登山と「神話」

 登山と「神話」は山と渓谷社の季刊誌『岩と雪』に、38号から43号(1974年10月〜1975年6月)の6回にわたって連載したもので、当時けっこう話題となったものです。
『なんで山登るねん』よりずっと良い、という岳人もたくさんいました。ぼくとしては、『なんで山登るねん』の基盤となっている理屈を述べたつもりだったのですが・・・。

◎登山と「神話」(全6回)
その1 スポーツ神話について
その2 宗教登山の位置づけについて
その3 『槍ヶ岳からの黎明』について
その4 「山での死」について
その5 『ホモ・ルーデンス』について
その6 「シェルパレス登山について」は割愛しました。
(2007/06/28)

宗教登山の位置づけについて

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登山と「神話」その二

宗教登山の位置づけについて

 先号では、「スポーツ」に関係する「神話」をとりあげて述べました。これについて、ぼくにとっては予想以上の反応があり、いろいろの人から、いろいろのコメントを頂きました。
 ぼくとしては、くさされても、別にしょげ返るわけではありませんが、逆にほめられると、どうも具合が悪い。もちろん、ほめられ、持ちあげられて、気分が悪いわけではありません。でも、たとえば、「次に期待する」などと、偉い人から云われると、どうもペン先がこわばってしまいそうです。
 ぼくは「論文」を書いているつもりはないし、一つの「読物」と受けとってほしいのです。ただ「それはおかしい」というところがあれば、反論してもらうことが有難いわけで、たとえ、こてんぱんにやっつけられてもぼくとしては、大いに満足です。

 さて、「神話」についてですが、ぼくがいう「神話」は、いわゆる「現代の神話」といわれるやつで、「政治神話」あるいは「社会的神話」という部類のものです。ヤマトタケルノミコトと直接的には関係ありません。
 しかし、全く関係がないわけじゃない。むしろ大いにあるというべきかも知れません。
 どうしてかというと、たとえば、『古事記』『日本書記』は、日本の歴史であるか否か、という問題をとりあげて、考えてみましょう。
 これは、そのもっと後の、楠木正成にしても、家康にしてもおなじことです。要するに、何が歴史で、何が歴史でないかの判断点は、「歴史が、少数の人の歴史であっては、それは歴史ではない」ということです。
「万里の長城」は、明らかに、古代中国の人民の力によって造られたものです。しかし、学校では「秦の始皇帝」が造ったと教える。そのアイデアを考えついたのさえ、始皇帝ではなく、おそらく歴史に現われない誰かだったに違いない。つまり、書かれた歴史は、みんな大ウソということになります。それは、人民不在の歴史であるからです。
 次に、「すべての歴史は、現在のことだ」といえます。これは、イタリーの哲学者のクローチェがいっていることです。
 たとえば、いまいった「始皇帝」は、儒者を生きうめにして、儒教を説いた書物をもやした、とんでもない暴君だとされていました。いわゆる〈焚書坑儒〉です。ところが、中国では、最近の儒教批判が起ると、「奴隷制社会」から「封建制社会」への移行を促進した、名君ということになりました。一方、孟子などは「奴隷道徳」を説いた、けしからん奴だということになり、「孟老二」つまり「孟家の次男坊」という蔑称でよばれることになってしまいました。
 また、敗戦まで日本で使っていた小学校の歴史教科書は、占領軍の命令で、まっ黒に墨をぬらされた。これをけしからんと怒っている人もいるようです。この教科書には、神代に「人民が騒いだからこれを平らげたもうた」と書いてある。墨をぬって当然で、けしからんと思う方がどうかしています。
 大体、「騒いだら平らげる」という発想がけしからんわけで、騒ぐにはそれなりの理由があると考えるべきです。こういうことをいうとすぐ「かたよってる」という人がいる。事実、先号のぼくの文章をよんで、共産党、民青の思想ときめつけた人がいます。本居宣長は、マルキストでも、唯物論者でもないけれども、百姓が一揆を起す、つまり騒ぐには、それなりのよくよくの理由があるはずだ、といっています。こんなことはあったりまえの話ではないですか。
 話をもとにもどして、ともかく、歴史はたえず書き直されている。それは歴史が、クローチェがいうごとく、現在であるからなのです。
 ところが、古文書を並べてそれを歴史だと考える人がいる。材料を並べて、それをつないだら歴史だと考えるらしい。そういうバカみたいな歴史家や学者もいます。そんな人にとっては、歴史は不変なのでしょうが、これは全くの間違いというべきでしょう。
 やたらと長い前書きになりそうです。はしょって締めくくります。
 歴史つまり過去が現在に生かされると、よくいわれます。これはしかし、現在が過去によって否定されるということです。過去にやったようなことを、もう一ぺんやろうとする。ところが「すべての歴史は現在だ」というのは、まさに逆なのであって、過去のために現在が拘束されるのではなく、現在をつくるために、あるいは未来をつくるために、過去が追放されるということです。
 さて、歴史において本質的なものは何なのでしょうか。たとえば、「ヤマトタケルノミコト」が実在したかどうか、それは本質的な問題ではない。現在にかかわる歴史の本質というのは、過去へ現代を引きつけるために歴史が学ばれるのではなく、現在が未来に向かうために役立つような歴史でなければなりません。
 過去に動かすべからざる過去というものがあるのではなく、現在のぼくたちの必要によって、過去の〈歴史現象〉の中に、本質的なものとそうでないものとを区別しないといけない。そうすることによって始めて、本質的なものをとらえうる、とぼくは考えます。
 こういう観点で、登山の歴史を見たら、どういうことになるでしょうか。これまでの登山の歴史といわれてきたものは、全く疑わしい、ということになる。そして、全然別の登山史が書かれることになるでしょう。
 ぼくには、そんなものを書くだけの能力はとてもありませんので、ここでは、適当にピックアップなどしながら、進みたいと思います。一というようなわけで、今回は、「登山史の神話」ということになります。

 宗教登山の復権

 日本の近代登山は、明治に始まった、とされています。そうすると、それまでに行なわれていた「登山」はどうなるのでしょう。
 巨大な丘ともいうべき日本の山岳は、大昔から人々によって、自由に登られていた、とぼくは考えます。
 たとえば、日本の山の中では、まあ一番険しいと思われる劔岳でさえ、奈良時代(七一〇〜七四八年)に登られているのです。
 ところが、明治以前の「登山」は、「宗教登山」であった、ときめつけられて、登山史では極めて軽くあつかわれるか、あるいは全く抹殺されています。理由は、その動機が宗教であって、「純粋に山に登ることを目的としていないからである」とされています。いくら、「ものの本」にそう書いてあったからといって、こんなことをうのみにしているのは、ちょっと頭がおかしいのではないか、とぼくは思うのです。
「日本山岳会」の創立発起人であり、日山協初代会長の武田久吉は、植物学者であり、採集するために山に登った。今日の日本でも、蝶々とりにヒマラヤへ出かける名登山家を、ぼくは何人も知っています。
 また、夏の劔の頂上の祠には、お賽銭がいっぱいです。もちろん、今の人たちは、おまいりするために登るわけではありません。たまたま祠があったから、おいのりして賽銭を上げたのかも知れません。
 ところで、封建社会の民衆は、「講」登山といわれている集団で、山に登りました。彼等の全部が、熱烈な宗教心で山に登ったのではない、とぼくは考えます。ある若者は、おとうからきいた高山の厳しさ、美しさにあこがれて出かけたに違いありません。それよりなにより、彼にとって、「講」登山は、過酷な労働をはなれ、「家」と「村」の束縛から解放された「別世界」への旅立ちであったはずです。とすれば、心情的に今日の若者とあまり変らない。
 そもそも、封建社会における宗教は、民衆にとって、一つの「救い」であり「遊び」であり、また「解放の場」でしたし、時には「反逆の場」ともなりました。
 こういう立場で、「講」登山は、とらえ直されねばならないと、ぼくは考えます。「講」登山を考えるには、それを含むものとして「講」をとらえる必要があります。しかしどうも、これはぼくにはしんどいことです。
 ただ、この「講」を母体として起り、ある意味では幕府の崩壊をうながし、そして明治政府によって抹殺された、一つの特異な「歴史現象」について、ふれねばならないと考えます。この〈歴史現象〉とは、いわゆる「おかげまいり」であり、「ええじゃないか」です。
 この「おかげまいり」「ええじゃないか」は、「たんに神道史や宗教史上の問題であるだけでなく、日本歴史の本筋にかかわる問題であり、その歴史を動かす底流と考えられる、民衆の自発的行動の形式や法則を知るうえでの、重要な歴史事実」とされているものです。
 それはともかくとして、たとえば幕末の一八〇〇(寛政十二)年夏、富士山の登山者が、須走口だけで約五四〇〇人に及んだ、というような事実は、この「おかげまいり」の考察なくしては解釈できないと、ぼくは思うのです。「それほど日本民族は山好きだ」などという単純な子供だましの説明では、どうも納得ゆかないのです。

「おかげまいり」とは

「おかげまいり」、はて何だろう。ヤクザの「お礼参り」みたいなものかしら、などと考える人もあるかも知れません。
「おかげまいり」(御蔭参り・御影参り)とは、近世日本において周期的になんどかくりかえされた、集団巡礼運動です。その最盛期、たとえば一七七一(明和八)年には、関束以西、北九州に至るほとんど全域にわたり、約二〇〇万人の民衆が参加したといいますし、一八三〇(文政十三)年には、約五〇〇万に達しました。
 単純に二〇〇万とか五〇〇万とかいいますが、いまみたいな交通機関がある時代じゃないですし、一般人民には自由な旅行がゆるされなかった封建時代のことですから、それは大へんなことであったはずです。
 しかもその間、天からお札がふったとか、死人がよみがえったとか、いろんな奇蹟がいい伝えられました。人びとは踊ったり歌ったりして、熱狂のうずの中を伊勢へと参宮したわけです。
 幕末の一八六七(慶応三)年の「ええじゃないか」は、明らかに、この近世「おかげまいり」の伝統を利用して、政治的にひき起された混乱であったようです。
 人びとは、仮装したり、あるいは裸になったりして、手ぶり身ぶりおかしく踊り歩き、商人の家などへ土足のまま「ええじゃないか、ええじゃないか」と上りこむと、主人は酒肴でもてなして、「ええじゃないか、ええじゃないか」と笑っていたといいます。E・H・ノーマンは、「大衆的熱狂が、徳川の行政機能を麻ひさせ」たとしており、この時期に、倒幕、王政復古が行われたわけです。
 さて、近世「おかげまいり」は、文献にあるものだけで、七回あります。一六五〇(慶安三)年に始まって、大体六〇年おきにくりかえされております。
 そして、この「おかげまいり」は中世の巡礼運動につづくものです。
 中世の民衆は、おいつめられた希望のない現実をのがれでるために巡礼を行なったようです。途中でうえ死する人もありました。しかし、巡礼者はみな、「生きて罪業をつくるより、死んで善因をむすぶほうがよい」といったと、『天陰語録』にあります。そうでありましたから、関所役人は通過を黙認し、茶店の主人はお代を求めず、渡しの船師もほどこしをさえ、したわけです。そして、こういう風潮がさらに、巡礼運動をもりあげたのでしょう。
 こうした状況認識がなくては、天正年間における、立山登拝者数が十五万数千人に及んだなどいうことは、理解できないはずです。天正年間というのは、一五七三年に始まる一九年間ですから、ならして一年に八千人、おそらく多い年は一万をこえたことでしょう。
 そして、織田信長による関所撤廃(天正中頃)、豊臣秀吉、徳川家康の天下統一によって、近世「おかげまいり」発達の歴史条件の一つが作られたことになります。
 近世に入って最初の「おかげまいり」は、前に述べたように、一六五〇年のものです。この時は、江戸から伊勢へ向った人の数は、箱根関所の調べでは、正月頃には一日五、六百人から八、九百人、三月中旬頃よりは一日二千百人に達したといいます。
 彼等民衆が身にまとったのは「白衣」でした。これは、中世以来の社寺巡礼者の風俗で、「清浄」をたっとぶところから用いられました。また彼等は、組ごとに印をたてており、これは「講」を意味するものであったわけです。

自己解放としての「おかげまいり」

 さて、「おかげまいり」と「ええじゃないか」を簡単に説明したわけです。これについての研究はあまりされていないようです。おそらく、明治政府の官製「国家神道」に吸収されてしまったのと、これを研究することは、即「国家神道」にそむくことになるのがその理由でしょう。
 それと、もう一つには、学者のエリート思想と儒教道徳がじゃまをして、「そんな下賤な、野卑な」という感じとなり、いわゆる学者の「ナンセンス論」になったと思われます。
 たとえば、江戸の国学者、本居宣長でさえ、その『玉勝間』で宝永二年の「おかげまいり」の人数を書きとめているだけで、ほとんど無硯しています。
 それでは、「おかげまいり」はどうとらえるべきなのか。
 ぼくとしては、宗教登山との関連でとらえてみたいと思うわけです。といっても、詳しく調べたわけではありませんし、とてもぼくの任ではない。ただ、直観として、「おかげまいり」は、宗教登山の本質へせまるアプローチではないかと思うのです。
 ちなみに、一六世紀後半から始まった富士講の、中興の行者月行削仲(かつぎょうそうちゅう)(一六三三〜一七一七)、その門人食行身禄(じきぎょうみろく)(一六七一〜一七三三)は、ともに伊勢の出身で伊勢信仰の影響をうけています。これは暗示的です。
 そこで、まず、「おかげまいり」が「ぬけまいり」ともいわれたことに注目したいと考えます。この二つは、同じ意味で用られました。
「おかげまいり」が「ぬけまいり」といわれたのは、封建的支配関係、すなわち主従関係や家族関係に、身分的に束縛されている民衆が、自主的にそれを「ぬけ」で、断ち切ることを意味していたからです。それは、明らかに封建制下での、民衆の一種の自己解放であった、ということです。この「自己解放」に関しては、現代の山登りにもその方向性として、あてはまるのではないか、という気がしています。

現代の「おかげまいり」

 二番目には、「おかげまいり」と「世直し」思想との関連です。「おかげまいり」には、早くから「世直し」的思想がともなっていた、といわれます。「世直し」が最も明瞭にあらわれてくるのは、百姓一揆の過程において、でしょう。しかし、この百姓一揆と「おかげまいり」の関連については、人によって意見の分れるところです。つまり、「おかげまいり」が、民衆の闘争エネルギーを発散させる「代償」の役割を果したという見方があり、一方では、そうではないとする人がいるわけです。
 ぼくとしては、どちらかというと、前者はとりたくありません。前者の意見の根拠となっているのは、「おかげまいり」の年には米価が下がっており、一揆も激減しているという事実です。しかし、それだけが納得させうる根拠とはならないと考えます。
 むしろ、「おかげまいり」のような民衆の大移動は、人びとの社会的視野を広めることに役立ったはずですし、それは、「一揆」をより組織的、計画的なものにするのに役立ったのではないでしょうか。
 戦後の日本で、「このおかげまいり」にたとえられるような、民衆大移動が起りました。一九六五年の開国(外貨の自由化)後の、外国旅行ブームです。それは、明治以来、日本の支配者どもが、「御神体」としてまつりあげたヨーロッパへの「おかげまいり」であったかも知れません。
 それはちょうど、「おかげまいり」がそうであったように、「支配者があがめるもの」を民衆の側へうばいとろうとする運動であった、といえます。一九六五年の開国後の、ヨーロッパ・アルプス・ブームは、そういう意味をもっていた。つまり「アイガー東山稜神話」への「おかげまいり」は、同時に、それをうばいとり、崩壊させるための行動であったといえます。
 また、「労山」の行なった、百人をこすヨーロッパ・アルプス集中登山は、まさに現代の「おかげまいり」「講」登山ではなかったでしょうか。そして、「ヒマラヤ・トレッキング」あるいは、ヒマラヤ登山ブームも、こうした文脈の中で初めてとらえ得るのではないか、と考えています。

