登山と「神話」

 登山と「神話」は山と渓谷社の季刊誌『岩と雪』に、38号から43号(1974年10月〜1975年6月)の6回にわたって連載したもので、当時けっこう話題となったものです。
『なんで山登るねん』よりずっと良い、という岳人もたくさんいました。ぼくとしては、『なんで山登るねん』の基盤となっている理屈を述べたつもりだったのですが・・・。

◎登山と「神話」(全6回)
その1 スポーツ神話について
その2 宗教登山の位置づけについて
その3 『槍ヶ岳からの黎明』について
その4 「山での死」について
その5 『ホモ・ルーデンス』について
その6 「シェルパレス登山について」は割愛しました。
(2007/06/28)

西パキスタンの旅について

 1969年、ディラン峰遠征の4年後、学園紛争たけなわの日本をあとに、戒厳令下のパキスタンをジープで旅した記録です。
 このときの話は、『なんで山登るねん』の随所に出てきます。
 『西パキスタンの旅』は、月刊誌〈山と渓谷〉に1970年5月号より2年近く連載されました。

(この時、山渓本誌の編集部でこの連載を担当したのが、若き節田重節さんでした。連載が終わって間もなく彼が編集長となって、私に新連載を依頼し、ここに『なんで山登るねん』が生まれた訳です。)
 当時は、ネパールと違ってパキスタンの情報は大変少なかったので、この連載を海外遠征の勉強会のテキストに使った山のグループもあったと聞いております。

 この時の活動の一部、スワット・ヒマラヤのマナリ峠の地理的同定踏査の記録映画「ハラハリ」は、本サイトにアップされています。記録映画「ハラハリ」(on YouTube)

◎西パキスタンの旅(全14回)
西パキスタンの旅 第1話「辺地教育調査隊の出発」
西パキスタンの旅 第2話「シンド砂漠を走る(その1)−−カラチからラワルピンディヘ」
西パキスタンの旅 第3話「シンド砂漠を走る−−その2−−カラチからラワルピンディヘ」
西パキスタンの旅 第4話「ギルギットへの突入−−その1−−」
西パキスタンの旅 第5話「ギルギットへの突入−−その2−−」
西パキスタンの旅 第6話「ギルギットへの突入−−その3−−」
西パキスタンの旅 第7話「ギルギットへの突入−−その4−−」
西パキスタンの旅 第8話「バブサル峠への潜行−−その1−−」
西パキスタンの旅 第9話「バブサル峠への潜行−−その2−−」
西パキスタンの旅 第10話「幻の峠を求めて−−プロローグ−−」
西パキスタンの旅 第11話「幻の峠を求めて−−ガブラル谷−−」
西パキスタンの旅 第12話「幻の峠を求めて−−ハラハリ谷−−」
西パキスタンの旅 第13話「幻の峠を求めてーハラハリ氷河とマナリ・アンー」
西パキスタンの旅 最終話「幻の峠を求めてーエピローグー」

宗教登山の位置づけについて

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登山と「神話」その二

宗教登山の位置づけについて

 先号では、「スポーツ」に関係する「神話」をとりあげて述べました。これについて、ぼくにとっては予想以上の反応があり、いろいろの人から、いろいろのコメントを頂きました。
 ぼくとしては、くさされても、別にしょげ返るわけではありませんが、逆にほめられると、どうも具合が悪い。もちろん、ほめられ、持ちあげられて、気分が悪いわけではありません。でも、たとえば、「次に期待する」などと、偉い人から云われると、どうもペン先がこわばってしまいそうです。
 ぼくは「論文」を書いているつもりはないし、一つの「読物」と受けとってほしいのです。ただ「それはおかしい」というところがあれば、反論してもらうことが有難いわけで、たとえ、こてんぱんにやっつけられてもぼくとしては、大いに満足です。

 さて、「神話」についてですが、ぼくがいう「神話」は、いわゆる「現代の神話」といわれるやつで、「政治神話」あるいは「社会的神話」という部類のものです。ヤマトタケルノミコトと直接的には関係ありません。
 しかし、全く関係がないわけじゃない。むしろ大いにあるというべきかも知れません。
 どうしてかというと、たとえば、『古事記』『日本書記』は、日本の歴史であるか否か、という問題をとりあげて、考えてみましょう。
 これは、そのもっと後の、楠木正成にしても、家康にしてもおなじことです。要するに、何が歴史で、何が歴史でないかの判断点は、「歴史が、少数の人の歴史であっては、それは歴史ではない」ということです。
「万里の長城」は、明らかに、古代中国の人民の力によって造られたものです。しかし、学校では「秦の始皇帝」が造ったと教える。そのアイデアを考えついたのさえ、始皇帝ではなく、おそらく歴史に現われない誰かだったに違いない。つまり、書かれた歴史は、みんな大ウソということになります。それは、人民不在の歴史であるからです。
 次に、「すべての歴史は、現在のことだ」といえます。これは、イタリーの哲学者のクローチェがいっていることです。
 たとえば、いまいった「始皇帝」は、儒者を生きうめにして、儒教を説いた書物をもやした、とんでもない暴君だとされていました。いわゆる〈焚書坑儒〉です。ところが、中国では、最近の儒教批判が起ると、「奴隷制社会」から「封建制社会」への移行を促進した、名君ということになりました。一方、孟子などは「奴隷道徳」を説いた、けしからん奴だということになり、「孟老二」つまり「孟家の次男坊」という蔑称でよばれることになってしまいました。
 また、敗戦まで日本で使っていた小学校の歴史教科書は、占領軍の命令で、まっ黒に墨をぬらされた。これをけしからんと怒っている人もいるようです。この教科書には、神代に「人民が騒いだからこれを平らげたもうた」と書いてある。墨をぬって当然で、けしからんと思う方がどうかしています。
 大体、「騒いだら平らげる」という発想がけしからんわけで、騒ぐにはそれなりの理由があると考えるべきです。こういうことをいうとすぐ「かたよってる」という人がいる。事実、先号のぼくの文章をよんで、共産党、民青の思想ときめつけた人がいます。本居宣長は、マルキストでも、唯物論者でもないけれども、百姓が一揆を起す、つまり騒ぐには、それなりのよくよくの理由があるはずだ、といっています。こんなことはあったりまえの話ではないですか。
 話をもとにもどして、ともかく、歴史はたえず書き直されている。それは歴史が、クローチェがいうごとく、現在であるからなのです。
 ところが、古文書を並べてそれを歴史だと考える人がいる。材料を並べて、それをつないだら歴史だと考えるらしい。そういうバカみたいな歴史家や学者もいます。そんな人にとっては、歴史は不変なのでしょうが、これは全くの間違いというべきでしょう。
 やたらと長い前書きになりそうです。はしょって締めくくります。
 歴史つまり過去が現在に生かされると、よくいわれます。これはしかし、現在が過去によって否定されるということです。過去にやったようなことを、もう一ぺんやろうとする。ところが「すべての歴史は現在だ」というのは、まさに逆なのであって、過去のために現在が拘束されるのではなく、現在をつくるために、あるいは未来をつくるために、過去が追放されるということです。
 さて、歴史において本質的なものは何なのでしょうか。たとえば、「ヤマトタケルノミコト」が実在したかどうか、それは本質的な問題ではない。現在にかかわる歴史の本質というのは、過去へ現代を引きつけるために歴史が学ばれるのではなく、現在が未来に向かうために役立つような歴史でなければなりません。
 過去に動かすべからざる過去というものがあるのではなく、現在のぼくたちの必要によって、過去の〈歴史現象〉の中に、本質的なものとそうでないものとを区別しないといけない。そうすることによって始めて、本質的なものをとらえうる、とぼくは考えます。
 こういう観点で、登山の歴史を見たら、どういうことになるでしょうか。これまでの登山の歴史といわれてきたものは、全く疑わしい、ということになる。そして、全然別の登山史が書かれることになるでしょう。
 ぼくには、そんなものを書くだけの能力はとてもありませんので、ここでは、適当にピックアップなどしながら、進みたいと思います。一というようなわけで、今回は、「登山史の神話」ということになります。

 宗教登山の復権

 日本の近代登山は、明治に始まった、とされています。そうすると、それまでに行なわれていた「登山」はどうなるのでしょう。
 巨大な丘ともいうべき日本の山岳は、大昔から人々によって、自由に登られていた、とぼくは考えます。
 たとえば、日本の山の中では、まあ一番険しいと思われる劔岳でさえ、奈良時代(七一〇〜七四八年)に登られているのです。
 ところが、明治以前の「登山」は、「宗教登山」であった、ときめつけられて、登山史では極めて軽くあつかわれるか、あるいは全く抹殺されています。理由は、その動機が宗教であって、「純粋に山に登ることを目的としていないからである」とされています。いくら、「ものの本」にそう書いてあったからといって、こんなことをうのみにしているのは、ちょっと頭がおかしいのではないか、とぼくは思うのです。
「日本山岳会」の創立発起人であり、日山協初代会長の武田久吉は、植物学者であり、採集するために山に登った。今日の日本でも、蝶々とりにヒマラヤへ出かける名登山家を、ぼくは何人も知っています。
 また、夏の劔の頂上の祠には、お賽銭がいっぱいです。もちろん、今の人たちは、おまいりするために登るわけではありません。たまたま祠があったから、おいのりして賽銭を上げたのかも知れません。
 ところで、封建社会の民衆は、「講」登山といわれている集団で、山に登りました。彼等の全部が、熱烈な宗教心で山に登ったのではない、とぼくは考えます。ある若者は、おとうからきいた高山の厳しさ、美しさにあこがれて出かけたに違いありません。それよりなにより、彼にとって、「講」登山は、過酷な労働をはなれ、「家」と「村」の束縛から解放された「別世界」への旅立ちであったはずです。とすれば、心情的に今日の若者とあまり変らない。
 そもそも、封建社会における宗教は、民衆にとって、一つの「救い」であり「遊び」であり、また「解放の場」でしたし、時には「反逆の場」ともなりました。
 こういう立場で、「講」登山は、とらえ直されねばならないと、ぼくは考えます。「講」登山を考えるには、それを含むものとして「講」をとらえる必要があります。しかしどうも、これはぼくにはしんどいことです。
 ただ、この「講」を母体として起り、ある意味では幕府の崩壊をうながし、そして明治政府によって抹殺された、一つの特異な「歴史現象」について、ふれねばならないと考えます。この〈歴史現象〉とは、いわゆる「おかげまいり」であり、「ええじゃないか」です。
 この「おかげまいり」「ええじゃないか」は、「たんに神道史や宗教史上の問題であるだけでなく、日本歴史の本筋にかかわる問題であり、その歴史を動かす底流と考えられる、民衆の自発的行動の形式や法則を知るうえでの、重要な歴史事実」とされているものです。
 それはともかくとして、たとえば幕末の一八〇〇(寛政十二)年夏、富士山の登山者が、須走口だけで約五四〇〇人に及んだ、というような事実は、この「おかげまいり」の考察なくしては解釈できないと、ぼくは思うのです。「それほど日本民族は山好きだ」などという単純な子供だましの説明では、どうも納得ゆかないのです。

「おかげまいり」とは

「おかげまいり」、はて何だろう。ヤクザの「お礼参り」みたいなものかしら、などと考える人もあるかも知れません。
「おかげまいり」(御蔭参り・御影参り)とは、近世日本において周期的になんどかくりかえされた、集団巡礼運動です。その最盛期、たとえば一七七一(明和八)年には、関束以西、北九州に至るほとんど全域にわたり、約二〇〇万人の民衆が参加したといいますし、一八三〇(文政十三)年には、約五〇〇万に達しました。
 単純に二〇〇万とか五〇〇万とかいいますが、いまみたいな交通機関がある時代じゃないですし、一般人民には自由な旅行がゆるされなかった封建時代のことですから、それは大へんなことであったはずです。
 しかもその間、天からお札がふったとか、死人がよみがえったとか、いろんな奇蹟がいい伝えられました。人びとは踊ったり歌ったりして、熱狂のうずの中を伊勢へと参宮したわけです。
 幕末の一八六七(慶応三)年の「ええじゃないか」は、明らかに、この近世「おかげまいり」の伝統を利用して、政治的にひき起された混乱であったようです。
 人びとは、仮装したり、あるいは裸になったりして、手ぶり身ぶりおかしく踊り歩き、商人の家などへ土足のまま「ええじゃないか、ええじゃないか」と上りこむと、主人は酒肴でもてなして、「ええじゃないか、ええじゃないか」と笑っていたといいます。E・H・ノーマンは、「大衆的熱狂が、徳川の行政機能を麻ひさせ」たとしており、この時期に、倒幕、王政復古が行われたわけです。
 さて、近世「おかげまいり」は、文献にあるものだけで、七回あります。一六五〇(慶安三)年に始まって、大体六〇年おきにくりかえされております。
 そして、この「おかげまいり」は中世の巡礼運動につづくものです。
 中世の民衆は、おいつめられた希望のない現実をのがれでるために巡礼を行なったようです。途中でうえ死する人もありました。しかし、巡礼者はみな、「生きて罪業をつくるより、死んで善因をむすぶほうがよい」といったと、『天陰語録』にあります。そうでありましたから、関所役人は通過を黙認し、茶店の主人はお代を求めず、渡しの船師もほどこしをさえ、したわけです。そして、こういう風潮がさらに、巡礼運動をもりあげたのでしょう。
 こうした状況認識がなくては、天正年間における、立山登拝者数が十五万数千人に及んだなどいうことは、理解できないはずです。天正年間というのは、一五七三年に始まる一九年間ですから、ならして一年に八千人、おそらく多い年は一万をこえたことでしょう。
 そして、織田信長による関所撤廃(天正中頃)、豊臣秀吉、徳川家康の天下統一によって、近世「おかげまいり」発達の歴史条件の一つが作られたことになります。
 近世に入って最初の「おかげまいり」は、前に述べたように、一六五〇年のものです。この時は、江戸から伊勢へ向った人の数は、箱根関所の調べでは、正月頃には一日五、六百人から八、九百人、三月中旬頃よりは一日二千百人に達したといいます。
 彼等民衆が身にまとったのは「白衣」でした。これは、中世以来の社寺巡礼者の風俗で、「清浄」をたっとぶところから用いられました。また彼等は、組ごとに印をたてており、これは「講」を意味するものであったわけです。

