5.ペシャワールにて

 昨夜半、アマンより連絡があり、ペシャワールのPC(パールコンチネンタルホテル)が2晩しか取れないと言ってきました。特に長居する必要もないし、滞在地では、一番危険な場所だとも思っていたので、「いいよ。それでいい」と予定を一日切り上げて2晩で戻ることにしました。
 ドライバーと車のアレンジをした。ドライバーはぼくがよく知っている男だから安心してくれということでした。アマンは同行できなくなったらしい。
 昼すぎ、ドライバーがやってきました。10人乗りくらいのバスです。一緒に現れたアマンは「どうです。これなら快適でしょう」
 快適も何もガラガラではないか。
ボラ.jpg ドライバーは頭はもう白い50代の男で、名前をボラという。魚みたいな名前ね、と家内がいい、そう思ってよく見ると顔もボラに似ているような気がしました。
 ところが、ペシャワールのPCについたとき、ボラが胸に付けているTravel Agent のCox & Kings の名札を見ると、Mr. Masud Ur Lehman と書いてあるではありませんか。お前立派な名前があるではないか、と英語で言ったのですが、彼はニコニコと笑っているのみです。マスードは、英語がほとんどわからないようです。
 ボラがニックネームだとしたらそれはどんな意味なのか、誰かにそっと尋ねてみようと思っています。

キサカニ果物屋.jpg ペシャワールは、アフガニスタンに最も近いパキスタンの町で、国境のカイバー峠を越えたアレキサンダー大王もこの町を通ってインド亜大陸に入りました。インド経由でやってきた仏教とアレキサンダー軍がもたらしたギリシャ彫刻の技法が融合して生まれたのが、ガンダーラ美術、ガンダーラ仏像です。
 ラワルピンディーとペシャワールの中間に世界文化遺産で、最大のガンダーラ遺跡のタキシラ遺跡があり、ここでもガンダーラ文化が花開きました。タキシラを取り巻く山の各所に僧院があり、その当時、中国を始め世界各国からから学僧が勉強に訪れたのです。
 BC190年頃にギリシャ人が建設を始めたとされますから、2000年以上前ということになります。
 
 ペシャワールの住民の多くは、山の民といわれるパシュトーン語を話すパタン人で、どの時代も誰にも屈服しなかった独立自尊の民といわれます。もちろん、イギリス植民地時代にも、何回ものイギリス討伐軍にもなびきませんでした。チャーチルは、若い軍人時代カイバー峠での戦闘に参加しています。
 僕はなぜかパターン人が好きで、なぜか馬が合う感じなのです。

 先日の記事で報告したミンゴーラでの自爆テロは、住民の過激派グループと軍及び民兵の対立の中で起こった事件といえます。
新聞記事2.jpg ここペシャワールでの今朝のThe Newsの朝刊の一面トップは、ドバイでアジア労働者が100人解雇されデモが起こったという記事に並んで、スワットでの戦闘の続報が、Tense calm in Swat(スワットでの緊張した静寂)というタイトルで報じられています。軽機関銃を構えて、ミンゴーラのバザールを巡回する民兵たちの写真入りです。
 (ミンゴーラ・ペシャワール発)3日間にわたる過激派と治安部隊との凄まじい戦闘の後、表立たない裏面での錯綜した休戦が報じられてはいる。
 過激派は、5人の民兵職員を含む12人を生け捕りにしたと宣言した。そのうち4人の首を刎ねたとも報じています。
 いくつかの報告によれば、この戦闘で死亡した16人の民兵の死体は、いまもコット村とマングラワール村の野原に放置されており、厳しい対立の中で、誰もそれを集めにゆけない状況が続いている・・・などと、報じています。
 両者は、互いに仕掛けたのは相手方であると、FMラジオなどで応酬し合っているようです。
 「我々は、決して最初に発泡したのではない。それは政府であって彼らはいつも我らのホームを攻撃する。マウラナ・シャー・ドゥランはこの地方で広く聞かれている彼のラジオでそう語った」
 「休戦などまったくない。前から言っているように、我々が最初の発砲したことは決してない。民兵コマンダーでスポークスマンのシラジューディンは言明した」などなど。
 また、別の新聞 National Herald Tribune のトップは、60人の過激派が死亡という副題付きで「過激派と民兵軍は休戦に達した」と報じています。その次の記事で、「大統領は過激主義者達に戦闘をやめるように要請」という記事が載っている。

キサカニバザール宝石通り.jpg こうした記事と裏腹に、そこから150キロほどのこのペシャワールの市街では、いつもの喧噪と雑踏の日々がいつもと変わらず続いているようです。今日キサカニ(正確にはキスワクニ)バザールに出かけ、特にそう感じました。
 明日は、昼にチェックアウトし、ゆっくりイスラマバードに帰るつもりです。

 今日のアサヒコムによると、ムシャラフを狙った自爆テロがラワルピンディーであったようです。ちょうどぼくがイスラマバードを出立した直ぐ後のことのようです。
 イスラマバードとラワルピンディーについて、説明しておきます。
イスラマバードは1960年代に建設が始まった新都市で、昔からあったラワルピンディーの北方20キロほどのところにある正方形区画の新都市です。出来上がるまでに何十年もかかっていて、まだ完成していないともいえます。
 ラワルピンディは、昔からあった都市で、道はラジャバザールのセンターから、ヨーロッパのように放射状に延びています。
 言ってみれば、オールドデリーとニューデリーみたいなものかもしれません。
 もともと、カラチが首都だったのですが、商人の支配を嫌った軍人達が新首都を作ろうとしたともいわれました。
 やはり無人の原野に人為的に作られた町というのは、長い年月が経って大分様子が変わってきたとはいえ、カラチやイスラマバードに比べ、何か無機質な感じがするのはぼくだけではないと思うのですが。
 今回ムシャラフ大統領が自爆テロ攻撃を受けたのは、ラワルピンディ近郊の公邸執務室で、大統領官邸はイスラマバードにあるのだそうです。彼はこの二つを行き来するのですが、その度ごとにイスラマとピンディ間の高速道路が封鎖されるので、一般人は迷惑しています。

