7月10日イタめし

2003年7月10日 イタめし

 このページへの書き込みコメントに、 「加えて美味しそうな食べ物の写真があればもっとうれしいんだけれど」 というのがありました。それで、くいもんの話など。
 イタリアの食い物は、「イタめし」です。でも日本の「イタめし」のように、油っこくありません。 日本で、毎日「イタめし」を食べていたら、病気になる。 この辺りは、フランスに近い所為でしょうか、盛りつけ方もそうだし、出す順番を詳しく聞いてくる所などは、フランスを思わせます。
 でも、日本料理が最高と信じるぼくとしては、それはそれだけのこと。 ただ、食材はいいものが安い。主に野菜を買って来て食べています。もちろん脂っ気はないけれど、柔らかくて風味の十分にあるお肉も買ってきますけれど...。

030710-1.jpg買い物は、近くのリモーネで。車で15分。山越えで歩いてゆくと、2時間〜4時間。 リモーネのセンター、教会前の広場はいつも人が群れています。

030710-2.jpg教会の裏手にあるリモーネのお肉屋さんは、最高の肉を置いています。 特にプロシュート・クルード(生ハム)は、絶品でこんな味は、日本のイタめし屋ではもちろん、 この辺りのレストランでも、ありません。

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030710-4.jpgプロシュートは、100〜200グラムを切ってもらって持ち帰り、メロンと一緒に食べます。 これは、おいしい。毎夕食のアペタイザーです。

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030710-6.jpgこの地方には、トミノ(Tomino)というモッツァレーラみたいで、でももっと柔らかくて、もっとおいしい特産のチーズがあります。まるでお豆腐です。 リモーネのスーバーのものが一番おいしい。まあ、嵯峨豆腐か「とようけ屋」の豆腐か、というところでしょうか。 トマトスライスに載せて食べますが、そのままでもいけます。

030710-7.jpgここでは、野菜が、大変に豊富です。 買い込む時には、クーネオ(Cuneo)の町まで出かけます。車で30分。 クーネオは、ゆったりとした、いい町です。 南方には、フランス国境の2000m級の山々が連なっています。毎火曜日には、市庁舎広場で蚤の市が開かれます。

030710-8.jpgこの町のいい所は、どんなに混んでいても、なんとか無料のパーキングを見つけられるということです。 横断歩道に信号はありませんが、車が必ず止まってくれます。

030710-9.jpgここにはスーパーは何軒もありますが、コープスーパーが一番巨大で、食料品だけではなく何でも置いてあります。 巨大な野菜があります。これはティッシュペーパーよりも大きなパプリカです。 味は充分に美味しい。

030710-10.jpg茄子も巨大で、まあ加茂茄子という所でしょうか。とても柔らかく甘い。

030710-11.jpg丁度、黒部スイカのような紡錘形の巨大なスイカがありました。半分に割ったものが300円。ほうれん草も、安くてとてもおいしいです。おひたしにして、 たらふく食べています。 野菜は、日本の1/2〜1/3の安さです。

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030710-13.jpgコープスーパーには、こんな網のおりがあって、中にはブランコや滑り台が置いてあり、なかで幼児が遊んでいまし た。担当の保母さんが付いているようです。

7月7日リモネット暮らし(3)

2003年7月7日 リモネット暮し(3)
030707-1.jpgリモネットは、イタリアからフランスのニースやモナコに向かうルートからほんの少し脇道にそ れたどんずまりの山村で、高度は1300メートル。リモネットのゲレンデの途中から見下ろす とこんな感じです。

030707-2.jpgリモネットの教会の鐘の音は、ディングドンとかギンゴンガンとかの、教会的な音ではなくて、 まるで柱時計のような音がします。 各時間の数だけ鳴って、おまけに各時半では一つ鳴ります。 だからまるで、部屋の中に柱時計が掛かっている感じ。まあ便利といえば便利で。

030707-3.jpg下のリモーネ・ピエモンテの町までは、日に5・6回のバスの便があります。20分ほどの距離で す。

030707-4.jpg毎日、上ばっかりを向いていたから、今日は下を向いてリモーネ・ピエモンテの町まで歩いて下 ることにしました。 バス停を過ぎ、このアパートの管理人のジャン・ピエールとマリア・テレーズ夫妻のやっている 宿とレストランの前を通ります。

