「ボクの夢のパソコン」(『Oh!PC』1985年)

OhPCカバー『Oh!PC』1985年1月号 特集「ボクの夢のパソコン」

登山家とパソコン。ちょっと妙な取り合わせのような気もする。
バイク,スキー,釣り,オーディオと多くの趣味をもつ高田さんにとって,いまや最大の楽しみはパソコン。世界の高峰を征服してきた登山家・高田直樹としての夢を語ってもらった。

 パソコンが作家になる日

 もうずうっと前のような気がしていましたから,勘定してみたらちょっと驚いたんです。ぼくの家に初めてパソコンが来てからまだ丸2年しかたってないんです。
 ちょうど2年前の1982年の暮,ナカムラデンキさんが88のフルセットを運び込んできました。たしかあれは夜の10時頃だったと思います。
 ありあわせの机に本体を置き,その上にディスプレイのPC−8853。プリンタを左に置いて…‥と,ナカムラデンキさんは,テキパキと作業を続けてゆきます。右の床の上に梱包の箱の発泡スチロールを土台にして8インチディスクユニットPC−8881がデンと座り,特有のフアンの唸りをあげ始めました。

 それでぼくが初めてしたことといえば,「カラスのリンゴ喰い」のプログラムを打ち込むことでした。これは1か月程前に買った雑誌に載っていたプログラムで,マルチステートメントが使ってあるからなのですが,わずか6行のプログラムなのです。リンゴの木にリンゴが一面に生って,40字モードのキャラクター〈W〉のカラスがチラチラしながら飛んで,リンゴを喰い荒してゆくというものです。
 まあそういう情景になるというのは,大分あとになってから分った話です。その時は,打ち込んではみたものの,全然動かないのです。ぼくは少々ムキになりました。バグを拾うといってもたかが6行です。ついつり込まれてデンキさんもチェックを始めました。
「おかしいなあ。どっこも間違いないみたいやけど……」と,彼はリファレンスマニュアルを調べだしました。彼は,1年もの長があるので,ぼくは黙って彼にまかすことにしました。それでも,分らぬままについ口出ししたくなり,それで2人してああでもないこうでもないとやっているうちに時間がどんどん流れたようでした。
 そして,ようやくカラスが飛び,リンゴを喰った時,もう夜は白んでいたのでした。

 考えてみれば,パソコンとの対決はあの時に始まったといえるようです。それから毎日,ぼくの食事をする時とトイレに行く時以外は,CRTと向き合ったままでした。ほとんど数時間しか眠りませんでした。晩酌もタバコも止めました。酒を飲むと頭が回らなくなるからだし,くわえ煙草もよくなかったからです。とにかくどうしてなのかよく分らなかったのですが,無我夢中でやみくもにムキになっていたようです。
 山登りでも,たとえばヤブ山などで視界が全く利かず,現在位置が判然としない時など,とにかく上に行けば見晴しが利くようになるだろうと必死に先を急ぐことがある。ちょうど,そんな具合だったのかもしれません。

ぼくがパソコンを買おうと思ってから,実際に購入するまでに約2年のズレがあるのですが,これには少々理由があります。
 4年ばかり前,山と渓谷社から『なんで山登るねん』というちょっと変ったタイトルの本が出ました。これはぼくの3年間の連載をまとめたものでした。
 この本も,続いて出した書下しの『続なんで山登るねん』もよく売れるので,出版社は柳の下の3匹目のドジョウを狙ったわけです。一方,依頼を受けたぼくの方は,お金は欲しいけれど,あんなホテルに缶づめになるような書下しはイヤですと断わり,そこで2年間の雑誌連載の後に本にするということになったのです。
 ぼくがパソコンを買う気になりだしたのはこの頃のことでした。PC−8801が出てしばらくたった頃だったはずです。普通の場合,いろいろ調べてみるけれども,買うとなったらパッと買うという感じのぼくも,この時はいろいろ理由づけをしては思い止まったようです。たぶん,買ったとたんに連載原稿が書けなくなるだろうことを,ぼくは予想していたのでしょう。
 82年の暮,連載の終了と同時にパソコンが入ります。ところがその矢先,単行本のぺ−ジ割を増やしたいので少し書き足してほしいという話です。このたかが5,60枚の原稿が,ほんとに書けませんでした。なにしろ,BASICコマンドが頭の中を駆けめぐっていましたから……。苦しまぎれに 〈アルピニストもマイコニストも根暗の極致〉などという一項を設けたりしています。

 約半年の遅れで出版された『続々なんで山登るねん』の表紙の男の顔は,疲れ果てた表情のハズです。あれは,前日の昼過ぎから約27時間ぶっ通しでパソコンに向かい続け,辛抱強く待っていたカメラマンに「光線の具合がもうギリギリです」とせかされてようやく撮った写真を元に日暮修一さんが描いたイラストなんです。
 あの時にぼくはたぶん,「しりとりゲーム」でパソコンがどんどん強くなるプログラムか,言葉のやりとりができるプログラムを一心に作っていたのだと思います。考えてみれば「カラスのリンゴ喰い」とさして変らず,パソコンの何たるかも知らなかったといえるでしょう。
 すぐにCP/Mを使いだし,数か月後には,出たばかりのCP/MPLUSを購入します。これで漢字を使って日記をつけて感激したものでした。コードを使わずに漢字が入力できたのです。
 今なら,こんなことは「入力フロントプロセッサ」というソフトを使えば文節変換で一瞬にしてできてしまいます。そしてぼく自身,ちょっとした業務用のオーダーソフトを組んだりもするようになっている。なんだか夢みたいな話です。

パソコンイラスト
先頃,月刊誌「山と渓谷」から新年号の原稿依頼があり,テーマが「夢の山行」でした。どんな有名な登山家でも,やはり夢のプランというものがあるはず……。それを披露してくださいというものでした。困ったことにぼくにはそんなものは何もなかったのです。
 しばらくすると,今度は「Oh!PC」から「ボクの夢のパソコン」で,なんとも夢の大はやりのようです。やはり一向にイメージが湧かず困り果て,女房に,「山登りに結びつけて夢のパソコンというテーマなんやけど‥…。山に必要なパソコンてどんなんや」ときくと,「山へそのキカイ持っていって,ビデオカメラみたいなもん振り回したら,地形図ができて,毎日の天気図も書いてくれて,それで登頂したら,その結果はすぐ世界にとぶというようなんかが夢のパソコンとちがう」
 それでぼくが考えたことといえば,地形図を書くキカイとなると結構かさばるし,重量もあるだろうな。ポーター1人は必要かな。動かす電気を作るのに発電機がいるやろな。ベースが5千メートルを超えていたら,発電器を回すために酸素ボンベがいるなあ。マイナス20度になってもコンピュータは働くのだろうか……などなど。
 まずそういうあたりから気がかりで,とても女房のように単純に先の方までは考えられなかったのです。
 ヒマラヤ遠征登山隊の中には何十人もの人間が営々といくつも中継テントを作って荷物を担ぎ上げ,数人が頂上に立つという,いわゆる極地法登山をやるものもある。そういう隊では荷上げ状況の把握が重要で,ベースキャンプの指令室ではシミュレーションをしながら荷上げ管理を行うのが普通です。そういう時に,優秀なハンドヘルドとソフトがあればひじょうに有効でないかと思います。
 でも,ぼく個人としては,そういう遠征隊は会社が山へ移動したみたいなもんだと思うし,登山に在庫管理ソフトもどきを使いたくないという気分なんです。

パソコンの進展というものは,ハード・ソフトが一体となって進むものだと思います。そして,そのそれぞれには1つの方向が見てとれるように思うのです。
 ハードからいえば,小型化と高速化と大容量化。それに加えて低価格化です。これらは,自明のことのようでたいした説明も必要としないでしょう。ただし,小型化に関していえば,何でもかんでも小型にすればよいというものではありません。ディスプレイが板状に薄くなるのは結構です。でも,キーボードのキーは指の大きさとの関係で,とにかく小さくなるほどよいというものではないと思います。
 ソフトに関しての方向は,プログラム記述言語の簡易言語化ということだと思われます。
 かつて,いわゆるニーモニック全盛の時代,BASICは簡易言語でした。ところがいまやBASICはニーモニックに近いようにぼくには思われます。これはたとえばdBASEIIで1つのコマンドが,BASICでは何行を要するかを思えば理解できるでしょう。
 さらに,間もなく「第5世代」となり非ノイマン型のコンピュータが動くようになれば,プログラム言語の記述は飛躍的に自然言語に近づくと思います。
 さて,こんなことで「ボクの夢のパソコン」を語ったことになるでしょうか。もう少し具体化してみましょう。
 ハードは,PC−9801が,今ぼくが使っている「腕ターミナル」に入ってしまうこと。ソフトに関していえば,書いては捨て書いては捨て,苦しみ抜かねばならないこんな原稿を,思いつくままに入力してから,論旨を指示してコンパイルし,エピソードをリンクしたら,何の苦しみもなく自動的に作ってくれる,そんなワープロができること……。まあそんなところでしょうか。

略歴〔たかだ なおき〕
1936年9月生まれ,京都府立大卒
1975年 ラトックII峰遠征
1979年 ラトックI峰遠征
『なんで山登るねん』『続なんで山登るねん』(山と渓谷社),『いやいや まあまあ』(ミネルヴァ書房)など著書多数。本職は高校(京都・桂高校)化学教諭

ラホールの蒼い月(1970)

 遠い回教徒の国の月はしっとりとうるんでいた。

 そしてイシャッドは「ダラット、ダラットホーギー・・・・・・!」とささやいた。ラホール1
ラホールの蒼い月
 
″ファーシト・クラース!″
 ラホールの空に月がのぼった。まあるいおぼろ月だ。しかし、日本のそれとは色がまるでちがう、蒼白く澄んだベールをかぶった砂漠の月だ。
 同室のジョニー君と相談して、今夜は別行動をとることにする。そして、このツインの部屋は先に帰ってきた方に利用権があるという申し合わせをした。
 十時を少しまわっている。ちょっと遅すぎるかもしれないが、アブレた上物を買いたたけるという利点がある。エアコンのきいた部屋から出ると、四十度の暑さが足からはいのぼってくる。ホテルの前で客待ちのモーリスのタクシーに乗り込んだ。
「旦那、どちらへ」
 パキスタン英語ではない。変にインテリ臭い運チャンだ。眼鏡などかけている。
「アッチーラルケー・マグターフーン(いい女どもが欲しいんだ)サブセ・アッチーラルキーハイ?(うんといい女はいるかい)」
 こっちはウルド一語でベラベラしゃべる。お上りさんに見られると、とんでもない目にあうことうけあいである。運チャンは「ボホットヘー(沢山いるよ)」ときた。
「旦都、どこの国の女がいいのか。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、パキスタン。旦那の望み通りだよ」
「俺はパキスタン女だ。アメリカやヨーロッパの女にはもうあきた。奴等は気位ばかり高くていかん。やはりパキスタン女が最高だよ」
「アッチャアー(へえー)」
 と運チャン。私のセリフは彼のプライドとナショナリズムをくすぐったらしい。ここぞと笑顔を作って値を聞くと、いい娘ならオールナイトで五百ルピーが相場だという。これは高い。なにせ私のポケットには二百ルピーしかない。だいたい持金が多いと強気で値切れないものだ。それでこれだけしか持ってこなかったのだ。
 ところで今どこを走っているんだろう。マール・ロードを左に折れたのは分ったが、それからがおかしくなった。メーターは五ルピーを示している。
 まもなく車は、裸電球がずらりとぶら下り道の両側に露店が並んだバザール(市場)を抜けたところで止まる。運チャンは小声でしばらく待つようにいうと、どこかへ姿を消した。バザールの食いもの屋のラジオがボリュームいっぱいに歌謡曲をがなりたてている。
 運チャンが連れてきた五十がらみの親父を助手席に乗せると、車は再び夜道を走り出した。一体どこへ行くのだろうと多少不安ではあるが、聞いたとしても分ろうはずがない。どうせ行先はあなたまかせだ。
 シートの背にもたれて目を閉じる。身体がけだるいのは、ホテルを出るまえにひっかけたスコッチのせいらしい。それにしてもどこまで走るのだろう。メーターは十二ルピー五十パイサを示している。
「おい、まだか!」
「もうすぐだよ、サーブ」とガイドの親父が大きくふりむいた。痩せたポパイみたいな顔をしている。曲者らしい。
「本当にいい女がいるのかい」
「最高の女だよ。第一級だよ」彼はしきりに″ファーシト・クラース!″と声をはり上げてくり返した。
「だが値もはるよ。千ルピーだ。嫌なら止めてもいいんだよ、サーブ。別の安いところを捜してもいいからね。でも、遅いから無理だろうね」
 私は平然として言ってやった。
「そうか、俺は二百ルピーしか無いんでね。残念だが、ホテルへ帰るとするか。お前には一ルピーのボクシス(チップのこと)をやろう」
「分ったよ、サーブ。五百ルピーにしますよ」
 あっさり半額になる。
「ナヒーン。ドゥ・ソウ(いや、二百だ)」

最高はカシミ−ルガール

 いい争っているうちに目的地についたようだ。ラホール近郊の住宅街といった場所らしい。運チャンを車に残し、ポパイの後について細い露路に入る。蒼白くうるんだ月は大分傾いた。うす暗い道を足元に気をつけながら続いて行く。二曲りしてからポパイ親父は土塀のくぐり戸の中へ消えた。かわりに若い男が現れ、いやにひっそりした声で「アイエ、アイエ(お入り、お入り)」と私を呼んだ。
「サラーム・アライクム(こんばんは)」と答えたものの、一瞬身体がひきしまるような恐怖が私をとらえた。ふと、襲われるかもしれないと思ったからだ。
 中庭は暗くてよく見えないが、木製のベッドが二つ置いてある三坪ぐらいの客部屋に入る。壁の色はグリーン、ベットのわきにソファーとテーブル。普通のプライベート・ハウスだ。
 パキスタンの娼家はバブリック・プレースと呼ばれる公娼と、プライベート・ハウスと呼ぶ私娼とに分かれる。パブリック・プレースは″ショートがおみやげ付きで一ルピー″などといわれ、安い。しかし、女は見ただけで鳥肌がたつような代物で、両肩がすれるほど狭い露地をドブの悪臭をこらえて通ると、
「カムイン、カムイン」と声がかかる。まあ見るだけにした方がよい。
 一方、プライベート・ハウスは主に外人用で、高級に属する住宅街にあったり、普通の一般家庭にあったりする。ショートで五十ルピーぐらい。大きなものでは十数人の女がいる所もある。ボスと用人棒(必ずといっていいほど大男)二人ぐらいがいる。そこでは普通次のようにして女を選ぶのがこつだ。
 まず二、三人、時には五人ぐらいの女が現われてずらりと長椅子に並ぶ。ドラヴィダ系の色が黒く小柄な女ばかりで、まずこれといったのはいないはずだ。一応見渡してから無言で立ち上り、戸口に向かう。必ずボスがサ−ブ(旦那)と呼び止める。このへんがこつたるところで、あまり物欲しそうな顔と目付きをしてはいけない。たとえ息子がいらだっていてもだ。
 ボスが顎をしゃくると、女たちはさっと別室へ退き、かわって数人が現われる。今度はかなりのセンのはずだ。ここで値段を聞いてもよいが、念のため「ドゥスラ・ナヒーン?(ほかにいないのか)」と聞くべきだ。大低これで終りだが、時としてアッと驚くほどの上玉が一人で現われることがある。とっておきなのである。例えばカシミールガール。パキスタンでは美人の代名詞のごとく使われ、体格よく、色白で目もとパッチリ、面長で下ぶくれのした本当に世界に類のない美しさだ。これが現われたらサイフの軽くなるのは覚悟しなければならない。

