁はあまり信用できる男じゃないようです。
 実のところ、彼ははたして槍の穂先まで登ったのかどうかさえ、ぼくは疑問に感じてきました。

烏水とウェストン

 さて、岡野がすでにウェストンに会ったと聞いて烏水も手紙を書きます。
 −何を書いたか、今は全く忘れたが、今まで第一登山と信じていたものを、十年前に登った外人が眼前に出現したのだから、感激しやすい性情から、崇敬の念をささげて書いたであろうと思っている。「ウェストンをめぐりて」(昭一一)−
 少しおかしい。矛盾していると思いませんか。もう一度よみ直してみて下さい。
 先ず、烏水という人は、自分の発信文や受信文を著書にのせるのが、好きな人です。こういう人が、「何を書いたか全く忘れた」というのはおかしい。それに、ぼくの推測では、「崇敬の念をささげて書いた」というのは、おそらくウソです。
 なぜなら、彼が不用意にもらしていることから分かるように、自分よりも「十年前」に登ったが故に、その外人を「崇敬」したのなら、猟師に聞いた時に「崇敬の念」がおこったはずです。全く忘れてしまうわけがない。「今まで第一登山と信じている」わけがないではありませんか。
 つまり、ぼくが思うには、「崇敬の念をささげて書いた」というウソを書くためには、「何を書いたか、今は全く忘れ」てしまわねばならなかったのです。
 では、どうして烏水は、そんなウソを書かねばならなかったのでしょうか。これが次の間題です。
 これの答は、おそらく、無名の一銀行員から、ウェストンをかつぐことによって〈創始者〉となった、烏水の心理内面に求められるでしょう。
 さて、よく見かける表現ですが、「ウェストン師は、日本の山登りの父である」というのがあります。こういうことは、いったい誰がいいだしたのでしょうか。
 ぼくは、「この表現から、日本国天皇は、国民の父である」というのを連想してしまいます。もしかしたら、この云い方は、大正から昭和にかけて、「日本の天皇制ファシズム」の抬頭と共に、できてきたのかも知れません。日本の父は天皇で、登山の父はウェストン一二つを重ねるとウェストンは「テンノーサマ」になります。烏水は、どうしても「崇敬」せねばならなかったのではないでしょうか。
 さらには、この「崇敬」の意識構造の必然として、ウェストンにつながるものとして、かつては「土人」であった「カモンジ」も、「崇敬」の対象となります。
 さきほどの『文庫』の引用の冒頭にもでてきたとおり、烏水は、あちこちで「土人」という表現を使っています。
 これは、土地の人の意味ともとれますが、アイヌに適用された「北海道旧土人保護法」という用例を見るまでもなく、明らかに差別言辞です。
 ところが、そうした下賤な「土人」の猟師であった「カモンジ」は、次のごとく変りました。
 −日本アルプスの開祖、ウェストンを案内して槍穂高に登ったのもこの老翁でした。私たち日本山岳会の早期時代の人々が槍穂高を縦走したのも、この老翁に手を取ってもらったのです。(「私の会った登山家の印象」その五 日本アルプスのぬし−昭五)
 誰かをかついで「天皇」にまつりあげ、自分もまた「天皇」になるというのが、心理的な意味での「天皇制」です。この点は、昔も今もかわらない。

「登山史」への不満

 ぼくの、「登山史」への最大の不満は、次の点にあります。
 それは、いわゆる「登山史」が、全く時代背景を無視していること。あるいは、たまたま考察していても、それがでたらめであることです。そうなるのも、やはり〈創始者の視座〉のせいかも知れません。
 〈創始者の視座〉による文章を、かなり無節操に引用したり、〈創始者の視座〉に自分の目を重ね合わせて、その上で色々の憶測をやっている。そうしたものが、これまでの「登山史」だったのではなかろうか。そんな気がしてなりません。
 たとえば、次のようなのがあります。
 −明治の中葉、日本の青年たちに登山の気運をもりあげさせた原動力となったのは、地理学者志賀重昂の筆になる『日本風景論』にほかならなかった−
 こういう調子の記述は、いたるところにでてきます。
 この極めて疑がわしい定説がどうしたでき上ったのか。いくつかの推測ができそうです。
 烏水は、自分がどうして槍ヶ岳に登ったのか、について次のように書いています。
 −それを書物の上で煽動教唆してくれたのは、故志賀重昂先生にほかならなかった−
 それから、木暮理太郎も、この本に影響されたと書いている。こういう記述が、前にあげた「定説」のものになっていると思われます。これが一つの推測です。
 でも、「この本を読みだして、いっそう山へ深入する気になった」という烏水だけでもって、「日本の青年たち」などと、ひっくくるというのは、少し暴論ではなかろうか。ぼくには、そう思えます。
 もう一つの推測の根拠は、『日本風景論』が、すごい売行きを示した、ということ。たしかに、これは事実でしょう。
 しかし、この本を読んだ人が、みんな山へ登ろうとしたわけではない。
 ところが、です。「『風景論』はベストセラーであった」という事実と、烏水がこの本によって「煽動教唆」されたと書いていること、この二つをつなぎ合わせた。この単純なつなぎ合わせによって、「定説」はめでたく成立したというわけです。
 こんな調子で、ひろいあげてゆけば、それこそいくらでもあってキリがありませんので止めにします。
 要するに、ぼくは、この項の最初にいったことを、例をあげて示したかっただけなのです。もともと、アラ探しは、ぼくの本意ではなかった。

