番外2「パベルとカントリーハウスへ」

 明日はカントリーハウスへ出かけようという日の夕刻、パベルはぼくをある銃器屋さんへ連れて行きました。そこは裏町の工場街の一角で、店に入ると壁沿いに各種の鉄砲がずらりと並んでいました。チェコの鉄砲やナイフは世界一なのだそうです。
 パベルは空気銃を買うつもりです。子供の頃、カントリーハウスで空気銃を撃って遊んだ思い出があるんだなと思いました。ぼくにも空気銃で雀撃ちをした記憶がありました。よし、二人で射撃大会をしよう。ぼく達は盛り上がっていました。

 パベルのカントリーハウスが、どこにあったのかは憶えていません。この頃の記録がどこかに消えてしまって見当たらないのです。プラハから高速道路を2・3時間走って小さな町に着き、その町外れにカントリーハウスはありました。
 そこは、どちらを向いても畑が地平線までつながっている場所で、家はほとんど見当たりませんでした。低い生け垣に囲まれたカントリーハウスには、大きな芝生の庭がありました。
 一隅にある物置小屋から板切れを取り出すと、ぼくは空気銃の的を作りました。射撃の腕前は、圧倒的にぼくが上で、負けず嫌いのパベルはすぐにこのコンペを止めてしまいました。

「パべール」と許嫁のポーリンが叫んでいます。お茶を飲むポットやカップ、ナイフやフォークはあるけれど、鍋類が一切無いのだそうです。
 この共産党に接収されていたカントリーハウスは、ベルリンの壁崩壊、ソ連邦崩壊の後、パベルの父親パボルの交渉の結果、ようやく戻ってきたばかりで、まったく整備されていない状態だったのです。
 鍋が無くても、パンを買ってきているから大丈夫。でも、肉はどうしよう。ステーキを焼くつもりで大きなブロックを買ってきたのに。パベルは困っていました。

 ローストビーフを焼けばいい。パベルに町まで連れてってと頼むと、ぼくはそこの荒物屋で、ノコギリと手斧を買いました。町からカントリーハウスに戻る途中、ぼくは目を凝らしてきょろきょろと四方を見回し、森を探しました。四方八方見渡す限り、森、林の類はまったく見当たらないのです。
 ようやく点のように見える林、木々の集落を見つけ、進路をそっちにとりました。そこは植林された林のようで、なかに入っても必要な枝を探し出すのには苦労しました。
 ローストビーフには、Y字型の木の枝2本と、長めでまっすぐな串用の枝1本が必要です。火の両側にこのY字型の枝を立て、これに渡した串に刺した肉を回転させながらゆっくりと火を通すのです。
 薪によるローストビーフは、ぼくの特技で、たき火の火力の微妙な調節が自在にできる必要があり、誰にも出来るというものではありません。

 ピンク色に焼き上がったローストビーフで、お腹がいっぱいになった頃、パベルはこれから昔なじみの農家のおじさん・おばさんに会いに行くといいました。彼が子供の頃、可愛がってくれた夫婦なのだそうです。
 隣といっても、2キロ近くも離れているのです。畑を貫く夜の地道を延々と歩くと、灯火が見えてきました。
 ちょうどロシア民話の絵本に出てくるような感じのおじいさんとおばあさんは、テレビに見入っていました。パベルは感激の再会です。
 作ったばかりなのよ、食べなさい食べなさいと、クッキーを山盛りの皿で勧めてくれましたが、すっかり満腹のぼく達は、そんなに食べられません。帰りにはもっとたくさんを新聞紙に包んでくれました。まるで昔ぼくを育ててくれたおばあちゃんみたいでした。

 パベルとおじいさんは、テレビの話題で話し込んでいますが、チェコ語なのでなんの話か分かりません。後で聞くと、チェコとスロバキアの分離の話題でした。
 チェコスロバキアは、元々二つの国が合体しているのです。チェコは工業国、スロバキアは農業国と、まったく性格が異なります。
 生産性の高いチェコに取ってスロバキアはお荷物、スロバキアにもチェコの言いなりになれるかという自負があって、以前から分離の話はあったのだそうです。ソ連邦崩壊後の情勢の中、急にこの話が再燃したようです。
 実際この後すぐに、この二国は分離しました。(分離後すぐに、家内とスロバキアを訪れ、自然が豊かで物価も大変安かったので、その翌年の夏スロバキアのハイ・タトラ山脈山麓のリゾートホテルで、2週間ほど滞在したことがあります)

 もう夜中の12時でした。再びくらい夜道をたどり、カントリーハウスに近づくと、こうこうと明るい電気に照らされた門が見えました。パベルのカントリーハウスに接した隣家です。家中の電気がついていました。門の前には数人が立っておりました。どうやらぼく達を待ち構えていたようです。
 「どうぞどうぞ、中へ中へ」と否応無く招じ入れられたのです。部屋には8人ほどが集っていました。
 この家の主人は、共産党の仕事をしていたひとで、自分たちとはほとんど付き合いはなかったのだと、パベルは小声で告げました。
 我が家でとっておきの最高のものですというワインで、全員が乾杯しました。
 そのうちに、誰かが「私たちは、日本語を聞いたことがありません。何か日本語をしゃべってくれませんか」といいました。
 しゃべってくれといわれても、相手もいないのにしゃべれません。ちょうどポケットに入っていたチェコガイドの日本語のチラシを読むことにしました。
 全員が、しんとして聞き入っています。
 読み終わって、しばらく沈黙が続いた後、主人はさも感に堪えないという感じで、吐息をつくように、「なんというやさしく(gentle)て、優雅な(elegant)響きなんだ。美しい」といい、全員が頷いたのでした。
 この出来事はぼくにとって忘れられない記憶となって残ったのです。

番外1「プラハの夏」

 いま、高田直樹著作纂の年表で調べてみると、ぼくがプラハに行ったのは54歳で教師を辞めた翌年、1992年の夏のことでした。
 それにしても、この頃、ものすごい勢いで外国に行っているし、国内でも矢継ぎ早に出歩いている。列挙してみましょうか。こんな具合です。
 1991年6・7月、退職して直ぐのスイスクラン・モンタナ滞在。7・8月、ボストンよりサンフランシスコ近郊ロス・ガトス滞在。9月帰国して、来日したパベルと若狭へバイクツーリング。12月より翌年1月、パキスタン旅行、ラワルピンディ、ペシャワール、クウェッタ、カラチを歴訪。
 1992年3月、サンフランシスコのウィンドウズ・エキスポへ。6月、ロンドンでの<Europe OOP Conference>へ。終了後、オランダに渡り、車でプラハへ。
 8月、帰国して直ぐ、野尻、佐々木と共に槍〜劔の縦走。そして、下山するや直ぐ、妻秀子を連れて、一週間のタイ・チェンマイ行。
 9月、受験勉強の次女を除いた、妻、長女、長男の高田家4人で、パキスタンへ向かい、念願のミナピン村再訪を果たす。ディラン峰遠征より27年ぶりのことでした。
 12月、教え子や、祇園の舞妓の美年子など12人を連れてパキスタンツアー。そして、翌1993年1月より、この「異国4景」を執筆することになります。さて、本題の番外編です。

 「べルリンの壁」崩壊からの2年少し、プラハの町は、何か活気にあふれているようでした。それにしても、それは、今から15年前のこと。デジカメもインターネットもない時代です。記憶はもどかしく霞がかかっている感じです。
 さて、プラハ近郊の団地の8階のアパートの一室で起きだしたぼくは、冷水のシャワーを使います。市の職員が夏休みのバカンスを取り、そのため給湯がストップしているのだそうです。震え上がるくらいの冷たい水です。息を止めて一気に水をかぶります。