ハッとする女が……

 さて、ここはどうかというと普通の家だしそんなに沢山の女がいるとも思えない。聞くと一人だけだという。少々面喰った。どうせ大したことはあるまい。見るだけで帰るとするか。見料(見るだけでも少々の金をとられることもある)はいくらぐらいだろう。なあに、一ルピーも払ってやらないぞ。
 若い男とポパイが話しあっている。
 「このサーブは二百ルピーにしろといっている」「そんな無茶な、五百ルピーだ」
 この家に入った時からの緊張がとけると、暑さがグワーンと身体をせめたて、汗が一気に吹き出してきた。ハンカチを取り出しながら若い男を観察すると、なんとこの男、アンソニー・パーキンスそっくりだ。しかし、この国にはウィリアム・ホールデンそっくりの靴みがきなどざらにいるから、別に驚くにあたらない。このアンソニー君と交渉した結果、三百まで下ったが、どうしてもそれ以下にはならないと言う。ここで私の決心はついた。見るだけで帰ろう。
 しかし現われた女性を見て、ハッとなった。いわゆるカシミールガール・タイプではないが、美人だ。身長百六十センチたらず、丸顔だが何ともいえぬ気品がある。彼女は私の横に座るとジッと眼を見てからニコリとした。歯がチラリとのぞき、私はもう一度ハッとした。こんな女性は始めてだ。私は勢い込んで言ってしまった。
「本当に俺は二百ルピーしか無いんだ。しかしホテルにはある」
 私はもっと持ってこなかったことを、この時悔んでいた。残りはホテルで支払うことになったが、ホテルの名を告げると、彼女はそのホテルは嫌だという。何でも従兄弟がボーイをしているから、見られたら困るということらしい。そしてフラッティでなければ嫌だという。フラッティというのは、ラホールで一番古く格式ある高級ホテルである。
 私は二百ルピーを若い男に渡すと、ポパイと二人で先に車へ引き返した。彼女は外出着に着がえて後から来るらしい。もう一時近いというのに茶店には人々が群れている。運チャンは車を人目につかない方へ移動させ、そこで彼女を待った。
 まもなく黒いサリーを着、黒いブルカ(ベールのこと。回教徒の女性は屋外ではこれをかぶる)をかぶった彼女が老人とともにやってきた。父親らしい。車に入る前に、老人と軽く抱き合った。

″シングルで充分よ″

 彼女は十八才、名前をイシャッドという。少々英語が話せる。私が君の英語と同じ程度のウルドー語が話せると言うと、「それだけ使えたら、パキスタンではいい生活ができますわ」と答えた。いつのまにかイシャッドは私のひざに軽く手を置いている。それがひどく優しい感じで私のココロはふるえた。
 車はホテル・インターナショナルの前にきた。私は「ここで待て」といい置くと大急ぎで部屋に引き返す。
 ドアの前で入念にノックをくり返す。ひょつとしてジョニー君が女と二人で居るかもしれないと思ったからだ。シャワーの音がしている。奴め、一緒に風呂など入りやがってと思い「ヘイ、ヘイ」と大声で呼んだ。ジョニーがバスタオルを腰と肩に二枚まとって現われた。
「僕はアブれた。何あわててるんだ」
 私が、金が足りなくて取りに戻ったというと、彼はポカンとして「そんなにいい女か」とびっくりしている。
 「イエース、イエース、ファーシト.クラース」私はポパイみたいな口調になった。
 ペンタックスにカラーをセットし、ストロボのバッテリーを入れかえる。部屋を出がけにジョニーが「いいのを撮ってこいよ」と多少うらやましそうな顔になった。
 小走りに道に出ると車がない。わが眼を疑った。いくら見回してもそれらしい車がいないのだ。やられた! 俺としたことが何というざまだ。無性に腹がたってヒザがガグガグとふるえた。考えてみればこういう可能性は充分にあったわけだ。というより至極当然の話なのだ。ポパイか運チャンを部屋に連れて行くべきだった。それに気がつかなかったとは今夜の俺はどうかしている。畜生! ナメヤガッテ! 心でののしりながら、まあ落ち着けと煙草に火をつける。
 その時だ。モーリスのタクシーがスーツと前に止まり、窓からイシャッドがのぞいて笑つている。この時私はよほど間の抜けた顔をしていたに違いない。
 フラッティへ車が滑り込むとイシャッドは「オー、オホー」とおどけた調子でいいながら、それまで頭上にまくり上げていたブルカをバッと下した。数人のパキスタン人が立ち話をしているが、ブルカをかぶれば顔は全く見えない。ブルカとはなるほど便利なもんである。だだっ広いパーキングの片隅に車を止めると、運チャンはこう言った。
 「サーブ、いいですか。これから受付に行き、今ラワルピンディから着いたから部屋をとりたいとおっしゃい。彼女はボーイがさがってから私が連れて行きます」
 ダブルとツインとどちらがいいかと聞くとイシャッドは「シングルで充分よ」と恥ずかしそうに言った。

ダラット、ダラット……

 やっと二人きりになった。エアコンのよくきいた気持のいい部屋だ。このホテルは全部が平屋造りになっていて、その点プライバシーが保てる。しかしイシャッドは「チャビー、チャビー(鍵)」としきりに気にしている。
 シャワーを浴び、ビールを飲む。もう二時をまわっていた。イシャッドは私のそばに座り、時々そっともたれかかってくる。彼女の美しさと優雅さを思うと、もうこれでいいような気もするが、私は若い。
 写真を撮りたいというと、彼女は直ぐに応じ、服装を整えるとサッとポーズをとった。私は思わず次のような.バカげた問いを発せざるを得なかった。
「イシャッド」
「ジー(はい)」
「お前の商売は何なのだ」.
 彼女のポーズはそれほどピタリと型にはまり、絵になっている。
 私のカンはある程度あたっていた。彼女はパキスタン・ダンサーなのだ。映画にも出ており、イシャッドといえば知る人も多いらしい。ヌードを撮りたいというと、
 「今はダメよ」
 後からならいいらしい。
 ビールを二人で三本飲んだ。彼女の方からねむいといいだしたので、ベッドに入ることにしたが、さすがの私も今回は少々興奮した。シングルベッドというのは、本当にふたりがピッタリとくっつかないと転げ落ちそうになる。
 イシャッドにそっと手をのばして今日は金曜日だったと気がついた。というのは、回教徒は男も女も金曜日にアソコの毛を剃る風習があるのだ
 インャッドは熟しきらないリンゴのようだった。彼女がその時に言った可愛いいささやき、「ダラット、ダラット ホーギー(痛い、痛いワ)」は、その後も私の耳に数日間残っていた。

コーカサスの山と人<下>

コーカサス2★コーカスの山と人<下>
山に登る。そしてお別れ‥‥
通訳をしかる
 7月16日、荷上げ。一行は14人。私たち10人の日本人とニコライ、ギャナディ、それにインストラクターのボリス、1級アルピニストで、救急隊のスタス・ババスキンである。
 歩き出して10分と行かぬうちに、私は後悔した。「しまった。こんなもの持つんではなかったわい」
 荷分け係が、「隊長、サラミソーセージ10本とバターを2個、お願いできますか」なんだそれくらいと思ってOKしたのが間違い。現物を見て驚いた。
 サラミは、普通の倍近くの太さで、ミレーザックからはみ出すほど長かった。バターは、一つが食パンの倍くらいの大きさだったのだ。けれど、皆はもっと沢山持っているし、私より年寄もいるとあっては、とても不服などいえたものではない。
 半時間と行かぬうちに私は落伍した。どうせ今日は中間点にデポするだけ。ゆっくり行けばよい。そう思って、シヘリダ氷河の融水が濁流となって、たぎり流れるのをはるか左下に見ながら、私は針葉樹林の間を登って行った。
 突然、行手の樹の根元からニコライが立ち上がった。「荷物を持ちます」彼のザックはなかった。空身のギャナディに渡して、私を待ち受けていたらしい。
「ニェット、スパシーバ(いや結構)」
「持ちましょう」ニコライは繰り返し、私も「いやいらん。ワシが持つ」と繰り返した。
 私がこの彼の好意を受けるのをためらったのには、理由があった。「通訳はそれ以外の仕事はしなくてよい。通訳を完全にやれ」と彼をしかりつけたことがあったからだ。一昨日のこと。日本隊は、フランス隊と一緒にイトコールへ出かけた。イトコールホテルでは、ソ連山岳連盟副総裁を交じえて、レセプションが行なわれた。
 ここではっきりと分った。ニコライとフランス隊付の通訳とでは、全然態度が違うのだ。ニコライはこちらから催促しないと通訳しないで、タバコをふかしていたりした。
 向こうは本職でニコライはアルバイト、そういうことではない違いがある。これに気づいたとき、これは一言いっておかないといけないと思った。
「ニコライ、君の仕事は何なんや」「どうしてそんなこと開くのですか?」彼は少々気色ばんだ。「今日の君の通訳はまるでだめや。フランス隊を見てみ」
 すると彼はムッとして、「そんなことはないんです。去年にはそんなことは一回もいわれなかったんです」
「いいか、ニコライ。去年は去年、今年は今年や。お前は通訳やないか。お前一体何しに来たんや」私も少々頭に血がのぼってきた。
「ボクは、皆さんが山に登る手続きや、ルートの打合せを助けるんです。今日のようなのは何ですか! 何の意味もない。無意味なスピーチですね」

<ウシバ・コルより見たエルブルース山。下はシヘリダ氷河>エルブルース山 私は頭にきた。「無意味でも有意味でもお前の知ったことか! お前の仕事は通訳や。通訳というのは、オレたち10人の日本人の耳と口になることや。それだけを考えたらいい。それだけが仕事や。それがいやなら、サッサとモスクワへ帰ったら,ええやないか。お前なんか必要あらへん」
 ニコライはこしゃくにも真っ赤になって怒った。こぶしを振りながら、全く意味をなさない日本語をどなった。「ボクは、そんな、ぜんぜん、ないんです! どうしても、なぜ、あるんです!」
 私はモスクワ船での、日本語を喋るヒッピー風の若いアメリカ人とのケンカを思い出した。たしか、キリスト教とベトナム戦争が話題だった。それにしても、自国語でのケンカは、何と楽なんだろう。

 「骨はぼくが拾おう」

 次の日、私たちはジャーマン・ビバークと呼ばれるテント場へついた。基地よりちょうど8時間の所だ。
 シヘリダ氷河の源頭近くの山、ピーク・ヴェレヤの巨大なリッペが氷河に落ち込み、その末端は、大きく広がった氷河の中で、ちょうど島のようになっている。そこがジャーマン・ビバークだった。
 テントからは氷河をへだてて、シュロスキー峰(4260m)とシヘリダ峰(4300m)が、眉に迫るぼかりにそびえ立っている。
 もともと、私たちはチャティン・タウの北壁を目指して、この国にやって来たのだった。チャティンは、昨年の日本隊も失敗している。そしてこの壁は、1965年の初登以来、第二登はされていない、と聞いていた。
 隊員たちは、今年こそはチャティンの第二登を……と意気ごんでいた。10名という、カフカズ隊始まって以来の大パーティとなったのも、スムーズに抜けても最低10日間は要するという、この六級ルートに対応したものであった。
 ところが、基地でよく調べてみたら、この「第二登はされていない」というのは、全くの間違いであった。
 チャティンは止めにすることになった。第10登以上もされている壁を、命をかけて登るのはどうも割に合わない、ということになった。私たちはシュロスキー峰に向かったわけだ。
 シュロスキーから戻ると、さすがに皆ぐったりしていたが、数日のうちに回復するにつれ、次の山が話題となった。そして、いったんは、完全にあきらめるというか、無視することになっていたはずのチャティンが、再びよみがえってきた。
<我々の登ったシュロスキー峰>
シュロフスキー峰 それほどこの壁は、若い隊員の思いものとなっていたらしい。「どうした、おめえたち。ようし、ひとつやってみろ。おめえたちの死にざまはおれが見とどける」と、登攣隊長の田中さんはあおった。私も、少々ワルのり気味だと思いつつ、あとにこう続けた。「田中さんが死にざまを見とどける。骨はぼくが拾おう」
 若い連中は、かっかと燃えに燃えた。しかし、よく考えてみれば、チャティンを狙うには、少々日数が心配だった。うまくいってぎりぎり間に合うかどうか。きわどいところだろう。
 ソ連では、出発に先立って、登山基地で登山届を提出する。そこには、帰着時間を明確に記入してサインしなければならない。もし遅れた場合には、自動的に救助隊が出動することになる。
 最初から登る気のない年寄たちは、比較的冷静さを保っていたから「どうも日数的に無理のようだ」と思ってはいた。しかし、一途に命がけのアタックを目指している者に、水をさすようなことをいうのは、なんとなく気がひけるので黙っていたのだ、と後になって語った。
 私はできることたら、登ってほしいと思った。それには方法は一つ。下山日程の変更をボリスかババスキンに伝えさせることだ。
 私は誰にもいわずに、ボリスとニコライのテントに出かけた。

割れ目に落ちるなら

「ドーブリェディン(今日は)」、ボリスは威勢よく私をテントに招き入れた。私はボリスにいった。
 チャティンに行くことになった。下山が遅れるかも知れない。前もって連絡をとれば問題はないと思うのだが、どうか。「一昨日、基地に下ったとき、基地の教官たちは、皆さんが下山予定日までに帰るよう、強く望んでいました」とボリス。
 チャティンは普通8日間かかるといわれているが…‥。「そうです。それは条件次第です。ある隊は7日間、別の隊で12日間かかっているのもあります」なんだか、つきはなされた感じである。今年の壁の条件は? と聞くと「今年はまだ誰も登っていないから分らないんです」まさに答は明快そのものである。「もし壁の条件が悪かったとしたら、日数がオーバーすることも考えられる。そのときには事前に、下山日の延期を連絡すればよいと思うのだが、そうしてもよいか」私はくい下がると、ポリスはいったー「それを決めるのはあなたでしょう」
 このとき私は思った。そうか、ボリスは日本人ではなかったんだ‥…と。そして、こういう点の明快さが、私たち日本人には欠けている。そう考えながらテントへ戻った。
 そして「日数のほうは大丈夫なんですか」と田中さんに聞いた。彼は「ええ」とうなずいて、指折り数えていたが、そのうち「あれェー」と甲高い声をあげた。「足らねえや、こりや」
 ミーティングの結果、チャティンは中止となり、シヘリダの全員登頂を目指すことに、皆の意見が一致した。

 3日かかってシヘリダを登り、4日目の7月28日午前中に、テントに帰りついた。ボリスとババスキンは、私たちの無事帰着を見とどけたので、一足前にこれからすぐ下山するという。
 そこで、ここで″ジョニ赤″で乾杯することにした。これは荷上げのときから、ボリスが目をつけていたものなのだ。ボリスもババスキンも、ウオツカ流に一気にあおるので、二回乾杯したらもう空だった。
 ボリスが「ジョニ赤で酔っぱらって、私は氷の割れ目に落ちそうです」といったので、「割れ目にも色々あるが、氷の割れ目はいやだね」と返した。すると直ちにボリスは、「いい割れ目なら70歳になっても落ちたいが、氷の割れ目はいやだなあー」

ピッケルを打て!