『日本風景論』と歴史背景

『日本風景論』は、日清戦争が始まって、四カ月の明治二十七年十月に刊行されました。そしてわずか三週間で、たちまち売切れたといいます。
 その理由は何なのか。どうして、そんなに売れたのでしょうか。
 いわゆる「登山史」によれば、「日清戦争の勝利で、興国の気が山野に満ち満ちた」だとか、「アドベンチュアの精神を鼓吹した」だとか、そういう書き方のものばかりです。
 岩波新書『山の思想史』のような、かなり最近にでた本でさえ、このわくからは抜けていません。
 つまり、どれも、暗にこの書が売れた背景を述べているだけで、その理由はありません。しかも、その背景を「好戦的」「戦勝気分」とのみ、単純にとらえている。
 必要にせまられて、明治・大正の歴史を、ほんの少し勉強してみて、ぼくは全く逆の考えを持ちました。
 たしかに、民衆は「討てよ、こらせよ清国を」と唱えはしました。しかし、その気持の深奥は、複雑で屈折していたはずです。
 くわしく述べれば、このことだけでも、全誌面が要ります。極力、かいつまんで述べることにします。
 第一に、著者の志賀重昂が、明治二十年代に、「西欧派」と共に思想界を二分した「国粋派」の巨頭、大思想家であったこと。
 第二に、「国粋派」の思想は反政府のそれであり今いう右翼思想とは全然ちがいます。「西欧派」ともども、鋭く政府の構想を批判していました。
 そうでありましたから、志賀の創った雑誌『日本人』は、何度も発禁のうきめにあうのです。
 第三に、明治十年代の「自由民権運動」(豪農に支えられた)からの思想が、政府の弾圧にめげず、地底の水脈のごとく、民衆の中にあったということ。
 たとえば、「万朝報」という、極めて反体制的な新聞が、最高の発行部数をほこるという社会状況があったのです。
 一方、議会内でも野党が常に優勢で、開戦直前には、何度目かの内閣弾劾上奏案が可決。天皇制政府は、まさに絶体絶命のピンチに立っていました。ここにおいて、政府は、日清開戦を策し、国内の不満を一気に外に向ける絶好のチャンスを作ったのです。

『風景論』と『我輩は猫である』

 開戦は六月です。この前後のできごとを、「年表」(平凡社)で見てみましょう。
 前年の8月 − 「君が代」を国歌に制定
 前年の10月 − 文部省、教員の政論を禁制(箝口令)
 1月 一 高知県で初めて教科書に修身書を採用
 2月 一 反政府論で諸新開発行停止続出
 6月 一 陸軍省に新聞検閲掛を設置(日清開戦)
 7月 一 愛媛県新居浜住友精錬所の煙害のため農民、精錬所を襲撃
 8月 一 軍事外交に関する新聞原稿検閲の緊急勅令発布
 9月 一 新聞に軍機事項記載を禁ずる
 10月 一『日本風景論』刊行
 とまあ、こんなぐあいです。
 ぼくには、なんとなく分かるような気がするのです。『日本風景論』が売れたわけが。
 みんなもう、いいかげんいやになったのではないでしょうか。
 たしかに、民衆は「討てよ、こらせよ清国を」と唱えはした。自分たちのすべての欲求を圧殺してゆく支配者どもへのいきどおりを、朝鮮を抑圧する清国へ、屈折した形でぶつけたかも知れません。
 しかし、その感情の奥底には、ある「無力感」と「挫折感」と、ある「あほらしさ」があった。そうした時に、『風景論』は、極めて魅力的だったにちがいない。そう思えます。
 十一年後の「日露戦争」当時における、漱石の『我輩は猫である』は、今いった意味あいで、『風景論』と並べることができるでしょう。
 驚いたことには、この本も、開戦後の、奇しくも同じ十月に刊行され、やはり三週間で売切れているのです。
「大逆事件」に見られるごとく、反対者を、でっちあげの事実でもって殺すような政府に対しては、もう猫の目で語るシニカルな体制批判しかなかったのでしょう。そして、民衆もそれに救いを見いだしたのだと、ぼくには感じられる。
 今日の、「朴政権」下における、韓国の「登山ブーム」も、同じ文脈でとらえうるのではないでしょうか。

 ドシロウトのぼくが、「登山史」などをとりあげることは、少し無謀なことであったかも知れません。でも、ぼくとしては、大変面白かった。特にその歴史背景を知るために、とばし読みした「歴史書」は、とっても勉強になりました。
 そして、ぼく自身の認識自体、「神話」にみちていたことを、痛烈に思い知らされました。
 とにかく、明治大正期の歴史、特に自由民権運動は面白い。一度、読んでみられることをすすめます。
 たとえば、民権運動の推進者であった、植木枝盛の「憲法草案」には、今の「戦後憲法」のすべてが、すでに盛り込まれているといっていい。これは、オドロキでした。
 さて、実をいうと、「登山史の神話」は、二回で充分だと思ったのですが、書くことが多すぎて、なかなか先へ進めませんでした。いずれ、稿を改めたいと考えております。
(たかだ・なおき)