今日17日(日曜日)、イスラマバードを発ち、ラホールに来ました。ようやく、ホッとリラックスし、久しぶりにくつろいでいます。
昨日、ぼくたちは、報告にイスラマバードのカシミール官庁のグルザールを訪問し、彼の部屋に待機していた、アフガン難民局の長官サイード・アシフ・シャーとの二人に、経過を報告しました。
彼らは、ぼくの実験室のアイデアを既に聞き知っているようでした。
ぼくが、その話をするとグルザールは、いい考えだと思うと答え、ペシャワールのコミッショナーに話したかどうかを尋ねました。
すべては、ペシャワールの難民局が決定権を持っているのだそうです。サイード長官は、「実験室の件だけど、お金がかかる。建物と中の設備とどちらを優先したいのですか」と、少し意外な質問をしました。
だって、イムランは2000$あればいいといったのですから。それに、あのシェルマンキャンプで、ほぼ完成している小学校の建設費を尋ねた時、彼はよく分からないと答えました。ぼくがさらに、君の推測を言ってくれと迫ると、イムランは「1万ドルくらいかな」と答えたのです。
ぼくはともかく、「どっちかといえば、やはり建物が先ということになりますね」と答えました。
ぼくは、わざと一人飛ばして座っている岩橋に、「小学校一個でどれくらいかかるんや」と尋ね、岩橋は「1万くらいですかね」と、答えました。
「長官。小学校一つでは一万と聞いています。そのなかの実験室はその何分の一かでしょう」
それはそうです。ただ、学校はいくつもある。あのアザヘルには6つ。みんな同時に作らないと、不公平だということにもなります。
そういえば、それは確かにそうかもしれません。
グルザールと長官はウルドー語で話し合いを始めました。完全には追えなかったのですが、グルザールは、一気に作らなくてもモデルを作れば、他の物もそれに習うんではないかと、言っていました。
グルザールが、実験室を必要としているのは、高校だけなのだよといいました。小中には、サイエンスという科目はないのですか、とぼくは尋ねました。
中学校には、あるにはあるが、教科書の絵と図だけで実験はないんだよ、とグルザール。
でも、科目があるのなら実験は必要でしょう。机の上に一匹の昆虫を置いただけでも、実験は可能です。解剖も出来ます。
生徒を二手に分ける。長い紐を用意するグループとその半分の短い紐を持つグループに分けます。
錘をつけて、振り子運動をさせ、一斉に振り子の回数を勘定させる。短いほうが倍になるはずです。
この時に必要な用具といえば、紐と錘だけでしょう。大げさの実験装置はなくても実験は出来ます。
グルザール氏は、笑いながら聞いていました。
でも、これまでこうした実験室のプログラムは皆無であったそうです。初めてであれば、それなりの実施案の構築が必要です。実施案を作るためにもお金が必要。ともかくお金がないと、なんにも進まないだろうとは思いました。
お金の支払いはどうするのか。支払えば、領収書を渡すが、という話が冒頭でありました。ぼくは支払いは銀行を通したいと答え、長官は可能ですと答えました。
国全体が利権国家のようなこの国では、まあ仕組みが巧妙なだけで日本も似たようなものかもしれませんが、銀行を通したからといってどこまで信用できるか極めて疑問だ、とぼくは思っています。
こんな枠組みの決まらない状況で、渡したお金はどこに消えてしまうか分かったもんではない。この国では、難民救済事業は、間違いなく甘くて美味しいビジネスなのです。
傍らに座っている秀子に、「あれ何人から集めたお金やねん」ときいてから、ぼくはこういいました。
たいした額のお金ではないにしても、これはワイフが友人150人から集めたお金です。その150人のドナーにぼくは責任を負っている。有効に使うという責任を負わされていると思っています。これは、普通のお金ではなく、プライベートなお金です。だから、最初には、その一部だけを渡したいと思っています。
長官が、どれだけ?と聞くので、ぼくは半分といおうか4分の一といおうかと迷っていて、ようやく「4分の一」と答えるのと、長官が「ともかくプランニングが先決だね」というのが、同時でした。
