ルーフキャリー、遂にゲット!

5月2日
 これはすでに書いたことなのであるが、昨夜突然差し歯の脱落があり、カンタカルロ歯科に行くことになった。指定された時間12時30分に行き、治療完了12:00。
 大急ぎでルーフキャリーのあるAUTO ACASに行きたいのだが、AUTO ACASは昼休みに入り、開くのは午後3時。しかたない。クーネオの大通りのバールに入りお茶で時間待ちをする。
 AUTO ACAS着午後3時。
 在庫がないので、トリノから取り寄せると入荷は月曜日になるという。ぼく達のイタリア出発は日曜日、間に合わない。すぐに取りに行かないといけないということになった。このこともすでに書いた。

 急がねばならない。ぼく達は、大急ぎでクーネオの町を出て橋を渡り、高速道路にのるべくフォッサノ・インターへと向かった。川沿いを1時間足らず走って、16時、トリノへの高速道路に入ることが出来た。
 トリノ、ミラノ、あるいはアオスタ渓谷からフランス・シャモニーなどへと繋がるこの道は、広くまっすぐで走りやすい。眼前には、遥かむこう視野いっぱいに、フランス国境のアルプスの山々がかすんでいる。
 クーネオでは、トリノの市街地図を入手できなかったので、途中のサービスエリアで購入した。
 AUTO ACASで教えられたのは、件の店はVIA BALTIMORA通りにあり、その通りに行くには、Corso Orbazznoで高速道路を降りろということだった。
 けっこう必死で地図で確認。

DINAMICA Trino.jpg 140kmくらいでぶっ飛ばしてトリノに着き市街に入る。かつてトリノに滞在した時の経験から簡単にたどり着けるとは思っていなかったのだが、けっこう奇跡的にすんなりとお店に着くことが出来た。トリノのダウンタウンからは、南西方向に少し離れたところで、工場と団地があるような、ちょっと殺風景な一角にあるそのお店の名はDINAMICAだった。

DINMICA Trino受付2.jpg お店に入るとすでに品物は用意してあった。けっこう大きい箱で、重さは10kg。ビスなどの付属品を全てチェックしてから、飛行機で日本にもって帰るから、しっかりパッキングしてと頼む。おじさんが2人掛かりで、完璧なパッキングをしてくれた。

梱包と共に2.jpg 対応してくれたおじさんと一緒に記念写真を撮ろうとすると、みんなが囃し立てる。みんなとっても人懐っこい人たちだった。
 イプシロンのアクセサリー情報が日本にないため、パンフレットが欲しいというと、みんなして探してくれて、少し油で汚れたようなパンフレットを見つけてくれた。みんな親切である。どうも日本人が珍しいらしい。

 とうとう手に入った。満ち足りた気分でぼくは、クーネオに戻るべく夜の高速道路をゆっくりと走っていた。

歯医者カンタ・カルロ先生

<ヨーロッパの旅とスキー(2007)>の「歯医者に行く」に書いたように、さし歯に故障が起こったのは、昨年(2007)の1月のこと。
ちょうど1年と数ヶ月前のことだった。「遠い国からのお客さんからお金は取れません」といって、治療費を受け取ろうとしなかったのは、クーネオの開業歯科医カンタ・カルロ先生だった。日本に帰って知り合いの歯科医の友人などに、この話をしたら、誰もが日本では信じられない話だと言った。それを聞いて、なにかお礼の品を送るべきだとは考えたものの、何がいいか思い当たらなかった。
今回のイタリア行きの出発日が近づいて、そのプレゼントの決定を迫られ、ようやく決めたのが、浮世絵の額であった。ポッピンを吹く女.jpg ネットで探したらいい物が見つかった。喜多川歌麿の「ポッピンを吹く女」。ポッピンというのは、江戸時代から庶民に親しまれた欧州伝来のガラス細工である。
その時代ガラスはポルトガル語でビードロと呼ばれたが、その鳴らす音からポッペンとも呼ばれた。これもネットで買えるので、付けることにした。
オランダかポルトガルかは知らないが、欧州伝来の玩具で遊ぶ女性の浮世絵。これはまったくいいアイデアではなかろうか。

そもそも浮世絵とは、日本が世界に誇れる特別な芸術である、とぼくは思っている。それはどういうことなのかを説明してみよう。
ポッペン.jpg その時代、パリに匹敵する大都市は江戸であったと言われている。でも、ぼくにいわすれば、江戸に匹敵するのが、パリなのである。たとえば、その大衆の食の多様さと文化度に於いて。
浮世絵では、その遠近法や巻き上がる波の向こうの富士山などの技法は、欧州の絵描きの驚嘆を呼び、その地にジャポニスムいわゆる日本心酔をよぶ。
スコットランドの友人、ジャニス・フォーサイスの邸宅には梅の木や花魁を描いた油絵があった。彼女によれば、スコットランドには、4人のジャポニスムに心酔した絵描きが存在し、この絵はその一人の作だという。
ジャニスが日本に関心を持ち、日本に憧れ、一人娘の幼稚園の学芸会に着物を着せるまでの日本ファンになったきっかけは、この一枚の油絵だったという。ジャポニスムはたんなる一時的な流行ではなく、30年以上も続いたルネッサンスにも匹敵するような芸術的な潮流であったのだ。
だがしかし、ぼくが強調したいのは、ジャポニスムの元となった浮世絵が一部の上流階級のものではなく、庶民大衆が楽しむためのものであり、庶民大衆はそれだけの鑑賞眼を持ちあわせる存在であった点である。
これだけを考えても、パリとの比較に於ける優劣は明らかであろう。
話が少々脇にそれた感がある。元に戻そう。

