記録映画「ハラハリ」(1969年制作) on YouTube

 1969年夏、京都カラコルムクラブ辺地教育調査隊を組織して西パキスタンに赴き、ランドクルーザーを駆って、5000kmを走破した時の記録です。スワットヒマラヤの未知のハラハリ氷河をつめ、未踏のマナリ・アンを越えた記録映画。松竹映画社よりの機材貸与と16mmフィルムの提供を得ました。撮影は隊員の関田和雄。 
 制作に際して、京都市広報課寺島卓治氏に協力指導、劇団京芸藤沢薫氏にナレーション、府立桂高校放送部の女性アナウンサーにはインタビュアーとしてなど、おおくの人たちの協力があって完成したものです。
 先頃の京都府立大学山岳会創立50周年記念祝賀会での上映の為に作った、デジタルリニューアルDVD版をYouTubeにアップしました。尺の関係で3部に分かれています。

「マギーの山」生き方をくらべてみよう

山はだれのもの

生き方をくらべてみよう 東京都成蹊小学校教諭 谷川澄雄

 人が命をかけて、山にいどむのは、いったいをぜなのでしょう。
 はてしないぼうけん心を満足させたいからでしょうか。成功のかがやかしい栄光をゆめみるからでしょうか。それとも、世界の登山レコードを争うことに生きがいを感じるからでしょうか。
 あなたは、登山家フォレスターと名もないまずしい山男の物語を読んで、この問題をどう考えますか。
 ふたりの山に対する感情をふり返ってみましょう。
 フォレスターは、ちょう上をにらんで、「山であるいじょう、人間が登れないはずはない。よし、きっと登ってみせる!」と心にちかい、とうしをもやして山にいどんでいきました。
 それにくらべ、名もないまずしい男は、こい人へのけがれない愛のおくり物として、ちょう上にランタンをともしたいと、ひたすらに登っていきました。
 フォレスターは、登山家としての名よに囲まれましたが、名もない男は、愛のあかしとしてじっとむねにひそめました。
 あなたは、山に対するふたりの愛をくらべ、どう考えるでしょう。
 また、フォレスターが、山の名をマギーの山と書き直した心も考えてみてください。

「マギーの山」本文

『マギーの山』
magytitle あるてんらん会場で、けわしい山の絵を前にして、思い出にふけるふたりの老人があった。ふたりは、それぞれにわすれられない思い出を持っていたのだが……

思い出の山

「すばらしい! さすが、一流の山の画家がかいただけのことはある!」
 ひとりの老しん士が、もう三十分以上も、へやのまん中にあるソファーにこしをおろして、じっと正面の絵を見つめていた。
 それは、あるてんらん会場で、その絵の題名は、「東南からあおぎ見たフォレスター山」というものだった。
 切り立ったような、けわしいちょう上には万年雪がかがやき、そこに登る者をすべて追い返そうと立ちふさぐ、大小無数の岩山、ひとたび足をふみすべらしたら最後、絶対に生きて帰れぬ深い深い谷、何十年という間、世界の登山家たちが、この山のちょう上をせい服しょうとしたが、みんな失敗した。命を落としたり、重傷をおったりした気の毒な人たちもいた。
 けれど、ついにその山をせい服した人がいた。アメリカの登山家フォレスターで、山はその名を記念して、「フォレスター山」と名づけられた。フォレスターの名は、新聞や放送で全世界にとどろいた。magycut2 それから三十年近くの月日がたった。が、フォレスター山には、その後、だれも登れなかった。それほどけわしく、きけんな山なのであった。
 いまその山の絵を前にして、老しん士は、じっともの思いにふけっている。その目は山のいただきに向けられたままだ。
 そのとき、もうひとりの老人が、見物人のなかからあらわれ、静かにソファーのはしにすわり、そのまま身動きもせずに、山の絵を見つめていた。そまつを身なりだが、しらが頭のその老人の顔は、おだやかで明るかった。老人は、十五分、二十分と、ながめ続けている。その様子に老しん士は、思わず声をかけた。
「失礼ですが、あなたもずいぶん山がおすきなようですね。」
「えつ? わしですか。山はきらいじゃないですな。なにしろ、山国生まれなもんで………。でも、この絵の山は、わしにとっては、特別をんですよ。」
「ほほう、特別?」 magycut-1.jpg
「そうです。ほんとは家内のマギーも、いっしょに連れてきたかったんですがね、びんぼうな工員じゃ、高い入場料をふたり分もはらえません。そこで、わしが家内の分までよく見て、あとでよく話して聞かせようってわけです…。あの山は、わしらにとって、わすれられない思い出があるんですよ。」
「なるほど、そうですか。実はわたしにとっても、あの山には一生わすれることのできない思い出があるんです。」
「それで、年よりがこうしてふたりそろって思い出にふけってるってわけですかね。」
「どうでしょう。おたがいに思い出を話し合おうではありませんか。」
「それはおもしろいですな。」
「では、わたしから話しましょうか……。」

不思議な足場

「じつは、わたしはフォレスターです。」
「えっ? では、あなたが、このフォレスタ一山のフォレスターさんですか?。」
「そうです。」
「これはいい人に会えました。うちへ帰ったらマギーに話してやります。きっと喜びますよ。早く話を聞かせてください。」
「あの山は、それまで人をよせつけをいほどけわしく、とてもきけんでした。一つ一つの岩場をこえるのが、まったく命がけでした。岩場と岩場の間には氷や雪がはりつめ、クレバス(われ目)だらけで、つるつるです。もしすべってそこに落ちたが最後、数百メートルのまっ暗なあなの底に落ちこみ、永久に出られないでしょう。谷は千メートルも二千メートルも、びょうぶのように切り立っていて、下を見ると目がくらむようです。
 けれど、さいわいわたしはふたりのすぐれた案内人の協力のおかげで、どうにかちょう上近くまでたどりつくことができました。そこから先はわたしひとりで登らねばなりませんでした。ちょう上まであと百メートルほどです。けれど、その百メートルは、一万メートルにも感じられるほどでした。きりのように、まっすぐに大空につきささっているそのいただきを、どう登ったらいいか、わたしはため息をついて見上げました。
『なるほど、だれも登れないはずだ。が、山である以上、人間が登れないはずはない。よし、きっと登ってみせる!』
magycut3 わたしの心のおく底から、むくむくと、いままでにないほどの勇気がわき上がってきました。わたしは、ピッケルで、注意深く、一つ一つ足場をきざみながら、一足ずつよじ登っていきました。二十メートルほど登り、ある岩場を右に回りかけたとき、もうれつな風で、ふっとばされそうになり、はっと岩角にしがみつきました。そのひょうしに、大事なピッケルを落としてしまったのです。ピッケルは、はるか谷底に小石のように落ちていき、見えなくなりました。風はますますはげしくふきあれ、岩角にへばりついているわたしを、ひきはがそうとします。わたしは死にものぐるいで岩にしがみついていました。二十分ほどすると、風はうそみたいにやみました。
『どうしようか? ひき返そうか?』
 わたしはてつぺんを見上げて、ちょっと考えこみました。が、『よし、まだ登山ナイフがある。登れる所まで登ろう。』と、決心しました。わたしは、大型の登山ナイフで足場をきざんで、また一足ずつよじ登っていきました。おりるときのことを考え、できるだけしっかりと足場をきざみました。さもないと、せっかくちょう上に登っても、おりるときつい落してしまいます。『登山とは、おりることなり』ということばがあるほどですからね。
 ところで、あと二十メートルまでたどり着いたわたしは、そこで立ち往生してしまいました。カチンカチンにこおって、ナイフのはがたたないのです。
『あと、たった二十メートルなんだ。足場さえきざめれば、なんとか登りきれるのに、残念だなあ…。』
 わたしは、くつのつま先しかかからをい足場の上に立ったまま、どこかに足がかりはないものかと見回しました。変わりやすい山の天気で、いつまた強風がふきあれるかわかりません。そうなったら、数千メートル下にふっとばされるでしょう。気が気ではありません。いや、ほんとのところ、気がくるいそうでした。
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『落ち着け! 落ち着け!』
 わたしは、自分にいい聞かせながら、つるつるにこおった岩はだをにらみ回しました。すると、一か所光のちがうところが、すぐそばにあるのに気がつきました。ぐさりとナイフをさしこんでみますと、そこの氷がパラパラかけて、その下からふいに足場があらわれたのです。わたしはびっくりし、自分の目をうたがいました。が、それはたしかに、だれかがきぎみこんだ足場なのです。とすると、すでにこの山のちょう上にはだれかが、わたしより先に登ったにちがいありません。が、その人は、だれにもそのことを告げなかったのです。
 光にすかしてみると、足場は次々と見つかりました。わたしは氷をはがし、足場を見つけだしては、よじ登り、ついにちょう上にアメリカ国旗を立てることができました。わたしは、この不思議な足場のことを山がく協会にくわしく話しましたが、
『フォレスターさん、それはあをたの目のくるいですよ。』とだれも信じてくれません。が、わたしは、だれかがわたしより先にあの山に登ったと、いまでもかたく信じています。そうです。山に登るのは登山家だけではありませんからね。ですから、わたしの名があの山につけられたのを、わたしはその人に対して、すまないと思っています。」

