アフガン難民支援レポート(10)

今日17日(日曜日)、イスラマバードを発ち、ラホールに来ました。ようやく、ホッとリラックスし、久しぶりにくつろいでいます。

昨日、ぼくたちは、報告にイスラマバードのカシミール官庁のグルザールを訪問し、彼の部屋に待機していた、アフガン難民局の長官サイード・アシフ・シャーとの二人に、経過を報告しました。
彼らは、ぼくの実験室のアイデアを既に聞き知っているようでした。
ぼくが、その話をするとグルザールは、いい考えだと思うと答え、ペシャワールのコミッショナーに話したかどうかを尋ねました。
すべては、ペシャワールの難民局が決定権を持っているのだそうです。サイード長官は、「実験室の件だけど、お金がかかる。建物と中の設備とどちらを優先したいのですか」と、少し意外な質問をしました。
だって、イムランは2000$あればいいといったのですから。それに、あのシェルマンキャンプで、ほぼ完成している小学校の建設費を尋ねた時、彼はよく分からないと答えました。ぼくがさらに、君の推測を言ってくれと迫ると、イムランは「1万ドルくらいかな」と答えたのです。
ぼくはともかく、「どっちかといえば、やはり建物が先ということになりますね」と答えました。

ぼくは、わざと一人飛ばして座っている岩橋に、「小学校一個でどれくらいかかるんや」と尋ね、岩橋は「1万くらいですかね」と、答えました。
「長官。小学校一つでは一万と聞いています。そのなかの実験室はその何分の一かでしょう」
それはそうです。ただ、学校はいくつもある。あのアザヘルには6つ。みんな同時に作らないと、不公平だということにもなります。
そういえば、それは確かにそうかもしれません。

グルザールと長官はウルドー語で話し合いを始めました。完全には追えなかったのですが、グルザールは、一気に作らなくてもモデルを作れば、他の物もそれに習うんではないかと、言っていました。
グルザールが、実験室を必要としているのは、高校だけなのだよといいました。小中には、サイエンスという科目はないのですか、とぼくは尋ねました。
中学校には、あるにはあるが、教科書の絵と図だけで実験はないんだよ、とグルザール。

でも、科目があるのなら実験は必要でしょう。机の上に一匹の昆虫を置いただけでも、実験は可能です。解剖も出来ます。
生徒を二手に分ける。長い紐を用意するグループとその半分の短い紐を持つグループに分けます。
錘をつけて、振り子運動をさせ、一斉に振り子の回数を勘定させる。短いほうが倍になるはずです。
この時に必要な用具といえば、紐と錘だけでしょう。大げさの実験装置はなくても実験は出来ます。
グルザール氏は、笑いながら聞いていました。

でも、これまでこうした実験室のプログラムは皆無であったそうです。初めてであれば、それなりの実施案の構築が必要です。実施案を作るためにもお金が必要。ともかくお金がないと、なんにも進まないだろうとは思いました。
お金の支払いはどうするのか。支払えば、領収書を渡すが、という話が冒頭でありました。ぼくは支払いは銀行を通したいと答え、長官は可能ですと答えました。
国全体が利権国家のようなこの国では、まあ仕組みが巧妙なだけで日本も似たようなものかもしれませんが、銀行を通したからといってどこまで信用できるか極めて疑問だ、とぼくは思っています。
こんな枠組みの決まらない状況で、渡したお金はどこに消えてしまうか分かったもんではない。この国では、難民救済事業は、間違いなく甘くて美味しいビジネスなのです。

傍らに座っている秀子に、「あれ何人から集めたお金やねん」ときいてから、ぼくはこういいました。
たいした額のお金ではないにしても、これはワイフが友人150人から集めたお金です。その150人のドナーにぼくは責任を負っている。有効に使うという責任を負わされていると思っています。これは、普通のお金ではなく、プライベートなお金です。だから、最初には、その一部だけを渡したいと思っています。
長官が、どれだけ?と聞くので、ぼくは半分といおうか4分の一といおうかと迷っていて、ようやく「4分の一」と答えるのと、長官が「ともかくプランニングが先決だね」というのが、同時でした。

ぼくが、その場所、規模、内容などは、お任せしますといったので、岩橋が帰国する直前の19日に、岩橋宛にPROPOSAL(計画起案書)をファックスし、日本のぼくに見せてもらいましょう、ということになったのでした。
岩橋が、再びイスラマに戻るのは来春のことであるし、話はそうすらすらとは進まないようです。
その夜、4人でマリオットホテルのチャイニーズレストラン「DYNASTY」のテーブルを囲んで、ぼく達は今日の感想を語り合ったのでした。
・グルザールさんのあんまり最初に比べると冴えない表情が気になるなあ。
・ムシャラフの就任式の何やかやで単純に疲れたはっただけと違うんか。
・サイード長官が、金が足らんみたいな事をゆうとったのは、なんでやろ。
・まあ、これはあんまり美味しい話やないと思ったことは確かでしょう。
・なんにしても、彼らが金が要らんということはありええへんのとちがうか。
・恥ずかしいくらい小さいお金でも?小さいお金?大金ですよ。この国では。
・難民キャンプも、いつまでたってもなくならへんのやし。急くことはない。
・そらそうや、なくしたら困るもん。この国の巨大ビジネスや。

