リモネーゼとクネーゼ

 リモネット村にほとんど毎年滞在するようになって、もう7年以上もたった。
 リモネット村というのは、イタリア・フランス国境の僻村である。ここで、その地理というか位置を説明してみよう。
 PMN-Mappa.png イタリアの長靴の付け根、地中海に面した都市ジェノバの西方約200キロ、トリノの南方約100キロのところに、イタリア・ピエモンテ洲クーネオ県の県都クーネオ(Cuneo)がある。

 limonePiemonteMap.jpg クーネオから真南へ向かうと国境のテンダ峠トンネルを過ぎ100キロすこしで、コート・ダジュール(紺碧海岸)の海岸線に達し、モナコやモンテ・カルロがある。ここから西に30キロたらず海岸線を辿ると、南フランス・プロバンスの名高いリゾート、ニースに達する。

 さて、クーネオの町は、南から西にぐるりと山々に取り巻かれており、この標高2000mから3000mの国境山脈は、北に連なりモンブランやマッターホルンに繋がる。
 DSC00410_1.JPG ところで、このクーネオから南の国境稜線の山に向かって27キロ走ったところにあるのが、有名リゾートのリモーネ・ピエモンテ (Limone Piemont)で、冬はスキー客、夏は避暑客で賑わう。

 リモーネ・ピエモンテの町からさらに南へ国境の山に向かって、「日光いろは坂」よりもっときついヘヤピンカーブの連続を登った辺りから右に別れて1キロばかり走った所にあるのがリモネット村である。たぶん、テンダトンネルが開通するまで、フランスからの旧道は旧峠を越えてこの村を経由していたと思われる。しかし開通後は、袋小路の村となってしまったようである。
 どんずまりには、国境の山の山腹に開けたリモネット・スキー場があって、リモーネ・ピエモンテスキー場にも繋がっている。
 
リモーネバザール.jpg リモーネ・ピエモンテの地の人は、自分たちのことをリモネーゼと呼んでいる。まあいってみれば「リモーネ人」で、イタリア人ではなくリモーネ人だというのである。クーネオの人たちは、同じように自分たちのことを「クネーゼ」クーネオ人と呼ぶ。
 ここの住人は、ほとんどみんなフランス語を話すし、イタリア語もピエモンテ訛りと呼ばれるフランス語のような訛りがあるといわれる。

 このようなことは、ピエモンテに限らず、世界各地にあるようだ。
 たとえば、アメリカ東海岸のボストンでは、「俺たちはアメリカ人ではなくボストン人(ボストニアン)だ」という言葉を何度も聞いた。京都では、京都弁があり京都人というのが存在する。

 当地で経験したいろいろの話を、日本人でイタリアに留学していたり、イタリアに詳しい人達にしにした時に、一様に聞いた言葉は、「信じられない。とてもイタリアの話とは思えない。それはイタリア人ではないよ」というものだった。
 やはり、ピエモンテ洲のクーネオやリモーネ・ピエモンテあるいはリモネットは、極めて特殊な場所なのかもしれない。

パリ経由ニースからリモネット

プラは空港.jpg プラハからパリのシャルル・ド・ゴール空港へは、2時間弱のフライト。プラハ空港は、すっかりリニューアルされたようでずいぶん奇麗になっていた。なんだかパリのシャルルドゴールに似ている。

シャルルドゴール空港.jpg
 シャルルドゴール空港では、1時間少しの時間待ちで、ニースへ飛ぶ。ニースまでは、1時間半ほどのフライトである。

 空港のEuropeCarで車を借りる。
 日本出発前に予約を入れておくのが普通である。値段などは指定できるが、車種などは指定できなくて、相手の言うままである。
 あてがわれた車は、ルノーのラグーナであった。珍しいことにオートマチックであった。走行距離は2000kmすこし。あんまり気に入らない。
 よく見るとボディーに大小3カ所のへこみ傷がある。
 直ぐ、換えてくれと文句を言った。その中国系の男は、後2台しか残っていないという。
BMW.jpg ぼくの経験では、レンターカーのスタッフで中国系というか東洋系は、極めてタフというか手強い。規則を盾に取って決して引くことがない。
 ここでも、ぼくの「傷物の車にフルインシュアランスを付けて貸すなどというような話は経験したこともないし、聞いたこともない」というぼくの不平に、平然と立ち向かって来た。
 信用できないから、次の車をチェックさせろという希望は、「我々は車を売っている訳ではない」という理由でかなえられず、キーを貰って次の車に向かった。
 それは、紺色のBMW328dであった。走行距離3000km。傷などは勿論なかった。これならまあ文句はない。
 
カールフール.jpg 高速に乗り、モナコで降りる。
 ニースのスーパーよりもモナコの王宮地下のカールフールのほうが品物が豊富である。
 ここで食料を仕入れることにした。シャンパン小瓶2、ゆでえび200g、貝柱200g、ステーキ肉500gなどを買い込んでいると、大分遅くなった。
 7時30分モナコから再び高速に乗る。まだ充分に日は高かった。
 ベンチミーリアで高速を降り、渓谷沿いの山道に入る。
 この道沿いには、断崖都市サオルジュやタンド(Tende)などの中世の村々が残っており、バロック街道とも言われる。
 ニースからは、「中世の村々が残るバロック街道(ロワイヤ渓谷)ツアー」などと銘打って、この道を辿る観光バスも出ている。9時間のコースで一人150Euro。6人バス貸し切りで600Euroという。
 最初、リグリア海岸より別荘地を求めてこの山道をさかのぼった時には、なんだか黒部峡谷に分け入ったような感じで興奮したものだった。
 しかし、この前のトリノ・オリンビック後、ずいぶん道がよくなったようだ。とはいえ下流半分だけなのではあるが。
 中間の辺りから国境のテンダトンネルの中間までは、フランス領が入り込んでいる。イタリア、フランス、イタリアと道路標識から民家のたたずまいまでがはっきりと変わるのが面白い。