4.イスラマバードへ

 27日、正午の便に乗るべく、シェラトンホテルを出て、空港へ向かう。
 9時に部屋を出てロビーに降りると、ドライバーのムシュターグだけが、ロビーに突っ立って待っていました。滞在中ずっとエスコトートしてくれたザヒードは来れないと、昨夜夜中の別れ際に言っていました。
 PIAは時間通り、12時きっかりにテイクオフ。全座席の背にテレビのついた真新しい機材で、インドまで飛んできたJAL便と同じものだが、こちらの方が見るからに新しい。調べると、ボーイング777-300ERという2003年に開発された機種で、国際線用のものである。それを、たかが2時間足らずのカラチーイスラマ間に使うというのは、贅沢な気もした。

 タイムテーブルよりかなり早く到着して、スーツケースを2個載せたキャリーを押しながら送迎ロビーに出て行くと、花束を携えたアマンが飛び出してきました。
 白づくめのトップファッションで、かっこのいいサングラスをかけ、先が広く反っくり返った最新型の黒のエナメル靴を履いています。
 「カシミールから昨日戻ったばかりなんです。連絡が遅れて申し訳ない」
 キャリーを押すアマンに従いながら迎えのひとの列の前を通り過ぎて行くと、「MR. NAOKI TAKADA」と書いたボードを掲げた人がいる。
 「わたしが高田ですが・・・」
 横からアマンが、「そうか、そうか。じゃぁ君たちは荷物だけをマリオットホテルに運んでくれ」
 アマンは、えらくでかいベンツにぼく達を導きました。
 「あれっ、前のベンツは?」「ぼくの車は売りました。これは友人から借りたもの」
 フロントウィンドウには、黄色の三角で丸にAと入ったステッカーが2枚はってあります。これがあると空港の滑走路のタラップの下まで入れるのだそうです。「ムシャラフ達も乗る車なんだ」
 どこでそんなものを借りてきたのかと思いましたが尋ねはしませんでした。

「マリオットはねぇ。スタッフが友達だから頼んだんだけど、すでにブッキングが入ってるというんです。値段を聞くとそっちの方が大分高かったので、キャンセルしてくれといったんです。16000だったんです。こっちの方は12000」
「それはありがとう」
 また、昨年のドバイと同じことが起こったと思いました。
 ドバイのときは、もっと大変でした。パルベイツは、ドバイに2つも店を持っているから、詳しいだろうと「何か耳寄りな情報があれば知らせてほしい」とイスラマからメールしただけなのに、彼はミスタータカダが行くからエスコトートしろと命じたらしい。それで、ドバイのスタッフは大張りきりでリゾートホテルを予約した。
 ぼくは、イスラマからオンラインの直前予約で「ホリデイイン」を大変利口な値段でブックしていたのです。
 空港に迎えにきたスタッフは、自分が予約したホテルに連れて行くといいます。ぼくは必要ないといい、延々と押し問答。
 彼は今キャンセルしたらお金を取られるから困るというのですが、俺の知ったことかと、ホリデイインに向かわせたのです。
 翌日ホリデイインに現れて、そこはパキスタン人、けろりとして「さあどこへでも案内します」というので、さすがに気の毒で、「全部自分たちでやるから、もう来なくてもいい」と断ったのでした。
 今回も、カラチでパルベイツの家に行き、出してくれたフランスブルゴーニュの白ワインを飲みながら、聞かれるままに大体のスケジュールを話したら、「分かった、ぼくが全部アレンジするよ」というので、軽く「ありがとう」と言っただけなのです。

 カラチもイスラマバードも、いつもとなんにも変わりはありません。
マリオットゲート.jpg 変わったところといえば、マリオットのセキュリティーチェックが、人員が増えより厳重になったというくらいの差です。これは、カラチのシェラトンでもそうですが、ホテルに入るのと飛行機に搭乗するのとが同じだと思って頂いたらいいと思います。
 マリオットホテルの入り口ゲートのガードマンは、倍くらいの6・7人に増え、前のボンネット後ろのトランクを開けさせ、3人が鏡のついた棒を車のしたに差し込んでチェックします。ゲート内の通路も普通のときの半分に狭められていました。
 まあチェックが厳しいということは、それだけ安全性が高まるということで困ったことではないのです。
 50年近くもずっと来つづけているイスラマやピンディでは、なんだか故郷の町にいるような気分になったりするのですが、とはいえバンコックでのようにプールサイドでくつろぐという気は起こりません。

 マリオットホテルのインターネット環境は、部屋のデスクからラインでもWiFiでも繋がります。値段は、1時間180+TAX。シェラトンは1時間200で、あと12時間1200。24時間の3つのラジオボタンで選択するのみの操作でした。
 部屋番号@inhouseというIDをいれ、8デジットのパスワードで好きなだけ接続するこのホテルの方がリーゾナブルな気がします。
 昨日、ともと中村亘君との三者のビデオチャットが楽しめました。ほんとにテクノロジーの進歩を実感した次第です。

アマン.jpg 明日は、アマンの運転でペシャワールに向かいます。

3.新聞(DAWN)を読む

シェラトンチェック.jpg 今泊まっているシェラトンホテルでは、毎日部屋に新聞が入る。英字紙のDAWNで、1965年にディラン峰遠征隊でやってきたときからのなじみの物である。
 だいたい、朝食に食堂に降りるときに見出しだけを立ち読みで見て、面白そうなのがあれば、持って行くし、そうでなければベッドの上に放り投げる。
 今朝は、一面トップのBloodbath in Swat: 17 FC personnel killedという記事が目に飛び込んできた。
 持参して、クロワッサンと小片のステーキを食べながら読む。
 「スワットでの大殺戮:17名の民兵職員が死亡」。Bloodbathとはすごい。一面血の海という感じ。
 場所は、スワットのミンゴーラというところで、「西パキスタンの旅」の経路でもある。また日本人のグループツアーで、フンザからの帰りに何度も通ったことのある場所なのである。
 政府が攻勢を強めつつある武装勢力の鎮圧のために数千の軍隊をスワット谷に送り込んだ後の自爆攻撃で、爆弾は自家製の物であった。42名の兵士の載ったトラックは裂け、17名が死に34名が負傷した・・・などと大変詳しく報道されている。
 英字では、どこのタレベエがどう言ったとニュースの出所がはっきりしているのが、日本の新聞と違うところだ。日本では、例えば火事の報道で、「失火と見られる」と書くだけだが、英字では、「消防隊の隊長の誰それは、失火であろうと語った」と書く。