さて、というわけで、リモネットに着いた翌日、ぼくはクーネオに出向き、件(くだん)の浮世絵の額とポッペンをカンタ・カルロ先生に届けた。
カルロ先生は、「こんなもの貰い過ぎではないですか。たいしたこともしていないのに」と恐縮されていた。そして、
「ところで、歯の方はその後いかがですか」と訊いた。
「いえいえ、問題はないです」とぼくは答えた。
ところが、である。その翌日の木曜日の夜、ぼくの前歯は、突然ぽろりと抜け落ちたのである。まったく驚いた。何となく間が良すぎる、いや間が悪すぎるというべきか。
イタリアは、ちょうど今日が5月1日のメーデーのナショナルホリデー。イタリア国民はこの日から少なくとも10日間のバカンスを取るのが通例であるという。カンタ先生も今日辺りからバカンスに出かけて留守だろう。
これはえらいことになった、とぼくはあわてた。
とにかく明日開いている歯医者を捜さなければならない。今回さし歯が抜けただけだから、英語のしゃべれる歯医者は必ずしも必要ではない。
大体開いてる歯医者が、クーネオで見つかるのか。期待薄である。
もし見つからなければ、国境越えでニースまで行って、ホテルのコンシアージにでも探してもらおう。そう思って、その夜は眠りについた。
カンタ表札1.jpg 翌朝、その日は休診日だと分かっていたが、ダメモトでとカンタ・カルロ先生に電話した。急患用の留守電もあるかもしれない。
驚いた。カンタ先生が出て来たのである。
「必要な書類を忘れたので取りに来たところです。そうですか。12時30分にいらっしゃい。1時30分から用事があるけれど、とにかくいらっしゃい」
カンタ階段.jpg なんという幸運、神様仏様のご加護。ぼくは、舞い上がってクーネオに向かってBMWを駆った。
会うなり、彼は先日のプレゼントのお礼をいった。「先日のあの額、家内が見て、素晴らしいものよと喜んでいました。ありがとう」
治療台に座る。
「歯にはまったく問題はありません。接着剤が外れただけです。15分で直りますよ」
カンタ表札2.jpg そういうと、かれは戸棚を開けて探し物を始めた。今日は休診日でいつもは3人もいる看護婦さんがいないのだ。
5分以上経って、接着剤の瓶を持って戻ると、「接着剤には沢山種類があるんだけど、僕はこれが好きなんで」などといった。
あれこれと探し物が色々あって、15分で終わるはずの治療は、結局占めて30分を要した。
カルロ先生とぼく.jpg 「治療代を払わないといけません。おいくらか言ってください」
「いえいえ、代金は先日頂いたプレゼントで余ってますよ」
「そんなことで、お代を取って頂かないと、ぼくは次に来た時に二度目のお礼を持ってこないといけなくなります」とぼくは言った。するとカンタ先生は、
「とんでもない。次にいらっしゃった時には連絡してください。ランゲのレストランの食事にご案内しますから」
「ほんとですか。楽しみにしています」とぼくは答えた。

リモーネの人々

リモーネ・ピエモンテに来るようになって10年近い年月が経った。知り合いの人たちも出来て来た。そこで、この地で近しくなった人たちについて書いてみることにする。

ペッペさんとぼく.jpg ペッペさんは、リモーネ・ピエモンテで一番のホテル、エクセルシオールのマネージャーである。ぼくが初めてこの地にやって来たとき、最初に接触した人で、とても人なつっこい笑顔が印象的だった。
この写真より二人とももう少し若かったと思う。この地区の役員だそうで大変親切で面倒見がいい。

ソムリエベッペさん.jpg アパート購入時のブリーフィングには、売買当事者だけではなくノータリー(公証人)と英語が話せる二人のウィットネス(立会人)が必要で、そのうちの一人は英語がしゃべれる人が必要であった。
ベッペさんは、この辺では数少ない英語が達者な一人だったので、お願いしたら快く引き受けてくれた。
夜になると、ホテルのレストランのソムリエに変身した。

マリア・テレーザ家族.jpg アパートがあるリモネット村にはただ一軒のレストランがあった。そのオーナーはマリア・テレーザという快活なおばさんで、彼女はまた直ぐそばの2LDKのフラット(別荘用アパート)の所有者でもあった。ともは彼女からこのフラットを買い取ったという訳である。
この写真は、マリア・テレーザのレストランのテーブルで彼女の家族とのパーティーでのワンショット。彼女の旦那のジャンカルロと娘のアレッシアが写っている。

