西パキスタンの旅 第5話「ギルギットへの突入−−その2−−」

マリーの優雅な生活
ギルギット2
 インダスルートへの出発準備は、今や、すべて整ったかに見えた。しかし一つ落度があった。一六ミリ撮影担当の関田が、ゼラチンフィルターがないのに気づいた。松竹KKからいただいたコダック・フィルムには、是非必要だという。
 京都から急送されてくる、フィルターを待つ間、マリー(Murree)へ行こうということになった。マリーへ行って、ガバメントカレッジや高校を見学したいといけない。それに、その間に、トレッキングの許可がおりるかも知れん。勝手な理由をつけてはいたが、要は、この暑さから、逃げだしたかっただけだ。

 マリーは高級避暑地である。新首都イスラマバードより60km2300mの高さにある。とても涼しい。ピンディーの暑さが嘘のようだ。各国大使館の別荘が松の斜面に、点々と立ち並んでいる。
 私たちのいる日本のそれは、斜面に階段状に建っている。石造りで、お城のような建物だ。とにかく、私たち四人にほ広すぎる。
 チョキダールの、ナムライとサイードの二人が、こまごまと世話をやいてくれる。

 マリーの一日は、乗馬から始まる!。
「馬がきました」サイードが起こしにくる。紅茶をのんでから、朝の乗馬(一時間一〇ルピー。良くなれた馬で、まったく危険はない)。一時間の乗馬を終えて、シャワーをあびてから朝食だ。食器は、紅茶茶碗にいたるまで、すべて金色の国章入り。
 食後のお茶を、ベランダで飲んでいると、下の道を通る女の子が、手を振って笑いかけてくる。まったく驚いてしまう。ここはパキスタンでないみたいだ。
 松の樹林の聞から、ジャンム・カシミールの山が、白く光っている。適度に湿った、すがすがしい空気を胸一杯に吹い込む。そして、私は、カシミール問題が、何となくわかったような気になる。つまり、印・パが、カシミールを必死に取りあってゆずらないのは、無理もないことだ。こういう素晴らしい場所は、どっちの国にとっても、まったくかけがえのない、宝石みたいなものなんだろう…‥・。
 こういう、わかったようなわからんような一人合点と同時に、何かうしろめたい、罪の意識みたいなものが、チラリと私の心をよぎる。(私たちは、こんなことをしていていいのだろうか……)。
 そこで、私は関田と一緒に、学校見学にでかける。中村は手紙書き。安田は、夕食の材料を仕入れに行くナムライと一緒に、バザールに行くという。バザールに行けば、アッチーラルキー(良い娘)がうんといる。マリーにくるのは上級階級だから、ブルカなしの女性が多いのだ。
 昼寝をすませて私は京都への隊連絡を書く。窓から見ると、関田が庭で石垣をにらんでいる。トカゲを採集しているらしい。
 夕食後、居間で雑談。中村が、荷物袋をゴソゴソやって、テープレコーダーを取り出した。サイードのウルドーソングを取るつもりだ。安田は、地図を拡げて、スワートの登山ルートを検討している。関田は、ウィスキーをなめていたかと思うと、外に出て、蛾の採集を始めた。
 べつに誰に指図されるでもなく、四人がまったく四様に動いている。本当に良いことだ。最初は、こういう具合にはいかなかった。
 各人が、自分の判断で、臨機応変に動けるということは、私たちの隊に必要なことだ。こういう意味で、今や私たちは、これからの行動に向かうスタートラインに、しっかりと立っている。
 マリーでの四日間の後、七月十二日、私たちは、いよいよインダスルートへ向かった。ギルギット2スナップ

 眼下にインダスの流れが見えた。
 ピンディーを発って三日目だ。ピンディーを走り出て、ジープはスワートへの道を進んだ。途中で方向を変え、スワート河とインダス河を分ける、分水嶺山脈の峠を越えた。峠のゲートは、都合良く開いていた。そして、ようやく今、私たちはインダスルートにはいろうとしている。
 私たちが、パキスタンで入手した、二つの地図には、インダス道路はまったく記入されていなかった。ピンディーで情報を集めた末、前記のコースを取った。ただちにインダスぞいの道をとらずに、スワートロードへ迂回したのは、ゲート(検問所)を避けるためだった。しかし、これからはもう迂回することはできない。
 ゲートが見えてきた。丸太が、はねつるべのように、道をふさいでいる。傍に小屋が二つ。人影はない。さあ、いよいよ″安宅ノ関″だ。予想していたほどの緊張感はない。しかし、下手をすれば、スパイ容疑でつかまらないとはいえない。
 車を止めると小屋から兵隊が二人出てきた。鉄砲はもってこない。少々安心する。
 私は大いばりで、兵隊にどなった。「コ一ロー!(開けろ)ギルギットタク、ジャーナーハイ(ギルギットまで行くんだ)」「パルミッション?(許可証)」と衛兵はきく。待ってました。私は例の書状を取り出した。
 番兵に連れられて、私は小屋にはいった。中にいるボスが、どこかに電話して、例の手紙を何度も読み上げている。読めるからには、意味もわかるにちがいない。
 こうなったら、もう逃げだす訳にもいかぬ。私は腹をすえて、ふんぞり返った。