一面の2段目の記事は、Benazir lashes out at ‘political madressahs’(ベナジールは政治的なmadressahを激しく批判)という物だが、このマドレサアが分からない。
記事には、ベナジール・ブットーの言葉として、「我々は、マドレサの内のすべてを調査しないと行けない。それらは、文明の一部であり、文化や宗教の一部であるが、他のものがある。羊の皮をかぶったオオカミどもがマドラサの名をかたっている」などとあるから、何となく想像がつくような気もした。
 ホテルのフロントのお兄さんに記事を見せて尋ねてみる。「ふるいウルドーの言葉なので、ちょっと・・・」と、カウンターを出て、コンシアージのおじさんに尋ねに出かけた。
 おじさんは少し考えて、子供の学校のことです。
 「すると、テロリズムに関係があるんですか」と尋ねると、そばにいたお姉さんが、「いえいえ、まったく違います」といった。

 部屋に戻って、何となくグーグルでナジブラ・ブットーを引くと、<タリバーンとは>という項が出てきた。このウィキペディアのタリバーンの「起源と発展」の説明の中にイスラム神学校(マドラサ)とあるではないか。
 とすれば、テロリズムと関係ないとはいえないと思うんですが、お姉さま。
 記事全体を読んだらもっとはっきりするとは思うのだが、3ページ目に続くとなっているのを全部読む気にはなれなくて止めてしまった。でもマドラサの意味もはっきりしたし、なんだかすっとした。

 明日は、イスラマバードに移動する。2時間ほどのフライト。

2.パキスタン・カラチに着く

 パキスタンへ向かう初めての経路、インド経由というルートを取るにあたっては、何となく不安がありました。
 ご存知のように、印パは基本的に仲が悪い。宗教的に違うといっても、その原因を作ったのは、イギリスです。現在の世界の争乱の原点とも言えるイスラエル問題を考えればいいでしょう。英国という国は、世界の紛争のことごとくを作り出したとんでもない国というのがぼくの昔からの認識なのですが。
 それも自分は表に出ないで、うまい具合に裏に回ってどこかの国にやらせるところが狡猾でもっと悪いし腹が立つ。20世紀に入ってからは、主にアメリカを操っている。
 さて、第二次大戦が終わり、インド亜大陸はイギリス植民地を脱して、独立したのですが、その時にインドとパキスタンに別れました。ムスリムとヒンズーの人々は混ざってすんでいた故郷の地を捨てて、極めて短期間のうちに定められた地域に移動しなければなりませんでした。
 大混乱の中、ヒンズー教徒とムスリムは互いに血で血を洗うような暴虐の限りを尽くしながら移動して行ったのです。これが世に言うパーティション(分離)です。
 パキスタンはインドを挿んで東と西という、およそ地政学的に信じられないような配置となりました。
 こんなことが続くはずもなく、東パキスタンはインドの画策で独立運動が起こり、バングラデシュとして独立国となりました。同時に西パキスタンと言う名前もなくなりました。ぼくの「西パキスタンの旅」は、だからその少し前の旅行記なのです。
 インドとパキスタンは、何度も戦争を繰り返しています。

 話が脱線しましたが、もう少し続けます。
 現在アメリカに取って頭が痛いことの一つは、パキスタンが核を持っていることです。印パともに核保有国です。
 インドは以前からずっと、大国だけが核を持ちながら、核開発を他の国に認めないのは、理屈に合わないと至極理の当然の主張を繰り返していました。
 世界には、自分の国が地球の中心にあると信じる国が二つあります。中国とインド。中国の中華思想というやつで、これはどうも手前勝手の論理を立てすぎる。大体漢民族とはそうしたものだと思うのですが。
 一方インドの中華思想は、もっとグローバルで、論理的で、公正です。その一つの例を、極東軍事裁判のパール判事の主張に見ることができるでしょう。だから、インドが核実験を行ったのは、至極当然に思えます。
 インドが核実験に成功するや、間髪を入れずにパキスタンも核実験を試み成功しました。大変皮肉なことに、それまで何度となく戦争を繰り返していた両国は、ともに核保有国となってから、急に接近し友好ムードが高まったようでした。

 話を冒頭に戻して、インド経由でパキスタンに入るというのは、余り普通じゃない。それにぼくには、インド空港の様子などはまったく分かっていないし、空気が読めないのではないか。そう言う危惧を抱いていました。
 そうした心配は、チェックインで、ライターがチェックにかかった後におこりました。葉巻用のトーチライターが見つかり、これを没収するというのです。
「俺は世界中の空港に行ったけれど、そんなことを言われたのは初めてだ」とがんばりました。でも、規則で駄目の一点張り。
 そうか。そしたら小箱に詰めて荷物として載せてくれ。
 そばの係官が、ヒンディー語で「きっと高いもんなんだよ」と言っているのを聞いて、「いやいや、高くはないけど、俺はこれが気に入っているから捨てられない」と言いました。そして、何日か後にここに戻ってくるから、その時まで保管しておいてくれないか、と頼みました。
 すると、「分かった、それではそのライターのガスを抜いてくれ。そしたら持ち込んでもいいから」
 かくして、ライターの持ち込みは許されたという訳です。
 その時になって気付いたのですが、そばに3つの巨大な貯金箱状の透明で円筒形の函があって、中にはライターやはさみがぎっしりと詰まっているのが見えました。

