『いやいやまあまあ』は、『なんで山登るねん』の教師版を書いてほしいという、京都新聞の依頼によって執筆した体験的な教育論です。
1980年7月7日より9月30日までの約3ヶ月間、京都新聞夕刊の小説欄に連載されました。現職の教師がこうしたドキュメンタリーを新聞に載せるというのは、あまりないことであったし、なにしろ学校現場での出来事がリアルタイムな感じで報告されるので、大変な反響がありました。
挿絵は、若い駆け出し時の山本容子さんで、この作品で彼女は第一回エイボン賞美術部門の賞を取りました。
この作品は、ミネルヴァ書房より『高田直樹の体験的教育論・いやいやまあまあ』というタイトルで単行本として刊行されましたが、初版の一万部だけで再版はされず、絶版となっています。(ごく最近、アマゾンでプレミアがついて3800円で出ていたのを購入したという話を聞きました)
挿絵を描いて頂いた山本容子さんからは挿絵アップの快諾を頂きました。
京都新聞連載予告記事→「次の夕刊連載」
京都新聞終了記事⇨連載を終えて
<目次>
1.まずは、本音とその周辺
つい最近、一入の高校生が、なんかの話の析に竹村健一の話がでたとき、
2.気がついたら教師やった
このごろやけに不景気というか、定常的な低成長時代となって、公務員志向が高まっているようです。
3.生徒も教師も問題がないのが問題
夏休みがすんで、ぼくは亀中に行きました。
4.神のみが知る才能の限界
一年もたつと、陸上部は、ずいぶんしっかりしたクラブになっていました。
5.教師らしくない大先生たち
自宅から通勤することになって、それはいいですななどと人から云われましたが………
6.何事であれ現場主義がかんじん
大学の五年生の時、ぼくは、教育実習で、桂高校にいったのです。
7.冬の第一ルンゼは透明の心境で
今から二〇年以上も前のキッサ店のユーヒ代は、多分百円少々ではなかったかと思います。
8.ぼくはほんとに分身なのかなあ
夏山のシーズンが近づいた頃、大学山岳部の監督をやっていたぼくは………。
9.一人になって一人で泣けばいい
レオン・ブルムの「結婚論」に共鳴し、結婚なんてするとしても三〇代後半や、
10.ルールはルール、モラルはモラル
今から二〇年近くもまえ、ぼくが赴任した桂高校は、木造の校舎で、制服・制帽・二足制でした。
11.制服は一種の軍服かも
新年度が始まり、ぼくは三年生の担任となりました。
12.学校生活監獄暮らし
学園紛争の大さわぎが終息して、高校がだいぶ平静をとりもどした頃…………

13.教師こそ主体的な旅を
東京オリンピックの次の年、一九六五年、ぼくは、カラコルム・ヒマラヤの登山に行けることになりました。
14.みんなでやりましょう
化学実験の時、試験管に試薬を注ぎ入れる操作があったとします。
15.なんでバイク乗るねん
あれはたしか、栄作ちゃんか角栄ちゃんの頃だったから、もうずいぷんと昔のことです。
16.ほんまに腹たつなあ
自分の子供が学齢期に達し、学校にゆくようになると…………
17.一人旅は顔つきまで変える
朝寝坊して、昼前に出発し、岩を登って遊んでいたら、日が暮れました。
18.バクチ事件のてんまつ
あれはいつ頃のことだったか。
19.問題生徒はぼくのカウンセラー
大阪のある一流ホテルから学校に電話がかかり…………。
20.便りのないのが無事の便り
ある秋の深い日の放課後、
21.「四ない運動」は思考の暴走かも
もう十年近くも前、バイクに乗り始めた頃、ぼくは面白いことに気付きました。
22.ほんとの教育者てあるんか
学生の時、春の穂高に登っての帰り路、松本駅にたどり着き…………
23.教師はみんな特高かな
ひところ、子供の自殺が相次いで起り、新聞誌上を賑わしたことがありました。
「おわりはたて前で」ではなくて
◎連載を終えて(京都新聞)

帰りのスキポール空港では、オランダではほんとに珍しい降雪に見舞われました。
シャモニーで泊まった宿のマダム・アンナの母親は、一人でベルギーに住んでいると聞いていました。