大塩平八郎の富士登山

 「おかげまいり」の、封建制下での、人民解放運動としての側面については、すでに述べました。ところで、それは同時に、「日本民族形成運動」でもあった。これが、三番目です。
 こういういい方は、かなり誤解されやすい。「日本民族」などといういい方は、かなり特別のイメージをもたされてきたということです。
 しかし、民族の自主的な統一に、宗教がからんだのは、歴史の必然みたいなものでした。「事実、世界史における近代の形成過程においても、宗教改革運動がブルジョア革命に重大な役割を果している。つまり、宗教改革運動とは、中世的封建的宗教にたいする改革であり、民族的な宗教形成の運動であった」のです。
 ところが、わが日本においては、これがすべて、「天皇の祖先神にたいする、庶民の回帰運動」というふうに、歪曲されてしまいました。
 たとえば、「我が国体に対する庶民の自然発生的な自覚的、復古的運動」として、「おかげまいり」をとらえるというのが、これにあたります。
 こういうとらえ方が、戦中的皇国史観に立つものであるのは明らかです。しかし、伊勢信仰が、近世に至るまで、国民のあるいは民族の信仰であったことなど、一度たりとてなかったのですから、「回帰運動」などというのは大ウソです。
 さて、先ほどちょっと述べましたが、「富士講」も「伊勢講」とならんで大きな「講」です。富士山は、日本では一番大きな山であり、また美しい山です。そして、近世後期に入ると、この富士山にたいする人びとの関心が異常に高まってきます。こういうことも、日本人の民族意識の高まりと関係があると思われます。
 こうした「おかげまいり」に見られる。民族宗教への胎動は、時の支配者には歓迎されませんでした。とくに、「富士講」は、幕府から再三再四弾圧されています。
 この幕府の抑圧政策を、神道信仰が「尊王」と結びつくことを幕府がおそれた、と見るのは大きなあやまりです。それは、神道信仰が人民階級を自主的に結合させつつあることにたいする恐怖であった、に違いありません。
 さきに本居宣長が、「おかげまいり」に関心をもたなかったと述べましたが、一つには、こうした幕府の抑圧政策にも、大きな原因がある。支配者は、民衆エネルギーと知識人の結合を、もっとも恐れていたからです。
 そして、こういう状況をふまえて初めて、ぼくに、大塩平八郎(一七九三〜一八三七)の行動が理解できます。
 彼は、一八三三(天保四)年七月、前年より、もう天保の大飢饉が始まり、各地で一揆・打ちこわしが起っていますが、富士に登り、自著『洗心洞剳記(せんしんどうさつき)』を納めているのです。
 四年後に彼は、いわゆる「大塩の乱」を起しますが、その時の檄文、つまりアジビラの裏に、伊勢神宮の御礼をはりつけて、これをばらまいています。
 さらには、幕末に無数に行なわれたと考えられる、国学者、文人の登山も、一つにはこうした社会状況の中で、とらえらるべきだと思うのです。
 すでに、問屋制商業の広汎化とマニファクチァーの部分的完成が、プルジォアジーの成立を可能にし、ここに、登山を登山としてのみ楽しむ人びとが多数いたことは当然としても、そうした社会背景にのっとった考察が、どうしても必要だと、ぼくは考えるのです。

『新宗教の発明』

 民衆の自己解放運動であり、「世直し」の欲求をはらんだものであり、自主的な宗教改革連動でもあった「おかげまいり」は、慶応の「ええじゃないか」一八六七(慶応三)年、で終息します。
 この時は、各地に「おふだふり」があり、それも、お礼のみではなく、神像、仏札、仏像、時に十七、八の美女がふったり、生首がふったところもあったと伝えられています。また、小判・金塊がふったり、唐人の家には石がふったりしています。これは、おそらくデマであって、こうゆうことが、京都方の謀略説が生れるところなのでしょう。
 そして、この時のは、各地ともその土地の踊りが中心であったことが、以前の「おかげまいり」と大いに異なるところです。さらに歌われる歌の文句が、また大いに露骨であったことも、その特徴でしょう。
 たとえば京都では、「ええじゃないか、ええじゃないか、おそそに紙はれ、破れりゃ又はれ、ええじゃないか、ええじゃないか」と歌ったといいます。
 そしてこの狂乱のうちに、反幕府方のクーデターが成功して、いわゆる「大政奉還」が行なわれたわけです。そして、この直後、国家の最高機関としての神祗官設置が明らかにされ、新政府の神道国教政策が発表されます。
 しかし、政府によって組織されていった「国家神道」は、けっして民衆が期待したようなものではなかった。それは、絶対主義君主としての、天皇の権威をうらづけるための、神道信仰のおしつけだったのです。
 ここにおいて、三百年の近世封建時代を通じて、民衆が生活の中から育ててきた、人民的な民族宗教は、歪曲され挫折してしまいます。
 同時に「おかげまいり」の伝統も、抹殺され、忘れられてしまうことになったのです。
 そして、ここで行なわれた、未完の維新は、民衆にとっては、幕藩による支配から、天皇による支配への移行にすぎなかった。それは丁度、インドの説話のごとく、鉄の籠からだしてもらったと喜んだ小鳥が、気がついたら、こんどは銅の籠に入れられていた、というようなものだったのです。
 だからこそ、維新政府は、この銅籠の正当性を、北は奥州から南は九州まで、民衆への布告でくりかえし呼びかけねばなりませんでした。
 一天子様は、天照皇太神宮様の御子孫様にて、此世の始より日本の主にましまし、神様の御位正一位など、国々にあるもの、みな天子様より御ゆるし遊ばされ候わけにて、誠に神さまより尊く、一尺の地も一人の民も、みな天子様のものにて、日本国の父母にましませば…‥(明治二年月「奥羽人民告諭」)ー
 これに対して、もちろん民衆は大抵抗を試みます。いわゆる「自由民権運動」です。しかし、悲しいかな、政府の方が強かった。後にも述べますが、明治の政権は、外国人顧問に多くのアドヴァイスを受けていました。
 フランスのとくに進んだ憲兵制度、ドイツの弾圧立法などの、欧米の最新民衆コントロール技術が、直輸入されて利用されました。
 この時、民衆弾圧の指揮をとったのは、松方正義内務卿でした。(この人の子息が、最近おなくなりになった、日本山岳会や日山協の会長を務めた松方三郎です)
 彼は、明治十四年から大蔵卿になり、全く破たんしていた、明治財政を立てなおします。この成功の秘密は、ヨーロッパ諸国が行なっていた「植民地からの収奪」方式を、日本民衆の大多数をしめていた、農民、小市民に適用したところにあるとされています。
 松方財政は、「ここ数年の間に数百万の小豪農・自作農をおしつぶし、六十万戸に近い農家を解体させ、五万社に近い小会社を倒産させて、死骸の山を戦車でひいてゆくように勝利のうちに驀進した」(中央公論社『日本の歴史21』)のです。
 かくして、明治の新政権をゆるがせた「民権運動」も息の根をとめられてしまうのです。
 こうして、完壁なまでの、日本天皇制は確立することになります。
 小島鳥水が、「チェンバレン先生の名は、明治早期の登山時代に、いち早く、しかも鮮明に、掲示された先駆者の標札である」(こういういい方のでたらめさについては、後に述べますが)として紹介した、B・H・チェンバレンは、ことの本質を見ていた、とぼくは思う。
 彼は、英国で天皇制批判の本を出版し、それに『新宗教の発明』という題をつけました。そして、この中で次のように書いているのです。
 一日本政府の官僚たちが、自分の利益のために天皇を神にまつりあげ、国民をして政府に盲従せしめる奸策を弄した。(中略)日本の学者は、日本の起源が伝説のような古いものではないとよく承知しているのに、政府がそれを許さないので、かれらはいわない。いえば、妻子が飢えるほかないからだ(「盗みの考現学」P一二五)

「ウェストンの宗敦登山観

 さきに述べた、チェンバレンは、一八七三(明治六)年、海軍大学講師として来日しました。彼もその一人なのですが、明治維新後、実に多くの雇われ外人がやってきます。初期の明治政府は、自分たちの力不足を、彼等の力でおぎなおうとしたわけです。
 その大半が技術関係であったのですが、その数は、わが国の技術陣が自主性を確立する明治十八年までに、のべ三千人以上に達したといいます。
 当然、外国人による登山が行われることになる。日本の山はもう、十分に登られていたのですから、彼等にとっては、一つの旅行にすぎなかったはずです。
 日本アルプスが、「白紙の山岳地、暗黒の秘密国」(小島烏水)などというのは、誇張もいいとこで、烏水が初めて槍ヶ岳へ行った時には、槍の穂にはくさりまでついていたのです。おまけに、彼はどうやら、喜作に案内さして、引っぱりあげてもらいながら、それをひたかくしにしたらしい、という人もいる位です。
 だいたい、小島烏水という人は、かなりけしからんと、ぼくは感じています。がまあ、それについては別の機会にゆずることにします。
 話をもとにもどして、外人による登山が増えた、あるいは相対的に増えた、ということには、それなりの理由が考えられます。
 当時は、激しい民衆運動の高まりがあり、明治新政権はゆらいでいました。その状況の中では、外国人は別として一般民衆は旅行できなかったということです。
 たとえば、一八八一(明治十四)年、横浜駐在アメリカ総領事ヴァン・ビュレンは、次のように述べています。
 彼は、日本の政治体制の中に「古い絶体主義の一特質だけは厳として存続している。それは全人民にたいする警察の監視である」とし、「こうした監視はきわめてきびしいので、日本人は当局の許可がなければ、旅行はおろか、他県で眠ることさえできない」と述べているのです。
 ウェストンも、二度目の富士登山の時(明治二十六年)、「野暮くさい紺の制服をきた日本の巡査」にとめられ、その「のっそりとした公安の番人」に旅行許可証の呈示を求められ、制止された経験を語っています。
 さて、これらの外国人は、日本の宗教登山をどう見たのでしょうか。
 ぼくも、極めて調べ足りませんが、たとえば、ウェストンの『日本アルプスの登山と探険』を、パラパラとめくっただけでも、次のような興味ある記述にぶつかります。
 一富士には毎年何千という巡礼が宗教的な熱情と結びついた登山の醍醐味を求めて登山する……(傍点は当方)(第十章)一
 −日本の巡礼はほとんどいつも信仰に名をかりた物見遊山の性質をおびているので、こうゆう騒がしさを生ずるのである。こうゆう東洋の山岳団体は、ヨーロッパのいわゆる山岳会とは組織が違っている(第十三章)ー
 彼は、宗教登山は登山でないなどと、少しも考えていないではないですか。さらに、
 一道中にくわしい経験者が先達に選ばれる。これは一種の案内人であり、世話役である。その点、クック観光団の案内人に似ている(第十三章)ー
 さらに決定的には、これはもしかしたら、訳の間違いかも知れませんが、ウエストンは、御嶽開山の祖のことを「登山家」と記しているのです。そして、この「普寛霊神」の名をしるした一枚岩の碑を見て、シャモニにあるモン・ブランのパルマ(モン・ブランの初登頂者)の記念碑を想い出すのです。
 どうです、みなさん。ウェストンは、実に素直で冴えた観察者ではなかったでしょうか。
 ぼくたちは、ある偏見にみちた、固定観念を吹きこまれていたのではないでしょうか。そして、そういう偏見を流布したのは、誰であったのか。それは、あばき出されねばならないと、ぼくは考えます。 (つづく)
(たかだ・なおき)

スポーツ神話について

スポーツ神話タイトル
登山と「神話」その1 スポーツ神話について

スポーツ登山について
 先頃、『ノストラダムスの大予言』という本が、話題になったことがありました。何人かの若者から、この本についてのコメントを求められ、しぶしぶ読んでみたわけです。
 あんまりバカバカしい内容なので、途中でいやになりました。あれを感心して読んだ人がいるとしたら、頭の程度が知れるかも知れません。というよりか、あんなもののインチキささえ、正確に認識できない国民を作りだした、教育の責任が問われるべきです。
 最近では、「ユリ・ゲラー」に始まって、「念力少年」が巷の噂を呼んでいます。ぼくにとって興味があるのは、本当にスプーンは曲がるのか、インチキかそうでないか、そういうことではないのです。そんなことは考えるまでもない。「念力少年」がブラウン管の話題となり、人々の関心が、そんなどうでもよいことに集中することによって、喜ぶ奴は誰なのか。
 無意識的にしろ、そういう非科学的事象をデッチあげ、日常化しようと策しているのは、どういう人達なのか、そういうことに最も興味をもちます。照れ臭さをおし殺して、大上段にふりかぶっていえば、社会点視点とでもいえるでしょうか。
 さて、ぼくは考えるのですが、もともと、「山登り」というものは、実体としてはない。一つの抽象概念です。あるのは、山へ登る人間、生身の人間がいるだけです。同様に、「クライマー」などはなくて、クライミングする人間がいるだけです。「クライミングする人間」の最大公約数が「クライマー」のイメージとなって当り前のはずです。でも、どうもそうではない。クライマーのイメージは、適当に捨象・抽象され、美化された形で、クライムしようとする人間に押しつけられ、さらには、人々がそのイメージに向かって、かり立てられることになる。そうなっている状況を、ぼくは、「クライマー神話」があると呼ぶわけです。
 いやに傍観者的に、あるいは評論家的に述べていますが、ぼく自身、決してこういう「神話」から自由ではなく、それにしばられているようです。
 たとえば、「アルピニズムとは……」などと始めると、もうどうしようもありません。それほど、言葉の呪縛は大きいともいえるでしょう。これはまさしく「アルピニズム」神話です。このやりきれない、袋小路から脱出するため、ぼくは、去年の『山と渓谷』四月号に、「神話へのクライムから、内なる呼び声によるクライムヘ」の小文を書いたわけです。
 ところが、よく考えてみると、「内なる呼び声」そのものまでも、「神話」に犯されているようなのです。そうであれば、残る方法は、「神話」自体をじっくり見すえ、その偽瞞性をあばくしかない、と思うようになりました。やり方は、もろもろの「神話」を社会的視点でとらえることです。
 今回は、まず大前提として、「スポーツ神話」をとりあげてみたいと思います。スポーツとは

 スポーツをどう定義すればよいのか。これは、なかなかしんどいことで、ぼくは、のっけからもう、お手あげしたい位です。
 しかし、すでに述べたように、必死にスポーツの定義を考えても、ことの本質には近づけないかも知れない。あの「念力少年」の例と同じことです。「定義もできないくせに、スポーツを論じる資格があるのか」などというのは、一種のいちゃもんではないですか……などと、ここで開き直っておきます。
 さて、これまでに、そこかしこに見られる、スポーツの定義のほとんど、あるいはすべてが、全く方向性ゼロという特徴をもっている(方向性ゼロということほど、強烈な方向性はないのですが…)と、ぽくは思います。
 そもそも、「sportの語源は、ラテン語のdis-porterであり、それはcarry awayすなわち″実務から転換する″ことを意味していた。このラテン語は、後にフランス語のdisporterあるいはdepoterとなり、さらに英語のdisporterからSportへと変化してきた。」などという説明に、ぽくは何となく、『ノストラダムスの大予言』を連想します。
「古代ギリシャのスポーツは……」などと始まると、オリンピックを想いだして、気色が悪くなります。それに、この云い方は誤まっていると考えるべきです。古代ギリシャに行われた、闘争的な競技は、ぼくたちが用いる「スポーツ」とは、明らかに異質のものであるからです。
 ぽくが考えるには、「スポーツは、近代ヨーロッパ社会において生みだされた、だから近代的性格をもった運動の様式」といえます。
「近代ヨーロッパ社会」という中には、二つの要素があります。その一つは、資本主義社会であり、自由競争の時代であったということ。いいかえれば、能力主義と「弱肉強食」「適者生存」のダーウィニズムの思想が主流を占めていた。
 これは、当時のブルジョアジーの思想です。ブルジョアジーというのは、これが、二つ目の要素になりますが、貴族階級をうち倒して、成立した人々であったということです。貴族階級に独占されていた「遊び」を奪いとることが可能になって、始めて、「スポーツ」が成立したわけです。この点が、極めて重要なスポーツの方向性だ、とぼくは考えるのです。大衆化への方向性とでも云えましょう。
 しかし、この方向性は時代の主人となった「ブルジョアジー」によって、むしろ逆転させられます。そして、能力主義や適者生存の論理は、そのまま、スポーツの世界に反映し、閉鎖的に自分達を守るものとなったわけです。

スポーツ登山

「スポーツ登山」などという言葉は、おそらく、というよりか確実に、日本独自のものでしょう。どうしてこんな言葉ができてきたのでしょうか。少々興味がわきます。
 色々の推測は可能でしょう。たとえば、それ以前の探検登山とはちがうという意味で用いられたという解釈。あるいは、登山から始まって、スポーツ登山→アルピニズム→スポーツ・アルピニズム→スーパー・アルピニズムという直列的配置に位置づける考え方。または、より困難をめざす登山という並列的な見方。まあ色々ある。
 ぼくたちは、戦前の天皇主義教育では、物事を一面的にとらえることを強制されていました。一見新生したかに見える戦後の教育に於ては、かなり意図的に、こんどは、無方向に多面的なとらえ方を並べたてられ、困惑してつっ立っている状態です。行動につながる明快な論理をもてないでいる。そして、みんなが考えるように、みんながしているように、ということになってしまうのです。一見民主的のようでいて、決してそうではない。
 だから、ぼくはここで、そういう色々の解釈を並べたてる気持は毛頭ありません。極端にいえば一つのことに関して、百の解釈・百の論理が可能なのです。問題は、そのどれが正しいかではなく、どの階層に立って、どんな方向性と視点でもって、そのどれをとるのか、ということだと思うのです。
 さて、話をもとにもどして、スポーツ登山ですが、こう云い方を始めたのは誰で、どこで使ったのか。そういうことの詮索は、ヒマな人にまかせておきましょう。興味があるのは、この云い方が生れたのはどういう時代であったのかということです。
 それは一次大戦(大正三年)以後だったと、ぼくは考えています。それはどんな時代だったのか。この頃の状況を、歴史本から、いくつかピックアップしてみましょう。
 明治三十六年、十三歳で旋盤工の徒弟となり、大戦後に、労働運動のリーダーとなった野田律太は、こう書いています。
「日本兵器会社はロシヤ注文の弾丸の一部を作るのであった。数が大量なのと期限が切迫しているのだから仕事のやり方は激しいが、能率の上げ放題でいくらでも金を出すのだ。私は十二時間死物狂いで働き十五円稼いだことがあった。ここの労働者は、遊廓やカフェー、レストランでは福の神のように歓迎された。私はこの時代に貯金というものをしたが、百円、二百円とトントン増えて六百円になった」
 つぎは、東京下谷の貧民窟にすみ、労働者の味方を自任した演歌師・唖蝉坊のノンキ節は、こうです。