 いつのまに持ちだしたのか、安田が、八ッ橋を兵隊にくばっている。六人ばかりの兵隊共は、おっかなびっくり、ポリリとかじって、アッチャー(うまい)などといっている。
 関田は、捕虫網で蝶を追っている。神様以外なら、誰が見ても、私たちが、このゲートを通れると確信している、と思っただろう。
 やがて、ゲートは開いた。「やったぞ」、私たちは、こおどりして、インダス道路を突き進んだ。
 ホッとすると同時に、どっと汗がふき出した。二〇分ほど走ったとき、小さな流れが道をよぎっている。ここで水浴することにした。考えてみると、この二日間、身体を洗っていない。
 インダスルートは、右岸を通っている。なるほど立派な道だ。これならダンプカーでも通れる。
 ー二時五分。ディビアル村につく。インダス峡谷の大斜面にはりついたような、二五戸ほどの部落だ。すぐ先に、大きな谷が出合っていて、つり橋がかかっている。橋の上から下を見ると、激流が真白に岩をかんで、インダス河への落口は、はるか下である。この谷の上流にも村があるという。
 ここで昼食。チャパティ、サブジーカレー(野菜のカレー)、いり玉子を注文する。チャパティに砂がまざっていて、ジャリジャリする。あまり流れが激しいので、水に砂がまざるのだろう。
 雨がぱらつきだした。急いで出発。

 どれ位走ったろう。私は、ぐつすり眠り込んでしまったらしい。横の安田にゆり起こされた。関田が、バックミラーをのぞきながら、「ジープがついてきよる。さっき、すれ違ったばかりのやつや」。なるほど、うしろから、ピカピカのジープが追尾してくる。
 関田が、スピードを落として山側へ寄せると、ジープは激しくクラクションをならしながら追い越し、前方にピタリと止まった。
 かなり激しく雨がふっている。
 中村が、後部座席の荷物の上から、「カメラ、カメラ」と小さく叫ぶ。前には二台の一眼レフ。うしろにも、二台のボックスカメラが出ている。車をのぞきこまれて、これが見つかってはまずい。
 前のジープから軍人がおり立つのを見て、私は、「早く隠せ」といい捨てると、急いで雨の中にとび出した。(この項つづく)

西パキスタンの旅 第4話「ギルギットへの突入−−その1−−」

陸の島−ギルギット
ギルギット1
 井上靖の「あしたくる人」には、ギルギットは、タマリスク(聖柳)風にそよぐ、主人公憧れの地として、描かれている。
 ギルギットは、現在でも最も多くの未登の高峰を持つ、カラコルムの玄関なのだ。
 カラコルムには、なぜ未登峰が多いか。それなりの理由がある。この地域は、東を印度、西をアフガン、北を中共に接する国境地帯である。そしてまた、いわゆるカシミール問題でもめている係争地(Disputed Area)でもある。そういう政治的にむずかしい場所だから、パキスタン政府は、なかなか入域を許可しない。

 ギルギットは、陸の孤島である。一九四七年、パキスタンが分離したとき、ギルギットは、カシミールに譲渡された。これは、多分当時の地理的状況によったものと思われる。つまり、そのころ、ギルギットと外部の世界を結んでいたのは、一年のうち数カ月だけ、それも好天のときだけ通れる、スリナガール−ギルギット道路だったからだ。
 英国政府のこの決定は、そのまま実行された。しかし、カシミール州政府のギルギット統治は、短命に終わった。ギルギットの住民は、イスラム教徒。カシミール官吏はヒンズー教徒。
 カシミール地方のイスラム教徒は、ヒンズー教徒官吏を追放できず、カシミール問題を今日に残した。しかし、ギルギットの住民は、四囲をとりまく、カラコルム山脈のおかげで、無血革命に成功し、ヒンズー官吏を追い払ったのだ。ギルギットは、カシミール政府統治からパキスタン政府統治に、自ら転じたわけだ。
 その結果、ギルギットは、印パ紛争にまきこまれ、何度も、空からの攻撃をうけた。パキスタンは、この軍事的要衝地点の、物資補給を確保するため、道路の建設に力を入れた。インドとの休戦ラインの西側に、バブサル峠(4200m)を越える道路を作った。とはいっても、トラックは通れず、積雪のため、夏にしか使えないのだ。
 五年前、ディラン遠征のときも、ここの物資は、すべて、航空輸送に頼っていた。好天のときには、軍用輸送機が相次いで着陸。ジリジリと前進しながら、お尻から、ドスン、ドスンと積荷を落とすと、そのまま離陸していった。
 そのころから、インダス峡谷の片側を掘りひろげる、道路工事が進められていた。そして、二年前ぐらいから、この道路は、大型トラックも通れるものとなった。今や、ギルギットは、陸の孤島ではない。
 ところが、この陸の補給線、インダス道路は、軍用道路で、私たち外国人は、通行できないのだ。私たちにとって、事情は何ら変わらない。やはり、ギルギットは、陸の孤島である。
 私たちは、ラワルピンディーで、忙しい毎日を過ごしていた。陸路、ギルギットへ入る予定はしているものの、いつどんな情勢の変化があるかも知れない。パキスタンは、まだ、政変後の戒厳令下にあった。
 どんな場合にも、柔軟に対応できるよう、準備しておかねばならない。最悪の場合、「パキスタン内で、一切の行動が不能になったとき、どうしよう」という話も出た。「なあに、そのときは、イランまで突っ走しろうや」
 そう決まると、ただちに、アフガン、イランのビザを取りに走った。