 パベルは、ぼくを車に乗せ直ぐ近くのパブのような食堂に連れて行きました。ここの自慢料理は、ウサギのシチュウです。肉切れから散弾が2個出てきました。直ぐそばの草原や林には、野うさぎがいっぱいいるのだそうです。
 午後はショッピング。なんでもびっくりするほど安い。チェコグラスを大量に買いあさってしまいました。
 これは、あとでプラハ空港でのチェックインの際、重量オーバーの追加料金を請求されることになります。パベルとポーリンは、二人ともKLMの職員ですから、なんとかフリーで通そうと色々方策を尽くしてがんばってくれましたが、駄目でした。オランダと旧ソ連を脱したばかりのエアロフロートでは、どうにも勝手が違うようでした。

 プラハは、モーツアルトが大好きだった町です。彼が、この何度も訪れたプラハでいつも滞在したのは友人の別荘で、ベルトラムカ荘と呼ばれる館でした。
 交響曲第38番は通称「プラハ」と呼ばれていますが、これは彼がここで作曲した訳ではないようです。どうして、そう呼ばれるようになったかは、分かりません。ここで作曲されたのは、「ドン・ジョバンニ」でした。
 このベルトラムカ荘に行きました。午後には、中庭の芝生の上での弦楽合奏のコンサートがあり、シャンパンが振る舞われます。純白のガーデンチェアに座り、シャンパンを含みながら聞く弦楽四重奏は空中に漂い、そして青く澄み切ったプラハの空に消えて行きました。

 ちょうど、世界各国で演じられている『レ・ミゼラブル』を国立オペラ座でやっていて、パベルとポーリンは行く予定なので一緒しようと誘われました。切符は、と聞くと、パベルは「大丈夫。任せとけ」といいました。
 当日、劇場の前まで行くと、パベルはぼくを石の円柱の陰に隠し、劇場前に立っている数人の男と交渉を始めています。
 開演ギリギリになって、ようやく切符が手に入りました。なんと半値近い値段です。パベルは、そのダフ屋を値切り倒したようでした。
 実はぼくは、この「レ・ミゼラブル」ロンドンでも見たことがありました。だから今回はチェコ語の「レ・ミゼラブル」という訳でした。そばのポーリンが、あらすじを説明してくれようとするので、ぼくは「ありがとう。知ってるよ」と答えました。
 「えーっ、どうして知ってるの」とポーリンは驚いています。
 日本人は、大体こうした文芸作品や音楽に対しての知識は、世界でも抜きん出ているのではないかと、ぼくは思っています。
 ロス・ガトスのラリーの家にいた頃、彼がメキシコレストランに僕を連れて行きました。バンドグループがテーブルにやってきたので、ぼくは「ベサメムーチョ」とリクエストしました。
 演奏が始まると、店の客全員が大合唱を始め、ラリーは驚いて「どうして知っているんだ」と聞いたものです。だって、有名な曲だもんという答えに、彼はぽかんとしていました。

連載第5回「アムステルダムからプラハへ」

プラハトップS.jpg アムステルダムはスキポール空港に降りたつと、パベルが出迎えてくれました。
 パベルというのは、以前に少し触れたことがあるので御記憶のかたもあるかもしれません。チェコ生まれでチェコ人のパベルがオランダ国籍をもつオランダ人となったのには少々の経緯があります。
 パベルの両親はどちらも医学者で、お父さんのパボル・イバンニは臓器移植の権威なのですが、ずっと昔のこと世界会議で東京に来ていました。丁度そのときあの有名な「プラハの春」の事件が起こったのです。チェコの自由化要求にスターリンは戦車での弾圧で応え、ソ連邦に憧れを抱く日本の知識人にあるショックを与えます。
 先頃の「天安門事件」の経緯をもっとも明確に把握できた中国人は、そのとき中国の外にいた中国人であったと同様に、パベルのお父さんもつぷさに事件を観察することが出未たのです。そしてお父さん・パボルの得た結論は、この国には未来はないというものでした。
 パボルは東京からプラハに帰り着くとすぐ、密かにチェコ脱出の準備を始めます。それから5年後の夏、パベルの両親はお祖父さんとお祖母さんを残し二人の子供を連れてハンガリーを通ってルーマニアに向かいました。みなさん地図を出してご覧になればお分かりのとおり、ルーマニアというのは目的地とはまるで正反対の方向でした。でもこれも5年がかりでパボルが考えた方策の一つで、こうして彼ら家族は官憲の目を欺き、大きく迂回してオランダに亡命したのでした。その時、パベルは中学生だったそうです。
 中学生のパベルはおそらく英語も駄目で、もちろんオランダ語は全く分からず、きっと大変な苦労をしたことでしょう。でも、ぼくが聞いたのは高校生の頃から両親とは離れてI人暮しをしなければならなかったというようなことだけで、そうした苦労について彼が話したことはありません。彼は祖国語であるチェコ語、母国語のオランダ語はもちろんのこと、英語、フランス語がこなせます。
 彼と妹はオランダ国籍を持っていますが、お父さんとお母さんにはありません。もっともお金さえ払えばすぐ手に入るのだけれど父母らはそうしなかったのだそうです。またパベルたちがチェコのお祖父さん・お祖母さんを訪ねるのはまあ自由だったのですが、亡命したお父さんお母さんにそれは出来ないことでした。
 だから『ベルリンの壁崩壊』をもっとも喜んだのはパベルの父母でした。そしてソ連邦消滅後、ずっと昔に共産党に接収されたままだったカントリーハウスを返してもらったのだそうです。
 「プラハには、アパートを借りていていつでも使える。プラハから100km程の郊外にはカントリーハウスもある。一緒にいこう」と書いたファックスをパベルから受け取ったのは、1992年の春のことでした。それはちょうどぼくが、6月初めにロンドンで開かれるコンピュータソフトウェア開発の先端技術の〈オブジェクト指向プログラミング〉をテーマとする「ヨーロッパ:ウープ会議」に出席すべく準備を始めていた頃だったのです。
 こうしてぼくの92年度ョーロッパ旅行、アムステルダム発スイス経由チェコ入りのコースが決まったのでした。