モナコ王子.jpg この部屋には、モナコ王子(グレース・ケリーの息子)を挿んだ夫婦の写真が掲げてあって、グレースケリーも時々やって来たという。
数年後に、彼女はレストランを売り払って、息子がいるミラノの東にあるブレシアに移ってしまった。

マリオとぼく.jpg マリオは、クーネオにある不動産会社フォンド・カーサの社員で、フラット売買を世話した人である。
英語はあまり出来ないので、意思疎通が大変であった。いつも持参した小型の英語辞書を必死でめくりながら話した。
彼の口癖は、I can not understand. 一分間に数回の「アイ、キャンノット、アンダースタンド」が繰り返された。ぼくが、しかし、感心したのは、彼は決して独り合点や早とちりはしなかったことである。
すこしでも、聞き取れないこと、理解できないことがあると、アイキャンノット、アンダースタンドという。約2年近くかかったアパートの売買交渉や手続きが、たいした蹉跌もなく順調に完了したのは、彼によるところが大きいと思ったことだった。
単に不動産会社の社員というだけのことで、その仕事はとっくに終わっているはずなのに、いまでも頼めばいろいろと面倒を見てくれる。きっと親切な人なのだろう。
お母さんは、幼稚園の園長さんだそうである。
山上のレストランパーティ.jpg ホテル・エクセルシオールのお客はみんなといっていいくらい常連客なのだが、この写真の左端の男は、イギリス人のスティーブ。香港で音楽プロデュースの仕事をしている。
リモーネ・ピエモンテのスキー場が気に入って毎年のように通いつめ、イタリア語も自然に習得したという。奥さんは、マレーシア系のイギリス人で、ファッションモデルだそうである。母親を含めた家族で来ることも多いらしいが、そのファッションモデルの奥さんと顔を合わせたことはまだない。
ぼくが最初にスキーに来たとき、スキーガイドとして、ベッペさんが紹介してくれたのが、このスティーブだった。
ちょうどその時、ともの誕生日がやって来たので、みんなを招待して近くの山上レストランでパーティを開いた。
左端スティーブの隣は、ベッペさんの奥さんのエリザ。右端はとも、隣がマリオである。中央はベッペさん。
肉屋さん夫婦.jpg リモーネ・ピエモンテの馴染みのお肉屋さんには、とても美味しいプロシュート・クルード(生ハム)がある。肉屋さんは2軒あるのだが、もう一方のプロシュートは塩味がきつくてあまり好きではない。一度プロシュートを買ってからは二度と行ったことはない。
さて、この教会の裏手のお肉屋さんの奥さんカルラは、とても世話好きで、美味しいレストランはどこだとか、いろいろと教えてくれる。出身がランゲ地方なので、その地の有名な美食の村ラモッラのことなど、ガイドブックなどを出してきて細々と教えてくれる。
昨年の雪不足の年などは、どこのスキー場に雪があり、どう行けばよいかなど、行くたびに懇切に教えてくれた。
こちらがなにか聞こうものなら、二階に駆け上がり資料を抱えて降りてくる。
はじめの頃は、英語などまったく通じなかったのだが、最近は旦那のジャコモが、
「See you tomorrow」などというので、驚いた。
「あんた、英語しゃべれるではないか」
「いやいや、あんた達と話さないといけないので勉強してるんです」
いやいや、「ブラーボ、モルトベーネ!」でありました。
カルネクルーダ.jpg ここのステーキ肉は、白い脂身のまったくない赤身のピエモンテ牛なのだが、これが焼くと、じんわりと脂がのった味でなんとも美味なのである。
また、高級レストランの前菜にもよく出るカルネクルーダ(生肉)も美味しくて、毎日でも食べたいほどである。
200gほどをオーダーするとミンチにしてくれる。
上等のレストランでは、とんとん叩いて切っているようだが、ミンチにしてもらえば、皿に盛ってオリーブ油とパルミジャーノの振りかけるだけ。実に簡単でいい。
都をどり.jpg 今回、都をどりのポスターを持参してプレゼントしたら、早速店に張り出した。
そして、帰りの挨拶に出向いたらお返しにと、最近出版されたというピエモンテの写真集をプレゼントしてくれた。
アルド氏.jpg ノータリー(公証人)のアルド氏とは、最初の頃から世話になった。公証人は不動産売買には不可欠で、そのすべてを取り仕切ることになる。
最初に会った時から、「日本の肉はおいしい」といい、いつも神戸牛だけではなくて、京都の牛も美味しいなどといった。
だから次の時には、上等のステーキ肉をお土産に持って行った。すると彼は、クーネオで一番のレストランに招待してくれた。こうしたことが繰り返され、今では、なんだか慣例のようになっている。
ぼくは当然彼は日本に来たことがあると思っていた。実は来たことはないのを知ったのは大分後のことだった。ぼくは驚いて、でも「日本の肉はおいしい」と言ったではないか、と質したら、そんなことは誰でも知ってるだろう、と答えた。
アルド事務所回廊.jpg アルド氏の事務所は、クーネオの中央広場に面した町の中心にある。
黒のメタルに金文字の大きな表札の脇の木の扉を開けて中に入る。