 日本大使館の、O書記官は、モーレツに、無愛想だった。開口一番「また山ですか。もう駄目ですよ」と、あまりしまりのよくない口をとがらせた。「いや、私どもは、登山ではないんでして……」
 しかし、彼にとって、そんなことはどっちでもよいことで、ともかく、大使舘に現われるすべての日本人を、憎悪するかのようだった。
 私が、さして動じなかったのは、彼についての予備知識を、先行している小山さんその他から、充分得ていたからに外ならない。
 私が会った登山隊、旅行者は、必ず、問わず語りに、彼の悪評をならした。
「人間、誰しも、どんな悪人でも、少しぐらいは、人によく思われたいという気があるもんや。ところが、彼にはそんなところがみじんもない。それどころか、必死に憎まれようと努力しているみたいや」関田はこういった。ある意味で、すこぶる興味ある人物ではないかというのだ。関田は、今でも、彼のホテルへ押しかけて、酒で対決できなかったのを残念がっている。
 ともかく、トレッキング申請の書類を託送していただくことになった。
 アプリケーションのフォーム作成に夜半までかかった。(今年から、トレッキングでも、登山と同一フォームが要求されることになった)
 まず駄目だろう。だが、万一ということもある。私は、必死に文を練った。

私たちの作戦
ギルギット1マップ

 私たちの行動予定は、霧の中のように、おぼろだった。まったくの思いつきのままに、とにかく走り回っているうちに、それは、明らかな形となってきた—。
パーミッション待ちをするのは、時間の空費である。これは、小山隊の例に照らして明らかだ。(ただし、小山隊はこの努力の結果、今年の許可を得たといえる)
ギルギット突入を試みる。最初はインダス・ルート。次はバブサル・ルート。
インダス・ルートが駄目なら、ただちにスワートへ転進する。ここは許可なしで行けるし、京都教育大の資料がある。バブサルは後回し。というのは、バブサル峠にはまだ雪がある、との情報を得ていたからだ。
 こういうように、目標が決まったので、準備行動は、的確になった。
 まず、私たちは、Tourist Introduction Cardをもらいに、ツーリスト・ビューローへ出向いた。ギルギットへ行こうとする観光客は、必ずこのカードが必要だ。パキスタン政府発行のもので、滞在日数、行先、ルートなどが明記される。
 ツーリスト・ビューローのオフィサーは、官僚的な奴だ。ギルギットから引返してきた、小山さんに聞いた通り、行先は、オープンゾーンと指示した。オープンゾーンの解釈も、聞いていたのと同じだ。
 私は、カードをもらってからちょっと聞いてみた。
「実は、われわれは、車が手に入るかも知れないんだが……。車でギルギットへ行けないか」
 もちろん、オフィサーは「NO」と答えた。予想通りの答だ。あんまり、深入りすると、ヤプヘビだが、ついもうちょっと聞きたくなって、
「どうしてなんだ」
「道路が危険だからだ」答は、用意されていたかのように、明快だ。
 しかし、この政府発行の、ギルギット訪問許可証ともいえるカードには、どこにも、空路に限るという記載はない。
 次は、大使館だ。伴参事官にお願いして、”To whom it may concern”を書いてもらった。〈関係者各位へ〉というやつだ。日本国紋章入りの紙に〈Mr.TAKADAに率いられる4名が、ギルギット・スワート方向へのジープ旅行を行なっている。各位の深甚なるご援助を要望する〉という主旨の文章が、インクうるわしく、タイプされている。
 カムランホテルに、古谷君(法政大探検部)が現われた。いろいろ、貴重なニュースをいただいた。彼らは、半年近くもギルギットにいた。そして、タクシージープで、オープンゾーンを突っ切って、「暁の脱走」もどきに、スカルドまで走ったという。
 私たちの計画を話すと、
「きっとうまくゆきますよ。ここの軍用ジープは、皆さんのと同じだから……。ギルギットに入れば、あとはこっちのもんです。大体、タクシージープと交渉しているときに、行先がわかって、ストップを喰うんだから」と励ましてくれた。
 私たちのスコッチを飲みながら、「優雅な隊ですネー。私も、ポーターでもいいから、連れてって欲しいぐらいです」と、お世辞とも、本心ともつかないようなことをいった。(この項つづく)