 やれやれと搭乗口に向かって歩いて行くと、向こうから2人のオフィサーがやってきて、ぼくの名前を手に持った紙切れを見ながら確認しました。税関まで戻ってくれというのです。どうして。理由を言ってくれという質問には答えず、とにかく戻せという指示が来ているというのです。
 「奥さんはここで待っていてください」と通路脇の椅子を示すと、彼らはさあどうぞとぼくを促しました。
 まず案内されたのは、荷物がデポされている荷物室。自分のスーツケースを示すと、彼らはそれを引っ張って税関事務所に向かいました。税関オフィスの中から偉そうな係官が出てきて、質問を浴びせかけました。
 インドには何日滞在した。一晩だけ。
 なにを買った。なんにも。
 お金、ドルはいくら持っている。ぼくは持ってない。家内はいくらか持ってるが、いくらかは聞かないと。100ドルくらいかな。
 このスーツケースにはなにが入っている。ぼくとワイフの着替えと下着・・・。そんなもんかな。
 インドにはなにしにきたんだ。
 ああそうか、一泊だけしてカラチに飛ぶというのは普通じゃないからかとぼくは気付き、こう説明しました。
 娘がJALで働いているので、JALで飛ぼうと思ったけれどカラチには飛んでない。デリーには飛んでるからデリー経由にしたんだよ。
 あなたは日本でどんな仕事をしてるんですか。ぼくは少し考えてから、「プロフェッサー」と答えました。彼は一瞬あごを引いた感じで、ぼくの顔を眺めていましたが、「それはそれは、なにを教えているんですか」
 ぼくがさてなんと答えてやろうかなと考えていると、「Which proper subject do you teach?」
 ぼくは、「コンピューター」と答え、彼はさらにあごを引いた感じで、「いいです。結構です」といいながら、手を脇に振りもう行っていいというジェスチャーをしました。僕を連れてきた男の一人が、スーツケースを「開けなくていいのですか」と訊き、かれは「オーケー、ノーニード」と答えたのです。

 再度別の窓口のセキュリティーゲートを通ります。爪切り、ネイルカッター、シガーカッターと細かにチェックされます。色々珍しいものが出てくるので、係官はそれを楽しんでいるようでした。
 その中国系の顔立ちをした係官が、突然「私は、5年間この仕事をしているが、あなたのように流暢に英語もヒンディー語もしゃべる日本人には初めて会いました」といいました。
 「それはよかった(Nice to see you)」とぼくがいい、I’m happy tooと彼が返したので、ぼくは「アッチー、バータイ(その言やよし)」というと、周りにいる数人の係官が一斉に笑いました。

 それにしても、どうしてこういうことになったのか。色々推測してもどうも理由が分かりません。なんか起こりそうという予感が的中したことは、確かです。
 問題は、これだけにとどまりませんでした。
 午後2時に搭乗。フライトは2時40分の予定でした。2時半にアナウンスがありエンジンの調整に時間がかかるので、出発は1時間程度遅れます。
 3回ほど機長からのアナウンスがあり、もうしばらくかかりますというのが繰り返されました。結局テイクオフしたのは、6時でした。
 なんと搭乗してから4時間も機内で待たされたのでした。
 驚いたのは、乗客の誰一人文句を言う者やイライラする者がいなかったことです。最後まで、遅れてすみませんというお詫びの言葉もありませんでした。3回目のアナウンスでは、皆様の更なる忍耐をお願いしたい(もう少し我慢してください)。I ask your more patienceという言葉がありました。
 ぼくもあんまり気にならなかったし、ゆっくり直してよ。確信の持てるまで飛ばないで、という気持ちでした。

カラチ空港タクシー出札.jpg ようやく6時になってテイクオフし、8時に無事カラチ空港に到着。なんと3時間半の延着です。迎えの車はいませんでした。
 でも、ガンジー空港と違ってボリに来る運転手はいないし、コンピューターで制御された車の送迎システムで、極めて快適にシェラトンホテルに到着しました。
 息子2人はどちらも日本人の女性と結婚して東京に住んでいるという運転手のアガ・サリームは、「ほら、ここがあの爆発騒ぎの場所だよ」と教えてくれました。
そこは、きれいな道路に歩道橋が架かっているところで、百人を超す死者の血しぶきと肉片は、どこへ行ったのだろうという気がしたのでした。

1.インドに着く

 昔インドに来たのは、1965年のディラン峰遠征の帰り、それに続く69年の「西パキスタンの旅」の帰りの2回だけ。69年のときは、女房の土産のキャッツアイを買いにボンベイ経由でセイロン(今のスリランカ)に渡った。
 いずれにしろ、ほぼ40年ぶりといえる。
 インドの発展は凄まじいなどといわれているから、一体どんなんだろうと思って、約10時間を超すフライトの後、インディラガンジー空港に降り立った。

インデラガンジー空港.jpg 別にこれといって近代化されている訳でもない、というのが最初の印象だった。
 だだ、インド人の服装は、なんだかアメリカの田舎の空港を連想させた。パキスタンのようなシャルワルカミーズを着たひとはまったく見当たらない。それだけアメリカナイズされたということか。
 ガンジーは、イギリスの服を買うな自分で紡ごうと呼びかけたのだが、ガンジー空港でのこの状態はなんだか皮肉に思えた。

名前を書いたカードを持った、ものすごい数のひとが並ぶ、なんだかバンコック空港を思い出すようなひとの列の中を抜けてゆくと、EXITの表示があって、プライベートタクシー、ロードタクシーと書いてある。この方向かなと思っていると、一人の男が話しかけてきた。
「タクシーかい。どこまで行く」
「Dee Marks Hotel。いくらかね」
「750ルピーだよ」
そう言われても、高いのか安いのかまったく見当もつかない。スーツケースなどの荷物を満載したキャリーを押しながら、外に出るときれいな乗用車が並んでいた。
「750は高いではないか(サットソウ、パッチャース。マンガーハイ)」
とりあえず、値切るに限ると思ってそう言ってみた。インドのヒンディー語は、パキスタンのウルドゥ語とほとんど一緒なのだ。
「そんなことは無い。20キロも離れてるんだよ。サーブ、ドルで払うのかい。ドルなら20ドルだよ」

インドタクシー出札.jpg メータータクシーは無いようだ。タクシーの相場が分からないまま値切っていてもしようがない。そう思って、家内にここで荷物とともに待つように言うと、空港内に取って返した。タクシーの運ちゃんがついてくるので「お前は来なくていい」と追い返した。
空港でタクシーの値段を聞きたいのだがと尋ねていると、何人ものタクシーの運ちゃんが次々と寄ってくる。ある男は800といい別の男は700という。
 一人の男が「それは当然あなたはプリペイドタクシーに乗るべきですよ。ついてらっしゃい」なるほど、その出口には、EXITプリペイドタクシーと書いた札がかかっていた。窓口で、行き先を告げると、住所を聞かれた。インターネット予約で打ち出したバウチャーペーパーのアドレスを示すと、150といった。一瞬耳を疑い、問い直したがやはり150ルピーだった。どの運ちゃんもボリ過ぎではないか。

家内のところに戻ると、何人かが値を競ってきて今は500になっているという。「あかんあかん。あっちや」
パキスタンとなんにも変わらんではないか。勿論このごろでは、パキスタンの空港には、いつも迎えの車が待っているから、こんなことは無いのだから、正確には昔のパキスタンと言うべきなのだが。
プリペイドタクシーの窓口で150ルピーを支払い、バウチャーペーパーをもらう。これを見せてバンタクシーにのりこむ。このタクシー色といいしつらえといい、20年前のパキスタンと一緒ではないか。
古いモーリスのバンのタクシーは、チェックポイントでバウチャーペーパーを見せ、台帳に記入してもらってから空港を走り出た。
喧噪と砂埃の道を走る。車といい、ゴミだらけの道といい、昔のパキスタンではないか。カラチの空港周辺のほうが、もっときれいだ。
ITの発展で、発達目覚ましい国というイメージはかなり消えて行く感じであった。

この国での時差は、マイナス3時間半、お金1インドルピーは約3円。この4スターホテルは1泊170ドル。Rates To Go(直前予約サイト)でようやく探し当てたもので、デリーのホテルは軒並みとんでもなく高い。
インターネットへは、WiFiでつながるそうだが、ロビーからだけというので、明朝そこから繋ぐつもり。

0.成田のInternet Access コーナーにて

今成田空港。
Internet Accessというコーナーがあって、使用料は10分100円也。
ミクシーに入って、これを書いています。
今日は14時40分のJAL便でデリーまで飛び、明日カラチに入ります。
あっちの様子など、また書くつもりですので、乞うご期待。
出発まで1時間ほど時間があります。ちょっと早く来過ぎたかな。
まあ本でも読んで過ごそうか
というところで、残りは40秒。
では

非常事態宣言のパキスタン(2007年秋)

2007年10月23日〜11月9日、緊急事態宣言下のパキスタンを旅しました。
これまでは、バンコックを中継地にタイ・エアーでカラチに入るのが常だったのですが、
今回初めてインド・ニューデリー経由のコースを取りました。
インドの今日を見てみたいと思ったからです。

0.成田のInternet Access コーナーにて
1.インドに着く
2.パキスタン・カラチに着く
3.新聞(DAWN)を読む
4.イスラマバードへ
5.ペシャワールにて
6.イスラマに戻る
7.戒厳令はない
8.ナジールに会う

番外2「パベルとカントリーハウスへ」

 明日はカントリーハウスへ出かけようという日の夕刻、パベルはぼくをある銃器屋さんへ連れて行きました。そこは裏町の工場街の一角で、店に入ると壁沿いに各種の鉄砲がずらりと並んでいました。チェコの鉄砲やナイフは世界一なのだそうです。
 パベルは空気銃を買うつもりです。子供の頃、カントリーハウスで空気銃を撃って遊んだ思い出があるんだなと思いました。ぼくにも空気銃で雀撃ちをした記憶がありました。よし、二人で射撃大会をしよう。ぼく達は盛り上がっていました。

 パベルのカントリーハウスが、どこにあったのかは憶えていません。この頃の記録がどこかに消えてしまって見当たらないのです。プラハから高速道路を2・3時間走って小さな町に着き、その町外れにカントリーハウスはありました。
 そこは、どちらを向いても畑が地平線までつながっている場所で、家はほとんど見当たりませんでした。低い生け垣に囲まれたカントリーハウスには、大きな芝生の庭がありました。
 一隅にある物置小屋から板切れを取り出すと、ぼくは空気銃の的を作りました。射撃の腕前は、圧倒的にぼくが上で、負けず嫌いのパベルはすぐにこのコンペを止めてしまいました。

「パべール」と許嫁のポーリンが叫んでいます。お茶を飲むポットやカップ、ナイフやフォークはあるけれど、鍋類が一切無いのだそうです。
 この共産党に接収されていたカントリーハウスは、ベルリンの壁崩壊、ソ連邦崩壊の後、パベルの父親パボルの交渉の結果、ようやく戻ってきたばかりで、まったく整備されていない状態だったのです。
 鍋が無くても、パンを買ってきているから大丈夫。でも、肉はどうしよう。ステーキを焼くつもりで大きなブロックを買ってきたのに。パベルは困っていました。

 ローストビーフを焼けばいい。パベルに町まで連れてってと頼むと、ぼくはそこの荒物屋で、ノコギリと手斧を買いました。町からカントリーハウスに戻る途中、ぼくは目を凝らしてきょろきょろと四方を見回し、森を探しました。四方八方見渡す限り、森、林の類はまったく見当たらないのです。
 ようやく点のように見える林、木々の集落を見つけ、進路をそっちにとりました。そこは植林された林のようで、なかに入っても必要な枝を探し出すのには苦労しました。
 ローストビーフには、Y字型の木の枝2本と、長めでまっすぐな串用の枝1本が必要です。火の両側にこのY字型の枝を立て、これに渡した串に刺した肉を回転させながらゆっくりと火を通すのです。
 薪によるローストビーフは、ぼくの特技で、たき火の火力の微妙な調節が自在にできる必要があり、誰にも出来るというものではありません。

