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今から二〇年近くもまえ、ぼくが赴任した桂高校は、木造の校舎で、制服・制帽・二足制でした。ただ、帽子をかぶっている生徒は、ほとんどいなくて、教師の間では、これが問題になっていました。近づいた修学旅行だけくらいは、全員制帽をかぶらせようというようなことが、しきりに話題になっていました。
二足制というのは、上ばきのズック靴の着用が義務づけられている訳です。大きな下駄箱があって、各自が定められた所に、自分のズック靴を入れておく。このズック靴も規格が定められていて、白色で先が円く、上に幅広のゴムの帯のある、何とも不細工なものでした。教師の中には、ほんのわずか、こうした規格品とちがうものをはいている人もいたので、ぼくも、自分でモードばきを用意しました。
こうした規格品は、なにしろみんな同じですから、ちょっと見には、自分のものか人のものか分らない訳です。不注意で間違うこともある。また、だれか一人が不届きにも人のものをはくと、始業時のあわただしい中ですから、つい隣のものを失敬するということが起こる。すると盗まれた奴は、他の上ばきを盗み返す。こうして盗みの連鎖反応が起こるわけです。
これは明らかに盗みにはちがいないのですが、当人にしてみれば、自分のを誰かが拝借していったのだから、自分もまた、ちょっと借りただけだ、という訳で、あんまり罪の意識はありません。
学校側は、盗みはいけないと、しきりに訴えていましたが、こうしたことは一向に減らず、補導部では、毎朝、上ばきを盗まれたという生徒が殺到して、音をあげていました。
ぼくは、ひそかに、こんなもんいっそのこと全部共有制にしてしまったら、一挙に問題が解決するのではないか、と思ってはいました。
近ごろ、おんなじようなことが、学校に限らず地域社会で、自転車に関しておこっているようです。放置自転車が問題となる一方で、その自転車に乗って、「盗み」の罪に問われるということが起こる。外国では、何日間か放置された自転車は没収のうえ公開し、引き取り人のない場合、縞模様にべソキを塗り、「公共用」として誰でも乗れますという具合にやっているそうです。なかなか合理的だと思います。
さて、上ばき盗難はつづき、学校鴻決定的には打つ手なしの状況になっていたある日の朝のことです。
ぼくは、自分の担任のクラスで、一時間目の授業をやっていました。
どこか近ぐでパトカーのサイレンの音がしたと思っていると、数学のナカトン先生が息せき切って現われ、
「F君をパトカーが探しているので出してほしい」
と、ぼくに告げました。
生徒の誰かが一一〇番して、「ぼくの上ばきを盗んだ犯人を見つけた」と通報し、それで、パトカーが駆けつけてきているというのです。
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たしかにそのFという生徒はこのクラスにいます。「ちょっと」と、その生徒を呼んで、行ってもらっても、別に何の差しっかえもない。そんな気がしました。
でも一方では、なんとなく、パトカーが堂々と学校に入ってきたということが、気に障りました。警察はあんまり好きじゃない。まあ、当時ぼくは、夏山では、富山県警の山岳救助隊の臨時コーチをしたりしていましたから、親しいポリさんは何人もいました。学生の頃には、山登りの帰りに金がなくなって、松本駅の派出所で、何回か金を借りたこともありました。けれど、これは、どっちも、個人的というか、人間としての接触という気がしていました。パトカーの警官に生徒を差し出すなんて、なんとも気分が悪かったんです。ぼくは直ぐ、断ってやろうと思いました。
考えてみれば、教室というのは、一つの閉鎖空間で、そこでの全ては、教師であるぼくに任されているはずです。そこで、ぼくは、「いま授業中ですから、生徒を出す訳にはゆかない。授業がすむまで待たしといて下さい」と返答したのです。
ぼくは知らん顔で授業を続けました。
