コーカサスの山と人<下>

コーカサス2★コーカスの山と人<下>
山に登る。そしてお別れ‥‥
通訳をしかる
 7月16日、荷上げ。一行は14人。私たち10人の日本人とニコライ、ギャナディ、それにインストラクターのボリス、1級アルピニストで、救急隊のスタス・ババスキンである。
 歩き出して10分と行かぬうちに、私は後悔した。「しまった。こんなもの持つんではなかったわい」
 荷分け係が、「隊長、サラミソーセージ10本とバターを2個、お願いできますか」なんだそれくらいと思ってOKしたのが間違い。現物を見て驚いた。
 サラミは、普通の倍近くの太さで、ミレーザックからはみ出すほど長かった。バターは、一つが食パンの倍くらいの大きさだったのだ。けれど、皆はもっと沢山持っているし、私より年寄もいるとあっては、とても不服などいえたものではない。
 半時間と行かぬうちに私は落伍した。どうせ今日は中間点にデポするだけ。ゆっくり行けばよい。そう思って、シヘリダ氷河の融水が濁流となって、たぎり流れるのをはるか左下に見ながら、私は針葉樹林の間を登って行った。
 突然、行手の樹の根元からニコライが立ち上がった。「荷物を持ちます」彼のザックはなかった。空身のギャナディに渡して、私を待ち受けていたらしい。
「ニェット、スパシーバ(いや結構)」
「持ちましょう」ニコライは繰り返し、私も「いやいらん。ワシが持つ」と繰り返した。
 私がこの彼の好意を受けるのをためらったのには、理由があった。「通訳はそれ以外の仕事はしなくてよい。通訳を完全にやれ」と彼をしかりつけたことがあったからだ。一昨日のこと。日本隊は、フランス隊と一緒にイトコールへ出かけた。イトコールホテルでは、ソ連山岳連盟副総裁を交じえて、レセプションが行なわれた。
 ここではっきりと分った。ニコライとフランス隊付の通訳とでは、全然態度が違うのだ。ニコライはこちらから催促しないと通訳しないで、タバコをふかしていたりした。
 向こうは本職でニコライはアルバイト、そういうことではない違いがある。これに気づいたとき、これは一言いっておかないといけないと思った。
「ニコライ、君の仕事は何なんや」「どうしてそんなこと開くのですか?」彼は少々気色ばんだ。「今日の君の通訳はまるでだめや。フランス隊を見てみ」
 すると彼はムッとして、「そんなことはないんです。去年にはそんなことは一回もいわれなかったんです」
「いいか、ニコライ。去年は去年、今年は今年や。お前は通訳やないか。お前一体何しに来たんや」私も少々頭に血がのぼってきた。
「ボクは、皆さんが山に登る手続きや、ルートの打合せを助けるんです。今日のようなのは何ですか! 何の意味もない。無意味なスピーチですね」

<ウシバ・コルより見たエルブルース山。下はシヘリダ氷河>エルブルース山 私は頭にきた。「無意味でも有意味でもお前の知ったことか! お前の仕事は通訳や。通訳というのは、オレたち10人の日本人の耳と口になることや。それだけを考えたらいい。それだけが仕事や。それがいやなら、サッサとモスクワへ帰ったら,ええやないか。お前なんか必要あらへん」
 ニコライはこしゃくにも真っ赤になって怒った。こぶしを振りながら、全く意味をなさない日本語をどなった。「ボクは、そんな、ぜんぜん、ないんです! どうしても、なぜ、あるんです!」
 私はモスクワ船での、日本語を喋るヒッピー風の若いアメリカ人とのケンカを思い出した。たしか、キリスト教とベトナム戦争が話題だった。それにしても、自国語でのケンカは、何と楽なんだろう。