こんな会話を続けながら、ぼくは一人、思いつきから発したとはいえ、こ実験室のアイディアは、えらく巨大なものではないかと思い始めていたのです。
ぼくは、けっこう誇大妄想的になり、こんなことを考えてました。
科学、いわゆる自然科学は、近代文明の発達とともに進歩し、その対象の自然を破壊するところまで来た。
また、科学的思考の極は、共産主義体制というような非人間的態勢を生み出したし、オームのようなカルト集団も誕生させてしまった。
一方では、その反動としてイスラム原理主義に代表されるような、非科学的精神主義的でファナティックな集団を誕生させている。
テロリストは、難民キャンプから生まれるとも言われている。
タリバーン(神学生)は、コーランのみを学び、科学を学ぶことはない。
回教徒は、その精神主義と科学教育における実証実験主義をバランスよく学ぶ必要がある。精神教育と科学教育のバランス。このことは回教徒のみに当てはまることなのだろうか。
日本の現代教育の巨大命題ではないのか。

おわり
高田直樹

アフガン難民支援レポート(9)

シェルマンキャンプの後、ぼく達はまっすぐにホテルに戻りました。イムランは、ペシャワールのホテルまで、ぼく達を送り届けると、そのままイスラマバードに戻ってゆきました。
ぼく達も一緒に帰っても良かったのですが、もう一泊することにしました。
ぼくは久しぶりにキサカニバザールにも行ってみたかったし、初めての土田君は、ガンダーラ仏像で有名な、ペシャワールミュージアムを見ておいた方がほうがいいと思ったからです。

ぼくが、キサカニバザールに行きたかった本当の理由は、もちろんその変化振りもですが、狼のロシア帽を買いたかったからです。この帽子は、いつもスキーのときにかぶることにしているのですが、もうだいぶくたびれてきたので、新調したいと思っていたのです。
ラマザーンの最中なので、バザールは早く締まります。
ぼくが、ホテルの売店で「もうバザールは閉まったかなあ」と話すと、若い男が
「サーブ、何が欲しいんだ」と訊きます。
ところが、狼の帽子、ウルフカトッピ−。ウルフのトッピ−。トッピ−は帽子なのですが、狼をウルドゥ語でなんと言うのかぼくは知りません。
困ったぼくは、絵を描こうかと思ったのですが、スケッチは苦手です。
それで、「パハールメ(山の中)、クッター(犬)」。これで一気に通じました。
買いに行ってくれ。5つか6つ持って来い。選んで2・3個買うから。

この夕暮れ時、断食が終わってほとんど人気がなくなる時期にバザールに行くと、帰りは暗くなって物騒。なんとなく気が重かったぼくは、ホッとしました。
店を出て、ロビーに向かっていると、後ろから、
「帽子ですか。帽子が欲しいんでございますか。ぼくが買ってきましょう」
「もう頼んだよ」
「駄目。駄目。彼には無理です。交渉できないから」
それは、マンズールという日本に6年いて、キーパンチャーをやっていたという男でした。
この40歳台の男は、ぼく達がホテルに着くなり、ペラペラと日本語を操り、いろいろ世話を焼き、「アフガニスタンのビザなら、すぐに取ってあげます」

なんでも、180$で取れるのだそうです。うまく聞き出したところでは、180$のうち、20$は、アフガン大使館にゆき、60$が、大使館員のポケットに、彼には100$入るのだそうです。こうゆうことを、ぺらぺらしゃべるこの男は、日本人をなめている。ぼく自身もなめきっている。あまり信用できないと思ったのです。
それにしても、アフガンビザを取るのは、イスラマバードでも結構大変ということになっています。ここにきて、180$で取れるとしたら、結構な話ではないか。そういえるのかもしれません。

1時間程すると、彼が帽子を3つ持って現れました。一個の値段は5000ルピー。
全く法外な値段です。ぼくは、かつて何回も300か400で買っていました。
「高すぎる」というと、彼は、「でも、ぼくの頼んだ人はその値段で買ってきたんです」とすましたものでした。
「いらんよ。それにサイズも合わない。明日自分で行くから結構」
「ああ、そうでございますか」と、あっさり引き下がりました。
翌日、バザールに出かけ、ぼくは自分で買ったのです。値段は、500ルピー。

頭に来て、ぶち切れてしまったぼくは、ホテルの全部の売店の男たちに、「マンズールは、うそつき野郎(ジューティーワラ)だ。アラーの罰が下るぞ(アッラー、マーレーガ)」と触れて回ったのです。
売店の人々は、日本人が来る毎に「おれがうまく話をしてやる」といって、高いコミッションを要求されていたらしく、ひそかに大喜びのゼスチュアしていました。
その後、ぼくに何かを売ろうとする毎に、どの店も「この店は、マンズールとは無関係だ」と強調するようになったのは、傑作でした。
帽子以外にも、色々腹立たしいことが起こったので、土田君は、インターネットで広報して、奴をつぶすといきまいていました。インターネットには、そういう情報を自由に書き込めるサイトがあるのだそうです。

