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ある秋の深い目の放課後のことでした。ぼくは、何の用事もないし、そうかといって家に帰るのも何となくじゃまくさいといった気分で、ただぼんやり椅子にだらしなく腰かけ、窓ごしに見える空を見あげていました。
その時、建てつけの悪くなった戸がゴトゴトと開き、卒業生のCちゃんが入ってきました。何とも陰欝な顔つきです。彼女は、在学中に何度か、山岳部の主催するスキー講習会には参加していましたし、一回きりぼくが顧問になった時の「社研」の部長だったりで、ぼくはかなりよく知っていました。たしか、彼女、浪人中のはずでした。「どうや、元気」というぼくの言葉を無視して、Cちゃんは、
「センセ、バイク乗せてくれへん」
と、か細い声でいいました。
ぼくは一瞬とまどい黙っていました。ちょっと真意を計りかねたのです。彼女は、ぼくが、めったに人をバイクに乗せたりはしないことを知っているはずでした。
三〇半ばを過ぎてからバイクに熱中した、あの当時、たしか、女の子をのっけて、走ったことはありました。
ぼくのイメージとしては、ぼくが乗せる女の子は髪の毛が長くないといけない。その女の子の髪の毛は、バイクの疾走と共に真直ぐに後になびかなければならない。でも、髪が長かったら誰でもいいという訳じゃありません。バイクに乗せるというのは、乗用車に乗せるというのとは、全然ちがいます。身体が何となく接触するし、胴に手を回されるのが普通です。かなり親近感がないと、くすぐったいし、気色悪いんです。
まあ、とにかく、そうした女の子が、うまい具合にいて、乗せてくれというので走りました。ショーウィンドーの前を走り過ぎながら、チラッと見たら、イメージに全く反して、髪の毛は、全然なびいていないのです。ただバサバサと乱れているだけでした。なんとも、ぼくばガッカリしたのでした。
さて、Cちゃんは、ぼくが黙っているので、じっと返事を待っている風でしたが、
「もうかなり参ってるの」
とポツリといいました。多分、受験勉強に疲れているのでしょう。
うっとしいなあ。ぼくはユーウツな感じだったのですが、なんだか、彼女の気迫に押されていました。「ワシ、髪の毛の長い奴しか乗せへんねん」などという冗談でごまかす訳にも行かぬ感じで、大分考えてから、ぼくは「よっしゃ」と答えていました。
校門から走り出ると、ぼくは、真直ぐに、西を目指しました。別にどこへというあてもありません。ただその時、秋の入日が西山に傾きつつあり、それがとてもキレイだったからです。
引返してきたとき、もう夕暮れがあたりを包み、秋の空は、物哀しい色でした。Cちゃんは、
「センセ、ありがと。スッとした」
とだけいって、自転車で帰ってゆきました。
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何年かたった一九七五年、ぼくは、カラコルムのラトックⅡ峰を攀りにゆくことになりました。この山を狙ったのは、登攀倶楽部というクライマーの集団でした。彼等は、ほとんどみんな、大学には行ってない連中で、いわゆるブルーカラーに属していました。でも、その攀り方は、大学山岳部の奴等とは比較にならない位、尖鋭的なものでした。
例えば、土曜日の午後、単身バイクに乗って穂高に向かい、ほとんど眠らず、そのまま数百米の岩壁の困難なルートを攀り、またバイクで走って日曜日の朝に帰ってくるというようなことをケロリとやってのけるといったものでした。
「五条坂クラブ」とかいう名前のバイク集団を作って、五条通りで白バイと追いかけっこをしているような奴もいました。また、四帖半の安アパートで、インスタントラーメンで飢えをしのぎながら、力仕事のアルバイトをして、金がたまると山へ出掛ける。「山ではまともなメシが食えるところが魅力です」などと冗談をいったりする彼等は、岩壁に張りつくと、見事なまでのテクニックとパワーを見せたものです。