 テントをたたんで、基地に帰りついたとき、何となく常ならぬ雰囲気を感じた。しばらくして、3日前にアクシデントが起こり、2名が死んだことを知った。
 そのうちの一人が、国際級スポーツマスターであったことが、事件をより深刻にしているようであった。ニコライ・マーシェンカ(37)。国際級スポーツマスター。数多くの六級ルート開拓者。ヨーロッパ・アルプスにも遠征しているベテラン。その彼が、こともあろうにII級の山で死ぬとは……。
 マーシェンカは、5名の講習生を連れて、II級のピーク・モンゴリアンに向かった。
 彼がクーロアールを登っているとき、大きな氷のブロックが落下してきた。ブロックは先頭のマーシェンカのすぐ前で砕け散り、彼と二番目の女性アルピニストに命中した。
 マーシェンカが息を引きとるまでには、数分間を要した。彼が最後にいった言葉は、「ピッケルを打て!」であった。……これがニコライの伝えた、アクシデントのあらましである。
 私は感じた疑問を、すぐアナトリ−にぶつけてみた。
 国際級スポーツマスターが、II級ルートで死ぬなんていうのは、おかしいではないか。彼にはミステークがあったのではないか。
「彼は氷の破片が耳の後ろに当たったから死んだので、彼の過失ではない」(話がかみ合わない)
 しかし、おかしいではないか。国際級スポーツマスターともなれば、氷の破片などは避けられねばならないのではないか。あるいは、そういう危険を予知して、そのルートは避けるべきではなかったのか。それを怠ったのは彼の過失ではないのか。
「そんなことができるのは神様だけだ。山での死は誰にも避けられないことだ。だからわれわれは、アルピニストのカテゴリー(グレード制度)を作ったのだし、君も私も常にトレーニングして、技術をみがいているのではないか」
 その夜、ボリス、ニコライの招きで、私は二人と共にウォッカで無事を祝った。
 そのとき、私はふと思いついて、今日のアナトリーにしたと同じ質問を、ボリスにやってみた。ニコライの通訳を半ばでさえぎって、ポリスは早口で答えた。ニコライは、彼独特の口調で通訳した。
「ボリスさんはいいました。それは、アルピニズムのネ、あの、宿命なんですって……」
 三人ともかなりしたたかに飲んだ。「もう夜がふけたから、オカアチャンにしかられないうちに……」とボリスが引きあげると、ニコライがいった。
「タカダさん。ボリスさんは割れ目に落ちますネ。ピッケルを打て!ですね」

お別れパーティ

 私たちがモスクワに帰る前の夜、基地では〈お別れパーティ〉が盛大に行なわれた。
 もうすっかり顔なじみになったスポーツマスターたち、それに今初めて会うというキャンプ長やそのほかのお偉方も出席した。
 例によってテーブルスピーチが始まる。ロシア人は本当に演説好きだ。
 私はロシア語でスピーチした。この日の夕刻から懸命に練習にはげんでいた。原稿はこっちで作り、それをニコライとギャナディにロシア語に直してもらい、カタカナでノートに記した。「よく分ります。選挙の演説みたい」とニコライはいった。パーティではこのスピーチを、ニコライが日本語に通訳することに決めた。
「ウヴァジャーエムイエ、ドルジャー、イ、タヴァーリシチー(尊敬する同志友人諸君)」
 これはスピーチの決まり文句。
「アト、イーメニ、ナシェイ、エクスペジーツィー、ヤ、イメーユチェスチ、ペダレーチヴァム、セルジュチヌイ、プリヴェト(ここに皆さまにあいさつの機会を得たことを光栄に存じます)」
 私たち10名のアルピニストは、はるか東の国、日本からやって参りました。私たちをお招きくださったことを大変喜んでおります。私たちは皆さんのご援助のおかげで、シュロスキーとシヘリダの頂上を踏むことができました。これは私たちにとって、忘れられない思い出となるでしょう。しかし、それ以上に私たちの心に残ることは、皆さん方の暖かい友情と手厚いもてなしであります。私たちはこの思い出を大切に持ち帰り、日本の人たちに伝えるでしょう。皆さん、本当に有難う。(拍手)
 このスピーチをすましたら、なんだかもうすべて済んだような気持ちになった。
 プレゼントの交換がすんで乾杯。白髪の教育部長が立って、「私は普段は全くお酒を飲みませんが、今日は大いに飲みたい」とスピーチした。
 副隊長の西さんが尺八で〈トロイカ〉を奏し、大喝采を浴びた。
 アーリャが私に、小さな紙切れを手渡した。赤いボールペンで、ぎっしりとロシア文字が書いてある。ニコライに見せると「またこの素晴らしいコーカサスに来てほしい」という詩であるという。
 アーリャ。電気技師。二つの大学を出ていて、夏休みだけここの仕事を手伝っている。
 私たちは基地についてすぐ親しくなった。彼女はドイツ語しかしゃべれず困ったが、とにかく何となく気が合った(誌面がないので詳しく書けないのが残念である)。
 パーティに疲れていた私は、彼女にささやいた。「ヤ、ハチュー、スヴァニ、パグリャチ(私はあなたと散歩したい)」
 アーリャは「ダーダー」とうなずき、私たちは外に出た。樹の間からもれる月の光がきれいだった。私はアーリャの肩を抱いて歩いた。
 シャンペンとブランデーとウォッカでほてった頬に、冷たい空気が心地よかった。ベンチに座るとコーカサスの月は青くさえ返った。
 彼女は寒いといった。ヒザ小僧にふれてみると、本当に氷のように冷たかった。私は背広をぬいでかけてやった。

 8月3日、8時30分。私たちカフカズ遠征隊はモスクワを離れた。ニコライはギャナディと共に、タラップの下まで見送ってくれた。  ジェット機は白夜の空にのぼり、東を目指して飛び続けた。 (おわり)

コーカサスの山と人<上>

コーカサスタイトル1★コーカスの山と人<上> モスクワからエルブルースへ
モスクワにつく
コーカサスへ地図1971年7月10日午後、私たち10人の第2次RCC遠征隊は、モスクワ郊外のドーモチェドモ空港に降り立った。横浜を出てから三日目だ。
私たちを出迎えたのは、スコロフ、ギャナディ、ニコライの三人のソ連人。スコロフとギャナディは、私たちを招待した「プロスポルト国際部」のスタッフである。ニコライは、モスクワ大学極東語科の四年生で、日本語専攻。私たちの通訳をやることになっている。ニコライは開口一番、「タカダさん、男は黙ってサッポロビールですね」これには全く、あっけにとられてしまった。
しかし、とにかく日本を出れぼ、言葉で優越されることは、すべてに負けることを意味する。桑原武夫氏は、チョゴリザ遠征のとき、フランス語の少しでも分る相手には、徹底してフランス語で通し、苦手の英語は使わなかったと述べている。
「お前それ、どこで覚えたんや」180センチをはるかにこえている彼を見上げて、私はいったが、「週刊誌で読みました」とすましたものである。
ここ何日間か、外国人とのコミュニケーションに、苦痛を感じていた隊員たちは、ワッとばかりに彼を取り囲んだ。
ギャナディは、ドイツ語の方で英語はダメだが、スコロフはかなりうまい。「アイアム、スコロフさん」と自己紹介してから、ペラペラとまくし立て、どこで知ったのか、東京のトルコ娘やアルサロなどの話題に、話を落とした。人の意表をつく、たくみな話の展開だ。そして、「近々に東京に行くからよろしくたのむ」などとふざけた。
これは明らかに、初対面の相手よりも心理的に優位に立とうという、一つのテクニックだ。こういうときには、最初の数分間で、勝負が決まる。
「よし分った」と、私はいった。「君の希望がかなえられるかどうかは、君の私たちに対する接待いかんによって決まるだろう」
キングス・イングリッシュでもパキスタン英語でも、相手に分ろうと分るまいと、いっこうに構わない。とにかく負けずにべラベラと、相手がへきえきするぐらいに、やり返しておくことにした。
ホテルについてからのことなのだが、レセプションのあとで食事をしながら、「ところで、君はどのスポーツが専攻なのか」と、私は尋ねた。プロスポルトの職員ならスポーツ関係だろうと思ったのだ。
諸君、彼は何と答えたと思います? 彼は間髪入れず、「オフコース、ファッキング」
いやまいったまいった。さすがは、国際部のスタッフだけのことはある。私はひそかに、脱帽せざるをえなかった。

プロスポルトの招待

私たち専用の、迎えのバスに乗り込むとき、ほかの日本人旅行者の視線を感じて、またしても、後ろめたいような気持になる。彼らは本当に、何時間待たされることやら……。
ナホトカの通関でも、ハバロフスクまでの汽車の食堂でも、そのほかなんでも私たちはすべて最優先。何事につけても、大陸的でラフなソ連インツーリストの態度に、イライラしている日本人旅行者から、「この人たちは特別なんですよ」などという、聞こえよがしのささやきを、何度も聞いたものだ。
確かに、私たちは特別扱いであった。
かいつまんで、説明してみよう。
ソ連に「プロスポルト」と呼ばれる組織がある。これは、プロフサユース・ヌイ・スポルトの略で、「全ソ労働者スポーツ評議会」のことである。会員数5000万、ソ連最大のスポーツ組織である、といわれる。
「プロスポルト国際部」の事務所は、クレムリンの近くにある。その仕事は、スポーツによる国際親善の促進にあり、世界各国と選手交換の協定を結んでいる。世界中より集まる各種スポーツの選手のために、モスクワには、ブロスポルト直営の大きなホテル(スプートニク)がある。
さて、選手交換協定の骨子は、選手人数日数などがバランスするように相互に選手を交換し、その費用はお互いに持ち合う、という内容のものである。
この協定を結ぶに当たって、日本の窓口となっているのは、総評であり、その主宰する「労働者スポーツ協会」である。そして、この「労働者スポーツ協会」の設立当時から、第2次RCCの同人が、その登山部門の育成に協力してきたこともあって、この協定による登山は、第2次RCC中央アジア委員会にまかされてきた。
私たちは、この1966年に始まる、一連のカフカズ遠征の第五回目に当たるわけだ。
こういうわけで、私たちの交通費、滞在費その他一切の費用はソ連側が持ち、おまけに1人1日2.5ルーブル(邦貨1000円)の小遣いまで支給されることになっている。
と、こう書けば「なんとまあ結構な」ということになるが、この世の中に、余りに結構な話なんぞはないのが普通だ。私たちは総評に、一人20万円を払い込まねばならない。これがプールされて、プロスポルトが派遣した選手の、接待費用となるわけだ。
それにしても、期間一カ月で20万というのは安い。支給される小遣いをバランスすれば17万となる。例えば、日ソツーリスト・ビューローが主催するツアーの一つをとってみても、「夏休み14日間」の旅が17万9000円なのだから、私たちはやはり特別らしいのである。〉

二つの真実

私がソ連に出かけることを知って、知人友人が、いろいろのアドバイスをしてくれた。1969年の「レーニン生誕青年祭」に招かれ、『パミールの短い夏』(朝日新聞社)を書いた、作家の安川さんは、「これ読んどくと参考になるよ」と、一冊の本を貸してくださった。
『誰も書かなかったソ連』であった。「大宅壮一ノンフィクション賞・受賞! 滞在三カ年の主婦が体験をもとに克明に綴った”裏側のソ連”」という帯がかかっていた。その中に、こんなところがあった

−− こういうわけで、部品の盗難があとをたたない。モスクワの町で、急に雨が降りはじめると、どの道路でも、タクシーが急に車をわきに寄せて一時停車する。ワイパーをとりつけるためだ。普段は、とられないよう車の中にしまっておいて、必要なときだけとりつける。私たちも、一年三ケ月の間に三回もワイパーをとられ、その後は駐車するたびに、いちいちはづして車内にしまったものだ。一度だけ、モスクワでレンターカーに乗ったときも、手続きの書類にサインするさい、係り員から、車をとめるときは必ずワイパーをはずして、しまってくださいと念を押された −−
空港からホテルへ向かうバスの中で、私はふと、ここのところを思い出して、すれちがう車に、ワイパーがあるかどうか、調べることにした。
そのとき、正確に、一分間に一〇台の車がすれちがったが、そのどれにもワイパーがあった。ホテル・スプートニクの前に停まっている、十数台の車も全部、ワイパーをつけていた。あの本の中味はアヤシイ、という気がした。
ところが、コーカサスから帰って来て、また同じホテルに泊まったので、気をつけて見たら、ワイパーのない車はいくらでもあった。私は少なからず驚いた。なにしろ、ソ連に入国して、一カ月近くなって初めて、ワイパーのない車を見たのだから。そこでまた、バスに乗ったとき、前と同じようにすれちがう一〇台を調べた。なんと、一〇台のうち八台までが、ワイパーなしだったのだ。
これを一体どう解釈したらよいのだろう。もし私が、ソ連を通過するだけの旅行者だったら、ソ連の車にワイパーがないというのはウソだ、と思い込んだかも知れない。ところで、やはりワイパーのない車もあったのだから、「ソ連の車にはワイパーがある」といいきることもできないだろう。
私がコーカサスへの、行きと帰りに見た、全く反対と思える二つの事実は、決して矛盾するものではなく、二つの真実といえるだろう。つまり、旅の見聞というものは、常に一面的でしかないのだ。たとえそれが、三年間の見聞であっても、一面的であることにかわりはない。
要するに私たちは、こういう事実の一面性の認識と、二つの真実的発想で、情報に対処すべきなのだろう。
私が今、書いているものもまた、そういう意味の真実のスケッチと考えてほしい。

ロシアの”殺人学校”