ぼくが、その場所、規模、内容などは、お任せしますといったので、岩橋が帰国する直前の19日に、岩橋宛にPROPOSAL(計画起案書)をファックスし、日本のぼくに見せてもらいましょう、ということになったのでした。
岩橋が、再びイスラマに戻るのは来春のことであるし、話はそうすらすらとは進まないようです。
その夜、4人でマリオットホテルのチャイニーズレストラン「DYNASTY」のテーブルを囲んで、ぼく達は今日の感想を語り合ったのでした。
・グルザールさんのあんまり最初に比べると冴えない表情が気になるなあ。
・ムシャラフの就任式の何やかやで単純に疲れたはっただけと違うんか。
・サイード長官が、金が足らんみたいな事をゆうとったのは、なんでやろ。
・まあ、これはあんまり美味しい話やないと思ったことは確かでしょう。
・なんにしても、彼らが金が要らんということはありええへんのとちがうか。
・恥ずかしいくらい小さいお金でも?小さいお金?大金ですよ。この国では。
・難民キャンプも、いつまでたってもなくならへんのやし。急くことはない。
・そらそうや、なくしたら困るもん。この国の巨大ビジネスや。
こんな会話を続けながら、ぼくは一人、思いつきから発したとはいえ、こ実験室のアイディアは、えらく巨大なものではないかと思い始めていたのです。
ぼくは、けっこう誇大妄想的になり、こんなことを考えてました。
科学、いわゆる自然科学は、近代文明の発達とともに進歩し、その対象の自然を破壊するところまで来た。
また、科学的思考の極は、共産主義体制というような非人間的態勢を生み出したし、オームのようなカルト集団も誕生させてしまった。
一方では、その反動としてイスラム原理主義に代表されるような、非科学的精神主義的でファナティックな集団を誕生させている。
テロリストは、難民キャンプから生まれるとも言われている。
タリバーン(神学生)は、コーランのみを学び、科学を学ぶことはない。
回教徒は、その精神主義と科学教育における実証実験主義をバランスよく学ぶ必要がある。精神教育と科学教育のバランス。このことは回教徒のみに当てはまることなのだろうか。
日本の現代教育の巨大命題ではないのか。
おわり
高田直樹

パキスタン北西辺境州のトライバルエリアにあって、アフガン国境に近く最も新しい難民キャンプです。ここを訪れ、学校のテントを見た後、次にぼくたちが訪れたのは、BASIC HEALTH CENTERです。この間、5人の警官が着かず離れず、付いてきています。
一番端が、診療室。机だけが置いてあり、その上に聴診器がぽつんと載っていました。
次の部屋は、幼児診療室で、ドクターが、訪れたブルカをかぶった女性の子供に注射をしようとしているところでした。
隣の部屋は、育児室というか育児相談室という感じです。部屋の一番奥に少し太った中年の女性が座っていました。
隅には、木製の身長測定器も置いてありました。
ベーカリーというので、フランスパンでも焼いているのかと思ったら、ローカルなアフガニスタンレストランのような、かまどのオーブンで独特の長円形のアフガニスタン・ローティを焼いています。
水道などは望むべくもないし、川もないこの地では、水をタンクローリー車で運んで来て、巨大な水タンクに貯水していました。この水の貯蔵庫には驚きました。それは、完全に布製のタンクなのでした。幅4メートル、長さ10メートルの袋状のタンクは、満タンの状態でパンパンになっていました。厚みは1メートル近くもあり、一体どれくらい入るのだろうと思ったのですが、聞きそびれてしまったのです。
多くの子供達が、われわれに群がり、ぼく達は一緒に写真を写しました。
帰路、ヒンズークッシュの山並みが一番綺麗に見える場所で、それを背に、ぼくとイムランは、並んで写真を取りました。肩に腕を回すと、彼の二の腕がまるでマイクタイソンのそれのように太いので驚いたのでした。
さらにしばらく走ると、谷の左手の山側の広い扇状平原に、小さな建物が点点と広がって点在しているのが望めました。