授業が済んだ時には、パトカーはもう待ちくたびれて帰ってしまっていました。ただ、彼等としても、この件についての報告書を書かないと、桂高校の中で、「油を売っていた」ことになる。書類を作るのに必要なことは後で電話する、ということだったそうです。かかってきた電話で、F君の父親の勤務先などを聞いてきました。だから、ぼくは直ぐその勤務先に電話して、少し仰天しているらしい父親に、
「いや、大したことではありませんから……。警察から電話がかかったら適当に答えておいて下さい。詳しいことはお子さんから聞いて下さい」
とだけ、知らせておきました。
当の本人には、「オヤジさんにはちゃんと説明せえよ」といっただけです。こんなこと、幼稚園児じゃあるまいし、叱責するまでもなく、本人自身十分に分っていることだと思っていました。だいたい本人にもよく分っていることを、大袈裟に騒ぎすぎて、よけいに事態を悪化させることがよくあるのです。
ずっと後になってからのことです。ある生徒が、自転車に二人乗りしていて警官にとっつかまり、悪いことに、その放置自転車が、盗難届の出ているものだった。直ぐの調べで、彼等が乗った地点が「届け」の場所と全然ちがう離れた場所だったので、二人の生徒は、説諭だけで帰されました。
警察からこの報告を受けた担任は、校長と相談して、勝手に 「校長訓戒」の処分を決め、その当日の土旺日、月旺日に父兄同伴で来るように通告した。「勝手に」 というのは、当時、全ての生徒の処置は職員会議の議決承認を経ること、というルールがあったからです。
その生徒が、首をつったのは、土旺日の夕刻だったのだそうです。
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パトカーを呼んだ生徒が誰かは、すぐに分りました。O君は、四条中学出身で、その中学では一番けんかが強かったと豪語していることで有名だったので、ぼくもよく知っていました。そんなに腕っ節が強いのなら、自分で制裁を加えてもいいし、教師に告げてもいいはずなのに、そうしなかったのが、彼の面白いところだと思いました。
彼はきっと、そんな、生徒仲間を売るようなことはしたくなかったのでしょう。それと、何の手も打てない教師への面当てもあったはずです。だから、もしぼくが彼に、パトカーを呼んだことに関して難詰したら、あんたらは頼りにならんではないかと開き直ることは目に見えていました。ぼくは、わざと知らん顔をしていました。
この事件は、すぐ何人かの悪童どもの話題になったらしく、
「そらおもしろい、ワシも一一〇番したろ」 ということになったようなのです。
朝になると、ウワーンとサイレンが鳴ってパトカーが現われる。生徒どもは、「来たあ」「来よった」と喜んでいます。こんなことが度重なって、とうとう二足制は廃止することになった訳です。
もちろん、かなり長い間つづいてきた制度を止めるというのは、なかなか大変なことで、職員会議でほ賛否両論あいなかばして、結構もめたように記憶しています。
こうした場合、賛成にしろ、反対にしろ、それはほとんど直感的に決まっていて、意見は、あとから、もっともらしい理由をくっつけるということが多いようです。廃止に反対する人は、内と外とは履物を替えるのは当り前で、それで問題が起ってややこしいから止めるといっていたのでは「しつけ」ができない。めんどうだから止めるというのは教育ではない、と主張していました。
ここに釆て一年にもならない新参者のぼくは、黙っていようかなと少し逡巡してから、こんな風なことを発言しました。
冬山では氷の上が歩けるようにアイゼンという鉄の爪をはく。山小屋の中から、それを着けて外に出ると、床が穴だらけになるので、外に出てからはくべきだと教えている。ところが、猛吹雪の中で、アイゼンをつけるというのは、なかなかつらいことで、中でつける奴もいる。この頃そういう登山者が増えてきて、「この頃の若い者はモラルを知らない」とか「しっけ」ができてないとか言われている。ところが、ヨーロッパ・アルプスでは、みんな山小屋の中でもアイゼンはつけっぱなしだそうだ。どうしてかというと、向うの小屋は、床がみんな、ジュラルミン張りにしてある。つまり、「アイゼンは外ではく」といぅのはモラルでもなんでもない。そういう約束ごと、ルールに過ぎなかった。