世界地図を見てほしい。ユーラシア大陸の左の方に、黒海とカスピ海が見える。この二つをつなぐようにして延びるのが、エルブルース山(5633m)を盟主とする、カフカズ山脈だ。コーカサスというのはこの英語読みである。
モスクワから南下すること二時間半ばかり、快適なジェットフライトで、ミネラル・ウォーター空港につく。この付近は、本当に炭酸水がわいている。
さらに南へ、今度は自動車で走ること一時間、ピャチゴルスクの町を過ぎる。山の見える美しい町だ。ピャチゴルスクとは″五つの山の町″という意味である。ここのドライブインで昼食をとり、ウォッカをあおる。ドライブインといっても、この国では、町立レストランなのである。
さらに四時間のドライブのすえ、私たち10人とニコライにギャナディの一行は、ようやくカフカズ山域の登山基地の一つ〈エルブルース〉についた。
登山基地エルブルース。徳沢園あたりを想像願いたい。もちろん、スケールはもう少し大きい。二十数棟の建物が、林間に点在している。
<食堂前で打ち合わせをするインストラクター>
ロシア登山学校
食堂棟の二階は、放送塔になっており、レーニンの肖像がかかっている。その前の広場をはさんで、反対側の棟の二階の手すりには、赤い看板に白字で「第○回党大会のスローガンを実現しよう」とある。多くの宿泊棟のほかに、集会棟、診察棟、食糧庫、装備庫などがある。また、入門アルピニストの宿泊用に、15張の大きな家型テントが並んでいた。
私たちが入ったのは、ある宿泊棟の二階で、一部屋に五つのベッドが入れてあった。まだほとんど、その必要を感じなかったが、スチームが入っており、地域暖房システムらしく、ボイラー棟は歩いて5分の所にあった。ボイラー棟には大きなシャワー室があった。そこまで歩いて行く途中には、吊り輪、鉄棒などのあるトレーニングコーナー、バスケットコート、バレーコート、それに50mプールなどがあった。
樹々の間をぬう小道を行き交う男女のアルピニストたちは、トレパン、トレシャツであり、男の場合上半身はだか、女のビキニ姿も珍しくはなかった。この人たちで、歩いているものはほとんどなく、みんな小走りか、あるいは疾走していた。それはむしろ、陸上競技選手の合宿といった感じであった。
朝7時、ドラの音と共に、各棟のアルピニストはいっせいに、朝もやのただよう林間へ走り出る。
まるく輪になって体操するグループ、一人で黙々と走る若者、あるいは、もう40歳に近いスポーツマスター、彼はヒラリと吊り輪に飛びつくと、いとも簡単に倒立、そして十字懸垂、全くこれは、もう体操選手だ。そのそばでは、上半身はだかの男共が十数人、腕を大きく斜めに広げて、胸筋を延ばすソ連独特の体操をやっている。
<モレーンを行く女性アルピニスト>
cut2-1.jpg 私たちは、ただあ然として見守るばかりだったが、そのうち誰かがいった。「殺人学校みたいじゃんか」本当に、これは007シリーズのロシアの殺人学校みたいだった。
私たちの介添役として、ベースキャンプまでの同行が予定されているインストラクターのボリスが、プールでぬき手をきりながら、「タカダさん」と大声で呼んだ。私も大声で「ズドラーストヴィッチェ(おはよう)」と答えると、彼は一緒に泳げと手招きしながら、「ハラショー(快適だ)」と二度繰り返した。あとで水温を計ってみたら、摂氏11度。午後になっても14度だった。

「彼を説得します」

もうよく知られていることだが、ソ連の登山は国家によって体系づけられており、アルピニストのグレード化が行なわれている。
ソ連のアルピニストは、次のように分けられる一。入門アルピニスト、初級、III級、II級、I級アルピニスト、スポーツマスター候補、スポーツマスター、国際級スポーツマスター、この八段階である。
入門アルピニストという資格は、実際にはなく、初級アルピニストを目指す人を、そう呼んでいるようだ。ソ連のアルピニストは、誰でも、スポーツマスターを目指して精進している。
「そんなことはどうでもいいのだ。自分は山が好きなんだ。自分の好きなように山に登る」日本の山登りをする人を代表する、こういう考えの人は、ソ連ではツーリストと呼ばれる。ツーリストは、クライミングはII級ルートまで、あるいは氷河から氷河の峠越えが許可される。
ソ連の基準からいえば、日本で山登りをやる人の九割までは、ツーリストになってしまうだろう。
このカフカズ山域には、20近くの登山基地があるが、ここはウクライナ共和国の管理で、ウクライナ共和国の人は、宿泊その他無料なのである。
基地〈エルブルース〉の登山学校には、30人のインストラクターがおり、そのうち15名(うち4名が女性)がスポーツマスターである。
アナトリー氏は、インストラクターの一人である。1級アルピニスト、43歳、1956年に山登りを始め、58年III級アルピニスト、60年II級、66年1級アルピニストとなる。彼の妻は、彼より二つ年下で、スポーツマスターである。二人とも非常に若々しく、30を過ぎたくらいにしか見えない。「君もスポーツマスターを目指しているのか」私が聞いたら、独特のとつとつとした英語で、「私はもう年だ。とても無理だろう」と答えた。ウォッカも「スポーツマンに酒は禁物だ」と少ししか飲まなかった。
一度生徒にインタビューしてみようと思ったが、英語の分るようなのはいないから、ニコライ君の力を借りることになる。「女の子と話をするから、ニコライ通訳してくれ」といったら、「タカダさんのあいびきの手助けはできません」と答えたので、「バカモン」とどなった。
タマラ(20)一 可愛い、色白の娘である。初級アルピニスト。ウクライナ共和国のジャパロージャという町から来た。18の妹との二人姉妹。工場で働きながら、専門学校へ通っている。3年前から山登りを始めた。それまでは、12歳のときからフェンシングをやっていた。ジャバロージャ山岳会に入っており、1週間に3回、郊外の岩場で練習している。この6年ぐらいで、1級アルピニストになるつもりだ、と語った。結婚しても山登りは続ける、という。
私は聞いた。「もしあなたに本当に好きな男ができたとする。その男は山へは登らない。山は危険だと思っている」タマラは眼をキラキラさせて、ニコライの通訳にうなずく。私は続けた。「その男があなたにいったとする。僕と結婚するつもりなら、山は止めてほしい。山をとるか、僕を選ぶか」
タマラはしばらく考えていたが、やがてきっぱりといった。「彼を説得します」
部屋に帰ってこの話をしていたら、隊員の武藤君が、嘆息混じりにいった。「さすがにソ連の女性、解放されてますネー」 (つづく)

コーカサスの山と人の紹介・説明

「コーカサスの山と人」<上><下>
           
『なんで山登るねん』に〈三十なかば変身のきっかけはコーカサスのショック〉という章があります。
 1965年、京都山岳連盟カラコルム登山隊の最年少隊員として、初めて海外に出た私は、カルチャーショックを受けます。
 この4年後、1969年に「西パキスタンの旅」に出かけます。
 さらに二年後の1971年、旧ソ連邦・コーカサスに出かけたときの報告を、読み物として山渓本誌に2回に分けて連載したのが、『コーカサスの山と人』上・下です。
 当時、前衛登山集団として、自他共に許した「第二次RCC」が、ソ連の招待を受け、コーカサスに遠征し、登攀を行ったときのもので、私はこの「第二次RCCカフカズ遠征隊」の隊長でした。
 この時の初めてのヨーロッパは、ぼくにとっては初めての、東南アジアやインド・パキスタンなどのアジア圏などではない、その外の体験でした。
 さらに、ソ連邦(旧)は、アジア圏外の国というだけではなく、いわゆる冷戦構造下の東側の国でした。そこで肌で感じたものは、日本で常識のように言われ信じられていることと、実際とのあまりに大きなギャップだったようです。
 〈コーカサスのショック〉とは実はそうしたものであったと今思うのですが、どうしてかぼくは余りこうしたことに関しては書いてはいません。
コーカサスの山と人<上> 
コーカサスの山と人<下>          

登山と「神話」

 登山と「神話」は山と渓谷社の季刊誌『岩と雪』に、38号から43号(1974年10月〜1975年6月)の6回にわたって連載したもので、当時けっこう話題となったものです。
『なんで山登るねん』よりずっと良い、という岳人もたくさんいました。ぼくとしては、『なんで山登るねん』の基盤となっている理屈を述べたつもりだったのですが・・・。

◎登山と「神話」(全6回)
その1 スポーツ神話について
その2 宗教登山の位置づけについて
その3 『槍ヶ岳からの黎明』について
その4 「山での死」について
その5 『ホモ・ルーデンス』について
その6 「シェルパレス登山について」は割愛しました。
(2007/06/28)

西パキスタンの旅について

 1969年、ディラン峰遠征の4年後、学園紛争たけなわの日本をあとに、戒厳令下のパキスタンをジープで旅した記録です。
 このときの話は、『なんで山登るねん』の随所に出てきます。
 『西パキスタンの旅』は、月刊誌〈山と渓谷〉に1970年5月号より2年近く連載されました。

(この時、山渓本誌の編集部でこの連載を担当したのが、若き節田重節さんでした。連載が終わって間もなく彼が編集長となって、私に新連載を依頼し、ここに『なんで山登るねん』が生まれた訳です。)
 当時は、ネパールと違ってパキスタンの情報は大変少なかったので、この連載を海外遠征の勉強会のテキストに使った山のグループもあったと聞いております。

 この時の活動の一部、スワット・ヒマラヤのマナリ峠の地理的同定踏査の記録映画「ハラハリ」は、本サイトにアップされています。記録映画「ハラハリ」(on YouTube)

◎西パキスタンの旅(全14回)
西パキスタンの旅 第1話「辺地教育調査隊の出発」
西パキスタンの旅 第2話「シンド砂漠を走る(その1)−−カラチからラワルピンディヘ」
西パキスタンの旅 第3話「シンド砂漠を走る−−その2−−カラチからラワルピンディヘ」
西パキスタンの旅 第4話「ギルギットへの突入−−その1−−」
西パキスタンの旅 第5話「ギルギットへの突入−−その2−−」
西パキスタンの旅 第6話「ギルギットへの突入−−その3−−」
西パキスタンの旅 第7話「ギルギットへの突入−−その4−−」
西パキスタンの旅 第8話「バブサル峠への潜行−−その1−−」
西パキスタンの旅 第9話「バブサル峠への潜行−−その2−−」
西パキスタンの旅 第10話「幻の峠を求めて−−プロローグ−−」
西パキスタンの旅 第11話「幻の峠を求めて−−ガブラル谷−−」
西パキスタンの旅 第12話「幻の峠を求めて−−ハラハリ谷−−」
西パキスタンの旅 第13話「幻の峠を求めてーハラハリ氷河とマナリ・アンー」
西パキスタンの旅 最終話「幻の峠を求めてーエピローグー」

宗教登山の位置づけについて

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登山と「神話」その二

宗教登山の位置づけについて

 先号では、「スポーツ」に関係する「神話」をとりあげて述べました。これについて、ぼくにとっては予想以上の反応があり、いろいろの人から、いろいろのコメントを頂きました。
 ぼくとしては、くさされても、別にしょげ返るわけではありませんが、逆にほめられると、どうも具合が悪い。もちろん、ほめられ、持ちあげられて、気分が悪いわけではありません。でも、たとえば、「次に期待する」などと、偉い人から云われると、どうもペン先がこわばってしまいそうです。
 ぼくは「論文」を書いているつもりはないし、一つの「読物」と受けとってほしいのです。ただ「それはおかしい」というところがあれば、反論してもらうことが有難いわけで、たとえ、こてんぱんにやっつけられてもぼくとしては、大いに満足です。

 さて、「神話」についてですが、ぼくがいう「神話」は、いわゆる「現代の神話」といわれるやつで、「政治神話」あるいは「社会的神話」という部類のものです。ヤマトタケルノミコトと直接的には関係ありません。
 しかし、全く関係がないわけじゃない。むしろ大いにあるというべきかも知れません。
 どうしてかというと、たとえば、『古事記』『日本書記』は、日本の歴史であるか否か、という問題をとりあげて、考えてみましょう。
 これは、そのもっと後の、楠木正成にしても、家康にしてもおなじことです。要するに、何が歴史で、何が歴史でないかの判断点は、「歴史が、少数の人の歴史であっては、それは歴史ではない」ということです。
「万里の長城」は、明らかに、古代中国の人民の力によって造られたものです。しかし、学校では「秦の始皇帝」が造ったと教える。そのアイデアを考えついたのさえ、始皇帝ではなく、おそらく歴史に現われない誰かだったに違いない。つまり、書かれた歴史は、みんな大ウソということになります。それは、人民不在の歴史であるからです。
 次に、「すべての歴史は、現在のことだ」といえます。これは、イタリーの哲学者のクローチェがいっていることです。
 たとえば、いまいった「始皇帝」は、儒者を生きうめにして、儒教を説いた書物をもやした、とんでもない暴君だとされていました。いわゆる〈焚書坑儒〉です。ところが、中国では、最近の儒教批判が起ると、「奴隷制社会」から「封建制社会」への移行を促進した、名君ということになりました。一方、孟子などは「奴隷道徳」を説いた、けしからん奴だということになり、「孟老二」つまり「孟家の次男坊」という蔑称でよばれることになってしまいました。
 また、敗戦まで日本で使っていた小学校の歴史教科書は、占領軍の命令で、まっ黒に墨をぬらされた。これをけしからんと怒っている人もいるようです。この教科書には、神代に「人民が騒いだからこれを平らげたもうた」と書いてある。墨をぬって当然で、けしからんと思う方がどうかしています。
 大体、「騒いだら平らげる」という発想がけしからんわけで、騒ぐにはそれなりの理由があると考えるべきです。こういうことをいうとすぐ「かたよってる」という人がいる。事実、先号のぼくの文章をよんで、共産党、民青の思想ときめつけた人がいます。本居宣長は、マルキストでも、唯物論者でもないけれども、百姓が一揆を起す、つまり騒ぐには、それなりのよくよくの理由があるはずだ、といっています。こんなことはあったりまえの話ではないですか。
 話をもとにもどして、ともかく、歴史はたえず書き直されている。それは歴史が、クローチェがいうごとく、現在であるからなのです。
 ところが、古文書を並べてそれを歴史だと考える人がいる。材料を並べて、それをつないだら歴史だと考えるらしい。そういうバカみたいな歴史家や学者もいます。そんな人にとっては、歴史は不変なのでしょうが、これは全くの間違いというべきでしょう。
 やたらと長い前書きになりそうです。はしょって締めくくります。
 歴史つまり過去が現在に生かされると、よくいわれます。これはしかし、現在が過去によって否定されるということです。過去にやったようなことを、もう一ぺんやろうとする。ところが「すべての歴史は現在だ」というのは、まさに逆なのであって、過去のために現在が拘束されるのではなく、現在をつくるために、あるいは未来をつくるために、過去が追放されるということです。
 さて、歴史において本質的なものは何なのでしょうか。たとえば、「ヤマトタケルノミコト」が実在したかどうか、それは本質的な問題ではない。現在にかかわる歴史の本質というのは、過去へ現代を引きつけるために歴史が学ばれるのではなく、現在が未来に向かうために役立つような歴史でなければなりません。
 過去に動かすべからざる過去というものがあるのではなく、現在のぼくたちの必要によって、過去の〈歴史現象〉の中に、本質的なものとそうでないものとを区別しないといけない。そうすることによって始めて、本質的なものをとらえうる、とぼくは考えます。
 こういう観点で、登山の歴史を見たら、どういうことになるでしょうか。これまでの登山の歴史といわれてきたものは、全く疑わしい、ということになる。そして、全然別の登山史が書かれることになるでしょう。
 ぼくには、そんなものを書くだけの能力はとてもありませんので、ここでは、適当にピックアップなどしながら、進みたいと思います。一というようなわけで、今回は、「登山史の神話」ということになります。