翌金曜日の午後、ペシャワールの北西辺境州アフガン難民局が差し向けてくれた車で、ホテルを2時半発。イスラマバードには5時半に着きました。
この時になって気付いたのですが、ぼく達の乗った車は、これまで一度も料金所で料金を払わなかった。
岩橋によれば、車のナンバーの色で政府関係と分かるのだそうです。後でアマンにこの話をして、「日本ではそういうことはないと思う」といったら、
彼は、「そうです。パキスタンではそうなっている。だからこの国に進歩がないのです」とやけに憤慨していました。

高田直樹

アフガン難民支援レポート(8)

難民キャンプシャルマンキャンプ。
DSC00044.jpgパキスタン北西辺境州のトライバルエリアにあって、アフガン国境に近く最も新しい難民キャンプです。ここを訪れ、学校のテントを見た後、次にぼくたちが訪れたのは、BASIC HEALTH CENTERです。この間、5人の警官が着かず離れず、付いてきています。
コンクリートの細長い建物で、まあ診療所というところでしょうか。

PB140293.jpg一番端が、診療室。机だけが置いてあり、その上に聴診器がぽつんと載っていました。
呼ばれて、歳若い女性のが入ってきました。多分女医さんだとおぼしき彼女は、ここの活動をこの人たちに説明しなさいといわれて、少し困った顔をして、
「私はペシャワールからやってきたばかりで、まだ4日しかたってないので…」
といいながら、部屋を順に案内してくれました。
隣の部屋は、救急室。ベッドが3つ。酸素ボンベ3本が置いてありました。手術は出来ないそうで、必要な場合はペシャワールまで送る必要があるそうです。

PB140296.jpg次の部屋は、幼児診療室で、ドクターが、訪れたブルカをかぶった女性の子供に注射をしようとしているところでした。
彼女は、両の腕に一人づつ幼児を抱き、もう一人の子供を連れていました。片手に子供を抱え、いすに座り込みながら膝の上に置いたもう一人の0歳児のズボンをドクターが苦心しながらずり下げようとし、子供は泣き叫んでいます。何か予防注射ということでした。
カメラを構えたままの秀子が、ぐっと身を乗り出し、針がその恐ろしいまでに小さい大腿部に差し込まれた瞬間をとらえました。
後で、部屋の外ですれ違ったとき、その母親は秀子に何かを言ったそうです。怒った風ではなかったというのですが、ブルカのなかの表情は分かりません。
きっと、痛がっている子供をどうして写したの、と言ったのではないかと思いました。

PB140307.jpg隣の部屋は、育児室というか育児相談室という感じです。部屋の一番奥に少し太った中年の女性が座っていました。
背後には、数枚のアラビア文字の説明入り(パシュトーン語)の図があり、一目で離乳食の作り方の図解だと知れました。
真中の梁から二本のロープが下がっており、端が輪になっています。まさに首吊り用という感じ。乳児の体重測定のばねばかりを吊り下げるためのものでした。

PB140313.jpg隅には、木製の身長測定器も置いてありました。
やってくる母親は、一日に平均80人ということです。
この棟で見た最後の部屋は薬品庫で、段ポール箱が積んであります。
薬品は足りているのかを、その部屋の管理人風に見える男性に尋ねると、「ノープロブレム」と答えました。

この後に見たのは、パン焼き場と水の貯水槽です。
DSC00059.jpgベーカリーというので、フランスパンでも焼いているのかと思ったら、ローカルなアフガニスタンレストランのような、かまどのオーブンで独特の長円形のアフガニスタン・ローティを焼いています。
少年達が、立ち働き、こねたアタを丸め、伸ばし、かまどの中におき、焼けたものを取り出していました。
1日一人宛配給される35gのアタを持参した人たちは、ここで引き換えにナン(パン)を受け取るわけです。

DSC00063.jpg水道などは望むべくもないし、川もないこの地では、水をタンクローリー車で運んで来て、巨大な水タンクに貯水していました。この水の貯蔵庫には驚きました。それは、完全に布製のタンクなのでした。幅4メートル、長さ10メートルの袋状のタンクは、満タンの状態でパンパンになっていました。厚みは1メートル近くもあり、一体どれくらい入るのだろうと思ったのですが、聞きそびれてしまったのです。

PB140323.jpg多くの子供達が、われわれに群がり、ぼく達は一緒に写真を写しました。

DSC00075.jpg帰路、ヒンズークッシュの山並みが一番綺麗に見える場所で、それを背に、ぼくとイムランは、並んで写真を取りました。肩に腕を回すと、彼の二の腕がまるでマイクタイソンのそれのように太いので驚いたのでした。

高田直樹

アフガン難民支援レポート(7)