自己解放としての「おかげまいり」

 さて、「おかげまいり」と「ええじゃないか」を簡単に説明したわけです。これについての研究はあまりされていないようです。おそらく、明治政府の官製「国家神道」に吸収されてしまったのと、これを研究することは、即「国家神道」にそむくことになるのがその理由でしょう。
 それと、もう一つには、学者のエリート思想と儒教道徳がじゃまをして、「そんな下賤な、野卑な」という感じとなり、いわゆる学者の「ナンセンス論」になったと思われます。
 たとえば、江戸の国学者、本居宣長でさえ、その『玉勝間』で宝永二年の「おかげまいり」の人数を書きとめているだけで、ほとんど無硯しています。
 それでは、「おかげまいり」はどうとらえるべきなのか。
 ぼくとしては、宗教登山との関連でとらえてみたいと思うわけです。といっても、詳しく調べたわけではありませんし、とてもぼくの任ではない。ただ、直観として、「おかげまいり」は、宗教登山の本質へせまるアプローチではないかと思うのです。
 ちなみに、一六世紀後半から始まった富士講の、中興の行者月行削仲(かつぎょうそうちゅう)(一六三三〜一七一七)、その門人食行身禄(じきぎょうみろく)(一六七一〜一七三三)は、ともに伊勢の出身で伊勢信仰の影響をうけています。これは暗示的です。
 そこで、まず、「おかげまいり」が「ぬけまいり」ともいわれたことに注目したいと考えます。この二つは、同じ意味で用られました。
「おかげまいり」が「ぬけまいり」といわれたのは、封建的支配関係、すなわち主従関係や家族関係に、身分的に束縛されている民衆が、自主的にそれを「ぬけ」で、断ち切ることを意味していたからです。それは、明らかに封建制下での、民衆の一種の自己解放であった、ということです。この「自己解放」に関しては、現代の山登りにもその方向性として、あてはまるのではないか、という気がしています。

現代の「おかげまいり」

 二番目には、「おかげまいり」と「世直し」思想との関連です。「おかげまいり」には、早くから「世直し」的思想がともなっていた、といわれます。「世直し」が最も明瞭にあらわれてくるのは、百姓一揆の過程において、でしょう。しかし、この百姓一揆と「おかげまいり」の関連については、人によって意見の分れるところです。つまり、「おかげまいり」が、民衆の闘争エネルギーを発散させる「代償」の役割を果したという見方があり、一方では、そうではないとする人がいるわけです。
 ぼくとしては、どちらかというと、前者はとりたくありません。前者の意見の根拠となっているのは、「おかげまいり」の年には米価が下がっており、一揆も激減しているという事実です。しかし、それだけが納得させうる根拠とはならないと考えます。
 むしろ、「おかげまいり」のような民衆の大移動は、人びとの社会的視野を広めることに役立ったはずですし、それは、「一揆」をより組織的、計画的なものにするのに役立ったのではないでしょうか。
 戦後の日本で、「このおかげまいり」にたとえられるような、民衆大移動が起りました。一九六五年の開国(外貨の自由化)後の、外国旅行ブームです。それは、明治以来、日本の支配者どもが、「御神体」としてまつりあげたヨーロッパへの「おかげまいり」であったかも知れません。
 それはちょうど、「おかげまいり」がそうであったように、「支配者があがめるもの」を民衆の側へうばいとろうとする運動であった、といえます。一九六五年の開国後の、ヨーロッパ・アルプス・ブームは、そういう意味をもっていた。つまり「アイガー東山稜神話」への「おかげまいり」は、同時に、それをうばいとり、崩壊させるための行動であったといえます。
 また、「労山」の行なった、百人をこすヨーロッパ・アルプス集中登山は、まさに現代の「おかげまいり」「講」登山ではなかったでしょうか。そして、「ヒマラヤ・トレッキング」あるいは、ヒマラヤ登山ブームも、こうした文脈の中で初めてとらえ得るのではないか、と考えています。

大塩平八郎の富士登山

 「おかげまいり」の、封建制下での、人民解放運動としての側面については、すでに述べました。ところで、それは同時に、「日本民族形成運動」でもあった。これが、三番目です。
 こういういい方は、かなり誤解されやすい。「日本民族」などといういい方は、かなり特別のイメージをもたされてきたということです。
 しかし、民族の自主的な統一に、宗教がからんだのは、歴史の必然みたいなものでした。「事実、世界史における近代の形成過程においても、宗教改革運動がブルジョア革命に重大な役割を果している。つまり、宗教改革運動とは、中世的封建的宗教にたいする改革であり、民族的な宗教形成の運動であった」のです。
 ところが、わが日本においては、これがすべて、「天皇の祖先神にたいする、庶民の回帰運動」というふうに、歪曲されてしまいました。
 たとえば、「我が国体に対する庶民の自然発生的な自覚的、復古的運動」として、「おかげまいり」をとらえるというのが、これにあたります。
 こういうとらえ方が、戦中的皇国史観に立つものであるのは明らかです。しかし、伊勢信仰が、近世に至るまで、国民のあるいは民族の信仰であったことなど、一度たりとてなかったのですから、「回帰運動」などというのは大ウソです。
 さて、先ほどちょっと述べましたが、「富士講」も「伊勢講」とならんで大きな「講」です。富士山は、日本では一番大きな山であり、また美しい山です。そして、近世後期に入ると、この富士山にたいする人びとの関心が異常に高まってきます。こういうことも、日本人の民族意識の高まりと関係があると思われます。
 こうした「おかげまいり」に見られる。民族宗教への胎動は、時の支配者には歓迎されませんでした。とくに、「富士講」は、幕府から再三再四弾圧されています。
 この幕府の抑圧政策を、神道信仰が「尊王」と結びつくことを幕府がおそれた、と見るのは大きなあやまりです。それは、神道信仰が人民階級を自主的に結合させつつあることにたいする恐怖であった、に違いありません。
 さきに本居宣長が、「おかげまいり」に関心をもたなかったと述べましたが、一つには、こうした幕府の抑圧政策にも、大きな原因がある。支配者は、民衆エネルギーと知識人の結合を、もっとも恐れていたからです。
 そして、こういう状況をふまえて初めて、ぼくに、大塩平八郎(一七九三〜一八三七)の行動が理解できます。
 彼は、一八三三(天保四)年七月、前年より、もう天保の大飢饉が始まり、各地で一揆・打ちこわしが起っていますが、富士に登り、自著『洗心洞剳記(せんしんどうさつき)』を納めているのです。
 四年後に彼は、いわゆる「大塩の乱」を起しますが、その時の檄文、つまりアジビラの裏に、伊勢神宮の御礼をはりつけて、これをばらまいています。
 さらには、幕末に無数に行なわれたと考えられる、国学者、文人の登山も、一つにはこうした社会状況の中で、とらえらるべきだと思うのです。
 すでに、問屋制商業の広汎化とマニファクチァーの部分的完成が、プルジォアジーの成立を可能にし、ここに、登山を登山としてのみ楽しむ人びとが多数いたことは当然としても、そうした社会背景にのっとった考察が、どうしても必要だと、ぼくは考えるのです。

『新宗教の発明』

 民衆の自己解放運動であり、「世直し」の欲求をはらんだものであり、自主的な宗教改革連動でもあった「おかげまいり」は、慶応の「ええじゃないか」一八六七(慶応三)年、で終息します。
 この時は、各地に「おふだふり」があり、それも、お礼のみではなく、神像、仏札、仏像、時に十七、八の美女がふったり、生首がふったところもあったと伝えられています。また、小判・金塊がふったり、唐人の家には石がふったりしています。これは、おそらくデマであって、こうゆうことが、京都方の謀略説が生れるところなのでしょう。
 そして、この時のは、各地ともその土地の踊りが中心であったことが、以前の「おかげまいり」と大いに異なるところです。さらに歌われる歌の文句が、また大いに露骨であったことも、その特徴でしょう。
 たとえば京都では、「ええじゃないか、ええじゃないか、おそそに紙はれ、破れりゃ又はれ、ええじゃないか、ええじゃないか」と歌ったといいます。
 そしてこの狂乱のうちに、反幕府方のクーデターが成功して、いわゆる「大政奉還」が行なわれたわけです。そして、この直後、国家の最高機関としての神祗官設置が明らかにされ、新政府の神道国教政策が発表されます。
 しかし、政府によって組織されていった「国家神道」は、けっして民衆が期待したようなものではなかった。それは、絶対主義君主としての、天皇の権威をうらづけるための、神道信仰のおしつけだったのです。
 ここにおいて、三百年の近世封建時代を通じて、民衆が生活の中から育ててきた、人民的な民族宗教は、歪曲され挫折してしまいます。
 同時に「おかげまいり」の伝統も、抹殺され、忘れられてしまうことになったのです。
 そして、ここで行なわれた、未完の維新は、民衆にとっては、幕藩による支配から、天皇による支配への移行にすぎなかった。それは丁度、インドの説話のごとく、鉄の籠からだしてもらったと喜んだ小鳥が、気がついたら、こんどは銅の籠に入れられていた、というようなものだったのです。
 だからこそ、維新政府は、この銅籠の正当性を、北は奥州から南は九州まで、民衆への布告でくりかえし呼びかけねばなりませんでした。
 一天子様は、天照皇太神宮様の御子孫様にて、此世の始より日本の主にましまし、神様の御位正一位など、国々にあるもの、みな天子様より御ゆるし遊ばされ候わけにて、誠に神さまより尊く、一尺の地も一人の民も、みな天子様のものにて、日本国の父母にましませば…‥(明治二年月「奥羽人民告諭」)ー
 これに対して、もちろん民衆は大抵抗を試みます。いわゆる「自由民権運動」です。しかし、悲しいかな、政府の方が強かった。後にも述べますが、明治の政権は、外国人顧問に多くのアドヴァイスを受けていました。
 フランスのとくに進んだ憲兵制度、ドイツの弾圧立法などの、欧米の最新民衆コントロール技術が、直輸入されて利用されました。
 この時、民衆弾圧の指揮をとったのは、松方正義内務卿でした。(この人の子息が、最近おなくなりになった、日本山岳会や日山協の会長を務めた松方三郎です)
 彼は、明治十四年から大蔵卿になり、全く破たんしていた、明治財政を立てなおします。この成功の秘密は、ヨーロッパ諸国が行なっていた「植民地からの収奪」方式を、日本民衆の大多数をしめていた、農民、小市民に適用したところにあるとされています。
 松方財政は、「ここ数年の間に数百万の小豪農・自作農をおしつぶし、六十万戸に近い農家を解体させ、五万社に近い小会社を倒産させて、死骸の山を戦車でひいてゆくように勝利のうちに驀進した」(中央公論社『日本の歴史21』)のです。
 かくして、明治の新政権をゆるがせた「民権運動」も息の根をとめられてしまうのです。
 こうして、完壁なまでの、日本天皇制は確立することになります。
 小島鳥水が、「チェンバレン先生の名は、明治早期の登山時代に、いち早く、しかも鮮明に、掲示された先駆者の標札である」(こういういい方のでたらめさについては、後に述べますが)として紹介した、B・H・チェンバレンは、ことの本質を見ていた、とぼくは思う。
 彼は、英国で天皇制批判の本を出版し、それに『新宗教の発明』という題をつけました。そして、この中で次のように書いているのです。
 一日本政府の官僚たちが、自分の利益のために天皇を神にまつりあげ、国民をして政府に盲従せしめる奸策を弄した。(中略)日本の学者は、日本の起源が伝説のような古いものではないとよく承知しているのに、政府がそれを許さないので、かれらはいわない。いえば、妻子が飢えるほかないからだ(「盗みの考現学」P一二五)