 ヨーロッパ内は車で動くとして、エアチケットはバンコックーロンドン往復だけが必要でした。というのは、大阪ーバンコック往復はすでに持っていたからです。すこし前にサンフランシスコで買った、おお安の一年間有効のチケットは、サンフランシスコー大阪ーバンコックー大阪ーサンフランシスコというもので、大阪から先が残っていたのです。
 バンコック中継のロンドン行きも悪くない。そう思いました。美味しいトロピカルフルーツとタイ料理が食せるし、大好きなホテル『バンコックリージェント』ではゆったりとリラックス出来るからです。
 大急ぎでバンコックから安いロンドン行きの往復切符を取り寄せるとそれは、エアロフロート(ソ連航空)のものでした。このことを聞き知った教え子で京大の先生のタケダ君は、電話の向こうでカン高く、
「絶対止めてください。エアロフロートなんぞ。それにドバイ経由なんてとんでもない」
 ほとんどの人が反対したのですが、他に思わしい切符はないし、まあいいではないかと思ったのです。ソ連邦が崩壊したからといって、なにも飛行機までクラッシユする訳でもあるまい。それに今から20年前、ソ連のコーカサス山群に遠征したときにエアロフロートにはいやほど乗ったという経験がぼくにはありました。エアロフロートの国内線は当時まるで市バスが空を飛んでいるという感じだったのですが、飛行のフイーリングはなかなかのもので、宇宙開発での実績と関係あるのかなと思ったりした記憶があったのです。
 ところがこの問題のフライト、乗ってみれば別にこれということもなく、最大の問題はモスクワ空港での5時間を超す乗り継ぎ待ち時間であることが分かったのでした。しかたなくぼくは、「デューテイーフリーショップが送る新しい世界」などという大はしゃぎの垂幕の掛かった免税店で、フランスワインとキャビアの瓶詰とフォアグラの缶詰を買い込むと、この薄汚い空港の片隅で豪勢な酒席を楽しもうとしたのでした。
 ワインの瓶がほとんど空になりかけたとき、黒っぽいスーツを着て口髭をはやしたかなり年配の一人の男が話しかけてきました。
 「あなた、にほんじん。わたし、にほんじん、すき。わたし、イランじん」たどたどしいというにはあまりに単純で幼稚な日本語でしたが、意味はよく分かりました。習い覚えた日本語を使いたくて話しかけてきたのかと思ったのですが、彼はアラビア語以外は全く駄目なのでした。こういう人と会話するには、出来るだけ相手の使った単語をそのまま使って話すのがこつです。
 「私日本人。わたし、イラン人、すき」とぼくは返しました。
 「わたし、東京一年、ピザだめ、イランかえる。にほんじんともだち、たくさん。ビザだいじょうぶ。わたし、にほんじんともだち、だめ。ビザだめ」
 つまり、東京に一年いたけれどビザが切れたのでイランに帰る。日本人の友達がいれば、ビザが取れるけれど、いないからビザは無理だというのです。東京でどんな仕事をしていたのかが知りたくなったので、聞いてみました。
 「あなた、とうきょう、しごと、なに」
 すると、彼は天井を大きく仰ぎ、モスクワ空港の建物の天井を指差して、「わたし、しごと、わたし、みんなわかる」なるほど、かれは建築関係の仕事をしていたのかと、ぼくは納得したのです。
 ぼくが、イランヘ行きたいと言うと彼は次のようにいって、住所を書いてくれました。
 「わたし、えいごだめ、でも、わたしおとうと、えいごだいじょうぶ、あなたでんわする、だいじょうふ。イラン、地雷いっぱいある。でもだいじょうぷ、あなたイランくる。ぜんふだいじょうぶ。」
 こんな調子でぼくたちは、約一時間も話し込んだのでした。突然彼は、
 「あなた、たいへんきれい。あなたすき」といい、ぼくも「わたしもあなたすき」と返しました。そして、僕たちは回教徒のやり方で抱擁しあい、別れたのでした。

 アムステルダムでレンタカーを借りるのが一苦労でした。どのレンタカー会社もプラハ行きでは車を貸してくれなかったからです。パベルが駆けずりまわって、ポーランドナンバーの車でアムステルダムで乗り捨てられたルノーを捜し出しました。これならプラハで乗り捨てが可能です。エアロフロートのロンドン発の帰りの切符もプラハ発に切り替えることが出来ました。チェコのビザはわざと取りませんでした。パベルがドイツ・チェコの国境で取るのが一番簡単と教えてくれたからです。
 準備万端整った感じでぼくは、まずスイスのクランを目指しました。パベルとは一週間後の午後4時にプラハのヴァーツラーブスケ広場にあるKLMのオフィス前で落ち合うことになりました。彼はその日の正午に同僚で女友達のポーリンと飛行機でプラハのKLMオフィスに着き、すぐ会議に出てちょうど4時に会議が終わるのだそうです。
 アムステルダムから進路を南にとると直ぐにドイツ国境を過ぎます。デユッセルドルフからフランクフルトとアウトバーンをなお南下。バーゼルでスイスに入り、あの世界ジャズフェスティバルで有名なレマン湖のモントルーヘ達します。あとは勝手知ったローヌ川沿いの道をぶっとばし山腹の九十九折を登ると、すぐに懐かしいクランの山荘に着きました。アムステルダムからゆっくり走って約10時間のドライブでした。
プラハカット1S.jpg 数日の滞在の後、いよいよプラハに向かいました。イタリアヘ迂回してからドイツに入り、チェコの国境近くで一泊してプラハに入るつもりです。
 早朝クランの山荘を出発。シンプロン峠を越えてイタリアヘ。コモ湖の畔の古めかしくて田舎風でけっこう洒落た感じのレストランの藤棚の下でイタリアワインの昼食をとりました。オーストリアを突っ切ってからドイツのアウトバーンを走って、ニュールンベルグ近くのモーテルに入ったのは、もう夜の10時過ぎでした。
 翌日、午前中にチェコ国境を通過。ビールで名高いピルゼンの町でビールを飲んで昼食。パベル達とは予定通りに合流できたのです。
プラハカット2S.jpg プラハは美しい町でした。うれしいことには、なんでも安いのです。日本の高層団地のようなアパートの部屋では、夏休みで市の職員がみんなバカンスに出かけ、そのせいで湯が出ないので、ポーリンは毎朝、悲鳴をあげながら、シャワーを使っていました。
 モーツアルトが寄寓した邸宅。その部屋でのコンサート。『レ・ミゼラブル』の観劇と感激。歌劇『魔笛』の鑑賞。
 それから空気銃を持って出掛けた、なんだか絵本の舞台のようなカントリーハウスの日々、本当にプラハはヨーロッパの京都みたいな所でした。
 詳細については、いずれ稿を改めたいと思っています。

連載第4回「12年目の中国」

12年目中国トップS.jpg 大阪から北京までわずか3時間。中国人の決り文句の通りまさに「一衣帯水」の近さ。そしてこれに続くもうひとつの決り文句は、「中日友好」。しかしやはり日本にとって中国は近くて遠い国のようです。
 ぼくが初めて中国に行ったのは、12年前のことです。ぼくは、「日本コングール峰登山隊」の隊長として初めて訪中したのでした。
 中国では、あの文化大革命が収まり最初の自由化の時代に当たります。中国は外貨獲得の方法として登山料を取ることを考えます。まあ登山料というのはネパールでもパキスタンでも取っていました。しかし中国のそれは法外に高かった。日本チョモランマ(エベレスト山の中国名)登山隊が一億円を超える登山料を払ったというのは有名な話です。
 いっぼう日本では、列島改造が進行し田中角栄さんで日中国交回復がなり、大平首相が中国を訪問していました。そして京都では、戦後ずっと続いていた蜷川民主府政が終わって、真正自民党府政に切り代わったばかりの頃です。
 京都のある登山倶楽部が中国のコングールという7千米級の未踏峰の登山許可を取ります。この倶楽部は、ぼくが最初の海外登山に参加した「京都カラコルム・ディラン峰登山隊」の隊員で構成されたサロンのような倶楽部で、財界人のボスがぼくにコングール隊の隊長をやるように命じます。ぼくがそういう指名を受けたのはおそらく、この前年ラトックー峰という極めて困難かつ危険で、世界各国の登山隊が失敗し何人ものクライマーが死んでいる未踏峰の登頂に成功していたからだったと思います。
 まったく予期しなかったことなのですが、コングール登山隊はその当時の京都の政治状況のなかで、極めて政治的なイベントとして捉えられたようでした。絶対成功させてはならぬという圧力がいろいろな形をとって現れました。それに対抗しての動きも当然起ってきました。一つの登山隊がかくも隠微で熾烈な政党の対立を呼んだのは、珍しいのではないかと今にして思います。
 京都新聞のある友人の記者は、その当時ぼくの話をきいて「高田さん。全部を克明に記録しておいたら………。きっと京都そのものの政治記事が書けるで」と真顔でいったものでした。
 ややこしさは京都だけではありませんでした。中国は、この山をイギリスのボニントン隊にも許可していたのです。ボニントンといえば知る人ぞ知るあのエベレスト南壁の隊長で、成功してサーの称号をもらった人です。
 どうした訳かボニントンが、ことごとく日本隊の妨害を始めます。例えば、彼は英中文化協定なるものの一項に「未踏峰を登らせること」を入れ、この項目を守るためには日本隊には8月に入るまではベースキャンプを作らせてはならないことを、中国登山協会に約束させたりしたのです。
 後になって分かったことなのですが、ボニントンは実は、パキスタン政府からラトックー峰の登山許可を先に得ていたのですが、危険すぎるとキャンセルしたのです。そこでぼくの隊に許可が回って来たとゆう訳です。そしてその隊はその危険すぎる山に無傷で全員登頂を果たしたのですからボニントンがぼくを意識しマークしたのも当然過ぎることではあったのでしょう。
 今にして思えば、ぼくは浅はかにもこうした内外の動きに、ただ強気つよきと反応したようです。その結果があの忌まわしい遭難に結びついたという推理を100%否定することは出来ないと思います。何年たっても胸ふさぐ思いなのですが、極めて優秀もっとも信頼する世界的な登山家が3人も、コングールの頂を目指したまま二度と再び戻ってこなかったのです。
 そういう次第でぼくの中国の印象は決して明るいものとはいえず、また愉しい記憶があるわけでもなかったのです。

