アメリカ・ピッツバークに留学中の友人のS君を訪ねてから、東海岸のニューヨーク、西海岸のヨセミテへと巡った2005年秋のアメリカ旅行の記録です。当時友人に送ったメールから取りました。
S君は、かつて私が龍谷大学の非常勤講師として教育情報処理の講座を担当していた時の助手でした。その時、彼は大阪大学大学院で心理学を専攻しておりました。四国は土佐出身の彼は、坂本龍馬もこんな男だったのかもしれないと思わせるような快男子で、講義が終わった後は連日のように、私の会社に同行し、コンピュータをしたり酒を飲んだりしたものです。
その後、彼は警察庁のキャリアーとなり、某研究所の職員となります。この関係で、私は犯罪データベースを作ることになりました。
この旅行記は、帰国が近づいたピッツバーグのS君を訪ねたのを皮切りに、東海岸から西海岸へと飛んだ時のものです。
アメリカより(最終回)
一昨日に帰国しました。
帰りは、サンフランシスコ国際空港からダイレクト便で成田に飛び成田のトランジットとなります。1時間ほどで成田から国際線のサイパン行きに乗り継ぎ、名古屋空港で入国・帰国となります。
ノースウェストには、サンフランシスコ〜関空という路線がないため、こういう経路となりました。
今日の昼頃から、大学山岳部の山小舍建築20周年のパーティに、家内と信州に行く予定です。出発までに書き終えないと、帰ってからではおそらく無理。尻切れとんぼになってしまうと、気張って書き終えることにしました。
さて、ナパ谷の北端、カリストーガで保養の2日間を過ごして、今日はサクラメントに移動です。
普通に考えられるコースは、ナバ・バレーを南に下るのですが、そうはせずにさらにナパ・バレーをつめ、迂回してソノマ・バレーを下ることにしました。
カリストーガから北に向かうと、アレクサンダー・バレーをすぎます。200をこすワイナリーのあるナパに比べ、ここにはわずかに5つほどのワイナリーがあるだけです。
手始めに、そのうちの一つ、Hannaワイナリーに立ち寄りました。
赤白5種類のワインが、フリーで試飲できます。どのワイナリーにも、テイストルームと呼ばれる別棟があり、そこのバーでテイストが出来るようになっています。
メニューには、ワインの名前とボトルの価格が書いてあり、試飲して気に入ったら購入することになります。でも買わなくてもいいのですが、ただで飲んでなんにも買わないのは、なんとなく気が引けます。一番安い20ドルのソービニヨン・ブランを買いました。
ボトルの価格は、どこでもだいたい20〜50ドルです。ナバでは、試飲フリーのワイナリーがかなりの数ありますが、ソノマでは全くありませんでした。
試飲有料といってもこれまた申し合わせたように5ドルとなっています。
5〜8種類のワインを試飲すると、それはグラスワイン1杯以上の量。たったの5ドルで、結構上等のワイン各種が飲めるということになる。
そういう訳か、スピルト用の壷は置いてあっても、吐き出している人は全く見かけませんでした。
どのワイナリーにも10〜20台の車が止まっていましたが、カリストーガと同様、アメリカ車を見ることは極めてまれでした。BMW、ベンツ、トヨタ、ホンダ、レクサスなど。やっぱり富裕層が多いということでしょう。
ソノマは、ほとんど観光地化したナパに比べると、だいぶひなびた感じです。一軒のワイナリーで、5種類のワインを口に含む訳ですから、4・5軒も廻るともう何がなんだか分からなくなる。
それにワインのチャンポンは、酔いもよけいに回るみたいでした。
アレキサンダー谷を知ったのは収穫でしたが、一つの心残りはロシアンリバー谷に行けなかったこと。
この場所はあまり注目してなくて、通り過ぎたのですが、その後ソノマ街道脇のレストランでの昼食で、グラスで注文したロシアンリバーの赤、ピノ・ノワールが大変に美味しかったのです。
帰りの空港で、探しましたが、ロシアンリバーのものはどれもこれも高いものばかりで、買う気になれませんでした。ロシアンバレーは次回の目標になりました。