「ウェストンの宗敦登山観

 さきに述べた、チェンバレンは、一八七三(明治六)年、海軍大学講師として来日しました。彼もその一人なのですが、明治維新後、実に多くの雇われ外人がやってきます。初期の明治政府は、自分たちの力不足を、彼等の力でおぎなおうとしたわけです。
 その大半が技術関係であったのですが、その数は、わが国の技術陣が自主性を確立する明治十八年までに、のべ三千人以上に達したといいます。
 当然、外国人による登山が行われることになる。日本の山はもう、十分に登られていたのですから、彼等にとっては、一つの旅行にすぎなかったはずです。
 日本アルプスが、「白紙の山岳地、暗黒の秘密国」(小島烏水)などというのは、誇張もいいとこで、烏水が初めて槍ヶ岳へ行った時には、槍の穂にはくさりまでついていたのです。おまけに、彼はどうやら、喜作に案内さして、引っぱりあげてもらいながら、それをひたかくしにしたらしい、という人もいる位です。
 だいたい、小島烏水という人は、かなりけしからんと、ぼくは感じています。がまあ、それについては別の機会にゆずることにします。
 話をもとにもどして、外人による登山が増えた、あるいは相対的に増えた、ということには、それなりの理由が考えられます。
 当時は、激しい民衆運動の高まりがあり、明治新政権はゆらいでいました。その状況の中では、外国人は別として一般民衆は旅行できなかったということです。
 たとえば、一八八一(明治十四)年、横浜駐在アメリカ総領事ヴァン・ビュレンは、次のように述べています。
 彼は、日本の政治体制の中に「古い絶体主義の一特質だけは厳として存続している。それは全人民にたいする警察の監視である」とし、「こうした監視はきわめてきびしいので、日本人は当局の許可がなければ、旅行はおろか、他県で眠ることさえできない」と述べているのです。
 ウェストンも、二度目の富士登山の時(明治二十六年)、「野暮くさい紺の制服をきた日本の巡査」にとめられ、その「のっそりとした公安の番人」に旅行許可証の呈示を求められ、制止された経験を語っています。
 さて、これらの外国人は、日本の宗教登山をどう見たのでしょうか。
 ぼくも、極めて調べ足りませんが、たとえば、ウェストンの『日本アルプスの登山と探険』を、パラパラとめくっただけでも、次のような興味ある記述にぶつかります。
 一富士には毎年何千という巡礼が宗教的な熱情と結びついた登山の醍醐味を求めて登山する……(傍点は当方)(第十章)一
 −日本の巡礼はほとんどいつも信仰に名をかりた物見遊山の性質をおびているので、こうゆう騒がしさを生ずるのである。こうゆう東洋の山岳団体は、ヨーロッパのいわゆる山岳会とは組織が違っている(第十三章)ー
 彼は、宗教登山は登山でないなどと、少しも考えていないではないですか。さらに、
 一道中にくわしい経験者が先達に選ばれる。これは一種の案内人であり、世話役である。その点、クック観光団の案内人に似ている(第十三章)ー
 さらに決定的には、これはもしかしたら、訳の間違いかも知れませんが、ウエストンは、御嶽開山の祖のことを「登山家」と記しているのです。そして、この「普寛霊神」の名をしるした一枚岩の碑を見て、シャモニにあるモン・ブランのパルマ(モン・ブランの初登頂者)の記念碑を想い出すのです。
 どうです、みなさん。ウェストンは、実に素直で冴えた観察者ではなかったでしょうか。
 ぼくたちは、ある偏見にみちた、固定観念を吹きこまれていたのではないでしょうか。そして、そういう偏見を流布したのは、誰であったのか。それは、あばき出されねばならないと、ぼくは考えます。 (つづく)
(たかだ・なおき)

スポーツ神話について

スポーツ神話タイトル
登山と「神話」その1 スポーツ神話について

スポーツ登山について
 先頃、『ノストラダムスの大予言』という本が、話題になったことがありました。何人かの若者から、この本についてのコメントを求められ、しぶしぶ読んでみたわけです。
 あんまりバカバカしい内容なので、途中でいやになりました。あれを感心して読んだ人がいるとしたら、頭の程度が知れるかも知れません。というよりか、あんなもののインチキささえ、正確に認識できない国民を作りだした、教育の責任が問われるべきです。
 最近では、「ユリ・ゲラー」に始まって、「念力少年」が巷の噂を呼んでいます。ぼくにとって興味があるのは、本当にスプーンは曲がるのか、インチキかそうでないか、そういうことではないのです。そんなことは考えるまでもない。「念力少年」がブラウン管の話題となり、人々の関心が、そんなどうでもよいことに集中することによって、喜ぶ奴は誰なのか。
 無意識的にしろ、そういう非科学的事象をデッチあげ、日常化しようと策しているのは、どういう人達なのか、そういうことに最も興味をもちます。照れ臭さをおし殺して、大上段にふりかぶっていえば、社会点視点とでもいえるでしょうか。
 さて、ぼくは考えるのですが、もともと、「山登り」というものは、実体としてはない。一つの抽象概念です。あるのは、山へ登る人間、生身の人間がいるだけです。同様に、「クライマー」などはなくて、クライミングする人間がいるだけです。「クライミングする人間」の最大公約数が「クライマー」のイメージとなって当り前のはずです。でも、どうもそうではない。クライマーのイメージは、適当に捨象・抽象され、美化された形で、クライムしようとする人間に押しつけられ、さらには、人々がそのイメージに向かって、かり立てられることになる。そうなっている状況を、ぼくは、「クライマー神話」があると呼ぶわけです。
 いやに傍観者的に、あるいは評論家的に述べていますが、ぼく自身、決してこういう「神話」から自由ではなく、それにしばられているようです。
 たとえば、「アルピニズムとは……」などと始めると、もうどうしようもありません。それほど、言葉の呪縛は大きいともいえるでしょう。これはまさしく「アルピニズム」神話です。このやりきれない、袋小路から脱出するため、ぼくは、去年の『山と渓谷』四月号に、「神話へのクライムから、内なる呼び声によるクライムヘ」の小文を書いたわけです。
 ところが、よく考えてみると、「内なる呼び声」そのものまでも、「神話」に犯されているようなのです。そうであれば、残る方法は、「神話」自体をじっくり見すえ、その偽瞞性をあばくしかない、と思うようになりました。やり方は、もろもろの「神話」を社会的視点でとらえることです。
 今回は、まず大前提として、「スポーツ神話」をとりあげてみたいと思います。スポーツとは

 スポーツをどう定義すればよいのか。これは、なかなかしんどいことで、ぼくは、のっけからもう、お手あげしたい位です。
 しかし、すでに述べたように、必死にスポーツの定義を考えても、ことの本質には近づけないかも知れない。あの「念力少年」の例と同じことです。「定義もできないくせに、スポーツを論じる資格があるのか」などというのは、一種のいちゃもんではないですか……などと、ここで開き直っておきます。
 さて、これまでに、そこかしこに見られる、スポーツの定義のほとんど、あるいはすべてが、全く方向性ゼロという特徴をもっている(方向性ゼロということほど、強烈な方向性はないのですが…)と、ぽくは思います。
 そもそも、「sportの語源は、ラテン語のdis-porterであり、それはcarry awayすなわち″実務から転換する″ことを意味していた。このラテン語は、後にフランス語のdisporterあるいはdepoterとなり、さらに英語のdisporterからSportへと変化してきた。」などという説明に、ぽくは何となく、『ノストラダムスの大予言』を連想します。
「古代ギリシャのスポーツは……」などと始まると、オリンピックを想いだして、気色が悪くなります。それに、この云い方は誤まっていると考えるべきです。古代ギリシャに行われた、闘争的な競技は、ぼくたちが用いる「スポーツ」とは、明らかに異質のものであるからです。
 ぽくが考えるには、「スポーツは、近代ヨーロッパ社会において生みだされた、だから近代的性格をもった運動の様式」といえます。
「近代ヨーロッパ社会」という中には、二つの要素があります。その一つは、資本主義社会であり、自由競争の時代であったということ。いいかえれば、能力主義と「弱肉強食」「適者生存」のダーウィニズムの思想が主流を占めていた。
 これは、当時のブルジョアジーの思想です。ブルジョアジーというのは、これが、二つ目の要素になりますが、貴族階級をうち倒して、成立した人々であったということです。貴族階級に独占されていた「遊び」を奪いとることが可能になって、始めて、「スポーツ」が成立したわけです。この点が、極めて重要なスポーツの方向性だ、とぼくは考えるのです。大衆化への方向性とでも云えましょう。
 しかし、この方向性は時代の主人となった「ブルジョアジー」によって、むしろ逆転させられます。そして、能力主義や適者生存の論理は、そのまま、スポーツの世界に反映し、閉鎖的に自分達を守るものとなったわけです。

スポーツ登山

「スポーツ登山」などという言葉は、おそらく、というよりか確実に、日本独自のものでしょう。どうしてこんな言葉ができてきたのでしょうか。少々興味がわきます。
 色々の推測は可能でしょう。たとえば、それ以前の探検登山とはちがうという意味で用いられたという解釈。あるいは、登山から始まって、スポーツ登山→アルピニズム→スポーツ・アルピニズム→スーパー・アルピニズムという直列的配置に位置づける考え方。または、より困難をめざす登山という並列的な見方。まあ色々ある。
 ぼくたちは、戦前の天皇主義教育では、物事を一面的にとらえることを強制されていました。一見新生したかに見える戦後の教育に於ては、かなり意図的に、こんどは、無方向に多面的なとらえ方を並べたてられ、困惑してつっ立っている状態です。行動につながる明快な論理をもてないでいる。そして、みんなが考えるように、みんながしているように、ということになってしまうのです。一見民主的のようでいて、決してそうではない。
 だから、ぼくはここで、そういう色々の解釈を並べたてる気持は毛頭ありません。極端にいえば一つのことに関して、百の解釈・百の論理が可能なのです。問題は、そのどれが正しいかではなく、どの階層に立って、どんな方向性と視点でもって、そのどれをとるのか、ということだと思うのです。
 さて、話をもとにもどして、スポーツ登山ですが、こう云い方を始めたのは誰で、どこで使ったのか。そういうことの詮索は、ヒマな人にまかせておきましょう。興味があるのは、この云い方が生れたのはどういう時代であったのかということです。
 それは一次大戦(大正三年)以後だったと、ぼくは考えています。それはどんな時代だったのか。この頃の状況を、歴史本から、いくつかピックアップしてみましょう。
 明治三十六年、十三歳で旋盤工の徒弟となり、大戦後に、労働運動のリーダーとなった野田律太は、こう書いています。
「日本兵器会社はロシヤ注文の弾丸の一部を作るのであった。数が大量なのと期限が切迫しているのだから仕事のやり方は激しいが、能率の上げ放題でいくらでも金を出すのだ。私は十二時間死物狂いで働き十五円稼いだことがあった。ここの労働者は、遊廓やカフェー、レストランでは福の神のように歓迎された。私はこの時代に貯金というものをしたが、百円、二百円とトントン増えて六百円になった」
 つぎは、東京下谷の貧民窟にすみ、労働者の味方を自任した演歌師・唖蝉坊のノンキ節は、こうです。

我々は貧乏でもとにかく結構だよ/日本にお金の殖えたのは/そうだ/まったくだ/と文なし共の/話がロハ台でモテている ア、ノンキだね
 南京米をくらって南京虫にくわれ/豚小屋みたいな家に住み選挙権さえもたないくせに/日本の国民だと威張ってる ア、ノンキだね
 膨張する膨張する国力が膨張する/資本家の横暴が膨張する/おれの嬶ァのお腹が膨張する/いよいよ貧乏が膨張する ア、ノンキだね
 というような状態だったのだけれど、一方では私鉄網をもった都市ができあがり、デパートができました。サラリーマンが主人公になってきた。
 円本ブームが生れ、映画館もでき、競技場・球場もできた。つまり「遊び」が解放されてきた、とも云えるわけです。
 山本茂実は、少しザツではありますが、次のように書いています。
——長年かかってようやく築きあげた明治の経済基盤の上に迎えた第一次世界大戦の余波は、日本に突然の経済好況時代をもたらす。そこにできた国民経済の余裕は一面に学生山岳部を育てた。時あたかも探険期を終ったばかりの北アルプスはこの学生山岳部の活躍に手ごろな玩具を提供した。——
 スポーツ登山がいわれだしたのは、こういう時期だった。

登山のアマチュアリズム

 スポーツは、明らかに輸入されてきた、ということについては、異論はないはずです。
 はじめは、エリートに完全に独占されていたのですが、明治の終り頃になると、そういう状態から脱し始めてきます。
 夏目漱石の処女作『我輩は猫である』には次のような所があります。
「吾輩はベースボールの何物たるかを解せぬ文盲漢である。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、今日の中学程度以上の学校に行なわれる運動のうちで最も流行するものだそうだ」
 この『吾輩は……』は、明治三十八年一月より『ホトトギス』に連載されだしています。また、これより四年前の明治三十四年十一月には、「時事新報社」の主催する競歩大会が行われています。これは、午前四時から午後四時までの十二時間に、不忍池のまわりを七六回歩こうというものだったようです。
 どういうわけで七六回などという数をきめたのか分かりません。とにかく、優勝したのは、七一回歩いた人力車夫の安藤初太郎だったといいます。
 こんな風に、明治の終りにはすでに、スポーツが、新聞社が主催したりする形で民衆に解放されつつあった。
 ところが、こういう風潮をニガニガしく思う考えが顕在化してきた。エリートもしくはエリートと自ら任ずる人達の間に、です。これが、つまり「アマチュアリズム」というわけです。そして、この「アマチュアリズム」は、先ほど述べたように第一次大戦後、「遊び」が民衆に解放されてくる頃になると、極めて強烈となってきます。
 この辺の流れを、日本のアマチュア規定にみることにしましょう。
 日本最初のアマチュア規定は、明治四十四年のものです。抽出して書きますと、年令十六歳以上。学生・紳士たるに恥じないもの。中学校・あるいは同等学校の生徒、卒業生。中学校以上の学生等々です。
 二年後の、大正二年のものでは、中学校の生徒とか学生とかの規定はなくなっています。
 ところが、大正九年になると、全く唐突に「脚力を用ふるを業とせざるもの」という規定が入ります。どうも、その頃になるとマラソン競技には人力車夫や、牛乳や郵便の配達夫が参加し、しかも、上位を占めることが多かったようです。これが、さきの規定が生れた理由らしい。
 つまり、アマチュア規定は、「資格」規定のような体裁をとった、「身分」の規定であった。もっと端的にいえば、「労働者閉めだし」の差別規定であった、ということです。
 たとえば、当時の体協の副会長、武田千代三郎は、次のように述べて、その差別意識をあらわにしています。