夕暮れのリモネット.jpg 9時少し前に国境のテンダトンネルを通過。ようやく夕暮れが近づいた9時、リモネットのアパートに到着した。夕まぐれの雪景色の山々が美しかった。
 シャンパンで、無事到着を祝った。

カレル王の王冠

レストランの食事で.jpg ちょうど今の時期、プラハ城では、カレル王の王冠が開帳展示されているから、それを見に行ったらどうかとパベルが言い出した。レストランで夜の食事をしている時である。
 50年から100年に一回という展示で、チェコ中の人が押し掛け、それに世界からの観光客が加わるからとんでもない行列になる。最低5時間は並ばないと中に入れない。「どうだいナオキ。並ぶかい」
 その顔は、並ぶわけないよなあ、といっている。ぼくは、その意を受けて「いやだね」といった。
王冠.jpg 王冠と王杖と王玉の三種だそうで、これは7つの鍵の掛かった部屋に仕舞われているそうである。その鍵を保管する7人が順番に鍵をあけ、ようやくその保管室の扉が開くのだそうである。
 そんなのは、日本にもあって三種の神噐というんだと、ぼくは説明する。
 「ところで、その王冠が入っている部屋の扉を7人が開けたら、フロアはビカピカだったんだって。どうしてほこりが積もってないのかなあ。きっと掃除のおばさんが毎日掃除してるんだよ」とパベルは冗談を言った。

これは、※パベルが教えてくれたサイト※。
 チェコ語のサイトなのでまったく読めないけれど、最下段に動画があって、そこでは7人が順番に鍵を開けている様子を見ることができる。
 ところが、あとでネットで調べたら、たしかにプラハ城の王冠展示は19日から29日まで行われている、50年に一回というのは、パベルの間違いか誇張のようである。
 記事によるとこの100年で10回は開帳されている。

カレル城.jpg 翌日、プラハ城を見学した。パベルのボルボで城の裏門に着いた。こちらからの方が近いという。
 王冠の展示館には、なるほど長蛇の列が出来ているようであった。その一部を写真に撮った。
 ぼくは、プラハは4回目。一回くらいはプラハ城に行かなかった時もあると思うけれど、決して初めてではない。
 でも、なんだか初めてのように新鮮な感じで見て回ることが出来た。

カレル城の衛兵.jpg 衛兵の行列行進は始めでだった。

カフカの家.jpg カフカの家も見た。でもなんでカフカがこんな城内に住んでいたのだろうと思った。

拷問具.jpg 一番印象に残ったのは、地下の拷問室で、たぶんそこに降りたのは、きっと初めてだったのではないかと思う。うまく言い表せない恐怖の感情を憶えた。その数々の鉄製の拷問用器具の精密さに感心しながらも恐怖の感情は増幅させられた。

 途中からパベルは、オークションが始まるからといって、一行と別れた。年に一回行われるオークションで、お母さんに頼まれた絵と彫刻を落とすのだそうである。後で合流した時に聞いたら、どちらも競り負けたそうである。

カレル橋と船.jpg 世界最古と言われるカレル橋の直ぐ近くのレストランの水辺のテーブルで食事をした。モルドウの水面には、水鳥が泳ぎ、絶え間なく船が往来していた。

パベルとぼく.jpg 彼らとは、今日でお別れ。ポーリンは夜、パベルが乗って来た車でブルーノに帰り、パベルは仕事で、明日早朝の飛行機でチェコの東方の町オストラバに向かうという。お別れに二人で写真を撮った。

チェコ・フィルを聴く

4月26日
 いい天気。窓の外のビルの隙間から青空がのぞく。
パベルのアパートから.jpg 9時頃と言ってあったが、寝坊してパベルのアパートに行ったのは10時半だった。ホテルのすぐそば50メートルと離れないところにパベルのアパートがある。
 このアパートには妻の秀子と泊まったことがあったのを思い出した。あの時に比べると部屋の絵画の数がうんと増えているという気がした。パベルの父親のパボルが生前に買い足したのだろう。部屋という部屋の壁は、絵画で埋め尽くされているという感じ。
 父親パボルは有名な脳外科医であったが、パベル達子供2人を連れて、チェコからオランダに亡命した。オランダの大学では、日本の東海大学からの医学留学生を指導していたと聞いた。母親も脳外科の学者で、パベルは学者夫婦の子供ではあるが、なぜかまったく違った方面の道を進んでいる。
 アムステル大学からロッテルダム大学大学院、この頃バンコックでぼくと知り合うのだが、ここを出てKLMオランダ航空社長の秘書になる。数年で止めて、KLMソフトウェアのセールス員として後進国に売り歩く。
裸像.jpg ヘッドハンティングされてABMアムロ銀行の副頭取に。ここも数年で止めて、今度は廃棄物処理・リサイクル会社で働いている。町のし尿処理から産廃処理、核廃棄物処理までを扱うという。
 ところで、部屋に掛けてある絵のうち一番興味を持ったのを載せておく。何を描いたものなのかを聞こうと思っていたが、忘れて聞きそびれてしまった。
 