世界一のプレゼント

 フォレスターの話を聞いているうちに、老人の目は、生き生きとかがやいてきた。
「フォレスターさん、あなたはちょう上で何か見つけませんでしたか?」
「いいえ、わたしも、前の人が何か残していかなかったかと見回しましたが、何も見つかりませんでした。それに天気がくずれそうになったので、よくさがすひまもなく、急いでおりなければなりませんでした。」
「そうでしたか。もっとよくさがせば、古い、さびついたランタン(ランプ)があったかもしれませんよ。」
「ランタンが?」
「ええ、わしが、マギーのためにともして、置いてきたものです。」
「あんたが、あそこに? こりやあ、たまげた。」
「なあに、わしは山で育ったし、小さいときからきこりをしていたから、山にはなれています。ただ、あの山には初めて登ったんです。かわいいマギーのためにね。ハハハ。」
「それはどういうわけです?」
magycut6「わしはあの山のこっちの村、マギーは山のあっちの町に住んでいました。クリスマスに、わしらは結こんするはずでしたが、わしはびんぼうなきこり、マギーは店員、どちらもお金がありません。それでわしは、春まで結こんを待ってくれと手紙を出しました。
 マギーの返事には、『どうかクリスマスには、わたしのことを思い出して…』と書いてありました。わしは、やさしいマギーのために、ダイヤモンドなんかよりもかがやく心のおくり物をしよう、クリスマスの最高のプレゼントをしようと思いつき、そのことを手紙に書きました。『愛するマギーよ、クリスマスのばんに、となりのおじさんからそうがん鏡を借りて、いちばん高い山のてっぺんをのぞいてごらん。きっとそこにわしの真心のプレゼントが見えるよ。』とね。いやあ、あのクリスマスのばんは、風もなく、とても静かでしたよ。山のてっぺんには、一ばんじゅうランタンの火がかがやいていて、あとでマギーは、『世界一のプレゼントをもらった。』と大喜びでしたよ。
magycut-7.jpg あの山のてっぺんに登るため、わしは二日がかりでじゅんびしましたが、登り始めてからは、少しでも早くあそこにランタンをともしたい気持ちでいっぱいでした。ひどくけわしい、あぶない山だとは思いましたが、マギーを喜ばせたい一心で、むがむちゅうで登りましたよ。山育ちのわしですから、山の登り方くらいは、少しは知ってますし、体力には自信がありました。
 いまはこうして町で工員をしていますが、三十年前のあのことを、いまでもときどきマギーと話し合いますよ……。」
 フォレスターは、深いため息をついて、感動にあふれたまなざしをその老人に向けた。
「いい話です。りつぱです。美しい話だ。」
「なあに、びんぼうなわしが、心からのプレゼントをしてやりたかっただけですよ。」
 ふたりの老人は、かたいあく手をして、だまったまま顔を見つめあった。もう人気のなくなった、ひっそりとした会場には、夕日がさしこみ、二本の木のように立ちつくすふたりの老人を見つめるのは、「フォレスタ一山」の絵だけであった。
 そして、老人は、別れを言って立ち去った。後に残ったフォレスターは、とつ然会場に鳴りひびいたへい館を知らせるベルに、われにかえった。
 フォレスターは、絵に近よると、「フォレスター山」と書いてあるふだのフォレスターという字を消して、「マギー」と書いて、静かに立ち去った。
(終わり)

★この話は、”岩と雪”40号(山と渓谷社)『槍ヶ岳からの黎明』高田直樹・文より四年生向きに書き直したものです。

マギーの山

小学館『小学四年生』「マギーの山」紹介

 山と渓谷社の季刊誌で、山の世界では最も高級誌とされている『岩と雪』に、登山と「神話」の連載を始め、その連載3回目の「槍ヶ岳からの黎明」が出てすぐの頃でした。
 突然、小学館から電話がかかり、『小学四年生』という学習誌に、著作を掲載せさせてほしいという依頼でした。
その『槍ヶ岳からの黎明』についてにある、ピクソール女史の「山頂の灯火」のお話を、小学生向きにリライトして載せたいのだが、いいでしょうかということでした。
 あれは、僕が作った話じゃなくて、あそこにも書いておいたように、外国の作家のオリジナルです。どうぞ載せて頂いて結構です、と返事しました。
 でも、小学館からは、律儀にも何がしかの稿料が送られてきたように記憶しています。
 それにしても、この『山頂の灯火』ほのぼのとして、なかなかいいお話ではあります。
 文もカットも、素敵です。
 末尾に載っていた、「山はだれのもの、生き方をくらべてみよう」という東京都成蹊小学校の先生の設問も、掲載しました。考え込んでしまうような内容ではないでしょうか。

「マギーの山」本文
「マギーの山」生き方をくらべてみよう

「ラップトップ型パソコン活用法」

PC-98LT

日本の歴史的コンピュータ

 googleで「PC98LT」を検索すると、かつてあった【日本の歴史的コンピュータ】 と言う項はなくなっているが、 と言う項はなくなっているが、パソコン博物館で詳細を見ることができる。
この日本初のラップトップコンピュータ、PC-98LTは1986年10月に発売された。
 前稿「ぼくの夢のパソコン」(『Oh!PC』誌1985年新年号)の「パソコンが作家になる日」でも書いているように、アウトドアで使えるパソコンを待ち望んでいた私は、即購入し実際にテストするべく、同じ年1986年の暮れからネパールに飛んだ。
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 ポカラのサランコットの丘(1592m)に馬で登り、この小山の上でラップトップを使ってみた。
 今日では、むしろ主流となったラップトップパソコンの屋外使用および1592mの高所での歴史的使用記録といえるだろう。

 帰国して、BBSにアクセスしてみると(当時は、インターネットはなくBBSが意見交換の場だった)このLTが大いに話題になっていた。
 海外に持ち出せるだろうか?セキュリティーチェックのX線の被害は?税関で課税されないか等など。
 「年末から年始にかけて、ネパールに行って使ってきましたよ」と、私は書いた。

 すぐにメールが来て、『日経パソコン』ですが、取材に行きたい。翌日には、東京から斉藤記者が来宅した。

 そしてこの『日経パソコン』に載ったのが次の記事である。
 その後、私自身は、このLTにPASCAL言語をインストールし、メモソフト「メモランダム」(株式会社ソフトバンク刊)の開発やパスカル言語関係の著書の執筆に使用した。

—-日経パソコン1987年2月23日 特集「ラップトップ型パソコン活用法」
日経カバー
アウトドアでラップトップを使う
 ラップトップ型パソコンの利用例として,一番最初に頭に浮かんでくるのは,出かける先に持っていくこと。これこそ,ハンドヘルド以来の携帯パソコンの“正統的”な使い方だといえる。出張や旅行などの移動中に,また出かけた先で,ワープロで文書を作成したり,表計算ソフトを使って旅費の精算に使うなどが最も一般的な使い方だ。
 高田直樹さん(50歳)の場合は,そんなラップトップユーザーの代表的な例だ。高田さんは,京都府の高校で化学の教師をしているが,登山家としてもかなり名を知られた存在だ。大学時代から本格的に登山を始め,カラコルムのラトックIなどを踏破した。

 今では,「4年前から始めたパソコンに夢中で,少し山から遠ざかっている」(高田夫人)。それでも昨年の暮れ,友人から誘われてネパールに出かけた。もちろん,愛用のPC−98LTを携帯した。ネパールでは,「サスケを使って,おもに日記をつけたり,メモ代わりとしてLTを使っていました。時には,パスカルで遊んだりもしました。おそらく最も高い地点でLTを使用した記録でしょう」と高田さんは語る。このあたりの事情は,日経マグロウヒル社が主催している電子会議,日経MIXのラップトップ会議に高田さん自身がレポートしている。
 もっとも「ラップトップ」らしい使い方は「いつでもどこでも文書を作ったりシミュレーションができる」というものだろう。この目的のためにはAC電源を必要としないで使えることと,軽く,小さく,かさばらず携帯性がいいことが極めて重要なポイントになってくる。仕事の中でパソコンを使う比重が高まってパソコンが使えない「空白帯」が極めてまずいものになってくる。当然電車の中でも,喫茶店でも使えなくてはならない。まわりの視線など問題ではないのだ。
 表計算ソフトを使うというのであれば画面が大きく,PC−98LTのようにソフトもそれなりに揃っていなければいけないし,オフィスのパソコンとデータを共有するためにフロッピーディスクもあったほうがいい。