サクラメントは、カリフォルニアの州都。とても奇麗な町です。
まるで条里制のように、A〜Z、1〜30(?)と名のつく縦横道路のの四角形に区切られており、位置はつかみやすい。
でも、その道路が突如切れて、時には駐車場に突っ込んだりして面食らいます。
夜遅く着いて、ウロチョロしながら、L-ストリートの806にあるチャイニーズレストランを探しました。
翌日の朝、ピッツバークより飛んで来たS君をを空港でピックアップ。一緒に州庁舎を見に行きました。巨大な建物の前庭芝生の噴水のまわりでは、3組ほどの結婚式を終えたばかりのカップルが、記念撮影をああしたりこうしたりと、ポーズを変えながら飽きもせず繰り返しています。
庁舎内の約40近くもある各地方の展示や、シュワちゃんの執務室等を見てから外に出ると、もう1時間以上も経つのに、まだ撮影が続いていました。
「ええかげんにせんかい」とぼくがいうと、「何時間も続けるんですよ」とS君がいいました。
サクラメントからサンフランシスコへの移動の際、ルート80沿いの「アウトレット」に立ち寄りました。S君が奥方よりコーチのバッグを頼まれたというので。
ほんの20分ほどの予定が、なんと3時間になってしまいました。
最近では、日本の観光団も必ず立ち寄るのだそうです。
次々欲しいものがでてきて、おまけにジーンズはサイズ色とも潤沢、「リーバイス」などは日本の一本の値段で3・4本も買えてしまうのです。3本も買ってしまいました。それに「コーチ」のベルトも。サムソナイトのコンピュータバッグも。
「クラークス」ファンのぼくとしては、ついつい革靴も買い込んでしまった次第。
サンフランシスコでは、アルカトラス観光は「犯罪学をやるものとしては必見」、というS君に予約を頼んでいたのです。予想を超えて極めて面白かった。
最後の夕食は、フィッシャーマンワーフのレストランで取りました。
「マーケットプライス」表示のある、カニと伊勢エビを、初めて注文したのですが、サンフランシスコのカニなど、と馬鹿にしていたのは偏見だったと知ったのです。
翌日、S君の見送りを受け、サンフランシスコ空港を発ちました。彼の出迎え・見送りを受けたアメリカということになりました。
アメリカより(3)
ニューヨークからサンフランシスコまでは、ダイレクトには飛べずミネアポリスを経由します。
ノースウェストAirLineでは、すべての便はデトロイトとミネアポリスをハブ空港として使っているようです。アメリカでは航空網が、ちょうど東京の地下鉄のように張り巡らされており、A空港からB空港への経路は、いく通りも作れます。
乗り換えの1時間をいれて7時間ほどのフライトで、サンフランシスコ空港に到着。
ほぼ10年ぶりの空港は、びっくりするほど奇麗になっていました。
モノレールではなくて、二本の軌道にゴム車輪で走るエアトレインが新設されていました。これは2台連結の車両が駐車場とレンタカーセンターを循環する2系統がある。便利になったもんです。
レンターカーセンターに着くと、Avis, Hertz, Budget, Aramo、Nationalその他いくつものレンターカーの受付カウンターがずらりと約50メートルもの幅に連なっていました。
ニューヨークでインターネット予約を入れておいたアラモでチェックインを済ませ、隣のパーキングに行くと、受付のおっちゃんが、「いらっしゃい」と書類を受け取り、彼方を指差しながら「ほら、あの辺りの車ならどれでもいいから持ってって」
そこには、20台ほどのミッドクラスのSUV車(sport-utility vehicle)ばかりが並んでいます。
日本のRV車をセダンチックにした感じの車で、どれもが、Buick(ビュイック)かChevrolet(シボレー)の車です。
ピッツバーグで乗っていた車がシボレーだったというくらいで、あんまり判断基準のないまま、ビュイックを選びました(ボンネットを開けてみてV6の3500ccであることが分かった)。