若い頃から、どちらかといえば、恵まれた環境条件の中で、のんびりと山登りを楽しんできたともいえるぼくにとって、彼等の生きざまや山登りは驚異的に思えました。そして同時に何ともいえぬ新鮮さと魅力を感じたのも事実でした。頼まれるままに、彼等の雇われ隊長となるのを承知したのは、多分、こうした気分のせいだったと思います。
遠征準備の事務所というか、集会や物資集積や梱枹場所として、ぼくは古巣である大学山岳部の部室を使うことにしました。そこなら、昼夜を問わず自由に使えるし、寝泊りもできます。「山岳部ルーム」の隣りの部屋には数人の女子学生がいました。ぼくは、その中にCちゃんを見出したのでした。
「よお、久しぶりやな。これなに部やねん」
彼女が、志望通り大学に入って、ぼくの後輩ということになったということは聞いていました。でも、こんな所にいるとは思わなかった。この部屋は、「ジョモンケン」のボックスなのだそうです。
「それなんや」
ああそうか。女性問題研究会か。「女問研」てケッタイな名前やなあ。なんでも、いまは、どこの大学にも「女問研」があるのだそうです。そういえば、巷では榎美沙子がガンバッていました。
とにかく、もと「バロック音楽研究会」のボックスだったのを、女の力で乗っ取ったとかいう、このステレオもあるかなり快適な部屋を、ぼくは、遠征準備のための別室として使えることになったのです。
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Cちゃんは、このウーマンリブ・グループのリーダーでした。でも、彼女の温和で、どちらかというと内向的な性格を反映してか、この「女問研」は、他所の大学のそれとはちがい、極めて穏健だとのことでした。大してこれといった活動はせず、高群逸枝の『日本女性史』の輪読会などをやっているそうでした。「助言者として参加して下さい」などといわれ、好奇心の強いぼくは、「うん」と答えたのですが、遠征隊の準備に追われて、その機会はありませんでした。
この部屋でぼくが出会った「女問研」の面々は、やっぱり何となく、普通の女子大生とはちがうように感じました。キャアキャアワァワァいっている並の女子学生ともちがうし、あどけなさと幼稚さが売物みないな女性とは別物という感じでした。口数少なく、キリッとしていて、シャキッとした筋金入りみたいで、おまけに、それがわりかし整った顔立ちであったりしたら、ぼくは、年甲斐もなく、なんだかボーとしてしまい、ちょっとした少年のあこがれみたいな心情を覚えていたようでした。
さて、二ヶ月ほどの準備の後、ぼくは、パキスタンの高峰に向かい、失敗して帰ってきました。帰国してしばらくして、もう秋の気配の濃いある日、Cちゃんが学校に電話をかけてきました。例によって藪から棒です。
「センセ、ちょっと相談があるんですけど」
「元気か、ほんで、何ですか」
「あのう……。女問研の○○さんがドジったんです」
「はあ。何をです」
いきなりドジッたといわれても、何のことかも分らず、ぼくはポカンとして、全く要領を得ぬ返事をしていました。
「ほら、センセ、知ったはるでしょ。あの人、ステキやっていうたはった人」
ぼくには、まだはっきりしません。彼女にそんなこというたかな、と考えていました。
「あのう、ボーイフレンドと、それで失敗して……」
「ふうん」とだけ答えて、ぼくは絶句していました。別にうろたえもしなかったけれど、なんだか、事務室のみんなが、きき耳をたてているような気がしました。
「なるほど。分った。夜、家に電話してくれませんか」
さり気なくそういって、ぼくは電話を切ったのです。
やっぱり、ぼくは少しびっくりしていました。考えてみれば、そういうこともあって当然という話なのですが、なんだか、起こり得べからざることが起こったという気がしたのです。
並の女子大生ならいざ知らず、「女問研」の、あの女の子が……。全く信じられんという気分で、ぼくは化学準備室への廊下を歩いていました。と同時、何ともややこしい話を持ち込んできたCちゃんに、あるうとましさを感じていました。
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夜かかってきた電話で話を詳しく聞いているうちに、ぼくはムカムカ腹が立ってきました。当の本人はただオロオロとうろたえているだけだそうです。おまけに、なんだか、相手の男だけが悪いみたいないい方をしているようです。
「わたしらも、なんかほっとく訳にもゆかんという気がして……」
ぼくは、とうとう頭にきてしまい、
「アホか、自分の身体のことも自分でめんどうみれんと、なにが女性の権利じゃ。ええ年して、中学生みたいなこというとるな」
と怒鳴ってしまいました。しかし、考えてみれば、あの遠征のときには、色々手助けしてもらったことだし、ぼくにも少々の義理はありそうです。俺の知ったことかと、つっぱねる訳にもゆかんなあ。そんな気がしました。
ぼくは、直ぐ、遠征隊のドクターであった山岳部の後輩のタカヒコに電話したんです。
「へええ、そら困ったな。けど、それ、相手はタカダはんとちがうんかいな」
「バカモン」
ぼくはますますムカムカしました。
「そらね、あんなもん、盲腸の手術よりも簡単やということもできますよ。けど、盲腸とはやっぱりちがうんですワ」
と、タカヒコはいい、「なんとか考えたってえな」というぼくの頼みに、
「困ったなあ、そらぼくとこの病院へ来てもろたら、話は簡単ですねん。けど、ワシかて、看護婦に、変に疑われるのイヤですしねえ」
と答え、ここで、ぼくたちは、一緒に笑ったのです。
とにかく「なんとかええとこを探します」といってもらい、ようやくぼくはホッとし、女房に、ちょっと話したのです。すると彼女は、
「それ、パパとちがうの、相手」
「アホか」
ぼくは滅入ってしまったのでした。
しばらくして、一件落着の連絡が入りました。「女問研」の学生ということで、誰しもピンク・ヘルを連想したらしく、場所さがしはかなり難航したようでした。ところが、あんなうっとおしい話を持込んできた当のCちゃんからは、何の連絡もありませんでした。けっこう腹がたちました。もう話なんかするか、とも思いました。でも正直いって、ぼく自身も、そんなこと早く忘れたかったのです。
一年ほどして、ひょっこり、もう忘れた頃に、Cちゃんが学校にやってきました。
あれから、なかなか大変だったようです。まずお父さんがなくなった。教師だったお父さんは、冬は元気にスキーをしていたのに、春には入院し、ガンが脳に転移したため、記憶喪失みたいになり、死の床につきそう娘に、つきそってくれてうれしいが早く帰らないとお父さんが心配するよ、などといったそうです。父親が入院するのとほとんど同時に母親も入院した。胃潰瘍の手術はすぐに済んで、元気に退院したのですが、これもホントはガンだったのだそうです。それを知っているのはCちゃんだけです。
こういうややこしい話になると、彼女は、ほとんど毎日のようにぼくの所にやってきては、ポツリポツリと話しては帰ります。聞いてしまったぼくの方は、ほんとにつかれる感じなのです。
何日目かに、彼女は、こう話しました。
「お父さんには好きな人がいたみたい。入院してから分ったん。お母さんには、生徒の母親やいうてたけど……。その女の人私のこと小さいときから知ってるみたいな態度なんよ」
その人には高校生の娘がいるそうです。Cちゃんはそれが気がかりな様子で何度もこの話をするので、ぼくはからかい半分に、
「その高校へ行って、その娘見てきたら……。あんたに、よう似てたりして」
というと、彼女は、常になくキッとして、「お父さんが好きな女性がいくらいても、それはそれやけど、私とおんなじように可愛いがってる娘が他にいると想像することは耐えられないことなん」
あれから、もう何年にもなります。その後彼女からは何の連絡もありません。便りがないのが無事の便り……。きっと元気でやっているのだろう。ぼくはそう思っています。

生徒がなんらかの問題を起こした時には、その事実関係の取調べには担任があたるという規定があります。その内容は、補導委員会に報告され、五人の委員が、「生徒処置規定」に基づいて、生徒処置の原案を決めます。この会議には、生徒部長や担任はオブザーバーとして討議には参加できますが、票決権はありません。
