登山と「神話」その四
「山での死」について
現代は情報化時代などといわれます。ぼくたちは、まさに情報の洪水のなかで溺死しかかっているような気さえするくらいです。
そういう状況の中では、一体何が本当なのか、物の見方にほんとうに客観的な立場などということがあるのか、なにがなんやら訳がわからなくなってきています。「真理は一つ」などということばは、なんとも白々しくひびくばかりです。
そして、そういう現状を、〈価値観の多様化〉とか、〈既成概念の崩壊〉などと表現することは、「シラジラシサ」の上塗りにすぎないように思えます。
しかし、ここに、だれでもが、どうしようもなく、認めざるを得ないことがあります。それは、「人は死ぬ」ということです。こればかりは、どうしようもない真理といえるでしょう。
そういうわけで、「死」はだれにとっても決して避けて通ることのできない問題です。そして、「死」をどう考えるか、ということは、その人の生き方・人生観・世界観などに、根元的に関わる本質的な問題だと思えます。
なんやら、話が宣教師めいてきて、いやになります。正直いって、ぼくは、こんな問題はあんまりとりあげたくありませんでした。なんとなく気が進みませんでした。
なんしろ、話が大きすぎますし、あまり多方面に亘りすぎる気もします。そうかといって、避けて通れないという気もします。
いろいろと迷ったあげく、結局、個人にとって避けて通れない問題であるのなら、この「登山と『神話』」でも、避けるべきでないというふうに思えてきました。
そういうわけで、今回は、「山登りにおける死」をとりあげる決心をしたわけです。
あなたは、「死」とはなんぞや、ときかれたらなんと答えますか。「生」の反対。
そうです。「死」あっての「生」です。バカみたいですが、これはなかなか重大な問題で、〈死にがい〉←→〈生きがい〉論の出発点です。これについては後でふれます。
「生」の終り。ごもっとも。「生」は必ず「死」に至ります。つまり「生」→「死」という図式が成り立ちます。これも極めて根元的なものです。
たとえば、最も未開な社会から文明社会まで、あらゆる社会には、いわゆる「他界」の概念があります。死は単にこの世での終りを示すにすぎず、死者は、別の世界(「他界」)で永遠に生きつづけるとするわけです。
さて、山登りには必然的に死が伴います。正直いってぼく自身、今なお生きているのは、幸運の女神に守られたか、あるいはそういう偶然の結果にすぎないと思っています。
もしかりに、「自分は細心の注意とトレーニングを怠たらなかったから……」などという人がいたとしたら、その人は倣慢です。あるいは、山の恐ろしさに対する無知さの故か、山らしい山に登らなくなった人なのに違いありません。
そもそも、山と「死」とは切っても切れない関係がある。ぼくはそう考えております。
ところが、こういう具合にスパッといえない事情がどうやらあるらしい。この日本の特殊性みたいなものとして、です。その原因・理由は何なのか。そこのところをここで考えてみたい。これが一つのテーマです。
それから、今いったこととも関係しますが、日本人には日本人の「死」についての考え方みたいなもの、つまり「死生観」があるはずです。これについて考察したいと思います。
そして、この「死生観」が、どのように変化してきたのか。特に今日いわれる、若者文化(Youth Culture)と成人文化(Adult Culture)の分極・対立化の観点を基底として、そのそれぞれにおける「死生観」と「登山観」をみてみたいわけです。
かなり大上段にふりかぶった前口上であることは、ぼくも認めます。実はあんまり自信ありません。
はたしてどういうことになりますか。「しごき」はサド・マゾ文化
このごろの若者は別として、ぼくたち日本人には、「死」の美学といったような発想があるようです。
これはやはり、武士道からきているにちがいありません。あの有名な『葉隠』の、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というやつです。
聞くところでは、武士は朝起きると、行水で身体を清め、サカヤキをそり、軽石で爪をけづったそうです。そして、前夜の深酒で顔色がすぐれない時などは、頬紅をさえつけたといいます。
どうしてそんなことをしたのでしょう。それは、家の門を出たとたんに、切り殺されるかも知れない。その時に見苦しくないように、との配慮だったのです。