アルド氏ドア.jpg 薄暗い階段を上がると、NOTAIO(公証人)アルド・サロルディとガラスに書いてあるドア。
アルド氏待合室.jpg このドアの中は待合室になっている。
その奥に彼の部屋と事務の女性数人がいる部屋がある。
アルド氏の部屋.jpg 「今年になって2階から3階に部屋替えしたから少し広くなったでしょ。それに光も沢山入って明るいし」と彼はうれしそうだった。
薪のおじさん.jpg うっかりして忘れていたのだが、最重要な人物がいた。
リモネット村の住人で、ぼくが勝手に「薪のおじさん」と呼んでいる人である。名前は、たしかルイージという。
リモネットやリモーネピエモンテで、薪を入手するのは困難である。売っている店がない。この地に着いて、最初にしないといけないのが、暖炉用の薪の手配。
アパートは勿論セントラルヒーティングなのだが、夜の10時から朝の6時までは、暖房は切れる。冬はもちろんのこと、夏であっても、時としては、暖房が欲しくなるのだ。
薪のおじさんは、薪用の倉庫コンテナーを持っていて、充分の備蓄がある。アパートからおじさんの家までは、5分くらい。まったく英語は駄目なので、最初は「レーニャ(薪)、レーニャ」を繰り返していたのだが、最近では何も言わなくても分かるようになった。

リモネーゼとクネーゼ

 リモネット村にほとんど毎年滞在するようになって、もう7年以上もたった。
 リモネット村というのは、イタリア・フランス国境の僻村である。ここで、その地理というか位置を説明してみよう。
 PMN-Mappa.png イタリアの長靴の付け根、地中海に面した都市ジェノバの西方約200キロ、トリノの南方約100キロのところに、イタリア・ピエモンテ洲クーネオ県の県都クーネオ(Cuneo)がある。

 limonePiemonteMap.jpg クーネオから真南へ向かうと国境のテンダ峠トンネルを過ぎ100キロすこしで、コート・ダジュール(紺碧海岸)の海岸線に達し、モナコやモンテ・カルロがある。ここから西に30キロたらず海岸線を辿ると、南フランス・プロバンスの名高いリゾート、ニースに達する。

 さて、クーネオの町は、南から西にぐるりと山々に取り巻かれており、この標高2000mから3000mの国境山脈は、北に連なりモンブランやマッターホルンに繋がる。
 DSC00410_1.JPG ところで、このクーネオから南の国境稜線の山に向かって27キロ走ったところにあるのが、有名リゾートのリモーネ・ピエモンテ (Limone Piemont)で、冬はスキー客、夏は避暑客で賑わう。

 リモーネ・ピエモンテの町からさらに南へ国境の山に向かって、「日光いろは坂」よりもっときついヘヤピンカーブの連続を登った辺りから右に別れて1キロばかり走った所にあるのがリモネット村である。たぶん、テンダトンネルが開通するまで、フランスからの旧道は旧峠を越えてこの村を経由していたと思われる。しかし開通後は、袋小路の村となってしまったようである。
 どんずまりには、国境の山の山腹に開けたリモネット・スキー場があって、リモーネ・ピエモンテスキー場にも繋がっている。
 
リモーネバザール.jpg リモーネ・ピエモンテの地の人は、自分たちのことをリモネーゼと呼んでいる。まあいってみれば「リモーネ人」で、イタリア人ではなくリモーネ人だというのである。クーネオの人たちは、同じように自分たちのことを「クネーゼ」クーネオ人と呼ぶ。
 ここの住人は、ほとんどみんなフランス語を話すし、イタリア語もピエモンテ訛りと呼ばれるフランス語のような訛りがあるといわれる。

 このようなことは、ピエモンテに限らず、世界各地にあるようだ。
 たとえば、アメリカ東海岸のボストンでは、「俺たちはアメリカ人ではなくボストン人(ボストニアン)だ」という言葉を何度も聞いた。京都では、京都弁があり京都人というのが存在する。

 当地で経験したいろいろの話を、日本人でイタリアに留学していたり、イタリアに詳しい人達にしにした時に、一様に聞いた言葉は、「信じられない。とてもイタリアの話とは思えない。それはイタリア人ではないよ」というものだった。
 やはり、ピエモンテ洲のクーネオやリモーネ・ピエモンテあるいはリモネットは、極めて特殊な場所なのかもしれない。

パリ経由ニースからリモネット

プラは空港.jpg プラハからパリのシャルル・ド・ゴール空港へは、2時間弱のフライト。プラハ空港は、すっかりリニューアルされたようでずいぶん奇麗になっていた。なんだかパリのシャルルドゴールに似ている。