その生徒は祖父母に養育されていることは分っていたし、何か家庭の問題が原因だろうとぼくは推測しました。でも、それは、ぼくにとって、あんまり関係のない事に思えたし、依頼もないのに、どうこうする必要もないと思ってほっといたのです。まあそのうちに帰ってきよるやろ、あいつの事やから……。
生徒達は、ビーフシチューを作り始めたようです。テントに帰って来るなり花尻橋の方に向かったOBが、生ビールを買ってきました。つまみは、ぼくが持ってきた魚そーめん、酢だこに高知名産の「酒盗」。
「旗たてて走れ。京都———東京と書いた幟たてるんや」
この他にも四国一周を目指した奴もいるし、古タイヤチューブのいかだで保津峡を下った連中もいる。
この時は、このあと、研修生の先生方が二派に分れてかなり議論を闘わせました。いまかりに、研修所で、ぼくが同じ話をしたとしても、おそらく、あんまり反応はないのではないか。「へええ、そんな生徒もいたのか」てなもんで、それだけでしまいなのではないか。どうもそんな気がします。これはちょうど、今日この頃の生徒の状況とおなじことです。
ぼくは、息子にサービスする気なんか全くないし、自分が遊ぶことだけで精一杯です。まあ、子供もー緒に遊べることなら、一緒にやるのは別にイヤでもありません。だから、スキーにしろ山にしろ、連れていくこともある。しかし、そうした計画は、ほとんどの場合、あくまでもぼくが行くのであって、子供達のためのもんではありません。
「学校は家裁とちがいますよ。ぼくは教師ですが、調停員ではありません」
五分の一の規定は知っている。自分で勉強する方が能率があがる。天体観測をやっているので、徹夜することが多い。共働きの両親は朝早いので休んでいるのを知らない。分るとうるさい。顔をみるのもいやなので、メシも自分で作って喰べる。パンとジュースで済ますことが多い。将来は天文台に勤めたい。
セールス氏は、意外とあっさりあきらめ、
「当り前ですよ。労働者は何を作るんですか。ぼくらは製品ですか。工場生産の部品ですか。流れ作業の規格品ですか」
彼等は意外に素直に納得しました。「それで、なんの話や」「いや別に、これといった用事もないんです。一ぺん話してみよかいうことになっただけですワ」などといっています。でも彼等はそれとなく、話を「教師聖職論」や、「憲法第九条」などに向けてきたようでした。でもぼくはほとんどなんにもコメントしませんでした。
さて昨年(一九七九)の秋、新聞部の生徒が二人やって来ました。「バイク」について原稿を書いてくれという依頼です。
ぼくがいい年をして、岩登りをやったり、オートバイに乗ったりしているのは、こうした理由によるもののようです。よく人から、「自分の子供が、そういうことをやりだしたらどうします」ときかれるけれど、「しゃあないなあ」と答えています。つらいやろうけど、ガマンせんと……と思っています。
いつまでたっても、そういう風にゆかない人もいるようです。そんな人は、暗黙のうちに、あかん奴という烙印を、みんなから押され、自然に排除されてしまう。面白いことに、どうやら、学校でのいい子で優等生ほど、一緒にやろうとする傾向が強いようなのです。
もし事が起ったら、ただでは済まんやろなあ、という気がいつもします。もしぼくが素人だったら、高校生には無理やとか、禁止されてるといって、止めさすこともできるでしょう。でもそうはいかない。だいたい普通の山歩きのコースでも、岩の部分は出てくるし、基本的な技術は安全のために必要です。それに、止めても、行く奴は、勝手に行くに決っている。その方がよほど危険です。
だいたい彼等は、くじ引きやじゃんけんが大好きです。誰かが、例えばリーダーがパッパッと決めればいいものを、いちいちくじ引きで決める。それが最も民主的なやり方だと思っているみたいです。リーダーは、会議・談合の進行係、あるいはくじ引き表作成係みたい。しかし、リーダーにとって、これほど楽なことはない。だって、全ての責任は、「くじ」や「じゃんけん」や、そうした〈決定システム〉にあるのであって、自分にはないのですから……。現代社会の反映みたいで面白いと思いました。
「オレの寝るテントでもないのに、なんで掘らんならんね」