030707-5.jpg少し自動車道を歩いてから、谷川に向かって山道を下ります。山道といってもところどころには ベンチなども置いてある遊歩道です。 谷を渡った所で、遊歩道と別れて谷ぞいのルートに入ると、もう完全な山道。渓流の感じは黒部源流の沢という感じになります。

030707-6.jpgしばらく下った所で、山手方向に向かう急登の踏み跡を喘ぎ登ると、急に前が開け牧場に出まし た。すぐ前には、リモネット対岸下手に見える夏村がありました。

030707-7.jpg背後彼方には、リモーネ・ピエモンテスキー場の山々。

030707-8.jpg遥か下には、ヘアピンカーブの続く自動車道が望めました。

 急な下りの道が延々と続き、自動車なら、10〜15分の距離なのに、歩きではなんと2時間もかか ってしまい、なかなかいい運動になりました。 リモーネの町は、とんでもない人出で、老若男女がひしめいていました。 何事かとこれまで定宿にしていた、ホテル・エクセルシオールのマネージャーのベッペさんに聞 いたら、マウンテンバイクの競技会があり、この町がスタート地だったのだそうです。

7月6日リモネット暮らし(2)

2003年7月6日

 こちらは毎日いいお天気が続いています。 今日は、日曜日なので、そばの教会の鐘が鳴り響き、11時に起こされてしまいました。 昨夜、突如マックのmailが、異常を来しメールがとれなくなり、おいどんに電話連絡したりの大騒ぎで、ようやく復旧して寝たのは4時半でした。
 夏の服装を持って来たのは、間違いで秋仕度をしてくるべきでした。リモーネよりも高度がある所為か、カーディガンか薄手のセーターが欲しくなる日々で す。日の暮れるは遅く、9時半くらいなので、3時か4時頃から毎日散歩に出かけています。
030706-1.jpg 昨日は、裏山の山道を辿ることにしました。 リモネットが見下ろせました。中央左の細高い建物の一階がぼくがいる所です。 右隅に教会の塔が見えています。

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いい加減に歩いていたら、途中で方角を誤り、リモネットのゲレンデを目指していたのに、山の上に出てしまいました。

030706-4.jpg山の上からは、リモーネのゲレンデが見えました。

030706-5.jpg下ってくると、リモネットの村はずれでは、キャンピングカーの人たちが、食事をしていて、手を振っていました。 今日は日曜日なので、バイクの音がしきりです。 直樹

7月5日リモネット暮らし(1)

2003年7月5日
 リモネットについて、2日が過ぎました。 初日は、クーネオに買い物に出かけ、一日が過ぎました。
 この辺りは、夏のハイシーズンに入っており、リモーネの町は、じじばばで溢れかえっています。 お肉屋さんに寄り、プロシュートを買い求めましたが、やはり最高の味でした。
030705-1.jpg 夜は寒く、暖炉に火を入れました。2時には寝て、朝は10時頃に起きました。「鬼平犯科帳」は、既に4冊目に入り、やはり全巻持ってくるべきだったと悔やんでいます。

030705-2.jpg 今日は、少し小雨がぱらつく中を、雨も上がりそうなので、ハイキングに出かけました。 ここリモネットの標高は1300m。ゲレンデへの道を、放牧の牛の群のカウベルの音を聞きながら45分ほど登ると、ゲレンデにつきます。1500mですから、200mの登りです。

030705-3.jpg ここのレストランが、昨日からオープンしており、お茶を飲んで帰って来ました。 ゲレンデを見張らす屋外の椅子でカプチーノを飲んでいると、まるで室堂平にいる心地で、なかなかいい気分でした。帰りに、途中のホテルの前にいた犬が、後になり先になりしてついてきました。約1キロほどの距離をです。全く無関心無愛想なのですが、何とはなしについて来たのです。
 帰り着いて、昨夜食べた骨付きの肉の骨を与えると、この時初めて尾を振りました。 何度かこういった経験をしているのでしょうか? ではまた。

