『槍ヶ岳からの黎明』について


槍ヶ岳からの黎明
登山と「神話」その三
『槍ヶ岳からの黎明』について

 ぼくの職場に毎月のようにやってくる、保険外交員のおばちゃんがいます。
 ぼくに保険をすすめることが、絶望的に無駄であることには、彼女も、もうとっくに気付いているようです。それでも、毎月のように現われては、時計バンドにつけるカレンダーの金属片を渡し、世間話などしてから帰ってゆくのです。 ぼくの方としては、このカレンダーは結構重宝していますので、月末になっておばちゃんが現われないと、「どうしたのかな」などと思ったりするのです。
 この間のことです。いつもの様に、おばちゃんが現われ、ぼくは「アリガトウ」とカレンダーをもらってから、例のごとく世間話になりました。
 いったい何がきっかけだったのか、すっかり忘れてしまいましたが、とにかく、話が映画の『イージー・ライダー』になったのです。
「あの若い人、ほんまに可哀そうやった。あんな事故で死んでしもうて」
 ぼくは、ちょっとおどろいて、あれは事故ではなくて殺されたのだ、といったのですが、彼女は「ちがう」といいはります。
「そら、鉄砲は撃たはったよ。けど、あれは当ってへん。何かの事故で単車が爆発したんやろ。第一何にもしてへん人が殺されるわけ、あらへん」
 映画のストーリを追いながら、あるいはまた、アメリカの歴史背景なども含めて、ぼくは懸命に説明したのです。それでも彼女ほ、まだ信じられない、という面持で、
「そうやろか、殺されたんやろか」といいます。ぼくも、いいかげん頭にきて、
「あんた、眼あけて見てたんかいな。目あけてても、見えなんだんやろ」といいました。
 その時、ぼくは思いました。「固定観念」というものは、何とおそろしい。人を盲目の状態にするものだ、ということでした。
 彼女に、ぼくの説明が理解できなかったということは、まず考えられない。彼女はよく理解した。しかし、おそらく「人が全く理由もなく、しかも鉄砲で撃ち殺されるなどということはあり得ない」という「固定観念」が、彼女の判断をくるわせたのでしょう。

 さて、ぼくのいう「神話」も、一種の「固定観念」を意味しています。だから、「神話」は、破られるべくして存在している、といえるでしょう。
 ところが、ぼくの「登山と『神話』」に関して、こんなことをいう人がいます。
「あなたは、ああいうことを書くことによって、新しい『神話』を作っている」と。
 これに対するぼくの答えは、じつは、そう云われる前からあったのですが、それについてはこの連載の最後にするつもりです。
 それに、「神話をつぶすことによって、神話を作っているのだ」という云い方は、「『固定観念』はいけないというのも、一つの『固定観念』である」という云い方に似ております。
 こういう議論は、不毛の回転論議になりやすい。それで、ここでは避けたい。そう思うわけです。
 今回も、先回につづいて、「登山史」をとりあげたいと思います。<創始者の視座>から<麓の視座>へ

