クーネオのレストラン(1)

 ピエモンテで旧知のCuneoのノータリー(公証人)、サロルド・アルド氏の招待でクーネオのレストランのディナーを頂いてきた。
 デッレ・アンティーケ・コントラーデ(Delle Antiche Contorade)と云う舌をかみそうな名前のレストランがあって、クーネオでは最高のレストランということになっている。
 アルド氏のひいきのお店で、彼はいつもここでご馳走してくれることになっています。

DSC00418.jpgプレゼントに差し上げた日本の陶器をオーナーに見せるアルド氏。アンティークですというと、オーナーは包んであった新聞を指して「この新聞もかい」と冗談を言った。

DSC00419.jpgイタリアのシャンパン、イタリアではシャンバンと云わずにスプマンテと称する。フランス・シャンバーニュのシャンパンにひけは取らない。

DSC00427.jpgここのオーナーは、英語が堪能で、髭を生やした豪放磊落な人柄で、ぼくは大好きなのです。
 ところで、昨年に日本で出版された「麗しのピエモンテ〜北イタリア未知なる王国へ〜」という本があります。
この本のクーネオの項に、このレストランが載りました。
数枚のグラビア写真とともに、次のように紹介してあります。 曰く、
—2005年版のミシュランで星を穫り、勢いに乗る話題のリストランテ。伝統とヌオーヴァ(新しさ)、イタリアとフランスが美しく混ざり合った皿は、瞬く間に舌の肥えたクネーゼたちをとりこにしてしまった。洗練された味わい、瀟洒な設えが大人の品格を教えてくれよう— (ところで上記の訳の、美しく混ざり合った<皿>というのは、明らかに<料理>の誤訳でしょう)
 と、ちょっと大げさとも云える紹介文があります。
もしかしてこの日本文は読めてないだろう。翻訳してあげたらきっと喜ぶだろうという、ともの提案で、この日本文を英訳して持参することにしました。
ぼくが苦労して作文した英訳文を見て、彼は「大丈夫、大丈夫。ぼくは日本語が読めるから」とまた冗談を言いました。

DSC00421.jpg一皿目のつまみの後、二皿目のカルネ・クルード(生肉)、ミンチしてある。
ウェイターが、ヒマラヤ産ですと岩塩をふりかけてくれた。肉とは思えぬあっさりとしたフレッシュな味。

DSC00434.jpgカルネクルードを食べ終わる頃から、ワインは、バルベラ・ダルバとなる。ピエモンテ産の赤。

DSC00422.jpgフォアグラの載ったリゾット。このフォアグラは、練り物ではなくレバーそのもの。逸品であった。

DSC00425.jpg同行者のともさんとアルド氏。スプマンテを美味しい美味しいと言っていたためか、彼女は別れ際にこのシャルドネ・スプマンテをプレゼントされた。

雪不足のイタリア

1月12日
いやぁ、まいったまいった。
雪不足とは聞いていたけど、これほどとは思わんかった。
雪はひとひらも、ひとかけらも降る気配なし。
周りの山々はまるで晩秋の装いというところ。
DSC00402.jpg今年から新設されたピカピカのゴンドラが、誰も乗らないまんま空しく動いていた。
気の毒になって、スキーを持たないまま乗ってみた。まあ様子見ぃちゅうとこで。
昼時だったので滑っている人はほとんどなし。

DSC00405.jpg短靴のまま、転倒せぬよう必死の思いで凍ったゲレンデの斜面を横切り、下に見えるレストハウスに行ってみると、年寄りがほとんどの数十人が休憩しているだけでした。
まあ、10分の一以下の3コースのみしか滑れないんだからしゃあないでしょう。

1月13日
スキーは諦めて、部屋にこもって読書。
白州次郎関係の本を3冊持って来たのでそれを読む。
また、NHKイタリア語会話をDVDに収めたものを持って来たので、それでお勉強。
でも右から左に忘れます。
これにも飽きて、下の町クーネオにショッピングに出かけ、馴染みの帽子屋さんでボルサリーノを2個買いました。
一つは、友人の歯医者屋さんのもの。もう一つはぼくのパナマ帽で、日本ではとんでもなく高い代物。
それにしても、ユーロの高さには閉口です。
5・6年前は110円ほどだったのに、今は160円を越えています。
日本の好景気という話は嘘のように思えてくる。
日本は、アメリカと一緒にどんどん傾いて行っているような気がしてきました。
スーパーの酒売り場にも変化が見られます。
むかし大量にあった大瓶の徳用ワインが少なくなり、昔はなかったブーブクリコやモエシャンドンといった上等のシャンペンが並んでいます。
これは何を意味するのかな。