 「骨はぼくが拾おう」

 次の日、私たちはジャーマン・ビバークと呼ばれるテント場へついた。基地よりちょうど8時間の所だ。
 シヘリダ氷河の源頭近くの山、ピーク・ヴェレヤの巨大なリッペが氷河に落ち込み、その末端は、大きく広がった氷河の中で、ちょうど島のようになっている。そこがジャーマン・ビバークだった。
 テントからは氷河をへだてて、シュロスキー峰(4260m)とシヘリダ峰(4300m)が、眉に迫るぼかりにそびえ立っている。
 もともと、私たちはチャティン・タウの北壁を目指して、この国にやって来たのだった。チャティンは、昨年の日本隊も失敗している。そしてこの壁は、1965年の初登以来、第二登はされていない、と聞いていた。
 隊員たちは、今年こそはチャティンの第二登を……と意気ごんでいた。10名という、カフカズ隊始まって以来の大パーティとなったのも、スムーズに抜けても最低10日間は要するという、この六級ルートに対応したものであった。
 ところが、基地でよく調べてみたら、この「第二登はされていない」というのは、全くの間違いであった。
 チャティンは止めにすることになった。第10登以上もされている壁を、命をかけて登るのはどうも割に合わない、ということになった。私たちはシュロスキー峰に向かったわけだ。
 シュロスキーから戻ると、さすがに皆ぐったりしていたが、数日のうちに回復するにつれ、次の山が話題となった。そして、いったんは、完全にあきらめるというか、無視することになっていたはずのチャティンが、再びよみがえってきた。
<我々の登ったシュロスキー峰>
シュロフスキー峰 それほどこの壁は、若い隊員の思いものとなっていたらしい。「どうした、おめえたち。ようし、ひとつやってみろ。おめえたちの死にざまはおれが見とどける」と、登攣隊長の田中さんはあおった。私も、少々ワルのり気味だと思いつつ、あとにこう続けた。「田中さんが死にざまを見とどける。骨はぼくが拾おう」
 若い連中は、かっかと燃えに燃えた。しかし、よく考えてみれば、チャティンを狙うには、少々日数が心配だった。うまくいってぎりぎり間に合うかどうか。きわどいところだろう。
 ソ連では、出発に先立って、登山基地で登山届を提出する。そこには、帰着時間を明確に記入してサインしなければならない。もし遅れた場合には、自動的に救助隊が出動することになる。
 最初から登る気のない年寄たちは、比較的冷静さを保っていたから「どうも日数的に無理のようだ」と思ってはいた。しかし、一途に命がけのアタックを目指している者に、水をさすようなことをいうのは、なんとなく気がひけるので黙っていたのだ、と後になって語った。
 私はできることたら、登ってほしいと思った。それには方法は一つ。下山日程の変更をボリスかババスキンに伝えさせることだ。
 私は誰にもいわずに、ボリスとニコライのテントに出かけた。

割れ目に落ちるなら

「ドーブリェディン(今日は)」、ボリスは威勢よく私をテントに招き入れた。私はボリスにいった。
 チャティンに行くことになった。下山が遅れるかも知れない。前もって連絡をとれば問題はないと思うのだが、どうか。「一昨日、基地に下ったとき、基地の教官たちは、皆さんが下山予定日までに帰るよう、強く望んでいました」とボリス。
 チャティンは普通8日間かかるといわれているが…‥。「そうです。それは条件次第です。ある隊は7日間、別の隊で12日間かかっているのもあります」なんだか、つきはなされた感じである。今年の壁の条件は? と聞くと「今年はまだ誰も登っていないから分らないんです」まさに答は明快そのものである。「もし壁の条件が悪かったとしたら、日数がオーバーすることも考えられる。そのときには事前に、下山日の延期を連絡すればよいと思うのだが、そうしてもよいか」私はくい下がると、ポリスはいったー「それを決めるのはあなたでしょう」
 このとき私は思った。そうか、ボリスは日本人ではなかったんだ‥…と。そして、こういう点の明快さが、私たち日本人には欠けている。そう考えながらテントへ戻った。
 そして「日数のほうは大丈夫なんですか」と田中さんに聞いた。彼は「ええ」とうなずいて、指折り数えていたが、そのうち「あれェー」と甲高い声をあげた。「足らねえや、こりや」
 ミーティングの結果、チャティンは中止となり、シヘリダの全員登頂を目指すことに、皆の意見が一致した。