なんとなく古巣に戻った気分で、ルート101を15分ばかり北上、Airport Bld.(エアポード通り)脇のホテルに入りました。
空気は清々しく、NYのように蒸し暑くもなく、全く快適。近くのレストランで食事をして戻り、玄関脇のベンチで月を愛でながら葉巻を吸いました。
カルフォルニアの法律では、公共の建物内では禁煙、建物外でも30フィート(8メートル)以内の喫煙はだめで、違反すると罰金が科せられる。だからホテル等では、入り口脇にベンチと灰皿を設けています。
サンフランシスコ到着後の計画は特になく、5日後にピッツバークの彼と、サクラメントの空港での合流が決まっているだけです。明日からの4日間をどうするか。
当初は、昔とどう変わったのかが知りたくて、長駆ロス往復(このコースではかつてスピン事故を経験)、ラスべガス往復等を考えていました。
でも切羽詰まって決めたのはヨセミテとカリストーガの各二泊。いずれもサンフランシスコからわずかの距離です。
カリストリーガというのは、今回思いついた場所で、前に行ったナパ・バレーの奥にある温泉保養地です。温泉といっても日本のそれとは大違い、日本でいえばクアハウスにあたります。
ここで、温水プールと温泉ジャグジーを楽しみ、ナパとソノマのワインをテーストして回る。
翌日、ヨセミテに向かいました。
国立公園入り口近くのロッジに投宿。キッチン付きでベランダのある部屋にしました。ベランダでは葉巻が吸えますから。
ベランダのテーブルに座り、月を眺めていると、轟々と鳴る下の谷川の瀬音は、なにか昔の黒部奥の廊下のキャンプを想い起こさせました。
突然、足下に小動物が現れました。猫にしては大きいなと、よく見ると洗い熊、ラスカル君です。
よくなれていて、ほとんどおびえるところがありません。テーブルに登りつこうとするので、食べていた焼きたてのポークステーキの一切れを与えると、器用に両手で挟んで食べました。
食べ終わると、両足で立ちあがって、両手を差し伸べ、もっとと催促している風です。何枚かの写真に収めました。
対岸の森から、渓流を渡ってやって来たらしい。どうやらお客に餌付けされているようなのです。なんだかワイルドな気分になりました。
翌日、ヨセミテ公園の中心部を車で回りました。公園入場料は20ドルで、1週間有効で自由に出入りできます。
渓流に沿う林の中の一方通行の2車線道路を走って行くと、エルキャピタンの大岸壁は、突如現れました。それは、山ではなく巨大な岩塊と思えました。
観光バスが止まっており、ツアー客の日本人グループが記念撮影をしています。双眼鏡でルートとおぼしきラインを追って行くと、クライマーの姿を捉えることが出来ました。3ルートに4パーティが取り付いていました。
ごく上部のテラスとおぼしきあたりには、テント型の赤色ツェルト2張りを認めることが出来ました。
昨年、シャモニーからメールドグラス氷河に登って、ドリューの西壁を見上げた時には、なにか登高欲みたいなものを感じました。そして若かったら登れたはずだ等と思ったものでした。ところが、ここでは、全然そんな気がしなかった。
どうしてなのかな、と考えましたがよく分からなかったのです。ハーフドームの方には、いくら探しても、クライマーの姿を見ることは出来ません。
キャンプ4でキャンプしていた日本のクライマーに訊ねたら、ハーフドームは一日中陽が当たらないのでとても寒く、もうシーズンは終わっているとのこと。
ここでキャンプするには、一日5ドルを払うだけでよく、バスで来ると公園入場料は不要です。彼らは、もう1ヶ月半も滞在して、あちこちのルートを登ったのだそうです。
「エルキャビタンは、何日かかるの」
「ルートに依りますが、3日から4日。1週間かかるところもあります」
「その間の食料、水もみんな運び上げないといけないね」
「そうです。重労働そのものですよ」