 朝食というかブランチを用意してくれていたが、ぼくはまず持参した鯖寿しを食することにした。外国への到着が夜遅くなる時には、いつも鯖寿しを持って行くことにしている。竹の皮で巻いた鯖寿しは日持ちするしどこでも食べられ重宝する。
 パベルも美味しいといって3切れも食べた。

教会.jpg 今日の予定は、午後のチェコフィルのコンサートのみである。
 パベル夫妻とアパートを出て10分足らず歩き、トラムの停車場に着く。そばに大きな教会があった。
 「なんと言う教会?」「知らない」
 プラハ近郊に生まれたのになんで知らんのかい。ぼくが不服そうな顔をしたからか、パベルは門のところまで走って行ったけれど、分からなかったみたい。考えてみれば、ぼくだって、京都で外人に「このお寺なんという名?」と聞かれて、どれだけ答えられるだろうか。ちょっと気の毒な気がした。

市電.jpg ガイドしてくれるパベル達が選んだのは、トラムでカレル橋の一つ上流の橋の袂まで行き、橋を渡ってからモルドウ川の左岸を下流に向かって歩き、それからカレル橋を渡るという周回コースをにしたようである。

浸水を示す家壁.jpg 橋を渡ってモルドウ川左岸を行くここ旧市街側の川沿いは、公園風になっていて家屋やレストランもある。その壁がかなりの高さまで変色している。何年か前の洪水の時の浸水の跡だという。そういえばその頃、バペルから義援金の要請メールがきて、知り合いに転送配信したことがあったのを思い出した。

カレル橋の似顔絵描き.jpg カレル橋は例によって世界中からの観光客でおおいに混雑雑踏している。両側には似顔絵描き、大道音楽芸人などが隙間なく並んでいる。

カレル橋のおじさん.jpg パベルが突然「ナオキ、あれを撮れ」というので見ると、なるほど絵になりそうなじいさんが座っていた。カメラを向けると「ノー、ノー」といいながら、腕で顔を隠してしまう。隙をうかがってシャッターを押そうとするが、その瞬間を目ざとく察知してしまう。
 パベルが「カメラを貸して」とぼくのカメラを持って引き返し、人ごみに隠れて写そうとしたが、やっぱり駄目だったようである。

ドヴォジャーク・ホール.jpg カレル橋を渡り終えしばらく行くと、ドボルザーク・ホールのある「芸術家の家」に着いた。ここで、午後三時からの、チェコフィルを聴くことになっている。
 ともがインターネットで買ったチケットは二階の最後列で余りよい席とは思えなかった。パベルに頼んで、いい席を手に入れてもらおうと思っていた。
 ぼくはプラハに来るたびに、オーケストラやオペラあるいは演劇等を楽しむことにしているのだが、切符の手配をしてくれるのはいつもパベルだった。それも当日の開演直前。
 「君は隠れていて、その柱の陰に」
そういうと彼はそこここに立っているダフ屋と交渉を始めるのが常であった。
 話はなかなかまとまらない。どんどん時間が経って行く。時にはもう一人のダフ屋が割り込んで来たりする。そして、話がまとまるのは、いつも開演の5分前くらいなのである。そして、いつも値段は大体半額くらいになっていた。

 パベルは切符を見て、「いい席だよ。換える必要はないのではないか」という。
 インターネットで買ったチケットは、1600円くらい。あんまり安いのでよくない席だと思ったのは、早とちりだったようである。今残っている席は最前列のみで、それは止めた方がいいとポーリンもいった。
ポーリンと.jpg パベルは、近くのホテルで人と会う予定があると言う。その男は、彼と会うためにはるばるブルーノからやって来た。
 「難しい話で、その男は怒り狂っているから、後で会うときにはぼくの顔には青あざが出来ているかもしれないよ」と、パベルは半分真顔で言って去った。
 ぼく達とポーリンは、ドボルザーク・ホールのあるビル「芸術家の家」の中にある喫茶室でお茶を飲んだ。

チェコ・フィル.jpg ほとんど満席の会場。高齢者が圧倒的の多い。演奏が始まった。
 曲目は、スメタナの交響詩「チェコの森と牧場から」とチャイコフスキー「シンフォニーNo.4」
 チェコ・フィルの音は、いかにもという感じの硬質で冷たい感じの音のような気がした。まったく耳に優しくないような感じの音を聞きながら、ぼくは居眠りを楽しんだ。
 先日の京都祇園甲部歌舞練場での都をどりでもぼくはよく眠ったが、そういうなのは最高の贅沢だと、ぼくは思っている。

プラハに着く

 アムステルダム〜プラハは、SkyEuropeという新しい会社を使うことにした。飛行時間は2時間なのだが、特別のディスカウントで運賃はひどく安く、たったの4700円なのである。
 チェックインで、エクセスを請求される。5キロのオーバーだと言う。
 日本からアムスまでのKLMでは、何も言われなかったぞ。なんとか通してくれないか、と粘ったが駄目だという。「分かった、ではディスカウントしてくれ」
 「いえいえ、もう運賃で充分ディスカウントしていますよ」と、まったく取りつく島もない。
 まあこれで普通並みの料金になったのかと、納得せざるを得なかった。
 搭乗ゲートは、とてつもなく離れたところで、おまけにキャリーも備えてない。これが同じスキポール空港なのかとあきれてしまった。
 
モルドウとカレル城.jpg 約1時間半のフライトでプラハ空港に着いたのは、夜の11時だった。 
「無理かもしれないけど、空港に着いたらとにかく電話してくれ。迎えに行くから」と言って来ていたパベルだったが、電話したらもう来ているという。
 久しぶりの再会。元気そうである。
 会社に買わせたという新しいボルボを、パベルはまるでバイクのように運転して、15分くらいで宿に着いた。
ホテルパンフレット.jpg Residence Belgickaというヨーロッパスタイルのホテルのようなアパートである。奇麗で上質の案内誌によると、mamaisonという会社の経営で、チェコ、ポーランド、ハンガリー、スロバキアなど8カ所以上に高級ホテルのチェーンを持っているという。