 3日かかってシヘリダを登り、4日目の7月28日午前中に、テントに帰りついた。ボリスとババスキンは、私たちの無事帰着を見とどけたので、一足前にこれからすぐ下山するという。
 そこで、ここで″ジョニ赤″で乾杯することにした。これは荷上げのときから、ボリスが目をつけていたものなのだ。ボリスもババスキンも、ウオツカ流に一気にあおるので、二回乾杯したらもう空だった。
 ボリスが「ジョニ赤で酔っぱらって、私は氷の割れ目に落ちそうです」といったので、「割れ目にも色々あるが、氷の割れ目はいやだね」と返した。すると直ちにボリスは、「いい割れ目なら70歳になっても落ちたいが、氷の割れ目はいやだなあー」

ピッケルを打て!

 テントをたたんで、基地に帰りついたとき、何となく常ならぬ雰囲気を感じた。しばらくして、3日前にアクシデントが起こり、2名が死んだことを知った。
 そのうちの一人が、国際級スポーツマスターであったことが、事件をより深刻にしているようであった。ニコライ・マーシェンカ(37)。国際級スポーツマスター。数多くの六級ルート開拓者。ヨーロッパ・アルプスにも遠征しているベテラン。その彼が、こともあろうにII級の山で死ぬとは……。
 マーシェンカは、5名の講習生を連れて、II級のピーク・モンゴリアンに向かった。
 彼がクーロアールを登っているとき、大きな氷のブロックが落下してきた。ブロックは先頭のマーシェンカのすぐ前で砕け散り、彼と二番目の女性アルピニストに命中した。
 マーシェンカが息を引きとるまでには、数分間を要した。彼が最後にいった言葉は、「ピッケルを打て!」であった。……これがニコライの伝えた、アクシデントのあらましである。
 私は感じた疑問を、すぐアナトリ−にぶつけてみた。
 国際級スポーツマスターが、II級ルートで死ぬなんていうのは、おかしいではないか。彼にはミステークがあったのではないか。
「彼は氷の破片が耳の後ろに当たったから死んだので、彼の過失ではない」(話がかみ合わない)
 しかし、おかしいではないか。国際級スポーツマスターともなれば、氷の破片などは避けられねばならないのではないか。あるいは、そういう危険を予知して、そのルートは避けるべきではなかったのか。それを怠ったのは彼の過失ではないのか。
「そんなことができるのは神様だけだ。山での死は誰にも避けられないことだ。だからわれわれは、アルピニストのカテゴリー(グレード制度)を作ったのだし、君も私も常にトレーニングして、技術をみがいているのではないか」
 その夜、ボリス、ニコライの招きで、私は二人と共にウォッカで無事を祝った。
 そのとき、私はふと思いついて、今日のアナトリーにしたと同じ質問を、ボリスにやってみた。ニコライの通訳を半ばでさえぎって、ポリスは早口で答えた。ニコライは、彼独特の口調で通訳した。
「ボリスさんはいいました。それは、アルピニズムのネ、あの、宿命なんですって……」
 三人ともかなりしたたかに飲んだ。「もう夜がふけたから、オカアチャンにしかられないうちに……」とボリスが引きあげると、ニコライがいった。
「タカダさん。ボリスさんは割れ目に落ちますネ。ピッケルを打て!ですね」