 今年の始めころだったと思います。ぼくのコンピュータの一番弟子のトミナガ君から東京のホテルにえらくあせった電話がかかってきました。この4月から1年間西安に行く話があるんですが、コンピュータのほうはどうすればいいでしょうか。1年もレッスンから遠ざかっていたらどうしようもない今浦島になってしまうというのです。ぼくのレッスンは数回休んだだけで、もう全く分からなくなるというもののようですから、彼の心配ももっともというべきでした。「気にせずに行ってきたら………伝達講習に誰かをさし向けたるし」とぼくは答えたのでした。
 出発直前になってトミナガ君は、「2ケ月ほども夏休みがあるんです。どこか奥地に連れてってくれませんか」と誘い、「そうか。そんならパキスタンに入ろうか」
 こうして西安発ウルムチ、カシユガル。パミール高原を突っ切って5千米のクンジェラーブ峠越えパキスタン入りのコースが決ったのでした。いわゆるカラコルム・ハイウェイというやつです。
 帰りはパキスタンから北京ー西安では芸がないから、まあラホールからインドにでも入り、香港経由で陸路広洲に寄ってあのエリザベス女王の訪中のために造られたというスワンホテルに泊まり、おいしい広東料理でも食べてから西安に戻ろうか。2ケ月もあればどこへでも行けるではないか。そう考えて、このシルクロード・ラウンドコースに向かうべく、ぼくは6月の27日大阪を飛び立ったのでした。
 トミナガ君のいる西安外国語学院というのは、日本でいう外国語大学にあたります。違うところは、中国の大学は全部そうなのですが、全寮制で先生もみんな学内のアパートに住んでいます。驚いたことには、退職教官も家族と一緒に住んでおり、学内にゲートボール場まであるのです。
 中国の独立と同時にロシア語研修所として建てられたそうで、彼のいる外事楼という外人用の一画にあるアパートはロシア人の設計だそうです。2LDKの大きく殺風景な造りなのですが、ドアの錠前が外からロックすると中からは開けられなくなる仕組みになっており、驚いたぼくは「これはあんた、君はいつでも軟禁されるということやないか」といいつつ、さすがロシアの設計だと思ったことでした。

12年目中国カット1S.jpg ほとんど毎日のように、トミナガ君の教えている日本語科の学生が訪問してきました。李一峰という学生会長をしているという学生は、ぼくに会うなり、たどたどしいけれど明瞭な日本語で「はじめまして。りいっぽうと申します。わたしはたかだせんせいの孫弟子です」と挨拶しました。トミナガ君がコンピュータを教えているのです。
 パキスタンに向かうまでの二週間、ぼくはほとんど読書をして過ごしました。ほとんどが中国関係の本で、現地で読むのはそれなりにリアルで、出てくる中国語の言い回しやジョークなども説明してくれる学生がいつも傍にいるのですから、まことに面白かったのです。とくに記憶に残ったのは、「ワイルド・スワン」と邸永漢の「中国人と日本人」です。
 北京のホテルの中にある民航の営業所でどうして職員がお客が入ってきたのを無視してトランプに興じているのか。大書店の店員がどうして買った本を投げてよこすのか。トミナガ君が自転車を買い、アパートまで10分ほどの距離を乗って帰ったら、もうこわれたので驚いてとって返し、交換してくれると思って文句をいった時、なぜ全然取り合ってもらえず勝手に直せばいいじやないかといわれたのか。中国のスチュワーデスはなぜお客の塔乗・降乗に際して決して挨拶しないのか。北京の貿易センタービルの屋上レストランで、なぜ90年もののフランスの安ワインに2万円もの値をつけるのか。などなどのやりきれないような疑問に対する答えやヒントがこれらの本の中にあったのです。
 ぼくがずーっと思ってきたことは、ぼくのあまりよくない中国の印象というのは多分最初の時のその極めて特殊な状況によるものではないかというものでした。しかし今回の旅で得た結論は、最初の印象は特殊なものではなかったということだったのです。

 今回の中国の旅の一つの大きな目的は、たずね人でした。
 ミスター・ワン(王)という英語の上手な青年で、コングール登山の時のぽくの英語の通訳でした。12年前、王は2ケ月の間、コングールの山の中でぼくと起居を共にし、そして下山したカシュガルで突如として消えてしまったのでした。代わりに別の英語の通訳が現れましたが、登山協会は決して彼の消息を明かしてはくれなかったのです。
 「コングール登山」のとき、本隊と同時の出発を許可されなかったぼくは、一ケ月遅れで単身ベースに向かっていました。カシュガル空港でぼくを出迎えたのが王さんでした。彼は新彊省の外事部に勤めており、登山協会とは何の関係もない、のだけれど協会からの依頼でぽくを出迎え、途中まで送る役目で来たといいます。
 ベースキャンプにいる日本語の通訳が全く役に立たずに大弱りしているという連絡を再三受け、なんとかしなければと思っていたぼくは、彼に「通訳として働いてくれ。一緒にベースまで上がってくれ」と頼みます。「あなたと一緒なら初めてのテント生活も苦にならないでしょう。一度帰ってから必ず戻ってきますから」と王は答えました。そして驚いたことには、本当に彼はI週間後にベースに登ってきたのでした。ぼくは登山協会が派遣した役立たずの日本語通訳を解雇します。
 こうした事情がかれの突如の失踪と関係があり、彼の身の上に何かよ
くないことが起ったのかも知れない。その後どうなったのだろう。これ
はこの12年間、時折ぼくの頭をよぎる思いだったのです。

12年目中国カット2S.jpg カシュガルでなんの糸口もつかめぬまま日がたち、パキスタンヘの出発が翌日にせまり、もうほとんどあきらめかけていた時、全くの偶然で彼の消息が分かったのでした。消息を伝えたのは、ぼくがパキスタンヘのチャータータクシーの手配を頼みに訪れたCITS(中国旅行社)のチーフでした。王さんの部下であったという彼の話では、ぼくの危惧のとうり、王はあの後外事部から消えるのですが2年後に部長で戻って来たといいます。
 王さんは数年前、外事部を止め旅行会社を興したのだそうです。本社はウルムチにあり登山やアウトドアを主に扱っているそうで、「この業界では、すごいビッグボスですよ」と彼はいいました。
 ぼくのことを電話連絡で知った王はこういったのだそうです。「いますぐにでも、ウルムチから飛んで会いにゆきたいが、それは不可能だ。その人はぼくの大事なゲストだから、ぼくの代わりに最大限のもてなしをするように……」
 こうした次第でその夜、カラコルム・ハイウェイ出発の前夜パーティーが豪勢かつ盛大にとり行われたのでした。

 パキスタンをへて、バンコック、香港そして中国に入って再度西安に戻る途中、広洲のスワンホテルでファックスをしたためたぼくは、王さん宛に次のように送信しました。
 「君の消息が分かり、活躍しているということを知っただけで、ぼくはもう150%の満足を得ている。約束していたウルムチ訪問は次の機会にしたい。」

