20.便りのないのが無事の便り


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 ある秋の深い目の放課後のことでした。ぼくは、何の用事もないし、そうかといって家に帰るのも何となくじゃまくさいといった気分で、ただぼんやり椅子にだらしなく腰かけ、窓ごしに見える空を見あげていました。
便りがないS.jpg その時、建てつけの悪くなった戸がゴトゴトと開き、卒業生のCちゃんが入ってきました。何とも陰欝な顔つきです。彼女は、在学中に何度か、山岳部の主催するスキー講習会には参加していましたし、一回きりぼくが顧問になった時の「社研」の部長だったりで、ぼくはかなりよく知っていました。たしか、彼女、浪人中のはずでした。「どうや、元気」というぼくの言葉を無視して、Cちゃんは、
「センセ、バイク乗せてくれへん」
 と、か細い声でいいました。
 ぼくは一瞬とまどい黙っていました。ちょっと真意を計りかねたのです。彼女は、ぼくが、めったに人をバイクに乗せたりはしないことを知っているはずでした。
 三〇半ばを過ぎてからバイクに熱中した、あの当時、たしか、女の子をのっけて、走ったことはありました。
 ぼくのイメージとしては、ぼくが乗せる女の子は髪の毛が長くないといけない。その女の子の髪の毛は、バイクの疾走と共に真直ぐに後になびかなければならない。でも、髪が長かったら誰でもいいという訳じゃありません。バイクに乗せるというのは、乗用車に乗せるというのとは、全然ちがいます。身体が何となく接触するし、胴に手を回されるのが普通です。かなり親近感がないと、くすぐったいし、気色悪いんです。
 まあ、とにかく、そうした女の子が、うまい具合にいて、乗せてくれというので走りました。ショーウィンドーの前を走り過ぎながら、チラッと見たら、イメージに全く反して、髪の毛は、全然なびいていないのです。ただバサバサと乱れているだけでした。なんとも、ぼくばガッカリしたのでした。
 さて、Cちゃんは、ぼくが黙っているので、じっと返事を待っている風でしたが、
「もうかなり参ってるの」
とポツリといいました。多分、受験勉強に疲れているのでしょう。
 うっとしいなあ。ぼくはユーウツな感じだったのですが、なんだか、彼女の気迫に押されていました。「ワシ、髪の毛の長い奴しか乗せへんねん」などという冗談でごまかす訳にも行かぬ感じで、大分考えてから、ぼくは「よっしゃ」と答えていました。
 校門から走り出ると、ぼくは、真直ぐに、西を目指しました。別にどこへというあてもありません。ただその時、秋の入日が西山に傾きつつあり、それがとてもキレイだったからです。
 引返してきたとき、もう夕暮れがあたりを包み、秋の空は、物哀しい色でした。Cちゃんは、
「センセ、ありがと。スッとした」
 とだけいって、自転車で帰ってゆきました。

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 何年かたった一九七五年、ぼくは、カラコルムのラトックⅡ峰を攀りにゆくことになりました。この山を狙ったのは、登攀倶楽部というクライマーの集団でした。彼等は、ほとんどみんな、大学には行ってない連中で、いわゆるブルーカラーに属していました。でも、その攀り方は、大学山岳部の奴等とは比較にならない位、尖鋭的なものでした。
 例えば、土曜日の午後、単身バイクに乗って穂高に向かい、ほとんど眠らず、そのまま数百米の岩壁の困難なルートを攀り、またバイクで走って日曜日の朝に帰ってくるというようなことをケロリとやってのけるといったものでした。
 「五条坂クラブ」とかいう名前のバイク集団を作って、五条通りで白バイと追いかけっこをしているような奴もいました。また、四帖半の安アパートで、インスタントラーメンで飢えをしのぎながら、力仕事のアルバイトをして、金がたまると山へ出掛ける。「山ではまともなメシが食えるところが魅力です」などと冗談をいったりする彼等は、岩壁に張りつくと、見事なまでのテクニックとパワーを見せたものです。
 若い頃から、どちらかといえば、恵まれた環境条件の中で、のんびりと山登りを楽しんできたともいえるぼくにとって、彼等の生きざまや山登りは驚異的に思えました。そして同時に何ともいえぬ新鮮さと魅力を感じたのも事実でした。頼まれるままに、彼等の雇われ隊長となるのを承知したのは、多分、こうした気分のせいだったと思います。
 遠征準備の事務所というか、集会や物資集積や梱枹場所として、ぼくは古巣である大学山岳部の部室を使うことにしました。そこなら、昼夜を問わず自由に使えるし、寝泊りもできます。「山岳部ルーム」の隣りの部屋には数人の女子学生がいました。ぼくは、その中にCちゃんを見出したのでした。
「よお、久しぶりやな。これなに部やねん」
 彼女が、志望通り大学に入って、ぼくの後輩ということになったということは聞いていました。でも、こんな所にいるとは思わなかった。この部屋は、「ジョモンケン」のボックスなのだそうです。
「それなんや」
 ああそうか。女性問題研究会か。「女問研」てケッタイな名前やなあ。なんでも、いまは、どこの大学にも「女問研」があるのだそうです。そういえば、巷では榎美沙子がガンバッていました。
 とにかく、もと「バロック音楽研究会」のボックスだったのを、女の力で乗っ取ったとかいう、このステレオもあるかなり快適な部屋を、ぼくは、遠征準備のための別室として使えることになったのです。

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 Cちゃんは、このウーマンリブ・グループのリーダーでした。でも、彼女の温和で、どちらかというと内向的な性格を反映してか、この「女問研」は、他所の大学のそれとはちがい、極めて穏健だとのことでした。大してこれといった活動はせず、高群逸枝の『日本女性史』の輪読会などをやっているそうでした。「助言者として参加して下さい」などといわれ、好奇心の強いぼくは、「うん」と答えたのですが、遠征隊の準備に追われて、その機会はありませんでした。
 この部屋でぼくが出会った「女問研」の面々は、やっぱり何となく、普通の女子大生とはちがうように感じました。キャアキャアワァワァいっている並の女子学生ともちがうし、あどけなさと幼稚さが売物みないな女性とは別物という感じでした。口数少なく、キリッとしていて、シャキッとした筋金入りみたいで、おまけに、それがわりかし整った顔立ちであったりしたら、ぼくは、年甲斐もなく、なんだかボーとしてしまい、ちょっとした少年のあこがれみたいな心情を覚えていたようでした。
 さて、二ヶ月ほどの準備の後、ぼくは、パキスタンの高峰に向かい、失敗して帰ってきました。帰国してしばらくして、もう秋の気配の濃いある日、Cちゃんが学校に電話をかけてきました。例によって藪から棒です。
「センセ、ちょっと相談があるんですけど」
「元気か、ほんで、何ですか」
「あのう……。女問研の○○さんがドジったんです」
「はあ。何をです」
 いきなりドジッたといわれても、何のことかも分らず、ぼくはポカンとして、全く要領を得ぬ返事をしていました。
「ほら、センセ、知ったはるでしょ。あの人、ステキやっていうたはった人」
 ぼくには、まだはっきりしません。彼女にそんなこというたかな、と考えていました。
「あのう、ボーイフレンドと、それで失敗して……」
「ふうん」とだけ答えて、ぼくは絶句していました。別にうろたえもしなかったけれど、なんだか、事務室のみんなが、きき耳をたてているような気がしました。
「なるほど。分った。夜、家に電話してくれませんか」
 さり気なくそういって、ぼくは電話を切ったのです。
 やっぱり、ぼくは少しびっくりしていました。考えてみれば、そういうこともあって当然という話なのですが、なんだか、起こり得べからざることが起こったという気がしたのです。
 並の女子大生ならいざ知らず、「女問研」の、あの女の子が……。全く信じられんという気分で、ぼくは化学準備室への廊下を歩いていました。と同時、何ともややこしい話を持ち込んできたCちゃんに、あるうとましさを感じていました。