夏のシーズンには、多くの日本人クライマーがやってくるそうです。
日本では、若者登山者が激減していて、夏の劔等は閑散としていると聞き、心配していたのですが、日本の若者クライマーはこういう場所や海外の他の場所に行っているのかもしれないな。そう思って少し安心したのです。
ローストチキンとローストビーフ、赤ワイン等食べきれなかった食料を差し上げたら、「今夜はパーティが出来ます」と喜んでいました。気持ちのいい若者でした。
公園の中心あたりには、「アワニーホテル」という、高級なホテルがあります。アメリカ人が「一生に一度は泊まってみたい」と憧れるホテルだと聞いていたので、見物に出かけました。
なるほど、すべてが大きく重厚な作りです。調度もフロアの絨毯も立派なものでした。特に目についたのは、背丈以上の巨大な暖炉です。それがいくつもありました。これに火が入ったさまを見てみたい。ほんとにそう思いました。
ぼくのイメージでは、ヨセミテとはクライマーのキャンプがあって、そこでクライマーたちがボルダーリングに興じている。そういうイメージであって、観光客が群れているという感じではなかった。ヨセミテのサイクリングやハイキングあるいは乗馬等は思案の外だったので、大いに認識を改めさせられました。
ヨセミテを発つ日、ヨセミテ一帯では、発電所のリペアで送電が早朝からストップ。この停電は夕方の5時まで続くという話。早々に「ヨセミテ・ビュー・ロッジ」を後に、温泉の町カリストーガに向かいました。
カリストーガは、富裕層が訪れる保養地のようです。宿に止まっている車にアメリカ車はほとんどなく、ベンツ、ビーエム、トヨタ、ホンダがやたら目につきます。
ホテルを探して、この小さな町を回りました。「台所付きの部屋はあるか?」ときき、部屋を見てから値段を聞きます。
どれもこれも設備のわりには値段が高く、6軒めでようやく、思わしいところが見つかりました。2泊するからと値切って1割のディスカウントに成功。
宿泊客はほとんどが、中高年と老人です。
次の日のナパとソノマのワイナリーを巡る予定は、急遽変更することにしました。
夜に何度も脚がつり、これは血糖値が上昇している。ワイナリー巡りは、止めた方がいいと判断したからです。
ゆっくりと起きだし、プールサイドで読書を楽しみました。
このホテル、「カリストーガ・スパー・ホットスプリングス」は、かつてのサンフランシスコオリンピック時のプール跡に建てられたそうです。25メートルプール、円形のプール、直径15メートルの円形ジャグジーがあります。
宿泊客の男どもは、みんなワイナリー巡りに出かけたらしく、プールサイドには夫人たちと子供たちに占められていました。
夕刻、この地の名物の「マッドバス(泥風呂)」を試みることにしました。浴槽に入っている泥に身を沈めます。立ってはいけない。底は火傷するくらい熱いのです。
10分で終了、シャワーで泥を洗い流してから、小さな長方形のジャグジーに入る。少し硫黄泉のように濁っていますが、硫黄臭はなく、なめても酸味もありません。
それから、リラックスルルームでうつぶせに寝かされ、首に冷たいタオルが置かれ、15分間リラクゼイションを行いながら、熱気をさますという説明です。
こんなもんなら、日本の温泉の方がよほどいいと思いました。
その後、オプションで頼んでおいた1時間のオイルマッサージ。
日本では、「すごく気持ちいいのよ」と勧められてもいつも拒否していたマッサージを、外国でしてもらうことになりました。でもやはり、ぼくとしては、見ず知らずの女性に体中をなで回されるのは、あまり気持ちのいいものではなかった。初めてのオイルマッサージ体験はそういう結論になりました。
とてもヘルシーな一日を過ごし、明日はナパバレーを下りソノマへと、道の両側のワイナリーを適当に訪問しながら、サクラメントに向かいます。
アメリカより(2)
明日(10/9)サンフランシスコに移ります。US旅行報告(1)の続きですが、その前にパキスタン地震について。