我々は貧乏でもとにかく結構だよ/日本にお金の殖えたのは/そうだ/まったくだ/と文なし共の/話がロハ台でモテている ア、ノンキだね
 南京米をくらって南京虫にくわれ/豚小屋みたいな家に住み選挙権さえもたないくせに/日本の国民だと威張ってる ア、ノンキだね
 膨張する膨張する国力が膨張する/資本家の横暴が膨張する/おれの嬶ァのお腹が膨張する/いよいよ貧乏が膨張する ア、ノンキだね
 というような状態だったのだけれど、一方では私鉄網をもった都市ができあがり、デパートができました。サラリーマンが主人公になってきた。
 円本ブームが生れ、映画館もでき、競技場・球場もできた。つまり「遊び」が解放されてきた、とも云えるわけです。
 山本茂実は、少しザツではありますが、次のように書いています。
——長年かかってようやく築きあげた明治の経済基盤の上に迎えた第一次世界大戦の余波は、日本に突然の経済好況時代をもたらす。そこにできた国民経済の余裕は一面に学生山岳部を育てた。時あたかも探険期を終ったばかりの北アルプスはこの学生山岳部の活躍に手ごろな玩具を提供した。——
 スポーツ登山がいわれだしたのは、こういう時期だった。

登山のアマチュアリズム

 スポーツは、明らかに輸入されてきた、ということについては、異論はないはずです。
 はじめは、エリートに完全に独占されていたのですが、明治の終り頃になると、そういう状態から脱し始めてきます。
 夏目漱石の処女作『我輩は猫である』には次のような所があります。
「吾輩はベースボールの何物たるかを解せぬ文盲漢である。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、今日の中学程度以上の学校に行なわれる運動のうちで最も流行するものだそうだ」
 この『吾輩は……』は、明治三十八年一月より『ホトトギス』に連載されだしています。また、これより四年前の明治三十四年十一月には、「時事新報社」の主催する競歩大会が行われています。これは、午前四時から午後四時までの十二時間に、不忍池のまわりを七六回歩こうというものだったようです。
 どういうわけで七六回などという数をきめたのか分かりません。とにかく、優勝したのは、七一回歩いた人力車夫の安藤初太郎だったといいます。
 こんな風に、明治の終りにはすでに、スポーツが、新聞社が主催したりする形で民衆に解放されつつあった。
 ところが、こういう風潮をニガニガしく思う考えが顕在化してきた。エリートもしくはエリートと自ら任ずる人達の間に、です。これが、つまり「アマチュアリズム」というわけです。そして、この「アマチュアリズム」は、先ほど述べたように第一次大戦後、「遊び」が民衆に解放されてくる頃になると、極めて強烈となってきます。
 この辺の流れを、日本のアマチュア規定にみることにしましょう。
 日本最初のアマチュア規定は、明治四十四年のものです。抽出して書きますと、年令十六歳以上。学生・紳士たるに恥じないもの。中学校・あるいは同等学校の生徒、卒業生。中学校以上の学生等々です。
 二年後の、大正二年のものでは、中学校の生徒とか学生とかの規定はなくなっています。
 ところが、大正九年になると、全く唐突に「脚力を用ふるを業とせざるもの」という規定が入ります。どうも、その頃になるとマラソン競技には人力車夫や、牛乳や郵便の配達夫が参加し、しかも、上位を占めることが多かったようです。これが、さきの規定が生れた理由らしい。
 つまり、アマチュア規定は、「資格」規定のような体裁をとった、「身分」の規定であった。もっと端的にいえば、「労働者閉めだし」の差別規定であった、ということです。
 たとえば、当時の体協の副会長、武田千代三郎は、次のように述べて、その差別意識をあらわにしています。

——今の選手と称する者自己の品格を重んぜず好んで野郎なる服装を為し、自己の威儀を顧みざること下層の労働者と択ぶ所なきもの多し(傍点は当方)——
 こういう感覚は、当然、山の世界にもあったはずです。「スポーツ登山」を行っていた人達は、そういう感覚をもっていた。
 加藤文太郎が、学生たちに、どうしてあれほど冷たくされたのか。普通は、彼が単独行という、一般的ではない形式をとっていたからだ、とされているようです。でも、これは疑問です。たとえば、大島亮吉は、すでに大正十五年に、G・ウィンクラーを紹介しています。また、伊藤愿も単独行でした。
 やはり、文太郎は労働者であったが故に、白眼視されたのだ、とぼくは考えています。
 現在では、社会も変りました。なるほど、「下層の労働者と変らない」などというようなひどいことを、云ったり書いたりする人は、いないかも知れません。でも、少し鋭敏な神経さえ働かしておれば、こういう意識で物をいっている人が、けっこういることに気づくはずです。
 第二次大戦後、日本の山は、ほぼ完全に大衆に解放されたようです。山における「アマチュアリズム」は消滅したかに思えます。しかし、よく考えれば、決してそうではない。
 この身分差別的発想をもつ「アマチュアリズム」は、新憲法の下でも生きつづけているようです。
 そして、いわゆる「アマ・プロ問題」となって噴出し、最近では、「海外登山推薦基準」となって姿を現わしたのだと思うのです。

スポーツマンシップとは「強者」の論理

 かつて、誰かが、山登りに関して、こんなことを書いたのを、読んだ記憶があります。
「山登りでは、本当に登頂したかどうかは当人しか分らぬ。それを信ずる所に山登りが成立つ。これは、山へ登る人がスポーツマンであって、そのフェアプレーの精神を人々が信じているからなのだ」と。なるほどそうかも知れません。でもこの説明、どうも儒教臭い。
 よく引用されるところですが、池田潔は、スポーツマンシップについて、『自由と規律』に次の様に書いています。

——さてスポーツマンシップとは、彼我の立場を比べて、何かの事情によって得た、不当に有利な立場を利用して勝負することを拒否する精神、すなわち対等の条件でのみ勝負に臨む心掛をいうのであろう。(中略)無論、対象が人間とは限らない。イギリス人の愛好する狐狩では、必ず狐に逃げ切る可能性のあることを前提条件としている。この逃げ切る可能性をスポーティング・チャンスと呼ぶが、この語が彼等の日常生活のあらゆる面に融け込んでいる事実が、彼等のこの点についての深い関心を示している。——
 高校生の頃、この本を一生懸命よんで、なるほどなあ、と感心した記憶があります。
 でも、今はそうはいきません。ほんまかいな、と思います。「狐に逃げ切る可能性」があれば「対等」だって。バカにするな。狐も銃を持ち、ハンターも同等に撃ち殺されることがあって、始めて対等ではないのか、と思います。 なるほど、そうか、スポーツマンシップとは「強者の論理」だったのか、と思います。
 このことを裏づけするように、この本の著者は、次のようにつづけています。
——正当に立向う力をもたないものに対しては刀を打ち込めないのがこの精神ではあるが、今更、外来語を持ち出すまでもなく、かつてわれわれの祖先が刀にかけて尊重してきた大らかな精神と相通ずるものであり、決して珍らしいものではないのである——
「われわれの祖先」という所を、「武士階級」とおきかえると、よりはっきりします。「刀狩り」などやって、刀をとりあげておきながら、「大らかな精神」でもないでしょう。
 さて、スポーツマンシップが「強者の論理」だということは、考えてみれば、極めて当然のことかも知れません。というのは、前にもいいましたように、スポーツは「ブルジョアジー」の作ったものですし、彼らを支えたのは「弱肉強食」の論理だったからです。「自然淘汰説」を中心とするダーウィンの学説があらしのような歓迎をうけ、潮のような勢で普及していった時代に生きた人々によって作られたのがスポーツだったのです。
 ところで、この現代にまで流れる大思潮「ダーウィニズム」を作ったダーウィンです。彼が『進化論』の発想を得たのは、「ビーグル号の世界周航」であったことは、よく知られた事実です。この三年半にわたる船旅の間、彼は八回、船をはなれてのエクスペディションを行っています。極めて興味があると、ぽくが思うのは、彼が至るところで、高い山に登ろうとしていることです。
——このようにして未知の領域を探険しながら至るところで、少しでも高い山をみつけると、必ずその頂上まで達しょうとして、あらゆる努力をはらっているのである。高いところに立てば、そうしないよりも、はるかに広い土地が見わたせるから、登山は探険の一方便であるともいいうるが、彼はまたそうすることによって、はじめてその頂上に到達した人間になるという、一種の虚栄を満たしうることをも否定していない(世界の名著『ダーウィン』中央公論社)——
 イギリスに、アルパイン・クラブが結成されるはるか以前のことでした。〈はじめて頂上に到達した人間になる〉という、登頂へとかりたてる欲求、つまり登山を支える一つの欲求を、ダーウィンがもっていたわけです。面白いことです。そして、「適者生存」「弱肉強食」の論理を作ったのもその当人、その論理を反映しているのがスポーツです。そのスポーツの中で少々特殊と見られているのが「登山」だ、ということになっています。
 少し強引かも知れませんが、もしかしたら、登山は、スポーツの中で特殊なのではなく、極めて本質的なのだ、ということになるかも知れない。
 つまり、登山には、極めて強烈に、スポーツにおける「強者の論理」が反映しているのではないか、と思うのです。
 そうであってみれば、「強者の論理」が告発されている今日、登山もまた問い直される状況にあると云えます。

スポーツと儒教道徳

 先の項の冒頭に、フェアプレーの精神の儒教的解釈による山登りの説明を引用しました。あの場合、「フェアプレー」が意味するところは、「ウソをつかない」ということのようです。
 でも、ウソをつかずに、スポーツなどできません。「トリック・プレー」は、それ自体「ウソ」ですし、ルールを破るところに、スポーツの面白さもある。こういうことが、一切指摘されないで、「フェアプレー」がいわれるところに、ぼくは、まやかしの「神話」を感知するわけです。
 大分前になりますが、NHKの『国盗り物語』で明智光秀が面白いセリフをはく場面がありました。
 家臣の一人が、光秀に「検地帳」を見せながら、「農民は田地を偽って少なく報告しているに違いない。隠し田を探し出して罰するべきです」といいます。すると光秀はこういうのです。「武士のウソは、知媒といわれる。坊主のウソは方便となる。農民は何といえばよいのか。捨ておけ」と。
 話がとぶようですが、フランスで、十二世紀から十四世紀にかけて生れた、物語詩『きつね物語』を引用します。
 これは、きつねのルナールが、悪知恵を働かして、おおかみをやっつける話なのですが、まさに始めから終りまで「ウソ」「計略」「トリック」に満ちています。そして、この物語詩は、おおかみが、「やはりだまされた俺の方が悪かったのだ」というところで終るのです。当時、貴族と僧侶という特権階級に抑えつけられていた民衆が生みだした作品です。
 ついでにもう一つ。『リーマスおじさん』。これは、アメリカ南部の黒人に伝わる民話を集めた本です。これも前のと同じく、弱者が強者に立向うには、「ウソ」しかないことを、主人公のうさぎの行動をかりて語っています。
 さて、日本ではどうでしょうか。同じような民話があったはずだ、とぽくは信じています。しかしその全部が、抹殺されるか、あるいは完全に変形されてしまったようです。それをやったのは、おそらく、明治政府だったのでしょう。読者のみなさんが、何を馬鹿な、とおっしゃるかも知れないので、例をあげてみます。
 まず、有名にして、なつかしい、あの『かちかちやま』から。
 あれは、柳田国男説によれば、二つの部分が合体され、合成されたものだといいます。もとの部分は前半で、後半はつけ足された部分というわけで、何の理由もなく、人間の味方となって仇討をしたりする、正体不明のうさぎが現われます。
 もとからあった部分の前半も、大分変えられています。こういうことは本題ではないので詳しく述べられないのが残念です。一部を述べてみますと、もともとは、捕えられた狸が、おばばをだまし、じいさまに「ばばあ汁」を飲ませてから正体を現わし、「流しの下を見てみい。ばばあの骨があるぞ」という残酷物語なのです。
 狸の側にも、やらなければ自分が喰われるということを認めたうえでの、極めてきびしい民衆の思想がおり込まれていたと考えられるのです。
 つぎは『はなさかじじい』をあげます。これももとはといえば、「枯木に花を」、つまり「死を生に」あるいは「無から有を」という、不可能を可能にしたいという民衆の素朴な夢が生みだした民話であります。そのとき、「枯木に花を」咲かすべく、話を展開さすうえでの舞台回しとして、二人のじいさんが登場するにすぎなかったのです。
 ところが、これを、「正直じいさん」と「欲ばりじいさん」に変形したのは、誰かの悪だくみとしかいいようがありません。
 大正六年にでた、武者小路実篤の『カチカチ山と花咲爺』をよんでみて下さい。現在復刻版もでています。何とまあと思われる位、「儒教道徳」がもり込まれています。
 学校教育においてはいわずもがな、あらゆる場面で、天皇制を支えるものとしての儒教道徳を、徹底して注入された結果、ぼくたちは、「弱者の知恵としてのウソ」等ということを、認めることができなくなった。あるいは、弱者の立場という発想すら、失われてしまったというべきかも知れません。
 中国では、大分以前から「儒教」について、「被支配階級の不満が高まった時期に、それを鎮めるべく説かれた思想」という定義がされていました。最近では、ある中国高官が、「これまでに中国が日本に迷惑をかけたものは、『儒教』と『漢字』だ」と述べています。
 日本の支配者は、この思想をもっと浸透させたいと思っているはずです。でも、まさか、あからさまに「儒教道徳」を鼓吹するわけにも行きません。そこで、スポーツが、最大限に利用されるのだと思うのです。「近代的な運動様式としてのスポーツ」と、全く何のかかわりもない、儒教的徳目が、スポーツの世界にどれほどあるか、一度考えて見るべきではないでしょうか。

「フェアプレー神話」と「ルール信仰」

 サッポロ・オリンピックの少し前に、ある事件が新聞で報じられました。
 強化選手の一人が、酒に酔って車を運転し、おまけに注意した人間を、ポカリとなぐったというのです。別に何のことはない。そこら中で起っている様な事件です。
 ところが、この場合はそう簡単ではなかった。かなり大きな問題にまで発展しました。
 この事件について、オリンピックの関係者も数人、コメントしていますが、ぼくが面白いと思うのは、その選手のつとめ先の上役の弁です。「スポーツ選手だけに、どうしてあんなことをしたのかと、びっくりしている」
 普通の人間ならともかく、スポーツ選手がまたどうして、というのです。彼は、スポーツ選手はこうした事件に最も縁どおいと信じていたのかも知れません。
 そして、こうした信仰は、おそらく、スポーツによって人格がきたえられているはずだから、という前提の上に成立っているのでしょう。
 でも、「スポーツが人格を高める」などというのは、「健全なる肉休に健全なる精神が宿る」と同じく、壮大なウソでしかない。
 勝つためには技をみがかねばならない。そして技をみがくだけでなく、自分に勝たねばならぬ。こういうテーマのスポーツマン物語が、それこそゴマンと作られてきました。
 こういう話の筋書は、ほぼきまっています。強いけれども技だけの、精神的には欠陥のある人間が、日本一、あるいは世界一の座をめざす主人公の前に立ちはだかるのです。そして、苦労はしますが、かならず人格のすぐれた主人公の勝で終ります。
 でもこれはあくまでお話しで、現実がそうなることは、まあないといった方がよい。現実がそうでないからこそ、ぼくたちは、「スポーツマン物語」を喜ぶのだと思うのです。同じ勝つなら、立派な、思いやりのある人に勝ってほしいという、民衆の願望なのです。
 さて、もう一度前にもどって、例の強化選手の場合を考えて見ます。彼がやったことは、飲酒運転と人をぶったこと。人をポカリとやった位ですぐ警察にひっぱられることはない。自分が悪いことをしておいて、注意した人をなぐるとは、という主に人格上の問題です。
 ところが、前者の飲酒運転は明らかに法律を破る違法行為です。つまり、あの上役の言葉の中には、スポーツマンがどうして違法行為をしたのだろう、という意味がこめられていると思われます。
 そして、この言葉には、さらに次の二つの意味が含まれています。一つは、スポーツマンは、ルールを守るフェアな人間であるということであり、いま一つは、スポーツのルールと法律とを混同している、ということです。
 スポーツのルールと法律とは、同じに考えられやすい。しかし、この二つは、全く異質のものです。局限された、非現実空間における、とりきめにすぎないスポーツのルールは、法律とは大ちがいです。
 けれども、この二つは混同されている。そしてスポーツはルールを守ってやるところに成立っている、と考えられている。これら二つのことが、セットされて、「スポーツマンがどうして…‥」ということになるのでしょう。
 これが一般人の見方であり、「フェアプレー神話」です。ところで、「フェアプレー神話」は、選手にもあります。
 国休の開会式で、選手が真剣な顔で宣誓します。「フェアプレーの精神にのっとり、正々堂々とたたかいます」と。彼はきっと、心から「フェアプレーの神話」を信じているのでしょう。その真剣な顔を見ると、ぼくは、すこし気の毒になってきます。彼は、国体の運営が、まったくフェアに行われていると信じているのかしら、あらゆるスポーツの組織が、いかにフェアでないか、知っているのかしら、と思います。
 さて、一般的にいって、スポーツマンは単純であるといえます。あんまりめんどう臭いことはきらいです。これは、スポーツ自体とも関係があるのでしょう。いちいち、みんなで相談して、ポールをパスしていたりしたら、ゲームになりません。
 そもそも、人間は環境の動物であり、習慣は性質となります。スポーツマン的性格が形づくられても不思議ではありません。それに、日本の場合スポーツ集団は閉鎖的な家族主義の中にあり、儒教的道徳をたたき込まれる仕組になっています。
 こういうことが、会社などで、スポーツマンが好評を得ている理由なのでしょう。言葉づかいがよく、はきはきしており、云いつけをよく守り、規律ある行動をするからだそうです。いってみれば、よく調教されているということです。
 高校のホーム・ルーム等で、何かを決めるべく討論しているとき、「こんなことはどうでもいいではないか。先生にきめてもらって、外でソフトボールでもしよう」といいだすのは、きまって運動部の生徒です。
 彼等は、スポーツのルールを、自分達で変えてみんなが楽しめるようにしよう、などとは決して考えません。ルールは不変で、守るべく存在するという「ルール信仰」をもっているようです。おまけに、スポーツマンシップとしての強者の論理も持っている。
 スポーツというものが、こういった「ルール信仰」や、「強者」の論理を含んだ、いわゆる「健全な精神」を育てるとしたら、これは大きな問題といわねばならない。
 そして、スポーツが本質的に持つ矛盾が問い直されないまま、「国民皆スポーツ」などということが、一方的に叫ばれる今日、ぼくたちは、鋭い目を持たねばならない、と考えるのです。