——今の選手と称する者自己の品格を重んぜず好んで野郎なる服装を為し、自己の威儀を顧みざること下層の労働者と択ぶ所なきもの多し(傍点は当方)——
 こういう感覚は、当然、山の世界にもあったはずです。「スポーツ登山」を行っていた人達は、そういう感覚をもっていた。
 加藤文太郎が、学生たちに、どうしてあれほど冷たくされたのか。普通は、彼が単独行という、一般的ではない形式をとっていたからだ、とされているようです。でも、これは疑問です。たとえば、大島亮吉は、すでに大正十五年に、G・ウィンクラーを紹介しています。また、伊藤愿も単独行でした。
 やはり、文太郎は労働者であったが故に、白眼視されたのだ、とぼくは考えています。
 現在では、社会も変りました。なるほど、「下層の労働者と変らない」などというようなひどいことを、云ったり書いたりする人は、いないかも知れません。でも、少し鋭敏な神経さえ働かしておれば、こういう意識で物をいっている人が、けっこういることに気づくはずです。
 第二次大戦後、日本の山は、ほぼ完全に大衆に解放されたようです。山における「アマチュアリズム」は消滅したかに思えます。しかし、よく考えれば、決してそうではない。
 この身分差別的発想をもつ「アマチュアリズム」は、新憲法の下でも生きつづけているようです。
 そして、いわゆる「アマ・プロ問題」となって噴出し、最近では、「海外登山推薦基準」となって姿を現わしたのだと思うのです。

スポーツマンシップとは「強者」の論理

 かつて、誰かが、山登りに関して、こんなことを書いたのを、読んだ記憶があります。
「山登りでは、本当に登頂したかどうかは当人しか分らぬ。それを信ずる所に山登りが成立つ。これは、山へ登る人がスポーツマンであって、そのフェアプレーの精神を人々が信じているからなのだ」と。なるほどそうかも知れません。でもこの説明、どうも儒教臭い。
 よく引用されるところですが、池田潔は、スポーツマンシップについて、『自由と規律』に次の様に書いています。

——さてスポーツマンシップとは、彼我の立場を比べて、何かの事情によって得た、不当に有利な立場を利用して勝負することを拒否する精神、すなわち対等の条件でのみ勝負に臨む心掛をいうのであろう。(中略)無論、対象が人間とは限らない。イギリス人の愛好する狐狩では、必ず狐に逃げ切る可能性のあることを前提条件としている。この逃げ切る可能性をスポーティング・チャンスと呼ぶが、この語が彼等の日常生活のあらゆる面に融け込んでいる事実が、彼等のこの点についての深い関心を示している。——
 高校生の頃、この本を一生懸命よんで、なるほどなあ、と感心した記憶があります。
 でも、今はそうはいきません。ほんまかいな、と思います。「狐に逃げ切る可能性」があれば「対等」だって。バカにするな。狐も銃を持ち、ハンターも同等に撃ち殺されることがあって、始めて対等ではないのか、と思います。 なるほど、そうか、スポーツマンシップとは「強者の論理」だったのか、と思います。
 このことを裏づけするように、この本の著者は、次のようにつづけています。
——正当に立向う力をもたないものに対しては刀を打ち込めないのがこの精神ではあるが、今更、外来語を持ち出すまでもなく、かつてわれわれの祖先が刀にかけて尊重してきた大らかな精神と相通ずるものであり、決して珍らしいものではないのである——
「われわれの祖先」という所を、「武士階級」とおきかえると、よりはっきりします。「刀狩り」などやって、刀をとりあげておきながら、「大らかな精神」でもないでしょう。
 さて、スポーツマンシップが「強者の論理」だということは、考えてみれば、極めて当然のことかも知れません。というのは、前にもいいましたように、スポーツは「ブルジョアジー」の作ったものですし、彼らを支えたのは「弱肉強食」の論理だったからです。「自然淘汰説」を中心とするダーウィンの学説があらしのような歓迎をうけ、潮のような勢で普及していった時代に生きた人々によって作られたのがスポーツだったのです。
 ところで、この現代にまで流れる大思潮「ダーウィニズム」を作ったダーウィンです。彼が『進化論』の発想を得たのは、「ビーグル号の世界周航」であったことは、よく知られた事実です。この三年半にわたる船旅の間、彼は八回、船をはなれてのエクスペディションを行っています。極めて興味があると、ぽくが思うのは、彼が至るところで、高い山に登ろうとしていることです。
——このようにして未知の領域を探険しながら至るところで、少しでも高い山をみつけると、必ずその頂上まで達しょうとして、あらゆる努力をはらっているのである。高いところに立てば、そうしないよりも、はるかに広い土地が見わたせるから、登山は探険の一方便であるともいいうるが、彼はまたそうすることによって、はじめてその頂上に到達した人間になるという、一種の虚栄を満たしうることをも否定していない(世界の名著『ダーウィン』中央公論社)——
 イギリスに、アルパイン・クラブが結成されるはるか以前のことでした。〈はじめて頂上に到達した人間になる〉という、登頂へとかりたてる欲求、つまり登山を支える一つの欲求を、ダーウィンがもっていたわけです。面白いことです。そして、「適者生存」「弱肉強食」の論理を作ったのもその当人、その論理を反映しているのがスポーツです。そのスポーツの中で少々特殊と見られているのが「登山」だ、ということになっています。
 少し強引かも知れませんが、もしかしたら、登山は、スポーツの中で特殊なのではなく、極めて本質的なのだ、ということになるかも知れない。
 つまり、登山には、極めて強烈に、スポーツにおける「強者の論理」が反映しているのではないか、と思うのです。
 そうであってみれば、「強者の論理」が告発されている今日、登山もまた問い直される状況にあると云えます。

スポーツと儒教道徳

 先の項の冒頭に、フェアプレーの精神の儒教的解釈による山登りの説明を引用しました。あの場合、「フェアプレー」が意味するところは、「ウソをつかない」ということのようです。
 でも、ウソをつかずに、スポーツなどできません。「トリック・プレー」は、それ自体「ウソ」ですし、ルールを破るところに、スポーツの面白さもある。こういうことが、一切指摘されないで、「フェアプレー」がいわれるところに、ぼくは、まやかしの「神話」を感知するわけです。
 大分前になりますが、NHKの『国盗り物語』で明智光秀が面白いセリフをはく場面がありました。
 家臣の一人が、光秀に「検地帳」を見せながら、「農民は田地を偽って少なく報告しているに違いない。隠し田を探し出して罰するべきです」といいます。すると光秀はこういうのです。「武士のウソは、知媒といわれる。坊主のウソは方便となる。農民は何といえばよいのか。捨ておけ」と。
 話がとぶようですが、フランスで、十二世紀から十四世紀にかけて生れた、物語詩『きつね物語』を引用します。
 これは、きつねのルナールが、悪知恵を働かして、おおかみをやっつける話なのですが、まさに始めから終りまで「ウソ」「計略」「トリック」に満ちています。そして、この物語詩は、おおかみが、「やはりだまされた俺の方が悪かったのだ」というところで終るのです。当時、貴族と僧侶という特権階級に抑えつけられていた民衆が生みだした作品です。
 ついでにもう一つ。『リーマスおじさん』。これは、アメリカ南部の黒人に伝わる民話を集めた本です。これも前のと同じく、弱者が強者に立向うには、「ウソ」しかないことを、主人公のうさぎの行動をかりて語っています。
 さて、日本ではどうでしょうか。同じような民話があったはずだ、とぽくは信じています。しかしその全部が、抹殺されるか、あるいは完全に変形されてしまったようです。それをやったのは、おそらく、明治政府だったのでしょう。読者のみなさんが、何を馬鹿な、とおっしゃるかも知れないので、例をあげてみます。
 まず、有名にして、なつかしい、あの『かちかちやま』から。
 あれは、柳田国男説によれば、二つの部分が合体され、合成されたものだといいます。もとの部分は前半で、後半はつけ足された部分というわけで、何の理由もなく、人間の味方となって仇討をしたりする、正体不明のうさぎが現われます。
 もとからあった部分の前半も、大分変えられています。こういうことは本題ではないので詳しく述べられないのが残念です。一部を述べてみますと、もともとは、捕えられた狸が、おばばをだまし、じいさまに「ばばあ汁」を飲ませてから正体を現わし、「流しの下を見てみい。ばばあの骨があるぞ」という残酷物語なのです。
 狸の側にも、やらなければ自分が喰われるということを認めたうえでの、極めてきびしい民衆の思想がおり込まれていたと考えられるのです。
 つぎは『はなさかじじい』をあげます。これももとはといえば、「枯木に花を」、つまり「死を生に」あるいは「無から有を」という、不可能を可能にしたいという民衆の素朴な夢が生みだした民話であります。そのとき、「枯木に花を」咲かすべく、話を展開さすうえでの舞台回しとして、二人のじいさんが登場するにすぎなかったのです。
 ところが、これを、「正直じいさん」と「欲ばりじいさん」に変形したのは、誰かの悪だくみとしかいいようがありません。
 大正六年にでた、武者小路実篤の『カチカチ山と花咲爺』をよんでみて下さい。現在復刻版もでています。何とまあと思われる位、「儒教道徳」がもり込まれています。
 学校教育においてはいわずもがな、あらゆる場面で、天皇制を支えるものとしての儒教道徳を、徹底して注入された結果、ぼくたちは、「弱者の知恵としてのウソ」等ということを、認めることができなくなった。あるいは、弱者の立場という発想すら、失われてしまったというべきかも知れません。
 中国では、大分以前から「儒教」について、「被支配階級の不満が高まった時期に、それを鎮めるべく説かれた思想」という定義がされていました。最近では、ある中国高官が、「これまでに中国が日本に迷惑をかけたものは、『儒教』と『漢字』だ」と述べています。
 日本の支配者は、この思想をもっと浸透させたいと思っているはずです。でも、まさか、あからさまに「儒教道徳」を鼓吹するわけにも行きません。そこで、スポーツが、最大限に利用されるのだと思うのです。「近代的な運動様式としてのスポーツ」と、全く何のかかわりもない、儒教的徳目が、スポーツの世界にどれほどあるか、一度考えて見るべきではないでしょうか。

「フェアプレー神話」と「ルール信仰」

 サッポロ・オリンピックの少し前に、ある事件が新聞で報じられました。
 強化選手の一人が、酒に酔って車を運転し、おまけに注意した人間を、ポカリとなぐったというのです。別に何のことはない。そこら中で起っている様な事件です。
 ところが、この場合はそう簡単ではなかった。かなり大きな問題にまで発展しました。
 この事件について、オリンピックの関係者も数人、コメントしていますが、ぼくが面白いと思うのは、その選手のつとめ先の上役の弁です。「スポーツ選手だけに、どうしてあんなことをしたのかと、びっくりしている」
 普通の人間ならともかく、スポーツ選手がまたどうして、というのです。彼は、スポーツ選手はこうした事件に最も縁どおいと信じていたのかも知れません。
 そして、こうした信仰は、おそらく、スポーツによって人格がきたえられているはずだから、という前提の上に成立っているのでしょう。
 でも、「スポーツが人格を高める」などというのは、「健全なる肉休に健全なる精神が宿る」と同じく、壮大なウソでしかない。
 勝つためには技をみがかねばならない。そして技をみがくだけでなく、自分に勝たねばならぬ。こういうテーマのスポーツマン物語が、それこそゴマンと作られてきました。
 こういう話の筋書は、ほぼきまっています。強いけれども技だけの、精神的には欠陥のある人間が、日本一、あるいは世界一の座をめざす主人公の前に立ちはだかるのです。そして、苦労はしますが、かならず人格のすぐれた主人公の勝で終ります。
 でもこれはあくまでお話しで、現実がそうなることは、まあないといった方がよい。現実がそうでないからこそ、ぼくたちは、「スポーツマン物語」を喜ぶのだと思うのです。同じ勝つなら、立派な、思いやりのある人に勝ってほしいという、民衆の願望なのです。
 さて、もう一度前にもどって、例の強化選手の場合を考えて見ます。彼がやったことは、飲酒運転と人をぶったこと。人をポカリとやった位ですぐ警察にひっぱられることはない。自分が悪いことをしておいて、注意した人をなぐるとは、という主に人格上の問題です。
 ところが、前者の飲酒運転は明らかに法律を破る違法行為です。つまり、あの上役の言葉の中には、スポーツマンがどうして違法行為をしたのだろう、という意味がこめられていると思われます。
 そして、この言葉には、さらに次の二つの意味が含まれています。一つは、スポーツマンは、ルールを守るフェアな人間であるということであり、いま一つは、スポーツのルールと法律とを混同している、ということです。
 スポーツのルールと法律とは、同じに考えられやすい。しかし、この二つは、全く異質のものです。局限された、非現実空間における、とりきめにすぎないスポーツのルールは、法律とは大ちがいです。
 けれども、この二つは混同されている。そしてスポーツはルールを守ってやるところに成立っている、と考えられている。これら二つのことが、セットされて、「スポーツマンがどうして…‥」ということになるのでしょう。
 これが一般人の見方であり、「フェアプレー神話」です。ところで、「フェアプレー神話」は、選手にもあります。
 国休の開会式で、選手が真剣な顔で宣誓します。「フェアプレーの精神にのっとり、正々堂々とたたかいます」と。彼はきっと、心から「フェアプレーの神話」を信じているのでしょう。その真剣な顔を見ると、ぼくは、すこし気の毒になってきます。彼は、国体の運営が、まったくフェアに行われていると信じているのかしら、あらゆるスポーツの組織が、いかにフェアでないか、知っているのかしら、と思います。
 さて、一般的にいって、スポーツマンは単純であるといえます。あんまりめんどう臭いことはきらいです。これは、スポーツ自体とも関係があるのでしょう。いちいち、みんなで相談して、ポールをパスしていたりしたら、ゲームになりません。
 そもそも、人間は環境の動物であり、習慣は性質となります。スポーツマン的性格が形づくられても不思議ではありません。それに、日本の場合スポーツ集団は閉鎖的な家族主義の中にあり、儒教的道徳をたたき込まれる仕組になっています。
 こういうことが、会社などで、スポーツマンが好評を得ている理由なのでしょう。言葉づかいがよく、はきはきしており、云いつけをよく守り、規律ある行動をするからだそうです。いってみれば、よく調教されているということです。
 高校のホーム・ルーム等で、何かを決めるべく討論しているとき、「こんなことはどうでもいいではないか。先生にきめてもらって、外でソフトボールでもしよう」といいだすのは、きまって運動部の生徒です。
 彼等は、スポーツのルールを、自分達で変えてみんなが楽しめるようにしよう、などとは決して考えません。ルールは不変で、守るべく存在するという「ルール信仰」をもっているようです。おまけに、スポーツマンシップとしての強者の論理も持っている。
 スポーツというものが、こういった「ルール信仰」や、「強者」の論理を含んだ、いわゆる「健全な精神」を育てるとしたら、これは大きな問題といわねばならない。
 そして、スポーツが本質的に持つ矛盾が問い直されないまま、「国民皆スポーツ」などということが、一方的に叫ばれる今日、ぼくたちは、鋭い目を持たねばならない、と考えるのです。