 宗教登山の復権

 日本の近代登山は、明治に始まった、とされています。そうすると、それまでに行なわれていた「登山」はどうなるのでしょう。
 巨大な丘ともいうべき日本の山岳は、大昔から人々によって、自由に登られていた、とぼくは考えます。
 たとえば、日本の山の中では、まあ一番険しいと思われる劔岳でさえ、奈良時代(七一〇〜七四八年)に登られているのです。
 ところが、明治以前の「登山」は、「宗教登山」であった、ときめつけられて、登山史では極めて軽くあつかわれるか、あるいは全く抹殺されています。理由は、その動機が宗教であって、「純粋に山に登ることを目的としていないからである」とされています。いくら、「ものの本」にそう書いてあったからといって、こんなことをうのみにしているのは、ちょっと頭がおかしいのではないか、とぼくは思うのです。
「日本山岳会」の創立発起人であり、日山協初代会長の武田久吉は、植物学者であり、採集するために山に登った。今日の日本でも、蝶々とりにヒマラヤへ出かける名登山家を、ぼくは何人も知っています。
 また、夏の劔の頂上の祠には、お賽銭がいっぱいです。もちろん、今の人たちは、おまいりするために登るわけではありません。たまたま祠があったから、おいのりして賽銭を上げたのかも知れません。
 ところで、封建社会の民衆は、「講」登山といわれている集団で、山に登りました。彼等の全部が、熱烈な宗教心で山に登ったのではない、とぼくは考えます。ある若者は、おとうからきいた高山の厳しさ、美しさにあこがれて出かけたに違いありません。それよりなにより、彼にとって、「講」登山は、過酷な労働をはなれ、「家」と「村」の束縛から解放された「別世界」への旅立ちであったはずです。とすれば、心情的に今日の若者とあまり変らない。
 そもそも、封建社会における宗教は、民衆にとって、一つの「救い」であり「遊び」であり、また「解放の場」でしたし、時には「反逆の場」ともなりました。
 こういう立場で、「講」登山は、とらえ直されねばならないと、ぼくは考えます。「講」登山を考えるには、それを含むものとして「講」をとらえる必要があります。しかしどうも、これはぼくにはしんどいことです。
 ただ、この「講」を母体として起り、ある意味では幕府の崩壊をうながし、そして明治政府によって抹殺された、一つの特異な「歴史現象」について、ふれねばならないと考えます。この〈歴史現象〉とは、いわゆる「おかげまいり」であり、「ええじゃないか」です。
 この「おかげまいり」「ええじゃないか」は、「たんに神道史や宗教史上の問題であるだけでなく、日本歴史の本筋にかかわる問題であり、その歴史を動かす底流と考えられる、民衆の自発的行動の形式や法則を知るうえでの、重要な歴史事実」とされているものです。
 それはともかくとして、たとえば幕末の一八〇〇(寛政十二)年夏、富士山の登山者が、須走口だけで約五四〇〇人に及んだ、というような事実は、この「おかげまいり」の考察なくしては解釈できないと、ぼくは思うのです。「それほど日本民族は山好きだ」などという単純な子供だましの説明では、どうも納得ゆかないのです。

「おかげまいり」とは

「おかげまいり」、はて何だろう。ヤクザの「お礼参り」みたいなものかしら、などと考える人もあるかも知れません。
「おかげまいり」(御蔭参り・御影参り)とは、近世日本において周期的になんどかくりかえされた、集団巡礼運動です。その最盛期、たとえば一七七一(明和八)年には、関束以西、北九州に至るほとんど全域にわたり、約二〇〇万人の民衆が参加したといいますし、一八三〇(文政十三)年には、約五〇〇万に達しました。
 単純に二〇〇万とか五〇〇万とかいいますが、いまみたいな交通機関がある時代じゃないですし、一般人民には自由な旅行がゆるされなかった封建時代のことですから、それは大へんなことであったはずです。
 しかもその間、天からお札がふったとか、死人がよみがえったとか、いろんな奇蹟がいい伝えられました。人びとは踊ったり歌ったりして、熱狂のうずの中を伊勢へと参宮したわけです。
 幕末の一八六七(慶応三)年の「ええじゃないか」は、明らかに、この近世「おかげまいり」の伝統を利用して、政治的にひき起された混乱であったようです。
 人びとは、仮装したり、あるいは裸になったりして、手ぶり身ぶりおかしく踊り歩き、商人の家などへ土足のまま「ええじゃないか、ええじゃないか」と上りこむと、主人は酒肴でもてなして、「ええじゃないか、ええじゃないか」と笑っていたといいます。E・H・ノーマンは、「大衆的熱狂が、徳川の行政機能を麻ひさせ」たとしており、この時期に、倒幕、王政復古が行われたわけです。
 さて、近世「おかげまいり」は、文献にあるものだけで、七回あります。一六五〇(慶安三)年に始まって、大体六〇年おきにくりかえされております。
 そして、この「おかげまいり」は中世の巡礼運動につづくものです。
 中世の民衆は、おいつめられた希望のない現実をのがれでるために巡礼を行なったようです。途中でうえ死する人もありました。しかし、巡礼者はみな、「生きて罪業をつくるより、死んで善因をむすぶほうがよい」といったと、『天陰語録』にあります。そうでありましたから、関所役人は通過を黙認し、茶店の主人はお代を求めず、渡しの船師もほどこしをさえ、したわけです。そして、こういう風潮がさらに、巡礼運動をもりあげたのでしょう。
 こうした状況認識がなくては、天正年間における、立山登拝者数が十五万数千人に及んだなどいうことは、理解できないはずです。天正年間というのは、一五七三年に始まる一九年間ですから、ならして一年に八千人、おそらく多い年は一万をこえたことでしょう。
 そして、織田信長による関所撤廃(天正中頃)、豊臣秀吉、徳川家康の天下統一によって、近世「おかげまいり」発達の歴史条件の一つが作られたことになります。
 近世に入って最初の「おかげまいり」は、前に述べたように、一六五〇年のものです。この時は、江戸から伊勢へ向った人の数は、箱根関所の調べでは、正月頃には一日五、六百人から八、九百人、三月中旬頃よりは一日二千百人に達したといいます。
 彼等民衆が身にまとったのは「白衣」でした。これは、中世以来の社寺巡礼者の風俗で、「清浄」をたっとぶところから用いられました。また彼等は、組ごとに印をたてており、これは「講」を意味するものであったわけです。

自己解放としての「おかげまいり」

 さて、「おかげまいり」と「ええじゃないか」を簡単に説明したわけです。これについての研究はあまりされていないようです。おそらく、明治政府の官製「国家神道」に吸収されてしまったのと、これを研究することは、即「国家神道」にそむくことになるのがその理由でしょう。
 それと、もう一つには、学者のエリート思想と儒教道徳がじゃまをして、「そんな下賤な、野卑な」という感じとなり、いわゆる学者の「ナンセンス論」になったと思われます。
 たとえば、江戸の国学者、本居宣長でさえ、その『玉勝間』で宝永二年の「おかげまいり」の人数を書きとめているだけで、ほとんど無硯しています。
 それでは、「おかげまいり」はどうとらえるべきなのか。
 ぼくとしては、宗教登山との関連でとらえてみたいと思うわけです。といっても、詳しく調べたわけではありませんし、とてもぼくの任ではない。ただ、直観として、「おかげまいり」は、宗教登山の本質へせまるアプローチではないかと思うのです。
 ちなみに、一六世紀後半から始まった富士講の、中興の行者月行削仲(かつぎょうそうちゅう)(一六三三〜一七一七)、その門人食行身禄(じきぎょうみろく)(一六七一〜一七三三)は、ともに伊勢の出身で伊勢信仰の影響をうけています。これは暗示的です。
 そこで、まず、「おかげまいり」が「ぬけまいり」ともいわれたことに注目したいと考えます。この二つは、同じ意味で用られました。
「おかげまいり」が「ぬけまいり」といわれたのは、封建的支配関係、すなわち主従関係や家族関係に、身分的に束縛されている民衆が、自主的にそれを「ぬけ」で、断ち切ることを意味していたからです。それは、明らかに封建制下での、民衆の一種の自己解放であった、ということです。この「自己解放」に関しては、現代の山登りにもその方向性として、あてはまるのではないか、という気がしています。

現代の「おかげまいり」

 二番目には、「おかげまいり」と「世直し」思想との関連です。「おかげまいり」には、早くから「世直し」的思想がともなっていた、といわれます。「世直し」が最も明瞭にあらわれてくるのは、百姓一揆の過程において、でしょう。しかし、この百姓一揆と「おかげまいり」の関連については、人によって意見の分れるところです。つまり、「おかげまいり」が、民衆の闘争エネルギーを発散させる「代償」の役割を果したという見方があり、一方では、そうではないとする人がいるわけです。
 ぼくとしては、どちらかというと、前者はとりたくありません。前者の意見の根拠となっているのは、「おかげまいり」の年には米価が下がっており、一揆も激減しているという事実です。しかし、それだけが納得させうる根拠とはならないと考えます。
 むしろ、「おかげまいり」のような民衆の大移動は、人びとの社会的視野を広めることに役立ったはずですし、それは、「一揆」をより組織的、計画的なものにするのに役立ったのではないでしょうか。
 戦後の日本で、「このおかげまいり」にたとえられるような、民衆大移動が起りました。一九六五年の開国(外貨の自由化)後の、外国旅行ブームです。それは、明治以来、日本の支配者どもが、「御神体」としてまつりあげたヨーロッパへの「おかげまいり」であったかも知れません。
 それはちょうど、「おかげまいり」がそうであったように、「支配者があがめるもの」を民衆の側へうばいとろうとする運動であった、といえます。一九六五年の開国後の、ヨーロッパ・アルプス・ブームは、そういう意味をもっていた。つまり「アイガー東山稜神話」への「おかげまいり」は、同時に、それをうばいとり、崩壊させるための行動であったといえます。
 また、「労山」の行なった、百人をこすヨーロッパ・アルプス集中登山は、まさに現代の「おかげまいり」「講」登山ではなかったでしょうか。そして、「ヒマラヤ・トレッキング」あるいは、ヒマラヤ登山ブームも、こうした文脈の中で初めてとらえ得るのではないか、と考えています。

大塩平八郎の富士登山

 「おかげまいり」の、封建制下での、人民解放運動としての側面については、すでに述べました。ところで、それは同時に、「日本民族形成運動」でもあった。これが、三番目です。
 こういういい方は、かなり誤解されやすい。「日本民族」などといういい方は、かなり特別のイメージをもたされてきたということです。
 しかし、民族の自主的な統一に、宗教がからんだのは、歴史の必然みたいなものでした。「事実、世界史における近代の形成過程においても、宗教改革運動がブルジョア革命に重大な役割を果している。つまり、宗教改革運動とは、中世的封建的宗教にたいする改革であり、民族的な宗教形成の運動であった」のです。
 ところが、わが日本においては、これがすべて、「天皇の祖先神にたいする、庶民の回帰運動」というふうに、歪曲されてしまいました。
 たとえば、「我が国体に対する庶民の自然発生的な自覚的、復古的運動」として、「おかげまいり」をとらえるというのが、これにあたります。
 こういうとらえ方が、戦中的皇国史観に立つものであるのは明らかです。しかし、伊勢信仰が、近世に至るまで、国民のあるいは民族の信仰であったことなど、一度たりとてなかったのですから、「回帰運動」などというのは大ウソです。
 さて、先ほどちょっと述べましたが、「富士講」も「伊勢講」とならんで大きな「講」です。富士山は、日本では一番大きな山であり、また美しい山です。そして、近世後期に入ると、この富士山にたいする人びとの関心が異常に高まってきます。こういうことも、日本人の民族意識の高まりと関係があると思われます。
 こうした「おかげまいり」に見られる。民族宗教への胎動は、時の支配者には歓迎されませんでした。とくに、「富士講」は、幕府から再三再四弾圧されています。
 この幕府の抑圧政策を、神道信仰が「尊王」と結びつくことを幕府がおそれた、と見るのは大きなあやまりです。それは、神道信仰が人民階級を自主的に結合させつつあることにたいする恐怖であった、に違いありません。
 さきに本居宣長が、「おかげまいり」に関心をもたなかったと述べましたが、一つには、こうした幕府の抑圧政策にも、大きな原因がある。支配者は、民衆エネルギーと知識人の結合を、もっとも恐れていたからです。
 そして、こういう状況をふまえて初めて、ぼくに、大塩平八郎(一七九三〜一八三七)の行動が理解できます。
 彼は、一八三三(天保四)年七月、前年より、もう天保の大飢饉が始まり、各地で一揆・打ちこわしが起っていますが、富士に登り、自著『洗心洞剳記(せんしんどうさつき)』を納めているのです。
 四年後に彼は、いわゆる「大塩の乱」を起しますが、その時の檄文、つまりアジビラの裏に、伊勢神宮の御礼をはりつけて、これをばらまいています。
 さらには、幕末に無数に行なわれたと考えられる、国学者、文人の登山も、一つにはこうした社会状況の中で、とらえらるべきだと思うのです。
 すでに、問屋制商業の広汎化とマニファクチァーの部分的完成が、プルジォアジーの成立を可能にし、ここに、登山を登山としてのみ楽しむ人びとが多数いたことは当然としても、そうした社会背景にのっとった考察が、どうしても必要だと、ぼくは考えるのです。

『新宗教の発明』

 民衆の自己解放運動であり、「世直し」の欲求をはらんだものであり、自主的な宗教改革連動でもあった「おかげまいり」は、慶応の「ええじゃないか」一八六七(慶応三)年、で終息します。
 この時は、各地に「おふだふり」があり、それも、お礼のみではなく、神像、仏札、仏像、時に十七、八の美女がふったり、生首がふったところもあったと伝えられています。また、小判・金塊がふったり、唐人の家には石がふったりしています。これは、おそらくデマであって、こうゆうことが、京都方の謀略説が生れるところなのでしょう。
 そして、この時のは、各地ともその土地の踊りが中心であったことが、以前の「おかげまいり」と大いに異なるところです。さらに歌われる歌の文句が、また大いに露骨であったことも、その特徴でしょう。
 たとえば京都では、「ええじゃないか、ええじゃないか、おそそに紙はれ、破れりゃ又はれ、ええじゃないか、ええじゃないか」と歌ったといいます。
 そしてこの狂乱のうちに、反幕府方のクーデターが成功して、いわゆる「大政奉還」が行なわれたわけです。そして、この直後、国家の最高機関としての神祗官設置が明らかにされ、新政府の神道国教政策が発表されます。
 しかし、政府によって組織されていった「国家神道」は、けっして民衆が期待したようなものではなかった。それは、絶対主義君主としての、天皇の権威をうらづけるための、神道信仰のおしつけだったのです。
 ここにおいて、三百年の近世封建時代を通じて、民衆が生活の中から育ててきた、人民的な民族宗教は、歪曲され挫折してしまいます。
 同時に「おかげまいり」の伝統も、抹殺され、忘れられてしまうことになったのです。
 そして、ここで行なわれた、未完の維新は、民衆にとっては、幕藩による支配から、天皇による支配への移行にすぎなかった。それは丁度、インドの説話のごとく、鉄の籠からだしてもらったと喜んだ小鳥が、気がついたら、こんどは銅の籠に入れられていた、というようなものだったのです。
 だからこそ、維新政府は、この銅籠の正当性を、北は奥州から南は九州まで、民衆への布告でくりかえし呼びかけねばなりませんでした。
 一天子様は、天照皇太神宮様の御子孫様にて、此世の始より日本の主にましまし、神様の御位正一位など、国々にあるもの、みな天子様より御ゆるし遊ばされ候わけにて、誠に神さまより尊く、一尺の地も一人の民も、みな天子様のものにて、日本国の父母にましませば…‥(明治二年月「奥羽人民告諭」)ー
 これに対して、もちろん民衆は大抵抗を試みます。いわゆる「自由民権運動」です。しかし、悲しいかな、政府の方が強かった。後にも述べますが、明治の政権は、外国人顧問に多くのアドヴァイスを受けていました。
 フランスのとくに進んだ憲兵制度、ドイツの弾圧立法などの、欧米の最新民衆コントロール技術が、直輸入されて利用されました。
 この時、民衆弾圧の指揮をとったのは、松方正義内務卿でした。(この人の子息が、最近おなくなりになった、日本山岳会や日山協の会長を務めた松方三郎です)
 彼は、明治十四年から大蔵卿になり、全く破たんしていた、明治財政を立てなおします。この成功の秘密は、ヨーロッパ諸国が行なっていた「植民地からの収奪」方式を、日本民衆の大多数をしめていた、農民、小市民に適用したところにあるとされています。
 松方財政は、「ここ数年の間に数百万の小豪農・自作農をおしつぶし、六十万戸に近い農家を解体させ、五万社に近い小会社を倒産させて、死骸の山を戦車でひいてゆくように勝利のうちに驀進した」(中央公論社『日本の歴史21』)のです。
 かくして、明治の新政権をゆるがせた「民権運動」も息の根をとめられてしまうのです。
 こうして、完壁なまでの、日本天皇制は確立することになります。
 小島鳥水が、「チェンバレン先生の名は、明治早期の登山時代に、いち早く、しかも鮮明に、掲示された先駆者の標札である」(こういういい方のでたらめさについては、後に述べますが)として紹介した、B・H・チェンバレンは、ことの本質を見ていた、とぼくは思う。
 彼は、英国で天皇制批判の本を出版し、それに『新宗教の発明』という題をつけました。そして、この中で次のように書いているのです。
 一日本政府の官僚たちが、自分の利益のために天皇を神にまつりあげ、国民をして政府に盲従せしめる奸策を弄した。(中略)日本の学者は、日本の起源が伝説のような古いものではないとよく承知しているのに、政府がそれを許さないので、かれらはいわない。いえば、妻子が飢えるほかないからだ(「盗みの考現学」P一二五)

「ウェストンの宗敦登山観

 さきに述べた、チェンバレンは、一八七三(明治六)年、海軍大学講師として来日しました。彼もその一人なのですが、明治維新後、実に多くの雇われ外人がやってきます。初期の明治政府は、自分たちの力不足を、彼等の力でおぎなおうとしたわけです。
 その大半が技術関係であったのですが、その数は、わが国の技術陣が自主性を確立する明治十八年までに、のべ三千人以上に達したといいます。
 当然、外国人による登山が行われることになる。日本の山はもう、十分に登られていたのですから、彼等にとっては、一つの旅行にすぎなかったはずです。
 日本アルプスが、「白紙の山岳地、暗黒の秘密国」(小島烏水)などというのは、誇張もいいとこで、烏水が初めて槍ヶ岳へ行った時には、槍の穂にはくさりまでついていたのです。おまけに、彼はどうやら、喜作に案内さして、引っぱりあげてもらいながら、それをひたかくしにしたらしい、という人もいる位です。
 だいたい、小島烏水という人は、かなりけしからんと、ぼくは感じています。がまあ、それについては別の機会にゆずることにします。
 話をもとにもどして、外人による登山が増えた、あるいは相対的に増えた、ということには、それなりの理由が考えられます。
 当時は、激しい民衆運動の高まりがあり、明治新政権はゆらいでいました。その状況の中では、外国人は別として一般民衆は旅行できなかったということです。
 たとえば、一八八一(明治十四)年、横浜駐在アメリカ総領事ヴァン・ビュレンは、次のように述べています。
 彼は、日本の政治体制の中に「古い絶体主義の一特質だけは厳として存続している。それは全人民にたいする警察の監視である」とし、「こうした監視はきわめてきびしいので、日本人は当局の許可がなければ、旅行はおろか、他県で眠ることさえできない」と述べているのです。
 ウェストンも、二度目の富士登山の時(明治二十六年)、「野暮くさい紺の制服をきた日本の巡査」にとめられ、その「のっそりとした公安の番人」に旅行許可証の呈示を求められ、制止された経験を語っています。
 さて、これらの外国人は、日本の宗教登山をどう見たのでしょうか。
 ぼくも、極めて調べ足りませんが、たとえば、ウェストンの『日本アルプスの登山と探険』を、パラパラとめくっただけでも、次のような興味ある記述にぶつかります。
 一富士には毎年何千という巡礼が宗教的な熱情と結びついた登山の醍醐味を求めて登山する……(傍点は当方)(第十章)一
 −日本の巡礼はほとんどいつも信仰に名をかりた物見遊山の性質をおびているので、こうゆう騒がしさを生ずるのである。こうゆう東洋の山岳団体は、ヨーロッパのいわゆる山岳会とは組織が違っている(第十三章)ー
 彼は、宗教登山は登山でないなどと、少しも考えていないではないですか。さらに、
 一道中にくわしい経験者が先達に選ばれる。これは一種の案内人であり、世話役である。その点、クック観光団の案内人に似ている(第十三章)ー
 さらに決定的には、これはもしかしたら、訳の間違いかも知れませんが、ウエストンは、御嶽開山の祖のことを「登山家」と記しているのです。そして、この「普寛霊神」の名をしるした一枚岩の碑を見て、シャモニにあるモン・ブランのパルマ(モン・ブランの初登頂者)の記念碑を想い出すのです。
 どうです、みなさん。ウェストンは、実に素直で冴えた観察者ではなかったでしょうか。
 ぼくたちは、ある偏見にみちた、固定観念を吹きこまれていたのではないでしょうか。そして、そういう偏見を流布したのは、誰であったのか。それは、あばき出されねばならないと、ぼくは考えます。 (つづく)
(たかだ・なおき)

スポーツ神話について

スポーツ神話タイトル
登山と「神話」その1 スポーツ神話について

スポーツ登山について
 先頃、『ノストラダムスの大予言』という本が、話題になったことがありました。何人かの若者から、この本についてのコメントを求められ、しぶしぶ読んでみたわけです。
 あんまりバカバカしい内容なので、途中でいやになりました。あれを感心して読んだ人がいるとしたら、頭の程度が知れるかも知れません。というよりか、あんなもののインチキささえ、正確に認識できない国民を作りだした、教育の責任が問われるべきです。
 最近では、「ユリ・ゲラー」に始まって、「念力少年」が巷の噂を呼んでいます。ぼくにとって興味があるのは、本当にスプーンは曲がるのか、インチキかそうでないか、そういうことではないのです。そんなことは考えるまでもない。「念力少年」がブラウン管の話題となり、人々の関心が、そんなどうでもよいことに集中することによって、喜ぶ奴は誰なのか。
 無意識的にしろ、そういう非科学的事象をデッチあげ、日常化しようと策しているのは、どういう人達なのか、そういうことに最も興味をもちます。照れ臭さをおし殺して、大上段にふりかぶっていえば、社会点視点とでもいえるでしょうか。
 さて、ぼくは考えるのですが、もともと、「山登り」というものは、実体としてはない。一つの抽象概念です。あるのは、山へ登る人間、生身の人間がいるだけです。同様に、「クライマー」などはなくて、クライミングする人間がいるだけです。「クライミングする人間」の最大公約数が「クライマー」のイメージとなって当り前のはずです。でも、どうもそうではない。クライマーのイメージは、適当に捨象・抽象され、美化された形で、クライムしようとする人間に押しつけられ、さらには、人々がそのイメージに向かって、かり立てられることになる。そうなっている状況を、ぼくは、「クライマー神話」があると呼ぶわけです。
 いやに傍観者的に、あるいは評論家的に述べていますが、ぼく自身、決してこういう「神話」から自由ではなく、それにしばられているようです。
 たとえば、「アルピニズムとは……」などと始めると、もうどうしようもありません。それほど、言葉の呪縛は大きいともいえるでしょう。これはまさしく「アルピニズム」神話です。このやりきれない、袋小路から脱出するため、ぼくは、去年の『山と渓谷』四月号に、「神話へのクライムから、内なる呼び声によるクライムヘ」の小文を書いたわけです。
 ところが、よく考えてみると、「内なる呼び声」そのものまでも、「神話」に犯されているようなのです。そうであれば、残る方法は、「神話」自体をじっくり見すえ、その偽瞞性をあばくしかない、と思うようになりました。やり方は、もろもろの「神話」を社会的視点でとらえることです。
 今回は、まず大前提として、「スポーツ神話」をとりあげてみたいと思います。スポーツとは

 スポーツをどう定義すればよいのか。これは、なかなかしんどいことで、ぼくは、のっけからもう、お手あげしたい位です。
 しかし、すでに述べたように、必死にスポーツの定義を考えても、ことの本質には近づけないかも知れない。あの「念力少年」の例と同じことです。「定義もできないくせに、スポーツを論じる資格があるのか」などというのは、一種のいちゃもんではないですか……などと、ここで開き直っておきます。
 さて、これまでに、そこかしこに見られる、スポーツの定義のほとんど、あるいはすべてが、全く方向性ゼロという特徴をもっている(方向性ゼロということほど、強烈な方向性はないのですが…)と、ぽくは思います。
 そもそも、「sportの語源は、ラテン語のdis-porterであり、それはcarry awayすなわち″実務から転換する″ことを意味していた。このラテン語は、後にフランス語のdisporterあるいはdepoterとなり、さらに英語のdisporterからSportへと変化してきた。」などという説明に、ぽくは何となく、『ノストラダムスの大予言』を連想します。
「古代ギリシャのスポーツは……」などと始まると、オリンピックを想いだして、気色が悪くなります。それに、この云い方は誤まっていると考えるべきです。古代ギリシャに行われた、闘争的な競技は、ぼくたちが用いる「スポーツ」とは、明らかに異質のものであるからです。
 ぽくが考えるには、「スポーツは、近代ヨーロッパ社会において生みだされた、だから近代的性格をもった運動の様式」といえます。
「近代ヨーロッパ社会」という中には、二つの要素があります。その一つは、資本主義社会であり、自由競争の時代であったということ。いいかえれば、能力主義と「弱肉強食」「適者生存」のダーウィニズムの思想が主流を占めていた。
 これは、当時のブルジョアジーの思想です。ブルジョアジーというのは、これが、二つ目の要素になりますが、貴族階級をうち倒して、成立した人々であったということです。貴族階級に独占されていた「遊び」を奪いとることが可能になって、始めて、「スポーツ」が成立したわけです。この点が、極めて重要なスポーツの方向性だ、とぼくは考えるのです。大衆化への方向性とでも云えましょう。
 しかし、この方向性は時代の主人となった「ブルジョアジー」によって、むしろ逆転させられます。そして、能力主義や適者生存の論理は、そのまま、スポーツの世界に反映し、閉鎖的に自分達を守るものとなったわけです。

スポーツ登山

「スポーツ登山」などという言葉は、おそらく、というよりか確実に、日本独自のものでしょう。どうしてこんな言葉ができてきたのでしょうか。少々興味がわきます。
 色々の推測は可能でしょう。たとえば、それ以前の探検登山とはちがうという意味で用いられたという解釈。あるいは、登山から始まって、スポーツ登山→アルピニズム→スポーツ・アルピニズム→スーパー・アルピニズムという直列的配置に位置づける考え方。または、より困難をめざす登山という並列的な見方。まあ色々ある。
 ぼくたちは、戦前の天皇主義教育では、物事を一面的にとらえることを強制されていました。一見新生したかに見える戦後の教育に於ては、かなり意図的に、こんどは、無方向に多面的なとらえ方を並べたてられ、困惑してつっ立っている状態です。行動につながる明快な論理をもてないでいる。そして、みんなが考えるように、みんながしているように、ということになってしまうのです。一見民主的のようでいて、決してそうではない。
 だから、ぼくはここで、そういう色々の解釈を並べたてる気持は毛頭ありません。極端にいえば一つのことに関して、百の解釈・百の論理が可能なのです。問題は、そのどれが正しいかではなく、どの階層に立って、どんな方向性と視点でもって、そのどれをとるのか、ということだと思うのです。
 さて、話をもとにもどして、スポーツ登山ですが、こう云い方を始めたのは誰で、どこで使ったのか。そういうことの詮索は、ヒマな人にまかせておきましょう。興味があるのは、この云い方が生れたのはどういう時代であったのかということです。
 それは一次大戦(大正三年)以後だったと、ぼくは考えています。それはどんな時代だったのか。この頃の状況を、歴史本から、いくつかピックアップしてみましょう。
 明治三十六年、十三歳で旋盤工の徒弟となり、大戦後に、労働運動のリーダーとなった野田律太は、こう書いています。
「日本兵器会社はロシヤ注文の弾丸の一部を作るのであった。数が大量なのと期限が切迫しているのだから仕事のやり方は激しいが、能率の上げ放題でいくらでも金を出すのだ。私は十二時間死物狂いで働き十五円稼いだことがあった。ここの労働者は、遊廓やカフェー、レストランでは福の神のように歓迎された。私はこの時代に貯金というものをしたが、百円、二百円とトントン増えて六百円になった」
 つぎは、東京下谷の貧民窟にすみ、労働者の味方を自任した演歌師・唖蝉坊のノンキ節は、こうです。

我々は貧乏でもとにかく結構だよ/日本にお金の殖えたのは/そうだ/まったくだ/と文なし共の/話がロハ台でモテている ア、ノンキだね
 南京米をくらって南京虫にくわれ/豚小屋みたいな家に住み選挙権さえもたないくせに/日本の国民だと威張ってる ア、ノンキだね
 膨張する膨張する国力が膨張する/資本家の横暴が膨張する/おれの嬶ァのお腹が膨張する/いよいよ貧乏が膨張する ア、ノンキだね
 というような状態だったのだけれど、一方では私鉄網をもった都市ができあがり、デパートができました。サラリーマンが主人公になってきた。
 円本ブームが生れ、映画館もでき、競技場・球場もできた。つまり「遊び」が解放されてきた、とも云えるわけです。
 山本茂実は、少しザツではありますが、次のように書いています。
——長年かかってようやく築きあげた明治の経済基盤の上に迎えた第一次世界大戦の余波は、日本に突然の経済好況時代をもたらす。そこにできた国民経済の余裕は一面に学生山岳部を育てた。時あたかも探険期を終ったばかりの北アルプスはこの学生山岳部の活躍に手ごろな玩具を提供した。——
 スポーツ登山がいわれだしたのは、こういう時期だった。

登山のアマチュアリズム

 スポーツは、明らかに輸入されてきた、ということについては、異論はないはずです。
 はじめは、エリートに完全に独占されていたのですが、明治の終り頃になると、そういう状態から脱し始めてきます。
 夏目漱石の処女作『我輩は猫である』には次のような所があります。
「吾輩はベースボールの何物たるかを解せぬ文盲漢である。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、今日の中学程度以上の学校に行なわれる運動のうちで最も流行するものだそうだ」
 この『吾輩は……』は、明治三十八年一月より『ホトトギス』に連載されだしています。また、これより四年前の明治三十四年十一月には、「時事新報社」の主催する競歩大会が行われています。これは、午前四時から午後四時までの十二時間に、不忍池のまわりを七六回歩こうというものだったようです。
 どういうわけで七六回などという数をきめたのか分かりません。とにかく、優勝したのは、七一回歩いた人力車夫の安藤初太郎だったといいます。
 こんな風に、明治の終りにはすでに、スポーツが、新聞社が主催したりする形で民衆に解放されつつあった。
 ところが、こういう風潮をニガニガしく思う考えが顕在化してきた。エリートもしくはエリートと自ら任ずる人達の間に、です。これが、つまり「アマチュアリズム」というわけです。そして、この「アマチュアリズム」は、先ほど述べたように第一次大戦後、「遊び」が民衆に解放されてくる頃になると、極めて強烈となってきます。
 この辺の流れを、日本のアマチュア規定にみることにしましょう。
 日本最初のアマチュア規定は、明治四十四年のものです。抽出して書きますと、年令十六歳以上。学生・紳士たるに恥じないもの。中学校・あるいは同等学校の生徒、卒業生。中学校以上の学生等々です。
 二年後の、大正二年のものでは、中学校の生徒とか学生とかの規定はなくなっています。
 ところが、大正九年になると、全く唐突に「脚力を用ふるを業とせざるもの」という規定が入ります。どうも、その頃になるとマラソン競技には人力車夫や、牛乳や郵便の配達夫が参加し、しかも、上位を占めることが多かったようです。これが、さきの規定が生れた理由らしい。
 つまり、アマチュア規定は、「資格」規定のような体裁をとった、「身分」の規定であった。もっと端的にいえば、「労働者閉めだし」の差別規定であった、ということです。
 たとえば、当時の体協の副会長、武田千代三郎は、次のように述べて、その差別意識をあらわにしています。