連載第3回「おじさんのホームステイ」

ホームステイトップS.jpg 窓の外には、一抱え以上もあるアメリカンシーダの巨木が、まるで手に触れるばかりの間近さで何木も立ち並んでいます。
 うっそうとして薄暗く、なにやら少々不気味な森の霊気が部屋の中にまで忍び込んでくるかのようです。
 しんとして物音一つせず、独りぼっちのぼくはフトあの「ツインピークス」のボブがやってくるのではないかと正直いって少し恐怖したのでした。そしてリーバイが出掛けにいった「大丈夫よ。ジユディとミチコが守ってくれるわよ」という言葉を思い出し少し安心したのです。
ジユディとミチコというのは、ぼくがまたがれるくらいの大きな犬で、ガレージに入れられることはあっても決してつながれることはなく、隣まで1km以上というこの森の一軒家を守っているのです。
 ぼくは今、サンフランシスコ空港から直線距離にして70kmほどのロスガトスの山中にいます。サンフランシスコ空港からここに至るには、まずハイウェイ280Southに乗り、サンノゼでサンタ・クララに向かう17号に乗り換え、それから細道を登るのです。なんと言ったらいいかちょっと説明し難いのですが、まあ言ってみれば大阪から名神を走って比叡山に登るような感じでしょうか。もっともこの間、料金所・信号の類は一つたりとも無いのですが・・・。

 この家はラリーがビバリーヒルズの山荘を売り払って最近移って来た家です。サンフランシスコ大地震の後、多くの金持ちが持ち家を手放して他の場所へ移ったのだそうです。ラリーは前の家を売って、2階建てでバス付きベッドルームが二つある瀟酒(しょうしゃ)なこの山荘を36万ドルで買ったと言います。シリコンバレーにある彼の会社、アップル・コンピュータもラリーがロスアンジェルスから近くに移ってくることには大賛成で、家の購入に関しても援助してくれたのだそうです。
 「この家は65才なんだ」とラリーが言い、「へえー、そんなに古いのか。俺よりずっと年寄りじゃないか。そんなには見えないなあ」とぼくが言うと、ラリーは「そうそう。45年経った20年前に2番目のオーナーが建て増しして、4年前に次のオーナーが内装をすべてやり変えたんだ」と説明しました。

 いつだったか、ぼくが「そのうちにアメリカででもホームスティしよか思てるんや」と言うと、そばにいた若い女性がケタケタと笑いだし、「だってぇ、ホームスティゆうたら若い人がするもんでしょ」と言います。あほか。ホームスティとは読んで字のごとく、家庭に留まることではないかとぼくは思ったのです。今回ぼくは、そのホームスティをするつもりです。
 ラリーとは数年前に東京で知り合ったのが最初でした。東京でアップルジャパン主催の「デベロッパー・カンフアレンス」という会議がありました。何人かの講演者に混じって予定外の飛び入りのスピーカーとしてラリーが紹介され30分ほど話したのです。彼は大阪で行われる「コンピュータ・ワールド」の基調講演者として招かれ来日したのだそうです。
 魚群が通り通ぎると、磯ぎんちゃくがその方向に触手をゆらめきのばすというコンピュータグラフィックを見せながら、「コンピュータ言語はこの磯ぎんちゃくのように自分でプログラマーの意図を察知するような方向で進化する」という彼の説明にぼくは大変興味を抱きました。
 後のパーティーで「とても面白かった」とぼくは、この長髪のまるでバッハのような髪型で、ヒッピーのようなジーパンとミュージシャンのような皮のブレザーをまとった男に話しかけたのでした。
 「大阪まで来るのだったら京都まで足を延ばしなさいよ」とぼくは誘い、「うーん、でもスケデュールがつまってるからなあ」と逡巡する彼にそばの秘書嬢が「ねえ、抜け出しましょうよ」と言いました。秘書と思ったのはぼくの思い違いで、彼女は新婚ほやほやの奥さんのリーバイだったのです。

 京都に帰って数日たった頃、突然外国人から電話が掛かってきました。あのラリーでした。「大阪にいる。明日京都に行こうと思うんだが」。
 土曜日の午後「新都ホテル」のロビーで落ち合ったぼくは、観光客の多さを嫌って、まず竜安寺と仁和寺に行ったのです。ラリーは仁和寺の濡れ縁の端に座り込んだまま、ぼくに促されるまで動こうとしませんでした。ビロードのような苔の群落や庭園のはずれを流れる密やかなせせらぎに異常に見とれる彼を、ぼくは不思議な思いで見つめていました。
 後になってアメリカヘ行ってから分かったような気がしたのですが、どうもアメリカには、日本では普通のまるで細密画のような繊細な自然はないようなのです。
 その夜、大阪のホテルに戻ると言う二人に「泊まっていけば」と言ったら「本当かい。泊まっていっていいのか。それはうれしい」と我が家に一泊したのです。翌日の夕方二人は、初めて飲んで「まるでワインみたい」と感激した伏見の冷酒『桃の滴』を土産に貰い、大喜びでお別れの抱擁をして、二人は去って行きました。
ホームステイカット1S.jpg 次にラリーに会ったのは、翌年のぼくの初めてのアメリカ行のときでした。
 出発間際になってラリーからファックスが入りました。ソファーベッドなら使えるから泊まってくれと書いてありました。ぼくは彼の家はサンフランシスコだと勝手に思い込んでいたのです。彼の会社がアップルコンピュータでそれは有名なシリコンバレーにあるからです。ところがファックスを見て初めて分かったのですが、彼の家はロスアンジェルスのビバリーヒルズにありました。
 ぼくは先行して宿の手配をしている秘書に、急遽宿をロスに変えるようにファックスしたのです。けっさくな話なのですが、ぼくはもちろん多分彼女もその時、ビバリーヒルズがどんなところなのかを全く知らなかったのです。それで、最初に電話したのが、なんとあの有名な「ビバリーヒルズホテル」でした。値段は当然高かった。「オウ。イッツ、トゥーエキスペンシブ」と彼女はたどたどしい英語で値切ったのだそうです。でもなお高かった。更に言うと、もっと安い部屋をアレンジしてくれたのだそうです。きっとそのホテルマンは、ぼくの秘書のことを日本人だとは思わなかったのでしょう。ヨーロッパでもそうなのですが、例えばそのホテルやお店に日本語のメニューやチラシなどがあったらぼくは大いに緊張してしまいます。それは、ボラれる危険を意味するからなのです。
 数年前、80才を越える母親を連れて、アムステルダムからパリのシャンゼリゼ通りを少し入ったホテルに到着したときのこと。モスクワ経由で合流してくる娘の分を入れて予約通りトリプルベッドの部屋が用意されていることを確認し、ほっと落ち着いたそのすぐ後、部屋の刷りものが日本語であることに気付いたのです。
 ちょっと焦って、ベッドを確認すると、一つはエキストラベッドでした。すぐに受付けに行って交渉し、トリプルベッドの部屋はないことが分かり、かなりの値引きをして貰いました。

 日本人は日本での習慣の通り、チェックインの前に部屋の点検(チェック)をしたりはしません。しかし、チェックインするということは、その部屋の使用権を買うという取り引き・商行為であって、確かめもせずに買うということはおかしいのです。
 話を戻して、とにかくそういう次第で、ぼくは偶然にも「ビバリーヒルズホテル」に一週間滞在し、その所為でなかなか面白い経験や出会いもあったのでした。
 この間ずっと、ぼくはホテル近くのラリーの山荘に通ったのでした。
 朝の10時頃にドアを叩くと、寝ぼけ眼の彼は「君と同じで、ぼくも時差ボケになる」と言ったものです。朝まで仕事し、昼過ぎに起きるという毎日なのだそうです。
 当時彼は「シリコングラフィックス」という極めて高性能なコンピュータを使って、数十匹の芋虫をまるで生きているように、画面上で集団で動き回らせるという研究をしていました。この「シリコングラフィックス」は最近会社に買ってもらい、在宅勤務することにしたのだそうです。
 コンピュータを冷やすためだけのエアコンがずっと動き続けており
 「こいつはこの家よりも高いんだ」とラリーは言っていました。
 さて、次の年、ぼくはスイスにおりました。この後ぼくはオックスフォードを経てアメリカに渡る予定でしたから、何度かラリーにファックスしたのですが返事がありませんでした。