「スポーツ神話」と「アルピニズム論」

 スポーツは、それ自体純粋である、ということがいわれます。表現を変えて、もっと端的にいえば、政治から離れて存在しているのが本来のあり方である、という主張です。
 こうしたスポーツの非政治性の主張は、それを誰がいっているのかによって、その内容が大きく異なっていることに気づく必要があります。
 たとえば、IOCや日本体協が、そういうときには、「大会や競技会に、金だけはふんだんにだして、それ以外の口出しはするな」という意味をもっている。ブランデージといえども、国家つまり政治が、オリンピックに金をだすことを否定したことはないし、もしそういうことになれば、オリンピックが開けなくなることぐらいは百も承知のはずです。大会に消費されるお金は、もともとぽくたちのだした税金ですし、国民のスポーツ要求を保障していくのは、政治の任務なのですから、政治が口出しして当然です。一方、ぼくたち国民が、スポーツの純粋性や、非政治性を叫ぶのは、政治が国民の要求を無視しつづけてきたという、政治不信に根ざしていると考えるべきです。
 言葉を変えていいますと、きわめてささやかな最低限の願いである「遊び」の世界にまで、政治が介入してくることに対するいきどおりが、そういわせるのでしょう。そのいきどおりが、政治の介入を拒否しようという主張となるのだと考えます。
 さて、前の方で、もしかしたら、山登りは極めて本質的に、スポーツであるかも知れないと述べました。そういう意味あいからも、この「純粋性」「非政治性」が、もっとも強くいわれるのも、山登りではないか、と思えます。
 こういう内容を含んで、山登りの世界では、いわゆる「アルピニズム論」が存在する、とぼくは考えています。
 日本ほど、「アルピニズム論」のさかんな国はない、ということがよくいわれます。今までに、実に数多くの「アルピニズム論」があり、それらは、その時々の時代を反映して、色々変化してきています。しかし、一定して変らないものがある。それは、「アルピニズム論」なるものが、社会的視点、あるいは方向性をもたない、一種の「登山至上主義」の中で論じられていたということです。
 たとえば、「高山は、地球の上の、一つの別世界である」という考えがあります。別世界といっても登るのは、生身の人間で、別人間というわけではない。それを、あたかも真空のガラス鐘の中にあるかの如くいうのが「登山至上主義」です。
 また、「つまるところアルビニズムの精髄は、自己の生命力の根源につながるもので、下界的な虚飾とは無縁な存在であろう」などというのも、おなじ発想で、一つの幻想です。
 ルネ・デメゾンが、「人間が機械に支配され、、事務所に釘づけになり、金銭を崇拝し、自らを奴隷状態に帰しているような、〈金〉がなにより力があるようないまの時代…‥」という時代認識をして、「豊富な経験と最良の準備さえあれば、登山の危険は完全にのぞくことができるなどと思い込むことは、空中楼閣を描くのに等しい。アルピニズムは、明らかに危険なスポーツである」と述べてもそれはそれだけのことです。「デメゾンだけに云えることだ」くらいで片づけられてしまいます。たかだか、生命保険の団体加入がいわれる位が関の山で、たとえ「危険なスポーツ」であっても、その「スポーツ」を行なう権利を保障すべきだ、というような主張など、生れる余地もありませんでした。
 最近、この雑記の33号に、二つの「アルピニズム論」がのりました。どちらも明快で、かなりの共感はおぽえましたが、同時に、あるおぞましさをも感じました。
 たしかに、美化された「神話」におどらされている自分に気づいたとき、その怒りを込めた主張は、ニヒルになり、アナーキーになる。変にモラリスティックな考えによって、真実がかくされて、「たてまえ」だけがまかり通っていることが腹立たしくなったら、主張は暴露型にならざるを得ません。だから、ぽくには、あの 「ニヒリスティック・アルピニズム論」あるいは「アナーキー・アルピニズム論」はよく分かります。あるいは、肯定的な意味あいでの、ポルノ的な「アルピニズム論」といえるかも知れない。しかし、これまでの「アルピニズム論」と質的には同じです。
 ただ、こうした「アルピニズム論」がいわれだしたところに、ぽくは、自由化へのたてまえとはうらはらな、管理社会の進行と、時代の閉塞状況を感じるのです。
 そして、そうやって、怒りを「アルピニズム論」にぶちまけたところで、何の質的転換をも得られない。高貴とされてきた「アルピニズム」を、実はくだらなかったのだと暴露し、「永遠にくだらなくあれ」と絶叫しても、それはそれだけで、何物をも生みだしはしないと思います。
 どうしてかというと、これらの「アルピニズム論」を生みだした怒りが、未組織の怒りであり、個人の「遊び」を守ろうとする怒りに止まっておって、国民全体の「遊び」の権利を守ろうとするような怒りになっていないからなのです。
 やがて、こうした怒りが、国民全体という視野と展望の中で組織され、結集されるという状況が生れたとき、まったく質的に異なる「アルピニズム論」が生れるかも知れない。あるいは、「アルピニズム論」は消滅し、末期症状ともいえる、この「山登り」というスポーツが、新しく蘇えるかも知れない、と考えるのです。(つづく)
(たかだ・なおき)

西パキスタンの旅 最終話「幻の峠を求めてーエピローグー」

サーブ、結婚しろ
幻の峠5 極度にやせた、ハラハリ氷河左岸のサイドモレーンのナイフリッジをたどる。
 リッジの右側はモレーン壁の原型をとどめ、その底には小さたアプレーション・バレー。
 左側はスッパリと切れ落ち、その侵食壁の下には、大小の岩石におおわれたハラハリ氷河が横たわる。
 そして、その約1000mの氷河幅の向こうには、壁に小さな懸垂氷河を引掛けた岩峰が連なっている。
 5000m峰だ。登るとすればかなり困難な登攣となるだろう。
 アルプス、コーカサスの峰々はその壁という壁が登りつくされているというのに、ここでは、その頂上に立った者さえいないのだ。
 私たちが、このぜいたくな景色に、悦に入っていると、30kg近い荷を持ったフェルドースが、振り向きざま、
「サーブ、この道は俺たちしか行けぬ」と口をとがらせて話しかけてくる。ウルドーをいうときだけそうするのが、彼のクセらしい。
「どうだサーブ、サーブはしあわせか」確かに連中のバランスは素晴らしい。とてもガブラル村のポーターの比ではない。
 しかし、この押しの強さはどうだ。彼らの個性の強さもまた、カブラルの連中の比ではない。
 フェルドース、今度は中村の方を向くと、まったくヤブから棒に「サーブ、ハラハリ村で結婚しろ」
 「中村があっけにとられて、ポカンとしていると、フェルドースは右手を差し出し、人差指に中指をからませたサインをした。そしてさらに、それに左手の人差指を当てがった。
 中村は少々怒り、赤くなり「トゥム、アッチャーナヒーン」(君はよくない)」と叫んだ。
 私たちは、「そうせい、そうせい。なかなかええ娘がおったやんけ」などとはやした。
 彼は、自称、パキスタン娘にモテるのだ。たとえば、インダスルートへの途中、カローラという部落に泊まったときなど、女の子が後ろについて回るので、小便するのに困ったそうだ。もっとも、そういう光景を私たちは見てはいないのだが‥…・。

 七月二十三日、私たちはハラハリ村のポーターたちと一緒に、ハラハリ氷河を登り、峠を目ざしていた。
 同行のポーター六人。
 アブドラーマン(六〇)、ビリアムカーン(三〇)、ムシュラップカーン(二八)、フェルドース(二五)、サドバル(二五)、サダップ(二五)。
 みんな屈強の男どもだ。ひとクセもふたクセもありげなつらがまえである。
 私たちは、ビリアムカーンにさっそく、〈悪役〉というあだ名をつけた。彼は、まさに西部劇の悪役の顔をしている。
 例外はフェルドース。彼は金持ちのぼんぼんタイプのやさ男だ。
 ビリアムカーンは、ハラハリ村の実力者の一人だ。ちなみに、彼の財産はヒツジ二〇〇頭、ウシ八頭、ウマ二頭。
 もう一人の実力者は、シェール(六〇)であって、彼の所有するヒツジは三〇〇頭。
 こういうことは、もちろんのちほどの定着調査で分ったのだが、たとえば、フェルドースとムシュラップカーンは、このシュール派に属する。
 シュールの娘は、フエルドースの妻である。シェールの妻は、ムシュラップカーンの姉マルジャン(四〇)だ。つまり、この二人は、シュールの義理の息子であり弟なのだ。
一方、ビリアムカーン派に属するのは、サダップとサドバル。
 サダップの母親は、ビリアムカーンの父親アダル・ハーレツク(七〇)の妹である。つまり二人はいとこ同志だ。サドバルは、ビリアムカーンの使用人である。
 このどちらの派にも属さないのが、アブドラーマンである。

誇り高い山人

幻の峠5スナップ 四〇才の妻に、三人の子供。一番上の子供はまだ一〇才だ。一番下は二才。この子供を抱いた彼の目からは、あの鋭さが消える。
 若いころ、多くの氷河の旅を行なったシカリー(猟師)仲間は、病気や氷の割れ目に落ちたりして、もう一人も生きてはいない。だから、自分だけが、この峠越えの道を知っているのだ、と彼はいった。
 彼は、誇り高い山人なのだろう。村では、他の村人とはほとんど離れていて、ともに談笑することもなかった。
 この峠越えで、彼は、私たちの荷物を運ぶことを拒んだ。持たせようとするビリアムカーンに、彼は憤然としていった。
「ワシはジャマダール(リーダー)だ。お前たちのアタ(小麦粉・食糧)はワシが持つ。それ以外は何も持たない」
 このときのことを根に持っていたのか、ビリアムカーンは、サイドモレーン上の休憩のときに、こういった。
「こんな峠越えなんぞ、簡単なもんだ。俺一人でも行ける」
「なんじゃと」やはり、彼は、かん高い声を上げて、ひらきなおった。「ワシが先導しなくて氷の割れ目を進めるというのか。よし、それならお前先頭に立て!ビリアムカーン」
 ビリアムカーンは、シュンとして黙ってしまった。
 間もなく、サイドモレーンはつきた。ポーターはここで泊まりだといった。4050m。
 なるほど、このあたりが厳密な意味での植物限界なのだ。アブレーション・バレーの向こうの岩壁には、小さな灌木がある。ポーターたちの貴重な燃料だ。
 その木を取りに、岩壁を攣じるサダップ。たくみなクライムを、サーブたちは感心して眺めている。
 サドバルがいい声で歌をうたう。〈シーリンジャーナー〉、彼の十八番だ。シーリンという美少女を歌ったものだ。その一節。〈川がある。そのほとりにシーリンが立っている。少年がやって来た。彼はいう。手をお出し。手をとって渡してあげよう〉
 基線測量をようやく終えると、すぐに夜がきた。
 午前四時、「サーブ、サーブ」ポーターたちがテントをたたく。着のみ着のままで一夜を明かした彼らは、三時から起き出して、寒さに歯を鳴らしていたという。
 早くしないと雪がゆるんで危険だ、急げ、とさんざんせかされたけれど、羽毛服を着込んだサーブたちは、紅茶を飲んで、いやにゆっくりとテントをたたんでいる。明け始めた氷河の白に、モレーンに立つポーターたちのシルエットが美しい。
 六時出発。
 すぐ氷河へ。ものすごく早いピッチ。私たちは必死で後を追う。トップに立つアブドラーマンは、手に細い木のツエ、足にヒツジの革を巻きつけただけのいでたちで、凍雪を踏んで行く。
 突然、彼が雪にうづくまった……と見えたのは誤りで、ヒドン・クレバスに落ち込んだのだ。
 やがて、朝日が雪を赤く染め始めた。
 ふと気がつくと、もう氷の壁が目前に迫っている。でも、峠はどこにあるのだろう。