書斎スナップ
 自宅では,セカンドマシンとしてLTを使用している高田さんの書斎にはLTのほかにPC・9800VMとPC−9800Eがある。VMには,ハードディスク,8インチと3.5インチのフロッピーディスク装置が接続されている。ここで高田さんは,よく自分でプログラミングをする。生徒の成績管理ソフトぐらいは朝飯前で,時には商店の顧客管理を頼まれて作ってしまうほどだ。プログラミング作業はおもにVMを利用するが,その途中で「パソコン通信をしたくなったときは,それこそ膝の上にのせて使います。気分を変えて,ほかの部屋でパソコンを使うのも簡単」(高田さん)という。
 登山やパソコンのほかに,バイクに乗るのも趣味という高田さん。毎日学校まで900ccの大型バイクで通勤している。「バイクの後ろにPC・98LTを積んで,ゴムで留めて持っていきます。振動にも強いようですよ」と笑う。

 多趣味なために,「風呂にはいっているとき以外は,常に複数のことをしている」「PC・98LTをトイレに持ち込むのも時間の問題」と高田夫人は心配するが,本人は「今はLTを使うのが楽しくてしょうがない」そうだ。「アウトドアで使うというのが,僕のコンピューターの利用テーマの一つでした」という高田さんは,「電池で動かないのは,ラップトップとはいえない。屋外でないにしても簡単に持っていって使えることが最低の条件」とラップトップ型パソコンを定義する。

「ボクの夢のパソコン」(『Oh!PC』1985年)

OhPCカバー『Oh!PC』1985年1月号 特集「ボクの夢のパソコン」

登山家とパソコン。ちょっと妙な取り合わせのような気もする。
バイク,スキー,釣り,オーディオと多くの趣味をもつ高田さんにとって,いまや最大の楽しみはパソコン。世界の高峰を征服してきた登山家・高田直樹としての夢を語ってもらった。

 パソコンが作家になる日

 もうずうっと前のような気がしていましたから,勘定してみたらちょっと驚いたんです。ぼくの家に初めてパソコンが来てからまだ丸2年しかたってないんです。
 ちょうど2年前の1982年の暮,ナカムラデンキさんが88のフルセットを運び込んできました。たしかあれは夜の10時頃だったと思います。
 ありあわせの机に本体を置き,その上にディスプレイのPC−8853。プリンタを左に置いて…‥と,ナカムラデンキさんは,テキパキと作業を続けてゆきます。右の床の上に梱包の箱の発泡スチロールを土台にして8インチディスクユニットPC−8881がデンと座り,特有のフアンの唸りをあげ始めました。

 それでぼくが初めてしたことといえば,「カラスのリンゴ喰い」のプログラムを打ち込むことでした。これは1か月程前に買った雑誌に載っていたプログラムで,マルチステートメントが使ってあるからなのですが,わずか6行のプログラムなのです。リンゴの木にリンゴが一面に生って,40字モードのキャラクター〈W〉のカラスがチラチラしながら飛んで,リンゴを喰い荒してゆくというものです。
 まあそういう情景になるというのは,大分あとになってから分った話です。その時は,打ち込んではみたものの,全然動かないのです。ぼくは少々ムキになりました。バグを拾うといってもたかが6行です。ついつり込まれてデンキさんもチェックを始めました。
「おかしいなあ。どっこも間違いないみたいやけど……」と,彼はリファレンスマニュアルを調べだしました。彼は,1年もの長があるので,ぼくは黙って彼にまかすことにしました。それでも,分らぬままについ口出ししたくなり,それで2人してああでもないこうでもないとやっているうちに時間がどんどん流れたようでした。
 そして,ようやくカラスが飛び,リンゴを喰った時,もう夜は白んでいたのでした。

 考えてみれば,パソコンとの対決はあの時に始まったといえるようです。それから毎日,ぼくの食事をする時とトイレに行く時以外は,CRTと向き合ったままでした。ほとんど数時間しか眠りませんでした。晩酌もタバコも止めました。酒を飲むと頭が回らなくなるからだし,くわえ煙草もよくなかったからです。とにかくどうしてなのかよく分らなかったのですが,無我夢中でやみくもにムキになっていたようです。
 山登りでも,たとえばヤブ山などで視界が全く利かず,現在位置が判然としない時など,とにかく上に行けば見晴しが利くようになるだろうと必死に先を急ぐことがある。ちょうど,そんな具合だったのかもしれません。

ぼくがパソコンを買おうと思ってから,実際に購入するまでに約2年のズレがあるのですが,これには少々理由があります。
 4年ばかり前,山と渓谷社から『なんで山登るねん』というちょっと変ったタイトルの本が出ました。これはぼくの3年間の連載をまとめたものでした。
 この本も,続いて出した書下しの『続なんで山登るねん』もよく売れるので,出版社は柳の下の3匹目のドジョウを狙ったわけです。一方,依頼を受けたぼくの方は,お金は欲しいけれど,あんなホテルに缶づめになるような書下しはイヤですと断わり,そこで2年間の雑誌連載の後に本にするということになったのです。
 ぼくがパソコンを買う気になりだしたのはこの頃のことでした。PC−8801が出てしばらくたった頃だったはずです。普通の場合,いろいろ調べてみるけれども,買うとなったらパッと買うという感じのぼくも,この時はいろいろ理由づけをしては思い止まったようです。たぶん,買ったとたんに連載原稿が書けなくなるだろうことを,ぼくは予想していたのでしょう。
 82年の暮,連載の終了と同時にパソコンが入ります。ところがその矢先,単行本のぺ−ジ割を増やしたいので少し書き足してほしいという話です。このたかが5,60枚の原稿が,ほんとに書けませんでした。なにしろ,BASICコマンドが頭の中を駆けめぐっていましたから……。苦しまぎれに 〈アルピニストもマイコニストも根暗の極致〉などという一項を設けたりしています。

 約半年の遅れで出版された『続々なんで山登るねん』の表紙の男の顔は,疲れ果てた表情のハズです。あれは,前日の昼過ぎから約27時間ぶっ通しでパソコンに向かい続け,辛抱強く待っていたカメラマンに「光線の具合がもうギリギリです」とせかされてようやく撮った写真を元に日暮修一さんが描いたイラストなんです。
 あの時にぼくはたぶん,「しりとりゲーム」でパソコンがどんどん強くなるプログラムか,言葉のやりとりができるプログラムを一心に作っていたのだと思います。考えてみれば「カラスのリンゴ喰い」とさして変らず,パソコンの何たるかも知らなかったといえるでしょう。
 すぐにCP/Mを使いだし,数か月後には,出たばかりのCP/MPLUSを購入します。これで漢字を使って日記をつけて感激したものでした。コードを使わずに漢字が入力できたのです。
 今なら,こんなことは「入力フロントプロセッサ」というソフトを使えば文節変換で一瞬にしてできてしまいます。そしてぼく自身,ちょっとした業務用のオーダーソフトを組んだりもするようになっている。なんだか夢みたいな話です。

パソコンイラスト
先頃,月刊誌「山と渓谷」から新年号の原稿依頼があり,テーマが「夢の山行」でした。どんな有名な登山家でも,やはり夢のプランというものがあるはず……。それを披露してくださいというものでした。困ったことにぼくにはそんなものは何もなかったのです。
 しばらくすると,今度は「Oh!PC」から「ボクの夢のパソコン」で,なんとも夢の大はやりのようです。やはり一向にイメージが湧かず困り果て,女房に,「山登りに結びつけて夢のパソコンというテーマなんやけど‥…。山に必要なパソコンてどんなんや」ときくと,「山へそのキカイ持っていって,ビデオカメラみたいなもん振り回したら,地形図ができて,毎日の天気図も書いてくれて,それで登頂したら,その結果はすぐ世界にとぶというようなんかが夢のパソコンとちがう」
 それでぼくが考えたことといえば,地形図を書くキカイとなると結構かさばるし,重量もあるだろうな。ポーター1人は必要かな。動かす電気を作るのに発電機がいるやろな。ベースが5千メートルを超えていたら,発電器を回すために酸素ボンベがいるなあ。マイナス20度になってもコンピュータは働くのだろうか……などなど。
 まずそういうあたりから気がかりで,とても女房のように単純に先の方までは考えられなかったのです。
 ヒマラヤ遠征登山隊の中には何十人もの人間が営々といくつも中継テントを作って荷物を担ぎ上げ,数人が頂上に立つという,いわゆる極地法登山をやるものもある。そういう隊では荷上げ状況の把握が重要で,ベースキャンプの指令室ではシミュレーションをしながら荷上げ管理を行うのが普通です。そういう時に,優秀なハンドヘルドとソフトがあればひじょうに有効でないかと思います。
 でも,ぼく個人としては,そういう遠征隊は会社が山へ移動したみたいなもんだと思うし,登山に在庫管理ソフトもどきを使いたくないという気分なんです。