ご存知の通り、パキスタンで大地震があったとのニュースがあったので、家内からの依頼もあり、早速お見舞いメールを出しました。
その返事がパキスタンの友人のナジールサビールから来ました。それによると被害状況は(既にニュースで報じられていますが);
イスラマバード:高層ビル一つだけ倒壊、300人被災。他は見たところ被害なし。
ラワルピンディ:学校の塀の倒壊により女子学生一人死亡、7人負傷。
地震の矛先は、アザッドカシミール、ジャンムカシミールなどカシミール州に向かったので、首都のムザファラバードの70%が倒壊、近隣の小村も被害を受けた。
死者の合計は伝えられるところでは、25000位。北西辺境州では、3000人が死亡。結局のところ死傷者3万から4万あるいはそれ以上で5万。家を失ったものは250万人と見られる。
彼は、復興は友好国の支援を得て全力で進められており、貴方のお見舞いと支援の申し出はこの悲劇に立ち向かう勇気を与えるものですと書いています。
私としては、アフガン難民支援の3度目のパキスタン行きを11月に考えていたところでした。あわせて地震の被災支援も考えないといけないと思っているところです。
(ナジールは、有名な登山家でエベレスト、カラコルムの八千メートル峰5座に登頂しています。私とは古い友人で、拙宅脇のアパートに長く逗留してコンピュータの勉強をしていたことがあります。そして帰国して直後、フンザから国会議員に立候補。ブット派の代議士になりました)
アメリカ報告に戻ります。
朝に地下鉄テロ予告のニュースが流れたのですが、あまり気にせずに、グラウンドゼロに行くことにしました。あのツウィン・タワーのあった場所です。
ぼくのいるところは、アッパー・ウェストサイドですから、南端のゼロポイントまでは結構距離があり、やはり地下鉄が便利。
地下鉄に乗りながら、「これでテロにあったら、けっこう笑い者になるかな」と、ちょっと思いましたけど。
乗り場の駅の入り口では、新聞売りが、一面にテロ予告の記事の乗った新聞を地面から高く積み上げていましたが、買う人は誰もいませんでした。車内の様子もいつもと変わりません。
もともと車内には、常設の赤色の掲示「地下鉄緊急避難のおしらせ」があり、そこには「地下鉄避難は度々はおこりません。でもおこった時のために乗客の皆様が準備をされるよう望みます。詳細はオンラインビデオmta.infoをご覧ください」などと書いてある。
乗換駅のチェンバース・ストリート駅では、階段ののぼり口にテーブルがしつらえられ、荷物チェックの構えはしてある。でも、男女で6人の警官が立っているだけで、そんなに目を光らせている訳でもないようでした。
日本では、テロ対策のためか公共の場所には、ゴミ箱が撤去されていることが多いのですが、地下鉄構内やプラットフォームにはどこにもたくさんの鉄製黒色円筒形の大きなゴミ箱がたくさん置いてある。ちょっと気になったりしました。
グラウンドゼロ(爆心地)見物を済ませ、そこからはからあまり遠くないグッゲンハイム美術館に行くことにしていました。そこにはモジリアニの「裸婦」があるということです。高校時代から大好きだったので、それを見に行こうと思い立った訳です。
それにこの美術館、毎金曜日の18:30分からは、普通は15ドルのところが任意料金となるとのこと。これはラッキーと少々時間をつぶすためにウィンドウ・ショッピングをしながら行ってみると、とんでもない混みようです。
9月1日からロシア絵画特別展覧会が開かれていたのです。何ドルでもいいのですが5ドルを払って入場しました。
モスクワから運ばれて来た250点以上の油絵が、グッゲンハイム美術館の螺旋状に6階まで登る回廊に、年代順にぎっしりとかけてある。それらのほとんどは、これまでにヨーロッパの各地で見た歴史的な名画とひけを取るものではなく、それ以上と思えるものもありました。