シャルルドゴール空港.jpg
 シャルルドゴール空港では、1時間少しの時間待ちで、ニースへ飛ぶ。ニースまでは、1時間半ほどのフライトである。

 空港のEuropeCarで車を借りる。
 日本出発前に予約を入れておくのが普通である。値段などは指定できるが、車種などは指定できなくて、相手の言うままである。
 あてがわれた車は、ルノーのラグーナであった。珍しいことにオートマチックであった。走行距離は2000kmすこし。あんまり気に入らない。
 よく見るとボディーに大小3カ所のへこみ傷がある。
 直ぐ、換えてくれと文句を言った。その中国系の男は、後2台しか残っていないという。
BMW.jpg ぼくの経験では、レンターカーのスタッフで中国系というか東洋系は、極めてタフというか手強い。規則を盾に取って決して引くことがない。
 ここでも、ぼくの「傷物の車にフルインシュアランスを付けて貸すなどというような話は経験したこともないし、聞いたこともない」というぼくの不平に、平然と立ち向かって来た。
 信用できないから、次の車をチェックさせろという希望は、「我々は車を売っている訳ではない」という理由でかなえられず、キーを貰って次の車に向かった。
 それは、紺色のBMW328dであった。走行距離3000km。傷などは勿論なかった。これならまあ文句はない。
 
カールフール.jpg 高速に乗り、モナコで降りる。
 ニースのスーパーよりもモナコの王宮地下のカールフールのほうが品物が豊富である。
 ここで食料を仕入れることにした。シャンパン小瓶2、ゆでえび200g、貝柱200g、ステーキ肉500gなどを買い込んでいると、大分遅くなった。
 7時30分モナコから再び高速に乗る。まだ充分に日は高かった。
 ベンチミーリアで高速を降り、渓谷沿いの山道に入る。
 この道沿いには、断崖都市サオルジュやタンド(Tende)などの中世の村々が残っており、バロック街道とも言われる。
 ニースからは、「中世の村々が残るバロック街道(ロワイヤ渓谷)ツアー」などと銘打って、この道を辿る観光バスも出ている。9時間のコースで一人150Euro。6人バス貸し切りで600Euroという。
 最初、リグリア海岸より別荘地を求めてこの山道をさかのぼった時には、なんだか黒部峡谷に分け入ったような感じで興奮したものだった。
 しかし、この前のトリノ・オリンビック後、ずいぶん道がよくなったようだ。とはいえ下流半分だけなのではあるが。
 中間の辺りから国境のテンダトンネルの中間までは、フランス領が入り込んでいる。イタリア、フランス、イタリアと道路標識から民家のたたずまいまでがはっきりと変わるのが面白い。

夕暮れのリモネット.jpg 9時少し前に国境のテンダトンネルを通過。ようやく夕暮れが近づいた9時、リモネットのアパートに到着した。夕まぐれの雪景色の山々が美しかった。
 シャンパンで、無事到着を祝った。

カレル王の王冠

レストランの食事で.jpg ちょうど今の時期、プラハ城では、カレル王の王冠が開帳展示されているから、それを見に行ったらどうかとパベルが言い出した。レストランで夜の食事をしている時である。
 50年から100年に一回という展示で、チェコ中の人が押し掛け、それに世界からの観光客が加わるからとんでもない行列になる。最低5時間は並ばないと中に入れない。「どうだいナオキ。並ぶかい」
 その顔は、並ぶわけないよなあ、といっている。ぼくは、その意を受けて「いやだね」といった。
王冠.jpg 王冠と王杖と王玉の三種だそうで、これは7つの鍵の掛かった部屋に仕舞われているそうである。その鍵を保管する7人が順番に鍵をあけ、ようやくその保管室の扉が開くのだそうである。
 そんなのは、日本にもあって三種の神噐というんだと、ぼくは説明する。
 「ところで、その王冠が入っている部屋の扉を7人が開けたら、フロアはビカピカだったんだって。どうしてほこりが積もってないのかなあ。きっと掃除のおばさんが毎日掃除してるんだよ」とパベルは冗談を言った。

これは、※パベルが教えてくれたサイト※。
 チェコ語のサイトなのでまったく読めないけれど、最下段に動画があって、そこでは7人が順番に鍵を開けている様子を見ることができる。
 ところが、あとでネットで調べたら、たしかにプラハ城の王冠展示は19日から29日まで行われている、50年に一回というのは、パベルの間違いか誇張のようである。
 記事によるとこの100年で10回は開帳されている。

カレル城.jpg 翌日、プラハ城を見学した。パベルのボルボで城の裏門に着いた。こちらからの方が近いという。
 王冠の展示館には、なるほど長蛇の列が出来ているようであった。その一部を写真に撮った。
 ぼくは、プラハは4回目。一回くらいはプラハ城に行かなかった時もあると思うけれど、決して初めてではない。
 でも、なんだか初めてのように新鮮な感じで見て回ることが出来た。

カレル城の衛兵.jpg 衛兵の行列行進は始めでだった。

カフカの家.jpg カフカの家も見た。でもなんでカフカがこんな城内に住んでいたのだろうと思った。

拷問具.jpg 一番印象に残ったのは、地下の拷問室で、たぶんそこに降りたのは、きっと初めてだったのではないかと思う。うまく言い表せない恐怖の感情を憶えた。その数々の鉄製の拷問用器具の精密さに感心しながらも恐怖の感情は増幅させられた。

 途中からパベルは、オークションが始まるからといって、一行と別れた。年に一回行われるオークションで、お母さんに頼まれた絵と彫刻を落とすのだそうである。後で合流した時に聞いたら、どちらも競り負けたそうである。