 色々な例が考えられるでしょうが、いまかりに「海外登山基準」をとりましょう。この「海外登山基準」が創られた時、これに大賛成した人は、ほとんどいなかったといっていいでしょう。
 でも日山協で、直接これを作った人は別でしょう。彼等はおそらく、色々の理由をつけて、もって回りますが、公式の記録には、大義名分をふりかざした報告を書くでしょう。
 そして、五十年、百年がたつ。
 その時に、最も信頼性があるとされるのは、無名の人の報告ではなく、いわゆる「エライヒト」、有名人のものなのです。
 もちろん、このたとえ話には少々無理があるかも知れません。
 でも、たとえば「カモンジ」なり「喜作」が「案内記」を書いたとしたら、それは、旦那衆の「登山記」「探検記」とは、全くちがったものになったでしょう。(もちろん、彼等にそんなものは書けなかったし、書く必要もなかったのですが……)
 このちがいが、大きな問題だと、ぼくは考えます。「登山史」は、つねにそうした、一方的なものとして存在し、現在を拘束してきたのではないだろうか。そんな気がするのです。
 これは、かりに〈創始者たちの華麗な視座〉からの映像による歴史、とよべます。これが真実の歴史と、どれだけの距離があるのか、それは問題ではなかった。
 これまでの「歴史」は、この〈視座〉を全く当然のこととして、そこから出発しているのです。そればかりか、おまけに、その「登山史」家自身が、自分の眼をこの視座に重ね合わせることさえあったようです。そうであっては、「登山史」は一つの玩具にすぎなくなります。「現在を登るためのもの」とはならなくなります。
 そこで、ぼくは、〈創始者の視座〉ではなく、〈麓の視座〉で見るべきだ。そう考えます。この〈麓の視座〉による「近代登山史」がもし書かれたとしたら、今の「登山史」とは、ずいぶんちがったものとなるでしょう。
 別に予言者ぶるわけじゃありませんが、いずれそういう「近代登山史」がでるでしょう。そして、それは個人の仕事としてではなくチーム・ワーク(集団の仕事)としてなされるでしょう。

ピクソールの『山頂の燈火』

 日本の登山史、特に「近代登山史」などという書物を開いてみます。そうすると、探検時代そして縦走の時代などというのがでてくる。「日本山岳会」の創立会員諸氏の名前が、次々と現われます。
 そのあたりを見ると、ぼくはいつも、なにか一種奇妙な異和感みたいなものを感じる。どうしてなんだろう。色々理由を考えてみました。
 そのうちに、昔よんだ小説のことを想いだして、本棚をさがしてみました。
 ありました。ピクソールの短編で、『山頂の燈火』というのです。もとの題は”The Men who Climbed”
 ピクソール女史(M.L.C.Pickthal,1883〜1921)は、カナダの詩人で、三冊の詩集と三冊の小説を書いて、未婚のまま四十にならぬうちに病死しています。
 ところが、この『山頂の燈火』は、『ストランド』という雑誌に発表されているだけで、彼女のどの本にも入っていないのだそうです。
 戦前博文館で発行していた『新青年』という雑誌の第21巻13号(昭一五)に翻訳がのっています。
 とにかく、少く長くなりますが、内容を紹介してみましょう一。
 場面は、ある絵の展覧会場。その一部屋、三号室の一つの壁面を、ほとんど全部占領して、大きな絵がかかっています。身のひきしまるような、生々した巨大な山の絵は、題して、「東南より仰いだフォレスター峰」。
 そこへ、一人の紳士、フォレスターが登場します。彼は、絵を見て、一瞬目がくらみ、全身がひきしまります。
 −むりもない。天地開闢以来、あの雪渓を横断し、あの峻嶮を登攀して頂上に足を印した人間は彼一人なのだ。処女峰征服のレコードをつくった彼は登山協会から表彰され、同時に協会はその高峰に彼の名を冠し、全米はおろか世界に放送した。名誉ある騎士! 話題の冒険家!−
 彼は部屋の中央にあるソファ−に身を沈め、登攀の回想にふけります。
 ふと気がつくと、やはりもう一人、絵に見入っている男がいる。
 −みすぼらしい白髪の男で、どこかの職工か。職工にしては年をとりすぎている。百姓か。小使か。こんな男がどうして展覧会へまよいこんだのだろう。−
 フォレスターは疑います。その男は、「女房のマギーにもらった煙草銭で入場券を買ったら、これぽっちになってしまいました」と、七個の銅貨を見せて、また、うっとり絵に見入ります。
 フォレスターは同情的親しみを感じて、山について質問し、その男が、あまりに詳しいのに驚きます。そこで、彼は自分の名前をあかすのです。
「あなたがフォレスターさん!新聞で見ました。あなたに会ったといったら、女房が喜びます。旦那、この山に登った時のことを話して下さい。帰ってマギーに聞かせてやります」
 フォレスターは語りだします。
 自分が頂上に達しえたのは、二人の案内人のサポートによること。ピッケルを落したので、ナイフで足場を切ったこと。だいぶ上部で、氷化した岩場にはばまれて、立往生したこと。そして、そこで見つけた不思議なもの−−垂直の岩場の氷に点々ときざまれた足場のことを語るのです。