遥か彼方のヒンズークッシュの山並みを望みながら、ぼく達のランドクルーザーは、赤茶けた山肌の、急峻な斜面の大きく曲がりくねった道を、先導するトラックを追って、結構な猛スピードで走りくだってゆきます。
燃料にするのかあるいは家畜のえさか、小潅木を山のように背負った女性が歩いています。
「タリバーンは、女性の教育を認めなかったんだろ。コーランにはそう書いてあるの?」
「No!。回教は、たいへんフレキシブルな宗教なんです。」と、イムランは強く否定しました。
「ぼくは、男よりも女性の教育のほうがより重要だと思うよ。だって、基本的な性格形成は幼児期にされる。つまりほとんどすべてが母親の膝の上(On a laptopof the mather)で決定することになるわけでしょう」
「全く同感です」
等と話しているうちに、車は大きく開けた谷に出ました。

DSC00015.jpgさらにしばらく走ると、谷の左手の山側の広い扇状平原に、小さな建物が点点と広がって点在しているのが望めました。
それが、シャルマンキャンプで、もっと新しくかつ国境に近い難民キャンプなのだそうです。
看板にSERMAN Ger’s Campと書いてありました。ドイツのNGOがドナーとなっているようです。
数百をこえる、細長い黒色の石片が乱立する墓地の傍らを走り抜けると、金網で囲った区画が現れ、それがシャルマンキャンプの入り口でした。銃を持った警官が2人立っています。

DSC00012.jpg5人の管理官に迎えられ、イムランは、いつものように、They are a delegationfrom Japan. Mr.Takada is a owner of CreateJapan. とわれわれを紹介してゆきます。
いろいろな大きさのテントが、適当に建てたという感じで立っています。
大きな家型テントに入るとそこが事務所でした。
がらんとしたテントは、下には養生シートのようなものが敷いてありました。奥の方の右手に大きなデスクがあり、左手に木の肘掛け椅子が10脚ばかり壁に沿ってL字型に置いてありました。
このキャンプで働いているのは、すべてパキスタン人で、外国人はいません。倉庫。学校。診療所(BASIC HEALTH CENTER)。パン焼き場。石油貯蔵槽。貯水槽。などなどがあるそうです。
草木絶えたこの荒野では、当然水はなく、7台の給水車が遠くの村の井戸で汲んだ水を運んでくる。食料や燃料その他は、すべてペシャワールからトラックで輸送しているのだそうです。
普通なら、ここでお茶が出るところなのでしょうが、いまはラマザーン。すぐに学校を見に行くことにしました。

DSC00017.jpgでも彼らが最初に案内したのは、倉庫テントでした。
中で充分バスケットボールのゲームが出来るくらいの大きさのテントには、物資が並べてあります。
テントは、3棟が壁を接して並んでおり、最初のテントには、ストーブ、煙突などの暖防具。オイル用のポリタンク。ポリバケツなどもありました。
食料テントには、ダル(豆)、アタ(小麦粉)、ギー(食用油)などが、壁際に沿って、一応整理された形で積んであります。

PB140226.jpg最後のテントは、衣類などのテント。シートや、マット。靴や布団に毛布。古着などもありました。すべては、壁際に細々と積んであるという感じで、心配になったぼくは、サプライは充分なのかと尋ねてしまいました。問題はないとのことでした。

DSC00029.jpgテントの裏側には、大人子供を含めての長蛇の列が出来ています。石炭の配給を行っているのでした。小さな机に座った係官が、ノートに拇印を押させ、各自が持つ証明書のコードを書き写していました。
それは、昔ぼくが、遠征のキャラバンの終わりで、ポーターに賃金を支払っている情景と同じでした。列の割り込みのためにいさかいが起こる所までそっくりです。警官が飛んでいって制止していました。
この1万1千人の人々に、毎日毎日、35グラムのアタの配給を行うだけでも大変な作業と思えました。

PB140271.jpg次は、学校です。
学校は、午前中で終わったということで、生徒はいません。学校とはいってもそれは、20畳大のがらんどうのテントだけ。5人の女性の先生が現れ、ぼく達と挨拶を交わしました。

PB140274_1.jpg見渡す限り、砂利と砂の平原の中に、テントや泥でできた家が、不規則に点在し、ガールズスクールといっても、20畳大のテントが5張り立っているだけなのでした。中は、黒板がポールに立てかけられていますが、地面むき出してシートはありません。この中に50人ほどが座るのだそうです。

PB140280.jpg外には、シートで囲ったトイレとおぼしき物が2つ建っていました。

PB140281.jpg

PB140283.jpg冬がやってきたらどうなるのか。
少々肌寒さを覚えたのですが、すぐ隣に土塀で囲われた建物が建造中で、この学校は、後2週間で完成するそうです。
これも見に行くことにしました。昨日のアザヘールキャンプの学校よりは、しっかりしたもので、これなら冬の到来にも間にあうことでしょう。
遥か上方には、やはり数日で完成するというボーイズスクールが望めました。

続きはすぐに。
高田直樹

アフガン難民支援レポート(6)