Residence Belgicka.jpg 4・5階建てのビルが建ち並ぶ住宅街の道路角にあるホテルの入り口で、荷物を下ろしていると、道の反対側からポーリンが駆け寄って来た。

ポーリン.jpg 明るい街灯に照らされて、ポーリンは今も美しくて若々しかった。彼女は汽車でやってきたという。

 
 200キロ離れた隣町のブルーノから、穴ぼこだらけの道を走って来たパベルは、かなり疲れていると思われた。

ホテル部屋.jpg 部屋までやって来て、「もうすぐ寝るなら帰るけど、外でいっぱいやるかどうかは君の判断だよ」というので、「ではちょっとだけ」と答えた。
「じゃあロビーで待ってる」

 夜半を過ぎた通りを数分歩いて、そこここにあるバーの一軒に入った。店のスタッフたちがパベルに話しかけている。久しぶりですね、元気ですかなどと言っているのだろう。
 生ビールを注文、ポーリンはジントニックで久方ぶりの再会に乾杯。
 

プラハからリモネット 2008春

2008年のゴールデンウィーク、いつものリモネットに行きました。
いつもと違って12日間という短い期間の旅でした。
まずは久しぶりにプラハを訪れ、パベル夫妻との旧交を温めることが出来ました。

リモネットと山.jpg1.プラハへ〜アムステルダムでの道草〜
2.プラハに着く
3.チェコ・フィルを聴く
4.カレル王の王冠
5.パリ経由ニースからリモネット
6.リモネーゼとクネーゼ
7.リモーネの人々
8.歯医者カンタ・カルロ先生
9.イプシロンのルーフキャリー
10.ルーフキャリー、遂にゲット!

プラハへ〜アムステルダムでの道草〜

 チェコに行くのは、4年ぶりである。
 あれは、2003年の夏のことで、イタリアのピエモンテからルノーのカングーでハイウェーをすっ飛んで、ウィーンへ。ウィーンから100キロのブルーノまでを往復した。(この時の記事は高田直樹ドットコムの<「イタリア旅行記(2003年夏)」参照)
 ブルーノはプラハの東南200キロの町である。オーストリア国境に近く、ウィーンから100kmの距離にある。この記事にあるように旧友のパベルがオランダからここに移転して来たので、彼に会いに行った訳である。

 今回のヨーロッパ行きでは、イタリアに行く途中に、ベルギーのブリュッセルに寄り道してムール貝でも堪能しようと考えていた。
 ところが、ブルーノのパベルが、もしかしたら来年アムステルダムに戻るかもしれないと報せて来た。それを聞いたともが、「パベルがいる間にぜひプラハに行きたい。わたし行ったことないから」といいだした。ムール貝は諦めてプラハに向かうことになった。

天文時計.jpg プラハに行くのは、息子の結婚式以来のこと。ぼくがパベルの助力を得て息子の結婚式をプラハの旧市庁舎(あの天文時計のあるところ)で挙げたのは、京都市がプラハと姉妹都市を結ぶ前年だったから、1995年のこと。ということは、なんと13年ぶりのことなのである。

 パベルに連絡すると、夫婦でプラハ市内に所有するアパートまで先行して待っていてくれるという。このアパートには、これまでに二回ほど泊まったことがあった。でも今回のわれわれの泊まりは、そのアパートから50メートルも離れていないところにある〈Residence Belgicka〉というキッチン付きの宿を予約してくれたという。
 
KLM機内.jpg 前日のKLM便がエンジントラブルでキャンセルになったとかで、関空発アムステルダム行きの便はほぼ満席だった。そして珍しいことに予定より1時間も早くスキボール空港に着いた。

 運河沿いの裏道.jpg 乗り継ぎのプラハ行きの便は夜の10時。4時間以上も時間があるので、汽車で町に出ることにして、アムステルダム中央駅までの切符をかった。
 中央駅からメインストリートを少しばかり行き、裏道に入る。運河に面した通りが、いわゆる飾り窓の女のいる道筋である。

 
 バンコックでパベルと出会った翌年、ぼくは70歳半ばを越えた母親を連れて、ヨーロッパを旅した。もう20年も前のことだったろうか。
 ロンドンに入り、そこからアムステルダム、バリ、ベニス、ローマと各所2・3泊づつする2週間の旅だった。なかでも特筆すべきはパリ〜ベニス間の、オリエンタル急行に乗ったことである。車中1泊する旅であるが、切符はなんと17万円であった。
 JALに乗務し始めたばかりの娘の美奈が、パリで合流出来るというので、最高の<客あしらい>を学ぶためには乗るべきだと説得して、一緒することになった。
 車掌は、どう勘違いしたのか、娘にぼくのことを「ユアハズバンド」と言うので、美奈は必死で「ノー、マイファーザー」と何度言っても、またしても「ユアハズバンド」を繰り返したようだ。きっと東洋の金持ちが、若い奥さんを貰いその母親も一緒で旅していると思い込んだのだろう。