西パキスタンの旅 第3話「シンド砂漠を走る−−その2−−カラチからラワルピンディヘ」

暑いのではなく、熱いのだ
シンド砂漠2
 十時ごろから、暑さが厳しくなった。そして、正午を過ぎると、それはもう堪えがたいという感じになった。
 まわりから、熱気が、ガーンとしめつけてくるようで、それをはねのけるために、最大限の気力をふりしぼらねばならない。
 ジープは、まさに走るオーブンだ。
 道は、地平に一直線に消え、視野いっぱいに、かげろうがもえ立っている。
十一時に小さな村を見たが、それからは家影も見えず、この熱線を避ける場所もない。私たちは、ただ突走るしかないのだ。
 そんな時、ふと自分を観察する。姿勢は前かがみになり、ハンドルに両肘をのせんばかりだ。ロが開いている。舌がだらりと下り、顔の筋肉は、完全に脱力している。こんな顔をどっかで見たことがある。そうだ、これはディラン隊の荷物を陸送した、アクバルの顔だ。あの時、夜、ピンディーの町をこの顔で運転する彼を見て、私は、こいつ大口あけて馬鹿じゃないかと思ったものだ。だが、何度も暑い所を走るうちに、この顔が、習慣となったらしい。
 気をつけて見ると、安田も、まったく同じ顔で同じ姿勢になっている。してみると、これは砂漠の運転姿勢なのだろう。

 それにしても、この熱さを何と表現したらよいだろう。これはまったく、暑いのではなく、熱いのだ。
 ある在留邦人は、パキスタンの熟さを、次のように表現した。〈まわりに十個の赤外線ヒーターを置き、十個のスポットライトで照らされた感じ〉。だが、これでも充分な表現とはいえない。
 中村が、時々壷から水をくんで、渡してくれる。
 この水の温度、二九度C。これでも結構冷たいと感じる。ジープの室内気温四三度Cより、十四度Cも低いのだ。この秘密は、素焼の壷にある。にじみでた水が、どんどん蒸発して、壷全体を冷やすのだ。この、たかが二百円ほどの壷が、これほどの偉力をもつとは知らなかった。

砂漠の調査活動

 午後一時、ようやく前方に、ポチリと家が見えてきた。トラックが止っている。ありがたい。やっとこの熱さをのがれることができる。そう思ったのは、とんだ早合点だった。
 この土造りの家の中も、四四度C。深呼吸すると、胸の中まで熱くなる。ただ、火ぶくれのできそうな熱気が、直接にあたらないのはありがたい。
 木の枠に、麻なわを編んだ網をはったベッドが三つ。あばた面のトラックの運チャンが、起きあがり、ベッドをすすめてくれる。(パキスタンには、天然痘によるあばた面が多い)
「サーブ、カハンセ、アーヤータ(旦那、どこからいらした)」
「カラチセ(カラチから)」
「アープ、キスムルクカ、アドミーハイン(あなた、どこの国の人でか)」
「ジャパニーヘー(日本人だ)」
「アッチャー(へェー)」
 この運チャン、きれいなウルドーで、敬語まで知っている。あとの二人の助手は駄目らしい。彼は少々得意なんだろう。「サーブ。キャカーム、カルナーチャーテーハイン(どんな仕事をなさるつもりか)」
 しきりに話しかけてくるが、こっちは、熱さでぐったりして、しゃべる気にもならない。
 この店の主人が運んできた、パキスタニーチャエ(ミルクでたきだした紅茶)をのんだら、少々元気が出てきた。

 安田は、この熱さの中を、戸外で化石を探している。アンモン貝ばかりで、大したものはなかったそうだ。
 戸外気温を、影がないので、掌で影を作って測定したら、いつまでも昇りつづけ、五六度Cになつた時、目がくらんできたので止めにした。まだ昇りそうだったという。
 中村は、子供の体力測定を始めている。この熱さでは、50m走をやらすわけにもいくまい。安田も一緒で、ヘルスメーターを取り出して、体重測定を始めた。ウルドーの苦手な中村は、大奮闘である。
 身長、胸囲、座高、手首囲などを測り、ジャンプ測定までやったのは立派だ。
 私も負けずに、調査開始だ。
「名前は」そばの大人が「プンヌン」と答える。
「年令は」「ウーン」と考えこむ。そばから、大人が「十四歳」別の男が「十五歳」
 私はしかりつける。
「お前たちに聞いておるのではない。この少年に聞いておるのだ。お前たちはだまっておれ」

学校に行っているか。
どうして行かないのか。
大人になったらどんな職業につきたいか。
父親と母親とどちらが好きか。 等々の設定しておいた質問をつづけて行く。
「世界で一番偉い人は、誰だと思うか」
 またしても、そばの大人どもが、
「そりあ、村長だ」
 今度は、大人向きの調査だ。一〇枚の女の写真(これはJALのカレンダーを写真にとったもの。大体各国の女性を網羅している)を取り出す。
 この中で、一番いいと思うのはどれか、それを取り出せといって、さらにその次はという具合に三番目までを選ばせる。最後に、最もよくないのを示させるものだ。
 彼らは、大喜びだ。
 ダークバンガローのある、メーハルまでは二百キロ以上ある。調査はこれ位にして、先を急がねばならない。
 二時半、私たちは再び、灼熱の大地に走り出た。