ヨーロッパの旅とスキー(2007冬)

2007年雪不足のヨーロッパを雪を求めてイタリアからフランスへ。
その後、ベルギーのブリュッセルからSPAを訪ねた記録です。mixiより転載しました。

IMGP3683.jpg

雪不足のイタリア
クーネオのレストラン(1)
クーネオのレストラン(2)
ニースで盗難に遭う
トリュフご飯を食す
歯医者さんに行く
Thalys車中より</strong>
シャモニーに行く
ブリュッセルでの食事
SPA(スパ)語源の町へ行く
無事帰国

バンコックから帰国

10月17日
バンコックで4泊してから帰国しました。
昔からパキスタンに行った帰りにはいつもバンコックで休養してから帰国することにしていました。
ラーチャダムリ通りにあるRegent BANGKOKのプールサイドで1日を過ごし、古いフランスレストランのラ・バンヤンに行くのが常でした。

バンコックには、2002年に2回訪れたのが最後で4年ぶりの訪問でした。
4年の間にバンコックは大きく変わっていました。高速道路が出来たり、地下鉄も出来ていました。地下鉄が出来てもその上のスクンビット通りの渋滞は昔と変わりません。あらゆる場所で渋滞はさらにひどくなったようです。
かつて、スクンビットのソイがおもだったソイバイク(お客を後ろに載せて走るバイク)は、あらゆる通りに拡大していました。

ちょうど日本を出発した日に開港したスワンナプーム空港は、旧空港のように果物や花を売る店はなくなり、やたらブランド店が両側に無機質に配置された長い通路が続いているという感じのもので、アムステルダムのスキポールとは、比べるべくもない感じ。

馴染みのRegent BANGKOKは、Four Seasonsに変わっていました。いついっても、「ウェルカムバック、タカダ」と大声で迎えてくれた顔見知りのページボーイの姿は見えません。
二人のドアボーイがサッと開けてくれた両開きのドアを通ってロビーに入ると、昔と変わらぬ管弦楽の生演奏がなっていましたが、なんだか空気に冷房だけではない冷ややかさを感じました。

今回の宿は、家内の昔の職場仲間の好意で、東レの所有する10階建てのマンションを使わせてもらうことになりました。
若い頃から東南アジアを歴任した芦田さんは、14年前に赴任したバンコックが気に入り、定年後も現地採用の社員としてここに居座っています。
ここYELLOW RIBBON HILLS, Executive mansionには、出来たときから入居しており、7年になるそうです。身体が自由に動く間は、ここバンコックでゴルフを楽しみながら暮らすつもりだといっていました。

2日目の夜、4年ぶりにラ・バンヤンに行きました。このお店からは、毎年のようにメイルをもらっていて、いつかは年代物のシガーを吸う会へのお誘いがきた事もありました。
オーナーのブルーノとコックのミッシェルは、大喜びで迎えてくれました。
ブルーノはいつものように、もみ手をしながら「ボンソワール、ボンソワール」と繰り返していました。
フォアグラテリーヌの味はかつてと同じように美味しいと感じました。牛肉とダックがいまいちと思ったのは、ドバイの後だったせいかも知れません。

バンコックでも、禁煙の法律が出来、公共スペースでの喫煙が禁止されたそうです。だから昔のようにテーブルに、デザートコースのシガーが、ワゴンで運ばれる事はなくなったようです。シガーはカウンターで楽しむことになります。
ぼくがシガーを吸うべくカウンターに移動しようとすると、ブルーノが飛んできて、「ノンノン、そこで吸ったらいい」といってくれました。お客が少なかったからでしょう。

芦田さんに連れられて、ドリアンの専門店に行きました。ぼくたちが大好物のドリアンを土産に持たせてくれるそうです。
ドリアンには、カンナオ、モントン、チャンニの三種がある事を初めて知りました。
普通のものはモントンで、カンナオはなかなか手に入らない。それに今はシーズンではないそうです。