お別れパーティ

 私たちがモスクワに帰る前の夜、基地では〈お別れパーティ〉が盛大に行なわれた。
 もうすっかり顔なじみになったスポーツマスターたち、それに今初めて会うというキャンプ長やそのほかのお偉方も出席した。
 例によってテーブルスピーチが始まる。ロシア人は本当に演説好きだ。
 私はロシア語でスピーチした。この日の夕刻から懸命に練習にはげんでいた。原稿はこっちで作り、それをニコライとギャナディにロシア語に直してもらい、カタカナでノートに記した。「よく分ります。選挙の演説みたい」とニコライはいった。パーティではこのスピーチを、ニコライが日本語に通訳することに決めた。
「ウヴァジャーエムイエ、ドルジャー、イ、タヴァーリシチー(尊敬する同志友人諸君)」
 これはスピーチの決まり文句。
「アト、イーメニ、ナシェイ、エクスペジーツィー、ヤ、イメーユチェスチ、ペダレーチヴァム、セルジュチヌイ、プリヴェト(ここに皆さまにあいさつの機会を得たことを光栄に存じます)」
 私たち10名のアルピニストは、はるか東の国、日本からやって参りました。私たちをお招きくださったことを大変喜んでおります。私たちは皆さんのご援助のおかげで、シュロスキーとシヘリダの頂上を踏むことができました。これは私たちにとって、忘れられない思い出となるでしょう。しかし、それ以上に私たちの心に残ることは、皆さん方の暖かい友情と手厚いもてなしであります。私たちはこの思い出を大切に持ち帰り、日本の人たちに伝えるでしょう。皆さん、本当に有難う。(拍手)
 このスピーチをすましたら、なんだかもうすべて済んだような気持ちになった。
 プレゼントの交換がすんで乾杯。白髪の教育部長が立って、「私は普段は全くお酒を飲みませんが、今日は大いに飲みたい」とスピーチした。
 副隊長の西さんが尺八で〈トロイカ〉を奏し、大喝采を浴びた。
 アーリャが私に、小さな紙切れを手渡した。赤いボールペンで、ぎっしりとロシア文字が書いてある。ニコライに見せると「またこの素晴らしいコーカサスに来てほしい」という詩であるという。
 アーリャ。電気技師。二つの大学を出ていて、夏休みだけここの仕事を手伝っている。
 私たちは基地についてすぐ親しくなった。彼女はドイツ語しかしゃべれず困ったが、とにかく何となく気が合った(誌面がないので詳しく書けないのが残念である)。
 パーティに疲れていた私は、彼女にささやいた。「ヤ、ハチュー、スヴァニ、パグリャチ(私はあなたと散歩したい)」
 アーリャは「ダーダー」とうなずき、私たちは外に出た。樹の間からもれる月の光がきれいだった。私はアーリャの肩を抱いて歩いた。
 シャンペンとブランデーとウォッカでほてった頬に、冷たい空気が心地よかった。ベンチに座るとコーカサスの月は青くさえ返った。
 彼女は寒いといった。ヒザ小僧にふれてみると、本当に氷のように冷たかった。私は背広をぬいでかけてやった。

 8月3日、8時30分。私たちカフカズ遠征隊はモスクワを離れた。ニコライはギャナディと共に、タラップの下まで見送ってくれた。  ジェット機は白夜の空にのぼり、東を目指して飛び続けた。 (おわり)