マナリ・アンに立つ

 高度4200m地点で休憩。パドルの水を飲む。出発のとき、ポーターたちは、手を天に向けて、アラーに祈った。ごく自然に私たちもこれにならった。
 急に、右手のはるか上に、岩の切れ目が現われ、峠が見えた。ハラハリ氷河はそのどんづまりで、直角に右に曲がると、急激に峠にのし上げていた。
 アブドラーマンは、セラック帯の立ち並ぶ氷塔めがけて、一文字に進んだ。
 それは、私たちのルートファインディングの意表をついていた。だが驚いたことに、彼の前には、常にルートが展開した。
 クレバスにはスノーブリッジがあり、スノーウォールにはレッジがあった。
 クモの巣のように走るクレバスをぬって、それは、まさに動物的なルートファインディングとしかいいようがなかった(しかし、この点について疑問を感じた関田が、のちほど問いただした結果、彼が数週間前にこのルートを通ったことが判明した)。
 そして、ときどき、彼は手オノを振って、カッティングを行なった。
 手オノのカッティング、とび散る氷片、切り出された足場にゆっくりと置かれるヒツジの革を巻きつけた足‥…・。私は、何か、失われたショウを見る気持で眺めていた。
 高度にして200mほどのセラック帯を抜けると、あとは坦々とした雪の登りが続いていた。
 ホッとした私たちは、ここで初めて、ゆったりとくつろぎ、ハラハリ氷河右岸の峰々を眺めた。
 そのとき、「サーブ」とアブドラーマンが語りかけた。「ワシは、サーブたちに金でやとわれて案内したんじゃない」彼の声はいつものようにキンキンとはひびかず、低かった。
「あんた方はワシたちの友達になれると思ったんだ。それにサーブたちは、ウルドーが話せる。何年か前にも、よその国のサーブに頼まれて、一日五〇ルピー出すといわれたが、ワシは断った。こんな危ねえ所へ、気心の知れねえもんと来るなんて、いくら金を積まれてもゴメンだね」
 私たちは、雪の白に区切られた蒼穹の底に向かってあえぎ登った。その蒼色の円弧は、いつとはなしに広がり、やがて、ポチリと突起が現われ、次々と向こうの山の頂がせり上がってきた。ラースプールの山々だった。
 私たちは、知られざる峠、マナリ・アンに立って、これらの山々を見ていた。10時半だった。
 この景色を眺めるのは、私たちが最初だな、とふと思ったけれど、特に感激したわけではない。
 マナリ・アンは、西パキスタンの旅のエピローグであった。そして、ハラハリ村の連中との叙事詩的な交わりの中の、一つのエピソードにすぎなかった。(おわり)

西パキスタンの旅 第13話「幻の峠を求めてーハラハリ氷河とマナリ・アンー」

 偵  察
幻の峠4 ベースキャンプ建設の翌日、安田はポーターたちと、この放牧地にいる羊飼いをつれて、早朝から偵察にでた。
 昼まえ、テントで寝ころがっている私の所へ、羊飼いのミヤシールがかけもどって、安田からの手紙を手渡した。

羊飼いのいう水のあるキャンプ地につきました。高度3810mです。
その地は、右岸のサイドモレーンと、支谷(ラスプール氷河へとちがう方)のモレーンとにかこまれ、凹地になっています。水は池の氷河水です。
ここまで二時間かかります(昨夜のキャンプ地より)。しかしここにくるにはサイドモレーンの急な斜面をトラバースするか、サイドモレーンぞいにくるかの方法しかありません。いずれの方法も少し荷物をもったポーターには危険かと思います。
水もあまりよくないし、ここから稜線への行動も前進キャンプを必要とすると思います。ただ、この支谷を登るのならいい場所ですが、本谷(ラスプールの谷)の方へは、昨夜のキャンプ地でもよいのではないかと思います。
ポーターは現在サイドモレーンの端でまたしてあります。この地をベースにするかどうかまよっています。バラサーブがくるか、それともその地で判断して、この男にいうかどうかして下さい。
安田(以上原文のまま)

と、メモ用紙にボールペンで、ゆがんだ活字のような、彼独特の字がつまっていた。
 昨夜の打合せで、この場所は、前のサイドモレーンにさえぎられて何も見えない。本谷が見渡せる場所の方が、峠越えのルートも見つけやすかろう。できれば、キャンプを上方へ移動させよう、ということになっていた。
 私は、安田の手紙を読んで、その場所を見にでかけることにした。
 ほとんど氷河の末端近くを横ぎって、対岸のモレーンに行く。モレーンの末端近くには、ポーターたちであろう、いくつかの黒点が見え、はるか上手には、三つの人影があった。そこが、キャンプ予定地らしい。
 私は、そこをまっすぐに狙って、氷河を斜めに横断することにした。
 それは、想像以上にホネだった。私はまるで、砕石の山を行く、一匹のアリのようだ。
 大小の、まだ大地よりけずりとられたばかりの、鋭く角ばり、とがった岩が、不安定に積み重なり、進行をはばんだ。
 私は、この氷河をつめるルートとしては、サイドモレーン以外にないことを、身体で感じていた。

峠はある!

幻の峠4マップ そのキャンプ予定地は、本当に見晴らしのよい所であった。安田と、シカリーのジアラッド、ポリスのガザン・カーンの三人は待ちくたびれて、氷河を吹きおろす風にふるえていた。
「ええ場所やなあ」私が、感嘆していると、ガザン・カーンが激しくわめきだした。  彼のプシュト一語は私には全然分からない。でもときどき混ざる、ウルドーだけが聞きとれた。
「………カプラー(衣服)……チャトリー(靴)……サルディー(寒い)……‥」 「私たちには靴も服も寝袋もテントもない」と、ジアラットがつづけた。「サーブたちはいいが、私は寒い。寒くて眠れないだろう。ここには暖をとる木がない。彼はそういったのです」 「それでお前もそう思うのか、ジアラッド」と、私がいうと、彼はまっすぐに私を見上げた。彼の眼は、なぜか物悲しげに見えた。「あなたが行けといえば行く。帰れといえば帰る。ここは寒い。でもサーブがここに寝るといえば、私は寝る。他の連中もそうする。
誰にも文句はいわせない。私たちに寒い思いをさせるのも、そうでなくするのもあなただ。サーブ自身の判断だ(サーブカ・アプナーマルジー)」(私たちは、引返したのであるが、もしどうしてもここにテントを移すことにしたら、どうなったろう。これは大変興味深い設問であるが、これについての考察は他稿に譲りたい)
 その日の午後、ベースに帰りついてから、私は羊飼いのミヤシールに、峠越えの道案内人をさがすように頼んだ。今日の偵察の結果、どこを見ても、峠らしきものは見いだせなかった。
 だが、必ず、峠はある! その峠はシルクロードの昔から使われていたはずだ。そして、それを知らないのは、いわゆる先進国の文明人だけであって、現地の人間にとっては、昔からの使い古された、生活の路にすぎないのだ。
 そういうものを、発見だ、初踏査だとは何たる独善であるのか。アメリカはコロンブスが発見する前から、アメリカ・インディアンにとっては、自分たちの住む領土であった。そう考えたとき、アメリカの発見とは、何という空々しさなのか。
 とにかく、ミヤシールは、「明日、その男を連れてくる」といったのだ。

ハラハリのポーター

 翌日の朝、テントの外がさわがしくなった。ファキールが私を呼びにきた。ハラハリ村の連中が登ってきていた。
 ファキールにジアラッド、ハラハリ村の八人と私は、車座になって、岩の上に座った。私は、テープレコーダーをONにすると、話し始めた。
「ここからラスブールへ行き、またここに帰ってくる。何日必要か」「ジャーネーカドゥー。アーネーカドゥー。ジャーネー、アーネー、チャールディン、ホーガー(行き二日、帰り二日、行き帰り四日だ)」小ぶとりの爺さんが、早口でいった。「でも、一〇日かかるか、一五日かかるか、あんたたち次第さね」
「それで、一日何ルピーをお前たちに与えるべきなのか」と、私が聞くと、すでにファキール等と相談してあったらしく、すぐに答えた。
「一日二〇ルピー。サーブ、道は非常にキケンだ。分かるか」老人は、サマジギャ(分かったか)を連発しながら、キンキン声でまくしたてる。「氷の割れ目を飛ぶんだ。分かるか。あのルートを知ってるのは俺だけだ。分かったか。二〇ルピーより安くはできない。分かったか」
 老シカリー(猟師)のアブド.ラーハマン(六〇)。ボーとした感じだが眼光は鋭い。彼は若いときから何回も、ハラハリ峠(KharakhariGali一彼はマナリ・アンをそう呼んだ)を越えており、約一五回におよぶ。
 彼がいなかったら、私たちのマナリ・アン越えは、成功したかどうか疑問だ。少なくとも、倍の日数はかかったろう。
 とにかく、結論として、ここでハラハリ村のポーターに切りかえることにした。
 ガプラル村の連中では、とても無理だ。彼等もそれをよく知っていて、この決定を内心喜んだようだ。
「俺たちには無理だ」とか「俺は行くのは恐しい」などということは、彼等のプライドが許さない。特に、一段低く見ているハラハリ村の連中の前では……。
「一緒にラスブールに行きたかった‥…」と私がいうと、ファキールは、あのくぼんだ眼をククッと見開いて、
「サーブ」と私を見つめ、それからハラハリ村の連中をねめまわしながら、「もし奴等がよくない行動をしたら、ガブラルに帰ってそういえ。俺はただじゃおかない」と、すごんだ。
 高橋幸治みたいな顔をした、ムシュラップ・カーン(二八)が、「ティークタ、ティークタィ(分かった、分かったよ)」とコーヒスタニーで答えた。なんと、彼等にとって三つや四つの言語を話すのはごく普通のことだ。
 ウルドー、プシュトー、コーヒスタニー、ゴジリー。四つの言語が入りみだれた談合は一時間も続いた。
 その日の正午、私たちは峠越えに向かった。ベースを張って二日後、七月二十三日。予想外に、すばやい出発であった。(つづく)

西パキスタンの旅 第12話「幻の峠を求めて−−ハラハリ谷−−」

ラースプールヘ……
幻の峠3
 八時四五分、私たちはラブリを出発した。今日はキャラバン最終日。いろいろの波乱が予想される。
 昨日どなったのがきいたのか、コックのアリカーンは、驚いたことに、今日は荷物をかつぐらしい。
 ポーターへのデモンストレーションに、ひとつ体操をやろう、ということになった。大きなかけ声に驚いたのか、ポーターたちはポカンとしている。彼らが手を天に向けて、今日の安泰を神に祈っているのに、私たちは、不粋な準備体操なんぞをやっている。二時間ばかり、ぐんぐん高度をかせぐと、ハラハリ谷の豪快なゴルジュを抜ける。

 ファキールが、ニワリと笑いながら、またしても、「サーブはラースプールへ行くんだなァ」という。このセリフを、彼は昨日から連発している。ファキール独特のゆっくりした口調で、本当に腹の底から発声する。彼ならシェークスピア劇の役者でも、充分こなせるだろう。
 あんまり何回も聞いたから、私たちは今でも、ほとんど正確にまねることができるくらいだ。これを文字に表わすのは困難なんだが、たとえばこんな風になる。
「サァーブ、ラァースプール、ジァアエガァー(サーブはラースプールへゆくだろう)」
 私はこたえて、「君たちもまたラースプールへゆくだろう(トゥムローグ、ビヒー、ラースプールジャエゲ)」
 こんなやりとりをして、笑い合っていると、ジュマカーン(二五)が足元の雑草をひきぬいて、「食え、食えるぞ」という。
 シロウマアサツキのような草だ。球根がドングリくらいに、可愛らしくふくらんでいる。手で泥をこすりとってかじると、ダイコンみたいな味がした。
 ヒカゲチョウがとんできて、安田のネットをからくものがれると、岩壁にそって一目散に舞い上がり、見えなくなった。

 ゴルジュを抜けると、谷は大きくひらける。まったく想像もつかないくらいに、大きくひらけるんだ。右手の岩壁の上の方に、氷河が、ひっかかったようにたれ下がっているのが見える。
 スノーブリッジで左岸に渡るとすぐ、石づくりの家一七戸。ハラハリ村である。
 集まってくる大人子供に、ジアラッドが、大いばりで説明している。
「サーブたちは、地図をつくりにラースプールへゆくんだ。サーブほ何でも紙に書きとめるんだぞ。どうだ。石ころまで写真に写すんだぞ」
 いっぽう、ファキールはプリプリ怒っている。
「こんな所では昼飯を食う気にもならん。まったく悪い連中だ。紅茶に入れるだけのミルクもくれない。それどころか一〇倍近い値をふっかける」
 彼にせかされて、私たちは出発した。一人の男がヒツジを首にまわしてかつぎ、後ろからついてくる。「四〇ルピーでないと買わないぞ」、ポリスのガザン・カーン(三〇)がキンキン声でいう。
「ナヒーン、アスィールピヤーン(いいや八〇ルピー)」、そういいながらも男はついてくる。
 ベースについたらヒツジを食べよう、と私は昨日からいっていた。ファキールはだんどりよく、ヒツジを買う交渉を始わていたんだ。八〇ルピー(六〇〇〇円)とは、倍の値じゃないか、とファキールはふんがいしている。