暗い家−ダークバンガロー

 メーハルのレストハウスにたどりついた時、三人は、まったく気息えんえんの状態だった。途中で道が分らなくなり、だいぶ苦労した。このあたりは、シンディ(シンド語)の領域で、道も満足に聞き出せないのだ。
 何度も「トゥム、ウルドージャンテーホ(君、ウルドーがしゃべれるか)」と呼びかけても、手を横に振る者がほとんどだった。
 ようやくレストハウスの一室で、ベッドに腰をおろしたのは、夜の十時に近かった。
 チョキダール(番人)に水を運ばせ、砂だらけの身体を洗う。タルカムを振りかけると、少々すがすがしくなった。
 ところが、安田は身体を洗うのを止めにした。田圃の水のような泥水なので、おぞ気をふるったのだ。その結果、彼の身体は、一面のあせもにおおわれることになった。

 それにしても、レストハウスはありがたい。パキスタンには、どんなへんぴな地域にもレストハウスがある。これを利用できねば、パキスタンの辺地旅行は無理だといってよい。
 これは、イギリス植民地時代からのもので、役人らが旅行して、宿泊するためのものである。部屋は、やたらに天井が高く、小さな窓があり、冬寒い地方では、暖房用に暖炉がついている。
 建物は、土蔵のような造りである(熱をさえぎる生活の知恵か)。レストハウスが、ダークバンガローと呼ぼれるのは、イギリス官吏がそうよんだのではないかと思う。
 レストハウスにはチョキダールとコックがいる。一人二役の場合もある。炊事、洗濯、何でもいいつければ、彼らがやってくれる。
 排泄に関しては、少々問題がある。これはバスルームでやる。バスルームといっても、大きいばかり(大体四〜五畳)のガランとした部屋である。普通は、次のものが置いてある。
 水浴(ナハーナ)用の金だらい。水をくんで身体にかけるための把手のついた水さし。すのこ板。それに、おまるの入った、大きな黒ぬりの箱。
 この箱のふたをめくると、直径二十センチばかりの円筒形で、ホーロー引きのおまるがはめ込まれている。この上にのって、しやがんで用を足す。小さい方のときも同様だ(パキスタン人は、大小とも同じ姿勢をとる)。済んだら、外の方のドアの鍵をはずしておかねばならない。
 すると、間もなく、そこから入ってきたチョキダールが、おまるを運び去るという寸法だ。
 チヨキダールが気づかない時は、命じて直ぐに運び去らせる。ところが、これが仲々大変だ。どうしてもいい出せず、あふれそうになったおまるが、部屋中に臭気を充満させるということになる。
 大体、自分のオヤジ位の年恰好の男を、アゴで使うということ自体、日本人にとっては、抵抗を感じることなのだ。
 ましてや、自分のウンコやオシッコを持ち去れなどと命じることは、いくらパキスタンに慣れてきても、やはり気遅れするのは事実だ。
 ある日本人旅行者がいた。彼らは、自分で水浴の水を運び、ウンコも自分で始末した。その結果はどうだったか。彼らは、感謝されるどころか、チョキダールの軽蔑を買っただけだった。
 郷に入っては郷に従うことは、私たちにとって一つの技術といえそうだ。

 夜半を過ぎても、暑さは一向に衰えない。私たちは、外で寝ることに決めた。ベッドを外に運ばせ、蚊帳を吊った。この蚊帳は、私の妻が嫁入道具でもってきたものだ。ふと日本のことを思った。
 月が中天にかかっている。

モヘンジョダロ見物

 七時半にレストハウスを出発。モヘンジョダロには十時半についた。
 立派な建物がある。事務所、レストハウス(エアコン付きの部屋もある)、出土品陳列館。砂漠の土くれのような家を見なれた目には、驚きだ。
 もっと驚きは、遺跡そのものだった。
 一 家屋はすべてレンガ造りで、非常に強固に造られている。ことに土台は、素焼の土球や土レンガで固めてある。二階、三階建も多い。ほとんどの家に浴室があり、井戸がある。これらの整然と並んだ家並をぬって、約10m幅のメインストリートが、市街を東西、南北に貫き、さらに4〜5mの道路が縦横に走る。道はレンガで舗装されている。ー
 この道にそって下水溝があり、家々からは、土管を伝って下水が流れ込むようにしてある.公衆浴場は、水泳競技ができる位の大きな長円形である。上手の井戸で水をくむと、土管を通って水が浴場に入る仕組になっている。混浴であったとガイドはいった。一時間ばかり、あちこち見て回ったら、熱さに目がくらみそうになった。レストハウスで昼食とする。
 安田が「チキンカリー、チャワール、ジャルディー、ティケー(チキンカレー、飯、大急ぎ、分ったか」とオーダーしている。彼、だいぶふんぱつしたようだ。パキスタンでは、肉のうちでは、ニワトリが最も高く、羊の三倍位するのだ。
 コックが、ニワトリを追い回している。庖丁を持って追いかけられては、ニワトリとて必死だ。
 その間に、私たちは本日第一回目のナハーナ(水浴び)を行なう。機会あるごとに、水をかぶるのが、砂漠旅行の秘訣だ。肌着もついでに洗う。そのまま着ていれば、直ぐ乾いてしまう。
 ここのツーリストビューローのオフィサーが観光案内の本と、ポスターを三十枚も持ってあいさつにきた。私たちも『山渓カラーガイド一京都』を贈る。この本には、英語で〈友情と共に、京都カラコルムクラブ〉と墨で書いた和紙がはってある。

