西パキスタンの旅 第12話「幻の峠を求めて−−ハラハリ谷−−」

ラースプールヘ……
幻の峠3
 八時四五分、私たちはラブリを出発した。今日はキャラバン最終日。いろいろの波乱が予想される。
 昨日どなったのがきいたのか、コックのアリカーンは、驚いたことに、今日は荷物をかつぐらしい。
 ポーターへのデモンストレーションに、ひとつ体操をやろう、ということになった。大きなかけ声に驚いたのか、ポーターたちはポカンとしている。彼らが手を天に向けて、今日の安泰を神に祈っているのに、私たちは、不粋な準備体操なんぞをやっている。二時間ばかり、ぐんぐん高度をかせぐと、ハラハリ谷の豪快なゴルジュを抜ける。

 ファキールが、ニワリと笑いながら、またしても、「サーブはラースプールへ行くんだなァ」という。このセリフを、彼は昨日から連発している。ファキール独特のゆっくりした口調で、本当に腹の底から発声する。彼ならシェークスピア劇の役者でも、充分こなせるだろう。
 あんまり何回も聞いたから、私たちは今でも、ほとんど正確にまねることができるくらいだ。これを文字に表わすのは困難なんだが、たとえばこんな風になる。
「サァーブ、ラァースプール、ジァアエガァー(サーブはラースプールへゆくだろう)」
 私はこたえて、「君たちもまたラースプールへゆくだろう(トゥムローグ、ビヒー、ラースプールジャエゲ)」
 こんなやりとりをして、笑い合っていると、ジュマカーン(二五)が足元の雑草をひきぬいて、「食え、食えるぞ」という。
 シロウマアサツキのような草だ。球根がドングリくらいに、可愛らしくふくらんでいる。手で泥をこすりとってかじると、ダイコンみたいな味がした。
 ヒカゲチョウがとんできて、安田のネットをからくものがれると、岩壁にそって一目散に舞い上がり、見えなくなった。

 ゴルジュを抜けると、谷は大きくひらける。まったく想像もつかないくらいに、大きくひらけるんだ。右手の岩壁の上の方に、氷河が、ひっかかったようにたれ下がっているのが見える。
 スノーブリッジで左岸に渡るとすぐ、石づくりの家一七戸。ハラハリ村である。
 集まってくる大人子供に、ジアラッドが、大いばりで説明している。
「サーブたちは、地図をつくりにラースプールへゆくんだ。サーブほ何でも紙に書きとめるんだぞ。どうだ。石ころまで写真に写すんだぞ」
 いっぽう、ファキールはプリプリ怒っている。
「こんな所では昼飯を食う気にもならん。まったく悪い連中だ。紅茶に入れるだけのミルクもくれない。それどころか一〇倍近い値をふっかける」
 彼にせかされて、私たちは出発した。一人の男がヒツジを首にまわしてかつぎ、後ろからついてくる。「四〇ルピーでないと買わないぞ」、ポリスのガザン・カーン(三〇)がキンキン声でいう。
「ナヒーン、アスィールピヤーン(いいや八〇ルピー)」、そういいながらも男はついてくる。
 ベースについたらヒツジを食べよう、と私は昨日からいっていた。ファキールはだんどりよく、ヒツジを買う交渉を始わていたんだ。八〇ルピー(六〇〇〇円)とは、倍の値じゃないか、とファキールはふんがいしている。