14日。
約束通り、9時15分前に、イムラン運転の車が来ました。
ペシャワールの町の大通りの雑踏を抜けると、右手にカチャガリ難民キャンプが現れます。18年前の1984年、秀子を案内したのは、このキャンプでした。
あの時、道路左手にいくつも出来ていた、砲撃による巨大な窪みは、埋め立てられたのか跡形はありません。
このキャンプは、数万人もいた難民がほとんど帰郷したので、廃止になったそうで、街道沿いの家並みを残して、すべて取り壊され、まるで鋤で耕された田んぼのようになって、それが地平線まで広がっていました。

DSC00004.jpgしばらく走って、左折れするとそこに大きな北西辺境州アフガン難民局のビルがありました。

銃剣をつけた衛兵の立つ門をくぐり、車は玄関に向かいます。
大勢の人が出迎え、イムランは順番に抱擁の挨拶です。
進み出た儀典長に伴われて玄関を通ると、両側に立つ衛兵が、ターンと踵を踏み鳴らして敬礼したので、びっくりしました。階段を上り、廊下を通りながらも、イムランは駆け寄って挨拶する人々に答礼し大変です。
6年間ここに勤務していたんだよ、とイムランがいいました。
これは後で分かったことなのですが、なんと彼は、ここの前長官だったのです。
ぼくは見なかったのですが、岩橋によれば、長官室には歴代長官のリストがディスプレーされており、前長官が、ドクターイムラン、その前はあのグルザールだった。
(ムシャラフ−>)パルベイツ−>グルザール−>イムラン−>現長官という驚くべき凄いリンケージが、浮かび上がったことになる訳です。

PB140146.jpg長官室に入り、挨拶を交わし、恰幅のいい長官の説明を聞きました。
そばのイムランが、彼らは何度もブリーフィングをしているので、ほとんど了解済みだといいました。
ぼくは、昨日のアザヘールの難民キャンプ訪問の様子を話し、1969年の辺地教育調査隊の追憶を話しました。
イムランが、彼は実験室を作ったらどうかと考えているのだと紹介し、「ぼくはかつて化学の教師だったのです」というと、長官大いに頷き「それは全くいい考えだ」と同意を示しました。
先が長いのでと、イムランが辞去の意を告げ、約20分ほどで、ぼくたちは部屋を出ました。
DSC00006.jpg玄関では20人を超える人達の見送りを受けました。反対側には、着飾った5人の儀杖兵が一列に直立不動で立っており、岩橋がカメラを向けていました。
ここから、一人の制服警官が同乗しました。
北西辺境州に入るには、警官の同行が義務ずけられているのだそうです。
カイバル峠に向かって少し進むと、チェックポストがあり、ここでもう一人の警官が同行するようです。彼の乗るスペースはないので別の車がぼく達を先導することになりました。岩橋によれば、これは特別なことなのだそうです。

走り出してすぐ、ドクター・イムランは、「ここはもうトライバルエリアです。ここでは武器弾薬、麻薬など何でも手に入る。天国以外はすべて買えるのです」と言いました。
道は意外にすいていました。半年前は家財道具を積んでカブールに向かうトラックで渋滞状況だったんです、と岩橋が説明しました。
左手に大きな邸宅が現れ、小さな門から中にずらりと並ぶ高級外車が、一瞬見えました。麻薬御殿なのだそうです。
PB140205.jpgカブールに続く街道を右折れし、ジャムロードの集落を抜けて谷の道に入りました。九十九折れの道を登ります。そこここの山の上に望楼やお城(シャンガイフォート)が見え、それらはみんな昔、英国が作ったのだそうです。カイバル峠というポイントは特になく、この辺全体をそういうんだよと、イムランが説明しました。

PB140337_1.jpg10時40分、分水嶺の峠を越えると急に前が開け、遥か彼方に雪を頂いたヒンヅークッシュの山並みが、白い線のように左右に伸びていました。

続きはすぐに。
高田直樹

アフガン難民支援レポート(5)

この難民キャンプにきて、今から33年も前のあの「辺地教育調査隊」の経験が、急に生々しく蘇ってきたのです。このキャンプの様子は、あの時訪れたシンド、パンジャブ、スワットなどの僻地の村とあまり変わらないのです。
大きな違いは、ありました。果樹園や大きな樹木が一切ないことでしょうか。でも裸足で家から飛び出してくる子供たちは、30数年前のパキスタン国内と何も変わらなかったのです。
DSC00027.jpg
最初に案内された小学校は、言ってみれば大き目の家を学校にしたという感じです。くぐり戸みたいな門を抜けて中に入ると、中庭があり回りに小さな部屋があります。

DSC00011.jpgそれぞれの部屋が教室になっていて、30人ほどの少女が、清潔な淡い青色のシャルワルカミーズを着て、ござの上にぎっちりと座っています。
ぼくが、中をのぞくと一斉に立ち上がり直立不動の姿勢をとりました。
6歳の1年から6年生まで〆て10クラスあるのだそうです。

DSC00002.jpg一年生は、ウルドー語を勉強中で、まだ完全に聞き取れません。そばの教育担当コミッショナーが、パシュトーン語で通訳しますと言うので、ぼくは少しだけ挨拶しました。
こんにちは。皆さんとあえてうれしいです。がんぱって勉強してください。
と、これだけのウルドー語の挨拶なのですが、翻訳のパシュトーン語は、もっと長かったようで、なにやら付け加えて話されたようでした。
可愛い一年生の少女達は、真剣な顔つきで聞いていました。