 アムステルダムでは、学生のパベルがエスコートしてくれた。夜、母親をホテルに残して、ぼくとバベルは夜の街に出た。「飾り窓の女」は、どのガイドブックにも書いてあった通り、写真撮影は御法度である。
 パベルは、「大丈夫、大丈夫。写しなさいよ」という。
 飾り窓の入り口には、大体一人の男の用心棒が立っている。その何人かとパベルは親しげに声をかけ合っている。驚いたことに、みんな高校時代のクラスメートなのだそうだ。
 写真を写しているのに気付いた女が、大きな叫び声をあげて飛ぶ出してくると、ぼく達は、「逃げろ」と走った。こんなことを数回繰り返したら、パベルが「これくらいにしておいた方が身のためだ」といった。
 
アムス公衆トイレ.jpg そんな昔の思い出を懐かしみながら運河沿いをたどって行くと、面白い公衆トイレがあった。実にユニーク。かつて空港トイレの便器に描かれた蠅に感心したものであったが、この便器にも感心してしまった。
 運河沿いの道を右にそれて行くと、ホテル・クラスノポリスキーの前に出る。そこからはダム広場が見渡せた。ダム広場は、アムステルダムの中心ともいえ、いつものように観光客が群れていた。

レストランにて.jpg ここからローキンの通りを道沿いに商店に沿って歩いて行くと、時々行くパリのマキシムの支店のレストランがあった。例によって入り口には白アスパラが束ねて置いてある。一気の食欲をそそられてしまった。
 お目当てのシガー専門店の「ハニエス」は、ほんの50メートル先である。とりあえずここでアスパラを食べようと、外のテーブルに座り「アスパラのオムレツ」と白ワインを注文した。
 エスプレッソを飲みながらシガーを楽しんだりとゆっくりしすぎたのが失敗だった。たどり着いた直ぐ先の「ハニエス」は閉まっていた。6時閉店。30分遅れだった。

Rokin.jpg 戻りも汽車にしようと、中央駅行きの市電に飛び乗った。中には切符販売機がない。いつもの伝でただ乗りで駅に着き、空港に戻った。

8.ナジールに会う

 イスラマ出発の前日、ナジールと電話が繋がり、彼のオフィスで会うことになりました。
ナジール.jpg ナジールというのは、ナジール・サビールという世界的に有名な登山家です。
 パキスタンには世界の14のうち5つの8000峰がありますが、ナジールはナンガパルバットを除く4座のパキスタンの8000m峰と、エベレストに登頂しています。
 彼と知り合ったのは、はるか昔のことです。
 その頃、ぼくはパキスタンを毎年のように訪れていました。パキスタンに行きたいという教え子などが毎年いて、例年行事のようにパキスタンツァーをしていました。 
 その旅は、毎日が新鮮な驚きにあふれ、古き良き時代のパキスタンはほんとに楽しい国だったのです。
 ラワルピンディでは、その頃にはもう2・3流ホテルになってしまった、かつての高級ホテル・フラッシュマンホテルを、ぼくは定宿としていました。
 ナジールは、ナジールサビール・エキスペディション(ナジールサビール遠征隊)という少々変な名前の旅行エージェントをやっていましたから、時々このエージェントを使うこともありました。
 彼のエージントを使っていないときでも、ふらりとホテルに現れ、いつも宿泊費を払ってくれました。「いえいえ、私が払えば安いもんですから、気にしないで」というのです。
 
 彼は、ムスリムですが、イスマイリー派という極めてマイナーで、余り戒律にとらわれい柔軟な宗派に属しています。イスマイリー派の本山は、彼の生地のフンザにあります。
 フンザは、かつて不老長寿の桃源郷として世界に紹介されました。中国との国境近く、パキスタンの最北端に位置する山岳地帯にあるこの地は、近づくことが困難でした。だから世界中の旅行者の垂涎の地となり、その後も世界の観光スポットとなっています。
 フンザには、桑の実から作った「フンザパニー(フンザの水)」という名前の蒸留酒があり、イスマイリー派の住民はムスリムでありながら、みんなこれを飲んでいたのです。またフンザでは、ブルカという顔面を覆う布をかぶった女性を見ることはありません。パキスタンを旅してきた旅行者にとっては、これは新鮮な驚きであったでしょう。

 中国からカシュガルを経て、4700メートルのクンジェラーブ峠を越え、フンザを通ってラワルピンディに至るルートは、昔から存在していました。ぼくが、1965年のディラン峰遠征の帰途、ギルギットにいた時、中華人民共和国となった中国からの初めての駱駝のキャラバン(隊商)がやってくると大騒ぎでした。
 その後、中国によって、このルートは自動車道路いわゆるカラコルム・ハイウェイとして開通しました。
 また、インドに発する仏教はこのルートを通って大陸に伝えられました。そのため、カラコルム・ハイウェイ沿いには、約2000カ所の磨崖仏(岩面に彫られた仏画)が存在するといわれます。
 ナジールの話では、インダスにダム建設の話があり、そうすれば磨崖仏はダムの底に没する。切り取って保存するなど何かの対策を講じないといけないと思うが、なかなか難しい。何か訴え方を考えてくれませんかという話でした。
 パルベイツを通じてムシャラフに頼むのが早道とも思いましたが、ムシャラフはそんなことを聞く状態ではありません。
 アマンに聞くと、「この国では、何かやろうとすると、必ずああでもないこうでもないという反対が起こり、なかなか事は進まない。まだ計画段階ではっきりしない話だと思いますよ」といっていました。