7月4日「イタリア暮らし」の始まり

 7/1日本発。ニースで一泊した後、昨日(7/2)ここリモネットに着きました。 リモネットは、ピエモンテ州の避暑とスキーのリゾートで有名なリモーネ・ピエモンテからさらにフランス国境の山手に15分ほど登った山村です。
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 最近モナコのロイヤルファミリーがここの土地を買ったとかで、知られるようになったそうですが、有名F1レーサー・シューマッハの別荘があることも知られてはいませんでした。 日本でも、ワインの通がピエモンテワインの優逸を知っているのみのようです。 2006の冬季オリンピックは、トリノで行われるので、その時は当地も会場となり、日本にも一気に知られるようになると思われます。

 フランス国境までが5分のこの地からは、ニース、モナコ、モンテカルロなどは2時間足らずの距離で、言葉はフランス語訛りのイタリア語で、リモーネ訛りといわれています。 管理人のおばさんが経営するレストランには、グレースケリーもよく来たそうで、息子の王子とおばさんが一緒に写っている写真が掲けてあります。

 ここでは、昼はハイキング、夜は持って来た自家製のコピーDVDの映画鑑賞と読書(主に『鬼平犯科帳』)で過ごす予定です。 昨日、到着と同時に旧友のパベルから誘いのメールが来ました。彼は、中学生の時から住み慣れた亡命先のアムステルダムを離れ、生まれ故郷のチェコに戻ったばかりです。 ぼくと知り合ったのは、もう15年も前で、バンコックに英語の勉強に留学している時で、彼はロッテルダム大学の院生でした。 その後、KLMで社長秘書を長年務めてから、abm-amro銀行の副頭取にヘッドハンティングされて数年経ったのですが、今回そこを止めて、チェコでリサイクル会社をやることになったようです。

 彼のメールには。 All easy highway road and you should be able to drive in one day. Let us know if you could make it – I would love to show you our new house, new surrounding, new work, new motorcycle, new rabbit, new baby, new car Skoda, new friends, new garden, new forest, new city and all this. と書いてあるのですが、彼の住むブルーノという町は、プラハの南東にあり、ここからだと、トリノーミラノーウィーンと走って、約1300キロあり、アムステルダムからスイスまで、スイスからプラハまでと平気で走った昔だったら平気の距離ですが、いまはやっぱり2日見ておいた方がいいと考えています。

 19日以後が都合がいいそうなので、帰国する前の訪問を予定しています。 では、また。

記録映画「ハラハリ」(1969年制作) on YouTube

 1969年夏、京都カラコルムクラブ辺地教育調査隊を組織して西パキスタンに赴き、ランドクルーザーを駆って、5000kmを走破した時の記録です。スワットヒマラヤの未知のハラハリ氷河をつめ、未踏のマナリ・アンを越えた記録映画。松竹映画社よりの機材貸与と16mmフィルムの提供を得ました。撮影は隊員の関田和雄。 
 制作に際して、京都市広報課寺島卓治氏に協力指導、劇団京芸藤沢薫氏にナレーション、府立桂高校放送部の女性アナウンサーにはインタビュアーとしてなど、おおくの人たちの協力があって完成したものです。
 先頃の京都府立大学山岳会創立50周年記念祝賀会での上映の為に作った、デジタルリニューアルDVD版をYouTubeにアップしました。尺の関係で3部に分かれています。

「マギーの山」生き方をくらべてみよう

山はだれのもの

生き方をくらべてみよう 東京都成蹊小学校教諭 谷川澄雄

 人が命をかけて、山にいどむのは、いったいをぜなのでしょう。
 はてしないぼうけん心を満足させたいからでしょうか。成功のかがやかしい栄光をゆめみるからでしょうか。それとも、世界の登山レコードを争うことに生きがいを感じるからでしょうか。
 あなたは、登山家フォレスターと名もないまずしい山男の物語を読んで、この問題をどう考えますか。
 ふたりの山に対する感情をふり返ってみましょう。
 フォレスターは、ちょう上をにらんで、「山であるいじょう、人間が登れないはずはない。よし、きっと登ってみせる!」と心にちかい、とうしをもやして山にいどんでいきました。
 それにくらべ、名もないまずしい男は、こい人へのけがれない愛のおくり物として、ちょう上にランタンをともしたいと、ひたすらに登っていきました。
 フォレスターは、登山家としての名よに囲まれましたが、名もない男は、愛のあかしとしてじっとむねにひそめました。
 あなたは、山に対するふたりの愛をくらべ、どう考えるでしょう。
 また、フォレスターが、山の名をマギーの山と書き直した心も考えてみてください。