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 夜かかってきた電話で話を詳しく聞いているうちに、ぼくはムカムカ腹が立ってきました。当の本人はただオロオロとうろたえているだけだそうです。おまけに、なんだか、相手の男だけが悪いみたいないい方をしているようです。
「わたしらも、なんかほっとく訳にもゆかんという気がして……」
 ぼくは、とうとう頭にきてしまい、
「アホか、自分の身体のことも自分でめんどうみれんと、なにが女性の権利じゃ。ええ年して、中学生みたいなこというとるな」
 と怒鳴ってしまいました。しかし、考えてみれば、あの遠征のときには、色々手助けしてもらったことだし、ぼくにも少々の義理はありそうです。俺の知ったことかと、つっぱねる訳にもゆかんなあ。そんな気がしました。
 ぼくは、直ぐ、遠征隊のドクターであった山岳部の後輩のタカヒコに電話したんです。
「へええ、そら困ったな。けど、それ、相手はタカダはんとちがうんかいな」
「バカモン」
 ぼくはますますムカムカしました。
「そらね、あんなもん、盲腸の手術よりも簡単やということもできますよ。けど、盲腸とはやっぱりちがうんですワ」
 と、タカヒコはいい、「なんとか考えたってえな」というぼくの頼みに、
「困ったなあ、そらぼくとこの病院へ来てもろたら、話は簡単ですねん。けど、ワシかて、看護婦に、変に疑われるのイヤですしねえ」
 と答え、ここで、ぼくたちは、一緒に笑ったのです。
 とにかく「なんとかええとこを探します」といってもらい、ようやくぼくはホッとし、女房に、ちょっと話したのです。すると彼女は、
「それ、パパとちがうの、相手」
「アホか」
 ぼくは滅入ってしまったのでした。
 しばらくして、一件落着の連絡が入りました。「女問研」の学生ということで、誰しもピンク・ヘルを連想したらしく、場所さがしはかなり難航したようでした。ところが、あんなうっとおしい話を持込んできた当のCちゃんからは、何の連絡もありませんでした。けっこう腹がたちました。もう話なんかするか、とも思いました。でも正直いって、ぼく自身も、そんなこと早く忘れたかったのです。

 一年ほどして、ひょっこり、もう忘れた頃に、Cちゃんが学校にやってきました。
 あれから、なかなか大変だったようです。まずお父さんがなくなった。教師だったお父さんは、冬は元気にスキーをしていたのに、春には入院し、ガンが脳に転移したため、記憶喪失みたいになり、死の床につきそう娘に、つきそってくれてうれしいが早く帰らないとお父さんが心配するよ、などといったそうです。父親が入院するのとほとんど同時に母親も入院した。胃潰瘍の手術はすぐに済んで、元気に退院したのですが、これもホントはガンだったのだそうです。それを知っているのはCちゃんだけです。
 こういうややこしい話になると、彼女は、ほとんど毎日のようにぼくの所にやってきては、ポツリポツリと話しては帰ります。聞いてしまったぼくの方は、ほんとにつかれる感じなのです。
 何日目かに、彼女は、こう話しました。
「お父さんには好きな人がいたみたい。入院してから分ったん。お母さんには、生徒の母親やいうてたけど……。その女の人私のこと小さいときから知ってるみたいな態度なんよ」
 その人には高校生の娘がいるそうです。Cちゃんはそれが気がかりな様子で何度もこの話をするので、ぼくはからかい半分に、
「その高校へ行って、その娘見てきたら……。あんたに、よう似てたりして」
 というと、彼女は、常になくキッとして、「お父さんが好きな女性がいくらいても、それはそれやけど、私とおんなじように可愛いがってる娘が他にいると想像することは耐えられないことなん」

 あれから、もう何年にもなります。その後彼女からは何の連絡もありません。便りがないのが無事の便り……。きっと元気でやっているのだろう。ぼくはそう思っています。

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