パソコンの進展というものは,ハード・ソフトが一体となって進むものだと思います。そして,そのそれぞれには1つの方向が見てとれるように思うのです。
 ハードからいえば,小型化と高速化と大容量化。それに加えて低価格化です。これらは,自明のことのようでたいした説明も必要としないでしょう。ただし,小型化に関していえば,何でもかんでも小型にすればよいというものではありません。ディスプレイが板状に薄くなるのは結構です。でも,キーボードのキーは指の大きさとの関係で,とにかく小さくなるほどよいというものではないと思います。
 ソフトに関しての方向は,プログラム記述言語の簡易言語化ということだと思われます。
 かつて,いわゆるニーモニック全盛の時代,BASICは簡易言語でした。ところがいまやBASICはニーモニックに近いようにぼくには思われます。これはたとえばdBASEIIで1つのコマンドが,BASICでは何行を要するかを思えば理解できるでしょう。
 さらに,間もなく「第5世代」となり非ノイマン型のコンピュータが動くようになれば,プログラム言語の記述は飛躍的に自然言語に近づくと思います。
 さて,こんなことで「ボクの夢のパソコン」を語ったことになるでしょうか。もう少し具体化してみましょう。
 ハードは,PC−9801が,今ぼくが使っている「腕ターミナル」に入ってしまうこと。ソフトに関していえば,書いては捨て書いては捨て,苦しみ抜かねばならないこんな原稿を,思いつくままに入力してから,論旨を指示してコンパイルし,エピソードをリンクしたら,何の苦しみもなく自動的に作ってくれる,そんなワープロができること……。まあそんなところでしょうか。

略歴〔たかだ なおき〕
1936年9月生まれ,京都府立大卒
1975年 ラトックII峰遠征
1979年 ラトックI峰遠征
『なんで山登るねん』『続なんで山登るねん』(山と渓谷社),『いやいや まあまあ』(ミネルヴァ書房)など著書多数。本職は高校(京都・桂高校)化学教諭

ラホールの蒼い月(1970)

 遠い回教徒の国の月はしっとりとうるんでいた。

 そしてイシャッドは「ダラット、ダラットホーギー・・・・・・!」とささやいた。ラホール1
ラホールの蒼い月
 
″ファーシト・クラース!″
 ラホールの空に月がのぼった。まあるいおぼろ月だ。しかし、日本のそれとは色がまるでちがう、蒼白く澄んだベールをかぶった砂漠の月だ。
 同室のジョニー君と相談して、今夜は別行動をとることにする。そして、このツインの部屋は先に帰ってきた方に利用権があるという申し合わせをした。
 十時を少しまわっている。ちょっと遅すぎるかもしれないが、アブレた上物を買いたたけるという利点がある。エアコンのきいた部屋から出ると、四十度の暑さが足からはいのぼってくる。ホテルの前で客待ちのモーリスのタクシーに乗り込んだ。
「旦那、どちらへ」
 パキスタン英語ではない。変にインテリ臭い運チャンだ。眼鏡などかけている。
「アッチーラルケー・マグターフーン(いい女どもが欲しいんだ)サブセ・アッチーラルキーハイ?(うんといい女はいるかい)」
 こっちはウルド一語でベラベラしゃべる。お上りさんに見られると、とんでもない目にあうことうけあいである。運チャンは「ボホットヘー(沢山いるよ)」ときた。
「旦都、どこの国の女がいいのか。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、パキスタン。旦那の望み通りだよ」
「俺はパキスタン女だ。アメリカやヨーロッパの女にはもうあきた。奴等は気位ばかり高くていかん。やはりパキスタン女が最高だよ」
「アッチャアー(へえー)」
 と運チャン。私のセリフは彼のプライドとナショナリズムをくすぐったらしい。ここぞと笑顔を作って値を聞くと、いい娘ならオールナイトで五百ルピーが相場だという。これは高い。なにせ私のポケットには二百ルピーしかない。だいたい持金が多いと強気で値切れないものだ。それでこれだけしか持ってこなかったのだ。
 ところで今どこを走っているんだろう。マール・ロードを左に折れたのは分ったが、それからがおかしくなった。メーターは五ルピーを示している。
 まもなく車は、裸電球がずらりとぶら下り道の両側に露店が並んだバザール(市場)を抜けたところで止まる。運チャンは小声でしばらく待つようにいうと、どこかへ姿を消した。バザールの食いもの屋のラジオがボリュームいっぱいに歌謡曲をがなりたてている。
 運チャンが連れてきた五十がらみの親父を助手席に乗せると、車は再び夜道を走り出した。一体どこへ行くのだろうと多少不安ではあるが、聞いたとしても分ろうはずがない。どうせ行先はあなたまかせだ。
 シートの背にもたれて目を閉じる。身体がけだるいのは、ホテルを出るまえにひっかけたスコッチのせいらしい。それにしてもどこまで走るのだろう。メーターは十二ルピー五十パイサを示している。
「おい、まだか!」
「もうすぐだよ、サーブ」とガイドの親父が大きくふりむいた。痩せたポパイみたいな顔をしている。曲者らしい。
「本当にいい女がいるのかい」
「最高の女だよ。第一級だよ」彼はしきりに″ファーシト・クラース!″と声をはり上げてくり返した。
「だが値もはるよ。千ルピーだ。嫌なら止めてもいいんだよ、サーブ。別の安いところを捜してもいいからね。でも、遅いから無理だろうね」
 私は平然として言ってやった。
「そうか、俺は二百ルピーしか無いんでね。残念だが、ホテルへ帰るとするか。お前には一ルピーのボクシス(チップのこと)をやろう」
「分ったよ、サーブ。五百ルピーにしますよ」
 あっさり半額になる。
「ナヒーン。ドゥ・ソウ(いや、二百だ)」

最高はカシミ−ルガール

 いい争っているうちに目的地についたようだ。ラホール近郊の住宅街といった場所らしい。運チャンを車に残し、ポパイの後について細い露路に入る。蒼白くうるんだ月は大分傾いた。うす暗い道を足元に気をつけながら続いて行く。二曲りしてからポパイ親父は土塀のくぐり戸の中へ消えた。かわりに若い男が現れ、いやにひっそりした声で「アイエ、アイエ(お入り、お入り)」と私を呼んだ。
「サラーム・アライクム(こんばんは)」と答えたものの、一瞬身体がひきしまるような恐怖が私をとらえた。ふと、襲われるかもしれないと思ったからだ。
 中庭は暗くてよく見えないが、木製のベッドが二つ置いてある三坪ぐらいの客部屋に入る。壁の色はグリーン、ベットのわきにソファーとテーブル。普通のプライベート・ハウスだ。
 パキスタンの娼家はバブリック・プレースと呼ばれる公娼と、プライベート・ハウスと呼ぶ私娼とに分かれる。パブリック・プレースは″ショートがおみやげ付きで一ルピー″などといわれ、安い。しかし、女は見ただけで鳥肌がたつような代物で、両肩がすれるほど狭い露地をドブの悪臭をこらえて通ると、
「カムイン、カムイン」と声がかかる。まあ見るだけにした方がよい。
 一方、プライベート・ハウスは主に外人用で、高級に属する住宅街にあったり、普通の一般家庭にあったりする。ショートで五十ルピーぐらい。大きなものでは十数人の女がいる所もある。ボスと用人棒(必ずといっていいほど大男)二人ぐらいがいる。そこでは普通次のようにして女を選ぶのがこつだ。
 まず二、三人、時には五人ぐらいの女が現われてずらりと長椅子に並ぶ。ドラヴィダ系の色が黒く小柄な女ばかりで、まずこれといったのはいないはずだ。一応見渡してから無言で立ち上り、戸口に向かう。必ずボスがサ−ブ(旦那)と呼び止める。このへんがこつたるところで、あまり物欲しそうな顔と目付きをしてはいけない。たとえ息子がいらだっていてもだ。
 ボスが顎をしゃくると、女たちはさっと別室へ退き、かわって数人が現われる。今度はかなりのセンのはずだ。ここで値段を聞いてもよいが、念のため「ドゥスラ・ナヒーン?(ほかにいないのか)」と聞くべきだ。大低これで終りだが、時としてアッと驚くほどの上玉が一人で現われることがある。とっておきなのである。例えばカシミールガール。パキスタンでは美人の代名詞のごとく使われ、体格よく、色白で目もとパッチリ、面長で下ぶくれのした本当に世界に類のない美しさだ。これが現われたらサイフの軽くなるのは覚悟しなければならない。