驚くばかりの精緻な描写で、まるでカラー写真以上とも思える油絵が並んでいます。ひょっとしたらヨーロッパの印象派等の絵描きなどは、これにはとてもかなわないと別の技法を生み出したのではないかなどと、突飛な邪推をしたくらいでした。
トルストイ、ドストイェフスキー、レーニンなどの見事なポートレイトもありました。
ところが、スターリンが現れる時期になると、一気に粗雑なと思える絵になるのは興味のあるところでした。歴史的記録として価値はあっても、芸術的価値はない。
スターリンが中央で少女から花束を受け握手しているパーティ会場とも思える巨大な絵は、まわりにいっぱい人が描かれており、幾人かの知ってる顔もありました。
その絵を見入っている時、後ろで「ニエット、なんとかかんとか」とロシア語が聞こえたので、振り返るとピンクのワンピースを着た大柄の夫人が立っていました。ぼくの顔を見て「あなた、フルシチョフがいるでしょ」というので、
「順に名前を教えてくれませんか」と頼みました。
「ほれ、そこにブハーリン、それからミコヤン...」
8時の閉館で追い出されてしまい、結局モジリアニには巡り会えませんでした。
しかし、近代美術館にもない初期(20歳代)のピカソも見れましたし、見たこともないセザンヌやモネーの絵、またアムステルダムのゴッホ美術館にもないゴッホやゴーギャン等もたくさんあったのです。
タクシーでセントラルパークを横切ってアパートに帰ると、8時半でした。
なにか上気した気分で、近くのスーパー「フェアウェイ」で買い求めたエビをアペタイザーにソノマの白、ソービニヨン・ブランを飲みました。
次の日、ニューヨーク最終日の夜は、ニューヨークシティオペラで「蝶々夫人」を観ました。これを観るためにニューヨーク出発の予定を、当初のスケジュールより一日遅らせたのですから、ニューヨークではこれが本命と言えました。
ところで、歌劇「蝶々夫人」には少々曰く因縁があるんです。
10年ほど前のことですが、私の還暦パーティがベニスでありました。
ほとんどが教え子の15人ほどの参加者は、有名なオペラ座「フェニーチェ」で蝶々夫人を観劇することになっていた。
ところが、日本出発の一ヶ月ほど前に、「フェニーチェ劇場」は焼失してしまい、ぼくたちは、ベニス郊外のテント公演での「蝶々夫人」を観たのでした。
消失したフェニーチェは大変惜しまれ、すぐに再建の動きが始まりました。世界的な基金が始まったので、ぼくたちもなにがしかのお金を寄付しました。
8年経ってフェニーチェは、見事に再建されました。しかし、すぐにオペラ公演は行われませんでした。
アコースティックは世界一といわれるフェニーチェ。1年間は、音のエージングのため、コンサートのみの公演だったのだそうです。
そして1年経ち、それは昨年11月のことなのですが、初めての歌劇公演が行われることになりました。演目は「椿姫」。この歌劇「椿姫」が初演されたのは、フェニーチェでしたから、曰く付きの演目設定といえます。この柿落としにはどうしても行きたくて、大変苦労した末、切符を手に入れることが出来たのでした。
ニューヨークシティオペラの「蝶々夫人」ですが、ついつい引き込まれてしまう出来だったと思います。プリマドンナの中国人Shu-Ying Liは、山東省の生まれで、アメリカ各地で「蝶々夫人」を演じており、NYシティオペラの日本公演で、日本に来たこともあるそうです。
フェニーチェの「蝶々夫人」とは、振り付けが大いに異なっていて、日本人役は着物を着ていてよりリアル、最後の自殺の場面もより迫力がありました。
オペラがはねて、外に出ると激しい雨が降っていました。タクシーがつかまりません。ようやく捕まえると、帰るのと方向が違うとかいって乗車拒否されたり、タクシーを追いかけて40分近くがたちました。距離が近すぎるのです。地下鉄の一駅間ですから。
結局かなり濡れそぼってから、地下鉄で帰宅したのでした。
アメリカより(1)
お元気でしょうか?