記録にない事実

「その足場は自然にできたものじゃない。確かに人間がきざんだものらしいのです。協会の連中にこの話をしますとね。そんなはずはない。あまり心配したので錯覚をおこしたのだろうといいます。
 とにかく私は誰かがそこまで登ったことを知りました。私はこんな危険な場所に足場を作った先駆者に感心してしまった。どんな男か知らないが、その男は星の世界へでものこのこ登って行く男にちがいない。
 私の口からいうのはおかしいが、世間では登山のレコードのことをやかましくいうけれど、これほど馬鹿げたことはないとおもう。なぜというに、山というものが天地開闢以来存在するものである以上、何百年前、何千年前にそこへ登った人間がないとは限らないからです。
 足場を発見してからは楽でした。足場には千年の氷がつまっているが、私はナイフでその氷をほじくりだして、ゆるゆると登っていった。そして頂上に達すると、用意の旗を出してそこへ立てたのです。」
 各種の会合で幾度もくりかえした話を機械的にしゃべっただけのことですが、こんな無知な老人を相手にそんな話をしたのが、フォレスタ一には、口惜しくも感じられました。
「こんどはあなたの番だ。あなたも山が好きだといいましたね。どこへ登りました。聞かしてくれませんか」
 老人は感慨ぶかげに絵を見ていたが、
「旦那は旗をお立てになると、すぐ頂上を降りられたそうですな。もっとよく頂上をさがしてごらんになったら、あすこに錆ついた古いランタンが落ちているはずなんです」
 あの不思議な足場を切ったのは、この老人だったのです。
「マギーとはクリスマスにいっしょになる約束だったのですが、当時マギーはカスカペディアの店の売子、私は山をへだてたウクワガンの木挽、どちらも金がないので、そう思い通りに家をもてません。しかたなく、手紙をだして、春まで待ってくれといってやったのです。返事がきて、わかった。春までまつ。けれどクリスマスになったら、私のことを想いだしてくれと書いてありました。マギーの町と私の町の間に大きな山脈があって、両方の町から同時に見えるのが、この山だったのです」
「二晩もかかって、ランタンに油を用意したり、ガラスの隙間をふさいだりしました。それからマギーに手紙を書いて、クリスマスの晩には、となりのおじさんから双眼鏡をかりて、一番高い山のてっぺんを見てくれ、もしそこに灯がともっていたら、おれがお前のことを思っている証拠だといってやったんです。頂上について、ランタンを置くとすぐ降りました」
 この男ほ自分のした話の意味を知っているのだろうか。
「なるほど。しゃにむに登ったのですね。そして無事にあなたが頂上に灯をつけてお帰りになると、それをカスカペディアの側から、美しいマギーさんが眺めたのですね」
「そうですよ、旦那。好いランタンだったので夜っぴて光りつづけ、油がなくなるまでともってましたよ」
 フォレスターは、また山の絵を仰ぎ、白雪をいただき、爛々たる星にかこまれたる高峰に、一点霊火のように、恋人を思っていることを知らせる灯がともっているさまを想像するのです。
 老人は、酔っ払いのたわごとと思ってくれ、といい置いて去ります。後に一人立ちつくすフォレスター。彼はやがてペンをとりだし、まわりを見まわしてから、「東南より仰いだフォレスター峰」とかいた札のフォレスターを抹殺して、黒い鮮やかな字で「マギー」と書き込みます。
 −翌朝の各新聞は、無気味な小さい出来事を報道した−この小説は、この一行で終ります。
 ぼくの感じる「一種奇妙な異和感」の原因は、ほぼ全部、この短編の中に含まれているようです。