ハッとする女が……

 さて、ここはどうかというと普通の家だしそんなに沢山の女がいるとも思えない。聞くと一人だけだという。少々面喰った。どうせ大したことはあるまい。見るだけで帰るとするか。見料(見るだけでも少々の金をとられることもある)はいくらぐらいだろう。なあに、一ルピーも払ってやらないぞ。
 若い男とポパイが話しあっている。
 「このサーブは二百ルピーにしろといっている」「そんな無茶な、五百ルピーだ」
 この家に入った時からの緊張がとけると、暑さがグワーンと身体をせめたて、汗が一気に吹き出してきた。ハンカチを取り出しながら若い男を観察すると、なんとこの男、アンソニー・パーキンスそっくりだ。しかし、この国にはウィリアム・ホールデンそっくりの靴みがきなどざらにいるから、別に驚くにあたらない。このアンソニー君と交渉した結果、三百まで下ったが、どうしてもそれ以下にはならないと言う。ここで私の決心はついた。見るだけで帰ろう。
 しかし現われた女性を見て、ハッとなった。いわゆるカシミールガール・タイプではないが、美人だ。身長百六十センチたらず、丸顔だが何ともいえぬ気品がある。彼女は私の横に座るとジッと眼を見てからニコリとした。歯がチラリとのぞき、私はもう一度ハッとした。こんな女性は始めてだ。私は勢い込んで言ってしまった。
「本当に俺は二百ルピーしか無いんだ。しかしホテルにはある」
 私はもっと持ってこなかったことを、この時悔んでいた。残りはホテルで支払うことになったが、ホテルの名を告げると、彼女はそのホテルは嫌だという。何でも従兄弟がボーイをしているから、見られたら困るということらしい。そしてフラッティでなければ嫌だという。フラッティというのは、ラホールで一番古く格式ある高級ホテルである。
 私は二百ルピーを若い男に渡すと、ポパイと二人で先に車へ引き返した。彼女は外出着に着がえて後から来るらしい。もう一時近いというのに茶店には人々が群れている。運チャンは車を人目につかない方へ移動させ、そこで彼女を待った。
 まもなく黒いサリーを着、黒いブルカ(ベールのこと。回教徒の女性は屋外ではこれをかぶる)をかぶった彼女が老人とともにやってきた。父親らしい。車に入る前に、老人と軽く抱き合った。

″シングルで充分よ″

 彼女は十八才、名前をイシャッドという。少々英語が話せる。私が君の英語と同じ程度のウルドー語が話せると言うと、「それだけ使えたら、パキスタンではいい生活ができますわ」と答えた。いつのまにかイシャッドは私のひざに軽く手を置いている。それがひどく優しい感じで私のココロはふるえた。
 車はホテル・インターナショナルの前にきた。私は「ここで待て」といい置くと大急ぎで部屋に引き返す。
 ドアの前で入念にノックをくり返す。ひょつとしてジョニー君が女と二人で居るかもしれないと思ったからだ。シャワーの音がしている。奴め、一緒に風呂など入りやがってと思い「ヘイ、ヘイ」と大声で呼んだ。ジョニーがバスタオルを腰と肩に二枚まとって現われた。
「僕はアブれた。何あわててるんだ」
 私が、金が足りなくて取りに戻ったというと、彼はポカンとして「そんなにいい女か」とびっくりしている。
 「イエース、イエース、ファーシト.クラース」私はポパイみたいな口調になった。
 ペンタックスにカラーをセットし、ストロボのバッテリーを入れかえる。部屋を出がけにジョニーが「いいのを撮ってこいよ」と多少うらやましそうな顔になった。
 小走りに道に出ると車がない。わが眼を疑った。いくら見回してもそれらしい車がいないのだ。やられた! 俺としたことが何というざまだ。無性に腹がたってヒザがガグガグとふるえた。考えてみればこういう可能性は充分にあったわけだ。というより至極当然の話なのだ。ポパイか運チャンを部屋に連れて行くべきだった。それに気がつかなかったとは今夜の俺はどうかしている。畜生! ナメヤガッテ! 心でののしりながら、まあ落ち着けと煙草に火をつける。
 その時だ。モーリスのタクシーがスーツと前に止まり、窓からイシャッドがのぞいて笑つている。この時私はよほど間の抜けた顔をしていたに違いない。
 フラッティへ車が滑り込むとイシャッドは「オー、オホー」とおどけた調子でいいながら、それまで頭上にまくり上げていたブルカをバッと下した。数人のパキスタン人が立ち話をしているが、ブルカをかぶれば顔は全く見えない。ブルカとはなるほど便利なもんである。だだっ広いパーキングの片隅に車を止めると、運チャンはこう言った。
 「サーブ、いいですか。これから受付に行き、今ラワルピンディから着いたから部屋をとりたいとおっしゃい。彼女はボーイがさがってから私が連れて行きます」
 ダブルとツインとどちらがいいかと聞くとイシャッドは「シングルで充分よ」と恥ずかしそうに言った。

ダラット、ダラット……

 やっと二人きりになった。エアコンのよくきいた気持のいい部屋だ。このホテルは全部が平屋造りになっていて、その点プライバシーが保てる。しかしイシャッドは「チャビー、チャビー(鍵)」としきりに気にしている。
 シャワーを浴び、ビールを飲む。もう二時をまわっていた。イシャッドは私のそばに座り、時々そっともたれかかってくる。彼女の美しさと優雅さを思うと、もうこれでいいような気もするが、私は若い。
 写真を撮りたいというと、彼女は直ぐに応じ、服装を整えるとサッとポーズをとった。私は思わず次のような.バカげた問いを発せざるを得なかった。
「イシャッド」
「ジー(はい)」
「お前の商売は何なのだ」.
 彼女のポーズはそれほどピタリと型にはまり、絵になっている。
 私のカンはある程度あたっていた。彼女はパキスタン・ダンサーなのだ。映画にも出ており、イシャッドといえば知る人も多いらしい。ヌードを撮りたいというと、
 「今はダメよ」
 後からならいいらしい。
 ビールを二人で三本飲んだ。彼女の方からねむいといいだしたので、ベッドに入ることにしたが、さすがの私も今回は少々興奮した。シングルベッドというのは、本当にふたりがピッタリとくっつかないと転げ落ちそうになる。
 イシャッドにそっと手をのばして今日は金曜日だったと気がついた。というのは、回教徒は男も女も金曜日にアソコの毛を剃る風習があるのだ
 インャッドは熟しきらないリンゴのようだった。彼女がその時に言った可愛いいささやき、「ダラット、ダラット ホーギー(痛い、痛いワ)」は、その後も私の耳に数日間残っていた。

コーカサスの山と人<下>

コーカサス2★コーカスの山と人<下>
山に登る。そしてお別れ‥‥
通訳をしかる
 7月16日、荷上げ。一行は14人。私たち10人の日本人とニコライ、ギャナディ、それにインストラクターのボリス、1級アルピニストで、救急隊のスタス・ババスキンである。
 歩き出して10分と行かぬうちに、私は後悔した。「しまった。こんなもの持つんではなかったわい」
 荷分け係が、「隊長、サラミソーセージ10本とバターを2個、お願いできますか」なんだそれくらいと思ってOKしたのが間違い。現物を見て驚いた。
 サラミは、普通の倍近くの太さで、ミレーザックからはみ出すほど長かった。バターは、一つが食パンの倍くらいの大きさだったのだ。けれど、皆はもっと沢山持っているし、私より年寄もいるとあっては、とても不服などいえたものではない。
 半時間と行かぬうちに私は落伍した。どうせ今日は中間点にデポするだけ。ゆっくり行けばよい。そう思って、シヘリダ氷河の融水が濁流となって、たぎり流れるのをはるか左下に見ながら、私は針葉樹林の間を登って行った。
 突然、行手の樹の根元からニコライが立ち上がった。「荷物を持ちます」彼のザックはなかった。空身のギャナディに渡して、私を待ち受けていたらしい。
「ニェット、スパシーバ(いや結構)」
「持ちましょう」ニコライは繰り返し、私も「いやいらん。ワシが持つ」と繰り返した。
 私がこの彼の好意を受けるのをためらったのには、理由があった。「通訳はそれ以外の仕事はしなくてよい。通訳を完全にやれ」と彼をしかりつけたことがあったからだ。一昨日のこと。日本隊は、フランス隊と一緒にイトコールへ出かけた。イトコールホテルでは、ソ連山岳連盟副総裁を交じえて、レセプションが行なわれた。
 ここではっきりと分った。ニコライとフランス隊付の通訳とでは、全然態度が違うのだ。ニコライはこちらから催促しないと通訳しないで、タバコをふかしていたりした。
 向こうは本職でニコライはアルバイト、そういうことではない違いがある。これに気づいたとき、これは一言いっておかないといけないと思った。
「ニコライ、君の仕事は何なんや」「どうしてそんなこと開くのですか?」彼は少々気色ばんだ。「今日の君の通訳はまるでだめや。フランス隊を見てみ」
 すると彼はムッとして、「そんなことはないんです。去年にはそんなことは一回もいわれなかったんです」
「いいか、ニコライ。去年は去年、今年は今年や。お前は通訳やないか。お前一体何しに来たんや」私も少々頭に血がのぼってきた。
「ボクは、皆さんが山に登る手続きや、ルートの打合せを助けるんです。今日のようなのは何ですか! 何の意味もない。無意味なスピーチですね」

<ウシバ・コルより見たエルブルース山。下はシヘリダ氷河>エルブルース山 私は頭にきた。「無意味でも有意味でもお前の知ったことか! お前の仕事は通訳や。通訳というのは、オレたち10人の日本人の耳と口になることや。それだけを考えたらいい。それだけが仕事や。それがいやなら、サッサとモスクワへ帰ったら,ええやないか。お前なんか必要あらへん」
 ニコライはこしゃくにも真っ赤になって怒った。こぶしを振りながら、全く意味をなさない日本語をどなった。「ボクは、そんな、ぜんぜん、ないんです! どうしても、なぜ、あるんです!」
 私はモスクワ船での、日本語を喋るヒッピー風の若いアメリカ人とのケンカを思い出した。たしか、キリスト教とベトナム戦争が話題だった。それにしても、自国語でのケンカは、何と楽なんだろう。