私は今アメリカを旅しています。
まだ旅半ばなのですが、てれてれと書いてみると、えらく長文になっています。
斜め読みなり、読み飛ばすなり、途中で止めるなりご随意にしてください。
1日に関空を発ち、デトロイト経由でピッツバークに入りました。
スーツケースにロックしていて、無断でロックを壊されても文句はいいません、というドキュメントをチェックインで見せられました。どうなってるんや。
入国審査で、指紋と顔の写真を撮られるとか、靴をX線に通すため、裸足になってチェックを通るとか、その他もろもろ以前のアメリカでは考えられないような腹立たしくも新鮮な経験をして、予定通りピッツバーグ着。
ここには、フルブライト留学をしている、ぼくの弟子がおり、彼の帰国が急遽早まった。それで帰国までに彼との仕事の打ち合わせをして置こう、また彼は仕事へのリハビリも必要だろうと思ったのが、今回の訪米のきっかけ。彼がレンタカーを借りて、迎えに来てくれていました。
ピッツバークは、ミシシッピー河の上手にあり、昔製鉄業で栄えました。五大湖周辺の町が凋落して行く中、ピッツバークは産業をメディカル(医薬品、医学)と学術に切り替え生き延びたのだそうです。
ビッツバーク大学やカーネギーメロン大学は、医学やITの中心となっています。
川に囲まれた落ち着いた町中を、彼の説明付きの市内観光しながら、夕食の食材を買い求めます。「TOKYO」という日本食材店は、まるで日本のスーパーと変わらぬあらゆるものが置いてありました。
明らかに東アメリカ文化圏に属すると分かる町並みは、なにかヨーロッパの下町を連想させます。ドイツ移民が多いのだそうです。
この町の落ち着きは、観光客が全く来ないという事情に依っているのではないかという気がしました。
インターネットで押さえてあったMariotto Residense Innなる台所付きの宿に到着。
安くはありませんが、システムキッチンには食器洗い機までついています。
ピッツバークで、特に行ったところといえば、すぐそばのフォート・ピット(FortPit)とアーミッシュの住む地域の二つだけでした。
Fort Pitは、アメリカ独立戦争前後の古戦場で、日本でいえば地形的には川中島という感じなのですが、歴史的には全然違います。土着のアメリカインディアン、フランス、イギリスの三つどもえの戦いがつづき、その栄枯盛衰は大変ドラマチックの様に思えました(資料館のビデオ等に依れば)。帰ったら調べたいと思っています。
一昨日、ピッツバーグからここニューヨークに移ってきました。ニューヨークでは、マンハッタンのアッパー・ウェストサイド地区の16階建てのアパートに入っています。
インターネット回線完備、DVD付きのToshibaのテレビもあったりの完璧の設備ですが、値段もびっくりするほど高い。ニューヨークでは、ホテル等はすべてひどく高価です。アパートは東京のホテルの2倍近くもするんですよ。でも、アパートで自炊すると、レストラン代はいりませんし、好きな美味しいものが食べられる。
ワンブロック横に、ガイドブックにも載っている「フェアウェイ・マーケット」があり、新鮮な食材が豊富にあるのを見てきました。夜10時に到着してすぐに。その夜は、ピッツバーグから持って来た冷凍したご飯のお茶漬けでしたけど。
昨日は、地下鉄で乗り間違えをしながら5番街へ行き、当地が思っていたより暑かったので、GAPで下着のランニングとシャツを買いました。持ってくるのを忘れたダンヒルのヘヤー・トニックの代用品も買いました。だいたい欧米人は、ヘヤー・トニックなるものを使わないようで、欧米何処でも購入は至難なんです(娘に頼んでも、どこの空港にも置いてないようなので、日本のインターネットサイトで注文しています)。