賃金の支払い

幻の峠3スナップ ハラハリ村を出て、一〇分とゆかないうちに、踏跡はダケカンバの疎林を過ぎる。ダケカンバの上限だ。三三三〇メートル。ポーターたちはここで茶をわかし、チャパティーを焼く。
 ここから、安田と中村が先行して、ベースの位置を選定することにした。その前に打合せをやった。ポーターの貸金支払いについてだ。もめごとが起これば安田が受けてたち、理論的にやり合う。状況の展開に応じて私が適当にわって入り、まとめるという役割分担だ。
 私たちが打合せをやっている間も、一方ではヒツジの交捗がつづいている。男はいぜんとして、八〇ルピーを主張しているらしい。ファキールはやってくると、「サーブ、いくらなら買う?」と聞いた。
 別の男がやってきて、上の方に放牧してあるのを売るといっている。それなら、ベースのあたりにいるのだから都合がいい。
「五〇ルピー以下なら買おう」と私はいった。
 四時、ベース予定地につく。ハラハリ氷河の末端と同じくらいの位置で、三六八〇メートル。左岸のアブレーションバレーに設営、気持よいキャンプ地だ。
 すぐ貸金を支払う。順調に終わりそうだ。ここから帰る八人のポーターは、三〇ルピーとボクシス(チップ)のレッドランプ二本(一本約一円のシガレット)をもらって喜んでいる。
 まだあどけなさの残る、モカダール(一五)などは、大喜びでタバコに火をつけたとたん、おそらく初めてだったんだろう、激しくせき込んで、フラフラしている。
 突然、ジュマカーンが、激しくアジ演説を始めた。
そしてみんなの賃金をまとめると、私につっ返してこういった。
「帰りに二日かかる。もう二日分の賃金が支払われるべきだ。そうでなかったら、金はいらない」、まったく予想していたとおりのことをいいだした。
「それでいくらほしいんだ。荷物なしでも一日一〇ルピーかい」と私。
「いや帰りは二日かかる。二日で一〇ルピーだ」
 いよいよ安田の出番だ。「第一日目、出発は昼だった。君たちは半日しか働いていない。帰りに二日というが、半日だ。明日昼には帰りつけるはずだ。だから今渡したのに、帰りの賃金は含まれていることになる」
 ジュマカーンも決して負けてはいないが、安田はこの論理を泰然とくり返す。ジュマカーンは相手悪しとみたか、今度は私に向かってくる。私はウンウンとうなずくだけ。ファキールに相談して、それでいいだろうというので、五ルピーの追加で話をまとめた。
 ポーターたちは、ケロリとして、握手を求めると手を振りながら、小走りに下り去った。

ヒツジを屠る

 さて、今度はヒツジの交渉だ。ファキールにまかせておいたら、みんなでワイワイヤっているばかりで、いっこうにらちがあかない。
 どうなっているのかと首をつっ込んでみると、五〇ルピーに五ルピーを上乗せしろ、いやだめだ、ということでもめているんだ。
 運び賃として五ルピー追加しろ、というのだが、ここに放牧されていたヒツジをほんのー〇〇メートルばかり歩かせて、運び賃五ルピーとは理不尽な、というのが買手のいいぶんだ。
 ところが、ヒツジ飼いのミヤシールにすれば、彼はハラハリ村のヒツジを管理しているだけで、自分のものじゃない。買手が村で値を五〇ルピーと決めてきた以上、自分の取り分は全然ない。ともかく五ルピーくらいはいただかねば……というわけで一歩も後に引かない。運んだ距離など問題じゃない。
 さて、買い手の心情はどうか。ポーターたちにすれば、サーブは五〇ルピーなら買うといった。たとえ五ルピーにしろ、超過したから止めた、というかもしれん。もしそうなったら、待望の肉とも泣き別れだ。何とか値切らねば、と必死になったらしい。私が、「いいだろう」といったとき、ポーターたちは、歓声をあげんばかりだった。
 黒い毛の、まるまるとふとったヒツジを、背、腹、首となぜまわし、肉をつまみ、「モタ、モタ(ふとってる、ふとってる)」とつぶやいたガザンカーンの、あのよだれの出そうな顔は、本当にみものであった。

 哀れな動物は四人の男に力づくで頭を西に向けて横たえられた。「アッラーホッアクバル、アッラーホッアクバール……(アラーは偉大なり‥…・)」 ファキールが唱える。
 彼の手の、刃渡り二五センチのナイフがキラリと光り、ヒツジは一種形容し難い悲鳴をあげて、四肢をケイレンさせた。
 首なしのけものの切り口から、鮮血が流れ出て、まばらに生えた草を染めた。しかし、その血の色は、忍び寄る夕闇の中で、いやに黒ずんで映った。  (つづく)

西パキスタンの旅 第11話「幻の峠を求めて−−ガブラル谷−−」

ポーターとの接し方
幻の峠2 キャラバン出発の朝。ポーターたちが集まってきた。11人。10人といっておいたのだが…‥。一人一人名前と年をきく。みんなが、30歳、25歳、20歳、15歳で、その間の16とか23とかはない。すべて推定年齢ということだ。
 そのとき、息せききって、駆けつけた男がいる。
「サーブ俺はどうなる。行ってもいいのだな。俺は行くぞ」例の男だ。一昨日、初対面で、大いにうり込み、茶店では、私たちに茶をふるまったりした。
 私たちは、ポーターは彼がひきつれてくるとばかり思っていた。ところが、集まった連中の中にあの馬面が見えないので、不審に思っていたところだ。
 自分も、仲間10人を集めてやってくるつもりであったが、つい朝ねぼうをしてしまった。自分一人だけでもそう思って駆けつけたという。
「アブゥ。お前は駄目だ」ポーターのファキール・モハメッド(三〇)が、ドスのきいた声でいう。
「アブとは何だ。俺のなまえはアブドゥル・ワ・ドゥールだ。俺は行くぞ、ファキール。サーブとおととい約束したんだぞ」アブの顔は真剣そのものだ。ファキールの方は、アブドゥルがムキになるので面白がっている様子。
 二人がいい争っていると、鉄砲を持った男−シカリー(猟師)のジアラッド・ファキール(三〇)一がよく通る声でいった。
「やかましい、アブドゥル。お前が行くか行かぬかは、バラサーブの判断だ(バラサーブカマルジー)」
 ポーターたちは、急にシンとなって、みんなが私の顔を見た。
 「アブドゥル。行きたいというなら、一緒に行こう」
 できるだけ、おおように構えること。パタン人ポーターに対するプリンシプル第一。こせこせ口出ししたり、けちけちした態度は感心しない。(ただし、これは相手のいうなりに金を払うということではない。むしろ値切るときには徹底的に値切るべきだ)
 第二。命令してはならない。
 だから私は、アブに「お前をやとう」とか「ついてこい」とかいわずに、「一緒に行こう」といった。
 第三。対等に扱うこと。決定を下すうえに彼らの意見をきく。キャラバンの泊まり場などは、完全にまかせる。必要日数だけきめておけばよい。パタン人のような、特に個性の強い連中と接するには、無原則というのが一番よくない。そう思って、以上の三つを、パタン人ポーターに接する三原則とした。
 もちろん、このプリンシプルがどこまで妥当で、どれほどうまくゆくか、それは疑問だ。みんなで検討して、間違っておれば訂正し、足らなければつけたす。これは、そんな最初の手がかりにすぎない。
 そして、何回もの試行錯誤の末に、彼らにも、私たちにも納得のゆく、〈接触の原則〉が見つかるだろう。そうなって、私たちと彼らの間に、本当のラポール(人間的な信頼)が生まれ、私たちの峠越えも可能となるだろう。キャラバンは、こういう意味で非常に重要な期間なのだ。

スワットのデルスウ

 私たち四人とポーター一二人、それにポリス二人の総勢二〇名のキャラバンは、カブラル谷を進む。
 美しい谷だ。U字谷の氷蝕壁が、素晴らしい岩壁となって、タンネの木立を通して、両岸に展開する。道はずっと右岸ぞい。
 三時半、ひらけたメドゥに着く。
 シカリーのジアラッドは、荷物を置くとすぐ、銃を片手に岩壁の方へ忍んでゆく。銃声がしたと思ったらすぐ、二羽のノバトを下げて現われた。いい腕だ。狙ったら絶対はずさない。この日だけで、彼は五羽のハトをしとめた。すべて私たちの胃袋に入った。シカリ−をポータ−に加えたのは成功だった。
 彼は、荷物をかつぐときにはいつも、「シャッカニ、バッカニー」とかけ声をかけて立ちあがった。(これに特に意味はない。日本の「セーノー」にあたると思われる)「山にいることがうれしくてしょうがないんや、あいつ」関田はいった。「ほんまのシカリーや、あの顔見てみ、ニコニコしてよる」
 そして自分もまた、「シャツカニ、バッカニー」と彼のかけ声をまねた。
 その夜、私たちは、セリジャバと呼ばれる放牧地の草原で、大きなたき火をかこんでいた。ポーターたちは歌った。その単調で、乾いた旋律には、中央アジアの匂いがあった。
 ジアラッドは、銃をだいて、たき火から少し離れた岩の上にねそべっている。その、たき火に照らし出された姿を見ながら、中村がいった。「デルスウみたいや。スワットのデルスウ・ウザーラですネ、あいつは」
 ベースキャンプで引返すとき、彼はK2というタバコを五箱も、私にくれた。タバコが少ないのを知っていたのだ。
 いたく感謝した私は、ウトロートに帰り着くと、もう少し上等のウイルス一〇箱と靴下を返礼とした。
 すると、彼は今度は、ツキノワグマの毛皮をくれた。ますます感激して、私たちは双眼鏡を贈った。

コンサマーを叱る

幻の峠2マップ 翌日は、ハラハリ谷の出合、ラブリまで進んだ。ここからカブラル谷を離れ、ハラハリ谷に入る。ここで、カブラル谷について、少々述べておこう。
 ガブラル谷は、ほぼ北から南に下る、全長五〇〜六〇キロのU字谷である。
 この谷は、ゴジリー語(いままで報告されなかった言語と思われる)を話す人たちの生活圏である。二六〇〇メートル付近までは永住村。それより上流は夏村。
 夏、谷の残雪がきえると萌え出す牧草を追って、彼らは上流へ移動してゆく。谷の両岸には、このための夏小屋(あるいは移牧小屋)が、ほぼ一〜二キロおきに点々とつづく。もうみんな上にあがったあとで、すべて空家である。
 五時少し前、ラブリ着。
 石づくりの小屋が七つ。内五つは家畜用。人間用の一つに私たち、もう一つにはポーターが入る。
 ポーターたちは、もう二日目でかなり仲よしになった。一緒になってさわぐ。やっぱり、アブが槍玉にあがる。
 彼は初日は関田のお伴で、荷物は一六ミリ映写機と捕虫網だけ、意気揚々だった。けしからん奴だと、ファキールが、今日はたくさん持たせた。アブドゥルには面白くない一日であった。
「トゥム、アッチャーナヒーン(君は駄目だ)」と中村。彼にスケッチブックをあずけておいたら、どこかに置いてきてしまったらしいという。
「あしたは、アブで牝馬をこしらえようかい」今度はファキールがこういうと、怒ってとびかかった。でも半分ふざけてのこと。(このあたりでは獣姦がごく普通で、右の文句にも特別な意味があるらしい)
 アブについてはかなりわかった。彼は字が書ける。この辺ではすごいインテリだ。ポーターたちもー目おいている。しかし、ひとこと多いのと、オッチョコチョイが玉にきず。チャパティ作りの名人だ。おいしいチャパティが食べられるのは、彼のおかげだ。
 コックのアリカーン(二〇)はてんで駄目、何をしてよいのかわからず、ぽんやりしている。昨日もそうだった。
 明日でキャラバンは終わる。何かもめごとがおこるとすれば明日だ。私は、一ぱつ気合をいれた。「コソサマー(コック)!お前の仕事は何だ。いってみろ。荷物は持たず、メシも作らず、金だけもらうつもりか。今すぐ帰れ」
 私が急に激しい言葉をはいたので、アリカーンは驚いて、口もきけない。ファキールもジァラッドもうろたえた。
 私たちは、小屋に入って、ひそかにオンザロックを飲んだ。洒は極秘になっていた。
 回教徒にとって、酒を飲む者は悪人である。悪人に対しては、悪事を働いてもかまわない一これが彼ららしい論理かも知れぬと考えたからだ。
 明日は、いよいよハラハリ入り。少々ねつきが悪かった。
(つづく)

西パキスタンの旅 第10話「幻の峠を求めて−−プロローグ−−」

スワットはいい
幻の峠1
 スワットの沃野を、スワット河にそって遡ると、カラームに着く。
 マンキャル(5715m)がそびえる。
 「スワットはいいなァ」ここに着くまで、私たちは何度もそういい交した。いろいろといいのである。
 まず、道がいい。スワットのゲートを通ってからジープが揺れなくなった。
 次に眺めがよい……。山が見える。川が流れている。それも、赤茶けてひからびた、およそ川というイメージからほど遠い砂漠の川じゃない、本当の川だ。
 さらに、緑がしたたっている。コーランには、天国の形容として〈緑したたり泉の水流れる〉とある。砂漠の民にとって、これは本当に天国なんだろう。多くのパキスタン人が「スワットへ行け。スワットがいい」といった理由が、いまわかった。
 とはいうものの、緑があるということは、私たち日本人にとっては、彼らほど鮮烈ではない。
 たしかに、水田が広がるスワットに走り込んだとき、私たちはホッとした。そして、しばらくすると、少々退屈した。こんな所は、日本にいくらでもある。緑したたり、水が流れて天国なら、日本中が天国だ。
 道行く人々の目つきが、急に柔和になる。これは日本人の目だ。農耕民族の顔つきだ。誰かが少々の落胆をまじえていった。「なんや、日本みたいやんケー」
 ところで、そういう顔の人たちの中に、金髪で蒼い瞳の少女を見つけて、私はハッとする。そうだ。アレキサンダーだ。
 スワットには古い歴史がある。アレキサンダーや法顕も訪れた。シルクロードの山と谷だ。
 走り去る壊れた建物や塔を、ジープの窓から追いながら、あれは仏跡だ、これは仏塔だろうと考える。そしてもう一度「スワットはいいなア」と思う。

 このスワット地方を最初に訪れた日本隊は、京大の日パ合同登山調査隊。一九五七年のことだ。
 その後、一〇年間、ここを訪れる日本隊は絶えてなかった。一九六七年、京都教育大パーティは、ボンベイーウィーンの移動調査の途中、スワットに立ち寄った。そして、まったく記録のない、ガブラル河に入った。
 この隊の一人、土森さんは、私の友人でカラコルム・クラブのスタッフだ。私たちが遠征準備で、ウルドーのレッスンをやっている頃だったと思う。私は彼にきいた。「君今度行くならどこにする」
 彼は間髪入れず答えたものだ。
「そらあんた、スワートでっせ」