5人の管理官に迎えられ、イムランは、いつものように、They are a delegationfrom Japan. Mr.Takada is a owner of CreateJapan. とわれわれを紹介してゆきます。
でも彼らが最初に案内したのは、倉庫テントでした。
最後のテントは、衣類などのテント。シートや、マット。靴や布団に毛布。古着などもありました。すべては、壁際に細々と積んであるという感じで、心配になったぼくは、サプライは充分なのかと尋ねてしまいました。問題はないとのことでした。
テントの裏側には、大人子供を含めての長蛇の列が出来ています。石炭の配給を行っているのでした。小さな机に座った係官が、ノートに拇印を押させ、各自が持つ証明書のコードを書き写していました。
次は、学校です。
見渡す限り、砂利と砂の平原の中に、テントや泥でできた家が、不規則に点在し、ガールズスクールといっても、20畳大のテントが5張り立っているだけなのでした。中は、黒板がポールに立てかけられていますが、地面むき出してシートはありません。この中に50人ほどが座るのだそうです。
外には、シートで囲ったトイレとおぼしき物が2つ建っていました。
冬がやってきたらどうなるのか。
しばらく走って、左折れするとそこに大きな北西辺境州アフガン難民局のビルがありました。
長官室に入り、挨拶を交わし、恰幅のいい長官の説明を聞きました。
玄関では20人を超える人達の見送りを受けました。反対側には、着飾った5人の儀杖兵が一列に直立不動で立っており、岩橋がカメラを向けていました。
カブールに続く街道を右折れし、ジャムロードの集落を抜けて谷の道に入りました。九十九折れの道を登ります。そこここの山の上に望楼やお城(シャンガイフォート)が見え、それらはみんな昔、英国が作ったのだそうです。カイバル峠というポイントは特になく、この辺全体をそういうんだよと、イムランが説明しました。
10時40分、分水嶺の峠を越えると急に前が開け、遥か彼方に雪を頂いたヒンヅークッシュの山並みが、白い線のように左右に伸びていました。
それぞれの部屋が教室になっていて、30人ほどの少女が、清潔な淡い青色のシャルワルカミーズを着て、ござの上にぎっちりと座っています。
一年生は、ウルドー語を勉強中で、まだ完全に聞き取れません。そばの教育担当コミッショナーが、パシュトーン語で通訳しますと言うので、ぼくは少しだけ挨拶しました。
6年生になると、英語を学び始めます。英語で話してやってくださいということなので、また少し話しました。
学年二クラスというのもあるので、足らない分は、戸外のフライシートを張った下にシートを敷き、教室としています。
屋内のクラスは、辺地教育調査隊の時のイメージで、暗い部屋の中で、手に小さな黒板を持って石墨で字を書くのです。
このあと、ボーイズスクールを見ました。基本的にはガールズスクールと変わりませんが、どうも身なりが、少女達のほうが、綺麗なような気がしました。
この二つの学校を見ているときに、ドクターイムランが、彼らに必要なものは、実験室じゃないかなと、言ったのです。来る途中、ぼくはこんなことを話していました。
鉛筆、紙、教科書などは、絶対に必要なものではある。でもそれが既に与えられる態勢が出来上がっているし、みんな使えばなくなるものでしょう。
この実験室のアイデアは大いに気に入りました。なにしろイメージが湧くのです。
「あなたのような方に運転させて恐縮ですと言うのは、どういえばいいの、そう言って」というので、
アフガンカーペット・イスラマバード支店へ表敬訪問。
それからナジールサビールの事務所へ。ここで、ラホールへのエアティケットとホテルの手配を、事務官のスルタンに依頼。
ここでは、当方4人に相手方6人がミーティングを行いました。
とはいえ、われわれ異教徒にとっては、何の関係もないのですが、みんなが空腹を我慢している前で、食べたり飲んだりするのは、やはり少々気になります。
さすが、カラチの
名刺: