17.一人旅は顔つきまで変える


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 朝寝坊して、昼前に出発し、岩を登って遊んでいたら、日が暮れました。岩場の下山路を手探ぐりで降って、テント場に帰りついたら七時でした。昨夜から、ぼくは、ここ、大原のコンピラの岩場に来ています。敬老の日で連休になる土曜日から、高校山岳部の連中が十五人程で合宿を計画したのです。岩登りですから、ほっとく訳にもゆかず、付添ってきました。
 この連載原稿に追われていたのですが、数日前から、中国登山協会親善訪日団が来洛して、レセプショソやらパーティーやら昼食会やらと、ニーハオ、カンペー、シェシェの繰り返しです。とても原稿書きどころではありませんでした。ぼくは、原稿用紙持参で、コンピラに来たんです。
 暗闇のテント場に帰り着くと、早速、ザイル二巻きを積み重ねて椅子を作りました。持参した丸い大型ゴミ箱を前に据え、ベニヤ板を置くと、机ができ上り。
 太い杉の木に張り渡した細引きに、ブタンガスのランプをぶら下げました。見上げると、亭亭とそびえたつ北山杉が、うす白く浮かび、さらに目をこらすと、黒々と茂った木棺のはるかその奥に、星が数個またたいているのがなんとか見てとれます。
17-1.jpg 生徒達は、ビーフシチューを作り始めたようです。テントに帰って来るなり花尻橋の方に向かったOBが、生ビールを買ってきました。つまみは、ぼくが持ってきた魚そーめん、酢だこに高知名産の「酒盗」。
 原稿書きは、しばらく中断して、ビールを飲むことにします。
 谷の瀬音がかすかにきこえ、虫のすだく声が澄んで聞こえてきます。あるともつかないかすかな風が、頬をなぜています。なんとも気分がよい。
 岩登りの疲れがあったのか、少しの生ビールは、急激に回り、ぼくは眠り込んでしまったようでした。少し湿った山土は、ひんやりとして心地よく、なんだか大地の霊気が、身体にしみ通って、全細胞が甦えるような気がする。やっぱり人間は、少し小石のあるゴチゴチとした地面に寝ないと、おかしくなるんではないか。フワフワの蒲団や、スプリングのよく利いたベッドなどに寝ていたら、頭までふやけてしまうのではなかろうか。なんだかそんな気がして来ます。
 だからぼくは、山に登ることよりも、山で寝ることをすすめている訳です。山岳部員などは、テントから通学したらよい。
 本多勝一との『極限の民族』やベトナム取材で有名な、朝日新聞の編集委員、藤木高嶺さんは、旧制中学の頃、六甲の岩場のテントから通学を姶めたのだそうです。父親は山登りで有名な九三氏ですから文句はいわなかったのですが、テントの一人暮らしが1ヶ月に及ぶ頃、たまりかねた母親が担任に相談したらしい。ある日の夕方、肉と酒を土産に山に登って来た担任の教師は、
「藤木君、一晩どうかね、ぼくを泊めてくれんか」

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 その担任の教師が持参した肉で酒を汲み交し、二人は、そのまま眠りました。翌朝、その先生は、
「どうや、テントたたむの手伝うよ」
と、いいました。「お母さんが心配してる。いっぺん帰ったら……」といわれて、藤木さんは、ようやく山を下ることにしたのだそうです。
 まあ、テントでの一人住いなどということは、そうした生活技術を身につけている山岳部員でも、そう簡単にやれることでないのかも知れません。そこで、ぼくは、生徒に一人旅をすすめている。多分親は心配して反対するだろうから、その対策を立てること。特に女の場合は、なかなか大変なようで、ハイミスのおばちゃんでさえ、「親が心配して……」などといっているのを聞くと、なんだかけったいな気分になります。ぼくは、適当にごまかせ、嘘も方便、とけっこうけしからんことを、かなり堂々と述べております。
 いつだったか、一人の生徒が、夏休み前、テント生活について、質問にやってきました。彼は、自転車に乗って、東海道を走り、東京まで行く積りなのだそうです。日程については別にして、テソトやコンロ等の装備について、相談に乗ったのです。何回目かに来た時、ぼくは、フト思い付いて、
17-2.jpg「旗たてて走れ。京都———東京と書いた幟たてるんや」
と、いいました。
 このアイデアはよかったらしく、遊園地などで休んでいると、買物帰りのオバさんなどが、「がんばりなさいよ」と激励し、お菓子やアイスクリーム等をくれた。そういうことが各地であったそうです。食糧に関しては、各地のスーパーで買う。生鮮野菜と米等は、都会からできるだけ離れた田舎の農家で頼む。これも頂戴することが多かったようです。だいたい田舎の人ほど親切なのです。
 今回のコンビラの合宿でも、一人の生徒が米を持ってくるのを忘れ、大原の農家で、分けて下さいと頼んだら、十合(この頃の生徒は、一升のことを十合、一升五合は十五合という)もくれたのだそうです。
 話を元に戻して、彼が鈴鹿峠を走り下り、愛知県に入った時、日が暮れ、ちょうどあった交番で、テント場について相談します。すると、その巡査は、「高校生が他府県ヘー人で旅行するとは不届きだ」と頭ごなしにしかりつけた。「なんだか関所役人という感じでした」
 彼はあてどなく、町をさまよっていると、高校があって、柔道のかけ声が聞えました。柔道部員の彼は、そこにゆき、自己紹介すると、合宿中の部員達は大歓迎し、そこに泊って飯も食わしてもらったといいます。
 こうした話は、彼が、ぼくの授業を取っていたので、一時間つぶして報告会をやってもらった時に聞いたのです。一番苦しかったのは、箱根越えだったそうです。
「帰り、新幹線がすぐトンネルに入り、あっという間に出る。この上を汗をたらして越えたのか。そう思うと、とても複雑な気分になりました」
と彼は報告を結びました。

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 同じ年の二学期の末期、別の生徒が現われ、冬の北海道旅行の計画を打ち明けました。旅行といっても、彼の計画は、自転車で走るというのです。あの頃は、よほど自転車がはやりだったらしい。
 それにしても、雪の上を自転車で走れるのかいな。ぼくは心配になりました。でも彼は、大丈夫だと答えました。その生徒がぼくに聞きたかったのは、雪の中でどうやって寝るか、ということでした。なんでも、ほとんど車の通らない道の峠越えが、予定コースにあるのだそうです。
 もちろん装備についていろいろアドバイスしたのですが、ぼくが最も強調したのは、最後は装備ではない、ということでした。最終的にはオノレ白身の身体や。だから身体を寒さに慣らすこと。
 ぼくが示した方法は、夜、ベランダで寝る。そしてどんどん蒲団を薄くする。さらには、早朝、桂川の土手を走る。ランニングシャツとショートパンツで、自転車で走ったらいいのではないか。
 しばらくして廊下ですれちがったら、「やってますよ」ということでした。それ切り会わず、冬休みになり、ぼくも彼のことは忘れていました。
 三学期が始まった日、彼が現われ、「行って来ました」とケロリとしています。予定通り完走した。一日、やはりあの峠越えが大変で、吹雪の吹きっさらしのバス停の片屋根ベンチで一夜を過ごしたと語りました。シートにくるまっていたのだが、やはり、少々はこわかったそうです。
17-3.jpgこの他にも四国一周を目指した奴もいるし、古タイヤチューブのいかだで保津峡を下った連中もいる。
 こうした生徒を見ていると、計画をやりとげた後は、なにか前とちがってくるような気がするのです。ぼくの勝手な先入観によるものでは、どうもないようです。やっぱり、単純にいって、どことなくしっかりしてくる。なんだか、顔つきまで違っています。
 東海道の生徒の場合、おそらく彼は、あの旅において、何十人という見知らぬ人達とかなり印象的な出会いを経験したはずです。そういう出合いを通じて、ある人間観みたいなものを得始めたのではないだろうか。また、毎日遭遇する出来事の一つ一つに、自分自身の判断を下さねばならないということがあって、自分の判断の限界が分ってきたという意味も含めて、判断力に自信がついたはづです。
 北海道の生徒の場合、もっとシビアな状態で、判断力の自信を得たといえるでしょう。そうであれば、顔つきが変ってきても、何の不思議もありません。
 それにしても、近ごろ、こうした旅をする生徒がまったくいなくなりました。
 家と学校を決り切った時間に往復する。そういう単調な、他律的な、管理された空間の世界では、何の発見もないし、何の自覚も得ることはむづかしい。子供は幼稚園児のまま高校、大学へと進む。それが、今日の「若者の幼児化」の実態ではないかという気がします。