屏風岩の一ルンゼを攀った、大阪の梶本徳次郎さんは、生前、自分は困難な登攀をする時には、真新しい下着をつける。もし雪崩等で死んだ時に見苦しいからだ。そういっておられたのを憶えています。
さて、武士道というのは、主人に徹底的につくし、操を立て、そして美しく死ぬというほどのものです。『葉隠』が「忍ぶ恋」を最上として、衆道つまりホモの道を説いていることからも分るように、武士道は主人への思慕の世界といえます。
そうしたヘテロな世界においては、その思いは、死によってしか完結することはない。ここに「死の美学」が生れるのでしょう。
そして、ここには同時に、一種のサド・マゾ関係が成り立ちます。
現代の日本人のカルチュアの底流には武士道がありますから、当然、サド・マゾ的カルチュアと呼べるものがあることになります。
日本の社会のあらゆる分野に見られる、いわゆる「シゴキ」と呼ばれるものが、これであると、ぼくは考えております。
日本の山登りの世界がもつ、一種独特の、陰惨な自虐的志向も、同様な発想でとらえられるはずです。
かなりせっかちに話を進めすぎたかも知れません。少々補強しておく意味で、一つだけ実例をあげておきます。大松の「女子バレーチーム」を考えて下さい。あの場合、もし選手たちが男だったら、あのような異常なハード・トレーニングは成り立たなかっただろう。ぼくはそう考えております。
もちろん、選手も監督もバレーを愛し、世界一になる欲望をもち、その案内役としての監督をアイドルと思ったのですが、決定的には、潜在意識として惚れたのだと思います。そして、あの「シゴキ」を通して陰と陽の歯車がかみあったのです。
そして、そのようなトレーニングが、オリンピックの時に、外国で、「婦女虐待」として告発されたことから考えて、それがまさに日本独特のものであることを示していると考えられるのです。
武士道的死生観
ところで、「死」または「死に方」へ向かって一途に結集してゆく、武士道的死生観には、強烈な目的意識があります。そして、その「死に方」には美学的序列まであるようです。
しかし、こうした、武士道的死生観が作られてくるのは、一八世紀の初め頃からで、戦国時代には、そんなものはなかったようです。
当時のものは、もっと利己的、もっと野蛮的でしたし「死に方」も単に面白い死に方、カツコよい死に方がもてはやされただけです。
つまり、「忠義」を軸とした武士道的死生観が成立するのは徳川時代といえるでしょう。そして、その「主君への忠」、「主君のための死」の意味する「主君」は、徳川幕藩体制の中での、各藩主を意味していました。これはひとつ重要な点です。
もっと重大な点は、こうした武士道モラルは、武士階級のみのものであったということで、人口の大多数を占めていた農民とは何のかかわりもなかったということです。
ところが、薩長のイモザムライどもが作った明治政府は、この武士道モラルを人民に注入することに最大の努力をはらいました。
彼等は、「忠」と「孝」をセットすることによって、天皇を家長とする大家族国家、大日本帝国を作りあげようとしたのです。そして大正期をへて完成した、天皇を家長とする巨大な擬制家族国家においては、人民は「天皇の赤子」とされ、民衆人民はその「死」を天皇に捧げることによってのみ、完結することとなりました。いわゆる「天皇陛下万才」思想の誕生であります。
〈身体髪膚父母に受く。あえて毀損せざるは孝の始なり〉(『孝経』)は、修身教育の徳目として注入されました。この文句の意味するところは、あなたたちの身体は、髪の毛一本に至るまで、両親からもらったものです。それを傷つけないこと、それが孝行の始めです。という至極もっともなものなのですが、但し注釈が入ります。しかし、天皇のためには喜こんで差出しなさい、というものでした。
こうした、いわゆる「散華」の思想は、その反対の極に「犬死」をおいて、皇国民教育として行なわれたのです。それは、敗戦後三〇年近くをへた今になってもどうしようもなく残っている位に、徹底したものであったと思われます。
それが証拠に、あの三島の切腹事件のとき、外国人のとまどいと嫌悪感とはうらはらに、進歩的といわれる日本の多くの文化人でさえ、ある一種独特の反応を示したのを憶い起すべきだと思います。
ところで、こうした武士道的死生観なり「天皇陛下万才」思想が、意識下にあるのですから、「山での死」は、目的を持たない無意味な死=「犬死」として、社会一般の指弾を受けることになるのは当然です。
そして、山の世界においてさえ、いわゆる「アルピニズム」という大義に捧げられていない、ど素人の死は罪悪視されることになる。ぼくはそのように考えております。