 昨日の経験で、日中走ることは、消耗以外の何物でもないことが分った。夕方までここで仮眠することにする。
 ベッドに横たわり、空ろな頭で、先程見た遺跡のことを考えた一。
 モヘンジョダロ。インダス文化の中心。紀元前二千年の昔にあれほどの都市。強力な都市計画。壮大な規模だ。それに、道路の角には、たしかポリスの詰所まであった。
 この熱さの中で、人々はどうやってあんな都市を築き得たのか・・・。まったく信じられない。きっと地球は今より冷たかったんだ?
 人々は、その時すでに文字を知っていた(インダス文字とよばれる未解読文字)。うわぐすりをつけた陶器も作った。一体全体、これはどうしたことなのだ。今から四千年も昔に、これほどの文化をもった都市が存在した。
 そして四千年経った今。この遺跡から何キロも離れない所には、土くれで固めた家に、数個のアルミ茶碗しかない人間が生活している。一体どういうことなのだ。
 四〇〇〇年! この間、自らを偉大と呼ぶ人類は何をしていたのだ。これが文化の不連続とか、文明の断絶で片づけられる問題なのだろうか。
 熱さのせいか、耳鳴りが、頭全体にひびいている。頭が変になったのか。

 六時。日が傾いた。
 私たちはジープに乗り込み、ほとんど休みなく、翌日の明け方四時半まで走った。そして二時間の仮眠の後、今度は正午まで走り、ウチという村のレストハウスで、夕方まで眠った。
 大体このように、夜明け前の数時間の仮眠と、午後の睡眠というぐあいにして、ジープは北上を続けたのである。
 このあいだ、道をはずし、ジープが砂にうずまって立往生したこともあった。好奇心にみちた村人にとりまかれ、荷物をうばわれそうな危険を感じたこともあった。
 とにかく、私たち三名は無事に、七月二日十三時十五分、ラワルピンディーの街に走り込んだ。
 五日間の砂漠の旅は終わった。ジープのメーターは、カラチより一八三四キロの走行を示していた。
 ちょうどこの日の夕刻、空路ピンディ一についた関田と合流。ここに、調査隊は全員顔をそろえた。ホテル・カムランの一室で、関田が運んできた菜の花漬をつまみに、私たちはナポレオンで祝杯をあげた。そして次のプランをねった。

西パキスタンの旅 第2話「シンド砂漠を走る(その1)−−カラチからラワルピンディヘ」

シンド砂漠1
砂漠始まる

 地平線から、砂漠の太陽が昇ってきた。ランドクルーザーの四千ccエンジンが、快調なひびきをあげている。
 六月二八日、私たちは、カラチを発って、陸路ラワルピンディを目指した。
 カラチ−ピンディは、直線にして、約千二百キロ。これは、京都−札幌あるいは束京−稚内くらいにあたるだろう。
 大体インダス河(インダス沿岸の住民は、〈シンドの河〉と呼び、インダスでは通じない)にそって、北上する道を進む。途中で、モヘンジョダロの遺跡を見て、七月二日に、ラワルピンディで後発の関田隊員と合流する予定だ。
 ジープの乗組員は、安田、中村、それに私の三名。
 ジープの後部座席はおりたたまれ、天井までぎつしり荷物がつまっている。屋根には、カラチで苦心さんたんの末、あつらえたルーフキャリーが装着され、一五〇キロの荷物がのっている。前座席の足もとには、大きな素焼の水がめがすえてある。貴重な飲料水だ。
 ドアには、日の丸のワッペンがはってある。

 何やかやと忙しい出発の準備で、カラチ滞在は二週間になっていた。
 住みなれた、タージホテルのベアラー(ボーイ)、チョキダール(門番)たちが見送る中を、私たちは出発した。
 薄明のカラチの街を走り抜けると、すぐに砂漠が始まった。
 さあ、いよいよ出発だ。私たちの前途には、何が待っているのだろうか。私たちはどこに行こうとするのか。最終日約地は今問題でない。まず、ピンディまでを走る、この行程が第一課題だ。
 私たちの胸は、未知への期待に高鳴り、エンジンの唸りと気持よく調和している。

 カラチでは、多くのパキスタン人が、いろいろのアドバイスをしてくれた。いわく、生水を飲むな。コーラとセブンナップを積み込んで行くべきだ。いわく、夜走って昼眠れ。いわく、蜂蜜をなめて、レモンをかじれば疲れない。俺はラホールまでノンストッブで走った。いわく、ペシャワールの長距離トラックに気をつけろ。チャラス(大麻)をのんだヨッパライが多い。いわく、道をはずしたら、無暗に走るな。方向が分らなくなって、ひぼしになるぞ。(事実そういうことがあった。四年前、イギリス人が死んだ。Englishmen Dry Upと新聞にでたのを、私も記憶している)
 領事館の今川氏いわく、「ラクダと水牛に気をつけなさい。この間本当にあった話だが、乗用車がラクダの股ぐらにつっこみ、ちょうどラクダがすわったもんだから、車はペシャンコになりました。その時ラクダは何といったと思います?……」
 これはスコッチを飲みながらの話−。