「スポーツ神話」と「アルピニズム論」

 スポーツは、それ自体純粋である、ということがいわれます。表現を変えて、もっと端的にいえば、政治から離れて存在しているのが本来のあり方である、という主張です。
 こうしたスポーツの非政治性の主張は、それを誰がいっているのかによって、その内容が大きく異なっていることに気づく必要があります。
 たとえば、IOCや日本体協が、そういうときには、「大会や競技会に、金だけはふんだんにだして、それ以外の口出しはするな」という意味をもっている。ブランデージといえども、国家つまり政治が、オリンピックに金をだすことを否定したことはないし、もしそういうことになれば、オリンピックが開けなくなることぐらいは百も承知のはずです。大会に消費されるお金は、もともとぽくたちのだした税金ですし、国民のスポーツ要求を保障していくのは、政治の任務なのですから、政治が口出しして当然です。一方、ぼくたち国民が、スポーツの純粋性や、非政治性を叫ぶのは、政治が国民の要求を無視しつづけてきたという、政治不信に根ざしていると考えるべきです。
 言葉を変えていいますと、きわめてささやかな最低限の願いである「遊び」の世界にまで、政治が介入してくることに対するいきどおりが、そういわせるのでしょう。そのいきどおりが、政治の介入を拒否しようという主張となるのだと考えます。
 さて、前の方で、もしかしたら、山登りは極めて本質的に、スポーツであるかも知れないと述べました。そういう意味あいからも、この「純粋性」「非政治性」が、もっとも強くいわれるのも、山登りではないか、と思えます。
 こういう内容を含んで、山登りの世界では、いわゆる「アルピニズム論」が存在する、とぼくは考えています。
 日本ほど、「アルピニズム論」のさかんな国はない、ということがよくいわれます。今までに、実に数多くの「アルピニズム論」があり、それらは、その時々の時代を反映して、色々変化してきています。しかし、一定して変らないものがある。それは、「アルピニズム論」なるものが、社会的視点、あるいは方向性をもたない、一種の「登山至上主義」の中で論じられていたということです。
 たとえば、「高山は、地球の上の、一つの別世界である」という考えがあります。別世界といっても登るのは、生身の人間で、別人間というわけではない。それを、あたかも真空のガラス鐘の中にあるかの如くいうのが「登山至上主義」です。
 また、「つまるところアルビニズムの精髄は、自己の生命力の根源につながるもので、下界的な虚飾とは無縁な存在であろう」などというのも、おなじ発想で、一つの幻想です。
 ルネ・デメゾンが、「人間が機械に支配され、、事務所に釘づけになり、金銭を崇拝し、自らを奴隷状態に帰しているような、〈金〉がなにより力があるようないまの時代…‥」という時代認識をして、「豊富な経験と最良の準備さえあれば、登山の危険は完全にのぞくことができるなどと思い込むことは、空中楼閣を描くのに等しい。アルピニズムは、明らかに危険なスポーツである」と述べてもそれはそれだけのことです。「デメゾンだけに云えることだ」くらいで片づけられてしまいます。たかだか、生命保険の団体加入がいわれる位が関の山で、たとえ「危険なスポーツ」であっても、その「スポーツ」を行なう権利を保障すべきだ、というような主張など、生れる余地もありませんでした。
 最近、この雑記の33号に、二つの「アルピニズム論」がのりました。どちらも明快で、かなりの共感はおぽえましたが、同時に、あるおぞましさをも感じました。
 たしかに、美化された「神話」におどらされている自分に気づいたとき、その怒りを込めた主張は、ニヒルになり、アナーキーになる。変にモラリスティックな考えによって、真実がかくされて、「たてまえ」だけがまかり通っていることが腹立たしくなったら、主張は暴露型にならざるを得ません。だから、ぽくには、あの 「ニヒリスティック・アルピニズム論」あるいは「アナーキー・アルピニズム論」はよく分かります。あるいは、肯定的な意味あいでの、ポルノ的な「アルピニズム論」といえるかも知れない。しかし、これまでの「アルピニズム論」と質的には同じです。
 ただ、こうした「アルピニズム論」がいわれだしたところに、ぽくは、自由化へのたてまえとはうらはらな、管理社会の進行と、時代の閉塞状況を感じるのです。
 そして、そうやって、怒りを「アルピニズム論」にぶちまけたところで、何の質的転換をも得られない。高貴とされてきた「アルピニズム」を、実はくだらなかったのだと暴露し、「永遠にくだらなくあれ」と絶叫しても、それはそれだけで、何物をも生みだしはしないと思います。
 どうしてかというと、これらの「アルピニズム論」を生みだした怒りが、未組織の怒りであり、個人の「遊び」を守ろうとする怒りに止まっておって、国民全体の「遊び」の権利を守ろうとするような怒りになっていないからなのです。
 やがて、こうした怒りが、国民全体という視野と展望の中で組織され、結集されるという状況が生れたとき、まったく質的に異なる「アルピニズム論」が生れるかも知れない。あるいは、「アルピニズム論」は消滅し、末期症状ともいえる、この「山登り」というスポーツが、新しく蘇えるかも知れない、と考えるのです。(つづく)
(たかだ・なおき)

『ホモ・ルーデンス』について

ホモ・ルーデンス
登山と「神話」その五

『ホモ・ルーデンス』について

 遠藤周作の「ぐうたらシリーズ」が、どんどん売れつづけているのだそうです。
 だいぶ前には、「マジメ人間」ということばが流行しました。こういうことばができ上ったこと自体、「フマジメ人間」がある存在意義を認められたことを意味していた、ぼくはそう思います。「まじめに働くことが、日本の繁栄と幸福につながるのですよ」という、支配者のかけ声に、民衆が首をかしげ始めたことをも意味していたかも知れません。
「まじめ」の対極にあるのが「ぐうたら」です。
「まじめ」はいいが「ぐうたら」はわるい。単純にいえば、そうなります。
 しかし、そう単純には考えられない。考えるべきではない。ただただ真面目に働いた結果として加速度的におこってきた、いろいろの、とんでもない社会現象を見て、民衆は考え始めたのではないでしょうか。
 気づいている人は多くはないかも知れませんが、日本的なタテマエ主義の「マジメ人間」の時代は、もう去りました。そして「グウタラ人間」あるいは「ハミダシ人間」の時代がきているのかも知れない。
 さて先号で、「山の死」の問題には「遊び」の社会的位置づけの問題が関わっている、とチラリと触れました。
 このごろでは山関係の文章の中に、「遊び」ということばを見つけるのは、さほど難しいことではありません。「ホモ・ルーデンス」などというのは、ごろごろしています。
 最近では、カイヨワも流行のようで、例えば、野村哲也さんは、「山と渓谷」一月号に次のように書いておられます。
 一登山が所詮は個人の遊びであるとすれば、記録のためとか、登山のハクをつけるために人のお膳立てした遠征隊にのっかるといったような要素が加わっては、カイヨワ『遊びと人間』のいう恍惚と目まいの境地に酔いしれることはできない一
 ところで、登山が個人の遊びであることがはっきりと、そういわれだしたのは、そんなに古いことではなさそうです。
 そんなにバッチリ調べたわけではありませんが、明確にそう規定した「云い出しべえ」は、どうやら京都の塚本珪一さんみたいです。
 一いろいろと理屈をこねたとしても、やはり登山は〈あそび〉である。〈あそび〉ではなく、人間限界に対する自己への挑戦、自然征服であるとしても、それは単に自己の行動の理屈づけとごまかしだと思う。正直にたのしい〈あそび〉、自分のための、自分を大切にする〈あそび〉といえばすっきりするだろう。徹底した〈あそび〉としての登山は結果として〈個人に属する登山〉の成立を見るだろう。(『岩と雪』10号、「続・登山は個人に属すべきである」一九六七)一
 一九六七年当時としては、これは極めて新鮮な主張でした。一方的なおしつけ的ムードで、伝統的な「聖なる登山」論がありましたが、登山はすでに大衆化の時代に入っていたからです。しかし、今日では、こういうことは常識となってしまいました。
 むしろ「個人に属し」きって、個人個人に分断孤立させられている、ぼくたち山に登るものたちは、どのようにして連帯を回復すればよいのか。それが問題となってきている。そう考えます。
 ここに「遊び」の問題が浮かび上ってきます。ぼくたちは、「山の世界」でよく「遊び」をロにしますが、はたして「遊び」を正確に理解しているのだろうか。はなはだ疑問です。特にこの日本の精神風土においては……。
「アルピニズム」などというものが、ぼくたちの連帯に、もう何の効果ももたなくなった今日、「遊び」の再検討は何かの「ヒント」になるかも知れない。
 そういうわけで、今回は、「遊び」をとりあげたいと思います。〈レジャー〉から「遊び」へ

「遊び」について語られるとき、きまってでてくるのは、〈ホモ・ルーデンス〉です。
 これは、あなたもとっくにご存知の通り、遊戯人という意味です。遊び人間といってもいい。こうした「ホモナントカ」というやつは、これに限らず、ほかにもいっぱいあります。〈ホモ・サピエンス(知性人)〉〈ホモ・ファーベル(工作人)〉〈ホモ・エコノミクス(経済人)〉〈ホモ・ポリティコス(社会人)〉……。さらには、梅棹忠夫のいう〈ホモ・エクスプローラートル(探検人)〉や黒川紀章の〈ホモ・モーべンス(移動人)〉なんてのもあって、これはもう「いっぱいある」というより、「いくらでも作れる」といった方が正しいかも知れません。
 さて、〈ホモ・ルーデンス〉を作ったのはオランダの学者であるホイジンガーです。
 彼は、一九三二年に『ホモ・ルーデンス』を書きました。三〇年代というヨーロッパ社会の激動期にでたということには意味があるはずですが、それについては後にふれます。
 さらに、ホイジンガーの「遊び」論を、一部手直し的に批判しながら継承したのが、カイヨワの『遊びと人間』です。
 よく知られているのは、この二つなのですが、他にもいろいろあるようで、たとえば、フィンクの『遊戯の存在論』(一九五七)。
 ところで、ぼくが面白いと思うのは、こうした「遊び」論が日本で続々と出版されるのは、七〇年代に入ってからなのです。
 ちょっと列記してみましょう。
一九七〇年 一 カイヨワ『遊びと人間』清水幾太郎・露生和夫訳(岩波書店)
一九七一年 一 『ホモ・ルーデンス』里見元一郎訳(河出書房新書)。多田道太郎・塚崎幹夫訳(講談社)。フィンク『遊戯の存在論』石原達二訳(せりか書房)
 とまあこんな具合なんです。
 どうしてなのか、ぼくもあんまりよく分りません。けれども、「遊び」に対する関心の高まりがあったことは否定できないと思います。
 もしかしたら、学園紛争・七〇年安保と続いた日本の激動が、何らかの作用をおよぼしたのかも知れない。
 さらには、クラシック・コンサートの不況、マンガ本、ポスター・ブーム、ポップ・アートの隆盛、ボーリング・ブーム、蒸発人間や家出少年少女の激増等は、一見何のつながりもないようでいて、深いところでつながっているように、ぼくには思えます。
 六〇年代になって、日本は、いわゆる〈レジャー・ブーム〉の時代に入ります。〈レジャー〉は流行語となりました。ところで、この〈レジャー・ブーム〉は、明らかに企業によって、意図的に作りだされた。これは重要な点です。
 物見遊山その他で民衆が遊ぶことで、利潤が追求できることに気づいた。おまけに、それによって、勤労意欲が高まり労働効率が高まれば、こんな結構な話はない。まさに一石二鳥というわけです。
 ところで、そもそも〈レジャー〉とは、余暇なのでして、労働・仕事に従属したもので、それの効率を高めるためのものというニュアンスが強い。「余暇の善用」というたぐいです。
 ところが、「遊び」となると少々異なります。だから、「遊び」が関心をもたれるようになったということは、単なる言葉のはやりすたりというだけの問題ではなく、実に興味あることだと思うのです。
 こうして、「遊び」に関心をもつ人がふえ、「遊び」が前面にでてきたということは、日本という特殊な国では注目すべきことではあります。がそれは、人々が「遊び」を、正確にとらえたことを意味しません。

ホイジンガーの危機感

 ご承知の通り、「遊び」についてもっとも総合的に考えた最初の人が、J・ホイジンガー(一八七二〜一九四五)というオランダの文化史家です。
 彼は、『ホモ・ルーデンス』(一九三二)を著わし、〈ホモ・ルーデンス(遊戯人)〉を〈ホモ・サピエンス〉、〈ホモ・ファーベル〉と同じく、というよりか、より本質なのだとしました。
 彼はまず、「遊び」の理念、あるいはモデル概念を構成し、それを考察の出発点としました。
 一形式について考察したところをまとめて述べて見れば、遊びは自由な行為であり、〈ほんとうのことではない〉としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何の効用を織り込まれているのでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間のなかで遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範を作りだす。それは自ら好んで秘蜜で取り囲み、あるいは仮装をもって、ありきたりの世界とは別のものであることを強調する。一
 つまり、ホイジンガーの定義によれば、「遊び」は次の五つの点によって特徴づけられることになるようです。
 1.自由 2.非日常性 3.没利害 4.時間的・空間的な分離 5.特定のルールの支配
 さて、まえにいったように、これが書かれたのは、三〇年代のヨーロッパ社会の混乱期でした。「遊び」が乱れてきた。ホイジンガ一には、そう感じられたのだと思います。
 こうした危機意識あるいは間題意識は、『ホモ・ルーデンス』を流れるモチーフです。
 それは次のようなところでも明らかです。
 一 文化はある意味では、いつの時代でもやはり一定の規律への相互の合意に基づいて遊ばれることを欲している。真の文明はいかなる見方に立とうと常にフェアプレーを要求する。……遊びの協定破りは文化自体を破壊する。一
 さらに、
一 文明のもつ遊びの内容が文化創造的であろうとするなら、……それは理性や人間性や信仰によって定められた規範から迷いだしたり、それに違反してはならない 一
 どうですか。あんまり有難がるようなものではないでしょう。まったくけったくそわるい。
 つまり、ホイジンガーとは、「遊びの大衆化」の傾向を感じとり、それに反発した学者という定義ができるわけです。「遊び」を人間の本質としたのは、当時としては冴えた見解ではあったのでしょうが、民主制をきらう彼の「遊び概念」は、美的表現の方に傾き、貴族的個人主義のそれにとどまってしまいました。
 そして、「遊び」のもつ「共同生活」性を一応指摘しただけで、〈遊戯人〉と〈社会人(ホモ・ポリティコス)〉とを関連づける視点をもなかったわけです。