カレル橋と船.jpg 世界最古と言われるカレル橋の直ぐ近くのレストランの水辺のテーブルで食事をした。モルドウの水面には、水鳥が泳ぎ、絶え間なく船が往来していた。

パベルとぼく.jpg 彼らとは、今日でお別れ。ポーリンは夜、パベルが乗って来た車でブルーノに帰り、パベルは仕事で、明日早朝の飛行機でチェコの東方の町オストラバに向かうという。お別れに二人で写真を撮った。

チェコ・フィルを聴く

4月26日
 いい天気。窓の外のビルの隙間から青空がのぞく。
パベルのアパートから.jpg 9時頃と言ってあったが、寝坊してパベルのアパートに行ったのは10時半だった。ホテルのすぐそば50メートルと離れないところにパベルのアパートがある。
 このアパートには妻の秀子と泊まったことがあったのを思い出した。あの時に比べると部屋の絵画の数がうんと増えているという気がした。パベルの父親のパボルが生前に買い足したのだろう。部屋という部屋の壁は、絵画で埋め尽くされているという感じ。
 父親パボルは有名な脳外科医であったが、パベル達子供2人を連れて、チェコからオランダに亡命した。オランダの大学では、日本の東海大学からの医学留学生を指導していたと聞いた。母親も脳外科の学者で、パベルは学者夫婦の子供ではあるが、なぜかまったく違った方面の道を進んでいる。
 アムステル大学からロッテルダム大学大学院、この頃バンコックでぼくと知り合うのだが、ここを出てKLMオランダ航空社長の秘書になる。数年で止めて、KLMソフトウェアのセールス員として後進国に売り歩く。
裸像.jpg ヘッドハンティングされてABMアムロ銀行の副頭取に。ここも数年で止めて、今度は廃棄物処理・リサイクル会社で働いている。町のし尿処理から産廃処理、核廃棄物処理までを扱うという。
 ところで、部屋に掛けてある絵のうち一番興味を持ったのを載せておく。何を描いたものなのかを聞こうと思っていたが、忘れて聞きそびれてしまった。
 
 朝食というかブランチを用意してくれていたが、ぼくはまず持参した鯖寿しを食することにした。外国への到着が夜遅くなる時には、いつも鯖寿しを持って行くことにしている。竹の皮で巻いた鯖寿しは日持ちするしどこでも食べられ重宝する。
 パベルも美味しいといって3切れも食べた。

教会.jpg 今日の予定は、午後のチェコフィルのコンサートのみである。
 パベル夫妻とアパートを出て10分足らず歩き、トラムの停車場に着く。そばに大きな教会があった。
 「なんと言う教会?」「知らない」
 プラハ近郊に生まれたのになんで知らんのかい。ぼくが不服そうな顔をしたからか、パベルは門のところまで走って行ったけれど、分からなかったみたい。考えてみれば、ぼくだって、京都で外人に「このお寺なんという名?」と聞かれて、どれだけ答えられるだろうか。ちょっと気の毒な気がした。

市電.jpg ガイドしてくれるパベル達が選んだのは、トラムでカレル橋の一つ上流の橋の袂まで行き、橋を渡ってからモルドウ川の左岸を下流に向かって歩き、それからカレル橋を渡るという周回コースをにしたようである。

浸水を示す家壁.jpg 橋を渡ってモルドウ川左岸を行くここ旧市街側の川沿いは、公園風になっていて家屋やレストランもある。その壁がかなりの高さまで変色している。何年か前の洪水の時の浸水の跡だという。そういえばその頃、バペルから義援金の要請メールがきて、知り合いに転送配信したことがあったのを思い出した。

カレル橋の似顔絵描き.jpg カレル橋は例によって世界中からの観光客でおおいに混雑雑踏している。両側には似顔絵描き、大道音楽芸人などが隙間なく並んでいる。

カレル橋のおじさん.jpg パベルが突然「ナオキ、あれを撮れ」というので見ると、なるほど絵になりそうなじいさんが座っていた。カメラを向けると「ノー、ノー」といいながら、腕で顔を隠してしまう。隙をうかがってシャッターを押そうとするが、その瞬間を目ざとく察知してしまう。
 パベルが「カメラを貸して」とぼくのカメラを持って引き返し、人ごみに隠れて写そうとしたが、やっぱり駄目だったようである。

ドヴォジャーク・ホール.jpg カレル橋を渡り終えしばらく行くと、ドボルザーク・ホールのある「芸術家の家」に着いた。ここで、午後三時からの、チェコフィルを聴くことになっている。
 ともがインターネットで買ったチケットは二階の最後列で余りよい席とは思えなかった。パベルに頼んで、いい席を手に入れてもらおうと思っていた。
 ぼくはプラハに来るたびに、オーケストラやオペラあるいは演劇等を楽しむことにしているのだが、切符の手配をしてくれるのはいつもパベルだった。それも当日の開演直前。
 「君は隠れていて、その柱の陰に」
そういうと彼はそこここに立っているダフ屋と交渉を始めるのが常であった。
 話はなかなかまとまらない。どんどん時間が経って行く。時にはもう一人のダフ屋が割り込んで来たりする。そして、話がまとまるのは、いつも開演の5分前くらいなのである。そして、いつも値段は大体半額くらいになっていた。