コーカサスの山と人<上>

コーカサスタイトル1★コーカスの山と人<上> モスクワからエルブルースへ
モスクワにつく
コーカサスへ地図1971年7月10日午後、私たち10人の第2次RCC遠征隊は、モスクワ郊外のドーモチェドモ空港に降り立った。横浜を出てから三日目だ。
私たちを出迎えたのは、スコロフ、ギャナディ、ニコライの三人のソ連人。スコロフとギャナディは、私たちを招待した「プロスポルト国際部」のスタッフである。ニコライは、モスクワ大学極東語科の四年生で、日本語専攻。私たちの通訳をやることになっている。ニコライは開口一番、「タカダさん、男は黙ってサッポロビールですね」これには全く、あっけにとられてしまった。
しかし、とにかく日本を出れぼ、言葉で優越されることは、すべてに負けることを意味する。桑原武夫氏は、チョゴリザ遠征のとき、フランス語の少しでも分る相手には、徹底してフランス語で通し、苦手の英語は使わなかったと述べている。
「お前それ、どこで覚えたんや」180センチをはるかにこえている彼を見上げて、私はいったが、「週刊誌で読みました」とすましたものである。
ここ何日間か、外国人とのコミュニケーションに、苦痛を感じていた隊員たちは、ワッとばかりに彼を取り囲んだ。
ギャナディは、ドイツ語の方で英語はダメだが、スコロフはかなりうまい。「アイアム、スコロフさん」と自己紹介してから、ペラペラとまくし立て、どこで知ったのか、東京のトルコ娘やアルサロなどの話題に、話を落とした。人の意表をつく、たくみな話の展開だ。そして、「近々に東京に行くからよろしくたのむ」などとふざけた。
これは明らかに、初対面の相手よりも心理的に優位に立とうという、一つのテクニックだ。こういうときには、最初の数分間で、勝負が決まる。
「よし分った」と、私はいった。「君の希望がかなえられるかどうかは、君の私たちに対する接待いかんによって決まるだろう」
キングス・イングリッシュでもパキスタン英語でも、相手に分ろうと分るまいと、いっこうに構わない。とにかく負けずにべラベラと、相手がへきえきするぐらいに、やり返しておくことにした。
ホテルについてからのことなのだが、レセプションのあとで食事をしながら、「ところで、君はどのスポーツが専攻なのか」と、私は尋ねた。プロスポルトの職員ならスポーツ関係だろうと思ったのだ。
諸君、彼は何と答えたと思います? 彼は間髪入れず、「オフコース、ファッキング」
いやまいったまいった。さすがは、国際部のスタッフだけのことはある。私はひそかに、脱帽せざるをえなかった。

プロスポルトの招待

私たち専用の、迎えのバスに乗り込むとき、ほかの日本人旅行者の視線を感じて、またしても、後ろめたいような気持になる。彼らは本当に、何時間待たされることやら……。
ナホトカの通関でも、ハバロフスクまでの汽車の食堂でも、そのほかなんでも私たちはすべて最優先。何事につけても、大陸的でラフなソ連インツーリストの態度に、イライラしている日本人旅行者から、「この人たちは特別なんですよ」などという、聞こえよがしのささやきを、何度も聞いたものだ。
確かに、私たちは特別扱いであった。
かいつまんで、説明してみよう。
ソ連に「プロスポルト」と呼ばれる組織がある。これは、プロフサユース・ヌイ・スポルトの略で、「全ソ労働者スポーツ評議会」のことである。会員数5000万、ソ連最大のスポーツ組織である、といわれる。
「プロスポルト国際部」の事務所は、クレムリンの近くにある。その仕事は、スポーツによる国際親善の促進にあり、世界各国と選手交換の協定を結んでいる。世界中より集まる各種スポーツの選手のために、モスクワには、ブロスポルト直営の大きなホテル(スプートニク)がある。
さて、選手交換協定の骨子は、選手人数日数などがバランスするように相互に選手を交換し、その費用はお互いに持ち合う、という内容のものである。
この協定を結ぶに当たって、日本の窓口となっているのは、総評であり、その主宰する「労働者スポーツ協会」である。そして、この「労働者スポーツ協会」の設立当時から、第2次RCCの同人が、その登山部門の育成に協力してきたこともあって、この協定による登山は、第2次RCC中央アジア委員会にまかされてきた。
私たちは、この1966年に始まる、一連のカフカズ遠征の第五回目に当たるわけだ。
こういうわけで、私たちの交通費、滞在費その他一切の費用はソ連側が持ち、おまけに1人1日2.5ルーブル(邦貨1000円)の小遣いまで支給されることになっている。
と、こう書けば「なんとまあ結構な」ということになるが、この世の中に、余りに結構な話なんぞはないのが普通だ。私たちは総評に、一人20万円を払い込まねばならない。これがプールされて、プロスポルトが派遣した選手の、接待費用となるわけだ。
それにしても、期間一カ月で20万というのは安い。支給される小遣いをバランスすれば17万となる。例えば、日ソツーリスト・ビューローが主催するツアーの一つをとってみても、「夏休み14日間」の旅が17万9000円なのだから、私たちはやはり特別らしいのである。〉