ぼくたち隊員も、今から考えると、アホみたいにイキッて準備に走り回りました。だいたい今みたいに情報が豊富ではないし、必死で情報を得ても、それを解釈するだけの経験や能力がなかったようです。
国産のものも、フェザー産業という会社から出ていましたが、布に傘地をつかっているので、ガサガサのゴワゴワです。モンクレーのものとは比較になりません。すでに産業力を誇りだしている日本にしては、なんとも不細工な話ではないか。そんなら、ひとつやってみようか。そう思ったのです。成功すれば、試作品ということでタダになるかも知れないという計算もありました。製作はフェザー産業に頼むとしても布地が問題でした。羽毛製品の布地は、極めて細かいその羽が出ない位に目がつんでいないといけない。あれほどの風合い(手ざわり)の、あんな薄い生地で、モンクレーはどうやって、羽毛の出るのを止めているのか。
マキウチさんは、ジュンちゃんのことを、ぼくたちに語るとき、いつも、「彼は…‥」
初めて、異文化、異宗教の人達との接触を体験して、日本に帰ってきたとき、わが祖国日本は、なんとなく、前とはちがったものとなっていたようです。それは、ちょうど、高い山に登って、空気の薄さに気づき、平地に降りてきて、空気の存在や、酸素の認識を得るみたいな感じといえるかも知れません。
「その方法はアカンと思います」
高校一年生の時、生物の先生が、「植物の正常分布曲線」を作ること、という宿題をだしました。それが、木の葉っぱであれ、米粒であれ、その大きさの分布を調べると、うんと大きいものや、うんと小さいものは少なくて、普通の大きさのものが一番多い。だから、分布曲線というのは、裾野をひっぱった山型になる。ただ、そういう形になるためには、おそらく何千個という個体を測定しなければならない。数が多ければ多いほど、曲線はなめらかなものとなります。先生は、最低、千個から二千個は測る必要があります、といいました。
いまかりに、全部の生徒が、自分の点数を全部見せあい、評価を検討したら、どうしてそうなっているのか分らない点が続出するのではないかと思います。
コヤマノ岳から八雲ケ原へ、夕闇の中を降ってゆくと小屋がありました。スミさんが、「シーッ、囚人小屋やぞ」などというので、ぼくは、なぜかひどくビビって足音をひそめて通り過ぎたのです。ところが、その次の時、一人で日中にここを通ったら、数十人のごく普通の若者が雑木を伐っていました。
ところが、しばらくしてその事を知った他の先生達は、意外にも、それは大変だといって、あわてました。大変だといっても、どうする訳にもゆきません。その生徒はもう帰りの電車か汽車に乗っているはずでした。
数年して、制服問題が起こりました。生徒が制服を廃止しろと要求し始めたのです。その頃には、もう、帽子をかぶっている者なぞは、一人もいません。制服を着ない、いわゆる異装生徒が増えていました。
あれはたしか「赤シャツ」君が卒業する時の卒業式でのことだったと思います。卒業式では、送辞・答辞の文案は、それをよむ生徒に任されているのが常でした。いつも、なかなかシビアな文句が飛びだして、ぼくは、いつもそれを聞くのだけが楽しみで、式に出席していたのです。答辞が始まり、その女生徒が、「大和は国のまはろば‥…・」とやり出し、「私たちは、日の丸を掲げることさえ許されませんでした」と続け、教師も生徒も一瞬あっけにとられて、シーンとなったその時、横に座っているT先生の腕がサッと動くのを、ぼくは感じました。
江戸時代には、武士を初めとして色んな階級があって、着物は規定されていた。女も丸まげ、お歯黒で、未婚・既婚が明らかになる仕組であった。その仕組をはずれた異装の者は傾者(かぶきもの)として社会から指弾、疎外された。こういう服装による身分規定はなくなってくるのが、時代の流れだとぼくは思う。それに、江戸の支配階級は、倹約令などを出して、華美の風潮をいましめていたから、目立たないもので、しかも高価な大島などを着用した。そこで、こうした支配階級の地味な好みが上品であるという観念が生れた。だから、こういう考え方に反逆するためには、むしろ下品なものこそいいという考えも生れるんではないでしょうか。