「マギーの山」本文

『マギーの山』
magytitle あるてんらん会場で、けわしい山の絵を前にして、思い出にふけるふたりの老人があった。ふたりは、それぞれにわすれられない思い出を持っていたのだが……

思い出の山

「すばらしい! さすが、一流の山の画家がかいただけのことはある!」
 ひとりの老しん士が、もう三十分以上も、へやのまん中にあるソファーにこしをおろして、じっと正面の絵を見つめていた。
 それは、あるてんらん会場で、その絵の題名は、「東南からあおぎ見たフォレスター山」というものだった。
 切り立ったような、けわしいちょう上には万年雪がかがやき、そこに登る者をすべて追い返そうと立ちふさぐ、大小無数の岩山、ひとたび足をふみすべらしたら最後、絶対に生きて帰れぬ深い深い谷、何十年という間、世界の登山家たちが、この山のちょう上をせい服しょうとしたが、みんな失敗した。命を落としたり、重傷をおったりした気の毒な人たちもいた。
 けれど、ついにその山をせい服した人がいた。アメリカの登山家フォレスターで、山はその名を記念して、「フォレスター山」と名づけられた。フォレスターの名は、新聞や放送で全世界にとどろいた。magycut2 それから三十年近くの月日がたった。が、フォレスター山には、その後、だれも登れなかった。それほどけわしく、きけんな山なのであった。
 いまその山の絵を前にして、老しん士は、じっともの思いにふけっている。その目は山のいただきに向けられたままだ。
 そのとき、もうひとりの老人が、見物人のなかからあらわれ、静かにソファーのはしにすわり、そのまま身動きもせずに、山の絵を見つめていた。そまつを身なりだが、しらが頭のその老人の顔は、おだやかで明るかった。老人は、十五分、二十分と、ながめ続けている。その様子に老しん士は、思わず声をかけた。
「失礼ですが、あなたもずいぶん山がおすきなようですね。」
「えつ? わしですか。山はきらいじゃないですな。なにしろ、山国生まれなもんで………。でも、この絵の山は、わしにとっては、特別をんですよ。」
「ほほう、特別?」 magycut-1.jpg
「そうです。ほんとは家内のマギーも、いっしょに連れてきたかったんですがね、びんぼうな工員じゃ、高い入場料をふたり分もはらえません。そこで、わしが家内の分までよく見て、あとでよく話して聞かせようってわけです…。あの山は、わしらにとって、わすれられない思い出があるんですよ。」
「なるほど、そうですか。実はわたしにとっても、あの山には一生わすれることのできない思い出があるんです。」
「それで、年よりがこうしてふたりそろって思い出にふけってるってわけですかね。」
「どうでしょう。おたがいに思い出を話し合おうではありませんか。」
「それはおもしろいですな。」
「では、わたしから話しましょうか……。」