賃金の支払い

幻の峠3スナップ ハラハリ村を出て、一〇分とゆかないうちに、踏跡はダケカンバの疎林を過ぎる。ダケカンバの上限だ。三三三〇メートル。ポーターたちはここで茶をわかし、チャパティーを焼く。
 ここから、安田と中村が先行して、ベースの位置を選定することにした。その前に打合せをやった。ポーターの貸金支払いについてだ。もめごとが起これば安田が受けてたち、理論的にやり合う。状況の展開に応じて私が適当にわって入り、まとめるという役割分担だ。
 私たちが打合せをやっている間も、一方ではヒツジの交捗がつづいている。男はいぜんとして、八〇ルピーを主張しているらしい。ファキールはやってくると、「サーブ、いくらなら買う?」と聞いた。
 別の男がやってきて、上の方に放牧してあるのを売るといっている。それなら、ベースのあたりにいるのだから都合がいい。
「五〇ルピー以下なら買おう」と私はいった。
 四時、ベース予定地につく。ハラハリ氷河の末端と同じくらいの位置で、三六八〇メートル。左岸のアブレーションバレーに設営、気持よいキャンプ地だ。
 すぐ貸金を支払う。順調に終わりそうだ。ここから帰る八人のポーターは、三〇ルピーとボクシス(チップ)のレッドランプ二本(一本約一円のシガレット)をもらって喜んでいる。
 まだあどけなさの残る、モカダール(一五)などは、大喜びでタバコに火をつけたとたん、おそらく初めてだったんだろう、激しくせき込んで、フラフラしている。
 突然、ジュマカーンが、激しくアジ演説を始めた。
そしてみんなの賃金をまとめると、私につっ返してこういった。
「帰りに二日かかる。もう二日分の賃金が支払われるべきだ。そうでなかったら、金はいらない」、まったく予想していたとおりのことをいいだした。
「それでいくらほしいんだ。荷物なしでも一日一〇ルピーかい」と私。
「いや帰りは二日かかる。二日で一〇ルピーだ」
 いよいよ安田の出番だ。「第一日目、出発は昼だった。君たちは半日しか働いていない。帰りに二日というが、半日だ。明日昼には帰りつけるはずだ。だから今渡したのに、帰りの賃金は含まれていることになる」
 ジュマカーンも決して負けてはいないが、安田はこの論理を泰然とくり返す。ジュマカーンは相手悪しとみたか、今度は私に向かってくる。私はウンウンとうなずくだけ。ファキールに相談して、それでいいだろうというので、五ルピーの追加で話をまとめた。
 ポーターたちは、ケロリとして、握手を求めると手を振りながら、小走りに下り去った。

ヒツジを屠る

 さて、今度はヒツジの交渉だ。ファキールにまかせておいたら、みんなでワイワイヤっているばかりで、いっこうにらちがあかない。
 どうなっているのかと首をつっ込んでみると、五〇ルピーに五ルピーを上乗せしろ、いやだめだ、ということでもめているんだ。
 運び賃として五ルピー追加しろ、というのだが、ここに放牧されていたヒツジをほんのー〇〇メートルばかり歩かせて、運び賃五ルピーとは理不尽な、というのが買手のいいぶんだ。
 ところが、ヒツジ飼いのミヤシールにすれば、彼はハラハリ村のヒツジを管理しているだけで、自分のものじゃない。買手が村で値を五〇ルピーと決めてきた以上、自分の取り分は全然ない。ともかく五ルピーくらいはいただかねば……というわけで一歩も後に引かない。運んだ距離など問題じゃない。
 さて、買い手の心情はどうか。ポーターたちにすれば、サーブは五〇ルピーなら買うといった。たとえ五ルピーにしろ、超過したから止めた、というかもしれん。もしそうなったら、待望の肉とも泣き別れだ。何とか値切らねば、と必死になったらしい。私が、「いいだろう」といったとき、ポーターたちは、歓声をあげんばかりだった。
 黒い毛の、まるまるとふとったヒツジを、背、腹、首となぜまわし、肉をつまみ、「モタ、モタ(ふとってる、ふとってる)」とつぶやいたガザンカーンの、あのよだれの出そうな顔は、本当にみものであった。

 哀れな動物は四人の男に力づくで頭を西に向けて横たえられた。「アッラーホッアクバル、アッラーホッアクバール……(アラーは偉大なり‥…・)」 ファキールが唱える。
 彼の手の、刃渡り二五センチのナイフがキラリと光り、ヒツジは一種形容し難い悲鳴をあげて、四肢をケイレンさせた。
 首なしのけものの切り口から、鮮血が流れ出て、まばらに生えた草を染めた。しかし、その血の色は、忍び寄る夕闇の中で、いやに黒ずんで映った。  (つづく)

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