「戦無派」の「死」の否定
さて、一つの世代の区分法としての「戦中派」「戦後派」「戦前派」というのを使って、若者の「死生観」「登山観」を考えてみることにします。
ぼくなどはさしずめ、「戦後派」に属しますが、意識としては少々「戦無派」に入るかも知れないというところでしょう。
ところで、「戦無派」の若者たちには、さきにのベたような「武士道的死生観」は、あんまりないように思います。「あんまりない」といういい方をしたのは、この死生観が、一つのカルチュアとして存在しているからには、若者といえども、何らかの影響を受けていると思うからです。
しかし、普通一般には、彼らは「死」に対してまったく無関心です。平和の中に育ち、「死の前に立たされた」体験をほとんどもたない世代がそうなるのは当然のことです。
他から見て、かなり必然的とも見える「死」が彼等に訪れたときでさえ、彼等はそれを単に事故死としてとらえます。
もう一つのタイプは、「死」を否定するタイプです。前のタイプが、消極的否定とすれば、これは積極的否定といえます。いずれにしろ、「戦無派」世代の若者に共通しているのは、「死の否定」だと考えられるわけです。
そこで、死を最初から勘定に入れて山登りをするような大学山岳部や、伝統ある山岳会は、拒否されることになりました。六〇年代に入って、スキー人口や登山人口のものすごい増加にもかかわらず、山岳部員や山岳会員の急速な減少がおこりました。この原因は、「山登りの行きづまり」などといわれましたが、本当は、いまいったような背景があったのです。
「戦無派」世代の若者の中には、「なにかのために自分の命を犠牲にするのは愚かだ」「どんなにカツコ悪くても生きのびなければ意味がない」という人が少なくありません。彼らは、天皇のためであれ、国家のためであれ、あるいは革命のためであれ、人民のためであれ、とにかくいかなる「大義名分」であっても、一つしかない自分の命を賭けるのはゴメンだというのです。
こうした主張は、かつての「タテマエ主義」に対しての「ホンネ」であり、一つの抵抗としての意味をもつと、ぼくは思います。ただそれが、「自分だけはどうしてでも生きのびる」というだけの発想になり、他人を見殺しにしたり、殺されて行く者への共感を欠落してしまう「弱さ」を持っていることを見過ごしてはならないと思うのです。
このような弱点は、現代のクライマーにも見出されるところです。それは時としては、彼等の個人主義として、誤って肯定的に見られることもありますが、そうではないことが多いようです。
かつて、『岩と雪』が行なったザイル事件のアンケートは、これを示していると思います。むしろ、「戦中派」のほうが、この弱さが少なかったのではないでしょうか。この点、大いに反省してもらいたいと思うのです。
「カツコよさ」の追求
さきに、現代の若者には、「死の否定」があるといいました。もちろん、完全に否定しておれば、危険な山登りなどはやらないと思います。それでは、危険な山登りをやる若者はどうなるのでしょう。
たしかにぼくは、現代の若者には、一般的に「死の否定」があるといいました。しかしこれは一つの傾向なのであって全部ではありません。
ある学生が、彼は世間で普通に暴力学生などと呼ばれるセクトに属しているのですが、ぼくにこういったことがあります。「山登りの世界に自分は大いに引かれる。自分は素人だけど、やってみたい気がする」
ぼくが理由を聞くと、「山ではカツコよく死ねるではないか」というのです。
現代の若者は、たしかに「死の否定」を基調としてはいますが、同時に「死」への積極的受容の方向もあるようです。
ただし、そうした「死」の受容があるとしても、それは決して「何かのための死」ではありません。これは重要な点です。そして、「何かのための死」は往々にして、ファナティック(狂信的)な傾向をおびます。
だから、「アルピニズムの旗の下に」とか、「スーパー・アルピニズム」というファナティックな主張をかかげた、第二次RCCは、主として「戦中派」「戦後派」世代によって推進され、「戦無派」クライマーにそっぽをむかれたのではないか。ぼくはそう考えております。
それでは、「戦無派」クライマーの特徴は何なのでしょうか。それは「ために」ではなくて、「いかに」が問題となるようなものです。自分の信ずる主義・大義との一体性の保持ではなく、それに殉ずるカツコよさに重点が置かれます。
ファナチィシズムであるよりむしろダンディズムといえます。ダンディズムには、ファナティシズムとちがって、一種のゆとりがあり、「あそび」があります。いいことです。しかし人々は、彼等を次のような具合に非難しました。
一ある救助隊員は、「最近は冬山登山者の質が変ってきている。″カツコイイ″登山者ばかりだが、技術のほうはどうも」とぼやいている。
まず、広告から抜けでて来たようなファッション・モデルさながらの登山者が多い。上から下まで派手な原色の登山姿に身を固め、登山用具もスイス製のアイゼンにフランス製のピッケルといった具合だ(〈カツコよさでは登れぬ〉一九六八年一月四日付朝日新聞) ー
しかし、彼等は、その「カツコよさ」をこそ追求していたのでした。
やさしく「死」をつつむ登攀
戦後これだけの年数がたつと、生の肯定・尊重という価値体系が確立したようです。政府も本心かどうかは知りませんが、「生命尊重」などと唱えるようになりました。
しかし、生の価値のみが肥大して、「死」にその位置づけを与えられなくなると、最初でふれたように、「生きがい」をも失うことになります。「死」という限定要因を失った「生」は、またその輝きをも失うことになります。
よくバカの一つおぼえみたいにくりかえされる「安全登山」とか「山で死んではならない」というスローガンが、なんともアホらしくひびくのは、こうした理由によります。
現代の若者クライマーは、いまいった「輝きをもった生」を求めて攀るのです。そして、「死」がもっとも明確に知覚されるとき、彼の「生」も最も鮮烈に認識されるのです。
この時、もしかしたら訪れるかも知れない「死」は、きわめて自然に受容される、とぼくは考えております。
その登攀は、「死」を勘定に入れての行動というニュアンスではなく、やさしく死をつつむ行為というべきでしょう。
そして、その行為は、少なくとも『涸沢の岩小屋のある夜のこと』(大島亮吉)にある「人間が死ぬっていうことを考えのうちに入れてやっていることには、少なくともじょうだんごとはあんまりはいっていないからね……」などという、いかにもいじけた弁解がましさを全く必要としないものであるはずです。
さて、ルネ・デメゾンの指摘をまつまでもなく、「山登りは明らかに危険なスポーツ」であります。そこには、時としては、当然の帰結としての「死」があります。
そして、ここにのべたような気質と性向をもつ「戦無派」世代の若者が山に向かうとき、そこには当然「遭難」の多発が予想されます。
事実、敗戦(一九四五)直後に生れた人が成人に達した一九六五年から、まさに日本の山では「大量遭難」の時代に入っているのです。
その例を新聞で見てみましょう。
一〈死者、ついに五七人、連休の山〉。連休入りの二十九日からの遭難者数はさらにふえ、朝日新聞社調べでは東日本関係だけで死者四六人、負傷者一四人、行方不明七人、西日本関係を入れると死者は五七人。文字通り″記録破り″の遭難となった。(一九六五年五月六日付朝日新聞)一
一〈谷川の遭難新記録。今年一月〜十一月の集計〉谷川岳のこの間の登山者は、一般登山者六万九三〇〇人、観光登山者一八万三四〇〇人、計二五万一七〇〇人で昨年より三万人ほどふえている。遭難事故は死者三五人、行方不明二人、負傷者一六人で、昨年の死傷、不明数の二倍強、記録をとりはじめた昭和六年以来の新記録となった。(一九六六年十一月二十三日付朝日新聞)一
一警察庁は十八日、前年十二月から今年二月にわたる冬山遭難自書をまとめた。それによると七三件で死者行方不明七一人、重傷二七人、軽傷二七人、救出六四人計一八九人にのぼり、一年前の同じシーズンに比べて倍増、史上最高を記録した(一九六七年三月十九日付朝日新聞)一
〈高度成長〉と大量「社会死」
こうした「大量遭難」は、しかし、なにも突発的に始まったわけではありません。
すでに六〇年代の経済成長と、大量消費時代への突入と共に、反面そのひずみがいたるところに現われてきます。
一九五九年。マイカー時代始まる(ブルバード発売)。カミナリ族の横行。
六〇年。テレビ受信機生産高は、三五七万台。米国についで世界第二位となり、二輪車生産高一四九万台で、世界第一位。また即席ラーメン、インスタント・コーヒーなど続々発売。〈インスタント時代〉に入ります。そして、十月までの集会・デモも全国で六八〇〇件と前年に比べて、三倍近くにふえております。「腹がへったらオマンマ喰べて、命つきればあの世行き」という〈アリガタヤ節〉が大流行しました。
六一年になって〈レジャー・ブーム〉の時代に入ります。スキー客は一〇〇万人を突破、前年の二倍強となり、登山者も二六四万人とふえます。若者の間に、〈睡眠藁遊び〉が大流行。大人も「わかっちゃいるけど止められない」(〈スーダラ節〉この年流行)と酒に酔いしれたのです。
そして、六三年。あの有名な〈薬師岳の大量遭難〉がおこりました。愛知大学の山岳部員が一三人凍死したのです。この遭難自体を考察してみることは、なかなか面白いのですが、ここでは止めます。
とにかく、新聞はこれを大きく取上げました。そして、愛知大学学長は、「世間をさわがせた」と、辞表を提出します。
きらには、これが後の「富山県登山禁止条例」のキッカケともなります。
この年は、北陸地方では、大雪だったようで、一月二十八日までに八四人が死んだり行方不明になっています。少し極端かも知れませんが、あるいい方をすれぼ、一三人で、どうしてそんなに騒いだのかしらと思えます。
沖縄連絡船みどり丸強風で転覆、死者・行方不明、一一二人(同年八月)
草加次郎の時限バクダンによって一〇人負傷(九月)
国鉄鶴見駅で二重衝突、死者一六一人(十一月九日)三池三川鉱でガス爆発死者四五八人(十一月十日)、二日間で一挙に六〇〇人をこえる人が、自ら望まない「死」を死んだのです。
町には〈こんにちは赤ちゃん〉がながれていましたが、世はすでに「大量死」「社会死」の時代に入っていました。
「山での死」は〈自殺〉と同じ
さて、山で人が死んだと聞いたとき、社会一般の人たちは、どんな感じをもつのでしょうか。
もちろん、人はさまざまで、その受けとり方もいろいろでしょう。しかし、たとえば、マグロ漁船がシケでひっくりかえって、一三人死んだというときとは、かなりちがった感覚でとらえるのではないかと思います。
このちがいは何か。これは大変むずかしい設問です。でも、よく考えてみるとおそらくそれは、一方では〈いたしかたのない死〉であり、一方はそうではないものだと感じられるのではないでしょうか。
これをさらにつきつめると、二つの問題に行きつきます。一方は、「生活」のため、「社会」のための死であるのだから、しかたないのだ。ところが、もう一つはそうではない。「遊び」ではないか。そういうことでしょう。
ここに現われてくる問題は、「遊び」です。「遊び」の社会的位置づけの問題であります。「遊び」はいまなお、市民権を得ていないとぼくは考えていますが、これについては次の機会にゆずりたいと思っています。
さて、一般の人にとって、山は危険で死ぬ可能性が十分にある場所です。そんなところへどうして、のこのこ出かけるのだろう。そして、この時に浮かぶイメージは決して年配の人ではなく、「前途有為な青年」であります。「あたら苦い命を、山などで……」ということになります。まったく「犬死」ではないか、ということになります。
また、死ぬかも知れない所に自ら出かけてゆくことは、一種の自殺行為ということになる。山の遭難記事が、ほかの死亡記事とちがった感覚でとらえられる理由の一つに、これがあるとぼくは考えます。
そして、支配者に教えこまれた通りを信じた人々にとって、「自殺」は「犬死」の最たるものであったのです。
以上要約すると、「山での死」には、「遊び」の問題と、「自殺」の問題がかかわっている。そういえるでしょう。
自分の命は自分のもの
さて、「山での死」には、「遊び」と「自殺」がかかわっているといいました。
実は、この二つの問題を支えている、もっとも大きなものがあります。それは、「個人」という問題であります。「個人」は、自分の「死」をほんとうに自分で掌握できているのか、ということです。これは同時に、「ぼくたち個人の生命は、本当に自分のものなのか」、という設問につながります。
もちろん、「山の遭難」に関しては、「親の悲しみ」とか、「他人の迷惑」とかの問題がいわれますが、そうした「家族主義」や「日本的発想」は、いまいった観点よりみれば、なんとも色あせた口実にすぎなくなります。
スマイスは、「山の魂」で次の様にいっています。
一 毒ガスにやられるか、砲撃をうけるか、射殺されるか、その可能性に私はゾッとする。そういう過程の結果として私が死ぬからではなく、そんな人工的なこっけいな結末をとげるからだ。山から墜落するか、あらしのなかで死ぬか、そんな可能性には一向私はおどろかない。その中に私の個人的な興味と責任のある結末があるからである。(中略)自分でそうしたいのでなければナニもワザと山で自分の命を賭けたりおとしたりしないのだ。
ところが戦争では他人の命をうばい、自分の命を死の危険にさらしている(石一郎訳)一
まったく十年一日のごとく、落語の「小言念仏」のごとく「モラル低下」をなげき、「山の遭難は赤信号無視の交通事故と一緒だ」(一九六七・一・一一、朝日)などといい、警察とタイアップして「無謀登山」「警告無視」と唱える「日山協」や「山岳界」のオエラガタは、このスマイスの文章はよんだことはなかったのか。
もし知らなかったとしても、こんなことは、正確に物を見る目があり、本当に山登りをやったことのある人ならわかったのではないでしょうか。長いヨーロッバでの登山体験・生活経験があれば、それはなおさらのことです。
あくまでも「ホンネ」を述べなかった欺瞞性と、その場のがれの官僚性。あるいは大衆の登山を認めないエリート性。
これらのことは、責められてあまりあるというべきでしょう。
ぼくはこんど、一九六〇年頃からの新聞の縮刷版を、主に遭難関係ですが、ずっと読んでみて、アホらしく、バカらしく、ほんとうにいやになりました。
と同時に、時代の動きを知れなかった山の世界のオエラガタの認識のずれをも感じました。彼等は、古い時代の山登りの迷妄をすて、若い世代の山登りに共感はしなくても理解するべきだったのです。
また、「マナスル遠征」と同じ年に、水俣水銀中毒患者が発生していることをも知るべきでした。そしてこれが、決して偶然の一致でないことをも認識するべきでした。
そうすれば、あの下らない「エベレスト南壁劇」などは決して起らなかったでしょう。
「自殺権」の提唱
一九七二年三月。全国より選抜された六名の白バイ隊員が、イギリスのロンドン近郊「ヘンドン警察運転学校」に、四週間留学しました。
ここに引用するのは、その内の一人、警視庁第二交通機動隊副隊長、椎名警部の話です。「(制限速度は)ハイウェイでは七〇マイルとなっております。その他五〇マイルとか三〇マイルとかあります。
その時は緊急出動と考えて八〇マイルで走っていたのです。ところがそれを追いこしてゆく車もあるのです。
そんな場合、日本ではたちまちスピード違反で捕まってしまいますね。第一白バイやパトカーを追いこさない。
私が捕まえようかといったら、指導員は、『いいんだよ、彼はいそぎたい用事があるのでとばしているのだろう。自ら安全を放棄したので、警官はそこまでは彼を保護する必要はない』といいました」
どうです。面白いではありませんか。
ぽくたち個人の「生」は、ぼくたち自身の所有に属します。それは他の誰のものでもありません。それは同時に、いつでも「死」を選ぶ自由があるということです。
「あらかじめ死を考えておくことは、自由を考えることである」(モンテーニュ)のです。
一九六七年頃、京都宝池の国際会議場前の道路に、″サーキット族″と呼ばれる暴走族の若者が出現して話題となったことがありました。
捕まって送検された″サーキット族″の一人は「スピードこそ生きがい。死んでもかまわぬ」とうそぶいた、といいます。
世人のひんしゅくをかうこの考えは、ぼくたち大人の日本人の想像を絶した深い所で、肺ガンを宣告されてから「ヨット単独世界一周」をなしとげたチチェスターとつながっているにちがいありません。
そして、「宝他の″サーキット族″を非難する良識は、じつはチマチマした小市民的おくびょうさではないのだろうか。その日の安穏だけを望むぬるま湯的な考え方は小心なセツナ主義でしかない」(米山俊直「サーキット族とチチェスター卿」)のです。
人が自分で選んだ「死」に対して、他人がとやかくいうべきではない。
人は「自分のデザイン通りの死」(『日本人のこころ』朝日新聞社)を選ぶ権利があります。問題は、自分は望まないのに死なねばならたかった「死」。これこそ問題です。これは、ある意味で殺人と同じです。「生存権」(基本的人権の一つ)と「自殺権」は、同じものの両面であるはずです。「自殺権」の認められないところに、「生存権」の主張やそれに対する共感・支持は生れえないはずです。あるのは無力なあきらめだけです。
今日、大量の「社会死」があり、社会的殺人とも呼べるこれらの現状が一部手直し程度におわる原因は、このあたりにあると思います。
たしかに、このような「大量死」の時代になって、「山での死」が、量的な比較において、ぼけてきたことも事実かも知れません。
しかし論理的には、「山での死」を単純に責めるようなセンスこそ、この大量殺人的「社会死」を他人事と見過ごし、さまざまの矛盾と不正を根本的に変えるための何の力ともならない原因ではないのか。
ぼくは、このように考えております。
(たかだ・なおき)
【『岩と雪』41号 1975年2月所収】