『山頂の燈火』日本版

 たしかに、『山頂の燈火』はオハナシであります。しかも、万年雪をいただいた山が舞台とあっては、なおさらのこと、よくできた話に過ぎないかも知れません。
 しかし、舞台を日本の山に移してみると、ハナシは急に、極めて現実味をおびてきます。でも、本当に日本の山で全く同じことがあったとしても彼等は、「あれはランタンを置くために登ったのだから登山ではない」というかも知れません。
 さて、それはともかく、日本の高山は、小島烏水をはじめとする〈創始者〉の面々が出向く以前に登られてしまっていました。それをことさら、「私が、私が」と宣伝した首謀者は、やはり烏水であると考えられます。
 そういう調子の記述は、いたるところにあります。彼の著書『アルピニストの手記』を見てみましょう。
 これは、彼が六三歳の時にでた本ですから、かなり冷静に書いてあるし、以前の記述を訂正したり、あるいは弁解めいたことも書いてあります。それでもなお、次のごとしです。
 −日本山岳会の成立時代(明三八)には、日本アルプスは、まだぺージの切られない自然の秘書であった(「日本アルプスの早期登山時代」)−
 ほんまかいなァ、と首をかしげるより、むしろ、「ウソつけ」といいたくなります。
 なにしろ、「烏水が槍ヶ岳に登って有名になった頃には、喜作は陸地測量部の三角標−これは六〇キロ以上もある御影石−を一人で槍の穂先にかつぎあげていた」のです。これは、他に人夫・測量官が何度も登ったことを意味します。
 そして、「前穂高、白馬岳、御嶽に三角標のすえつけが終ったのは、烏水が槍へ登った八年前の明治二十七年である。つまり日本山岳会が出来た頃(明三八)には北アルプスのめぼしい山にはどれも陸地測量部の三角測量が終って、参謀本部の五万分の一地図は完成間近であった」のです。
 彼はこうも述べている。
 −アルプス地方の参考書としてまとまったものは、ジョン・マーレイの『日本案内記』、ウェストンの『日本アルプス』など、外人の手になった書籍以外にはほとんど見ることを得なかった。そこに探検時代の仕事であり、黄金時代の収穫があった。そして私がその一部分の仕事にたづさわったのも自然の回り合わせであった。(前に同じ)ー
 烏水のこの「パイオニアづら」はオワライです。だいたい、自分の「槍登山」のことを回想した文の題に『槍ヶ岳からの黎明』というのも、同じ意識です。
 さて、「烏水翁の著作は三十冊を教える」のだそうです。そして、「登山史家」によれば、彼の著書は「日本の登山史を知るうえにすこぶる重要な存在となっている」のだそうです。しかし、これはぼくからすれば、「日本の登山史」が、いかに〈創始者〉の手前勝手な〈視座〉によっているか、という証言にほかなりません。