不思議な足場

「じつは、わたしはフォレスターです。」
「えっ? では、あなたが、このフォレスタ一山のフォレスターさんですか?。」
「そうです。」
「これはいい人に会えました。うちへ帰ったらマギーに話してやります。きっと喜びますよ。早く話を聞かせてください。」
「あの山は、それまで人をよせつけをいほどけわしく、とてもきけんでした。一つ一つの岩場をこえるのが、まったく命がけでした。岩場と岩場の間には氷や雪がはりつめ、クレバス(われ目)だらけで、つるつるです。もしすべってそこに落ちたが最後、数百メートルのまっ暗なあなの底に落ちこみ、永久に出られないでしょう。谷は千メートルも二千メートルも、びょうぶのように切り立っていて、下を見ると目がくらむようです。
 けれど、さいわいわたしはふたりのすぐれた案内人の協力のおかげで、どうにかちょう上近くまでたどりつくことができました。そこから先はわたしひとりで登らねばなりませんでした。ちょう上まであと百メートルほどです。けれど、その百メートルは、一万メートルにも感じられるほどでした。きりのように、まっすぐに大空につきささっているそのいただきを、どう登ったらいいか、わたしはため息をついて見上げました。
『なるほど、だれも登れないはずだ。が、山である以上、人間が登れないはずはない。よし、きっと登ってみせる!』
magycut3 わたしの心のおく底から、むくむくと、いままでにないほどの勇気がわき上がってきました。わたしは、ピッケルで、注意深く、一つ一つ足場をきざみながら、一足ずつよじ登っていきました。二十メートルほど登り、ある岩場を右に回りかけたとき、もうれつな風で、ふっとばされそうになり、はっと岩角にしがみつきました。そのひょうしに、大事なピッケルを落としてしまったのです。ピッケルは、はるか谷底に小石のように落ちていき、見えなくなりました。風はますますはげしくふきあれ、岩角にへばりついているわたしを、ひきはがそうとします。わたしは死にものぐるいで岩にしがみついていました。二十分ほどすると、風はうそみたいにやみました。
『どうしようか? ひき返そうか?』
 わたしはてつぺんを見上げて、ちょっと考えこみました。が、『よし、まだ登山ナイフがある。登れる所まで登ろう。』と、決心しました。わたしは、大型の登山ナイフで足場をきざんで、また一足ずつよじ登っていきました。おりるときのことを考え、できるだけしっかりと足場をきざみました。さもないと、せっかくちょう上に登っても、おりるときつい落してしまいます。『登山とは、おりることなり』ということばがあるほどですからね。
 ところで、あと二十メートルまでたどり着いたわたしは、そこで立ち往生してしまいました。カチンカチンにこおって、ナイフのはがたたないのです。
『あと、たった二十メートルなんだ。足場さえきざめれば、なんとか登りきれるのに、残念だなあ…。』
 わたしは、くつのつま先しかかからをい足場の上に立ったまま、どこかに足がかりはないものかと見回しました。変わりやすい山の天気で、いつまた強風がふきあれるかわかりません。そうなったら、数千メートル下にふっとばされるでしょう。気が気ではありません。いや、ほんとのところ、気がくるいそうでした。
magycut4
『落ち着け! 落ち着け!』
 わたしは、自分にいい聞かせながら、つるつるにこおった岩はだをにらみ回しました。すると、一か所光のちがうところが、すぐそばにあるのに気がつきました。ぐさりとナイフをさしこんでみますと、そこの氷がパラパラかけて、その下からふいに足場があらわれたのです。わたしはびっくりし、自分の目をうたがいました。が、それはたしかに、だれかがきぎみこんだ足場なのです。とすると、すでにこの山のちょう上にはだれかが、わたしより先に登ったにちがいありません。が、その人は、だれにもそのことを告げなかったのです。
 光にすかしてみると、足場は次々と見つかりました。わたしは氷をはがし、足場を見つけだしては、よじ登り、ついにちょう上にアメリカ国旗を立てることができました。わたしは、この不思議な足場のことを山がく協会にくわしく話しましたが、
『フォレスターさん、それはあをたの目のくるいですよ。』とだれも信じてくれません。が、わたしは、だれかがわたしより先にあの山に登ったと、いまでもかたく信じています。そうです。山に登るのは登山家だけではありませんからね。ですから、わたしの名があの山につけられたのを、わたしはその人に対して、すまないと思っています。」