二つの真実

私がソ連に出かけることを知って、知人友人が、いろいろのアドバイスをしてくれた。1969年の「レーニン生誕青年祭」に招かれ、『パミールの短い夏』(朝日新聞社)を書いた、作家の安川さんは、「これ読んどくと参考になるよ」と、一冊の本を貸してくださった。
『誰も書かなかったソ連』であった。「大宅壮一ノンフィクション賞・受賞! 滞在三カ年の主婦が体験をもとに克明に綴った”裏側のソ連”」という帯がかかっていた。その中に、こんなところがあった

−− こういうわけで、部品の盗難があとをたたない。モスクワの町で、急に雨が降りはじめると、どの道路でも、タクシーが急に車をわきに寄せて一時停車する。ワイパーをとりつけるためだ。普段は、とられないよう車の中にしまっておいて、必要なときだけとりつける。私たちも、一年三ケ月の間に三回もワイパーをとられ、その後は駐車するたびに、いちいちはづして車内にしまったものだ。一度だけ、モスクワでレンターカーに乗ったときも、手続きの書類にサインするさい、係り員から、車をとめるときは必ずワイパーをはずして、しまってくださいと念を押された −−
空港からホテルへ向かうバスの中で、私はふと、ここのところを思い出して、すれちがう車に、ワイパーがあるかどうか、調べることにした。
そのとき、正確に、一分間に一〇台の車がすれちがったが、そのどれにもワイパーがあった。ホテル・スプートニクの前に停まっている、十数台の車も全部、ワイパーをつけていた。あの本の中味はアヤシイ、という気がした。
ところが、コーカサスから帰って来て、また同じホテルに泊まったので、気をつけて見たら、ワイパーのない車はいくらでもあった。私は少なからず驚いた。なにしろ、ソ連に入国して、一カ月近くなって初めて、ワイパーのない車を見たのだから。そこでまた、バスに乗ったとき、前と同じようにすれちがう一〇台を調べた。なんと、一〇台のうち八台までが、ワイパーなしだったのだ。
これを一体どう解釈したらよいのだろう。もし私が、ソ連を通過するだけの旅行者だったら、ソ連の車にワイパーがないというのはウソだ、と思い込んだかも知れない。ところで、やはりワイパーのない車もあったのだから、「ソ連の車にはワイパーがある」といいきることもできないだろう。
私がコーカサスへの、行きと帰りに見た、全く反対と思える二つの事実は、決して矛盾するものではなく、二つの真実といえるだろう。つまり、旅の見聞というものは、常に一面的でしかないのだ。たとえそれが、三年間の見聞であっても、一面的であることにかわりはない。
要するに私たちは、こういう事実の一面性の認識と、二つの真実的発想で、情報に対処すべきなのだろう。
私が今、書いているものもまた、そういう意味の真実のスケッチと考えてほしい。

ロシアの”殺人学校”