小島烏水の「槍ヶ岳登山」

 烏水は、明治三十五年の夏、槍ヶ岳へ登りました。彼はその前に乗鞍に登っています。おそらく、乗鞍から見た槍ヶ岳が眼に焼きついたのでしょう。
 ところが、「彼は、この山に憧憬したのも久しい間であった。それは志賀重昂先生の『日本風景論」を読んで」影響されたのだ、とします。そして、これを、「ハリソンがラスキンの『近世画家論」に感化をうけたごとく、自分も『日本風景論』の感化をうけて、山の一路へと驀進した」というのです。おそらく、ヨーロッパの登山家に、自分を模したかったのでしょう。ぼくはそういう作意を感じます。
 それはさておいて、烏水の槍ヶ岳登山は、おかしいところだらけです。
 彼が雑誌『文庫』に発表した「槍ヶ岳紀行」は、大町桂月あたりから「オーバーだ」といわれますが、ともかく反響は呼びました。
 その中に次の一節があります。
 −土人が「赤沢の小舎」と呼んでいる自然の岩窟に一晩猟師といっしょに泊めてもらった。その夜は白樺で大きな火をもやし串刺しにした熊の肉を焼いて食べながら語りあったが、その時猟師のいうにはこんな奥山だからワシら猟師仲間のほかは誰もこないが、一度西洋人が登ってきてびっくりしたことがある。八・九年前でその日は大雨のため頂上のそばまで行って引返したが、よほど思い切れなかったものと見えて翌年もまた来た。その時は頂上をきわめて喜こんで下って行った。(私が)いったいどこの国の人か猟師に聞いてもだれも知らないといった(意訳)−
 この西洋人はウェストン。猟師は喜作、為右衛門でした。
 ところが、昭和十一年の『槍ヶ岳からの黎明』の最後で彼はこう書きます。
 −その時は、ウェストン、ガウランド、坂市太郎氏というような槍ヶ岳の先駆登山者があったことを全く知らなかった−
「全く知らなかった」どころではない。自分の「紀行」に、「猟師がいうには…‥」とちゃんと書いているのです。
 槍ヶ岳登山の後、半年ほどして、パートナーであった岡野が、ウェストンの『日本アルプスの登山と探検』という英文書を見つけるのです。われこそ一番乗り、と得意になっていた烏水の驚きは、心臓も止まるばかりだったでしょう。
 実は、先に引用した『文庫』の記事の西洋人の話も、原稿ではなかったのに、ウェストンを知ってから、あわててつけ加えたのだそうです。
 こうしたことがもし本当だとすれば、烏水翁はあまり信用できる男じゃないようです。
 実のところ、彼ははたして槍の穂先まで登ったのかどうかさえ、ぼくは疑問に感じてきました。

烏水とウェストン

 さて、岡野がすでにウェストンに会ったと聞いて烏水も手紙を書きます。
 −何を書いたか、今は全く忘れたが、今まで第一登山と信じていたものを、十年前に登った外人が眼前に出現したのだから、感激しやすい性情から、崇敬の念をささげて書いたであろうと思っている。「ウェストンをめぐりて」(昭一一)−
 少しおかしい。矛盾していると思いませんか。もう一度よみ直してみて下さい。
 先ず、烏水という人は、自分の発信文や受信文を著書にのせるのが、好きな人です。こういう人が、「何を書いたか全く忘れた」というのはおかしい。それに、ぼくの推測では、「崇敬の念をささげて書いた」というのは、おそらくウソです。
 なぜなら、彼が不用意にもらしていることから分かるように、自分よりも「十年前」に登ったが故に、その外人を「崇敬」したのなら、猟師に聞いた時に「崇敬の念」がおこったはずです。全く忘れてしまうわけがない。「今まで第一登山と信じている」わけがないではありませんか。
 つまり、ぼくが思うには、「崇敬の念をささげて書いた」というウソを書くためには、「何を書いたか、今は全く忘れ」てしまわねばならなかったのです。
 では、どうして烏水は、そんなウソを書かねばならなかったのでしょうか。これが次の間題です。
 これの答は、おそらく、無名の一銀行員から、ウェストンをかつぐことによって〈創始者〉となった、烏水の心理内面に求められるでしょう。
 さて、よく見かける表現ですが、「ウェストン師は、日本の山登りの父である」というのがあります。こういうことは、いったい誰がいいだしたのでしょうか。
 ぼくは、「この表現から、日本国天皇は、国民の父である」というのを連想してしまいます。もしかしたら、この云い方は、大正から昭和にかけて、「日本の天皇制ファシズム」の抬頭と共に、できてきたのかも知れません。日本の父は天皇で、登山の父はウェストン一二つを重ねるとウェストンは「テンノーサマ」になります。烏水は、どうしても「崇敬」せねばならなかったのではないでしょうか。
 さらには、この「崇敬」の意識構造の必然として、ウェストンにつながるものとして、かつては「土人」であった「カモンジ」も、「崇敬」の対象となります。
 さきほどの『文庫』の引用の冒頭にもでてきたとおり、烏水は、あちこちで「土人」という表現を使っています。
 これは、土地の人の意味ともとれますが、アイヌに適用された「北海道旧土人保護法」という用例を見るまでもなく、明らかに差別言辞です。
 ところが、そうした下賤な「土人」の猟師であった「カモンジ」は、次のごとく変りました。
 −日本アルプスの開祖、ウェストンを案内して槍穂高に登ったのもこの老翁でした。私たち日本山岳会の早期時代の人々が槍穂高を縦走したのも、この老翁に手を取ってもらったのです。(「私の会った登山家の印象」その五 日本アルプスのぬし−昭五)
 誰かをかついで「天皇」にまつりあげ、自分もまた「天皇」になるというのが、心理的な意味での「天皇制」です。この点は、昔も今もかわらない。