バンコックからは、ドリアンは持ち出し禁止です。どうやって日本にもって帰るのか。
大丈夫です。芦田さんはすまして答え、パインアップルを詰め合わせた20kgの紙箱を作りました。
ドリアンの強烈な匂いは、どうやっても閉じ込めることは出来ないもののはずです。
秘訣は、シャネルのNo.5にありました。
この方法は、彼が編み出したもので、ドリアンをくるんだ新聞紙にシャネルをたっぷりと吹きかける。するとドリアンの匂いはシャネルにくるまれて消えてしまいます。シャネルNo.5にくるまれるとはマリリンモンローではないか。

箱には、バインアップルと書いてあり、空港の検査員は、パインアップルにしては変な匂いがするなあと思いながらも、文句はいわないそうです。
日本の空港では、植物検疫を受けなければなりませんが、受ければいいだけで、実際に問題はありませんでした。
それにしても、シャネルの5番は、そんな高級ブランド香水をじゃんじゃん振りかけて、えらく高くつくのではないか。
いえいえ問題ありません、とこともなげに芦田さん。
バンコックはフェイク天国です。フェイクのシャネルが本物の10分の1の値段で手に入るのだそうです。

そんなこんなで、私たちは神仏の加護を得て、無事日本に戻り、改めてドリアンを味わっているところです。

ドバイのスキー

10月13日
目覚めて、時計を見ると10時20分。
10時30分までの朝食には間に合わない、と思ったのですが、考えてみるとここはドバイで、パキスタンとは時差1時間です。ドバイ時間9時20分、朝食には充分の時間がありました。
最上階の5階のこじんまりしたレストランで、朝食のビュッフェを取りました。
このHoliday Innは、純ヨーロッパスタイルのホテルで、こじんまりしてなかなか快適です。

ドバイの通貨は、ディルハムでDHSと書きます。レートは1$=3.48DHSだそうで、1ディルハムは、大体35円くらいになります。
いちいち35を掛けるのは面倒なので、ドル円レートをインターネットで調べて、パームのシェアウェアAscalに、y=x/3.48*119という数式を打ち込み、ディルハム・円の換算ソフトを作りました。

ゆっくりと部屋でくつろいで、午後2時に外に出ることにしました。
出かける先は、迷う事なくドバイ・スキーです。
ここに来るときのこと。カラチ空港の飛行機待ちで二階の奥まったところにある喫煙コーナーで葉巻を吸っていると、一人の40才がらみのパキスタンビジネスマンと思われる男性が煙草を吸いにやってきました。
「どこへ行きますか」とぼくから話しかけました。
彼は、バンクーバー在住のパキスタン人で、これからドバイ経由でロンドン、ロンドンからバンクーバーに向かうそうで、なんと32時間かかるそうです。

ぼくがドバイでレンタカーを借りようかと思ってるんだけどというと、それは止めた方がいい、と即座に彼は答えました。
「はいはい、その理由はですねえ」
私は、6年間ドバイで暮らしましたが、自分で運転した事はほとんどありませんでした。タクシーは高くないし、どこでも拾えるしどこからでも呼べます。今はラマザーンで渋滞が特にひどいです。
「そうですか。レンタカーは止めます。他に何かアドバイスがありますか」
心配する事は何もないです。タクシーは全部メーターだし、チップもいりません。
ああ、ドバイ・スキーですね。もうオープンしてますよ。たぶん昨年だった思います。きっと楽しめるでしょう。
滑れる。砂漠の国でスキーが出来る。ぼくは欣喜雀躍の思いだったのです。

ページボーイにタクシーを呼んでもらい、ドバイ・スキーに向かいました。
ドバイ・スキーと呼ぶ人口スキー場は、モール・オブ・エミレイツのなかにあり、エミレイツ・ホテルとも接しています。
人口スキー場部分は、遠くから見ると、まるで巨大なマッコウクジラが首をもたげているように見えました。

タクシードライバーが、ここですと車を止めたところは、大きなホテルの入り口でした。どう見ても人口スキー場の入り口とは思えません。
中に入ると右側に数十メートルにわたって、黒いカーテンが天井から下がっています。時々人がその隙間から出入りしています。
隙間から中をのぞくと、これが広大なファミレス様の食事スペースでした。ラマザーンなので、こんな風に黒布で囲ってあるのです。