二足制という約束ごとは情況が変れば、いくら変えてもなんのさしつかえもないんではないでしょうか。
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車で走っていると、道が工事中で、片側通行になっていて、臨時の信号機がついていることがあります。ずっと見通しのよく利く道で、対向車など全くみえないのに、みんな、じっとがまん強く、信号が変るのを待っています。夜中などで、急いでいる時など、ぼくはあんまり気にしないで、つっ走り、後の子供に「お父さん、赤やんか」と叱られる。
街中の歩道でも、急いでいる時には、充分見てから、車がきていないと分ると、堂々と渡ります。面白いことに、必ず後につづく奴がいるんです。
ぼくにしてみれば、赤信号は交通の流れをスムースにし、危険を減らす約束事に過ぎない。だから逆に青信号でも、車が来ていたらそれなりに気を付けます。ぼくの考えでは、もしポリさんに見つかったら、それ相応の処罰は覚悟のうえで、赤信号でも進むのは、ぼくのモラルに何ら反しない訳です。
……なんて書いてくると、「教師なのに」「先生ともあろうものが……」という声が、どっかから聞こえてくるような気がします。
まあちょっと聞いてください。これは決して弁解ではありません。
日本人ほど〈道徳〉と〈ルール〉を混同している国民はいない。ぼくはそう信じています。われわれは、二言目には道徳を口にしますが、かんじんなその意味は、まことにあいまいなのです。だから、道徳の支えともいうべき〈良心〉の意味もまた大変漠然としています。
たとえば、憲法第一九条には〈思想及び良心の自由は、これを侵してはならない〉とあり、法学協会の「註解日本国憲法」によると、この〈良心〉とは、信念、世界観の意味に解すべきである、などとなっている。
ところが、回教圏やキリスト教圏や、その他の国でも、〈良心〉とは、間違いなく〈内なる神の声〉なのです。それは信仰の問題なのです。だから、〈道徳〉教育は、外国では教会の仕事のはずです。それを日本では学校が、なんと生身の教師が、受けもっている。神をも恐れぬ所業ではないか。日本に勝った連合軍は、そう思って、〈修身教育〉を追放させたのでしょう。その結果、ルール教育もなくなった訳で、公共のルールをわきまえぬ大人が、大量に生れました。
いま、学校は、〈道徳〉と〈ルール〉の教育をごちゃまぜに請け負ったことになって混乱しているかのようです。
ルールの番人であるはずの警官が、交通違反すると〈道徳的〉に責められるように、教師も、「教師ともあろうものが」と、余分に道徳的に非難される。そして、どっちも、すぐに道徳的に説教をしたがる。〈道徳・モラル〉とは、個人の心の問題で、教師や、警官や、国家がどうのこうのという問題ではないのです。ぼくたちはまず、ルールとモラルをはっきり区別せねばならないでしょう。教師はルールはルールとして教え、生徒に勝手なモラルを一方的に押しっけるべきではないと思うのです。

ぼくは、児童劇の分野ではスゴイという評判のフクチ先生に相談してみました。彼は即座に、
そしたら、女房はも一度、最初から、続けて読み直してから、「まあ、いいわ。とにかく書いてみたら」と、いってくれました。ちょっとはホッとしたような気分になりました。
小一時間ほどで、ぼく達は、別れました。彼は疲れている風で、別れぎわに云った言葉を、ぼくは印象的に憶えています。
その翌日、一通の絵はがきが着きました。それは先生からのもので、「久しぶりのシガの山は素敵で、しみじみと眺め入りました。ようやく自分が取り戻せたようです」とありました。先生は久しぶりのスキーを楽しんでいるだろうとぼくは思いました。
「あんなあ、成績は絶対はよ出したらあかんぞ。はよ出しよる奴は、多分ええかげんに評価しとるんや。評価はほんまに慎重にやらなあかんもんや。喜こんではよ出しよる奴いっぱいいよるけど……。ワシはギリギリまで出さへん」