カイヨワの「遊び」論

 さて、このようなホイジンガーの「遊び」論を、批判しつつ継承したのが、ロジェ・カイヨワ(Ro-ger Caillois 1913〜)です。
 彼によれば、ホイジンガーは「遊び」の〈文化創造的な面〉にあまりにとらわれすぎ、そのため、たとえば賭博といった〈非文化的〉な遊びを見落した。ホイジンガーのいう「遊び」は、〈闘争の遊び〉と〈表現〉の二つになってしまう。そう批判したのです。
 彼も、ホイジンガーと同じく、「遊び」のモデル概念を設定しました。
 それは次の四つの基本原理によって成立つことになります。
 1.競争−スポーツ(身体的能力)、チェス(知的能力)
 2.偶然−くじ、賭け
 3.模倣−芝居、変装、仮面、「変身の遊び」
 4.眩暈(めまい)一こどものぐるぐるまい、ジェットコースター、オートバイ、スキー
 以上なのですが、特にこの4がカイヨワの独創であって、カイヨワの「遊び」論は、これによって印象づけられているといってもいい位です。
 さらに彼は、(1)と(2)の要素が結合したものを、「脱所属の遊び」。(3)と(4)を「脱自我の遊び」と規定し、「脱所属の遊び」から「脱自我の遊び」への移行のなかに、文明化の道を見ようとしました。(しかし、それにもかかわらず、「脱所属の遊び」が、再湧出することを否定的に予見しています)
 さて、カイヨワのホイジンガー批判のもう一つは次のようなものです。〈ホイジンガーは「遊戯的もの」と「聖なるもの」とを混同している〉
 つまり、ホイジンガーの場合、常に「遊び」と共に「聖」の力が働いていました。彼にとっての「遊び」は「聖なるもの」でありました。
 だからこそ、文化のなかの「遊戯要素」の衰退は、「世俗化」の進展のしからしむるところであり即「聖」の力の衰弱であると感じ、危機感をいだいたわけです。
 ところが、カイヨワの場合、「遊び」は「聖」でも「俗」でもありません。「遊び」そのものです。だから「遊び」は厳粛である必要はなく、「聖」に較べてはもちろん、「俗」に較べても、はるかに気楽で自由な領域だったのです。
 この二人の場合を較べると、あなたがお気づきのように、カイヨワの方がはるかにドライでナウイです。
 このことは、カイヨワの『遊びと人間』が一九五八年に書かれたことを考えれば、容易に納得がゆきます。ヨーロッパ社会は、ホイジンガーの三〇年代とは、すっかり変っていたのです。

真の〈自由〉と真の〈遊び〉

 さて、プラトンはこう書いています。
一 最高のまじめさをもっておこなうだけの価値のあるものは、ただ神に関することがらだけであり、人間はただ神の遊びの玩具になるようにつくられている 一
 オリンピアの競技も、人間が神の玩具となって競われるものであり、本当に遊んだのは神だったのだそうです。
 神代には、人間は遊ぶ存在ではなかった。これは日本の場合も同じです。天の岩戸の前でストリップを楽しんだのは神々です。余談ですが、「面白い」の語源は、この時岩戸が開いて、神さまの面が白く光ったところにあるといいます。
 中世になって、人間も遊べるようになりました。とはいっても、「遊ぶ自由」を有したのは、「自由」をもった特権階級の貴族だけだった。
 そしてこうした特権階級を打倒すべく、力をたくわえてきたブルジョアジーが革命をおこします。この時、ブルジョアジーが要求したものの一つは「自由」でした。
 彼等が、貴族が独占していた「自由」をうばい取ったということは、同時に「遊び」を手にしたということでした。
 ところで、こんなことがよくいわれます。「自由には、「……からの自由」と「……への自由」とがある。いやちがう。「自由」をうばいとろうとするプロセスのなかにこそ真の「自由」があるのだと。
 これを「遊び」におきかえても、ピッタリ成立つと、ぼくは思います。
 いずれにしろ、いま極めて雑にザッと見てきた「遊び」の歴史からでも、「大衆化の方向性」という現在にまで続く時代の流れは、賢明な諸氏には充分おわかりでしょう。
 すでに述べたように、ホイジンガーは、こうした流れを認めませんでした。むしろそれに危険を感じたのです。
 それではカイヨワはどうでしょうか。彼の「遊び」における〈めまい〉要素の指摘は卓見ではあります。でも、それはそれだけのことだと思うのです。たしかに、カイヨワの「遊び」論の方がナウいフィーリングがある。とはゆうものの、結局は五十歩百歩の似たようなもんだ。ぼくはそう思います。
 ホイジンガーも、カイヨワも、「遊び」を〈なによりもまず自由な活動である〉と規定し、その本質に「自由」があることを明確にしました。
 しかしながら、その「自由」に関しての、歴史的視点を全く欠いている。というよりか、そういうことには意識的に目をふさぎ、「自由」は、「仮構の世界」としての「遊びの世界」にだけ存在すべきだ。そう考えているかのようです。
 たとえば、カイヨワは『遊びと人間』に第四章「遊びの堕落」の項を設け、「遊び」を「遊び」たらしめている〈実生活からの隔離〉が失われると、「遊び」は堕落する。そう述べているのです。

ホイジンガー、カイヨワの〈ルール信仰〉

 そもそも、「遊び」に関して最初に論じたのがホイジンガーというわけではありません。
 さきほどのプラトンに始まって、シラー、スペンサーをはじめとして、いろいろの人が、いろいろのことを言っているようです。
 だれもそうは言っていないかも知れませんが、もしホイジンガーが「遊び」論の元祖なんだとしても、それは、彼が最初に本をだしたというだけのことだと思うのです。
 それに、もうかなりしつこい位いいましたが、そんなにアリガタイものではない。『ホモ・ルーデンス』より二四年も前に、フロイドが述べていることの方が、ある意味は、はるかに方向性があります。
 一 遊んでいる子供はみな、ひとつの独特な世界を創りだしている。もっと正確にいうなら、自分の世界の事物を、自分の気に入った、ある新しい秩序に置き直している。
「遊び」の特徴は、そうした想像的な仮構性にあり、したがって、「遊び」の反対物は真剣ではなく現実なのだ。大人の空想や、その空想活動の所産である神話、演劇、文学作品なども、基本的には子供の遊びの延長線上にある。それらはすべて「人を満足させてくれない現実の修正」にほかならない。(「詩人に空想すること」一九〇八・『フロイド著作集』第三巻・人文書院) −
 さて、ホイジンガー・カイヨワの「遊び」論のもう一つの問題点は、二人に共通する〈ルール信仰〉です。
 この〈ルール信仰〉については、この「登山と「神話」の最初、スポーツ神話の項で少しふれました。
 とにかく、彼等は、ともに、プレーヤーによるルールの変更・修正を考慮していません。
 彼等によれば、「遊び」のルールは、〈有無をいわせぬ絶対的なもの〉〈一切の議論を超越Lたもの〉であり、よい遊戯者はその根拠を問うことなく、そのままの形でルールを受け入れねばならず、ルール自体に異議をとなえるものは、「遊び」の破壊者ときめつけられてしまうのです。
 こうした考えがいかに反動的であるかは説明するまでもないでしょう。歴史の流れに目をふさいで、それを否定しようというような人間は、いくら偉大な学者であっても、抹殺されるのがまた歴史の必然だと、ぼくは思います。

ピアジェの分析と考察

 ホイジンガー、カイヨワの〈ルール信仰〉に対して、「反動的だ」「抹殺される」などと、血走ったようなことばかり言ってたのではしかたありませんので、ここに有効な反論の素材を引用したいと思います。
 ジャン・ピアジェ(Jean Piaget 1896〜)。スイスの心理学者。彼は特に子供についての実験的臨床研究をおこなって、世界の心理学者の注目をあつめ、著しい影響をあたえたのですが、彼の研究を紹介します。
 子供の遊戯集団の詳細な研究をとおして、彼はゲームのルールに対する子供たちの態度を分析しました。
一〇歳以下、特に七〜八歳の子供の場合 一 年長者に教わった規則を厳守するルールは「強制的で神聖な何ものか」で、絶対的な拘束力をもち変更は許されないとみなされる。
一一〜一二歳の子供の場合 一 ルールは年長者の「権威」にではなく、遊戯集団の仲間たちの「同意」に基礎をおく。だから、強制的にではなく自発的に受入れられるものであり、より楽しく遊ぶために必要とあらば、「合意」によって変更される。
 興味深い分析だと思います。
 それに、なんともケッサクではないですか。ぼくたちのまわりには、股ぐらに毛だけは生えていても、実は七、八歳の子供相当の人間がそこらじゆうにゴロゴロなどというのは‥…。
 さて、ピアジェはこの観察・分析から、次のような考察にいたります。
 一 すべての道徳は規則の体系からなり立っており、すべての道徳の本質は、個人がかれらの規則をどれだけ尊敬しているかという点に求められる。
 道徳は二つに分けられ、ひとつは権威において不平等な社会関係での「一方的尊敬」にもとづく「拘束」の道徳ないし他律の道徳であり、もう一つは、平等な諸個人のあいだでの「相互的尊敬」にもとづく「協同」の道徳ないしは「自律」の道徳である。
 そして前者からは「義務」の観念が、後者からは「より自発的な理想であり強制的というより魅力的なもの」である「善」の観念が形成される。善は義務とちがって、個人の上に社会によって課せられた拘束の結果ではない。(J・ピアジェ『児童道徳判断の発達』同文書院一九五五) −
 小学校の「父親学級」というやつで、ある一流国立大学の助教授が、それは難しい横文字ばかりのでてくる講演をしたんです。その語の中には数限りなく、「子供」と「大人」ということばが使われていたんです。
 あとで聴衆の一人が、「子供と大人とはどこで区別してお話なさいましたか?」と、極めてその質問の意地悪さをかくしながらきいたと思って下さい。
 そのオランダに一年間留学していたという教育学部助教授は、おどろいたことに、全く返答に窮したあげく、「やっぱり経済的に独立して結婚したら大人ではないですか」などといったのです。彼の講演の内容が、これですべてぶちこわしになったことは当然です。
 ピアジェの分析より導き出される「大人への方向性」とは、「より楽しく周囲を作り変える努力をすること」ということになります。
 ところが、普通一般には、これが全く逆転していて、そういう努力を放棄したときに、「大人になった」などとほめそやす。
 そうであれば、この国は子供ばかりであることになり、べつに大橋巨泉の指摘をまつまでもなく、ぼくたちは「遊び」が下手で、「遊べない人々」ということになります。

〈遊びの隔離〉の意味と機能

「人間は、文字通り人間であるときだけ遊んでいるのであって、彼が遊んでいるところでだけ彼は真の人間なのだ」(『人間の美的教育について』一七九五)
 こういったのはシラーです。そして、理想の状態においては「人間は美といっしょにただ遊んでおればよい。ただ美とだけ遊んでおればよい」としたのです。
 しかし、「遊び」がどんどん民衆に解放されてゆくにつれ、そんなことはいっておれなくなりました。
 ここに、ホイジンガー、カイヨワの「遊び」の隔離の主張があらわれてきたのだと思います。〈遊びの隔離〉つまり「遊び」は実生活から隔離されねばならないという主張には、普通二通りの意味があるとされています。一つは、「遊び」の側からの「純粋性保持の要請」によるものであり、もう一つは、体制の側からの「秩序維持の要請」によるものだというのです。
 しかし、よく考えてみれば前者はおかしいことになります。というのは、「遊び」の側などというのは現実にはありません。
 あるのは「遊び」を遊ぶ個人があるだけで、もしその個人が「「遊び」は純粋であらねばならない」と考えたとしたら、そう考えながら遊んだらよいだけで、とやかく口出しする必要は全くないのです。
 どうやら「遊び」の側というのは、タテマエの立場が、ホンネをかくすために強調されるのではないだろうか。そんな気がしてなりません。
 さて、ぼくたちは現実生活でさまざまのフラストレーションをいだきます。隔離された「遊び」は、こうした不満やいきどおりを、秩序にとって無害な形で放出させ、解消させ、そしてふたたび現実生活へと動機づける働きをしているわけです。
 つまり、「遊び」は秩序にとっては、一つの「安全弁」であり、「気つけ薬」みたいなものなのです。
「遊び」がいまいったような機能をはたすためには、「遊び」と「現実生活」との間に明確な隔壁がなければならないことになります。もしそれがなくなったら、「遊び」は「安全弁」どころか「爆薬」となる。支配者は、それに大昔から気づいていたがゆえに、〈遊びの隔離〉が強調されてきたのだと、ぼくは考えています。

〈怠け〉思想の評価

 ぼくたちは、「遊び」の具体的イメージとして何を考えるのでしょうか。人によってさまざまではあるでしょう。
 それはそれでよい。「遊び」というのは、「これですよ」と人に決めてもらうのではありませんから‥‥‥。
 でも、ほとんどの人は、「遊び」を「何かすること」というカテゴリーでとらえるのではないでしょうか。
 けれども、そもそも「遊び」ということばには、「ハンドルの遊び」という用例にみられるように、「無駄」「余裕」という意味があります。〈究極の「遊び」は「生」よりむしろ「死」に似ている〉らしい。「遊び」をあくまでも「活動」としてとらえ、「無為」や「怠け」をあくまでも「遊び」のカテゴリーから除外してきた「西欧」の遊戯思想に、ぼくたちはかなり毒されているのではないでしょうか。
 一 生への執着という弱みから、われわれは「積極的」遊びという名の擬似遊戯に身をささげる(多田道太郎『遊びとは何か』)
 こうした「怠け」の思想は、「遊び」が体制に管理されているだけではなく、収奪の対象となっている今日、大いに考える必要があると思います。「ものぐさ太郎」や「三年寝太郎」の民話の世界を見直さねばならない。そう思います。
 また、カフカの『断食行者』の世界。主人公は、どの食物も気に入らず、気に入らぬ食物に手をのばすより、むしろ飢えてみせたのです。「一流アルピニスト」を目指してというかけ声や、かびの生えた「偉人伝」におどらされる必要はありません。憑かれたように海外登山をくりかえす、有名登山家の心の暗黒に気づく必要もあります。
 これはちょっといいすぎの独断かも知れませんが、彼等は何度も何度も世界の矛盾が集約されているような地域にでかけながら、そういう現実や不合理に全く無関心という態度でいることが、ぼくにはどうも理解できません。
 いずれにしろ、「遊び」を追求するにしても、「怠け」「ぐうたら」から出発し直さないことには、「遊び」の本質はつかめず、ただいたずらに肉体と精神をすりへらすことになってしまうのではないでしょうか。

 <自由の感覚〉の追求と連帯  現代社会は、巨大で複雑で、そして極めて巧妙な「管理社会」です。  そこでは、「遊び」までもが管理され、おまけに「利潤追求」の対象となる。  この、多くの亀裂を走らせつつも、一見「豊かな社会」において、「遊び」は大衆のものとなったかにも見えます。しかし、本当は「遊び」の本質はますます遠ざかっているようです。  隔離された「遊び」の世界で、ぼくたちは現実を離脱し、実生活のさまざまの重荷から解放され、ふだんは日常の塵に厚くおおわれて、ふれることのできない純粋な「生」にふれる体験をもちます。  正確にいえば、時として持つかも知れない。  この「純粋な生の体験」、つまり〈自由の感覚〉こそ追求すべきものだと、ぼくは考えます。  もちろん、それは、「時として」ですし、かぎられた時間のなかの、さらにかぎられた一瞬における体験かも知れない。  しかしそれで充分です。  こうした体験によって得た「自由」の感触は、既製の秩序・体制のあり方に刃を向ける拠点となるかも知れません。  さらには、〈隔離〉の限界そのものを越えようとする願望を必然的に生みだすはずです。  そして同時に、こうした意味で暗闇のなかの「自由」をまさぐる者同志が連帯するべきではないでしょうか。「祭」の伝統は、支配者の民衆コントロールの手段としてではなく、ぼくたち自身で再構成されねばなりません。革命は、「おまつり」のごとく「遊び」のごとくおこなわれるのでしょう。 (たかだ・なおき) 【『岩と雪』42号 1975年4月所収】

その4「山での死」について

山での死
登山と「神話」その四

「山での死」について

 現代は情報化時代などといわれます。ぼくたちは、まさに情報の洪水のなかで溺死しかかっているような気さえするくらいです。
 そういう状況の中では、一体何が本当なのか、物の見方にほんとうに客観的な立場などということがあるのか、なにがなんやら訳がわからなくなってきています。「真理は一つ」などということばは、なんとも白々しくひびくばかりです。
 そして、そういう現状を、〈価値観の多様化〉とか、〈既成概念の崩壊〉などと表現することは、「シラジラシサ」の上塗りにすぎないように思えます。
 しかし、ここに、だれでもが、どうしようもなく、認めざるを得ないことがあります。それは、「人は死ぬ」ということです。こればかりは、どうしようもない真理といえるでしょう。
 そういうわけで、「死」はだれにとっても決して避けて通ることのできない問題です。そして、「死」をどう考えるか、ということは、その人の生き方・人生観・世界観などに、根元的に関わる本質的な問題だと思えます。
 なんやら、話が宣教師めいてきて、いやになります。正直いって、ぼくは、こんな問題はあんまりとりあげたくありませんでした。なんとなく気が進みませんでした。
 なんしろ、話が大きすぎますし、あまり多方面に亘りすぎる気もします。そうかといって、避けて通れないという気もします。
 いろいろと迷ったあげく、結局、個人にとって避けて通れない問題であるのなら、この「登山と『神話』」でも、避けるべきでないというふうに思えてきました。
 そういうわけで、今回は、「山登りにおける死」をとりあげる決心をしたわけです。