 ある日、スイスの山荘にラリーから突然ファックスが届きました。「家を移ったため、君のファックスが手に入らなかった。LA(ロスアンジェルス)の家と違ってここはもっと広いし、リーバイの書斎にはクインサイズの布団もある。一緒に暮らせると思うよ」
 アメリカに渡り、ラスベガスのシーグラフ(コンピュータグラフィックの世界会議)からボストンのマッキントッシュ・エキスポヘと渡り歩いた後、ぼくは大喜びでこのロスガトスにやってきたというわけです。
ホームステイカット3S.jpg ラリーは、今は手書きの文字認識のソフトを開発しているのだそうで、着くなり興奮気味に説明をしてくれました。彼の考えは、コンピュータの中に文字を読み取るある生物がいて、そいつが文字を判断する。この仮想生物のことを「彼はこうではないかと考える」などとラリーは説明します。面白かったので、少し突っ込んだ質問を続けると、いつものようにδやΣの入った数式での説明になりました。こうなるといつもぼくはもうお手上げでした。
 リーバイが開けてくれた二階の彼女の書斎がぼくの居室になりました。この部屋はバスルームと化粧室付きで、電話やゼロックスのコピー機まであったのです。持参したファックスをセットしたら完璧なオフィスでした。ラリーに合わせてぼくも朝方まで仕事をし、昼前に起きて彼と一緒に車でロスガトスヘブランチをとりに行きます。夕食は、ぼくは自炊をすることにしていました。
 近くの、とはいっても数十キロも離れたサラトガアベニューの「やおはんデパート」まで買い物に出掛けるのが日課でした。ここでは、まるで日本のスーパーがワープしてきたみたいになんでも手に入ったのです。

ホームステイカット2S.jpg 直径5mを越える巨大なパラボラアンテナを据え付け、世界中の映像を録画するビデオマニアのラリーは、ぼくに「ツインピークス」のビデオを見ることを勧めました。彼はテレビを録画した24本のテープを持っていたのです。「ツインピークス」が日本に紹介される前の年のことで、ぼくは何も知らなかったのですが、みるなり引き込まれ虜になりました。途中まで見たときに、これは日本に持ち帰るべきだと思い録画をはじめたのす。今様に言えば、アメリカの「ツインピークスおたく」のラリーはぼくに朝方まで付き合うこともありました。
 一ヶ月を越える「おじさんのホームスティ」はすぐに終り、ぼくはラリーの薦めにしたがって、「ツインピークス」の舞台となったサリッシュ・ロッジの予約をとり、やはり舞台となった町スノーコーミーを目指して「ツインピークス巡礼の旅」にシアトルに向かったのでした。

連載第2回「新しい門出、スイスの旅」

スイスの旅トップS.jpg ぼくは、ロンドン行きの飛行機の中でした。
 今から数えて、丁度2年ほど前になります。いつもそうなのですが、飛行機で日本を飛び立ったときには、飛んだぞ、抜け出してやったぞというようなある成就感というか高揚感があったものです。当然とは言え、今回はいつもとは、全く感じが違っているようでした。
 30年を超える教職生活ではあったのですが、辞めると決めればなんの未練もありませんでした。教師の世界はこの20年ほどの間に急速に変化し、そこはもうお役人の世界と何の違いもなくなっていました。
 ぼくも一応何人かの人たちに相談してみました。大学の恩師で仲人でもあるノダマン先生は「定年で辞めてからなんかやるちゅうのは、やっぱり第二の人生みたいで気合いがはいらんわなあ。辞めるなら早いほうがええ」とはっぱをかけるようなことをおっしゃる。友人の地震学者でアセンブラーというコンピューター言語のエキスパートでもあるサワダ君は「そんな、しがみついておらんとあかんという職業とも思えませんがねえ」といいました。教え子で仲良しの高校生の一人は、ぼくの決意が堅いことを知ると「先生。頼むし、校長を一ぱつしばいてから辞めてくれませんか」とはなはだ穏やかならぬことをいいます。
 「あほか。あの校長はワシとはだいの仲良しなんじや」
 それで当の校長は、ぼくの大学の先輩でもあり大変よくしてくれていたのですが、ぼくが辞意を表明したとき、ちょっと複雑な表情で考えてから「教師の世界は君には狭すぎて身動き出来んかも知れんなあ。あえて慰留はせんよ」といい、ぼくはお愛想でもちょっとぐらい止めてくれてもいいではないかと思ったりしたのでした。
 春の退職の後すぐに、友人や弟子の連中が再出発の門出のパーティーをやってくれるという話です。
 「それはちょっと派手過ぎると思うで。遠くの東京でやるんやったらまあ問題ないやろうけど」そういってその時は、ぼくはみんなの好意を押し止めたのでした。
 6月の始め、『東京プリンスホテル』で、山と渓谷社とソフトバンク社肝煎りの『高田直樹の新しい門出を祝う会』というかなり派手なパーティーを終えて、その翌日ぼくは機上の人となっていたのです。

 ずっと昔、学生時代にお山のテントでみんなと一緒によく歌った歌がありました。ほんとに繰り返し愛唱しましたので今でもよく憶えています。こんな歌でした。

  希望にあふれ果てしなき 望みと共に登りしは
  遠き昔のことなりき 今は静かに老いてゆく
  朝な夕な窓に寄り 聞くは変わらぬ山村の
  昔を偲(しの)ぷ鐘のこえ その音(ね)は昔の夢を呼ぶ
  老いの眼(まなこ)に今もなお 消えず残るは岩こおり
  そびゆる峰のことばかり 心はいつしかそこにあり
  我に返りて心せば いろりのほだ火も消え失せて
  空に輝く星ひとつ ああハイマートアルペンよ

 老いというようなものとまったく無縁の20才やそこらの若者達がどうしてこのような歌を愛唱したのか、すこし不思議な気もします。たぶん、この歌にこめられたエキセントリックな山への限りない愛惜の念に共感を憶えていたのかも知れません。
 年老いたらこの唄のようにありたいものだと、若いぼくは考えていたのでしょうか。教職をリタイアし誰に気兼ねすることもなく、大義名分をでっちあげたり、どんな申請書を作ることもなく海外に向かえることになってぼくが最初に考えたのはスイス行きだったのでした。
スイスの旅カット1S.jpg スイスに一番詳しい『ヤマケイ』の編集長のガハさんは、ぼくの依頼どうり「日本人観光客がいなくて泊まりの安い所」という条件にあった場所を10力所も拾い上げ、地図を含むくわしい彼のコメント入りの情報を分厚い封筒で送ってくれました。
 読み通すだけでぼくは疲れ、10力所のどこも最高に思えて選択できず困ってしまったのです。ええい、そんなら順に巡回して決めればいいではないか。そう思って決定を投げ出した丁度その頃、オランダのパベルからFAXが入りました。
 パベルというのは、ぼくがバンコックに留学していた時、ロッテルダム大学の院生で、シェル石油のプログラムでバンコックシェルで研修中だったのですが、ぼくとアパートが一緒で知り合ったのです。その年の秋、バンコックからシカゴ大学の聴講コースヘ移る途中日本に立ち寄り、「ハッピーバースデイを言いに来たよ」とバンコックの友人からの誕生日プレゼントをたくさん持ってぼくの家にやってきたのでした。大学院を終えてからは、ぼくのアドバイスに従って、ペイのいいシェル石油を断念しKLM(オランダ航空)のコンピユーターソフト部門に勤めています。
 彼の卒業論文のテーマが傑作でした。「オランダ航空がもしカルフォルニア米と日本の醸造技術を輸入して作った日本酒を乗客に供した場合、KLMはどれだけの利益を得ることが出来るか」というのです。彼がこのテーマを考えたのはぼくの家に来て、初めて冷酒を飲んだ時だそうです。そしてこのテーマを最も喜んだのは彼の先生の教授で、その理由というのは、パベルが日本から取り寄せるサンプルの日本酒がふんだんに飲めたからなのだそうです。
 さて、パベルからのFAXにはこう書いてありました。「君の便りでヨーロッパに来るという話を聞くのは、いつも嬉しい。スイスの件だけど、お父さんが別荘の権利を持っているから君はいつでも使うことが出来る」そして、さらに続けて、「部屋にはダイレクト電話があって君は自由に使える。料金は後でお父さんに支払ってくれればいい。部屋にはFAXはないけれど車で5分のクラン・モンタナの町ではどこでもFAXは使える。しかし、最高の解決法は君が自分のFAXマシンを運びこんで、部屋にインストールすることだ。」
 一瞬にしてぼくの考えは決っていました。クラン・モンタナというのは、前年に母親を連れてヨーロッパを旅した時に、あの『オリエンタル急行』から見上げたシンプロン峠近くの山腹であることが分かりましたし、その他の条件も申し分なかったからです。