 パベルは切符を見て、「いい席だよ。換える必要はないのではないか」という。
 インターネットで買ったチケットは、1600円くらい。あんまり安いのでよくない席だと思ったのは、早とちりだったようである。今残っている席は最前列のみで、それは止めた方がいいとポーリンもいった。
ポーリンと.jpg パベルは、近くのホテルで人と会う予定があると言う。その男は、彼と会うためにはるばるブルーノからやって来た。
 「難しい話で、その男は怒り狂っているから、後で会うときにはぼくの顔には青あざが出来ているかもしれないよ」と、パベルは半分真顔で言って去った。
 ぼく達とポーリンは、ドボルザーク・ホールのあるビル「芸術家の家」の中にある喫茶室でお茶を飲んだ。

チェコ・フィル.jpg ほとんど満席の会場。高齢者が圧倒的の多い。演奏が始まった。
 曲目は、スメタナの交響詩「チェコの森と牧場から」とチャイコフスキー「シンフォニーNo.4」
 チェコ・フィルの音は、いかにもという感じの硬質で冷たい感じの音のような気がした。まったく耳に優しくないような感じの音を聞きながら、ぼくは居眠りを楽しんだ。
 先日の京都祇園甲部歌舞練場での都をどりでもぼくはよく眠ったが、そういうなのは最高の贅沢だと、ぼくは思っている。

プラハに着く

 アムステルダム〜プラハは、SkyEuropeという新しい会社を使うことにした。飛行時間は2時間なのだが、特別のディスカウントで運賃はひどく安く、たったの4700円なのである。
 チェックインで、エクセスを請求される。5キロのオーバーだと言う。
 日本からアムスまでのKLMでは、何も言われなかったぞ。なんとか通してくれないか、と粘ったが駄目だという。「分かった、ではディスカウントしてくれ」
 「いえいえ、もう運賃で充分ディスカウントしていますよ」と、まったく取りつく島もない。
 まあこれで普通並みの料金になったのかと、納得せざるを得なかった。
 搭乗ゲートは、とてつもなく離れたところで、おまけにキャリーも備えてない。これが同じスキポール空港なのかとあきれてしまった。
 
モルドウとカレル城.jpg 約1時間半のフライトでプラハ空港に着いたのは、夜の11時だった。 
「無理かもしれないけど、空港に着いたらとにかく電話してくれ。迎えに行くから」と言って来ていたパベルだったが、電話したらもう来ているという。
 久しぶりの再会。元気そうである。
 会社に買わせたという新しいボルボを、パベルはまるでバイクのように運転して、15分くらいで宿に着いた。
ホテルパンフレット.jpg Residence Belgickaというヨーロッパスタイルのホテルのようなアパートである。奇麗で上質の案内誌によると、mamaisonという会社の経営で、チェコ、ポーランド、ハンガリー、スロバキアなど8カ所以上に高級ホテルのチェーンを持っているという。

Residence Belgicka.jpg 4・5階建てのビルが建ち並ぶ住宅街の道路角にあるホテルの入り口で、荷物を下ろしていると、道の反対側からポーリンが駆け寄って来た。

ポーリン.jpg 明るい街灯に照らされて、ポーリンは今も美しくて若々しかった。彼女は汽車でやってきたという。

 
 200キロ離れた隣町のブルーノから、穴ぼこだらけの道を走って来たパベルは、かなり疲れていると思われた。

ホテル部屋.jpg 部屋までやって来て、「もうすぐ寝るなら帰るけど、外でいっぱいやるかどうかは君の判断だよ」というので、「ではちょっとだけ」と答えた。
「じゃあロビーで待ってる」

 夜半を過ぎた通りを数分歩いて、そこここにあるバーの一軒に入った。店のスタッフたちがパベルに話しかけている。久しぶりですね、元気ですかなどと言っているのだろう。
 生ビールを注文、ポーリンはジントニックで久方ぶりの再会に乾杯。
 

プラハからリモネット 2008春

2008年のゴールデンウィーク、いつものリモネットに行きました。
いつもと違って12日間という短い期間の旅でした。
まずは久しぶりにプラハを訪れ、パベル夫妻との旧交を温めることが出来ました。

リモネットと山.jpg1.プラハへ〜アムステルダムでの道草〜
2.プラハに着く
3.チェコ・フィルを聴く
4.カレル王の王冠
5.パリ経由ニースからリモネット
6.リモネーゼとクネーゼ
7.リモーネの人々
8.歯医者カンタ・カルロ先生
9.イプシロンのルーフキャリー
10.ルーフキャリー、遂にゲット!