「登山史」への不満

 ぼくの、「登山史」への最大の不満は、次の点にあります。
 それは、いわゆる「登山史」が、全く時代背景を無視していること。あるいは、たまたま考察していても、それがでたらめであることです。そうなるのも、やはり〈創始者の視座〉のせいかも知れません。
 〈創始者の視座〉による文章を、かなり無節操に引用したり、〈創始者の視座〉に自分の目を重ね合わせて、その上で色々の憶測をやっている。そうしたものが、これまでの「登山史」だったのではなかろうか。そんな気がしてなりません。
 たとえば、次のようなのがあります。
 −明治の中葉、日本の青年たちに登山の気運をもりあげさせた原動力となったのは、地理学者志賀重昂の筆になる『日本風景論』にほかならなかった−
 こういう調子の記述は、いたるところにでてきます。
 この極めて疑がわしい定説がどうしたでき上ったのか。いくつかの推測ができそうです。
 烏水は、自分がどうして槍ヶ岳に登ったのか、について次のように書いています。
 −それを書物の上で煽動教唆してくれたのは、故志賀重昂先生にほかならなかった−
 それから、木暮理太郎も、この本に影響されたと書いている。こういう記述が、前にあげた「定説」のものになっていると思われます。これが一つの推測です。
 でも、「この本を読みだして、いっそう山へ深入する気になった」という烏水だけでもって、「日本の青年たち」などと、ひっくくるというのは、少し暴論ではなかろうか。ぼくには、そう思えます。
 もう一つの推測の根拠は、『日本風景論』が、すごい売行きを示した、ということ。たしかに、これは事実でしょう。
 しかし、この本を読んだ人が、みんな山へ登ろうとしたわけではない。
 ところが、です。「『風景論』はベストセラーであった」という事実と、烏水がこの本によって「煽動教唆」されたと書いていること、この二つをつなぎ合わせた。この単純なつなぎ合わせによって、「定説」はめでたく成立したというわけです。
 こんな調子で、ひろいあげてゆけば、それこそいくらでもあってキリがありませんので止めにします。
 要するに、ぼくは、この項の最初にいったことを、例をあげて示したかっただけなのです。もともと、アラ探しは、ぼくの本意ではなかった。

『日本風景論』と歴史背景

『日本風景論』は、日清戦争が始まって、四カ月の明治二十七年十月に刊行されました。そしてわずか三週間で、たちまち売切れたといいます。
 その理由は何なのか。どうして、そんなに売れたのでしょうか。
 いわゆる「登山史」によれば、「日清戦争の勝利で、興国の気が山野に満ち満ちた」だとか、「アドベンチュアの精神を鼓吹した」だとか、そういう書き方のものばかりです。
 岩波新書『山の思想史』のような、かなり最近にでた本でさえ、このわくからは抜けていません。
 つまり、どれも、暗にこの書が売れた背景を述べているだけで、その理由はありません。しかも、その背景を「好戦的」「戦勝気分」とのみ、単純にとらえている。
 必要にせまられて、明治・大正の歴史を、ほんの少し勉強してみて、ぼくは全く逆の考えを持ちました。
 たしかに、民衆は「討てよ、こらせよ清国を」と唱えはしました。しかし、その気持の深奥は、複雑で屈折していたはずです。
 くわしく述べれば、このことだけでも、全誌面が要ります。極力、かいつまんで述べることにします。
 第一に、著者の志賀重昂が、明治二十年代に、「西欧派」と共に思想界を二分した「国粋派」の巨頭、大思想家であったこと。
 第二に、「国粋派」の思想は反政府のそれであり今いう右翼思想とは全然ちがいます。「西欧派」ともども、鋭く政府の構想を批判していました。
 そうでありましたから、志賀の創った雑誌『日本人』は、何度も発禁のうきめにあうのです。
 第三に、明治十年代の「自由民権運動」(豪農に支えられた)からの思想が、政府の弾圧にめげず、地底の水脈のごとく、民衆の中にあったということ。
 たとえば、「万朝報」という、極めて反体制的な新聞が、最高の発行部数をほこるという社会状況があったのです。
 一方、議会内でも野党が常に優勢で、開戦直前には、何度目かの内閣弾劾上奏案が可決。天皇制政府は、まさに絶体絶命のピンチに立っていました。ここにおいて、政府は、日清開戦を策し、国内の不満を一気に外に向ける絶好のチャンスを作ったのです。