スイスの旅カット2S.jpg 窓の外には、まるで北アルプスのど真ん中・雲の平から切り取って来たかのような針葉樹の木立ちと、その向こうに青い空と白い雲が見えます。
 午後の一眠りから覚めて時計を見ると5時半でした。日差しはようやく傾きだしたかなという感じ。ここスイスでは緯度が高いせいで日が暮れるのは夜の10時なのです。だから5時といっても、まだお昼過ぎという感じです。夕暮れになったな、夜になったなと思い、時折聞こえるふくろうの声を聞きながらFAXの整理をしたり返事を書いたりしてから、夜も更けたから眠ろうかなと時計を見るともう朝方なのです。すると起きるのはお昼前になる。
 もしかしたら、いまのぼくの就寝起床のパターンはスイス仕込みなのかも知れない。今そう思ったことです。でもぼくは日本では決して昼寝はしません。クランの人たちは昼寝をするので全てのお店は1時から4時頃までは開きません。
 さて、お昼前に起き出し、まずお風呂に入ることからぼくの一日が始まります。それから眠っている間に受信したFAXに目を通しながら、いつものティーバックのラプソンソウチョンを啜ります。小鳥の嚇りが絶え間なく聞こえ時々樹々をリスが走るのが見えます。ぼくは昔の歌をくちずさんでいました。

  やまなみ見渡す牧場の小屋は 懐かしわが故郷よ
  鳥もリスも我に慕(した)い寄れば さみしさ苦労にならず
  おお青空のどかに白い雲 丘には羚羊(かもしか)駆けり
  自然を我が友とし暮らす身は 悩みもなくいと愉(たの)し

 空腹を覚え、時計を見るともう1時でした。ぼくは遅すぎるブランチの用意に掛かります。ご飯は昨夜の残りで清粥を作り、別に太い腸詰を5cmほどむしりとり、フライパンにばらしながら入れます。ほぐすように炒めてゆくと、油がどんどん出て来てミンチ肉のようになる。肉片を均等に広げたところへ卵を2個割り込むと出来上がりです。
 真っ白の卵の中に点々と赤い肉片が散りばめられて、とても美しい。味はベーコンエッグみたいですから、我流ベーコンエッグスイス風です。
 この腸詰、押さえるとふかふかしていて、いかにも美味しそうだったので買ったのですが、すごい油でおまけに塩辛く、そのままではとても頂ける代物ではなかったのです。でもこうするとけっこう使えます。

 次に、インスタントの粉末にお湯を注いで赤だし味噌汁を作ります。清粥に赤だしにベーコンエッグのブランチのデザートは、真っ白の大きめのお皿に切り出したバニラアイスクリームのブロックです。
 そして、もう一度ラプソンテイを飲んでこのシンプルな食事はおしまい。
 絶え間なく続く小鳥の嚇りを聴きながらつい眠り込んでしまいました。そして目覚めたら5時半だったという訳。大急ぎで夕食の買い物に出掛けねばなりません。牧場を突っ切って木の柵を飛び越すと直ぐに森に入ります。急な斜面の樅の樹々の間を縫いながら適当に踏み跡をたどると約15分でクランの町に着きます。
 夕食の買い物の愉しみはワインでした。この辺りは、極めて上質のワインを産することで有名です。それは丁度日本の地酒のように、他所には出さずここだけで消費されるのだそうです。ほとんど毎日のようにぼくは、新しい銘柄のワインを愉しんだのです。ワインのあてに何種類かのテリーヌを「ボンジュールマダーム。コムサ、トレ、コムサ、ドウ」などと片言のフランス語で買えるようになった頃、Iカ月のぼくのスイス滞在は終わり、アメリカに向かうことになったのでした。
 馴染みとなったクラン・モンタナの人たちに別れを告げ、長い山道を走り降りると道はローヌ河沿いの高速道路に入ります。真っ赤のワーゲン・ゴルフを走らせ、モントルー、ベベイ、ローザンヌとレマン湖沿いの道を過ぎながら、「永年の日本の教師の垢は、これでなんとか落ちたみたいや」とぼくは一人ごちたのでした。

連載第1回「バンコックの40日」

バンコックトップS.jpg バンコックの空港に初めて降り立ったのは、もう28年も昔のことで最初のカラコルム登山の帰路のことでした。
 お寺を見物に出かけると、総身金色の巨大な仏様が横ざまに横たわり、ニンマリと笑っていらっしゃった。なんじゃこれは。「裸のマハ」の化け物ではないか。つきつめた表情の阿修羅像やまこと静やかに物思う半伽思惟(はんかしい)の弥靭菩薩を好むぼくとしては、なんともいえぬ違和感を持たされてしまったのでした。
 それにお線香といえば細い棒と思っていたのに、バカでかい蚊取線香みたいなお香の煙るバンコックのお寺はなんともけったいな感じ。どう考えてもぼくのバンコックの初印象はいいものではなかったといえます。
 そのせいか、その後何度かバンコックを訪れる機会があったものの、さしてなじみを覚えるでもなく今日に至ったわけです。そのぼくがどうしたわけか、バンコックに40日間も滞在したのです。2年前のことでした。 考えるに人の人生には何度かある出来事が起こり、それによってその人の人生は決定的に変わる。その出来事は時には人の死であるかもしれないし、人との出会いであることもあるでしょう。
 ぼくの場合、わが自伝的登山論『なんで山登るねん』の「三十なかば変身のきっかけはコーカサスのショック」でも書いたように、それはソ連コーカサスの風土とロシアの人々との出会いでした。そして二度目の決定的な出来事は、あのバンコック夏の40日ではなかったか。そんな気がするのです。翌年、かなり先の定年を残して、ぼくは30年間の教職生活に終止符を打つことになったのですから……。

 ぼくは英語の勉強のためにバンコックに留学したのです。
 大体ぼくの英語ときたら、パキスタン仕込みのもので、まあ普通の用事をこなすにはさして不自由はしないものの、一度しっかりと勉強し直さないといけないとずいぶん前から思っていたのです。それがコンピュータがらみでアメリカにいく用事ができてくると、ぼくの英語の再勉強への要請はかなり差し迫ったものとなったのでした。
 ぼくは極めて流暢なウルド一語をあやつる数少ない日本人なのですが、何回かの遠征を通じてウルド一語を習得していった経験から、ぼくは「母国語が使えない環境が言語習得に必須」と固く信じているのです。一種の現地主義ともいえるでしょう。
 だからアメリカ、ハワイなどというなかば遊び半分の日本人の大学留学生が群れているようなところは論外でした。それ以外のポイントは、滞在費、カリキュラムも重要です。いろいろ調べたり聞いたりした結果、浮かび上がったのは意外にもバンコックだったのです。
 ぼくが選んだのはA・U・Aと呼ばれる有名な英語学校でした。American University Alumini Centerというのが正式名称です。アメリカ大学同窓会つまりアメリカの大学に留学したタイ人、そういう人は大体タイの指導者層なのですが、彼等が自分たちの子弟をアメリカの大学に留学させるための勉学塾を作ったのが始まりで、独自のメソッドと長い歴史をもっています。
 英語だけではなくタイ語のコースもあり、朝7時から夜10時までに出入りする学生数はなんと延べ八千人に達するといいます。