 あなたは、「死」とはなんぞや、ときかれたらなんと答えますか。「生」の反対。
 そうです。「死」あっての「生」です。バカみたいですが、これはなかなか重大な問題で、〈死にがい〉←→〈生きがい〉論の出発点です。これについては後でふれます。
 「生」の終り。ごもっとも。「生」は必ず「死」に至ります。つまり「生」→「死」という図式が成り立ちます。これも極めて根元的なものです。
 たとえば、最も未開な社会から文明社会まで、あらゆる社会には、いわゆる「他界」の概念があります。死は単にこの世での終りを示すにすぎず、死者は、別の世界(「他界」)で永遠に生きつづけるとするわけです。
 さて、山登りには必然的に死が伴います。正直いってぼく自身、今なお生きているのは、幸運の女神に守られたか、あるいはそういう偶然の結果にすぎないと思っています。
 もしかりに、「自分は細心の注意とトレーニングを怠たらなかったから……」などという人がいたとしたら、その人は倣慢です。あるいは、山の恐ろしさに対する無知さの故か、山らしい山に登らなくなった人なのに違いありません。
 そもそも、山と「死」とは切っても切れない関係がある。ぼくはそう考えております。
 ところが、こういう具合にスパッといえない事情がどうやらあるらしい。この日本の特殊性みたいなものとして、です。その原因・理由は何なのか。そこのところをここで考えてみたい。これが一つのテーマです。
 それから、今いったこととも関係しますが、日本人には日本人の「死」についての考え方みたいなもの、つまり「死生観」があるはずです。これについて考察したいと思います。
 そして、この「死生観」が、どのように変化してきたのか。特に今日いわれる、若者文化(Youth Culture)と成人文化(Adult Culture)の分極・対立化の観点を基底として、そのそれぞれにおける「死生観」と「登山観」をみてみたいわけです。
 かなり大上段にふりかぶった前口上であることは、ぼくも認めます。実はあんまり自信ありません。
 はたしてどういうことになりますか。「しごき」はサド・マゾ文化

 このごろの若者は別として、ぼくたち日本人には、「死」の美学といったような発想があるようです。
 これはやはり、武士道からきているにちがいありません。あの有名な『葉隠』の、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というやつです。
 聞くところでは、武士は朝起きると、行水で身体を清め、サカヤキをそり、軽石で爪をけづったそうです。そして、前夜の深酒で顔色がすぐれない時などは、頬紅をさえつけたといいます。
 どうしてそんなことをしたのでしょう。それは、家の門を出たとたんに、切り殺されるかも知れない。その時に見苦しくないように、との配慮だったのです。
 屏風岩の一ルンゼを攀った、大阪の梶本徳次郎さんは、生前、自分は困難な登攀をする時には、真新しい下着をつける。もし雪崩等で死んだ時に見苦しいからだ。そういっておられたのを憶えています。
 さて、武士道というのは、主人に徹底的につくし、操を立て、そして美しく死ぬというほどのものです。『葉隠』が「忍ぶ恋」を最上として、衆道つまりホモの道を説いていることからも分るように、武士道は主人への思慕の世界といえます。
 そうしたヘテロな世界においては、その思いは、死によってしか完結することはない。ここに「死の美学」が生れるのでしょう。
 そして、ここには同時に、一種のサド・マゾ関係が成り立ちます。
 現代の日本人のカルチュアの底流には武士道がありますから、当然、サド・マゾ的カルチュアと呼べるものがあることになります。
 日本の社会のあらゆる分野に見られる、いわゆる「シゴキ」と呼ばれるものが、これであると、ぼくは考えております。
 日本の山登りの世界がもつ、一種独特の、陰惨な自虐的志向も、同様な発想でとらえられるはずです。
 かなりせっかちに話を進めすぎたかも知れません。少々補強しておく意味で、一つだけ実例をあげておきます。大松の「女子バレーチーム」を考えて下さい。あの場合、もし選手たちが男だったら、あのような異常なハード・トレーニングは成り立たなかっただろう。ぼくはそう考えております。
 もちろん、選手も監督もバレーを愛し、世界一になる欲望をもち、その案内役としての監督をアイドルと思ったのですが、決定的には、潜在意識として惚れたのだと思います。そして、あの「シゴキ」を通して陰と陽の歯車がかみあったのです。
 そして、そのようなトレーニングが、オリンピックの時に、外国で、「婦女虐待」として告発されたことから考えて、それがまさに日本独特のものであることを示していると考えられるのです。

武士道的死生観

 ところで、「死」または「死に方」へ向かって一途に結集してゆく、武士道的死生観には、強烈な目的意識があります。そして、その「死に方」には美学的序列まであるようです。
 しかし、こうした、武士道的死生観が作られてくるのは、一八世紀の初め頃からで、戦国時代には、そんなものはなかったようです。
 当時のものは、もっと利己的、もっと野蛮的でしたし「死に方」も単に面白い死に方、カツコよい死に方がもてはやされただけです。
 つまり、「忠義」を軸とした武士道的死生観が成立するのは徳川時代といえるでしょう。そして、その「主君への忠」、「主君のための死」の意味する「主君」は、徳川幕藩体制の中での、各藩主を意味していました。これはひとつ重要な点です。
 もっと重大な点は、こうした武士道モラルは、武士階級のみのものであったということで、人口の大多数を占めていた農民とは何のかかわりもなかったということです。
 ところが、薩長のイモザムライどもが作った明治政府は、この武士道モラルを人民に注入することに最大の努力をはらいました。
 彼等は、「忠」と「孝」をセットすることによって、天皇を家長とする大家族国家、大日本帝国を作りあげようとしたのです。そして大正期をへて完成した、天皇を家長とする巨大な擬制家族国家においては、人民は「天皇の赤子」とされ、民衆人民はその「死」を天皇に捧げることによってのみ、完結することとなりました。いわゆる「天皇陛下万才」思想の誕生であります。
 〈身体髪膚父母に受く。あえて毀損せざるは孝の始なり〉(『孝経』)は、修身教育の徳目として注入されました。この文句の意味するところは、あなたたちの身体は、髪の毛一本に至るまで、両親からもらったものです。それを傷つけないこと、それが孝行の始めです。という至極もっともなものなのですが、但し注釈が入ります。しかし、天皇のためには喜こんで差出しなさい、というものでした。
 こうした、いわゆる「散華」の思想は、その反対の極に「犬死」をおいて、皇国民教育として行なわれたのです。それは、敗戦後三〇年近くをへた今になってもどうしようもなく残っている位に、徹底したものであったと思われます。
 それが証拠に、あの三島の切腹事件のとき、外国人のとまどいと嫌悪感とはうらはらに、進歩的といわれる日本の多くの文化人でさえ、ある一種独特の反応を示したのを憶い起すべきだと思います。
 ところで、こうした武士道的死生観なり「天皇陛下万才」思想が、意識下にあるのですから、「山での死」は、目的を持たない無意味な死=「犬死」として、社会一般の指弾を受けることになるのは当然です。
 そして、山の世界においてさえ、いわゆる「アルピニズム」という大義に捧げられていない、ど素人の死は罪悪視されることになる。ぼくはそのように考えております。

「戦無派」の「死」の否定

 さて、一つの世代の区分法としての「戦中派」「戦後派」「戦前派」というのを使って、若者の「死生観」「登山観」を考えてみることにします。
 ぼくなどはさしずめ、「戦後派」に属しますが、意識としては少々「戦無派」に入るかも知れないというところでしょう。
 ところで、「戦無派」の若者たちには、さきにのベたような「武士道的死生観」は、あんまりないように思います。「あんまりない」といういい方をしたのは、この死生観が、一つのカルチュアとして存在しているからには、若者といえども、何らかの影響を受けていると思うからです。
 しかし、普通一般には、彼らは「死」に対してまったく無関心です。平和の中に育ち、「死の前に立たされた」体験をほとんどもたない世代がそうなるのは当然のことです。
 他から見て、かなり必然的とも見える「死」が彼等に訪れたときでさえ、彼等はそれを単に事故死としてとらえます。
 もう一つのタイプは、「死」を否定するタイプです。前のタイプが、消極的否定とすれば、これは積極的否定といえます。いずれにしろ、「戦無派」世代の若者に共通しているのは、「死の否定」だと考えられるわけです。
 そこで、死を最初から勘定に入れて山登りをするような大学山岳部や、伝統ある山岳会は、拒否されることになりました。六〇年代に入って、スキー人口や登山人口のものすごい増加にもかかわらず、山岳部員や山岳会員の急速な減少がおこりました。この原因は、「山登りの行きづまり」などといわれましたが、本当は、いまいったような背景があったのです。
 「戦無派」世代の若者の中には、「なにかのために自分の命を犠牲にするのは愚かだ」「どんなにカツコ悪くても生きのびなければ意味がない」という人が少なくありません。彼らは、天皇のためであれ、国家のためであれ、あるいは革命のためであれ、人民のためであれ、とにかくいかなる「大義名分」であっても、一つしかない自分の命を賭けるのはゴメンだというのです。
 こうした主張は、かつての「タテマエ主義」に対しての「ホンネ」であり、一つの抵抗としての意味をもつと、ぼくは思います。ただそれが、「自分だけはどうしてでも生きのびる」というだけの発想になり、他人を見殺しにしたり、殺されて行く者への共感を欠落してしまう「弱さ」を持っていることを見過ごしてはならないと思うのです。
 このような弱点は、現代のクライマーにも見出されるところです。それは時としては、彼等の個人主義として、誤って肯定的に見られることもありますが、そうではないことが多いようです。
 かつて、『岩と雪』が行なったザイル事件のアンケートは、これを示していると思います。むしろ、「戦中派」のほうが、この弱さが少なかったのではないでしょうか。この点、大いに反省してもらいたいと思うのです。

「カツコよさ」の追求

 さきに、現代の若者には、「死の否定」があるといいました。もちろん、完全に否定しておれば、危険な山登りなどはやらないと思います。それでは、危険な山登りをやる若者はどうなるのでしょう。
 たしかにぼくは、現代の若者には、一般的に「死の否定」があるといいました。しかしこれは一つの傾向なのであって全部ではありません。
 ある学生が、彼は世間で普通に暴力学生などと呼ばれるセクトに属しているのですが、ぼくにこういったことがあります。「山登りの世界に自分は大いに引かれる。自分は素人だけど、やってみたい気がする」
 ぼくが理由を聞くと、「山ではカツコよく死ねるではないか」というのです。
 現代の若者は、たしかに「死の否定」を基調としてはいますが、同時に「死」への積極的受容の方向もあるようです。
 ただし、そうした「死」の受容があるとしても、それは決して「何かのための死」ではありません。これは重要な点です。そして、「何かのための死」は往々にして、ファナティック(狂信的)な傾向をおびます。
 だから、「アルピニズムの旗の下に」とか、「スーパー・アルピニズム」というファナティックな主張をかかげた、第二次RCCは、主として「戦中派」「戦後派」世代によって推進され、「戦無派」クライマーにそっぽをむかれたのではないか。ぼくはそう考えております。
 それでは、「戦無派」クライマーの特徴は何なのでしょうか。それは「ために」ではなくて、「いかに」が問題となるようなものです。自分の信ずる主義・大義との一体性の保持ではなく、それに殉ずるカツコよさに重点が置かれます。
 ファナチィシズムであるよりむしろダンディズムといえます。ダンディズムには、ファナティシズムとちがって、一種のゆとりがあり、「あそび」があります。いいことです。しかし人々は、彼等を次のような具合に非難しました。
 一ある救助隊員は、「最近は冬山登山者の質が変ってきている。″カツコイイ″登山者ばかりだが、技術のほうはどうも」とぼやいている。
 まず、広告から抜けでて来たようなファッション・モデルさながらの登山者が多い。上から下まで派手な原色の登山姿に身を固め、登山用具もスイス製のアイゼンにフランス製のピッケルといった具合だ(〈カツコよさでは登れぬ〉一九六八年一月四日付朝日新聞) ー
 しかし、彼等は、その「カツコよさ」をこそ追求していたのでした。

やさしく「死」をつつむ登攀

 戦後これだけの年数がたつと、生の肯定・尊重という価値体系が確立したようです。政府も本心かどうかは知りませんが、「生命尊重」などと唱えるようになりました。
 しかし、生の価値のみが肥大して、「死」にその位置づけを与えられなくなると、最初でふれたように、「生きがい」をも失うことになります。「死」という限定要因を失った「生」は、またその輝きをも失うことになります。
 よくバカの一つおぼえみたいにくりかえされる「安全登山」とか「山で死んではならない」というスローガンが、なんともアホらしくひびくのは、こうした理由によります。
 現代の若者クライマーは、いまいった「輝きをもった生」を求めて攀るのです。そして、「死」がもっとも明確に知覚されるとき、彼の「生」も最も鮮烈に認識されるのです。
 この時、もしかしたら訪れるかも知れない「死」は、きわめて自然に受容される、とぼくは考えております。
 その登攀は、「死」を勘定に入れての行動というニュアンスではなく、やさしく死をつつむ行為というべきでしょう。
 そして、その行為は、少なくとも『涸沢の岩小屋のある夜のこと』(大島亮吉)にある「人間が死ぬっていうことを考えのうちに入れてやっていることには、少なくともじょうだんごとはあんまりはいっていないからね……」などという、いかにもいじけた弁解がましさを全く必要としないものであるはずです。
 さて、ルネ・デメゾンの指摘をまつまでもなく、「山登りは明らかに危険なスポーツ」であります。そこには、時としては、当然の帰結としての「死」があります。
 そして、ここにのべたような気質と性向をもつ「戦無派」世代の若者が山に向かうとき、そこには当然「遭難」の多発が予想されます。
 事実、敗戦(一九四五)直後に生れた人が成人に達した一九六五年から、まさに日本の山では「大量遭難」の時代に入っているのです。
 その例を新聞で見てみましょう。
 一〈死者、ついに五七人、連休の山〉。連休入りの二十九日からの遭難者数はさらにふえ、朝日新聞社調べでは東日本関係だけで死者四六人、負傷者一四人、行方不明七人、西日本関係を入れると死者は五七人。文字通り″記録破り″の遭難となった。(一九六五年五月六日付朝日新聞)一
 一〈谷川の遭難新記録。今年一月〜十一月の集計〉谷川岳のこの間の登山者は、一般登山者六万九三〇〇人、観光登山者一八万三四〇〇人、計二五万一七〇〇人で昨年より三万人ほどふえている。遭難事故は死者三五人、行方不明二人、負傷者一六人で、昨年の死傷、不明数の二倍強、記録をとりはじめた昭和六年以来の新記録となった。(一九六六年十一月二十三日付朝日新聞)一
 一警察庁は十八日、前年十二月から今年二月にわたる冬山遭難自書をまとめた。それによると七三件で死者行方不明七一人、重傷二七人、軽傷二七人、救出六四人計一八九人にのぼり、一年前の同じシーズンに比べて倍増、史上最高を記録した(一九六七年三月十九日付朝日新聞)一

〈高度成長〉と大量「社会死」

 こうした「大量遭難」は、しかし、なにも突発的に始まったわけではありません。
 すでに六〇年代の経済成長と、大量消費時代への突入と共に、反面そのひずみがいたるところに現われてきます。
 一九五九年。マイカー時代始まる(ブルバード発売)。カミナリ族の横行。
 六〇年。テレビ受信機生産高は、三五七万台。米国についで世界第二位となり、二輪車生産高一四九万台で、世界第一位。また即席ラーメン、インスタント・コーヒーなど続々発売。〈インスタント時代〉に入ります。そして、十月までの集会・デモも全国で六八〇〇件と前年に比べて、三倍近くにふえております。「腹がへったらオマンマ喰べて、命つきればあの世行き」という〈アリガタヤ節〉が大流行しました。
 六一年になって〈レジャー・ブーム〉の時代に入ります。スキー客は一〇〇万人を突破、前年の二倍強となり、登山者も二六四万人とふえます。若者の間に、〈睡眠藁遊び〉が大流行。大人も「わかっちゃいるけど止められない」(〈スーダラ節〉この年流行)と酒に酔いしれたのです。
 そして、六三年。あの有名な〈薬師岳の大量遭難〉がおこりました。愛知大学の山岳部員が一三人凍死したのです。この遭難自体を考察してみることは、なかなか面白いのですが、ここでは止めます。
 とにかく、新聞はこれを大きく取上げました。そして、愛知大学学長は、「世間をさわがせた」と、辞表を提出します。
 きらには、これが後の「富山県登山禁止条例」のキッカケともなります。
 この年は、北陸地方では、大雪だったようで、一月二十八日までに八四人が死んだり行方不明になっています。少し極端かも知れませんが、あるいい方をすれぼ、一三人で、どうしてそんなに騒いだのかしらと思えます。
 沖縄連絡船みどり丸強風で転覆、死者・行方不明、一一二人(同年八月)
 草加次郎の時限バクダンによって一〇人負傷(九月)
 国鉄鶴見駅で二重衝突、死者一六一人(十一月九日)三池三川鉱でガス爆発死者四五八人(十一月十日)、二日間で一挙に六〇〇人をこえる人が、自ら望まない「死」を死んだのです。
 町には〈こんにちは赤ちゃん〉がながれていましたが、世はすでに「大量死」「社会死」の時代に入っていました。