 「骨はぼくが拾おう」

 次の日、私たちはジャーマン・ビバークと呼ばれるテント場へついた。基地よりちょうど8時間の所だ。
 シヘリダ氷河の源頭近くの山、ピーク・ヴェレヤの巨大なリッペが氷河に落ち込み、その末端は、大きく広がった氷河の中で、ちょうど島のようになっている。そこがジャーマン・ビバークだった。
 テントからは氷河をへだてて、シュロスキー峰(4260m)とシヘリダ峰(4300m)が、眉に迫るぼかりにそびえ立っている。
 もともと、私たちはチャティン・タウの北壁を目指して、この国にやって来たのだった。チャティンは、昨年の日本隊も失敗している。そしてこの壁は、1965年の初登以来、第二登はされていない、と聞いていた。
 隊員たちは、今年こそはチャティンの第二登を……と意気ごんでいた。10名という、カフカズ隊始まって以来の大パーティとなったのも、スムーズに抜けても最低10日間は要するという、この六級ルートに対応したものであった。
 ところが、基地でよく調べてみたら、この「第二登はされていない」というのは、全くの間違いであった。
 チャティンは止めにすることになった。第10登以上もされている壁を、命をかけて登るのはどうも割に合わない、ということになった。私たちはシュロスキー峰に向かったわけだ。
 シュロスキーから戻ると、さすがに皆ぐったりしていたが、数日のうちに回復するにつれ、次の山が話題となった。そして、いったんは、完全にあきらめるというか、無視することになっていたはずのチャティンが、再びよみがえってきた。
<我々の登ったシュロスキー峰>
シュロフスキー峰 それほどこの壁は、若い隊員の思いものとなっていたらしい。「どうした、おめえたち。ようし、ひとつやってみろ。おめえたちの死にざまはおれが見とどける」と、登攣隊長の田中さんはあおった。私も、少々ワルのり気味だと思いつつ、あとにこう続けた。「田中さんが死にざまを見とどける。骨はぼくが拾おう」
 若い連中は、かっかと燃えに燃えた。しかし、よく考えてみれば、チャティンを狙うには、少々日数が心配だった。うまくいってぎりぎり間に合うかどうか。きわどいところだろう。
 ソ連では、出発に先立って、登山基地で登山届を提出する。そこには、帰着時間を明確に記入してサインしなければならない。もし遅れた場合には、自動的に救助隊が出動することになる。
 最初から登る気のない年寄たちは、比較的冷静さを保っていたから「どうも日数的に無理のようだ」と思ってはいた。しかし、一途に命がけのアタックを目指している者に、水をさすようなことをいうのは、なんとなく気がひけるので黙っていたのだ、と後になって語った。
 私はできることたら、登ってほしいと思った。それには方法は一つ。下山日程の変更をボリスかババスキンに伝えさせることだ。
 私は誰にもいわずに、ボリスとニコライのテントに出かけた。

割れ目に落ちるなら

「ドーブリェディン(今日は)」、ボリスは威勢よく私をテントに招き入れた。私はボリスにいった。
 チャティンに行くことになった。下山が遅れるかも知れない。前もって連絡をとれば問題はないと思うのだが、どうか。「一昨日、基地に下ったとき、基地の教官たちは、皆さんが下山予定日までに帰るよう、強く望んでいました」とボリス。
 チャティンは普通8日間かかるといわれているが…‥。「そうです。それは条件次第です。ある隊は7日間、別の隊で12日間かかっているのもあります」なんだか、つきはなされた感じである。今年の壁の条件は? と聞くと「今年はまだ誰も登っていないから分らないんです」まさに答は明快そのものである。「もし壁の条件が悪かったとしたら、日数がオーバーすることも考えられる。そのときには事前に、下山日の延期を連絡すればよいと思うのだが、そうしてもよいか」私はくい下がると、ポリスはいったー「それを決めるのはあなたでしょう」
 このとき私は思った。そうか、ボリスは日本人ではなかったんだ‥…と。そして、こういう点の明快さが、私たち日本人には欠けている。そう考えながらテントへ戻った。
 そして「日数のほうは大丈夫なんですか」と田中さんに聞いた。彼は「ええ」とうなずいて、指折り数えていたが、そのうち「あれェー」と甲高い声をあげた。「足らねえや、こりや」
 ミーティングの結果、チャティンは中止となり、シヘリダの全員登頂を目指すことに、皆の意見が一致した。

 3日かかってシヘリダを登り、4日目の7月28日午前中に、テントに帰りついた。ボリスとババスキンは、私たちの無事帰着を見とどけたので、一足前にこれからすぐ下山するという。
 そこで、ここで″ジョニ赤″で乾杯することにした。これは荷上げのときから、ボリスが目をつけていたものなのだ。ボリスもババスキンも、ウオツカ流に一気にあおるので、二回乾杯したらもう空だった。
 ボリスが「ジョニ赤で酔っぱらって、私は氷の割れ目に落ちそうです」といったので、「割れ目にも色々あるが、氷の割れ目はいやだね」と返した。すると直ちにボリスは、「いい割れ目なら70歳になっても落ちたいが、氷の割れ目はいやだなあー」

ピッケルを打て!

 テントをたたんで、基地に帰りついたとき、何となく常ならぬ雰囲気を感じた。しばらくして、3日前にアクシデントが起こり、2名が死んだことを知った。
 そのうちの一人が、国際級スポーツマスターであったことが、事件をより深刻にしているようであった。ニコライ・マーシェンカ(37)。国際級スポーツマスター。数多くの六級ルート開拓者。ヨーロッパ・アルプスにも遠征しているベテラン。その彼が、こともあろうにII級の山で死ぬとは……。
 マーシェンカは、5名の講習生を連れて、II級のピーク・モンゴリアンに向かった。
 彼がクーロアールを登っているとき、大きな氷のブロックが落下してきた。ブロックは先頭のマーシェンカのすぐ前で砕け散り、彼と二番目の女性アルピニストに命中した。
 マーシェンカが息を引きとるまでには、数分間を要した。彼が最後にいった言葉は、「ピッケルを打て!」であった。……これがニコライの伝えた、アクシデントのあらましである。
 私は感じた疑問を、すぐアナトリ−にぶつけてみた。
 国際級スポーツマスターが、II級ルートで死ぬなんていうのは、おかしいではないか。彼にはミステークがあったのではないか。
「彼は氷の破片が耳の後ろに当たったから死んだので、彼の過失ではない」(話がかみ合わない)
 しかし、おかしいではないか。国際級スポーツマスターともなれば、氷の破片などは避けられねばならないのではないか。あるいは、そういう危険を予知して、そのルートは避けるべきではなかったのか。それを怠ったのは彼の過失ではないのか。
「そんなことができるのは神様だけだ。山での死は誰にも避けられないことだ。だからわれわれは、アルピニストのカテゴリー(グレード制度)を作ったのだし、君も私も常にトレーニングして、技術をみがいているのではないか」
 その夜、ボリス、ニコライの招きで、私は二人と共にウォッカで無事を祝った。
 そのとき、私はふと思いついて、今日のアナトリーにしたと同じ質問を、ボリスにやってみた。ニコライの通訳を半ばでさえぎって、ポリスは早口で答えた。ニコライは、彼独特の口調で通訳した。
「ボリスさんはいいました。それは、アルピニズムのネ、あの、宿命なんですって……」
 三人ともかなりしたたかに飲んだ。「もう夜がふけたから、オカアチャンにしかられないうちに……」とボリスが引きあげると、ニコライがいった。
「タカダさん。ボリスさんは割れ目に落ちますネ。ピッケルを打て!ですね」