PB130071.jpg6年生になると、英語を学び始めます。英語で話してやってくださいということなので、また少し話しました。
あまり聞き取れないようなので、ウルドー語に変えるとみんなニコニコしました。
でも、How do you think, English difficult?ときくと、みんな一斉に頷きました。

DSC00014.jpg学年二クラスというのもあるので、足らない分は、戸外のフライシートを張った下にシートを敷き、教室としています。
これは、難民キャンプの学校のイメージです。

DSC00020.jpg屋内のクラスは、辺地教育調査隊の時のイメージで、暗い部屋の中で、手に小さな黒板を持って石墨で字を書くのです。
大きな違いは、あの時、このようなガールスクールは存在しなかった。それに、こんなにぎっしり詰まってはいませんでした。

DSC00034.jpgこのあと、ボーイズスクールを見ました。基本的にはガールズスクールと変わりませんが、どうも身なりが、少女達のほうが、綺麗なような気がしました。

PB130052.jpgこの二つの学校を見ているときに、ドクターイムランが、彼らに必要なものは、実験室じゃないかなと、言ったのです。来る途中、ぼくはこんなことを話していました。
すべての物は、すでに各国のNGOによって支給されているような気がする。それ以外のもの、必要なもの、何か盲点になっているものがないものか。
ラボラトリー!。それはいい。ぼくは、実はかつて、化学の教師だったんだ。

PB130054.jpg鉛筆、紙、教科書などは、絶対に必要なものではある。でもそれが既に与えられる態勢が出来上がっているし、みんな使えばなくなるものでしょう。
君が言っていたように、残るもの長い効果のあるものがいい。イムランはそういったのです。
でも、付け加えて、小学校には、実験室と言う支出の枠はないそうなのだ。
高校ではあるのだが、これはパキスタン政府が支出することになっている。
難民支援は、各国のあるいはNGO団体のテリトリーが決まっているそうで、小学校はドイツ。中学校は、どことか。そして、高校は、パキスタン政府の管轄なのだそうです。

PB130115.jpgこの実験室のアイデアは大いに気に入りました。なにしろイメージが湧くのです。
薬学博士のイムランも同じなのでしょう。彼にに聞いてみると、一つの実験室は2000$位で出来るといいます。それなら、いくつも出来るではないか。
ぼくは、大乗り気になって、このアイデアを推し進めてくれるように言ったのです。

2時間足らずで視察は終わり、ぼくたちはパールコンチネンタルホテルでイムランと別れました。
彼は、明朝8:45にこのホテルに迎えに来ます。9:00から北西辺境州難民局に赴き、難民局長官とのブリーフィングを行わなければなりません。
その後、カブール方向に向かい、カイバル峠を越えて進みます。
国境近くの最も新しい難民キャンプを見に行く予定になっているそうです。その国境への最フロントの難民キャンプを見て、もしかしたらぼくの考えは、実験室から別のアイディアに変わるかもしれない。
そんな気もしています。

高田直樹

アフガン難民支援レポート(4)

3日間のイスラマバードが過ぎ、今日13日はペシャワールに向かう日です。
難民局からの車を待っていると、9時10分、白色のトヨタラントクルーザーが現れました。
ドクター・イムランが運転しています。
走り出してすぐ、後ろの席の秀子が、PB130004_1.jpg「あなたのような方に運転させて恐縮ですと言うのは、どういえばいいの、そう言って」というので、
「恐縮ですという心はどうなんやね」とぼく。
「ありがとうと感謝しているということかな」と、秀子。
岩橋が、「I am much appreciateですかね」
 イムランに聞こえる状況であまりぐだぐだ言っているのも問題だという気がしたので、
「Dr.Imran, She is very much thankful to your drive as such high status person as you.」

イムランは、アハハと笑い、グルザールと自分との関係は彼の部下というより、同族の友人みたいなものなんです。
彼の友人のパルベーツの依頼をきいて、彼がぼくに頼んだ。パルベーツの友人は、ぼくの友だちで、われわれは友達同士なんです。
難民局には、ドライバー付きの2台の車が用意されていたんだが、ぼくは自分が運転するからと言って、この車にしたんです。

彼は、スワット出身なのだそうです。ぼくは、1969年の「西パキスタンの旅」、カラチからスワットへのランドクルーザのドライブの話を語ったのです。
彼は、薬学を学び博士号を取ったそうで、その後イタリアに留学しています。聞いてみたらGulzar氏はペシャワール出身。そうするとパルベーツと同郷ということになる。みんなパシュトーンということになります。
もっとも、アフガン難民の仕事は、パシュトーン語が操れなければ、どうしようもないと言えるのでしょう。