——今の選手と称する者自己の品格を重んぜず好んで野郎なる服装を為し、自己の威儀を顧みざること下層の労働者と択ぶ所なきもの多し(傍点は当方)——
 こういう感覚は、当然、山の世界にもあったはずです。「スポーツ登山」を行っていた人達は、そういう感覚をもっていた。
 加藤文太郎が、学生たちに、どうしてあれほど冷たくされたのか。普通は、彼が単独行という、一般的ではない形式をとっていたからだ、とされているようです。でも、これは疑問です。たとえば、大島亮吉は、すでに大正十五年に、G・ウィンクラーを紹介しています。また、伊藤愿も単独行でした。
 やはり、文太郎は労働者であったが故に、白眼視されたのだ、とぼくは考えています。
 現在では、社会も変りました。なるほど、「下層の労働者と変らない」などというようなひどいことを、云ったり書いたりする人は、いないかも知れません。でも、少し鋭敏な神経さえ働かしておれば、こういう意識で物をいっている人が、けっこういることに気づくはずです。
 第二次大戦後、日本の山は、ほぼ完全に大衆に解放されたようです。山における「アマチュアリズム」は消滅したかに思えます。しかし、よく考えれば、決してそうではない。
 この身分差別的発想をもつ「アマチュアリズム」は、新憲法の下でも生きつづけているようです。
 そして、いわゆる「アマ・プロ問題」となって噴出し、最近では、「海外登山推薦基準」となって姿を現わしたのだと思うのです。

スポーツマンシップとは「強者」の論理

 かつて、誰かが、山登りに関して、こんなことを書いたのを、読んだ記憶があります。
「山登りでは、本当に登頂したかどうかは当人しか分らぬ。それを信ずる所に山登りが成立つ。これは、山へ登る人がスポーツマンであって、そのフェアプレーの精神を人々が信じているからなのだ」と。なるほどそうかも知れません。でもこの説明、どうも儒教臭い。
 よく引用されるところですが、池田潔は、スポーツマンシップについて、『自由と規律』に次の様に書いています。

——さてスポーツマンシップとは、彼我の立場を比べて、何かの事情によって得た、不当に有利な立場を利用して勝負することを拒否する精神、すなわち対等の条件でのみ勝負に臨む心掛をいうのであろう。(中略)無論、対象が人間とは限らない。イギリス人の愛好する狐狩では、必ず狐に逃げ切る可能性のあることを前提条件としている。この逃げ切る可能性をスポーティング・チャンスと呼ぶが、この語が彼等の日常生活のあらゆる面に融け込んでいる事実が、彼等のこの点についての深い関心を示している。——
 高校生の頃、この本を一生懸命よんで、なるほどなあ、と感心した記憶があります。
 でも、今はそうはいきません。ほんまかいな、と思います。「狐に逃げ切る可能性」があれば「対等」だって。バカにするな。狐も銃を持ち、ハンターも同等に撃ち殺されることがあって、始めて対等ではないのか、と思います。 なるほど、そうか、スポーツマンシップとは「強者の論理」だったのか、と思います。
 このことを裏づけするように、この本の著者は、次のようにつづけています。
——正当に立向う力をもたないものに対しては刀を打ち込めないのがこの精神ではあるが、今更、外来語を持ち出すまでもなく、かつてわれわれの祖先が刀にかけて尊重してきた大らかな精神と相通ずるものであり、決して珍らしいものではないのである——
「われわれの祖先」という所を、「武士階級」とおきかえると、よりはっきりします。「刀狩り」などやって、刀をとりあげておきながら、「大らかな精神」でもないでしょう。
 さて、スポーツマンシップが「強者の論理」だということは、考えてみれば、極めて当然のことかも知れません。というのは、前にもいいましたように、スポーツは「ブルジョアジー」の作ったものですし、彼らを支えたのは「弱肉強食」の論理だったからです。「自然淘汰説」を中心とするダーウィンの学説があらしのような歓迎をうけ、潮のような勢で普及していった時代に生きた人々によって作られたのがスポーツだったのです。
 ところで、この現代にまで流れる大思潮「ダーウィニズム」を作ったダーウィンです。彼が『進化論』の発想を得たのは、「ビーグル号の世界周航」であったことは、よく知られた事実です。この三年半にわたる船旅の間、彼は八回、船をはなれてのエクスペディションを行っています。極めて興味があると、ぽくが思うのは、彼が至るところで、高い山に登ろうとしていることです。
——このようにして未知の領域を探険しながら至るところで、少しでも高い山をみつけると、必ずその頂上まで達しょうとして、あらゆる努力をはらっているのである。高いところに立てば、そうしないよりも、はるかに広い土地が見わたせるから、登山は探険の一方便であるともいいうるが、彼はまたそうすることによって、はじめてその頂上に到達した人間になるという、一種の虚栄を満たしうることをも否定していない(世界の名著『ダーウィン』中央公論社)——
 イギリスに、アルパイン・クラブが結成されるはるか以前のことでした。〈はじめて頂上に到達した人間になる〉という、登頂へとかりたてる欲求、つまり登山を支える一つの欲求を、ダーウィンがもっていたわけです。面白いことです。そして、「適者生存」「弱肉強食」の論理を作ったのもその当人、その論理を反映しているのがスポーツです。そのスポーツの中で少々特殊と見られているのが「登山」だ、ということになっています。
 少し強引かも知れませんが、もしかしたら、登山は、スポーツの中で特殊なのではなく、極めて本質的なのだ、ということになるかも知れない。
 つまり、登山には、極めて強烈に、スポーツにおける「強者の論理」が反映しているのではないか、と思うのです。
 そうであってみれば、「強者の論理」が告発されている今日、登山もまた問い直される状況にあると云えます。

スポーツと儒教道徳

 先の項の冒頭に、フェアプレーの精神の儒教的解釈による山登りの説明を引用しました。あの場合、「フェアプレー」が意味するところは、「ウソをつかない」ということのようです。
 でも、ウソをつかずに、スポーツなどできません。「トリック・プレー」は、それ自体「ウソ」ですし、ルールを破るところに、スポーツの面白さもある。こういうことが、一切指摘されないで、「フェアプレー」がいわれるところに、ぼくは、まやかしの「神話」を感知するわけです。
 大分前になりますが、NHKの『国盗り物語』で明智光秀が面白いセリフをはく場面がありました。
 家臣の一人が、光秀に「検地帳」を見せながら、「農民は田地を偽って少なく報告しているに違いない。隠し田を探し出して罰するべきです」といいます。すると光秀はこういうのです。「武士のウソは、知媒といわれる。坊主のウソは方便となる。農民は何といえばよいのか。捨ておけ」と。
 話がとぶようですが、フランスで、十二世紀から十四世紀にかけて生れた、物語詩『きつね物語』を引用します。
 これは、きつねのルナールが、悪知恵を働かして、おおかみをやっつける話なのですが、まさに始めから終りまで「ウソ」「計略」「トリック」に満ちています。そして、この物語詩は、おおかみが、「やはりだまされた俺の方が悪かったのだ」というところで終るのです。当時、貴族と僧侶という特権階級に抑えつけられていた民衆が生みだした作品です。
 ついでにもう一つ。『リーマスおじさん』。これは、アメリカ南部の黒人に伝わる民話を集めた本です。これも前のと同じく、弱者が強者に立向うには、「ウソ」しかないことを、主人公のうさぎの行動をかりて語っています。
 さて、日本ではどうでしょうか。同じような民話があったはずだ、とぽくは信じています。しかしその全部が、抹殺されるか、あるいは完全に変形されてしまったようです。それをやったのは、おそらく、明治政府だったのでしょう。読者のみなさんが、何を馬鹿な、とおっしゃるかも知れないので、例をあげてみます。
 まず、有名にして、なつかしい、あの『かちかちやま』から。
 あれは、柳田国男説によれば、二つの部分が合体され、合成されたものだといいます。もとの部分は前半で、後半はつけ足された部分というわけで、何の理由もなく、人間の味方となって仇討をしたりする、正体不明のうさぎが現われます。
 もとからあった部分の前半も、大分変えられています。こういうことは本題ではないので詳しく述べられないのが残念です。一部を述べてみますと、もともとは、捕えられた狸が、おばばをだまし、じいさまに「ばばあ汁」を飲ませてから正体を現わし、「流しの下を見てみい。ばばあの骨があるぞ」という残酷物語なのです。
 狸の側にも、やらなければ自分が喰われるということを認めたうえでの、極めてきびしい民衆の思想がおり込まれていたと考えられるのです。
 つぎは『はなさかじじい』をあげます。これももとはといえば、「枯木に花を」、つまり「死を生に」あるいは「無から有を」という、不可能を可能にしたいという民衆の素朴な夢が生みだした民話であります。そのとき、「枯木に花を」咲かすべく、話を展開さすうえでの舞台回しとして、二人のじいさんが登場するにすぎなかったのです。
 ところが、これを、「正直じいさん」と「欲ばりじいさん」に変形したのは、誰かの悪だくみとしかいいようがありません。
 大正六年にでた、武者小路実篤の『カチカチ山と花咲爺』をよんでみて下さい。現在復刻版もでています。何とまあと思われる位、「儒教道徳」がもり込まれています。
 学校教育においてはいわずもがな、あらゆる場面で、天皇制を支えるものとしての儒教道徳を、徹底して注入された結果、ぼくたちは、「弱者の知恵としてのウソ」等ということを、認めることができなくなった。あるいは、弱者の立場という発想すら、失われてしまったというべきかも知れません。
 中国では、大分以前から「儒教」について、「被支配階級の不満が高まった時期に、それを鎮めるべく説かれた思想」という定義がされていました。最近では、ある中国高官が、「これまでに中国が日本に迷惑をかけたものは、『儒教』と『漢字』だ」と述べています。
 日本の支配者は、この思想をもっと浸透させたいと思っているはずです。でも、まさか、あからさまに「儒教道徳」を鼓吹するわけにも行きません。そこで、スポーツが、最大限に利用されるのだと思うのです。「近代的な運動様式としてのスポーツ」と、全く何のかかわりもない、儒教的徳目が、スポーツの世界にどれほどあるか、一度考えて見るべきではないでしょうか。

「フェアプレー神話」と「ルール信仰」

 サッポロ・オリンピックの少し前に、ある事件が新聞で報じられました。
 強化選手の一人が、酒に酔って車を運転し、おまけに注意した人間を、ポカリとなぐったというのです。別に何のことはない。そこら中で起っている様な事件です。
 ところが、この場合はそう簡単ではなかった。かなり大きな問題にまで発展しました。
 この事件について、オリンピックの関係者も数人、コメントしていますが、ぼくが面白いと思うのは、その選手のつとめ先の上役の弁です。「スポーツ選手だけに、どうしてあんなことをしたのかと、びっくりしている」
 普通の人間ならともかく、スポーツ選手がまたどうして、というのです。彼は、スポーツ選手はこうした事件に最も縁どおいと信じていたのかも知れません。
 そして、こうした信仰は、おそらく、スポーツによって人格がきたえられているはずだから、という前提の上に成立っているのでしょう。
 でも、「スポーツが人格を高める」などというのは、「健全なる肉休に健全なる精神が宿る」と同じく、壮大なウソでしかない。
 勝つためには技をみがかねばならない。そして技をみがくだけでなく、自分に勝たねばならぬ。こういうテーマのスポーツマン物語が、それこそゴマンと作られてきました。
 こういう話の筋書は、ほぼきまっています。強いけれども技だけの、精神的には欠陥のある人間が、日本一、あるいは世界一の座をめざす主人公の前に立ちはだかるのです。そして、苦労はしますが、かならず人格のすぐれた主人公の勝で終ります。
 でもこれはあくまでお話しで、現実がそうなることは、まあないといった方がよい。現実がそうでないからこそ、ぼくたちは、「スポーツマン物語」を喜ぶのだと思うのです。同じ勝つなら、立派な、思いやりのある人に勝ってほしいという、民衆の願望なのです。
 さて、もう一度前にもどって、例の強化選手の場合を考えて見ます。彼がやったことは、飲酒運転と人をぶったこと。人をポカリとやった位ですぐ警察にひっぱられることはない。自分が悪いことをしておいて、注意した人をなぐるとは、という主に人格上の問題です。
 ところが、前者の飲酒運転は明らかに法律を破る違法行為です。つまり、あの上役の言葉の中には、スポーツマンがどうして違法行為をしたのだろう、という意味がこめられていると思われます。
 そして、この言葉には、さらに次の二つの意味が含まれています。一つは、スポーツマンは、ルールを守るフェアな人間であるということであり、いま一つは、スポーツのルールと法律とを混同している、ということです。
 スポーツのルールと法律とは、同じに考えられやすい。しかし、この二つは、全く異質のものです。局限された、非現実空間における、とりきめにすぎないスポーツのルールは、法律とは大ちがいです。
 けれども、この二つは混同されている。そしてスポーツはルールを守ってやるところに成立っている、と考えられている。これら二つのことが、セットされて、「スポーツマンがどうして…‥」ということになるのでしょう。
 これが一般人の見方であり、「フェアプレー神話」です。ところで、「フェアプレー神話」は、選手にもあります。
 国休の開会式で、選手が真剣な顔で宣誓します。「フェアプレーの精神にのっとり、正々堂々とたたかいます」と。彼はきっと、心から「フェアプレーの神話」を信じているのでしょう。その真剣な顔を見ると、ぼくは、すこし気の毒になってきます。彼は、国体の運営が、まったくフェアに行われていると信じているのかしら、あらゆるスポーツの組織が、いかにフェアでないか、知っているのかしら、と思います。
 さて、一般的にいって、スポーツマンは単純であるといえます。あんまりめんどう臭いことはきらいです。これは、スポーツ自体とも関係があるのでしょう。いちいち、みんなで相談して、ポールをパスしていたりしたら、ゲームになりません。
 そもそも、人間は環境の動物であり、習慣は性質となります。スポーツマン的性格が形づくられても不思議ではありません。それに、日本の場合スポーツ集団は閉鎖的な家族主義の中にあり、儒教的道徳をたたき込まれる仕組になっています。
 こういうことが、会社などで、スポーツマンが好評を得ている理由なのでしょう。言葉づかいがよく、はきはきしており、云いつけをよく守り、規律ある行動をするからだそうです。いってみれば、よく調教されているということです。
 高校のホーム・ルーム等で、何かを決めるべく討論しているとき、「こんなことはどうでもいいではないか。先生にきめてもらって、外でソフトボールでもしよう」といいだすのは、きまって運動部の生徒です。
 彼等は、スポーツのルールを、自分達で変えてみんなが楽しめるようにしよう、などとは決して考えません。ルールは不変で、守るべく存在するという「ルール信仰」をもっているようです。おまけに、スポーツマンシップとしての強者の論理も持っている。
 スポーツというものが、こういった「ルール信仰」や、「強者」の論理を含んだ、いわゆる「健全な精神」を育てるとしたら、これは大きな問題といわねばならない。
 そして、スポーツが本質的に持つ矛盾が問い直されないまま、「国民皆スポーツ」などということが、一方的に叫ばれる今日、ぼくたちは、鋭い目を持たねばならない、と考えるのです。