「山での死」は〈自殺〉と同じ

 さて、山で人が死んだと聞いたとき、社会一般の人たちは、どんな感じをもつのでしょうか。
 もちろん、人はさまざまで、その受けとり方もいろいろでしょう。しかし、たとえば、マグロ漁船がシケでひっくりかえって、一三人死んだというときとは、かなりちがった感覚でとらえるのではないかと思います。
 このちがいは何か。これは大変むずかしい設問です。でも、よく考えてみるとおそらくそれは、一方では〈いたしかたのない死〉であり、一方はそうではないものだと感じられるのではないでしょうか。
 これをさらにつきつめると、二つの問題に行きつきます。一方は、「生活」のため、「社会」のための死であるのだから、しかたないのだ。ところが、もう一つはそうではない。「遊び」ではないか。そういうことでしょう。
 ここに現われてくる問題は、「遊び」です。「遊び」の社会的位置づけの問題であります。「遊び」はいまなお、市民権を得ていないとぼくは考えていますが、これについては次の機会にゆずりたいと思っています。
 さて、一般の人にとって、山は危険で死ぬ可能性が十分にある場所です。そんなところへどうして、のこのこ出かけるのだろう。そして、この時に浮かぶイメージは決して年配の人ではなく、「前途有為な青年」であります。「あたら苦い命を、山などで……」ということになります。まったく「犬死」ではないか、ということになります。
 また、死ぬかも知れない所に自ら出かけてゆくことは、一種の自殺行為ということになる。山の遭難記事が、ほかの死亡記事とちがった感覚でとらえられる理由の一つに、これがあるとぼくは考えます。
 そして、支配者に教えこまれた通りを信じた人々にとって、「自殺」は「犬死」の最たるものであったのです。
 以上要約すると、「山での死」には、「遊び」の問題と、「自殺」の問題がかかわっている。そういえるでしょう。

自分の命は自分のもの

 さて、「山での死」には、「遊び」と「自殺」がかかわっているといいました。
 実は、この二つの問題を支えている、もっとも大きなものがあります。それは、「個人」という問題であります。「個人」は、自分の「死」をほんとうに自分で掌握できているのか、ということです。これは同時に、「ぼくたち個人の生命は、本当に自分のものなのか」、という設問につながります。
 もちろん、「山の遭難」に関しては、「親の悲しみ」とか、「他人の迷惑」とかの問題がいわれますが、そうした「家族主義」や「日本的発想」は、いまいった観点よりみれば、なんとも色あせた口実にすぎなくなります。
 スマイスは、「山の魂」で次の様にいっています。
 一 毒ガスにやられるか、砲撃をうけるか、射殺されるか、その可能性に私はゾッとする。そういう過程の結果として私が死ぬからではなく、そんな人工的なこっけいな結末をとげるからだ。山から墜落するか、あらしのなかで死ぬか、そんな可能性には一向私はおどろかない。その中に私の個人的な興味と責任のある結末があるからである。(中略)自分でそうしたいのでなければナニもワザと山で自分の命を賭けたりおとしたりしないのだ。
ところが戦争では他人の命をうばい、自分の命を死の危険にさらしている(石一郎訳)一
 まったく十年一日のごとく、落語の「小言念仏」のごとく「モラル低下」をなげき、「山の遭難は赤信号無視の交通事故と一緒だ」(一九六七・一・一一、朝日)などといい、警察とタイアップして「無謀登山」「警告無視」と唱える「日山協」や「山岳界」のオエラガタは、このスマイスの文章はよんだことはなかったのか。
 もし知らなかったとしても、こんなことは、正確に物を見る目があり、本当に山登りをやったことのある人ならわかったのではないでしょうか。長いヨーロッバでの登山体験・生活経験があれば、それはなおさらのことです。
 あくまでも「ホンネ」を述べなかった欺瞞性と、その場のがれの官僚性。あるいは大衆の登山を認めないエリート性。
 これらのことは、責められてあまりあるというべきでしょう。
 ぼくはこんど、一九六〇年頃からの新聞の縮刷版を、主に遭難関係ですが、ずっと読んでみて、アホらしく、バカらしく、ほんとうにいやになりました。
 と同時に、時代の動きを知れなかった山の世界のオエラガタの認識のずれをも感じました。彼等は、古い時代の山登りの迷妄をすて、若い世代の山登りに共感はしなくても理解するべきだったのです。
 また、「マナスル遠征」と同じ年に、水俣水銀中毒患者が発生していることをも知るべきでした。そしてこれが、決して偶然の一致でないことをも認識するべきでした。
 そうすれば、あの下らない「エベレスト南壁劇」などは決して起らなかったでしょう。

「自殺権」の提唱

 一九七二年三月。全国より選抜された六名の白バイ隊員が、イギリスのロンドン近郊「ヘンドン警察運転学校」に、四週間留学しました。
 ここに引用するのは、その内の一人、警視庁第二交通機動隊副隊長、椎名警部の話です。「(制限速度は)ハイウェイでは七〇マイルとなっております。その他五〇マイルとか三〇マイルとかあります。
 その時は緊急出動と考えて八〇マイルで走っていたのです。ところがそれを追いこしてゆく車もあるのです。
 そんな場合、日本ではたちまちスピード違反で捕まってしまいますね。第一白バイやパトカーを追いこさない。
 私が捕まえようかといったら、指導員は、『いいんだよ、彼はいそぎたい用事があるのでとばしているのだろう。自ら安全を放棄したので、警官はそこまでは彼を保護する必要はない』といいました」
 どうです。面白いではありませんか。
 ぽくたち個人の「生」は、ぼくたち自身の所有に属します。それは他の誰のものでもありません。それは同時に、いつでも「死」を選ぶ自由があるということです。
「あらかじめ死を考えておくことは、自由を考えることである」(モンテーニュ)のです。
 一九六七年頃、京都宝池の国際会議場前の道路に、″サーキット族″と呼ばれる暴走族の若者が出現して話題となったことがありました。
 捕まって送検された″サーキット族″の一人は「スピードこそ生きがい。死んでもかまわぬ」とうそぶいた、といいます。
 世人のひんしゅくをかうこの考えは、ぼくたち大人の日本人の想像を絶した深い所で、肺ガンを宣告されてから「ヨット単独世界一周」をなしとげたチチェスターとつながっているにちがいありません。
 そして、「宝他の″サーキット族″を非難する良識は、じつはチマチマした小市民的おくびょうさではないのだろうか。その日の安穏だけを望むぬるま湯的な考え方は小心なセツナ主義でしかない」(米山俊直「サーキット族とチチェスター卿」)のです。
 人が自分で選んだ「死」に対して、他人がとやかくいうべきではない。
 人は「自分のデザイン通りの死」(『日本人のこころ』朝日新聞社)を選ぶ権利があります。問題は、自分は望まないのに死なねばならたかった「死」。これこそ問題です。これは、ある意味で殺人と同じです。「生存権」(基本的人権の一つ)と「自殺権」は、同じものの両面であるはずです。「自殺権」の認められないところに、「生存権」の主張やそれに対する共感・支持は生れえないはずです。あるのは無力なあきらめだけです。
 今日、大量の「社会死」があり、社会的殺人とも呼べるこれらの現状が一部手直し程度におわる原因は、このあたりにあると思います。
 たしかに、このような「大量死」の時代になって、「山での死」が、量的な比較において、ぼけてきたことも事実かも知れません。
 しかし論理的には、「山での死」を単純に責めるようなセンスこそ、この大量殺人的「社会死」を他人事と見過ごし、さまざまの矛盾と不正を根本的に変えるための何の力ともならない原因ではないのか。
 ぼくは、このように考えております。
        (たかだ・なおき)
【『岩と雪』41号 1975年2月所収】

『槍ヶ岳からの黎明』について

槍ヶ岳からの黎明
登山と「神話」その三
『槍ヶ岳からの黎明』について

 ぼくの職場に毎月のようにやってくる、保険外交員のおばちゃんがいます。
 ぼくに保険をすすめることが、絶望的に無駄であることには、彼女も、もうとっくに気付いているようです。それでも、毎月のように現われては、時計バンドにつけるカレンダーの金属片を渡し、世間話などしてから帰ってゆくのです。 ぼくの方としては、このカレンダーは結構重宝していますので、月末になっておばちゃんが現われないと、「どうしたのかな」などと思ったりするのです。
 この間のことです。いつもの様に、おばちゃんが現われ、ぼくは「アリガトウ」とカレンダーをもらってから、例のごとく世間話になりました。
 いったい何がきっかけだったのか、すっかり忘れてしまいましたが、とにかく、話が映画の『イージー・ライダー』になったのです。
「あの若い人、ほんまに可哀そうやった。あんな事故で死んでしもうて」
 ぼくは、ちょっとおどろいて、あれは事故ではなくて殺されたのだ、といったのですが、彼女は「ちがう」といいはります。
「そら、鉄砲は撃たはったよ。けど、あれは当ってへん。何かの事故で単車が爆発したんやろ。第一何にもしてへん人が殺されるわけ、あらへん」
 映画のストーリを追いながら、あるいはまた、アメリカの歴史背景なども含めて、ぼくは懸命に説明したのです。それでも彼女ほ、まだ信じられない、という面持で、
「そうやろか、殺されたんやろか」といいます。ぼくも、いいかげん頭にきて、
「あんた、眼あけて見てたんかいな。目あけてても、見えなんだんやろ」といいました。
 その時、ぼくは思いました。「固定観念」というものは、何とおそろしい。人を盲目の状態にするものだ、ということでした。
 彼女に、ぼくの説明が理解できなかったということは、まず考えられない。彼女はよく理解した。しかし、おそらく「人が全く理由もなく、しかも鉄砲で撃ち殺されるなどということはあり得ない」という「固定観念」が、彼女の判断をくるわせたのでしょう。

 さて、ぼくのいう「神話」も、一種の「固定観念」を意味しています。だから、「神話」は、破られるべくして存在している、といえるでしょう。
 ところが、ぼくの「登山と『神話』」に関して、こんなことをいう人がいます。
「あなたは、ああいうことを書くことによって、新しい『神話』を作っている」と。
 これに対するぼくの答えは、じつは、そう云われる前からあったのですが、それについてはこの連載の最後にするつもりです。
 それに、「神話をつぶすことによって、神話を作っているのだ」という云い方は、「『固定観念』はいけないというのも、一つの『固定観念』である」という云い方に似ております。
 こういう議論は、不毛の回転論議になりやすい。それで、ここでは避けたい。そう思うわけです。
 今回も、先回につづいて、「登山史」をとりあげたいと思います。<創始者の視座>から<麓の視座>へ

 色々な例が考えられるでしょうが、いまかりに「海外登山基準」をとりましょう。この「海外登山基準」が創られた時、これに大賛成した人は、ほとんどいなかったといっていいでしょう。
 でも日山協で、直接これを作った人は別でしょう。彼等はおそらく、色々の理由をつけて、もって回りますが、公式の記録には、大義名分をふりかざした報告を書くでしょう。
 そして、五十年、百年がたつ。
 その時に、最も信頼性があるとされるのは、無名の人の報告ではなく、いわゆる「エライヒト」、有名人のものなのです。
 もちろん、このたとえ話には少々無理があるかも知れません。
 でも、たとえば「カモンジ」なり「喜作」が「案内記」を書いたとしたら、それは、旦那衆の「登山記」「探検記」とは、全くちがったものになったでしょう。(もちろん、彼等にそんなものは書けなかったし、書く必要もなかったのですが……)
 このちがいが、大きな問題だと、ぼくは考えます。「登山史」は、つねにそうした、一方的なものとして存在し、現在を拘束してきたのではないだろうか。そんな気がするのです。
 これは、かりに〈創始者たちの華麗な視座〉からの映像による歴史、とよべます。これが真実の歴史と、どれだけの距離があるのか、それは問題ではなかった。
 これまでの「歴史」は、この〈視座〉を全く当然のこととして、そこから出発しているのです。そればかりか、おまけに、その「登山史」家自身が、自分の眼をこの視座に重ね合わせることさえあったようです。そうであっては、「登山史」は一つの玩具にすぎなくなります。「現在を登るためのもの」とはならなくなります。
 そこで、ぼくは、〈創始者の視座〉ではなく、〈麓の視座〉で見るべきだ。そう考えます。この〈麓の視座〉による「近代登山史」がもし書かれたとしたら、今の「登山史」とは、ずいぶんちがったものとなるでしょう。
 別に予言者ぶるわけじゃありませんが、いずれそういう「近代登山史」がでるでしょう。そして、それは個人の仕事としてではなくチーム・ワーク(集団の仕事)としてなされるでしょう。

ピクソールの『山頂の燈火』

 日本の登山史、特に「近代登山史」などという書物を開いてみます。そうすると、探検時代そして縦走の時代などというのがでてくる。「日本山岳会」の創立会員諸氏の名前が、次々と現われます。
 そのあたりを見ると、ぼくはいつも、なにか一種奇妙な異和感みたいなものを感じる。どうしてなんだろう。色々理由を考えてみました。
 そのうちに、昔よんだ小説のことを想いだして、本棚をさがしてみました。
 ありました。ピクソールの短編で、『山頂の燈火』というのです。もとの題は”The Men who Climbed”
 ピクソール女史(M.L.C.Pickthal,1883〜1921)は、カナダの詩人で、三冊の詩集と三冊の小説を書いて、未婚のまま四十にならぬうちに病死しています。
 ところが、この『山頂の燈火』は、『ストランド』という雑誌に発表されているだけで、彼女のどの本にも入っていないのだそうです。
 戦前博文館で発行していた『新青年』という雑誌の第21巻13号(昭一五)に翻訳がのっています。
 とにかく、少く長くなりますが、内容を紹介してみましょう一。
 場面は、ある絵の展覧会場。その一部屋、三号室の一つの壁面を、ほとんど全部占領して、大きな絵がかかっています。身のひきしまるような、生々した巨大な山の絵は、題して、「東南より仰いだフォレスター峰」。
 そこへ、一人の紳士、フォレスターが登場します。彼は、絵を見て、一瞬目がくらみ、全身がひきしまります。
 −むりもない。天地開闢以来、あの雪渓を横断し、あの峻嶮を登攀して頂上に足を印した人間は彼一人なのだ。処女峰征服のレコードをつくった彼は登山協会から表彰され、同時に協会はその高峰に彼の名を冠し、全米はおろか世界に放送した。名誉ある騎士! 話題の冒険家!−
 彼は部屋の中央にあるソファ−に身を沈め、登攀の回想にふけります。
 ふと気がつくと、やはりもう一人、絵に見入っている男がいる。
 −みすぼらしい白髪の男で、どこかの職工か。職工にしては年をとりすぎている。百姓か。小使か。こんな男がどうして展覧会へまよいこんだのだろう。−
 フォレスターは疑います。その男は、「女房のマギーにもらった煙草銭で入場券を買ったら、これぽっちになってしまいました」と、七個の銅貨を見せて、また、うっとり絵に見入ります。
 フォレスターは同情的親しみを感じて、山について質問し、その男が、あまりに詳しいのに驚きます。そこで、彼は自分の名前をあかすのです。
「あなたがフォレスターさん!新聞で見ました。あなたに会ったといったら、女房が喜びます。旦那、この山に登った時のことを話して下さい。帰ってマギーに聞かせてやります」
 フォレスターは語りだします。
 自分が頂上に達しえたのは、二人の案内人のサポートによること。ピッケルを落したので、ナイフで足場を切ったこと。だいぶ上部で、氷化した岩場にはばまれて、立往生したこと。そして、そこで見つけた不思議なもの−−垂直の岩場の氷に点々ときざまれた足場のことを語るのです。

記録にない事実

「その足場は自然にできたものじゃない。確かに人間がきざんだものらしいのです。協会の連中にこの話をしますとね。そんなはずはない。あまり心配したので錯覚をおこしたのだろうといいます。
 とにかく私は誰かがそこまで登ったことを知りました。私はこんな危険な場所に足場を作った先駆者に感心してしまった。どんな男か知らないが、その男は星の世界へでものこのこ登って行く男にちがいない。
 私の口からいうのはおかしいが、世間では登山のレコードのことをやかましくいうけれど、これほど馬鹿げたことはないとおもう。なぜというに、山というものが天地開闢以来存在するものである以上、何百年前、何千年前にそこへ登った人間がないとは限らないからです。
 足場を発見してからは楽でした。足場には千年の氷がつまっているが、私はナイフでその氷をほじくりだして、ゆるゆると登っていった。そして頂上に達すると、用意の旗を出してそこへ立てたのです。」
 各種の会合で幾度もくりかえした話を機械的にしゃべっただけのことですが、こんな無知な老人を相手にそんな話をしたのが、フォレスタ一には、口惜しくも感じられました。
「こんどはあなたの番だ。あなたも山が好きだといいましたね。どこへ登りました。聞かしてくれませんか」
 老人は感慨ぶかげに絵を見ていたが、
「旦那は旗をお立てになると、すぐ頂上を降りられたそうですな。もっとよく頂上をさがしてごらんになったら、あすこに錆ついた古いランタンが落ちているはずなんです」
 あの不思議な足場を切ったのは、この老人だったのです。
「マギーとはクリスマスにいっしょになる約束だったのですが、当時マギーはカスカペディアの店の売子、私は山をへだてたウクワガンの木挽、どちらも金がないので、そう思い通りに家をもてません。しかたなく、手紙をだして、春まで待ってくれといってやったのです。返事がきて、わかった。春までまつ。けれどクリスマスになったら、私のことを想いだしてくれと書いてありました。マギーの町と私の町の間に大きな山脈があって、両方の町から同時に見えるのが、この山だったのです」
「二晩もかかって、ランタンに油を用意したり、ガラスの隙間をふさいだりしました。それからマギーに手紙を書いて、クリスマスの晩には、となりのおじさんから双眼鏡をかりて、一番高い山のてっぺんを見てくれ、もしそこに灯がともっていたら、おれがお前のことを思っている証拠だといってやったんです。頂上について、ランタンを置くとすぐ降りました」
 この男ほ自分のした話の意味を知っているのだろうか。
「なるほど。しゃにむに登ったのですね。そして無事にあなたが頂上に灯をつけてお帰りになると、それをカスカペディアの側から、美しいマギーさんが眺めたのですね」
「そうですよ、旦那。好いランタンだったので夜っぴて光りつづけ、油がなくなるまでともってましたよ」
 フォレスターは、また山の絵を仰ぎ、白雪をいただき、爛々たる星にかこまれたる高峰に、一点霊火のように、恋人を思っていることを知らせる灯がともっているさまを想像するのです。
 老人は、酔っ払いのたわごとと思ってくれ、といい置いて去ります。後に一人立ちつくすフォレスター。彼はやがてペンをとりだし、まわりを見まわしてから、「東南より仰いだフォレスター峰」とかいた札のフォレスターを抹殺して、黒い鮮やかな字で「マギー」と書き込みます。
 −翌朝の各新聞は、無気味な小さい出来事を報道した−この小説は、この一行で終ります。
 ぼくの感じる「一種奇妙な異和感」の原因は、ほぼ全部、この短編の中に含まれているようです。