登山基地・ウトロート

 カラームから20km美しい渓流にそって走るとウトロートである。
 レストハウスに入るとすぐ、スバダール(村長)が、ピストルを肩からつるし鉄砲をもったお伴をつれて現われた。
 この辺の山を登るには、この辺のボスにあいさつをしないといけない。私たちは、カラームで、テシダール(郡長)を訪ねた。ところが彼は、ウトロートに出かけて、不在だった。だが、ここにくる途中、うまい具合に、テシダールのジープと行きあった。
「山に登るのでよろしく」私は、プレゼントのカッターシャツをさし出す。彼はジープの窓から、ニュッと手を伸ばして受取り、「そうか、カラームに着いたら、ウトロート・スバダールに電話しとこう」
 そこでスバダールの早々のお出ましというわけだ。
 彼は開口一番、「護衛の警官は何人必要か」ときいた。
「護衛なぞいらないと思う。どうしても必要なのか」と私。村長は答える。
「アプカ・マルジー(あたたのご判断で…‥)」そういわれると、こちらも不安になる。
「本当に護衛をつけないと危険なのか」
「そりや危ない」と、そばからレストハウスのチョキダール(番人)も口をはさむ。
「そんなら、必要ではないか。やっぱりつけた方がよいのだな」私が念をおすと、村長またしても、
「アブカ・マルジー」
 これには参った。何度かこんなやりとりの後、結局二人のポリスが同行することになる。
 このレストハウスは、一九六六年にできたという。シャワー、水洗トイレ付のツインベッドルームが三つ。ちょっとしたホテル並だ。
 チョキダールが二人いる。ジャッフル・カーン(二五)とバカタ・アミーン(三〇)。ジャッフル・カーンは、金髪碧眼。ピストルを自慢たらしくさげているが、蚊のなくような震え声でしゃべる。貧相な男だ。
 バカタの方は大男。男の子が二人ある。大きくなったら、学校の先生をさせたいといった。
 どういういきさつだったか、すっかり忘れてしまったが、ともかく、このバカタの背中を、「しっかりせんかい」とか何とか日本語でいいながら、私がポンとたたいた。
 とたんに、私の背中はグローブほどの大きな手で、バーンとたたき返された。
 これには驚いた。こんなことは初めてだ。なるほどここはスワットだ、と私は思った。ペシャワール州、スワット州などは、いわゆるパタン族の住むトライバルテリトリー(部族地域)だ。植民地時代、イギリスはついにこの地方を制圧できなかった。独立自尊。誇り高い人々なのだ。そして「目には目を」の鉄則が生きている。

幻の峠はある?

幻の峠1スナップ ジープで、ガブラル村まで偵察に出かける。レストハウスから五キロほど上流だ。ここがキャラバンの起点となる。
 たくさん男が集まってくる。
「ハラハリ谷からラスプールへは行けるのか」
「ジャーサクターハイ・サーブ(行けるよ旦那)」  色白で馬づらの男が進み出て、口から唾をとばしながらまくしたてる。「俺にまかしとけサーブ。それで人夫は何人いるんだサーブ」
「まあ九人か一〇人。ところでお前はラスプールへ行ったことがあるのか」
「いいや」すましたもんである。
「出発はいつなんだ。サーブ。俺は英語もドイツ語もフランス語もしゃべれるんだぜ」
「ちょっとしゃべってみろ」
「イングリッシュジャルマニーフレンチ、どうだサーブ」一気にいって、やはりすましている。漫才みたいな男だ。アブドゥル・ワ・ドゥール、三〇歳。名前からして面白い。私たちは大笑いした。

 いずれにしろ、このあたりで、ラスプールへの峠越えをした男はいない。ガプラル谷に関しては、土森君たちの調査でかなりよくわかっているが、その支谷、ハラハリ谷に関してはまったく未知なのだ。
 ところで、ガブラル河の一つ西側の谷は、パンジューラ河である。
 この河をつめると、ショーヒパスを通って、ラスブールに至る。
 このコースは、シルクロードの一部であった。現に、法顕はこのコースでスワットに入った、と唱える学者もいる(もちろん異説紛々であるが、見方をかえれば、それほどたくさんのルートが考えられるということは、シルクロードが、このあたりで、たくさんの谷や峠を通って千々に分かれていたことを意味する)。
 とすれば、当然、ハラハリ谷よりラスブールヘの峠越えルートは、シルクロードの間道であったろう。そしてそれは、幻の峠一マナリ・アンかも知れない。
 私たちは、いろいろの情報集めや、作戦会議の必要を感じていた。しかし、パキスタンの生活になじんで、今はもう、せっかちな日本人でなくなつている。今夜にでも、飲みながらゆっくり考えよう。情報は明日集めよう。それより釣りだ。日のあるうちにジャコ釣りだ、とリール竿をかついで河に向かった。
 ガブラル河にはマスが放流されている。ここで釣りをするには、許可がいる。その許可証は、サイドシェリフ(スワットの首都)で発行される。私たちにそんなものはない。
 出かけるとき、「許可証はない。お前は目をつぶれ」というと、チョキグールのバカタは片目をつぶった。
 約二時間がんばった。一匹も釣れない。暗くなるので帰ろうとしたとき、ワッチマン(監視人)が現われ、まんまとつかまってしまった。「罰金一〇〇〇ルビー」という。平あやまりにあやまった。
 レストハウスに帰り着いて、私はいった。
「魚はつかまらなかった。そしてワッチマンが私をつかまえた」
 バカタは、手をパンパンとたたいて大声で笑った。 (つづく)

<高田注記>
この連載で、私はパキスタンの地域名ーSwatの表記に関して、スワートとスワットの両方を使っています。スワートなる表記はもっとも一般的です。この地域に最初に遠征した京大隊の本田勝一さんが、そう紹介したからだと思っています。しかし、この地方での現地のパキスタン人の発音は、明らかに「スワート」ではなく、「スワット」でした。そんなわけで、発音に忠実な表記としたのだと思います。

西パキスタンの旅 第9話「バブサル峠への潜行−−その1−−」

バブサル峠1
 バラコットで舗装が切れ、道が悪くなった。私たちのランドクルーザーは、頼もしい唸りをあげて山道を登る。いよいよカガン峡谷が始まった。関田と運転を交代する。もう午後四時だ。道はぐんぐん登り、ジェーラム河は、はるか下になった。
「さっきから、もう八〇〇メートルも登りました」高度計を見て、安田があきれたようにいう。カガン峡谷の壮大なU字谷は、あまりに大きく、対岸の山腹はかすんで見える。
 安田が道をにらみながら「今度はうまく行くのとちがうやろか」「分らんが、やってみんことには‥…」と私。

再度ギルギットを目ざし

 インダスルートで追い返された私たちは、いったんギルギットをあきらめ、スワートへ向かった。そして、本来の目的である調査・登山を行なった。限られた日数では、大した成果は期待できなかった。ところが、幸運にも、幻の峠といわれたマナリ・アン(四八〇〇メートル)の初トレースを行なうことができた(マナリ・アンは、私たちにつづいて、今年、富山の女性パーティが私たちとは逆コースで越えたと聞く)。
 この予想外の獲物をひっさげ、私たちは意気揚々ピンディ一に帰ってきた。
 もう八月の初めだった。知らぬ間に、パキスタンの二カ月が過ぎていた。そろそろバブサル峠(四二〇〇メートル)の雪も消えるころだ。私たちは、再度ギルギットを目ざしたわけだ。今度は、カガン谷よりバブサル越えだ(cf、山渓八月号)。
 もし失敗しても、カガン谷のマス釣りだけは楽しめるだろう。
 カガン谷は、インダスの支流、ジューラム河の源流で、イギリス統治時代に英人が放流したマスがおり、豪快なトラウトフィッシングが楽しめる。
 インダスルートの経験があるので、今回も密かに情報を探った。どこに関所があるかが問題だ。ゲートは、カガンとナランという部落にあることが分った。
 八月九日、アメーバ赤痢で弱っている中村をホテルに残し、三名はカガンへ向かった。
ー一こういう次第で、私たち三人は、今、カガン峡谷を遡っている。
 夕闇が迫ってきた。道は山腹を高く巻いている。テントがあるから、どこにでも泊まれるのだが、なるべく人目につかない場所がよいだろう。
 先ほどのバラコットでは、大騒ぎだった。注油のためにスタンドで停まったら、いつもの通り、たちまち黒山の人だかり。大部分が避暑客だ。そして、日本は素晴らしい国だとか、日本のカメラを送ってくれないかとか、例によって例の調子で、いいかげんうんざりした。
 おまけに、「何しにきたのか」などと開かれると、相手は何の気なしにいっていても、何となくいい気持がしない。「勿論魚釣りだ」と答える。すると「ナランに行くのだったら許可がいるよ」と教えてくれる。
 そんなことはくる途中で、スタンドやトラックの運チャンからも聞いている。つまり、カガンまでは自由に行けるが、道路許可証がないとそこのゲートが通れないのだ。
「ナランはならんか」
関田が、肩をゆすり上げるようにして、ハンドルをまわしながら、冗談をいった。誰も笑わなかった。

旦那、そこは危ない!

バブサル峠1マップ 暗くなってきた。道が小さな流れをよぎるあたりの平地で、幕営とする。一坪にも足らないが、道を別として、ようやく見つけた広場だ。まわりは、相当にせり立った岩場で、空は一部しか見えない。とぎどき雲が切れて、星がまたたくが、何とも陰気な場所だ。
 食事をすますと九時だった。紅茶を飲んで寝ようとしたとき、ジープがやってきた。
 私たちを見つけたらしく、人がやってくる。不吉な予感で、三人とも身を固くする。兵隊ではないようだ。こつちから声をかける。「サラームレイクム(今晩は)」「サーブ、イスカジャガー、ティークナヒーンヘー(この場所はよくないよ。ボホット、カタルナークヘー(大変危険だ)」
 理由を聞くと、雨が降るとどっと水がくる。つまり鉄砲水をくう場所なのだ。なるほど気をつけて見ると、草は生えていないし、水の流れた跡もある。私たちのいるのは、ルンゼの真中らしい。
 けれど、今日は、早朝から走りづめで、三人とも疲れている。確かに天気はよくない。しかし、今降るという訳じゃない。降り出してから移動しても、間に合うだろう。それに、この一トン以上もある車をはじきとばすほどの奴もこないだろう……。とかなんとか理由をつけて、私たちは眠り込んでしまった。
 激しい雷鳴とイナビカリに目が覚めた。あたりが真昼のように明るくなる。一面の霧だ。これはいけません、あわてて逃げ出す用意をする。十一時だ。
「これは、やっぱり、夜間突破せいという、アッラーの思召しでっせ」ねぼけ顔で安田がいった。
 こんな危険な道を、夜は走りたくはなかったが、こうなったらしかたがない。ばらつき出した雨の中を出発した。不思議と恐ろしくない。昼の方が怖かった。昼とちがって、ライトに照された道しか見えないせいだろう。一時間も走ったろうか。
 突然、道の上に人影が浮かび上がった。手を振っている。三人だ。
「サーブ、後生だから乗せていってくれ。カガンまで」
「ナヒーン、ナヒーン(ダメダメ)、場所がない」
「後ろに乗れるじゃないか。妹が病気なのだ」
「よく見てみろ。後は荷物でいっばいだ。ダメだ」
 取りすがるようにしている二人の男を振り切って、また走り出した。
「歩いてカガンまで帰るんか。朝になるやろな」関田が気の毒そうにいった。でも本当に後部は荷物でいっぱいだし、私たちは、今そんなことにかかわってはおられない。
「女がおったな。あれは、あの男の嫁はんやろか」と関田。
「ちがう、妹やろ。バーヒンといったと思うで」
「俺はバーイと聞いた。だから弟が病気や、ゆうたんや」
「すると、あの女はおふくろで、物凄いおばあかも知れんな。なんせ、アトミックみたいなブルカしてよるさかい、さっぱり分らん」
 この危険な道を夜走ることと、前途の不安で、無口になっていた私たちは、急にほがらかになっていた。

シャバシュ!(やったぞ!)

 あ、車がくる。そう思って、ライトの光で区切られた岩鼻を曲がると、一台のジープが停まっていた。数人の男がせわしげに動いているのが、シルエットになって見える。大きな岩が道をふさいでいる。落ちてきたばかりらしい。男共は、路肩のガードレール用の石垣をこわして道幅をひろげようとしているのだ。私たちも手伝う。
 道から突き落とされた石は、ごうごうと音をとどろかせ、赤い火花を散らしながら、いつまでも落ちていく。今いる場所の高さを、改めて知って、足がすくんだ。.
 先方のジープは、ゆっくりと通り抜け、男共は「シャバシユ!シャバシユ(でかした)」と歓声を上げている。
 今度は私たちの番だ。さっきから、関田は問題の個所をライトで見ていたが、「こらあきまへん」と沈痛な声でいった。
 見ると、石積の一番下が大きな埋め込まれた石であったので、それを除いた跡が大きくえぐれ、路肩が欠け落ちていた。
 今通ったのはウイリスジープで、私たちのランドクルーザーよりはるかに小さい。よし、そんなら石を積もう。私たちはいくつも石を積み重ね、路肩をつくろった。男たちも手伝ってくれた。
 運転席に座ってから、大分ためらったが、意を決して発進した。運転席は山側なので、もしグラリときたら飛び出すつもりであった。何度かやり直しをくり返し、四輪駆動で、ソロリソロリと通った。
 外にいる関田の「アカン、アカン」という声や、安田の「後輪、一センチはみ出してます」という声を聞きながら、必死の思いだった。
 無事通過し終えたとき、私たちも思わず「シャバシュー!」と叫び声を上げていた。 (つづく)