世界一のプレゼント

 フォレスターの話を聞いているうちに、老人の目は、生き生きとかがやいてきた。
「フォレスターさん、あなたはちょう上で何か見つけませんでしたか?」
「いいえ、わたしも、前の人が何か残していかなかったかと見回しましたが、何も見つかりませんでした。それに天気がくずれそうになったので、よくさがすひまもなく、急いでおりなければなりませんでした。」
「そうでしたか。もっとよくさがせば、古い、さびついたランタン(ランプ)があったかもしれませんよ。」
「ランタンが?」
「ええ、わしが、マギーのためにともして、置いてきたものです。」
「あんたが、あそこに? こりやあ、たまげた。」
「なあに、わしは山で育ったし、小さいときからきこりをしていたから、山にはなれています。ただ、あの山には初めて登ったんです。かわいいマギーのためにね。ハハハ。」
「それはどういうわけです?」
magycut6「わしはあの山のこっちの村、マギーは山のあっちの町に住んでいました。クリスマスに、わしらは結こんするはずでしたが、わしはびんぼうなきこり、マギーは店員、どちらもお金がありません。それでわしは、春まで結こんを待ってくれと手紙を出しました。
 マギーの返事には、『どうかクリスマスには、わたしのことを思い出して…』と書いてありました。わしは、やさしいマギーのために、ダイヤモンドなんかよりもかがやく心のおくり物をしよう、クリスマスの最高のプレゼントをしようと思いつき、そのことを手紙に書きました。『愛するマギーよ、クリスマスのばんに、となりのおじさんからそうがん鏡を借りて、いちばん高い山のてっぺんをのぞいてごらん。きっとそこにわしの真心のプレゼントが見えるよ。』とね。いやあ、あのクリスマスのばんは、風もなく、とても静かでしたよ。山のてっぺんには、一ばんじゅうランタンの火がかがやいていて、あとでマギーは、『世界一のプレゼントをもらった。』と大喜びでしたよ。
magycut-7.jpg あの山のてっぺんに登るため、わしは二日がかりでじゅんびしましたが、登り始めてからは、少しでも早くあそこにランタンをともしたい気持ちでいっぱいでした。ひどくけわしい、あぶない山だとは思いましたが、マギーを喜ばせたい一心で、むがむちゅうで登りましたよ。山育ちのわしですから、山の登り方くらいは、少しは知ってますし、体力には自信がありました。
 いまはこうして町で工員をしていますが、三十年前のあのことを、いまでもときどきマギーと話し合いますよ……。」
 フォレスターは、深いため息をついて、感動にあふれたまなざしをその老人に向けた。
「いい話です。りつぱです。美しい話だ。」
「なあに、びんぼうなわしが、心からのプレゼントをしてやりたかっただけですよ。」
 ふたりの老人は、かたいあく手をして、だまったまま顔を見つめあった。もう人気のなくなった、ひっそりとした会場には、夕日がさしこみ、二本の木のように立ちつくすふたりの老人を見つめるのは、「フォレスタ一山」の絵だけであった。
 そして、老人は、別れを言って立ち去った。後に残ったフォレスターは、とつ然会場に鳴りひびいたへい館を知らせるベルに、われにかえった。
 フォレスターは、絵に近よると、「フォレスター山」と書いてあるふだのフォレスターという字を消して、「マギー」と書いて、静かに立ち去った。
(終わり)

★この話は、”岩と雪”40号(山と渓谷社)『槍ヶ岳からの黎明』高田直樹・文より四年生向きに書き直したものです。

マギーの山

小学館『小学四年生』「マギーの山」紹介

 山と渓谷社の季刊誌で、山の世界では最も高級誌とされている『岩と雪』に、登山と「神話」の連載を始め、その連載3回目の「槍ヶ岳からの黎明」が出てすぐの頃でした。
 突然、小学館から電話がかかり、『小学四年生』という学習誌に、著作を掲載せさせてほしいという依頼でした。
その『槍ヶ岳からの黎明』についてにある、ピクソール女史の「山頂の灯火」のお話を、小学生向きにリライトして載せたいのだが、いいでしょうかということでした。
 あれは、僕が作った話じゃなくて、あそこにも書いておいたように、外国の作家のオリジナルです。どうぞ載せて頂いて結構です、と返事しました。
 でも、小学館からは、律儀にも何がしかの稿料が送られてきたように記憶しています。
 それにしても、この『山頂の灯火』ほのぼのとして、なかなかいいお話ではあります。
 文もカットも、素敵です。
 末尾に載っていた、「山はだれのもの、生き方をくらべてみよう」という東京都成蹊小学校の先生の設問も、掲載しました。考え込んでしまうような内容ではないでしょうか。

「マギーの山」本文
「マギーの山」生き方をくらべてみよう

「ラップトップ型パソコン活用法」

PC-98LT

日本の歴史的コンピュータ

 googleで「PC98LT」を検索すると、かつてあった【日本の歴史的コンピュータ】 と言う項はなくなっているが、 と言う項はなくなっているが、パソコン博物館で詳細を見ることができる。
この日本初のラップトップコンピュータ、PC-98LTは1986年10月に発売された。
 前稿「ぼくの夢のパソコン」(『Oh!PC』誌1985年新年号)の「パソコンが作家になる日」でも書いているように、アウトドアで使えるパソコンを待ち望んでいた私は、即購入し実際にテストするべく、同じ年1986年の暮れからネパールに飛んだ。
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 ポカラのサランコットの丘(1592m)に馬で登り、この小山の上でラップトップを使ってみた。
 今日では、むしろ主流となったラップトップパソコンの屋外使用および1592mの高所での歴史的使用記録といえるだろう。