DSC00235.jpgスキーの前に食事をとっておくべきだと考え、後でここに取って返して、飲茶3品を取りました。
洋食和食中華なんでもあって、にぎりから天ぷら幕の内弁当までありました。ほんとに驚きました。そして注文したディムサムは、充分に美味だったのです。

DSC00231.jpg奥に進むとショッピングモールとなり、そして切符売り場が現れます。切符売り場は、スキースクール、スノーパーク、スキースロープと窓口が並んでいます。

DSC00232.jpgスキースロープの売り場のお兄さんに説明を頼みました。
「スキーの経験はありますか」と聞いてから、彼は説明しました。
2時間が一応基本で、用具一式のレンタル料込みで、145ドルという話。1時間1万円近いではないか。

DSC00228.jpg最長400mのコースを含む5本のコースを持ち、これを終始マイナス8℃に保つためにはそんなに高い金を取る必要があるのかなあ。せっかくきたのだから、高くてもしゃあないとしよう。
そう思って、結構納得して滑っていたのですが、帰りにICチップのカードの払い戻しをして、自動返却機から10ディルハム札が出てきた時、ディルハムとダラーの聞き間違いに気付きました。
ディルハムは、どうしてもダラーと聞こえてしまうのです。パキスタンでは、少し大きい金額はUSダラーで云うことが多いので、なお聞き間違えてしまったのでしょう。
ディルハムとダラーとでは大違い。正しくは2時間で5000円ほどとなります。

DSC00233.jpg云われた通り、隣のスポーツショップで、帽子と手袋を買います。これが2800円。

DSC00234.jpg貸しウエアーのコーナーでズボンと上着を受け取ります。次のコーナーで靴を受け取る。靴を持ってスキーのコーナーに行きます。好きな長さのスキーを出してくれ、バッケンを調節してくれます。

DSC00229.jpg少し歩いてエスカレータで上るとガラスの自動ドアの外は一面の銀世界。クアッドリフトが動いています。大きなショッピングモールの一階上は、雪山という感じでなんだか不思議の国のアリス。

今年1月の16日、イタリアのリモーネ・ピエモンテのスキー場で両脚のヒラメ筋を伸ばす事故をしてから、ほぼ9ヶ月ぶりのスキーです。痛みや腫れが引くのに7ヶ月もかかりました。この間接骨医に約1ヶ月通いましたが、全くといっていいほどなんのリハビリもしていません。
正直言って結構スキー滑走には不安があったのです。
でも、なんの問題もなく滑れました。我ながら驚いた次第。結構スムーズにスピードも出せましたし。きっとぼくのスキーはそれほど自然で、無駄な力を使わない走法だと云う事なのでしょう。

DSC00241.jpgそれにしてもこの人口スキー場、鉄骨を組んで、急なところでは雪が滑り落ちないように階段状にした人口の斜面であることなど全く感じさせない、自然の斜面のようで、なんの違和感もなく滑走が楽しめました。
これが砂漠の真ん中だとは、ほんとに驚きでした。
スキーにワックスをかけたい感じがしたのですが、滑り始めるとけっこうよくすべりました。きっと雪の質がいいのでしょう。天然の雪は気温や湿度などの変化によって融解凍結昇華などを繰り返していますから、雪質の変化が激しい。
この人口スキー場では、気温はつねにマイナス8℃、湿度も一定ですから、雪の状態もきっといいのでしょう。

ただ一カ所、照明のせいで二本の薄い陰が斜面を横に走っているところがあり、そこがどうしてもギャップに見えてしまい、瞬間的にひどく緊張してしまいます。
何回すべってもそうなので、これはきっとあのリモーネ・ピエモンテでギャップを飛んで、怪我をしたのがトラウマになっているのだと思った事でした。

もう一つ感心したのは、貸し靴貸スキーの質の良さです。10数年前、友人のパベルに誘われて、スイス・フランスの国境のスキー場に行った時、貸しスキーがひどいペラペラスキーで、ぼくはまるで初心者のようにスッテンコロリンを繰り返しました。以後貸し靴貸スキーには、ひどい偏見を持ってしまい、外国で滑るときも自前の靴とスキーを使うことに決めていました。
今回は、よんどころなく借りたのですが、靴はまるで自分のもののようにビッタリでしたし、180cmのスキーもしっかりしたものでした。
時間さえあれば、何回も楽しみにきたいと思ったほどです。

砂漠の中のスキー場、ドバイにはとんでもない事を考える連中がいるもんだ、そう思った事でした。

mixiはアンモラルサイトか

DSC00221.jpgドバイのHolyday Inn downtawn Hotelで、インターネットサーバに接続し、mixiにアクセスすると、突然アラビア文字の画面がポップアップします。
アラビア語のポップアップメッセージの下段には英文があり、こう書いてある。
We apologize the site you are attempting to visit has been blocked due to its content being inconsistent with the religious, cultural, political and moral values of the United Arab Emirates.