 もう百キロ以上走った。一時間半ばかりだから、かなり快調だ。道もそんなに悪くない。ただ屋根に荷物を満載しているので、くぼみでゆれると、ベコンボコン音がする。どうやらへこんできたらしい。でも屋根がぬけることもあるまい。
 それにそんなに暑くない。何だ、一向に暑くないじゃないか。パキスタンの連中は、おどかしてやろうと、いいかげんの嘘をいったのだろうか。

砂漠の路上教習
砂漠マップこのあたりで、安田君と運転を交代しようと決心した。相当の覚悟がいった—。
 私も彼も、うかつにも日本から国際免許証を持ってこなかった。
 しかたがないので、領事館で〈この者は日本国の運転免許証を保持し、充分の経験と運転技術を有する〉という証明書を書いてもらった。領事館クラークのミスター・マーチャントと一緒に、カラチ警察署に日参した。そして、四日目に、OFFICER of traffic Karachi(カラチ交通部長というところか)の特別許可がおりた。
 そこで、免許検査官(Inspector of Licence)が私たちのジープに同乗し、カラチ市街を走らせた。彼が横から巻き舌のパキスタン英語で、「右折の手信号は‥…・。市内制限速度は……」等と説明していたが、私も安田もほとんど上の空だった。
 検査官が、「You can drive」といった時、二人は、パキスタンのドライバーライセンスを得た。(通常の手続では、早くて三カ月かかるという)
 パキスタンの免許証は写真がいらない。サインだけでよい。写真は、字の書けない者に必要なのだ。そして、五年間有効だ。
 安田が、「今度来た時も使える」と喜んでいる。彼は、二週間ほどの間に、二カ国のライセンスを得たことになる。というのは、彼は日本出発直前に免許をとった。いわばホヤホヤドライバーだ。
 もう免許もあるからということで、警察の前から、安田君が運転席にすわった。動き出した時、小さな鈍い普がした。止めてあったパトカーの横腹がへこんでいる。
 彼は知らん顔で走り出した。どうも気がついていないらしい。マーチャントも、知ってか知らぬか、知らん顔をしている。私一人、気が気ではなかった。

 こんなこともあったから、運転の交代に覚悟がいったというわけだ。
 ピンディまでの千八〇〇キロの道を、私一人で運転できるならともかく、なるべく早く、道の条件がいい間に、彼がジープの運転をマスターすることが先決だと思った。
 二回目の事件は、交代後直ぐ起こった。
 直線道路を、ジープは約七〇キロのスピードで走っていた。前方に何やら見えてきたと思うと、それは片側通行を示す石だ。柱状の石が、道路の真中に点々と一列に並べてある。「ブレーキ、ブレーキ」私は叫んだ。
 ジープは一向に止まらない。そして、どちらにも寄らず、真直ぐに石に向かって行く。一つ目の石はうまい具合にまたげた。二つ目だ。今度はガーンと音がした。まだ止らない。三つ目の手前でようやく止った。
 私が、屋根に荷物があるから急ハンドルを切ると引っくり返るぞと話していたのが、よはど頭にこびりついていたらしい。彼はいささかもハンドルを切ろうとはしなかったのだ。幸い、ジープには何の損傷もなく、ホッとした。
 安田君はこの後、実にさまざまなものにぶつかった。しかし、いずれも大したことではなかったのはまことに幸運であった。
 なにしろ、あの暑さとあの悪路で、四〇〇キロもの荷物を、屋根にまで満載したジープを操るのはそんなにたやすくはない。

 彼のあたった物の中で、最もケッサクはラクダであった。正に、追突したのだ。今川氏の話が、単なる駄ジャレでなかったことが、その時初めて分った。
 私たちに、幸せだったのは、ラクダが比較的小さかったことと、私たちの車が背のひくい乗用車でなかったことだ。
 そして、気の毒にも、飼主の鞭で、こっぴどくたたかれたのは、安田君ではなく、ラクダの方であった。

西パキスタンの旅 第1話「辺地教育調査隊の出発」

西パ1
カラコルム辺地教育調査隊の出発
変化をとげる回教の国

車と女−カラチの変化

一九六九年、四年振りにカラチにやって来てまず感じたこと。
一つ、車の増えたこと。
一つ、ブルカの女性が減ったこと。

 車がやたらに増えた。それも日本の車が目立つ。四年前は、タクシーもモーリス等の英車ばかりで、ブルーバード等珍しいぐらいだった。ところが今度は、日本車なら全車種あるといってもいい。サニーのタクシーなどザラである。
 また日本車はとばしているのが多い。そしてクラクションをならして、猛然と追越しをかけてくる。これは丁度、日本でムスタングがとばしているのと同じではないかと話しあった。
 車が増えると共に事故も増え、パキスタンでも、交通事故は大きな社会問題となりつつある。そのためだろうが、映画館では、事故防止のキャンペーンが行なわれている。