ただ、コスゲ先生が、ペケをつけた人達の何人かは、「あいつの子分や……」という感じを、はっきり顔に出していたように思います。
冬に、大学の時の友人と志賀高原にゆく。彼女も来るから君も来い。そういってコスゲ先生は、いつもの、断定的でかなり命令的口調で、ぼくを誘いました。でも、ぼくには、もう、冬山の計画ができあがっていたし、あんまり気乗りもしていませんでした。「冬山合宿が、はやく済んだら行けるかも分りませんけど……」
さて、話をもとに戻しましょう。
それからぼくは、せっせと、そのキッサ店に通ったんです。うまい具合に、もう卒論の実験はすんで、総まとめの時期になっていました。ぼくは大学ノートをかかえて出掛けたのです。
ところが、スキーに連れてってといわれた時、ぼくは、まんざらでもない気がした。むしろ、うれしかったのです。でも、ぼくには春山合宿の計画がもう出来ており、卒業式を済まして直ぐ剱岳に向かったことはすでに話した通りです。そして、山から帰ってきて直ぐ、福知山に赴いたことも既に話しました。それで、彼女とは、それ切りになっていました。ぼくは名前だけはきいていたけれど、住所は知らなかったんです。もちろん、亀岡に帰ってくると、すぐそのキッサ店へ行きました。でも、もう彼女はいなかった。ママに聞くと止めたということでした。
コスゲさんは、小説が好きだったようです。なかでも、井上靖が好きで、ほとんど読んでいる様子でした。そしてまあ誰でもそうなのかも知れませんが、登場人物を自分を含めての誰かにあてはめるのがクセのようでした。彼が井上靖が好きだったのは、多分、その小説にある、俗にいう「男のロマン」みたいなものにひかれていたんではないか、そんな気がします。
ぼくとセキタの二人は、タカヒコのサポートを受けて、まだ暗いうちに出発し、取付で夜明けを待っていました。その時の気持というのは、後に報告書に書いたように、ほんとの話、〈ぼく達は、恐れと迷いとためらいを超えて、いまはもう、ある透明の心境であった〉のです。
「ぼくが最初の授業だけやります。あとは、全部まかします。いつもそうしてますから……」 彼は、全く事務的口調でそう通告しました。
その頃には、彼は、ぼくにとっては、もう指導教官というより、なんか少しこわい兄貴といった感じになっていたようです。だから、教育実習が終ってからも、招かれるままに、ぼくの大学に比較的近い彼の家によく出掛けたのです。
一方、英会話の方は、やっぱり、外人と実際に話さないと自習ではあかんと思いだし、YMCAの外人会話に入った訳です。上級コースに入るほどの自信はとてもなかったし、中級でさえ、どうかなと、少し不安だったのですが、初級というのも面白くないという感じで、ぼくは結局中級を選びました。多分、半年位通ったと思います。上手くなったような気もしました。反面、そんな気がしただけだったのかも知れません。
学生の頃、ぼくは河原町の、「山小舎」だったか「灯」だったか忘れてしまいましたが、そうした山小舎みたいな感じのキッサ店によく行っていました。
と、がんばりました。
ぼくは、直ぐ、彼に、オヤブンというニックネームをつけました。もちろん、この命名は、ぼくだけしか知りません。でも、そう思っていると、態度まで、親分に対する子分の様になったのか、少したって、彼が誰かにぼくのことを、若いのに見どころのある奴や、といっていたということをききました。ただ、その理由というのが、なかなかケッサクで、オレがタバコをくわえると、サッと火を出しよる、というのです。
ぼくの山の後輩にも似たようなことを考えた奴がいて、彼の場合、正月元旦の朝、日本アルプスの白馬乗鞍の二九〇〇米の頂上雪原にしゃがみ込み、初日の出と、ウンコの出を一致させるというものでした。彼は、三年越しで、このトライアルを成功させたんです。
アメリカに渡ってからの話で、町を歩いていると、立看板があって、NO COVER と書いてあったのだそうです。連れの校長が、
「君、なんか運動クラブに入ってるんケ」