「スポーツ神話」と「アルピニズム論」

 スポーツは、それ自体純粋である、ということがいわれます。表現を変えて、もっと端的にいえば、政治から離れて存在しているのが本来のあり方である、という主張です。
 こうしたスポーツの非政治性の主張は、それを誰がいっているのかによって、その内容が大きく異なっていることに気づく必要があります。
 たとえば、IOCや日本体協が、そういうときには、「大会や競技会に、金だけはふんだんにだして、それ以外の口出しはするな」という意味をもっている。ブランデージといえども、国家つまり政治が、オリンピックに金をだすことを否定したことはないし、もしそういうことになれば、オリンピックが開けなくなることぐらいは百も承知のはずです。大会に消費されるお金は、もともとぽくたちのだした税金ですし、国民のスポーツ要求を保障していくのは、政治の任務なのですから、政治が口出しして当然です。一方、ぼくたち国民が、スポーツの純粋性や、非政治性を叫ぶのは、政治が国民の要求を無視しつづけてきたという、政治不信に根ざしていると考えるべきです。
 言葉を変えていいますと、きわめてささやかな最低限の願いである「遊び」の世界にまで、政治が介入してくることに対するいきどおりが、そういわせるのでしょう。そのいきどおりが、政治の介入を拒否しようという主張となるのだと考えます。
 さて、前の方で、もしかしたら、山登りは極めて本質的に、スポーツであるかも知れないと述べました。そういう意味あいからも、この「純粋性」「非政治性」が、もっとも強くいわれるのも、山登りではないか、と思えます。
 こういう内容を含んで、山登りの世界では、いわゆる「アルピニズム論」が存在する、とぼくは考えています。
 日本ほど、「アルピニズム論」のさかんな国はない、ということがよくいわれます。今までに、実に数多くの「アルピニズム論」があり、それらは、その時々の時代を反映して、色々変化してきています。しかし、一定して変らないものがある。それは、「アルピニズム論」なるものが、社会的視点、あるいは方向性をもたない、一種の「登山至上主義」の中で論じられていたということです。
 たとえば、「高山は、地球の上の、一つの別世界である」という考えがあります。別世界といっても登るのは、生身の人間で、別人間というわけではない。それを、あたかも真空のガラス鐘の中にあるかの如くいうのが「登山至上主義」です。
 また、「つまるところアルビニズムの精髄は、自己の生命力の根源につながるもので、下界的な虚飾とは無縁な存在であろう」などというのも、おなじ発想で、一つの幻想です。
 ルネ・デメゾンが、「人間が機械に支配され、、事務所に釘づけになり、金銭を崇拝し、自らを奴隷状態に帰しているような、〈金〉がなにより力があるようないまの時代…‥」という時代認識をして、「豊富な経験と最良の準備さえあれば、登山の危険は完全にのぞくことができるなどと思い込むことは、空中楼閣を描くのに等しい。アルピニズムは、明らかに危険なスポーツである」と述べてもそれはそれだけのことです。「デメゾンだけに云えることだ」くらいで片づけられてしまいます。たかだか、生命保険の団体加入がいわれる位が関の山で、たとえ「危険なスポーツ」であっても、その「スポーツ」を行なう権利を保障すべきだ、というような主張など、生れる余地もありませんでした。
 最近、この雑記の33号に、二つの「アルピニズム論」がのりました。どちらも明快で、かなりの共感はおぽえましたが、同時に、あるおぞましさをも感じました。
 たしかに、美化された「神話」におどらされている自分に気づいたとき、その怒りを込めた主張は、ニヒルになり、アナーキーになる。変にモラリスティックな考えによって、真実がかくされて、「たてまえ」だけがまかり通っていることが腹立たしくなったら、主張は暴露型にならざるを得ません。だから、ぽくには、あの 「ニヒリスティック・アルピニズム論」あるいは「アナーキー・アルピニズム論」はよく分かります。あるいは、肯定的な意味あいでの、ポルノ的な「アルピニズム論」といえるかも知れない。しかし、これまでの「アルピニズム論」と質的には同じです。
 ただ、こうした「アルピニズム論」がいわれだしたところに、ぽくは、自由化へのたてまえとはうらはらな、管理社会の進行と、時代の閉塞状況を感じるのです。
 そして、そうやって、怒りを「アルピニズム論」にぶちまけたところで、何の質的転換をも得られない。高貴とされてきた「アルピニズム」を、実はくだらなかったのだと暴露し、「永遠にくだらなくあれ」と絶叫しても、それはそれだけで、何物をも生みだしはしないと思います。
 どうしてかというと、これらの「アルピニズム論」を生みだした怒りが、未組織の怒りであり、個人の「遊び」を守ろうとする怒りに止まっておって、国民全体の「遊び」の権利を守ろうとするような怒りになっていないからなのです。
 やがて、こうした怒りが、国民全体という視野と展望の中で組織され、結集されるという状況が生れたとき、まったく質的に異なる「アルピニズム論」が生れるかも知れない。あるいは、「アルピニズム論」は消滅し、末期症状ともいえる、この「山登り」というスポーツが、新しく蘇えるかも知れない、と考えるのです。(つづく)
(たかだ・なおき)

西パキスタンの旅 最終話「幻の峠を求めてーエピローグー」

サーブ、結婚しろ
幻の峠5 極度にやせた、ハラハリ氷河左岸のサイドモレーンのナイフリッジをたどる。
 リッジの右側はモレーン壁の原型をとどめ、その底には小さたアプレーション・バレー。
 左側はスッパリと切れ落ち、その侵食壁の下には、大小の岩石におおわれたハラハリ氷河が横たわる。
 そして、その約1000mの氷河幅の向こうには、壁に小さな懸垂氷河を引掛けた岩峰が連なっている。
 5000m峰だ。登るとすればかなり困難な登攣となるだろう。
 アルプス、コーカサスの峰々はその壁という壁が登りつくされているというのに、ここでは、その頂上に立った者さえいないのだ。
 私たちが、このぜいたくな景色に、悦に入っていると、30kg近い荷を持ったフェルドースが、振り向きざま、
「サーブ、この道は俺たちしか行けぬ」と口をとがらせて話しかけてくる。ウルドーをいうときだけそうするのが、彼のクセらしい。
「どうだサーブ、サーブはしあわせか」確かに連中のバランスは素晴らしい。とてもガブラル村のポーターの比ではない。
 しかし、この押しの強さはどうだ。彼らの個性の強さもまた、カブラルの連中の比ではない。
 フェルドース、今度は中村の方を向くと、まったくヤブから棒に「サーブ、ハラハリ村で結婚しろ」
 「中村があっけにとられて、ポカンとしていると、フェルドースは右手を差し出し、人差指に中指をからませたサインをした。そしてさらに、それに左手の人差指を当てがった。
 中村は少々怒り、赤くなり「トゥム、アッチャーナヒーン」(君はよくない)」と叫んだ。
 私たちは、「そうせい、そうせい。なかなかええ娘がおったやんけ」などとはやした。
 彼は、自称、パキスタン娘にモテるのだ。たとえば、インダスルートへの途中、カローラという部落に泊まったときなど、女の子が後ろについて回るので、小便するのに困ったそうだ。もっとも、そういう光景を私たちは見てはいないのだが‥…・。

 七月二十三日、私たちはハラハリ村のポーターたちと一緒に、ハラハリ氷河を登り、峠を目ざしていた。
 同行のポーター六人。
 アブドラーマン(六〇)、ビリアムカーン(三〇)、ムシュラップカーン(二八)、フェルドース(二五)、サドバル(二五)、サダップ(二五)。
 みんな屈強の男どもだ。ひとクセもふたクセもありげなつらがまえである。
 私たちは、ビリアムカーンにさっそく、〈悪役〉というあだ名をつけた。彼は、まさに西部劇の悪役の顔をしている。
 例外はフェルドース。彼は金持ちのぼんぼんタイプのやさ男だ。
 ビリアムカーンは、ハラハリ村の実力者の一人だ。ちなみに、彼の財産はヒツジ二〇〇頭、ウシ八頭、ウマ二頭。
 もう一人の実力者は、シェール(六〇)であって、彼の所有するヒツジは三〇〇頭。
 こういうことは、もちろんのちほどの定着調査で分ったのだが、たとえば、フェルドースとムシュラップカーンは、このシュール派に属する。
 シュールの娘は、フエルドースの妻である。シェールの妻は、ムシュラップカーンの姉マルジャン(四〇)だ。つまり、この二人は、シュールの義理の息子であり弟なのだ。
一方、ビリアムカーン派に属するのは、サダップとサドバル。
 サダップの母親は、ビリアムカーンの父親アダル・ハーレツク(七〇)の妹である。つまり二人はいとこ同志だ。サドバルは、ビリアムカーンの使用人である。
 このどちらの派にも属さないのが、アブドラーマンである。

誇り高い山人

幻の峠5スナップ 四〇才の妻に、三人の子供。一番上の子供はまだ一〇才だ。一番下は二才。この子供を抱いた彼の目からは、あの鋭さが消える。
 若いころ、多くの氷河の旅を行なったシカリー(猟師)仲間は、病気や氷の割れ目に落ちたりして、もう一人も生きてはいない。だから、自分だけが、この峠越えの道を知っているのだ、と彼はいった。
 彼は、誇り高い山人なのだろう。村では、他の村人とはほとんど離れていて、ともに談笑することもなかった。
 この峠越えで、彼は、私たちの荷物を運ぶことを拒んだ。持たせようとするビリアムカーンに、彼は憤然としていった。
「ワシはジャマダール(リーダー)だ。お前たちのアタ(小麦粉・食糧)はワシが持つ。それ以外は何も持たない」
 このときのことを根に持っていたのか、ビリアムカーンは、サイドモレーン上の休憩のときに、こういった。
「こんな峠越えなんぞ、簡単なもんだ。俺一人でも行ける」
「なんじゃと」やはり、彼は、かん高い声を上げて、ひらきなおった。「ワシが先導しなくて氷の割れ目を進めるというのか。よし、それならお前先頭に立て!ビリアムカーン」
 ビリアムカーンは、シュンとして黙ってしまった。
 間もなく、サイドモレーンはつきた。ポーターはここで泊まりだといった。4050m。
 なるほど、このあたりが厳密な意味での植物限界なのだ。アブレーション・バレーの向こうの岩壁には、小さな灌木がある。ポーターたちの貴重な燃料だ。
 その木を取りに、岩壁を攣じるサダップ。たくみなクライムを、サーブたちは感心して眺めている。
 サドバルがいい声で歌をうたう。〈シーリンジャーナー〉、彼の十八番だ。シーリンという美少女を歌ったものだ。その一節。〈川がある。そのほとりにシーリンが立っている。少年がやって来た。彼はいう。手をお出し。手をとって渡してあげよう〉
 基線測量をようやく終えると、すぐに夜がきた。
 午前四時、「サーブ、サーブ」ポーターたちがテントをたたく。着のみ着のままで一夜を明かした彼らは、三時から起き出して、寒さに歯を鳴らしていたという。
 早くしないと雪がゆるんで危険だ、急げ、とさんざんせかされたけれど、羽毛服を着込んだサーブたちは、紅茶を飲んで、いやにゆっくりとテントをたたんでいる。明け始めた氷河の白に、モレーンに立つポーターたちのシルエットが美しい。
 六時出発。
 すぐ氷河へ。ものすごく早いピッチ。私たちは必死で後を追う。トップに立つアブドラーマンは、手に細い木のツエ、足にヒツジの革を巻きつけただけのいでたちで、凍雪を踏んで行く。
 突然、彼が雪にうづくまった……と見えたのは誤りで、ヒドン・クレバスに落ち込んだのだ。
 やがて、朝日が雪を赤く染め始めた。
 ふと気がつくと、もう氷の壁が目前に迫っている。でも、峠はどこにあるのだろう。

マナリ・アンに立つ

 高度4200m地点で休憩。パドルの水を飲む。出発のとき、ポーターたちは、手を天に向けて、アラーに祈った。ごく自然に私たちもこれにならった。
 急に、右手のはるか上に、岩の切れ目が現われ、峠が見えた。ハラハリ氷河はそのどんづまりで、直角に右に曲がると、急激に峠にのし上げていた。
 アブドラーマンは、セラック帯の立ち並ぶ氷塔めがけて、一文字に進んだ。
 それは、私たちのルートファインディングの意表をついていた。だが驚いたことに、彼の前には、常にルートが展開した。
 クレバスにはスノーブリッジがあり、スノーウォールにはレッジがあった。
 クモの巣のように走るクレバスをぬって、それは、まさに動物的なルートファインディングとしかいいようがなかった(しかし、この点について疑問を感じた関田が、のちほど問いただした結果、彼が数週間前にこのルートを通ったことが判明した)。
 そして、ときどき、彼は手オノを振って、カッティングを行なった。
 手オノのカッティング、とび散る氷片、切り出された足場にゆっくりと置かれるヒツジの革を巻きつけた足‥…・。私は、何か、失われたショウを見る気持で眺めていた。
 高度にして200mほどのセラック帯を抜けると、あとは坦々とした雪の登りが続いていた。
 ホッとした私たちは、ここで初めて、ゆったりとくつろぎ、ハラハリ氷河右岸の峰々を眺めた。
 そのとき、「サーブ」とアブドラーマンが語りかけた。「ワシは、サーブたちに金でやとわれて案内したんじゃない」彼の声はいつものようにキンキンとはひびかず、低かった。
「あんた方はワシたちの友達になれると思ったんだ。それにサーブたちは、ウルドーが話せる。何年か前にも、よその国のサーブに頼まれて、一日五〇ルピー出すといわれたが、ワシは断った。こんな危ねえ所へ、気心の知れねえもんと来るなんて、いくら金を積まれてもゴメンだね」
 私たちは、雪の白に区切られた蒼穹の底に向かってあえぎ登った。その蒼色の円弧は、いつとはなしに広がり、やがて、ポチリと突起が現われ、次々と向こうの山の頂がせり上がってきた。ラースプールの山々だった。
 私たちは、知られざる峠、マナリ・アンに立って、これらの山々を見ていた。10時半だった。
 この景色を眺めるのは、私たちが最初だな、とふと思ったけれど、特に感激したわけではない。
 マナリ・アンは、西パキスタンの旅のエピローグであった。そして、ハラハリ村の連中との叙事詩的な交わりの中の、一つのエピソードにすぎなかった。(おわり)