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 大分前のことですが、いまいった、生徒の冒険旅行みたいな話を文部省の登山研修所で話したことがありました。一人の研修生の教師が質問して、
「もし何かの事故が起こったら、どうされるんですか」
 つまり、事故が起こったら、それは止めさせなかったぼくの責任で、どう責任をとるのか、というのです。
 そこでぼくは、彼に「山での事故は不可抗力的に起こることもある」ことを認めてもらってから、「例えば、あなたが同行している合宿で事故が起こったら、あなたはどう責任をとりますか」と切り返しました。彼はやや考えてから、
「おそらく一生、良心の苛責に悩むと思います」
 ぼくは、イライラしてしまい、「それで責任をとったことになるんかなあ」と言いました。
 教師は、「そんなことでは責任がもてない」などという具合に、どうも二言目には責任、責任というけれど、ぼくに云わすれば、もともと、責任などなんにも取れないのです。
17-4.jpg この時は、このあと、研修生の先生方が二派に分れてかなり議論を闘わせました。いまかりに、研修所で、ぼくが同じ話をしたとしても、おそらく、あんまり反応はないのではないか。「へええ、そんな生徒もいたのか」てなもんで、それだけでしまいなのではないか。どうもそんな気がします。これはちょうど、今日この頃の生徒の状況とおなじことです。
 考えてみれば、教師も、その前は生徒であり学生、若者であったのだから、当り前のことなのかも知れません。
 文部省登山研修所には、もう二十年近く前の開設当時の第一回研修から、ずっと講師をしていましたから、色々と面白いことがありました。最初の頃は、講師も、研修生と一緒に朝の国旗掲揚に参加しなければならなかった。数年のうちにだんだん出て行かなくなり、二人目の所長の時からは、出向く必要がなくなりました。
 ところが、この所長は、研修生の評価をしろといいだした。最も強硬に反対したのは、ぼくと、東大の中根千枝門下のカノさんの二人でした。数日間の山登りを一緒にしただけで評価などできる訳がないではないか、とぼく達は主張し、所長は、いや記録を残すためだけですからとがんばりました。東京の若い大学山岳部OBの講師達の中には、「それはいい。評価用紙をちらつかせて、しごくか」などと、冗談にしても、アホみたいなことをいっている者もいました。
 さんざんもめたあげく、結論としては、原則としてオール3。特に目立ち、自信をもって判定できる点についてのみ、4と2をつけるということで合意に達しました。でも、これも次の所長の時からなくなりました。
 最初の頃は、ぼくはずっと、大学山岳部リーダー対象のクラス専門だったのですが、途中から、高校山岳部顧門のクラスも持つようになったのです。その最初の時、イトー専門職が、彼もここに来るまでは高校の教師だったのですが、小声でぼくに耳うちし、
「いちばん何にもできないのに、口だけ達者なのが、高校教師のクラスなんです」
 ぼくはなんだか、自分のことを云われたような気がしないでもなかったのです。

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