 ピンク色に焼き上がったローストビーフで、お腹がいっぱいになった頃、パベルはこれから昔なじみの農家のおじさん・おばさんに会いに行くといいました。彼が子供の頃、可愛がってくれた夫婦なのだそうです。
 隣といっても、2キロ近くも離れているのです。畑を貫く夜の地道を延々と歩くと、灯火が見えてきました。
 ちょうどロシア民話の絵本に出てくるような感じのおじいさんとおばあさんは、テレビに見入っていました。パベルは感激の再会です。
 作ったばかりなのよ、食べなさい食べなさいと、クッキーを山盛りの皿で勧めてくれましたが、すっかり満腹のぼく達は、そんなに食べられません。帰りにはもっとたくさんを新聞紙に包んでくれました。まるで昔ぼくを育ててくれたおばあちゃんみたいでした。

 パベルとおじいさんは、テレビの話題で話し込んでいますが、チェコ語なのでなんの話か分かりません。後で聞くと、チェコとスロバキアの分離の話題でした。
 チェコスロバキアは、元々二つの国が合体しているのです。チェコは工業国、スロバキアは農業国と、まったく性格が異なります。
 生産性の高いチェコに取ってスロバキアはお荷物、スロバキアにもチェコの言いなりになれるかという自負があって、以前から分離の話はあったのだそうです。ソ連邦崩壊後の情勢の中、急にこの話が再燃したようです。
 実際この後すぐに、この二国は分離しました。(分離後すぐに、家内とスロバキアを訪れ、自然が豊かで物価も大変安かったので、その翌年の夏スロバキアのハイ・タトラ山脈山麓のリゾートホテルで、2週間ほど滞在したことがあります)

 もう夜中の12時でした。再びくらい夜道をたどり、カントリーハウスに近づくと、こうこうと明るい電気に照らされた門が見えました。パベルのカントリーハウスに接した隣家です。家中の電気がついていました。門の前には数人が立っておりました。どうやらぼく達を待ち構えていたようです。
 「どうぞどうぞ、中へ中へ」と否応無く招じ入れられたのです。部屋には8人ほどが集っていました。
 この家の主人は、共産党の仕事をしていたひとで、自分たちとはほとんど付き合いはなかったのだと、パベルは小声で告げました。
 我が家でとっておきの最高のものですというワインで、全員が乾杯しました。
 そのうちに、誰かが「私たちは、日本語を聞いたことがありません。何か日本語をしゃべってくれませんか」といいました。
 しゃべってくれといわれても、相手もいないのにしゃべれません。ちょうどポケットに入っていたチェコガイドの日本語のチラシを読むことにしました。
 全員が、しんとして聞き入っています。
 読み終わって、しばらく沈黙が続いた後、主人はさも感に堪えないという感じで、吐息をつくように、「なんというやさしく(gentle)て、優雅な(elegant)響きなんだ。美しい」といい、全員が頷いたのでした。
 この出来事はぼくにとって忘れられない記憶となって残ったのです。

番外1「プラハの夏」

 いま、高田直樹著作纂の年表で調べてみると、ぼくがプラハに行ったのは54歳で教師を辞めた翌年、1992年の夏のことでした。
 それにしても、この頃、ものすごい勢いで外国に行っているし、国内でも矢継ぎ早に出歩いている。列挙してみましょうか。こんな具合です。
 1991年6・7月、退職して直ぐのスイスクラン・モンタナ滞在。7・8月、ボストンよりサンフランシスコ近郊ロス・ガトス滞在。9月帰国して、来日したパベルと若狭へバイクツーリング。12月より翌年1月、パキスタン旅行、ラワルピンディ、ペシャワール、クウェッタ、カラチを歴訪。
 1992年3月、サンフランシスコのウィンドウズ・エキスポへ。6月、ロンドンでの<Europe OOP Conference>へ。終了後、オランダに渡り、車でプラハへ。
 8月、帰国して直ぐ、野尻、佐々木と共に槍〜劔の縦走。そして、下山するや直ぐ、妻秀子を連れて、一週間のタイ・チェンマイ行。
 9月、受験勉強の次女を除いた、妻、長女、長男の高田家4人で、パキスタンへ向かい、念願のミナピン村再訪を果たす。ディラン峰遠征より27年ぶりのことでした。
 12月、教え子や、祇園の舞妓の美年子など12人を連れてパキスタンツアー。そして、翌1993年1月より、この「異国4景」を執筆することになります。さて、本題の番外編です。

 「べルリンの壁」崩壊からの2年少し、プラハの町は、何か活気にあふれているようでした。それにしても、それは、今から15年前のこと。デジカメもインターネットもない時代です。記憶はもどかしく霞がかかっている感じです。
 さて、プラハ近郊の団地の8階のアパートの一室で起きだしたぼくは、冷水のシャワーを使います。市の職員が夏休みのバカンスを取り、そのため給湯がストップしているのだそうです。震え上がるくらいの冷たい水です。息を止めて一気に水をかぶります。

 パベルは、ぼくを車に乗せ直ぐ近くのパブのような食堂に連れて行きました。ここの自慢料理は、ウサギのシチュウです。肉切れから散弾が2個出てきました。直ぐそばの草原や林には、野うさぎがいっぱいいるのだそうです。
 午後はショッピング。なんでもびっくりするほど安い。チェコグラスを大量に買いあさってしまいました。
 これは、あとでプラハ空港でのチェックインの際、重量オーバーの追加料金を請求されることになります。パベルとポーリンは、二人ともKLMの職員ですから、なんとかフリーで通そうと色々方策を尽くしてがんばってくれましたが、駄目でした。オランダと旧ソ連を脱したばかりのエアロフロートでは、どうにも勝手が違うようでした。