5番街からウィンドウショッピングをしながらタイムズスクエアまで歩き、地下鉄に乗ってイースト・リバー川向こうのブルックリンに行きました。そこで、有名な「ピーター・ルーガー・ステーキハウス」で、Tボーンステーキを食べます。
囲いのメニューでは”Steak for two”というのが冒頭にあり、以下for three, for fourと続いています。For twoを注文。
7時半からリンカーン・センターでのニューヨーク・フィルの演奏会に行く予定です、遅くならないようにボーイさんに、
「7時半には、リンカーンセンターに行かないといけませんので...」
「大丈夫ですよ。充分間に合います」
するとしばらくして、パンとナパワインとサンペレグリーノのミネラルウォターを運んで来た別のボーイが、
「貴方はシンガーですか?」と聞きます。
(え? シンガーだって。もしかしたらシングルの聞き間違えかしら?でも一人ではなく女性と来てる訳だし...?、まあどっちにしてもノーだ。と、考えてはたと気付きました。彼はぼくを歌手?と思ったようなのですよ)
「ノー、ノー。ぼくはニューヨークフィルを聞きに行くんです」
「ああそうですか。OK」
丁度同じ頃、カーネギーホールで加山雄三コンサートがあったので、日本人ということで、あのボーイ早とちりしたのかも。
あたふたとリンカーンセンターに駆けつけ、ぎりぎりセーフ。と思いきや、荷物チェックでカメラが見つかり、クロークに預けろといわれ、クロークに行くと「預け賃3ドル」。あほくさ、「じゃ止め」ともう一度バッグに隠し、別の入り口から再トライ、今度は通過できました。
でもこんなことをやっているうちに、時間が経過、入場を止められ、最初の演目「ラベルの高雅で感傷的なワルツ」は、待ち合いのロビーのTV画面で鑑賞する羽目になりました.
演奏会が終わり、真ん中に円形噴水のある正面広場の反対側にある「シティ・オペラハウス」を三脚を立てて撮影していたら、ガードマンが来て「許可証を持っているか?撮影は禁止だ」といいます。「ないよ。分かった分かった」と引き下がっておいて、リンカーンセンターの入り口側から取りました.傍にガードマンがいるのに、なんにもいわないんですよ。管轄が違うんでしょうね。
むかし、パキスタンで、空港、橋、港などでカメラを構えただけでポリスが飛んで来て、フィルムを抜き取られたのを思い出しました。
アパートまで、ブロードウェイ通りを歩きました。屋外にテーブルを出している店はないかかなと探しながら歩きました。スタバが一軒あったけれど屋外テーブルはありません。アパートのレセプションのお兄さんに聞くとマンハッタンでは喫煙は法律で全面禁止。シガーバーもないという。
「ブルックリンだと吸えるけれど、タクシーで往復したらえらく高いシガーになるね」と冗談を言われ、ムカムカしながら部屋に戻りました。
インターネットで調べると、ローアーマンハッタンに「Club Macanude」というシガークラブがあることが分かりました。電話をかけると1時半まで開いているそうです。
まだ10時ですから、タクシーを飛ばせますが、ドット疲れが出て、そのままふて寝してしまいました。
今朝目覚めると、テロの予告の記事を目にしました。娘と家内からの注意を促すメールも届いています。
でも地下鉄は安くて便利だし、ブッシュが支持率低下を食い止めようとテロ危機を演出している可能性もある。あんまり気にしていないのですが...。
最後までおつきあいありがとうございました。
数日後に、多分、またご報告します。
2005.10.16 朝
WooGoo Central Park 240 West 73rd Street 713号室にて
高田直樹