バンコックカット1S.jpg A・U・Aは夏に専門及び学術英語集中講座(Professional Academic lntensive Course)という特別コースを開講することが分かったのですが、このコースは特別なので試験があり、受験の申し込みも一カ月前の3日間に限られるというのです。これは尋常の手段では駄目だと判断したぼくは、春休みを待ってバンコックに飛んだのです。
 門を入るとぼくはまっすぐに校長室に向かいました。ドアをノックすると女性の声が答え、入り口の部屋には秘書が大きなデスクに座っていました。ぼくはこの米国人のおばちゃんに、何故ここにきたか、何故A・U・Aで学びたいかをまくしたて、彼女は何のためにもっと英語を学びたいのか、日本ではどうして駄目なのか等と厳しく質問し、やりとりは十数分も続いたでしょうか。やがて彼女はメモ用紙に女性の名前を書いて渡し、「分かりました。今から学生課にいってこの人に相談なさい。電話しておきますから」と言ったのです。
 かくてぼくの実力行動作戦は成功し、6月19〜21日の3日間のみの受験申し込みを特別に4月にやってしまうことができたのです。

 試験の当日、前日から近くのバンコックリージェントホテルに投宿していたぼくは、ラーチャダムリ通りの歩道を歩いてA・U・Aに向かいました。
 試験を受ける、受験するなどということはもういつ頃からやっていないのか覚えていないくらいのもので、少々の不安感とどちらかといえば心地よい緊張感があったのを記憶しています。
 受験者は86名、講堂に整然と配置された机と椅子、緊張した受験者の表情、重苦しい雰囲気、これは聞いていたのとは違うぞとぼくは思い始めていました。
 8時に始まったテストは、12時30分まで続きました。聞く、書く、読むの3パートで各100間ずつ、すべてマークシート方式でした。このテストがかの有名なTOEFL様のもので、さらに難度の高いものであることは後で知ったのです。
 最初の「聞く」では少し焦ることもありましたが、まあなんとか通過。
 「書く」は意外と余裕という感じで来たのですが、「読む」になって唖然としてしまいました。なにしろ一つの問題の英文の量が新聞の半ページほどもあるのです。
 先立つこと一年間ほどの、『パスカル言語プログラミング』の本の執筆のために英文文献を読むという経験やアップルコンピュータ関係の文献や雑誌を読むという日常がなかったら、おそらくぼくは投げ出していたかもしれません。
 2日後に発表がありました。合格者は23名。13名の上級クラスと10名の中級クラスの名簿が張ってあります。ぼくの名前は中級クラスにありました。ここにない人は集中コースには入れず通常コースに回されるのだそうです。

 23日から授業が始まりました。朝の8時からの一講はReading/Writingつまり読み書きです。先生はジェフ・タッカーというシアトル生まれの人でシアトル大学林学科卒の35歳。トレッキング大好きでネパールヒマラヤに行きたいためにバンコックに住みつき、タイ人の奥さんをもらったというようなことは、後になって分かったことですが、とにかく山が好きだということで話が合ったのです。 翌年、彼は奥さんと一緒に来日し、ぼくの家にしばらく滞在しました。日本が気に入ったとシアトル大で英語の教員免許を取り直して再来日、現在北海道で朝日教養講座の教師をしています。

 抱えてきたテキストを順に配り終わると、
 「はい。私が合図したら読み始めなさい。同じところを二度読んではいけません。先へ先へどんどん進みなさい。時間は四分間です」 それでもう一度同じ行を読みたいのを我慢して先に進んで行き、ようやく半ページほどのところで、もう周りからパラ、パラというページをめくる音が聞こえるのです。ほんとに焦ったものです。

 タッカーの毎日の作文の宿題は結構厳しくて、これをこなすのに最低4時間は必要でした。彼は、誤りの箇所とその種類を指摘するだけで決して訂正はせず、再提出がいつまでも続くのです。
 もうひとりの先生は、英会話の先生でカティヤ先生。父親はトルコ人、母親はイラン人、そして生まれ育ったのはアメリカという人で回教徒。エリザベス・テーラーみたいな顔だちのかなり年配の美人でした。授業でミドルエイジを40から60と説明し、
 「私たちはまだ中年じゃないわね。ねえ、ミスタータカダ」などと言ったのですが、タッカーによればぼくより年配だということでした。
 毎日目の覚めるような色彩のプリントのタイシルクの服をまとい、ネックレスやイヤリング、指輪はいつも素敵なものを付けていらっしゃいました。
 「タイ人はすぐに鼻や耳にさわるでしょ。アメリカでは絶対に触ってはいけないのよ。だって、鼻を触ったてで握手されたら困るでしょ」「アメリカでは黙っていてはいけないのよ。アメリカでは銃器の携帯が許されてるでしょ。みんなでしゃべってるときに一人黙っている人がいたら、みんなはその人が突如襲いかかるかもしれないと、恐怖するのよ。だから沈黙は罪悪なの」
 日本の習慣や考え方についてしつこく質問され、毎時間苦しめられたのですが、彼女が教えようとしたのは、たんなる英会話ではなく、文化とその相対化であったように思います。
バンコックカット2S.jpg クラス10人、みんなぼくの息子や娘くらいのクラスメートでした。全員が留学生試験に合格していて、行く先の大学もほとんど決まっている人達でした。女性は4人。タイ美人のシバナン・オンスリ愛称ジブ。2年勤めた銀行を考えるところあって辞め、9月からサンフランシスコの大学に行きます。シリポンはタイの東大・チュラロンコン大学の大学院の音楽科のフルート吹きなのですが、ニューョークのコンセルトバトルの研究生を目指しています。世界中から年にたった2人だけが選抜されるのだそうです。
 いわゆる外人はぼくとビルマ(ミャンマー)のミスター・ツーの二人だけでした。彼はメルボルン大学に入ることになっています。
 男の子でぼくの一番の仲良しはピラニットといいました。彼はクラスでも一番出来る方で、タッカーがよくやった英語のクロスワードやクロスバーブ(動詞をうめる)パズルのコンペでは、ぼくと彼が組むといつも優勝しました。
 彼は毎日、朝の7時30分にはぼくのアパートの前まで車で迎えにきてくれました。時にその車はベンツで、役人の父親が出張中で貸してくれたということでしたが、何回かはぼく達は、黒塗りのベンツで登校したのでした。
 9月1日、集中コースが終了した時皆出席はぼく一人でした。タッカー先生とカティヤ先生からそれぞれに賞状を手渡されたときは正直にうれしかった。
 バンコックの40日、それは遠く忘れていたような新しい体験であったという気がしています。

<高田直樹の異国四景>(1993年〜1994年)

きらめき春表紙2S.jpg この記事は、古くからの付き合いの、高岡市市役所の開洋子さんの依頼で、高岡文化情報誌「きらめき」(季刊)に執筆したものです。
 定年まで6年を残して退職し、さあもう気兼ねなく自由に海外に出れるとばかり、アメリカ、ヨーロッパと飛び回っていた頃のことです。ここでは、この辺り前後のことを書いています。
 タイトルは「異国四景」ですが、5回の連載となりました。(2007/09/07)

連載第1回 「バンコックの40日」
連載第2回 「新しい門出、スイスの旅
連載第3回 「おじさんのホームステイ」
連載第4回 「12年目の中国」
連載第5回 「アムステルダムからプラハへ」
番外1    「プラハの夏」
番外2 「パベルとカントリーハウスへ」