世界地図を見てほしい。ユーラシア大陸の左の方に、黒海とカスピ海が見える。この二つをつなぐようにして延びるのが、エルブルース山(5633m)を盟主とする、カフカズ山脈だ。コーカサスというのはこの英語読みである。
モスクワから南下すること二時間半ばかり、快適なジェットフライトで、ミネラル・ウォーター空港につく。この付近は、本当に炭酸水がわいている。
さらに南へ、今度は自動車で走ること一時間、ピャチゴルスクの町を過ぎる。山の見える美しい町だ。ピャチゴルスクとは″五つの山の町″という意味である。ここのドライブインで昼食をとり、ウォッカをあおる。ドライブインといっても、この国では、町立レストランなのである。
さらに四時間のドライブのすえ、私たち10人とニコライにギャナディの一行は、ようやくカフカズ山域の登山基地の一つ〈エルブルース〉についた。
登山基地エルブルース。徳沢園あたりを想像願いたい。もちろん、スケールはもう少し大きい。二十数棟の建物が、林間に点在している。
<食堂前で打ち合わせをするインストラクター>
ロシア登山学校
食堂棟の二階は、放送塔になっており、レーニンの肖像がかかっている。その前の広場をはさんで、反対側の棟の二階の手すりには、赤い看板に白字で「第○回党大会のスローガンを実現しよう」とある。多くの宿泊棟のほかに、集会棟、診察棟、食糧庫、装備庫などがある。また、入門アルピニストの宿泊用に、15張の大きな家型テントが並んでいた。
私たちが入ったのは、ある宿泊棟の二階で、一部屋に五つのベッドが入れてあった。まだほとんど、その必要を感じなかったが、スチームが入っており、地域暖房システムらしく、ボイラー棟は歩いて5分の所にあった。ボイラー棟には大きなシャワー室があった。そこまで歩いて行く途中には、吊り輪、鉄棒などのあるトレーニングコーナー、バスケットコート、バレーコート、それに50mプールなどがあった。
樹々の間をぬう小道を行き交う男女のアルピニストたちは、トレパン、トレシャツであり、男の場合上半身はだか、女のビキニ姿も珍しくはなかった。この人たちで、歩いているものはほとんどなく、みんな小走りか、あるいは疾走していた。それはむしろ、陸上競技選手の合宿といった感じであった。
朝7時、ドラの音と共に、各棟のアルピニストはいっせいに、朝もやのただよう林間へ走り出る。
まるく輪になって体操するグループ、一人で黙々と走る若者、あるいは、もう40歳に近いスポーツマスター、彼はヒラリと吊り輪に飛びつくと、いとも簡単に倒立、そして十字懸垂、全くこれは、もう体操選手だ。そのそばでは、上半身はだかの男共が十数人、腕を大きく斜めに広げて、胸筋を延ばすソ連独特の体操をやっている。
<モレーンを行く女性アルピニスト>
cut2-1.jpg 私たちは、ただあ然として見守るばかりだったが、そのうち誰かがいった。「殺人学校みたいじゃんか」本当に、これは007シリーズのロシアの殺人学校みたいだった。
私たちの介添役として、ベースキャンプまでの同行が予定されているインストラクターのボリスが、プールでぬき手をきりながら、「タカダさん」と大声で呼んだ。私も大声で「ズドラーストヴィッチェ(おはよう)」と答えると、彼は一緒に泳げと手招きしながら、「ハラショー(快適だ)」と二度繰り返した。あとで水温を計ってみたら、摂氏11度。午後になっても14度だった。