お別れパーティ

 私たちがモスクワに帰る前の夜、基地では〈お別れパーティ〉が盛大に行なわれた。
 もうすっかり顔なじみになったスポーツマスターたち、それに今初めて会うというキャンプ長やそのほかのお偉方も出席した。
 例によってテーブルスピーチが始まる。ロシア人は本当に演説好きだ。
 私はロシア語でスピーチした。この日の夕刻から懸命に練習にはげんでいた。原稿はこっちで作り、それをニコライとギャナディにロシア語に直してもらい、カタカナでノートに記した。「よく分ります。選挙の演説みたい」とニコライはいった。パーティではこのスピーチを、ニコライが日本語に通訳することに決めた。
「ウヴァジャーエムイエ、ドルジャー、イ、タヴァーリシチー(尊敬する同志友人諸君)」
 これはスピーチの決まり文句。
「アト、イーメニ、ナシェイ、エクスペジーツィー、ヤ、イメーユチェスチ、ペダレーチヴァム、セルジュチヌイ、プリヴェト(ここに皆さまにあいさつの機会を得たことを光栄に存じます)」
 私たち10名のアルピニストは、はるか東の国、日本からやって参りました。私たちをお招きくださったことを大変喜んでおります。私たちは皆さんのご援助のおかげで、シュロスキーとシヘリダの頂上を踏むことができました。これは私たちにとって、忘れられない思い出となるでしょう。しかし、それ以上に私たちの心に残ることは、皆さん方の暖かい友情と手厚いもてなしであります。私たちはこの思い出を大切に持ち帰り、日本の人たちに伝えるでしょう。皆さん、本当に有難う。(拍手)
 このスピーチをすましたら、なんだかもうすべて済んだような気持ちになった。
 プレゼントの交換がすんで乾杯。白髪の教育部長が立って、「私は普段は全くお酒を飲みませんが、今日は大いに飲みたい」とスピーチした。
 副隊長の西さんが尺八で〈トロイカ〉を奏し、大喝采を浴びた。
 アーリャが私に、小さな紙切れを手渡した。赤いボールペンで、ぎっしりとロシア文字が書いてある。ニコライに見せると「またこの素晴らしいコーカサスに来てほしい」という詩であるという。
 アーリャ。電気技師。二つの大学を出ていて、夏休みだけここの仕事を手伝っている。
 私たちは基地についてすぐ親しくなった。彼女はドイツ語しかしゃべれず困ったが、とにかく何となく気が合った(誌面がないので詳しく書けないのが残念である)。
 パーティに疲れていた私は、彼女にささやいた。「ヤ、ハチュー、スヴァニ、パグリャチ(私はあなたと散歩したい)」
 アーリャは「ダーダー」とうなずき、私たちは外に出た。樹の間からもれる月の光がきれいだった。私はアーリャの肩を抱いて歩いた。
 シャンペンとブランデーとウォッカでほてった頬に、冷たい空気が心地よかった。ベンチに座るとコーカサスの月は青くさえ返った。
 彼女は寒いといった。ヒザ小僧にふれてみると、本当に氷のように冷たかった。私は背広をぬいでかけてやった。

 8月3日、8時30分。私たちカフカズ遠征隊はモスクワを離れた。ニコライはギャナディと共に、タラップの下まで見送ってくれた。  ジェット機は白夜の空にのぼり、東を目指して飛び続けた。 (おわり)

コーカサスの山と人<上>

コーカサスタイトル1★コーカスの山と人<上> モスクワからエルブルースへ
モスクワにつく
コーカサスへ地図1971年7月10日午後、私たち10人の第2次RCC遠征隊は、モスクワ郊外のドーモチェドモ空港に降り立った。横浜を出てから三日目だ。
私たちを出迎えたのは、スコロフ、ギャナディ、ニコライの三人のソ連人。スコロフとギャナディは、私たちを招待した「プロスポルト国際部」のスタッフである。ニコライは、モスクワ大学極東語科の四年生で、日本語専攻。私たちの通訳をやることになっている。ニコライは開口一番、「タカダさん、男は黙ってサッポロビールですね」これには全く、あっけにとられてしまった。
しかし、とにかく日本を出れぼ、言葉で優越されることは、すべてに負けることを意味する。桑原武夫氏は、チョゴリザ遠征のとき、フランス語の少しでも分る相手には、徹底してフランス語で通し、苦手の英語は使わなかったと述べている。
「お前それ、どこで覚えたんや」180センチをはるかにこえている彼を見上げて、私はいったが、「週刊誌で読みました」とすましたものである。
ここ何日間か、外国人とのコミュニケーションに、苦痛を感じていた隊員たちは、ワッとばかりに彼を取り囲んだ。
ギャナディは、ドイツ語の方で英語はダメだが、スコロフはかなりうまい。「アイアム、スコロフさん」と自己紹介してから、ペラペラとまくし立て、どこで知ったのか、東京のトルコ娘やアルサロなどの話題に、話を落とした。人の意表をつく、たくみな話の展開だ。そして、「近々に東京に行くからよろしくたのむ」などとふざけた。
これは明らかに、初対面の相手よりも心理的に優位に立とうという、一つのテクニックだ。こういうときには、最初の数分間で、勝負が決まる。
「よし分った」と、私はいった。「君の希望がかなえられるかどうかは、君の私たちに対する接待いかんによって決まるだろう」
キングス・イングリッシュでもパキスタン英語でも、相手に分ろうと分るまいと、いっこうに構わない。とにかく負けずにべラベラと、相手がへきえきするぐらいに、やり返しておくことにした。
ホテルについてからのことなのだが、レセプションのあとで食事をしながら、「ところで、君はどのスポーツが専攻なのか」と、私は尋ねた。プロスポルトの職員ならスポーツ関係だろうと思ったのだ。
諸君、彼は何と答えたと思います? 彼は間髪入れず、「オフコース、ファッキング」
いやまいったまいった。さすがは、国際部のスタッフだけのことはある。私はひそかに、脱帽せざるをえなかった。

プロスポルトの招待

私たち専用の、迎えのバスに乗り込むとき、ほかの日本人旅行者の視線を感じて、またしても、後ろめたいような気持になる。彼らは本当に、何時間待たされることやら……。
ナホトカの通関でも、ハバロフスクまでの汽車の食堂でも、そのほかなんでも私たちはすべて最優先。何事につけても、大陸的でラフなソ連インツーリストの態度に、イライラしている日本人旅行者から、「この人たちは特別なんですよ」などという、聞こえよがしのささやきを、何度も聞いたものだ。
確かに、私たちは特別扱いであった。
かいつまんで、説明してみよう。
ソ連に「プロスポルト」と呼ばれる組織がある。これは、プロフサユース・ヌイ・スポルトの略で、「全ソ労働者スポーツ評議会」のことである。会員数5000万、ソ連最大のスポーツ組織である、といわれる。
「プロスポルト国際部」の事務所は、クレムリンの近くにある。その仕事は、スポーツによる国際親善の促進にあり、世界各国と選手交換の協定を結んでいる。世界中より集まる各種スポーツの選手のために、モスクワには、ブロスポルト直営の大きなホテル(スプートニク)がある。
さて、選手交換協定の骨子は、選手人数日数などがバランスするように相互に選手を交換し、その費用はお互いに持ち合う、という内容のものである。
この協定を結ぶに当たって、日本の窓口となっているのは、総評であり、その主宰する「労働者スポーツ協会」である。そして、この「労働者スポーツ協会」の設立当時から、第2次RCCの同人が、その登山部門の育成に協力してきたこともあって、この協定による登山は、第2次RCC中央アジア委員会にまかされてきた。
私たちは、この1966年に始まる、一連のカフカズ遠征の第五回目に当たるわけだ。
こういうわけで、私たちの交通費、滞在費その他一切の費用はソ連側が持ち、おまけに1人1日2.5ルーブル(邦貨1000円)の小遣いまで支給されることになっている。
と、こう書けば「なんとまあ結構な」ということになるが、この世の中に、余りに結構な話なんぞはないのが普通だ。私たちは総評に、一人20万円を払い込まねばならない。これがプールされて、プロスポルトが派遣した選手の、接待費用となるわけだ。
それにしても、期間一カ月で20万というのは安い。支給される小遣いをバランスすれば17万となる。例えば、日ソツーリスト・ビューローが主催するツアーの一つをとってみても、「夏休み14日間」の旅が17万9000円なのだから、私たちはやはり特別らしいのである。〉

二つの真実

私がソ連に出かけることを知って、知人友人が、いろいろのアドバイスをしてくれた。1969年の「レーニン生誕青年祭」に招かれ、『パミールの短い夏』(朝日新聞社)を書いた、作家の安川さんは、「これ読んどくと参考になるよ」と、一冊の本を貸してくださった。
『誰も書かなかったソ連』であった。「大宅壮一ノンフィクション賞・受賞! 滞在三カ年の主婦が体験をもとに克明に綴った”裏側のソ連”」という帯がかかっていた。その中に、こんなところがあった

−− こういうわけで、部品の盗難があとをたたない。モスクワの町で、急に雨が降りはじめると、どの道路でも、タクシーが急に車をわきに寄せて一時停車する。ワイパーをとりつけるためだ。普段は、とられないよう車の中にしまっておいて、必要なときだけとりつける。私たちも、一年三ケ月の間に三回もワイパーをとられ、その後は駐車するたびに、いちいちはづして車内にしまったものだ。一度だけ、モスクワでレンターカーに乗ったときも、手続きの書類にサインするさい、係り員から、車をとめるときは必ずワイパーをはずして、しまってくださいと念を押された −−
空港からホテルへ向かうバスの中で、私はふと、ここのところを思い出して、すれちがう車に、ワイパーがあるかどうか、調べることにした。
そのとき、正確に、一分間に一〇台の車がすれちがったが、そのどれにもワイパーがあった。ホテル・スプートニクの前に停まっている、十数台の車も全部、ワイパーをつけていた。あの本の中味はアヤシイ、という気がした。
ところが、コーカサスから帰って来て、また同じホテルに泊まったので、気をつけて見たら、ワイパーのない車はいくらでもあった。私は少なからず驚いた。なにしろ、ソ連に入国して、一カ月近くなって初めて、ワイパーのない車を見たのだから。そこでまた、バスに乗ったとき、前と同じようにすれちがう一〇台を調べた。なんと、一〇台のうち八台までが、ワイパーなしだったのだ。
これを一体どう解釈したらよいのだろう。もし私が、ソ連を通過するだけの旅行者だったら、ソ連の車にワイパーがないというのはウソだ、と思い込んだかも知れない。ところで、やはりワイパーのない車もあったのだから、「ソ連の車にはワイパーがある」といいきることもできないだろう。
私がコーカサスへの、行きと帰りに見た、全く反対と思える二つの事実は、決して矛盾するものではなく、二つの真実といえるだろう。つまり、旅の見聞というものは、常に一面的でしかないのだ。たとえそれが、三年間の見聞であっても、一面的であることにかわりはない。
要するに私たちは、こういう事実の一面性の認識と、二つの真実的発想で、情報に対処すべきなのだろう。
私が今、書いているものもまた、そういう意味の真実のスケッチと考えてほしい。