 はだしの少年、手に紅茶の盆をもち道路を横切る。突進してくる乗用車。少年の恐怖にゆがんだ顔のアップ。ブレーキのきしり。次のカットで道路に散乱した茶わんと盆。大きな血痕がうつり、アナウンスが流れるのである。「かくて少年の生命は去ったのであります」

 車が増えたと反対にブルカ(回教徒女性が外出時に用いるベール)の女性は減った。パキスタンは、正式にはパキスタン回教徒共和国といい、回教徒の国である。そのコーランの教えの一つに、女性の隔離がある。
 コーランには次のようにある。〈それから女の信仰者にもいっておやり、慎しみ深く目をさげて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方がないが、そのほかの美しいところは人に見せぬよう‥‥(24−31)〉ブルカの習俗はこの字句から生れた。
 だからブルカの女性が減ったということは、重大な変化である。少々オーバーにいえばイスラム文化の変容ともいえるかも知れない。しかしよく考えれば、回教というのは生やさしいものではないことが分かる。
 私たちがカラチについた六月十八日の夕刊、Evening Starには面白い記事があった一カラチの中心にあるジンナー公園に、午後、アベックがいた。恐らくベンチでほほを寄せ合っていたのであろう。ところが、警官はこの二人をキスと抱ようのかどで逮捕したのである。

 冒頭から車と女が飛びだした。しかしこれは私たちに全く関係ないことではない。私たちはこの二カ月間、車で西パキスタンの調査を行なったのである。けれど後者に関しては、断じて関係はなかった。何しろ私たちは、教育調査隊というおかたい隊であった。

京都カラコルム辺地教育調査隊

 京都に京都カラコルムクラブという‥・後につづける言葉に迷う。一般にいう山岳会では勿論ない。しかし山岳連盟に登録されたレッキとした社会人山岳団体ではある。強いていえば、海外登山の経験者及び経験予定者のみで構成された、海外登山クラブといえるだろう。(余談であるが、カラコルムクラブ婦人会なるものもあり、これはカラコルムクラブと異なり標語を持っている。曰く、銃後の守りは固し!)
 カラコルムクラブでは、一九六五年のディラン峰が失敗したので、以後パキスタンに申請をつづけ再起を期していた。小谷代表も毎年外国出張の帰途パキスタンに寄って、プッシュを行なっていたが、いつもキャンセルの通知が来るだけだった。
 そのうち一九六八年の秋、ディランが登られたという情報が入った。薬師さんによれば、松田雄一氏よりの手紙に書いてあるという。情報魔といわれる松田氏のニュースとあらばまず間違いなかろうが、念のため、直ちに問合せることにした。
 返事によると、これは一橋大の倉知さんよりのニュースで、登ったのはオーストリアのハンス・シェル、八月に登ったと葉書で知らせてきたという。
 全く予期していないことであった。私たちは毎年申請していたし、それにこの年の分には拒否の回答にも接していなかった。
 恐らく奴はひそかにもぐりこんで一気に登ったに違いないということになった。
 なお、この情報を疑問視する見方もあり、問題の倉知氏あてのハガキを見ることになった。そこには「幸運にも、私はディランに登ることができた」とのみ書いてあった。そこで文中のClimbというのは、必ずしも頂上に達するということを意味しない。普通は入域できない場所に入り得たという解釈が成立つ——という迷論を私は唱えた。
 何とか登られてほしくないという気持だったのだろう。この気持は誰しも同じであった。
 四月になって、ようやく、問合せの返事がハンス・シェルより、小谷さん宛に来た。彼はやはり登っていた。たったの三名で、オーストリアから装備と共に、フォルクスワーゲンで走ってきて、許可なしであっさり登ってしまったのだ。

 ディランが登られたという最初のニュースの時、最も残念がったのはディラン隊の登頂隊員であった小山さんであった。彼は、われわれも同じやり方が可能であると確信した。勿論、ギルギットに長く滞在している友人の法政大探検部の平氏とも連絡をとり、充分の裏づけのもとにである。そこで彼は、カンピレディオールを狙うことにした。
 小山隊は、現地合流も含めて六名となった。一方私は、登山隊は二の次とした四名の調査隊を組み、カンピレ隊と共に、カラコルムクラブ一九六九年遠征の一部にしてもらうことになった。カラコルム西部の総合的解明を行なったシュナイダー隊は、常に登山と調査の二つの部分よりなっていたし、現在でも充分意義のある形式だとの小谷代表の判断であった。

 時は世界的にスチューデント・パワーがいわれ、京都もさわがしくなっていた。考えるに、これは機械文明の高度発達との関連が予想できた。私たちは、機械文明から遠く隔った場所において、人間が見失い、あるいは忘れ去った、何か貴重なものが発見できるかも知れないと考えた。だから本当は人間探求隊とでも名付けたかったが、メンバーの職業も考慮して、辺地教育調査隊と名付けることになった。できれば、チョゴルンマ氷河最奥の部落あたりを狙いたかったが、情勢悪化の報が次々と入り、場所は行ってからということになった。年末より始めていた準備のうちで、私たち調査隊が最も力を入れたのは、ウルドー語の勉強であった。