 プラハは、モーツアルトが大好きだった町です。彼が、この何度も訪れたプラハでいつも滞在したのは友人の別荘で、ベルトラムカ荘と呼ばれる館でした。
 交響曲第38番は通称「プラハ」と呼ばれていますが、これは彼がここで作曲した訳ではないようです。どうして、そう呼ばれるようになったかは、分かりません。ここで作曲されたのは、「ドン・ジョバンニ」でした。
 このベルトラムカ荘に行きました。午後には、中庭の芝生の上での弦楽合奏のコンサートがあり、シャンパンが振る舞われます。純白のガーデンチェアに座り、シャンパンを含みながら聞く弦楽四重奏は空中に漂い、そして青く澄み切ったプラハの空に消えて行きました。

 ちょうど、世界各国で演じられている『レ・ミゼラブル』を国立オペラ座でやっていて、パベルとポーリンは行く予定なので一緒しようと誘われました。切符は、と聞くと、パベルは「大丈夫。任せとけ」といいました。
 当日、劇場の前まで行くと、パベルはぼくを石の円柱の陰に隠し、劇場前に立っている数人の男と交渉を始めています。
 開演ギリギリになって、ようやく切符が手に入りました。なんと半値近い値段です。パベルは、そのダフ屋を値切り倒したようでした。
 実はぼくは、この「レ・ミゼラブル」ロンドンでも見たことがありました。だから今回はチェコ語の「レ・ミゼラブル」という訳でした。そばのポーリンが、あらすじを説明してくれようとするので、ぼくは「ありがとう。知ってるよ」と答えました。
 「えーっ、どうして知ってるの」とポーリンは驚いています。
 日本人は、大体こうした文芸作品や音楽に対しての知識は、世界でも抜きん出ているのではないかと、ぼくは思っています。
 ロス・ガトスのラリーの家にいた頃、彼がメキシコレストランに僕を連れて行きました。バンドグループがテーブルにやってきたので、ぼくは「ベサメムーチョ」とリクエストしました。
 演奏が始まると、店の客全員が大合唱を始め、ラリーは驚いて「どうして知っているんだ」と聞いたものです。だって、有名な曲だもんという答えに、彼はぽかんとしていました。

連載第5回「アムステルダムからプラハへ」

プラハトップS.jpg アムステルダムはスキポール空港に降りたつと、パベルが出迎えてくれました。
 パベルというのは、以前に少し触れたことがあるので御記憶のかたもあるかもしれません。チェコ生まれでチェコ人のパベルがオランダ国籍をもつオランダ人となったのには少々の経緯があります。
 パベルの両親はどちらも医学者で、お父さんのパボル・イバンニは臓器移植の権威なのですが、ずっと昔のこと世界会議で東京に来ていました。丁度そのときあの有名な「プラハの春」の事件が起こったのです。チェコの自由化要求にスターリンは戦車での弾圧で応え、ソ連邦に憧れを抱く日本の知識人にあるショックを与えます。
 先頃の「天安門事件」の経緯をもっとも明確に把握できた中国人は、そのとき中国の外にいた中国人であったと同様に、パベルのお父さんもつぷさに事件を観察することが出未たのです。そしてお父さん・パボルの得た結論は、この国には未来はないというものでした。
 パボルは東京からプラハに帰り着くとすぐ、密かにチェコ脱出の準備を始めます。それから5年後の夏、パベルの両親はお祖父さんとお祖母さんを残し二人の子供を連れてハンガリーを通ってルーマニアに向かいました。みなさん地図を出してご覧になればお分かりのとおり、ルーマニアというのは目的地とはまるで正反対の方向でした。でもこれも5年がかりでパボルが考えた方策の一つで、こうして彼ら家族は官憲の目を欺き、大きく迂回してオランダに亡命したのでした。その時、パベルは中学生だったそうです。
 中学生のパベルはおそらく英語も駄目で、もちろんオランダ語は全く分からず、きっと大変な苦労をしたことでしょう。でも、ぼくが聞いたのは高校生の頃から両親とは離れてI人暮しをしなければならなかったというようなことだけで、そうした苦労について彼が話したことはありません。彼は祖国語であるチェコ語、母国語のオランダ語はもちろんのこと、英語、フランス語がこなせます。
 彼と妹はオランダ国籍を持っていますが、お父さんとお母さんにはありません。もっともお金さえ払えばすぐ手に入るのだけれど父母らはそうしなかったのだそうです。またパベルたちがチェコのお祖父さん・お祖母さんを訪ねるのはまあ自由だったのですが、亡命したお父さんお母さんにそれは出来ないことでした。
 だから『ベルリンの壁崩壊』をもっとも喜んだのはパベルの父母でした。そしてソ連邦消滅後、ずっと昔に共産党に接収されたままだったカントリーハウスを返してもらったのだそうです。
 「プラハには、アパートを借りていていつでも使える。プラハから100km程の郊外にはカントリーハウスもある。一緒にいこう」と書いたファックスをパベルから受け取ったのは、1992年の春のことでした。それはちょうどぼくが、6月初めにロンドンで開かれるコンピュータソフトウェア開発の先端技術の〈オブジェクト指向プログラミング〉をテーマとする「ヨーロッパ:ウープ会議」に出席すべく準備を始めていた頃だったのです。
 こうしてぼくの92年度ョーロッパ旅行、アムステルダム発スイス経由チェコ入りのコースが決まったのでした。