ロシアの”殺人学校”

世界地図を見てほしい。ユーラシア大陸の左の方に、黒海とカスピ海が見える。この二つをつなぐようにして延びるのが、エルブルース山(5633m)を盟主とする、カフカズ山脈だ。コーカサスというのはこの英語読みである。
モスクワから南下すること二時間半ばかり、快適なジェットフライトで、ミネラル・ウォーター空港につく。この付近は、本当に炭酸水がわいている。
さらに南へ、今度は自動車で走ること一時間、ピャチゴルスクの町を過ぎる。山の見える美しい町だ。ピャチゴルスクとは″五つの山の町″という意味である。ここのドライブインで昼食をとり、ウォッカをあおる。ドライブインといっても、この国では、町立レストランなのである。
さらに四時間のドライブのすえ、私たち10人とニコライにギャナディの一行は、ようやくカフカズ山域の登山基地の一つ〈エルブルース〉についた。
登山基地エルブルース。徳沢園あたりを想像願いたい。もちろん、スケールはもう少し大きい。二十数棟の建物が、林間に点在している。
<食堂前で打ち合わせをするインストラクター>
ロシア登山学校
食堂棟の二階は、放送塔になっており、レーニンの肖像がかかっている。その前の広場をはさんで、反対側の棟の二階の手すりには、赤い看板に白字で「第○回党大会のスローガンを実現しよう」とある。多くの宿泊棟のほかに、集会棟、診察棟、食糧庫、装備庫などがある。また、入門アルピニストの宿泊用に、15張の大きな家型テントが並んでいた。
私たちが入ったのは、ある宿泊棟の二階で、一部屋に五つのベッドが入れてあった。まだほとんど、その必要を感じなかったが、スチームが入っており、地域暖房システムらしく、ボイラー棟は歩いて5分の所にあった。ボイラー棟には大きなシャワー室があった。そこまで歩いて行く途中には、吊り輪、鉄棒などのあるトレーニングコーナー、バスケットコート、バレーコート、それに50mプールなどがあった。
樹々の間をぬう小道を行き交う男女のアルピニストたちは、トレパン、トレシャツであり、男の場合上半身はだか、女のビキニ姿も珍しくはなかった。この人たちで、歩いているものはほとんどなく、みんな小走りか、あるいは疾走していた。それはむしろ、陸上競技選手の合宿といった感じであった。
朝7時、ドラの音と共に、各棟のアルピニストはいっせいに、朝もやのただよう林間へ走り出る。
まるく輪になって体操するグループ、一人で黙々と走る若者、あるいは、もう40歳に近いスポーツマスター、彼はヒラリと吊り輪に飛びつくと、いとも簡単に倒立、そして十字懸垂、全くこれは、もう体操選手だ。そのそばでは、上半身はだかの男共が十数人、腕を大きく斜めに広げて、胸筋を延ばすソ連独特の体操をやっている。
<モレーンを行く女性アルピニスト>
cut2-1.jpg 私たちは、ただあ然として見守るばかりだったが、そのうち誰かがいった。「殺人学校みたいじゃんか」本当に、これは007シリーズのロシアの殺人学校みたいだった。
私たちの介添役として、ベースキャンプまでの同行が予定されているインストラクターのボリスが、プールでぬき手をきりながら、「タカダさん」と大声で呼んだ。私も大声で「ズドラーストヴィッチェ(おはよう)」と答えると、彼は一緒に泳げと手招きしながら、「ハラショー(快適だ)」と二度繰り返した。あとで水温を計ってみたら、摂氏11度。午後になっても14度だった。

「彼を説得します」

もうよく知られていることだが、ソ連の登山は国家によって体系づけられており、アルピニストのグレード化が行なわれている。
ソ連のアルピニストは、次のように分けられる一。入門アルピニスト、初級、III級、II級、I級アルピニスト、スポーツマスター候補、スポーツマスター、国際級スポーツマスター、この八段階である。
入門アルピニストという資格は、実際にはなく、初級アルピニストを目指す人を、そう呼んでいるようだ。ソ連のアルピニストは、誰でも、スポーツマスターを目指して精進している。
「そんなことはどうでもいいのだ。自分は山が好きなんだ。自分の好きなように山に登る」日本の山登りをする人を代表する、こういう考えの人は、ソ連ではツーリストと呼ばれる。ツーリストは、クライミングはII級ルートまで、あるいは氷河から氷河の峠越えが許可される。
ソ連の基準からいえば、日本で山登りをやる人の九割までは、ツーリストになってしまうだろう。
このカフカズ山域には、20近くの登山基地があるが、ここはウクライナ共和国の管理で、ウクライナ共和国の人は、宿泊その他無料なのである。
基地〈エルブルース〉の登山学校には、30人のインストラクターがおり、そのうち15名(うち4名が女性)がスポーツマスターである。
アナトリー氏は、インストラクターの一人である。1級アルピニスト、43歳、1956年に山登りを始め、58年III級アルピニスト、60年II級、66年1級アルピニストとなる。彼の妻は、彼より二つ年下で、スポーツマスターである。二人とも非常に若々しく、30を過ぎたくらいにしか見えない。「君もスポーツマスターを目指しているのか」私が聞いたら、独特のとつとつとした英語で、「私はもう年だ。とても無理だろう」と答えた。ウォッカも「スポーツマンに酒は禁物だ」と少ししか飲まなかった。
一度生徒にインタビューしてみようと思ったが、英語の分るようなのはいないから、ニコライ君の力を借りることになる。「女の子と話をするから、ニコライ通訳してくれ」といったら、「タカダさんのあいびきの手助けはできません」と答えたので、「バカモン」とどなった。
タマラ(20)一 可愛い、色白の娘である。初級アルピニスト。ウクライナ共和国のジャパロージャという町から来た。18の妹との二人姉妹。工場で働きながら、専門学校へ通っている。3年前から山登りを始めた。それまでは、12歳のときからフェンシングをやっていた。ジャバロージャ山岳会に入っており、1週間に3回、郊外の岩場で練習している。この6年ぐらいで、1級アルピニストになるつもりだ、と語った。結婚しても山登りは続ける、という。
私は聞いた。「もしあなたに本当に好きな男ができたとする。その男は山へは登らない。山は危険だと思っている」タマラは眼をキラキラさせて、ニコライの通訳にうなずく。私は続けた。「その男があなたにいったとする。僕と結婚するつもりなら、山は止めてほしい。山をとるか、僕を選ぶか」
タマラはしばらく考えていたが、やがてきっぱりといった。「彼を説得します」
部屋に帰ってこの話をしていたら、隊員の武藤君が、嘆息混じりにいった。「さすがにソ連の女性、解放されてますネー」 (つづく)

コーカサスの山と人の紹介・説明

「コーカサスの山と人」<上><下>
           
『なんで山登るねん』に〈三十なかば変身のきっかけはコーカサスのショック〉という章があります。
 1965年、京都山岳連盟カラコルム登山隊の最年少隊員として、初めて海外に出た私は、カルチャーショックを受けます。
 この4年後、1969年に「西パキスタンの旅」に出かけます。
 さらに二年後の1971年、旧ソ連邦・コーカサスに出かけたときの報告を、読み物として山渓本誌に2回に分けて連載したのが、『コーカサスの山と人』上・下です。
 当時、前衛登山集団として、自他共に許した「第二次RCC」が、ソ連の招待を受け、コーカサスに遠征し、登攀を行ったときのもので、私はこの「第二次RCCカフカズ遠征隊」の隊長でした。
 この時の初めてのヨーロッパは、ぼくにとっては初めての、東南アジアやインド・パキスタンなどのアジア圏などではない、その外の体験でした。
 さらに、ソ連邦(旧)は、アジア圏外の国というだけではなく、いわゆる冷戦構造下の東側の国でした。そこで肌で感じたものは、日本で常識のように言われ信じられていることと、実際とのあまりに大きなギャップだったようです。
 〈コーカサスのショック〉とは実はそうしたものであったと今思うのですが、どうしてかぼくは余りこうしたことに関しては書いてはいません。
コーカサスの山と人<上> 
コーカサスの山と人<下>