プラハへ〜アムステルダムでの道草〜

 チェコに行くのは、4年ぶりである。
 あれは、2003年の夏のことで、イタリアのピエモンテからルノーのカングーでハイウェーをすっ飛んで、ウィーンへ。ウィーンから100キロのブルーノまでを往復した。(この時の記事は高田直樹ドットコムの<「イタリア旅行記(2003年夏)」参照)
 ブルーノはプラハの東南200キロの町である。オーストリア国境に近く、ウィーンから100kmの距離にある。この記事にあるように旧友のパベルがオランダからここに移転して来たので、彼に会いに行った訳である。

 今回のヨーロッパ行きでは、イタリアに行く途中に、ベルギーのブリュッセルに寄り道してムール貝でも堪能しようと考えていた。
 ところが、ブルーノのパベルが、もしかしたら来年アムステルダムに戻るかもしれないと報せて来た。それを聞いたともが、「パベルがいる間にぜひプラハに行きたい。わたし行ったことないから」といいだした。ムール貝は諦めてプラハに向かうことになった。

天文時計.jpg プラハに行くのは、息子の結婚式以来のこと。ぼくがパベルの助力を得て息子の結婚式をプラハの旧市庁舎(あの天文時計のあるところ)で挙げたのは、京都市がプラハと姉妹都市を結ぶ前年だったから、1995年のこと。ということは、なんと13年ぶりのことなのである。

 パベルに連絡すると、夫婦でプラハ市内に所有するアパートまで先行して待っていてくれるという。このアパートには、これまでに二回ほど泊まったことがあった。でも今回のわれわれの泊まりは、そのアパートから50メートルも離れていないところにある〈Residence Belgicka〉というキッチン付きの宿を予約してくれたという。
 
KLM機内.jpg 前日のKLM便がエンジントラブルでキャンセルになったとかで、関空発アムステルダム行きの便はほぼ満席だった。そして珍しいことに予定より1時間も早くスキボール空港に着いた。

 運河沿いの裏道.jpg 乗り継ぎのプラハ行きの便は夜の10時。4時間以上も時間があるので、汽車で町に出ることにして、アムステルダム中央駅までの切符をかった。
 中央駅からメインストリートを少しばかり行き、裏道に入る。運河に面した通りが、いわゆる飾り窓の女のいる道筋である。

 
 バンコックでパベルと出会った翌年、ぼくは70歳半ばを越えた母親を連れて、ヨーロッパを旅した。もう20年も前のことだったろうか。
 ロンドンに入り、そこからアムステルダム、バリ、ベニス、ローマと各所2・3泊づつする2週間の旅だった。なかでも特筆すべきはパリ〜ベニス間の、オリエンタル急行に乗ったことである。車中1泊する旅であるが、切符はなんと17万円であった。
 JALに乗務し始めたばかりの娘の美奈が、パリで合流出来るというので、最高の<客あしらい>を学ぶためには乗るべきだと説得して、一緒することになった。
 車掌は、どう勘違いしたのか、娘にぼくのことを「ユアハズバンド」と言うので、美奈は必死で「ノー、マイファーザー」と何度言っても、またしても「ユアハズバンド」を繰り返したようだ。きっと東洋の金持ちが、若い奥さんを貰いその母親も一緒で旅していると思い込んだのだろう。

 アムステルダムでは、学生のパベルがエスコートしてくれた。夜、母親をホテルに残して、ぼくとバベルは夜の街に出た。「飾り窓の女」は、どのガイドブックにも書いてあった通り、写真撮影は御法度である。
 パベルは、「大丈夫、大丈夫。写しなさいよ」という。
 飾り窓の入り口には、大体一人の男の用心棒が立っている。その何人かとパベルは親しげに声をかけ合っている。驚いたことに、みんな高校時代のクラスメートなのだそうだ。
 写真を写しているのに気付いた女が、大きな叫び声をあげて飛ぶ出してくると、ぼく達は、「逃げろ」と走った。こんなことを数回繰り返したら、パベルが「これくらいにしておいた方が身のためだ」といった。
 
アムス公衆トイレ.jpg そんな昔の思い出を懐かしみながら運河沿いをたどって行くと、面白い公衆トイレがあった。実にユニーク。かつて空港トイレの便器に描かれた蠅に感心したものであったが、この便器にも感心してしまった。
 運河沿いの道を右にそれて行くと、ホテル・クラスノポリスキーの前に出る。そこからはダム広場が見渡せた。ダム広場は、アムステルダムの中心ともいえ、いつものように観光客が群れていた。

レストランにて.jpg ここからローキンの通りを道沿いに商店に沿って歩いて行くと、時々行くパリのマキシムの支店のレストランがあった。例によって入り口には白アスパラが束ねて置いてある。一気の食欲をそそられてしまった。
 お目当てのシガー専門店の「ハニエス」は、ほんの50メートル先である。とりあえずここでアスパラを食べようと、外のテーブルに座り「アスパラのオムレツ」と白ワインを注文した。
 エスプレッソを飲みながらシガーを楽しんだりとゆっくりしすぎたのが失敗だった。たどり着いた直ぐ先の「ハニエス」は閉まっていた。6時閉店。30分遅れだった。

Rokin.jpg 戻りも汽車にしようと、中央駅行きの市電に飛び乗った。中には切符販売機がない。いつもの伝でただ乗りで駅に着き、空港に戻った。