 ぼくが教師を辞めて直ぐの頃のことだと思います。フラッシュマンに滞在するぼくの所にナジールが現れ、突然こう切り出しました。
 「タカダさん。ぼくにコンピューターを教えてくれませんか。私日本に行きますから」
 彼は、前年にハリウッドに招かれ、K2登山を題材にした映画のアドバイザーを務めたのだそうです。彼の登山エージェントの仕事も繁華を極め、ファックスの整理が大変で、コンピューターの導入が急務だという話です。ハリウッドから少しまとまったお金が入ったのでコンピューターを買いたい。教えてください。とまあ、そんな話でした。
 ぼくがOKしたので、彼は来日し、ぼくが紹介した我が家の隣の安アパートに住みます。ぼくの会社で、勉強することより、あちこち出歩くことが多かったようです。
 ぼくの家でお酒を飲みながら語り明かすこともままありました。特に話が合ったのは、スーフィズムについてでした。これについてはまたの機会に書きます。
 そんな訳で、コンピューターは結局ものになりませんでした。
 40日ほどが過ぎて、彼は帰国するのですが、その後しばらくして、フンザ選出の国会議員に立候補して見事当選します。
 その時、彼は教育担当だったので、ぼくに補佐官になって計画立案をしてくれないか、ギルギットに住まいは用意するからと依頼してきましたが、断りました。
 約5年間PPP(あのベナジール・ブットーの)議員を務めます。止めて直ぐ、エベレスト登頂を目指し、2年越しで成功を勝ち取りました。
 そんな訳で、かれはいまや、パキスタンでは唯一のエベレスト登頂者、えらい有名人なのです。
 フンザに家を新築したのですが、空き家の侭なので、いつでも使ってくれればいいといつも言ってくれています。季節のいい時期に数ヶ月フンザに滞在するのもいいかなあとも思うのですが、通信環境も悪いし、テレビの「鬼平犯科帳」も「相棒」も見れないなあとつい二の足をふんでしまいます。

 彼とは、前回も会えなかったので、ほぼ3年ぶりでした。
 積もる話もあって3時間以上も話しました。
 そのなかで中心になったのはパキスタンの状況についてでした。
 彼は、最高裁は「違憲」の判断をムシャラフに下す可能性が大きいといいました。ぼくは、「そうではないでしょう。そんなことになったら、パキスタンは大混乱ですよ」
 そうですよ。大変なことになります。でも判事の大半は違憲に傾いているといわれてますからねぇ。
 このナジールの判断は、結果的に正しかった。それでムシャラフは先回りして、非常事態(state of emargency)を宣言し、混乱を防いだことになります。とすれば、今回の状況は、ほとんどのパキスタン国民に取って、想定内の出来事だったといえそうです。
 ナジールがいつも言っていることは、一番悪いのはあごひげをつけた年寄りのムッラー(聖職者)たちである。コーランだけに凝り固まった彼らは世界を見ようとせずこの国を危険に落とし込んでいるというのです。
 この前の立てこもりの原因は、最も力のあるムッラーの息子が、秘密裏にあの教会にアフガニスタンより運び込んだ大量の武器弾薬を備蓄したことにあったそうです。
 「本当ですか。それにしても、9.11から世界はほんとに変わりましたねぇ」
 その通り、とナジール。でももっといえば、ホメイニ革命から変わり始めていたようにも思えますよ。そして決定的には9.11です。あの時、ブッシュはムシャラフに電話して、「テロリスト達につくか、アメリカにつくか」とおどした。ムシャラフはしかたなく、アメリカについたんだと私は思いますよ。
 この時、もしベナジール・ブットーがプレジデントだったら、恐怖のあまり頭真っ白、おしっこチビッタと思います。ナジールは手を股の間にやりながら、こう力説しました。彼は、PPP(パキスタン人民党)の議員だったし、党首のブットーのことはよく知っていますから、この説明には迫力がありました。
 アメリカが、ブットーを押し立てようとする意味が分かったように思えました。
 それから彼は、9.11の時ツウィンタワーには、一人のイスラエル人もいなかったという事実をあげながら、謀略説の説明を始めたので、いやよく知ってるよと遮りました。
 ナジールはアメリカと結託しているムシャラフを批判し始めました。これもぼくは遮り、「ぼくは、アユブカーン、ヤヒアカーン、ジアウルハクとずっとパキスタンの軍事政権を見てきたけれど、ムシャラフが最も世界状況に通じ、パワーポリティックスを理解していると思うんだが」
 ナジールは、でもアメリカの言いなりになりすぎるというので、「とにかく一番の悪者はアメリカです」
 そうです。ムッラーたちもそう主張しているのです。「そうですか。ムッラーは正しいじゃないですか」とぼく。
 そうですね、と意外にも簡単にナジールは同意しました。
 ぼくはなおも「ムシャラフは完全にアメリカの言いなりにはならず、うまい具合にやっていると思う」とムシャラフを支持すると、「それはタカダさん。日本だって同じでしょ」
 ぼくは黙ってうなづくしか仕方なかったのでした。

 いまウィキペディアのパキスタンの国内政治の項を見てみると、こんな記述がありました。
—–地方においては部族制社会の伝統が根強く、その慣習法が国法を上回る状態となっていて、中央政府による統制がほとんど効かない状態になっている。この無政府状態が、アフガニスタンとの国境地域にオサマ・ビンラディンなどのアル・カーイダ主要メンバーが潜伏しているという指摘の根拠となっている。南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。—-
 これはぼくにいわすれば、独立運動というより昔から独立国なのです。パキスタンのいうことなど聞かない。事実、この国に向かう物資は、カラチ港に陸揚げされても課税されないのです。イギリス統治の時代からそうだった。