イスラマからカイバル峠に続く、あの有名な歴史街道ペシャワール道路を北上を続けました。
ペシャワールに近づいた頃、ドクター・イムランは、突然、停車している2台の車の前に、停車しました。
出迎えの人たちでした。そこは、アザケール難民キャンプの入り口近くでした。出迎えたのは、このキャンプの教育担当のコミッショナーとそのスタッフたちです。5人で一人美人女性がいました。彼女は、5つある学校を巡回するまあ教育委員会主事と言うところでしょうか。

銃で武装した門衛をすぎて、キャンプに入ります。
キャンプは、街道沿いに延々と続いているようです。水は、道と反対側の川水を利用していると言います。
難民キャンプというと、なんとはなしにテントを連想してしまうのですが、どこにもテントなどはありません。泥や、泥の乾しレンガで作った家が延々と立ち並んでいます。このキャンプが出
来たのは1992年のことで、もう十年も経っているのです。
キャンプというより、村というほうがぴったりする感じなのです。でも、ビレッジではなくあくまでキャンプなのだそうです。

PB140154.jpg
両側の、泥の家の家並みを街道沿いの方向に南下してゆくと、商店街が現れます。
岩橋が、こりゃ全くカブールですよ。ここの写真をとって、カブールの町外れと言ったら誰も疑いませんよ。
考えてみれば、アフガン人がやってきて、村を作ったらアフガンの村と同じになってもなんの不思議もないのです。
ぼくといえば、1969年の「西パキスタンの旅」、ジープを使ってのあの記録映画「ハラハリ」(1969年制作) on YouTubeの経験を思い起こしていました。

高田直樹

アフガン難民支援レポート(3)

われわれが、行くことになった難民キャンプは、ペシャワールよりイスラマバード寄り30分のところにある、アザヘールキャンプと呼ばれる難民キャンプです。
彼らの説明では、他にももっと小さいのや新しいのがあるそうですが、ぼくがパルベイツとの相談の結果、援助の対象は教育関係に絞りたいということを強調しているので、そのためには大きくて少し古いものでないと教育関係への欲求がないようなのです。

明日9時発で、難民局が用意してくれる車でペシャワールに向かい、難民キャンプを見た後、そこにやってきたペシャワール地域のコミッショナーとのブリーフィングが行われる予定です。
ぼくは、すべては、見てから。お金は銀行振込に限る。8000$のお金は、今回渡すとは決めていない、と言明しますと、長官は「ノープロブレム。すべてはあなたの意のままに」と答えました。

このプロジェクトの発起人でありかつプロモーターの家内の秀子は、18年前の初訪問のパキスタンで、カイバル峠寄りのペシャワール難民キャンプやムジャヒディーンの野戦病院テントなどを訪れたことを話しました。
約一時間ほどのミーティングを終えて、ホテルへ戻るとボイスメッセージが入っており、カイバル峠行きのパーミッション用に、4人のパスポート番号が必要、ファックスして欲しいとの長官のメッセージが来ていました。そのキャンプへ案内することを考えたのでしょう。

DSC00033.jpgアフガンカーペット・イスラマバード支店へ表敬訪問。

DSC00099.jpgそれからナジールサビールの事務所へ。ここで、ラホールへのエアティケットとホテルの手配を、事務官のスルタンに依頼。
今日の予定は、終わりました。

ホンダのアコードに乗って、ずっとわれわれのドライバーを勤めてくれている、シャフィカーンの息子のアマンは、この夏ぼくがここを訪れたときは、アメリカ旅行中でした。
われわれが、帰った後にまたアメリカ・シカゴに行き、ロンドンに回るのだそうです。来年には来日し、我が家に来るのを楽しみにしているそうです。

岩橋の推薦のイタリアンレストランでの食事は、全く信じられないものでした。
キャンドルのテーブルや店の内装、雰囲気は、まるでヨーロッパにいるようです。パキスタン製のマリービールは、充分においしく、赤ワインはフランスワインです。これがまた美味しかった。値段は1250ルピー、2500円です。
ぼくが鶏、土田がピザ、秀子がスパゲッティ、アマンが肉などをメインに注文して、シェアしながら味わいましたが、かっこつけの日本のレストランなどと違って、極めて美味といえました。

お酒を楽しんだのはぼくとアマンで、接待主の彼は、酒の飲んだのは親父には絶対内緒にしてくれと真顔で言っていました。そんなことが父親シャフィ・カーンにばれでもしたら、昨日約束したというアコードからパジェロへの乗り換えに、追い金を出してやるという話が吹っ飛んでしまいます。
ところでカシミール出身の彼の情報によれば、カシミールのスキー場はすごくいいのだそうです。非常に安く100$で、一ヶ月過ごせるそうです。ただ、アプローチはインド側からに限られます。
近いうちに、カシミールスキー行を考えてもいいなと思いました。

もう一つ、付け加えます。
アマンのために持参したデルのラップトップは好評でした。
日本語システムを英語に置き換えるために、ソフトを買いに出かけたのですが、全くたまげてしまいました。
すべてのソフトCDが、40ルピーなのです。80円です。Windows2000やOffice2002、PhotoShopなど買いあさりぼくのとアマンのと〆て16枚で、1280円。これを日本で買うといくらになるか、岩橋に計算させたらなんと30万円くらいになるようです。