府下大会の日、西京極の競技場に入ると、褐色のアンツーカーが鮮やかに目に映り、どこかの女子高生が、まるでかもしかのようなしまった肢体をはづませて、走っていました。観客は少ない方です。高校野球のような、お祭り騒ぎがきらいで、観客のいない山登りというスポーツをやってきたぼくにとって、好ましい雰囲気がありました。
それで、一年生の一月に十日間の寒梧古がありました。まだ暗いうちに起きて、初発の電車で学校にゆきます。一回も遅刻せず、皆勤で、無事終了証をもらいました。
ちょうど、うまい具合に台風がやってきました。ぼくとエンソは、誰もいないグラウンドで、すごい雨風の中を走りました。エンソは、だんだんバテてきて、ゆっくり走るようになったので、ぼくは激しく背中を突き、彼は泥の中にのめり倒れたのでした。
この頃、新任の教師を見ていると、教師が神聖な職業やなんて思ってる人はないようだけれど、何とはなしに教師になったなんて奴はまあいないようです。そして、彼等はみんな激烈な試験をパスしたせいか、多分成績はよかったんでしょうが、変に生気がなくて、なんやら、できの悪い銀行員みたい。
ぼくがそう言い終わらないうちに、彼は矢のように走り出てゆきました。
学生の頃、よく河原町あたりでケンカしたことがありましたが、ぼくのやり方は、ケンカになるなと思ったら、ともかく一発ぶちかまして、全力疾走で逃げるというものでした。
ぼくは、何とスケベな教師だと、少々いやな気がしたのです。でも、狙った写真をとろうとしたら、これ位のことは平気でやれないと駄目なんだと、今にして思います。
そんな時に、教師になろうなんて奴は、ほんとの話、バカかよほどの物好きのように見られたもんです。その当時、卒業して教師になったのは、二五人のクラスメートのうち、ぼくと女の学生と二人だけでした。就職してしばらくして大学にゆくと、学部長の教授が、「教師になったてホントか。いやになったらいつでも止めて、言うてきてくれ。もっといいとこ世話したるから……」
そこでぼくは、「胴あげ、胴あげ」と叫びました。ワッショ、ワッショと知事は胴あげになりました。
「さあ、さあ、車が待たしてありますので‥‥‥」
「ワシも吸うし、みんなも吸うてええぞ」そういって、ぼくは、化学の実験中もたばこを吸うことを許しました。授業の時には、講義がいつの間にやら、恋愛論をたたかわせることになったりして、このクラスは面白かった。ぼくが、学校を替ってから、荷物を取りに福知山に行ったとき、全員学校をさぼって、大宴会を開いてくれたのは、この連中でした。ぼくも飲んだくれて、その日に京都に戻れず、服屋の住み込み店員をしている生徒の下宿に泊ったんです。
「お前、それだけは言うな」と、何度も注意されたものです。
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一つには、この頃のお行儀のよい、ちょっとアホみたいにみえる生徒の胸の中には、大人が想像もしない明晰なというかセコイというか、とにかくある見通しと割り切りがあると、少しは否定的に推定していたことが、ズバリ当ったような気がしたこと。もう一つには、どっちかといえば、「本音人間」に属するぼく自身、なんか合口を突きつけられたような気がした。さらには、今の学校は、やはりこういう若者を生みだすのか、といまさらのように思いました。そんないろんな理由で、ぼくは絶句したんだと思うのです。
さて、本が売れ続けたのはよかったのですが、ぼくの内面はちょっと苦しくなりました。ずっと前から、ぼくには、山登りの世界では、本をだすと、そいつは駄目になるというある固定観念があったようなんです。それと、この「ぐうたら登山のすすめ」みたいな本を読んだ読者が想像するぼくは、多分、ぼくのほんの一部分にすぎない、という気もしました。
ぼくは、成功しますようにというはかない願いを込めて、でもみんなに分らないようにウルドー語で〈ラトックにナオキの星を〉と書いたのです。ほんとの話、ぼくは成功するとは思ってなかった。万に一つ成功するかも知れない。なんとかやってやろうと思っていただけなんです。