「彼を説得します」

もうよく知られていることだが、ソ連の登山は国家によって体系づけられており、アルピニストのグレード化が行なわれている。
ソ連のアルピニストは、次のように分けられる一。入門アルピニスト、初級、III級、II級、I級アルピニスト、スポーツマスター候補、スポーツマスター、国際級スポーツマスター、この八段階である。
入門アルピニストという資格は、実際にはなく、初級アルピニストを目指す人を、そう呼んでいるようだ。ソ連のアルピニストは、誰でも、スポーツマスターを目指して精進している。
「そんなことはどうでもいいのだ。自分は山が好きなんだ。自分の好きなように山に登る」日本の山登りをする人を代表する、こういう考えの人は、ソ連ではツーリストと呼ばれる。ツーリストは、クライミングはII級ルートまで、あるいは氷河から氷河の峠越えが許可される。
ソ連の基準からいえば、日本で山登りをやる人の九割までは、ツーリストになってしまうだろう。
このカフカズ山域には、20近くの登山基地があるが、ここはウクライナ共和国の管理で、ウクライナ共和国の人は、宿泊その他無料なのである。
基地〈エルブルース〉の登山学校には、30人のインストラクターがおり、そのうち15名(うち4名が女性)がスポーツマスターである。
アナトリー氏は、インストラクターの一人である。1級アルピニスト、43歳、1956年に山登りを始め、58年III級アルピニスト、60年II級、66年1級アルピニストとなる。彼の妻は、彼より二つ年下で、スポーツマスターである。二人とも非常に若々しく、30を過ぎたくらいにしか見えない。「君もスポーツマスターを目指しているのか」私が聞いたら、独特のとつとつとした英語で、「私はもう年だ。とても無理だろう」と答えた。ウォッカも「スポーツマンに酒は禁物だ」と少ししか飲まなかった。
一度生徒にインタビューしてみようと思ったが、英語の分るようなのはいないから、ニコライ君の力を借りることになる。「女の子と話をするから、ニコライ通訳してくれ」といったら、「タカダさんのあいびきの手助けはできません」と答えたので、「バカモン」とどなった。
タマラ(20)一 可愛い、色白の娘である。初級アルピニスト。ウクライナ共和国のジャパロージャという町から来た。18の妹との二人姉妹。工場で働きながら、専門学校へ通っている。3年前から山登りを始めた。それまでは、12歳のときからフェンシングをやっていた。ジャバロージャ山岳会に入っており、1週間に3回、郊外の岩場で練習している。この6年ぐらいで、1級アルピニストになるつもりだ、と語った。結婚しても山登りは続ける、という。
私は聞いた。「もしあなたに本当に好きな男ができたとする。その男は山へは登らない。山は危険だと思っている」タマラは眼をキラキラさせて、ニコライの通訳にうなずく。私は続けた。「その男があなたにいったとする。僕と結婚するつもりなら、山は止めてほしい。山をとるか、僕を選ぶか」
タマラはしばらく考えていたが、やがてきっぱりといった。「彼を説得します」
部屋に帰ってこの話をしていたら、隊員の武藤君が、嘆息混じりにいった。「さすがにソ連の女性、解放されてますネー」 (つづく)

コーカサスの山と人の紹介・説明

「コーカサスの山と人」<上><下>
           
『なんで山登るねん』に〈三十なかば変身のきっかけはコーカサスのショック〉という章があります。
 1965年、京都山岳連盟カラコルム登山隊の最年少隊員として、初めて海外に出た私は、カルチャーショックを受けます。
 この4年後、1969年に「西パキスタンの旅」に出かけます。
 さらに二年後の1971年、旧ソ連邦・コーカサスに出かけたときの報告を、読み物として山渓本誌に2回に分けて連載したのが、『コーカサスの山と人』上・下です。
 当時、前衛登山集団として、自他共に許した「第二次RCC」が、ソ連の招待を受け、コーカサスに遠征し、登攀を行ったときのもので、私はこの「第二次RCCカフカズ遠征隊」の隊長でした。
 この時の初めてのヨーロッパは、ぼくにとっては初めての、東南アジアやインド・パキスタンなどのアジア圏などではない、その外の体験でした。
 さらに、ソ連邦(旧)は、アジア圏外の国というだけではなく、いわゆる冷戦構造下の東側の国でした。そこで肌で感じたものは、日本で常識のように言われ信じられていることと、実際とのあまりに大きなギャップだったようです。
 〈コーカサスのショック〉とは実はそうしたものであったと今思うのですが、どうしてかぼくは余りこうしたことに関しては書いてはいません。
コーカサスの山と人<上> 
コーカサスの山と人<下>