次回は、実際に現場に行ったことを報告することになるでしょう。

アフガン難民支援レポート(2)

今日は、アフガン難民局長官のサイード・アシフ・カーンの部屋で、いろいろの説明をするという昨日の約束通り、朝の10時に2台の迎えの車が現れました。
ぼくと、家内と、土田君は、バイクでこちらに向かっているという岩橋を待ち、すぐに出発しました。PB120105_1_1.jpgここでは、当方4人に相手方6人がミーティングを行いました。
でも、しゃべるのはほとんど、サイードで、ドクターイムランが時々口をはさむ程度でした。

一行を紹介します。
DSC00142.jpg 岩橋というのは、ぼくが教師を辞める直前の教え子で、コンピュータの弟子、大学にも行かず、パチプロの生活を続けていたのですが、昨年ぼくに拉致されイスラマバードで、英語とウルドー語の勉強をしています。
土田は、桂高校山岳部のリーダーでした。UNIXプログラマーで、ここ5年ほど香港で、香港新空港のベルトコンベア−システムのソフト構築にかかわっていたのですが、昨年帰国し今はぼくの仕事を手伝ってくれています。
家内の秀子は、この仕事の言いだしべえです。ぼくが、イタリアに滞在中メールが来て、「アフガン難民のために何かをしたいのだが、どう思いますか?」
それはいいことだ、ぜひやってくださいと答えを受けた彼女は、早速支援の呼びかけを行ったわけです。

サイード長官は、地図や統計のグラフなどを多用して、難民の推移変遷を分かりやすく説明してくれました。戦乱と政治情勢の変化によって、帰る難民があり、同時にやってくる難民があるということが、1980年代より繰り返されています。ただ、カルザイ政権より後は、明らかにその数が半減し150万人となっていました。

難民キャンプは、数万単位の大きなものがいくつもあり、小さなものは、各地に点在。イスラマバード郊外にもあります。その数は、数百に及びます。
アフガニスタンとの国境ラインに沿っての、難民キャンプが列状に存在し、これらは逃れてきた難民たちを、おもにNGOがキャンプを作って受け入れたために生まれたのだそうです。
9.11後の各国の援助では、USが最高で、ドイツがそれに次ぎ、日本は4番手位だったのは、少し意外でした。

アフガン難民支援レポート(1)

前略
またもやパキスタンに来ております。

当地は、今一番いい気候です。
暑くなく、寒くなくいい気分なのですが、ラマザーンなのが少々問題なのかもしれません。
DSC00104.jpgとはいえ、われわれ異教徒にとっては、何の関係もないのですが、みんなが空腹を我慢している前で、食べたり飲んだりするのは、やはり少々気になります。
夕方5時過ぎの断食開けの時刻が近づくにつれ、道路は家路を急ぐ車にあふれ、渋滞し、いらいらしたドライバーが怒鳴りあうという、普通のパキスタンにはないちょっと日本に似た情景が見られるようになります。

3日間のカラチ・シェラトン滞在の後、イスラマバードに飛び、マリオットホテルに入りました。
DSC00007.jpgさすが、カラチの十数年来の旧友パルベイツ・フセインのアレンジは、Mr.GULZARで、難民問題に16年かかわっているという人です。
すべてを彼に聞きなさいと、パルベイツが言っていた人です。
朝10時前に起きると、午前中に来てくださいというメーセージが入っていたので、シャフィカーンの車を呼ぼうとしていたら、GULZARの秘書とドライバーが、迎えに現れました。

番兵の立つ警戒厳重な区画の中にあるビルの入り口には、
Kashmir Affairs & Northern Areas and States and Frontier Regions
Division という看板がかかっています。
PB110081.jpgグルザール氏は、白髪で口ひげを蓄えた、なかなか素敵な紳士でした。難民の歴史をゆっくりした口調で、説明してくれました。こちらのことは、パルベイツから聞いて、よく知っているというので、特に詳しく説明はしませんでした。

この部屋に、2人のオフィサーが呼ばれ、紹介されました。
PB110082.jpg名刺:
Syed Asif Shah Chief Commissioner
Gavernment of Pakistan Kashmir Affiers, Northern Areas & States &
Frontier Regions Devision Chief Commissionerate of Afghan Refgees

Dr. Imran Khan Director
GOVERNMENT OF PAKISTAN
Chief Commissionerate for Afghan Refugees.

Mr.Syed は、Chief Commissoner ですから、アフガン難民局の長官と言うことになりましょうか。もう一方のDR.Imran、ドクターなのですが、何のドクターかは聞きませんでした。彼がぼくたちに同行してくれるのだそうです。

何枚かの記念写真を撮った後、部屋を辞去し、エレベータに向かって廊下を歩いているときに、岩橋が「あんな政府高官には、ちょっとしたNGOの代表でも絶対に会えませんよ」といい、さすがパルベーツの威力は、すごいネと感心したのでした。この国では人脈がないと何も進まない。昔から聞かされているようにThere is nothing impossible in this country. なのであります。
続きはすぐに。
高田直樹