『風景論』と『我輩は猫である』

 開戦は六月です。この前後のできごとを、「年表」(平凡社)で見てみましょう。
 前年の8月 − 「君が代」を国歌に制定
 前年の10月 − 文部省、教員の政論を禁制(箝口令)
 1月 一 高知県で初めて教科書に修身書を採用
 2月 一 反政府論で諸新開発行停止続出
 6月 一 陸軍省に新聞検閲掛を設置(日清開戦)
 7月 一 愛媛県新居浜住友精錬所の煙害のため農民、精錬所を襲撃
 8月 一 軍事外交に関する新聞原稿検閲の緊急勅令発布
 9月 一 新聞に軍機事項記載を禁ずる
 10月 一『日本風景論』刊行
 とまあ、こんなぐあいです。
 ぼくには、なんとなく分かるような気がするのです。『日本風景論』が売れたわけが。
 みんなもう、いいかげんいやになったのではないでしょうか。
 たしかに、民衆は「討てよ、こらせよ清国を」と唱えはした。自分たちのすべての欲求を圧殺してゆく支配者どもへのいきどおりを、朝鮮を抑圧する清国へ、屈折した形でぶつけたかも知れません。
 しかし、その感情の奥底には、ある「無力感」と「挫折感」と、ある「あほらしさ」があった。そうした時に、『風景論』は、極めて魅力的だったにちがいない。そう思えます。
 十一年後の「日露戦争」当時における、漱石の『我輩は猫である』は、今いった意味あいで、『風景論』と並べることができるでしょう。
 驚いたことには、この本も、開戦後の、奇しくも同じ十月に刊行され、やはり三週間で売切れているのです。
「大逆事件」に見られるごとく、反対者を、でっちあげの事実でもって殺すような政府に対しては、もう猫の目で語るシニカルな体制批判しかなかったのでしょう。そして、民衆もそれに救いを見いだしたのだと、ぼくには感じられる。
 今日の、「朴政権」下における、韓国の「登山ブーム」も、同じ文脈でとらえうるのではないでしょうか。

 ドシロウトのぼくが、「登山史」などをとりあげることは、少し無謀なことであったかも知れません。でも、ぼくとしては、大変面白かった。特にその歴史背景を知るために、とばし読みした「歴史書」は、とっても勉強になりました。
 そして、ぼく自身の認識自体、「神話」にみちていたことを、痛烈に思い知らされました。
 とにかく、明治大正期の歴史、特に自由民権運動は面白い。一度、読んでみられることをすすめます。
 たとえば、民権運動の推進者であった、植木枝盛の「憲法草案」には、今の「戦後憲法」のすべてが、すでに盛り込まれているといっていい。これは、オドロキでした。
 さて、実をいうと、「登山史の神話」は、二回で充分だと思ったのですが、書くことが多すぎて、なかなか先へ進めませんでした。いずれ、稿を改めたいと考えております。
(たかだ・なおき)

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