 ヨーロッパ内は車で動くとして、エアチケットはバンコックーロンドン往復だけが必要でした。というのは、大阪ーバンコック往復はすでに持っていたからです。すこし前にサンフランシスコで買った、おお安の一年間有効のチケットは、サンフランシスコー大阪ーバンコックー大阪ーサンフランシスコというもので、大阪から先が残っていたのです。
 バンコック中継のロンドン行きも悪くない。そう思いました。美味しいトロピカルフルーツとタイ料理が食せるし、大好きなホテル『バンコックリージェント』ではゆったりとリラックス出来るからです。
 大急ぎでバンコックから安いロンドン行きの往復切符を取り寄せるとそれは、エアロフロート(ソ連航空)のものでした。このことを聞き知った教え子で京大の先生のタケダ君は、電話の向こうでカン高く、
「絶対止めてください。エアロフロートなんぞ。それにドバイ経由なんてとんでもない」
 ほとんどの人が反対したのですが、他に思わしい切符はないし、まあいいではないかと思ったのです。ソ連邦が崩壊したからといって、なにも飛行機までクラッシユする訳でもあるまい。それに今から20年前、ソ連のコーカサス山群に遠征したときにエアロフロートにはいやほど乗ったという経験がぼくにはありました。エアロフロートの国内線は当時まるで市バスが空を飛んでいるという感じだったのですが、飛行のフイーリングはなかなかのもので、宇宙開発での実績と関係あるのかなと思ったりした記憶があったのです。
 ところがこの問題のフライト、乗ってみれば別にこれということもなく、最大の問題はモスクワ空港での5時間を超す乗り継ぎ待ち時間であることが分かったのでした。しかたなくぼくは、「デューテイーフリーショップが送る新しい世界」などという大はしゃぎの垂幕の掛かった免税店で、フランスワインとキャビアの瓶詰とフォアグラの缶詰を買い込むと、この薄汚い空港の片隅で豪勢な酒席を楽しもうとしたのでした。
 ワインの瓶がほとんど空になりかけたとき、黒っぽいスーツを着て口髭をはやしたかなり年配の一人の男が話しかけてきました。
 「あなた、にほんじん。わたし、にほんじん、すき。わたし、イランじん」たどたどしいというにはあまりに単純で幼稚な日本語でしたが、意味はよく分かりました。習い覚えた日本語を使いたくて話しかけてきたのかと思ったのですが、彼はアラビア語以外は全く駄目なのでした。こういう人と会話するには、出来るだけ相手の使った単語をそのまま使って話すのがこつです。
 「私日本人。わたし、イラン人、すき」とぼくは返しました。
 「わたし、東京一年、ピザだめ、イランかえる。にほんじんともだち、たくさん。ビザだいじょうぶ。わたし、にほんじんともだち、だめ。ビザだめ」
 つまり、東京に一年いたけれどビザが切れたのでイランに帰る。日本人の友達がいれば、ビザが取れるけれど、いないからビザは無理だというのです。東京でどんな仕事をしていたのかが知りたくなったので、聞いてみました。
 「あなた、とうきょう、しごと、なに」
 すると、彼は天井を大きく仰ぎ、モスクワ空港の建物の天井を指差して、「わたし、しごと、わたし、みんなわかる」なるほど、かれは建築関係の仕事をしていたのかと、ぼくは納得したのです。
 ぼくが、イランヘ行きたいと言うと彼は次のようにいって、住所を書いてくれました。
 「わたし、えいごだめ、でも、わたしおとうと、えいごだいじょうぶ、あなたでんわする、だいじょうふ。イラン、地雷いっぱいある。でもだいじょうぷ、あなたイランくる。ぜんふだいじょうぶ。」
 こんな調子でぼくたちは、約一時間も話し込んだのでした。突然彼は、
 「あなた、たいへんきれい。あなたすき」といい、ぼくも「わたしもあなたすき」と返しました。そして、僕たちは回教徒のやり方で抱擁しあい、別れたのでした。

 アムステルダムでレンタカーを借りるのが一苦労でした。どのレンタカー会社もプラハ行きでは車を貸してくれなかったからです。パベルが駆けずりまわって、ポーランドナンバーの車でアムステルダムで乗り捨てられたルノーを捜し出しました。これならプラハで乗り捨てが可能です。エアロフロートのロンドン発の帰りの切符もプラハ発に切り替えることが出来ました。チェコのビザはわざと取りませんでした。パベルがドイツ・チェコの国境で取るのが一番簡単と教えてくれたからです。
 準備万端整った感じでぼくは、まずスイスのクランを目指しました。パベルとは一週間後の午後4時にプラハのヴァーツラーブスケ広場にあるKLMのオフィス前で落ち合うことになりました。彼はその日の正午に同僚で女友達のポーリンと飛行機でプラハのKLMオフィスに着き、すぐ会議に出てちょうど4時に会議が終わるのだそうです。
 アムステルダムから進路を南にとると直ぐにドイツ国境を過ぎます。デユッセルドルフからフランクフルトとアウトバーンをなお南下。バーゼルでスイスに入り、あの世界ジャズフェスティバルで有名なレマン湖のモントルーヘ達します。あとは勝手知ったローヌ川沿いの道をぶっとばし山腹の九十九折を登ると、すぐに懐かしいクランの山荘に着きました。アムステルダムからゆっくり走って約10時間のドライブでした。
プラハカット1S.jpg 数日の滞在の後、いよいよプラハに向かいました。イタリアヘ迂回してからドイツに入り、チェコの国境近くで一泊してプラハに入るつもりです。
 早朝クランの山荘を出発。シンプロン峠を越えてイタリアヘ。コモ湖の畔の古めかしくて田舎風でけっこう洒落た感じのレストランの藤棚の下でイタリアワインの昼食をとりました。オーストリアを突っ切ってからドイツのアウトバーンを走って、ニュールンベルグ近くのモーテルに入ったのは、もう夜の10時過ぎでした。
 翌日、午前中にチェコ国境を通過。ビールで名高いピルゼンの町でビールを飲んで昼食。パベル達とは予定通りに合流できたのです。
プラハカット2S.jpg プラハは美しい町でした。うれしいことには、なんでも安いのです。日本の高層団地のようなアパートの部屋では、夏休みで市の職員がみんなバカンスに出かけ、そのせいで湯が出ないので、ポーリンは毎朝、悲鳴をあげながら、シャワーを使っていました。
 モーツアルトが寄寓した邸宅。その部屋でのコンサート。『レ・ミゼラブル』の観劇と感激。歌劇『魔笛』の鑑賞。
 それから空気銃を持って出掛けた、なんだか絵本の舞台のようなカントリーハウスの日々、本当にプラハはヨーロッパの京都みたいな所でした。
 詳細については、いずれ稿を改めたいと思っています。