 北西辺境州は、ぼくが何度か書いているパシュトーン語を話すパターン族の国であるし、ここにいう南西部とは、バローチ語を話すバローチの国でした。
 今度訪れたペシャワールは、アフガニスタン国境の町。ほとんどがパタン族です。
 一方昔よく訪れたクエッタは、イラン国境で、バローチの町です。ここはパキスタン軍隊の基地なのですが、大分前、バローチの族長と軍が対立関係となり、とんでもない危険な状況が続いていました。
 これが、ぼくが、十年このかたクウェッタに行かない理由です。
 何年か前、中学の先生がここを通ってイランに入ったところで殺されました。最近起こった拉致事件で拉致され、あちこちに連れ回されている日本人大学生もクウェッタからイランに入って難に遭いました。
 でも最近は状況は変わっているのだそうです。
 今回の旅で、イスラマ空港で、一人のパキスタン軍人に会いました。
 帰りのカラチへの便に乗るべく、イスラマ空港に行った時のことです。PIAのストによるフライトキャンセルを知り、送ってきてもう帰ってしまったアマンを呼び戻すため、そばにいた一人のパキスタン人に携帯を借りたのです。
 彼は、クウェッタ駐留の軍人だそうです。状況を聞くと大変平和だといいます。何年か前、軍が族長を殺し平和が戻ったのだそうです。
 考えてみれば、スワット渓谷の戦闘状態も昔のクウェッタと同じ状況かも知れないけれど、外国からアフガニスタン経由で外国人が流入してきているところが違うし、ムシャラフのいうようにそこが最も問題かもしれません。そして国内には、彼らを支持する勢力が存在する。とんでもないややこしい状況です。

 まあクウェッタに平和が戻ったのなら、僕の好きなクウェッタ・セレナ・ホテルに泊まりに行ってもいいなと思い、その軍人にそう言うと、いつでも来てくれ、モーストウェルカムだと答えました。

 スワットに流れ込むムシャラフいうところの無法者、それをたどると、アフガニスタン、そして中東、最後はイスラエル・パレスチナ問題に行き着く。ぼくにはそう思えてしまいます。現在の困難な世界状況のもつれの根源を知るには、イスラエル建国のあたりに戻る必要があるという気がしています。

7.戒厳令はない

AirBlue機内食.jpg 昨日午後、依然としてPIAのストが解けないので、AirBlueという別の飛行機でカラチに移動してきました。
 現在カラチシェラトンで、くつろいでいます。
 昨日は、空港から馴染みの宝石店に直行して、祇園のおかあさん用に買ったムガール王朝時代の掘り出し物ペンダントを帯留めに加工する依頼をしました。今日中に出来るかどうか難しいところなのですが、たぶん出来るでしょう。
 PIAのストは明日には解除されそうだとの情報がありますが、もし解除されなければ、インドの移動できず困ったことになります。その場合には、他の飛行機を探すか、または行く先をバンコックに変更するなどの方法を考えるつもりです。PIAのデリー便は月水土しか飛んでいませんから。

 昨夜深更、ムシャラフのテレビ演説を聴きました。昨日は早くから、普通は30チャンネル以上あるテレビが、2チャンネルほどになり、後はすべてno program avairableという表示のみになっていました。きっと、ムシャラフの演説を聴かすための処置だったのでしょう。
 演説は、ウルドー語で始まり、後半は英語に切り替わり、最後はウルドー語になって終わりました。パキスタンは、会話を含めて演説などを、英語とウルドー語を織り交ぜて行うのはごく普通のことです。かくかくしかじかである、とウルドー語で述べ、何故かといえば(ビコウズbecouse)とここからは英語になる、いう具合に。
 スピーチは4・50分にわたり、こうゆう処置をとらざるを得なかったのは、パキスタンのためを思ってのことである。さもなければ、自殺攻撃の頻発によってパキスタンの国自体が自殺に追い込まれる。私に時間をくださいと切々と訴える内容でした。
 デモクラシーを強調し、アブラハムリンカーの言葉を引用したりするものでしたが、英語もウルドー語も充分でないぼくには、すべてを聞き取れた訳ではありませんでした。

 先ほど息子とSkypeで交信し、お昼のNHKテレビニュースをSkypeを通して見ました。戒厳令とはいっても、軍がで出張っているのは国会議事堂周辺のみの用で、他はまったく平時と変わらないといえます。ここからちでも、ホテルの中も町の中も普通の日曜日の様子で、何も変わったことはありません。
サリームと直樹.jpg ディラン遠征隊のときからの知り合いのセイロンジュエリーの2代目のアシームの話では、戒厳令などはどこにも出ていないということです。どうやら少し誇張した話を鵜呑みにしての日本の報道だったのではないかと思います。
 要はアフガン国境のトライバルテリトリー、特にスワット渓谷沿いで展開している政府側の軍隊と外国からの過激派を含む原理主義者達との戦いを終結させるために、そして政治的な反対勢力と聖職者達の結集による混乱などを防ぐために緊急事態宣言が必要ということになったのでしょう。
 これらについてはまた後に書くことにします。 

ComentLetter.jpg 今朝食にレストランに行ってきました。朝食のブッフェはどうかと聞かれたので、ミニステーキが気に入っているけれど、今日のは少し固かったねといったら、
 「保温しているから、どうしても時間が経つと固くなってしまうんです。新しく焼いてお持ちしましょう」
 しばらくして、焼きたての大きめのミニステーキが運ばれてきました。これは、少しチップを置かないといけないかなと思っていたら、ボーイが紙と鉛筆をもってきて、コメントを書いてくれと言ってきました。
 11時に宝石店のアシームが、えらく早めに出来上がった依頼のものを持ってやって来ることになっているので、「部屋で書くよ」紙を預かりました。これでチップは必要なくなりました。
 でも書き出したら、結構長くなってB5一杯になってしまいました.