 帰国して、BBSにアクセスしてみると(当時は、インターネットはなくBBSが意見交換の場だった)このLTが大いに話題になっていた。
 海外に持ち出せるだろうか?セキュリティーチェックのX線の被害は?税関で課税されないか等など。
 「年末から年始にかけて、ネパールに行って使ってきましたよ」と、私は書いた。

 すぐにメールが来て、『日経パソコン』ですが、取材に行きたい。翌日には、東京から斉藤記者が来宅した。

 そしてこの『日経パソコン』に載ったのが次の記事である。
 その後、私自身は、このLTにPASCAL言語をインストールし、メモソフト「メモランダム」(株式会社ソフトバンク刊)の開発やパスカル言語関係の著書の執筆に使用した。

—-日経パソコン1987年2月23日 特集「ラップトップ型パソコン活用法」
日経カバー
アウトドアでラップトップを使う
 ラップトップ型パソコンの利用例として,一番最初に頭に浮かんでくるのは,出かける先に持っていくこと。これこそ,ハンドヘルド以来の携帯パソコンの“正統的”な使い方だといえる。出張や旅行などの移動中に,また出かけた先で,ワープロで文書を作成したり,表計算ソフトを使って旅費の精算に使うなどが最も一般的な使い方だ。
 高田直樹さん(50歳)の場合は,そんなラップトップユーザーの代表的な例だ。高田さんは,京都府の高校で化学の教師をしているが,登山家としてもかなり名を知られた存在だ。大学時代から本格的に登山を始め,カラコルムのラトックIなどを踏破した。

 今では,「4年前から始めたパソコンに夢中で,少し山から遠ざかっている」(高田夫人)。それでも昨年の暮れ,友人から誘われてネパールに出かけた。もちろん,愛用のPC−98LTを携帯した。ネパールでは,「サスケを使って,おもに日記をつけたり,メモ代わりとしてLTを使っていました。時には,パスカルで遊んだりもしました。おそらく最も高い地点でLTを使用した記録でしょう」と高田さんは語る。このあたりの事情は,日経マグロウヒル社が主催している電子会議,日経MIXのラップトップ会議に高田さん自身がレポートしている。
 もっとも「ラップトップ」らしい使い方は「いつでもどこでも文書を作ったりシミュレーションができる」というものだろう。この目的のためにはAC電源を必要としないで使えることと,軽く,小さく,かさばらず携帯性がいいことが極めて重要なポイントになってくる。仕事の中でパソコンを使う比重が高まってパソコンが使えない「空白帯」が極めてまずいものになってくる。当然電車の中でも,喫茶店でも使えなくてはならない。まわりの視線など問題ではないのだ。
 表計算ソフトを使うというのであれば画面が大きく,PC−98LTのようにソフトもそれなりに揃っていなければいけないし,オフィスのパソコンとデータを共有するためにフロッピーディスクもあったほうがいい。

書斎スナップ
 自宅では,セカンドマシンとしてLTを使用している高田さんの書斎にはLTのほかにPC・9800VMとPC−9800Eがある。VMには,ハードディスク,8インチと3.5インチのフロッピーディスク装置が接続されている。ここで高田さんは,よく自分でプログラミングをする。生徒の成績管理ソフトぐらいは朝飯前で,時には商店の顧客管理を頼まれて作ってしまうほどだ。プログラミング作業はおもにVMを利用するが,その途中で「パソコン通信をしたくなったときは,それこそ膝の上にのせて使います。気分を変えて,ほかの部屋でパソコンを使うのも簡単」(高田さん)という。
 登山やパソコンのほかに,バイクに乗るのも趣味という高田さん。毎日学校まで900ccの大型バイクで通勤している。「バイクの後ろにPC・98LTを積んで,ゴムで留めて持っていきます。振動にも強いようですよ」と笑う。

 多趣味なために,「風呂にはいっているとき以外は,常に複数のことをしている」「PC・98LTをトイレに持ち込むのも時間の問題」と高田夫人は心配するが,本人は「今はLTを使うのが楽しくてしょうがない」そうだ。「アウトドアで使うというのが,僕のコンピューターの利用テーマの一つでした」という高田さんは,「電池で動かないのは,ラップトップとはいえない。屋外でないにしても簡単に持っていって使えることが最低の条件」とラップトップ型パソコンを定義する。