貧しそうな片田舎の街町を走り抜けて行くと突然整然とした町並みのスパの町に入りました。ウィーンやアムステルダムなどからそのまま移築したような家が並んでいます。ブティックやレストランが多くいかにもリゾートという感じの町です。
小山の上にケーブルで上がると、そこにはかなり大きなクアハウスがありました。少し意外だったのは、若者やハネムーンカップルが多く、年寄りが少ないことでした。
円形プールや各種のジャクジー、打たせ湯(きわめて強力なジェットで筋を違えそうになる)などを楽しみ、サウナに入って、檜のような強い芳香が漂う暗いリラクゼーションルームの安楽椅子に横たわると、安らかな眠りに誘われました。
余り気分がいいので、2泊の予定を3泊に延長することにしました。
どん突きの角の地元の人にも人気のある老舗のレストラン「オー・ザルム・ド・ブリュッセル」に入りました。
定番のムール貝のワイン蒸しを注文。
それと温野菜。
どこのレストランでもたばこはだめ。デザートを止めて、早々に店を出ました。
椅子は全席歩道に向いています。一番端の席に座って、隣りの椅子にバッグを置くと、斜め後ろの紳士が「コートで隠しなさい」と教えてくれました。ここもやはり危険なようです。
ボーイが「You enjoy?」とご機嫌伺いにやってきました。
それは、Leffeというマークの入ったきれいなビールグラスです。
ぼくは、どうやらボーイに好かれるらしい。ヴァルススキー場でも、レストランの高校生の年格好のボーイが、彼は全く英語が駄目だったのですが、色々話しかけ、最後に全員にジェネピーというフランスのリキュールを振る舞ってくれました。ぼく自身日本にいるよりも外国の方が遥かに快適という感じがしています。
1月25日、ぼくたちはシャモニに向かいました。
町を抜け半時間スイス方向に走って、目的地バロシン村の民宿ホテル、ラ・フォンテーヌに着きました。
ここの夫婦は、ベルギー人で山が好きなのでここに移り住んだという話です。
一人息子のアレクサンドル・ニコラは6歳。彼は貰い児で生まれはウクライナです。
翌日、フランスのリヨンからノエル夫妻がやってきました。40代のノエルは、ワクチンのセールスをしていて世界を飛び回っています。たいした日本通ですが、来たことはないそうです。
次の日は、マルセーユの近くの町から、麻酔医のジャンピエールと看護婦の奥さんがやってきました。この宿はこれで3回目だそうです。
日曜日にはみんな帰るので、土曜日の夜にパーティーをすることになりました。
ぼくはいま、ブリュッセルに向かうTHALYSの車中です。
今回のスキー行は、岡井の要請によるものなのですが、雪不足は極端で、困ったことだと思ったのですが、不運が幸いしたというべきか、結果として、フランスのスキー場を巡ることが出来ました。
このシャモニースキーからの帰路、スイスに回り、ラクレット(これは日本の椀子そばにあたるもので、もういいというまで、火でとろかしたチーズが供される)の昼食を楽しんでイタリアに戻りました。
日本と違うところは、水野歯科ではお医者が何をやっているのかほとんど分からない。でもイタリアでは目の前で準備などするので、すべてが分かります。
日本での治療で、水野先生は何種類の接着剤を使ったのか、見えないから分からなかったのですが、たぶん1種類、もしかしたら2種類ぐらいだと思いました。
たぶん日本に帰るまでは大丈夫でしょう。でも前歯で噛んで前に引っ張ってはいけません。横に引いてください。カンタさんはそういいました。
それで「診察料はおいくらでしょうか」と値段を聞きました。
写真はアルバのレストランで食べた白トリフの載ったタヤリン。
2本目のワインには、バルバレスコが選ばれた。
メインディッシュのお肉。びっくりするような味では決してない。
デザートチーズのワゴンが運ばれた頃、シェフのマーク・ランテーリさんがあいさつに来た。ぼくがイタリア語の辞書で単語を引きながら、「このガイド本には君のことをdiligente(努力家)と紹介してあるよ」というとうれしそうにニコニコしました。
コーヒを頼んだら、どの銘柄にしますか?
アルド氏が、ぼくはラムを飲むが君は何がいい?