『山頂の燈火』日本版

 たしかに、『山頂の燈火』はオハナシであります。しかも、万年雪をいただいた山が舞台とあっては、なおさらのこと、よくできた話に過ぎないかも知れません。
 しかし、舞台を日本の山に移してみると、ハナシは急に、極めて現実味をおびてきます。でも、本当に日本の山で全く同じことがあったとしても彼等は、「あれはランタンを置くために登ったのだから登山ではない」というかも知れません。
 さて、それはともかく、日本の高山は、小島烏水をはじめとする〈創始者〉の面々が出向く以前に登られてしまっていました。それをことさら、「私が、私が」と宣伝した首謀者は、やはり烏水であると考えられます。
 そういう調子の記述は、いたるところにあります。彼の著書『アルピニストの手記』を見てみましょう。
 これは、彼が六三歳の時にでた本ですから、かなり冷静に書いてあるし、以前の記述を訂正したり、あるいは弁解めいたことも書いてあります。それでもなお、次のごとしです。
 −日本山岳会の成立時代(明三八)には、日本アルプスは、まだぺージの切られない自然の秘書であった(「日本アルプスの早期登山時代」)−
 ほんまかいなァ、と首をかしげるより、むしろ、「ウソつけ」といいたくなります。
 なにしろ、「烏水が槍ヶ岳に登って有名になった頃には、喜作は陸地測量部の三角標−これは六〇キロ以上もある御影石−を一人で槍の穂先にかつぎあげていた」のです。これは、他に人夫・測量官が何度も登ったことを意味します。
 そして、「前穂高、白馬岳、御嶽に三角標のすえつけが終ったのは、烏水が槍へ登った八年前の明治二十七年である。つまり日本山岳会が出来た頃(明三八)には北アルプスのめぼしい山にはどれも陸地測量部の三角測量が終って、参謀本部の五万分の一地図は完成間近であった」のです。
 彼はこうも述べている。
 −アルプス地方の参考書としてまとまったものは、ジョン・マーレイの『日本案内記』、ウェストンの『日本アルプス』など、外人の手になった書籍以外にはほとんど見ることを得なかった。そこに探検時代の仕事であり、黄金時代の収穫があった。そして私がその一部分の仕事にたづさわったのも自然の回り合わせであった。(前に同じ)ー
 烏水のこの「パイオニアづら」はオワライです。だいたい、自分の「槍登山」のことを回想した文の題に『槍ヶ岳からの黎明』というのも、同じ意識です。
 さて、「烏水翁の著作は三十冊を教える」のだそうです。そして、「登山史家」によれば、彼の著書は「日本の登山史を知るうえにすこぶる重要な存在となっている」のだそうです。しかし、これはぼくからすれば、「日本の登山史」が、いかに〈創始者〉の手前勝手な〈視座〉によっているか、という証言にほかなりません。

小島烏水の「槍ヶ岳登山」

 烏水は、明治三十五年の夏、槍ヶ岳へ登りました。彼はその前に乗鞍に登っています。おそらく、乗鞍から見た槍ヶ岳が眼に焼きついたのでしょう。
 ところが、「彼は、この山に憧憬したのも久しい間であった。それは志賀重昂先生の『日本風景論」を読んで」影響されたのだ、とします。そして、これを、「ハリソンがラスキンの『近世画家論」に感化をうけたごとく、自分も『日本風景論』の感化をうけて、山の一路へと驀進した」というのです。おそらく、ヨーロッパの登山家に、自分を模したかったのでしょう。ぼくはそういう作意を感じます。
 それはさておいて、烏水の槍ヶ岳登山は、おかしいところだらけです。
 彼が雑誌『文庫』に発表した「槍ヶ岳紀行」は、大町桂月あたりから「オーバーだ」といわれますが、ともかく反響は呼びました。
 その中に次の一節があります。
 −土人が「赤沢の小舎」と呼んでいる自然の岩窟に一晩猟師といっしょに泊めてもらった。その夜は白樺で大きな火をもやし串刺しにした熊の肉を焼いて食べながら語りあったが、その時猟師のいうにはこんな奥山だからワシら猟師仲間のほかは誰もこないが、一度西洋人が登ってきてびっくりしたことがある。八・九年前でその日は大雨のため頂上のそばまで行って引返したが、よほど思い切れなかったものと見えて翌年もまた来た。その時は頂上をきわめて喜こんで下って行った。(私が)いったいどこの国の人か猟師に聞いてもだれも知らないといった(意訳)−
 この西洋人はウェストン。猟師は喜作、為右衛門でした。
 ところが、昭和十一年の『槍ヶ岳からの黎明』の最後で彼はこう書きます。
 −その時は、ウェストン、ガウランド、坂市太郎氏というような槍ヶ岳の先駆登山者があったことを全く知らなかった−
「全く知らなかった」どころではない。自分の「紀行」に、「猟師がいうには…‥」とちゃんと書いているのです。
 槍ヶ岳登山の後、半年ほどして、パートナーであった岡野が、ウェストンの『日本アルプスの登山と探検』という英文書を見つけるのです。われこそ一番乗り、と得意になっていた烏水の驚きは、心臓も止まるばかりだったでしょう。
 実は、先に引用した『文庫』の記事の西洋人の話も、原稿ではなかったのに、ウェストンを知ってから、あわててつけ加えたのだそうです。
 こうしたことがもし本当だとすれば、烏水翁はあまり信用できる男じゃないようです。
 実のところ、彼ははたして槍の穂先まで登ったのかどうかさえ、ぼくは疑問に感じてきました。

烏水とウェストン

 さて、岡野がすでにウェストンに会ったと聞いて烏水も手紙を書きます。
 −何を書いたか、今は全く忘れたが、今まで第一登山と信じていたものを、十年前に登った外人が眼前に出現したのだから、感激しやすい性情から、崇敬の念をささげて書いたであろうと思っている。「ウェストンをめぐりて」(昭一一)−
 少しおかしい。矛盾していると思いませんか。もう一度よみ直してみて下さい。
 先ず、烏水という人は、自分の発信文や受信文を著書にのせるのが、好きな人です。こういう人が、「何を書いたか全く忘れた」というのはおかしい。それに、ぼくの推測では、「崇敬の念をささげて書いた」というのは、おそらくウソです。
 なぜなら、彼が不用意にもらしていることから分かるように、自分よりも「十年前」に登ったが故に、その外人を「崇敬」したのなら、猟師に聞いた時に「崇敬の念」がおこったはずです。全く忘れてしまうわけがない。「今まで第一登山と信じている」わけがないではありませんか。
 つまり、ぼくが思うには、「崇敬の念をささげて書いた」というウソを書くためには、「何を書いたか、今は全く忘れ」てしまわねばならなかったのです。
 では、どうして烏水は、そんなウソを書かねばならなかったのでしょうか。これが次の間題です。
 これの答は、おそらく、無名の一銀行員から、ウェストンをかつぐことによって〈創始者〉となった、烏水の心理内面に求められるでしょう。
 さて、よく見かける表現ですが、「ウェストン師は、日本の山登りの父である」というのがあります。こういうことは、いったい誰がいいだしたのでしょうか。
 ぼくは、「この表現から、日本国天皇は、国民の父である」というのを連想してしまいます。もしかしたら、この云い方は、大正から昭和にかけて、「日本の天皇制ファシズム」の抬頭と共に、できてきたのかも知れません。日本の父は天皇で、登山の父はウェストン一二つを重ねるとウェストンは「テンノーサマ」になります。烏水は、どうしても「崇敬」せねばならなかったのではないでしょうか。
 さらには、この「崇敬」の意識構造の必然として、ウェストンにつながるものとして、かつては「土人」であった「カモンジ」も、「崇敬」の対象となります。
 さきほどの『文庫』の引用の冒頭にもでてきたとおり、烏水は、あちこちで「土人」という表現を使っています。
 これは、土地の人の意味ともとれますが、アイヌに適用された「北海道旧土人保護法」という用例を見るまでもなく、明らかに差別言辞です。
 ところが、そうした下賤な「土人」の猟師であった「カモンジ」は、次のごとく変りました。
 −日本アルプスの開祖、ウェストンを案内して槍穂高に登ったのもこの老翁でした。私たち日本山岳会の早期時代の人々が槍穂高を縦走したのも、この老翁に手を取ってもらったのです。(「私の会った登山家の印象」その五 日本アルプスのぬし−昭五)
 誰かをかついで「天皇」にまつりあげ、自分もまた「天皇」になるというのが、心理的な意味での「天皇制」です。この点は、昔も今もかわらない。

「登山史」への不満

 ぼくの、「登山史」への最大の不満は、次の点にあります。
 それは、いわゆる「登山史」が、全く時代背景を無視していること。あるいは、たまたま考察していても、それがでたらめであることです。そうなるのも、やはり〈創始者の視座〉のせいかも知れません。
 〈創始者の視座〉による文章を、かなり無節操に引用したり、〈創始者の視座〉に自分の目を重ね合わせて、その上で色々の憶測をやっている。そうしたものが、これまでの「登山史」だったのではなかろうか。そんな気がしてなりません。
 たとえば、次のようなのがあります。
 −明治の中葉、日本の青年たちに登山の気運をもりあげさせた原動力となったのは、地理学者志賀重昂の筆になる『日本風景論』にほかならなかった−
 こういう調子の記述は、いたるところにでてきます。
 この極めて疑がわしい定説がどうしたでき上ったのか。いくつかの推測ができそうです。
 烏水は、自分がどうして槍ヶ岳に登ったのか、について次のように書いています。
 −それを書物の上で煽動教唆してくれたのは、故志賀重昂先生にほかならなかった−
 それから、木暮理太郎も、この本に影響されたと書いている。こういう記述が、前にあげた「定説」のものになっていると思われます。これが一つの推測です。
 でも、「この本を読みだして、いっそう山へ深入する気になった」という烏水だけでもって、「日本の青年たち」などと、ひっくくるというのは、少し暴論ではなかろうか。ぼくには、そう思えます。
 もう一つの推測の根拠は、『日本風景論』が、すごい売行きを示した、ということ。たしかに、これは事実でしょう。
 しかし、この本を読んだ人が、みんな山へ登ろうとしたわけではない。
 ところが、です。「『風景論』はベストセラーであった」という事実と、烏水がこの本によって「煽動教唆」されたと書いていること、この二つをつなぎ合わせた。この単純なつなぎ合わせによって、「定説」はめでたく成立したというわけです。
 こんな調子で、ひろいあげてゆけば、それこそいくらでもあってキリがありませんので止めにします。
 要するに、ぼくは、この項の最初にいったことを、例をあげて示したかっただけなのです。もともと、アラ探しは、ぼくの本意ではなかった。

『日本風景論』と歴史背景

『日本風景論』は、日清戦争が始まって、四カ月の明治二十七年十月に刊行されました。そしてわずか三週間で、たちまち売切れたといいます。
 その理由は何なのか。どうして、そんなに売れたのでしょうか。
 いわゆる「登山史」によれば、「日清戦争の勝利で、興国の気が山野に満ち満ちた」だとか、「アドベンチュアの精神を鼓吹した」だとか、そういう書き方のものばかりです。
 岩波新書『山の思想史』のような、かなり最近にでた本でさえ、このわくからは抜けていません。
 つまり、どれも、暗にこの書が売れた背景を述べているだけで、その理由はありません。しかも、その背景を「好戦的」「戦勝気分」とのみ、単純にとらえている。
 必要にせまられて、明治・大正の歴史を、ほんの少し勉強してみて、ぼくは全く逆の考えを持ちました。
 たしかに、民衆は「討てよ、こらせよ清国を」と唱えはしました。しかし、その気持の深奥は、複雑で屈折していたはずです。
 くわしく述べれば、このことだけでも、全誌面が要ります。極力、かいつまんで述べることにします。
 第一に、著者の志賀重昂が、明治二十年代に、「西欧派」と共に思想界を二分した「国粋派」の巨頭、大思想家であったこと。
 第二に、「国粋派」の思想は反政府のそれであり今いう右翼思想とは全然ちがいます。「西欧派」ともども、鋭く政府の構想を批判していました。
 そうでありましたから、志賀の創った雑誌『日本人』は、何度も発禁のうきめにあうのです。
 第三に、明治十年代の「自由民権運動」(豪農に支えられた)からの思想が、政府の弾圧にめげず、地底の水脈のごとく、民衆の中にあったということ。
 たとえば、「万朝報」という、極めて反体制的な新聞が、最高の発行部数をほこるという社会状況があったのです。
 一方、議会内でも野党が常に優勢で、開戦直前には、何度目かの内閣弾劾上奏案が可決。天皇制政府は、まさに絶体絶命のピンチに立っていました。ここにおいて、政府は、日清開戦を策し、国内の不満を一気に外に向ける絶好のチャンスを作ったのです。

『風景論』と『我輩は猫である』

 開戦は六月です。この前後のできごとを、「年表」(平凡社)で見てみましょう。
 前年の8月 − 「君が代」を国歌に制定
 前年の10月 − 文部省、教員の政論を禁制(箝口令)
 1月 一 高知県で初めて教科書に修身書を採用
 2月 一 反政府論で諸新開発行停止続出
 6月 一 陸軍省に新聞検閲掛を設置(日清開戦)
 7月 一 愛媛県新居浜住友精錬所の煙害のため農民、精錬所を襲撃
 8月 一 軍事外交に関する新聞原稿検閲の緊急勅令発布
 9月 一 新聞に軍機事項記載を禁ずる
 10月 一『日本風景論』刊行
 とまあ、こんなぐあいです。
 ぼくには、なんとなく分かるような気がするのです。『日本風景論』が売れたわけが。
 みんなもう、いいかげんいやになったのではないでしょうか。
 たしかに、民衆は「討てよ、こらせよ清国を」と唱えはした。自分たちのすべての欲求を圧殺してゆく支配者どもへのいきどおりを、朝鮮を抑圧する清国へ、屈折した形でぶつけたかも知れません。
 しかし、その感情の奥底には、ある「無力感」と「挫折感」と、ある「あほらしさ」があった。そうした時に、『風景論』は、極めて魅力的だったにちがいない。そう思えます。
 十一年後の「日露戦争」当時における、漱石の『我輩は猫である』は、今いった意味あいで、『風景論』と並べることができるでしょう。
 驚いたことには、この本も、開戦後の、奇しくも同じ十月に刊行され、やはり三週間で売切れているのです。
「大逆事件」に見られるごとく、反対者を、でっちあげの事実でもって殺すような政府に対しては、もう猫の目で語るシニカルな体制批判しかなかったのでしょう。そして、民衆もそれに救いを見いだしたのだと、ぼくには感じられる。
 今日の、「朴政権」下における、韓国の「登山ブーム」も、同じ文脈でとらえうるのではないでしょうか。

 ドシロウトのぼくが、「登山史」などをとりあげることは、少し無謀なことであったかも知れません。でも、ぼくとしては、大変面白かった。特にその歴史背景を知るために、とばし読みした「歴史書」は、とっても勉強になりました。
 そして、ぼく自身の認識自体、「神話」にみちていたことを、痛烈に思い知らされました。
 とにかく、明治大正期の歴史、特に自由民権運動は面白い。一度、読んでみられることをすすめます。
 たとえば、民権運動の推進者であった、植木枝盛の「憲法草案」には、今の「戦後憲法」のすべてが、すでに盛り込まれているといっていい。これは、オドロキでした。
 さて、実をいうと、「登山史の神話」は、二回で充分だと思ったのですが、書くことが多すぎて、なかなか先へ進めませんでした。いずれ、稿を改めたいと考えております。
(たかだ・なおき)