 明日のデリー便のコンファームも完了し、日本の友人の皆さんには心配をかけましたが、明日の9:55の便でデリーに向かう体制が整いました。

6.イスラマに戻る

 ペシャワールを発って、開通したばかりでガラガラにすいた3車線のハイウェイを2時間近く走ったのち、運転手のボーラは初めて言葉を発しました。正午過ぎ、ペシャワールのバザールを出発する時、「これからイスラマに向かう」と指示したきり、その後ぼくが一切話しかけなかったからでしょうが。
「マァーリ・・オォット」
 マリオットホテルに行くのですか?と聞いたのです。
 実におっとりのんびりしています。でも運転は非常にうまい。飛ばすときは飛ばしますが、どんな雑踏でも安心して乗っておれます。
 ほんとに素朴実直という感じ。指定した時間にはきっちりとやってきて、ホテル構内のホテル入り口が見える場所にパークし、はるか向こうからじっと見張っているのでしょうが、ぼく達の姿が現れるやいなや素早く飛び出してくるのでした。
 バザールでも、戻ると言った時間に1時間遅れようが2時間経とうが、遠くからぼく達を見つけ出し、車のそばからやってきて、雑踏の中を先導してくれました。
 
 アマンに、あだ名の意味を聞きました。ボーラというのは、simpleという意味だそうです。simpleには、単純な人、ばかの他に、素朴な、無邪気な、純真ななどの意味がありますが、なるほどこの形容はすべて彼に当てはまるように思えました。日本語にするのは難しいけれど「ぼんやりさん」とでもなりましょうか?
 彼はピンディ近郊の町、ハリプールで生まれました。ピンディにやってきても、その生活は貧しい彼に取って大変厳しく、仕事用の車の中で寝泊まりするという生活を3年間も続けたそうです。
 この話を聞いて、別れるときに渡すチップを少し増やしてしまいました。

 ピンディでは、町に出歩く人がなくなり、どの商店も閑古鳥が鳴いているそうです。昨日の公邸への自爆攻撃の所為だそうです。
 アマンは、とんでもなく大きな音がして、びっくりした。商売はあがったりです、となげきました。音は4キロ四方で聞こえたと新聞にありましたから、アマンの店では、きっと大きな音だったのでしょう。
新聞記事1.jpg ペシャワールのPCで、各種英字新聞5誌ほどに目を通しましたが、地方紙にあたるCity News などが、最も生々しい情景を書いています。
 —–人の身体の部分が路上のあちこちにゴロゴロと転がっている。
 2人のレスキュ−1122の職員と2人の軍の人が、多分自殺攻撃者のものと思われる人の頭を取るために樹に登った。それは、樹の枝にひっかかっていた。—–
 身体の破片が、空中に舞い散る目撃者の談話などがあり、読んでいて気持ちが悪くなりました。
 そしてひとつ気付いたことは、どの新聞も自殺攻撃(suicide attack)あるいはsuiside blast(自殺爆発、自殺攻撃)とは呼んでも、自殺テロ(suiside terrolism)とは呼んでいないことでした。その理由は、分かるような気がしました。

 夕食は、ホテルのステーキハウスで取ることにしました。
 アマンがくれたボルドーの赤2005年を、黒のプラスチック袋でくるんで持ち込みました。
 ボーイはぼくが足下に置いたボトルに気付いたのか、水用以外にもう一つグラスを持ってきてくれました。グラスはいずれも濃いブルーで、遠目には水かどうか分かりません。去年は、ボトルを持ち去り、ティーポットに移し替えて持ってきたのですが、ティーカップで飲むワインというのはどうにも気分が出なかったものでした。

 ムスリムの国ですから、飲酒は禁じられていますが、外国人は関係ありません。ただ公衆の面前で公然と飲むことは、控えなければ行けません。
 パキスタンに着いて直ぐの夕食はパキスタン料理屋さんでした。パルベイツの家で供されたブルゴーニュの白のボトルに残ったワインを、ザヒードが持ってきていました。
パルベイツ夫妻と.jpg パルベイツは、ぼくが「美味しい」とほめたので、ホテルで飲むようにと同じもの2本と飲み残しをザヒードに渡したのです。
 白ワインで焼き肉はどうも、とぼくは、ジャンボプラウンを注文しました。ザヒードといえば、堂々とワインを卓上に置ぎ、冷やすための氷を頼みました。
 「君たちは外国人だから関係ない。文句を言われたらパルベイツのゲストだといいなさい。それですべてオーケーだ」とパルベイツが大見得を切ったからなのですが、ぼくはちょっと気になりました。
 案の定、しばらくすると店のマスターがやってきました。「向こうの夫人たちが苦情を言っている」というのです。入ってきてからのザヒードの態度は少し大きすぎたようでした。
 どこの国でも、おばはんはうるさいのです。

T-boneSteak.jpg さて、ぼくが注文したステーキは、450gTボーンのミディアムレアー。オーストラリア肉です。値段は5600円。
 デザートには、メニューになかったのですが、聞くと出来るというので、カスタードプリンとエスプレッソダブルを頼みました。
 みんな美味しかった。
 吸いきれなかったホヨドモントレー・Limited 2005のシガーを手にプールサイドに移動し、テーブルに腰を下ろしました。
 プールの周囲にぐるりと配置された椅子とテーブルには人っ子一人なく、水面が静かに揺らいでいます。少し肌寒さを感じるくらいで、酷熱のパキスタンも過ごしやすい季節になってきたようです。