つまり内容が、宗教的文化的政治的あるいはモラルから考えての価値観が、アラブ首長国連合と合わないのでつなげません。ごめんなさい。
思うに、mixiにはたぶん、ぼくの推測なのですが、少々いかがわしい写真などが、載っているのではないかと思われます。
ムスリムのこの国では、女性のショートパンツも否定されるのですから。

DSC00292.jpgそれはそれとして、ぼくはにアラブの連中に対する偏見がある。
『アラビアのロレンス』にアンソニークイン演ずる族長が登場しますが、彼らの末裔がアラブ首長国連合(UAE)を作っていると思っています。
元々砂漠の民で、ラクダを連れてテントで起居する遊牧生活を送っていた人々は、石油がわき出しただけでとてつもない富を手に入れた訳です。
ひどく尊大で、世界中どこへでも、白服で頭にしろ布を載せ、黒色のワッカで押さえた衣装を変えない。
日本人も、明治の元勲達は、着物にちょんまげ姿で、欧米をめぐったのですが、彼らはいまもそんな調子を決して変えない。
日本人も見習うべきかなと、思ったりもするのですが。

ドバイでも、ネイティブは27%ほどで、彼らはみんなとんでもない金持ちで、豪壮な邸宅に住み、額に汗する事なく金が入ってくるシステムを作っています。
まあ、六本木ヒルズ族の国と云えるかもしれません。
そういえば、ドバイの町は、六本木ヒルズのような、いやもっと巨大なビルが建ち並んでいるという感じです。

残りの人々は、すべて外国人。ワーカーはほとんど東南アジアの人々です。
この砂漠の国では、水がありません。
有り余るオイルを燃やして海水を沸騰させ、蒸気タービンんを回して発電する。その時の蒸気は水となりこの水が水道水になります。計算すれば凄く高い水です。
でもドバイでは、税金はただです。電気水道電話代もフリー。27%の支配層は、もうけた金を国民に還元していると云えます。
大衆からいかにお金を取ってやろうかとばかりを考えている感じの日本政府も少しは見習ってほしい気がします。

ドバイへ

10月11日
ペシャワールからアマンの車でイスラマに戻り、そのまま夕刻7時のカラチ便に乗って、再びシェラトンホテルにチェックインしました。
荷物を運びながら、ポーターが、前と同じ部屋ですねというので、そうかいと云うと、
「サーブは忘れてるけど、俺はしっかり覚えている」
と胸を張りました。

アマンから貰った封書のドキュメントを開けてみました。
BRIEF ON NEW VISA POLICY ON 30th JUNE, 2006は、7ページに及ぶペーパーで、「世界の情勢に鑑み外国の技術者、観光客、その他の人を迎え入れる事は、この国の評価を高め経済効果も生むものである云々」などと、事細かな箇条書きで書いてあります。
そして、LIST OF TOURIST FRIENDLY COUNTRIESとして、23カ国のリストがあり、勿論日本もそのなかに含まれています。
最後に、26個のパキスタン旅行エージェントがリストアップされています。

問題のInvitation Letterというのは、一枚のレターで、次のように書いてありました。

October 4, 2006
CK/EOP/0410

To,
Visa Officer

Sub:- REQUEST FOR ENTRY VISA “VISA ON ARRIVAL*

Dear Sir,
We cordially request you to grant Entry Visa to our honorable tourist
against the gavernments visa policy attached “VISA ON ARRIVAL AL” for 24
Tourist Friendly Countriess(TFC) through designated/ authorized tour oprators in Pakistan.

All the neccessary expenses concerning their transportation, accomodations and any other incidental once will be borne by our organization. The details of our tourists are given below

Name:  Mr.Naoki/TAKADA
date of Birth  17-09-1936
Passport #  xxxxxxxxxxx
Date of Expiry xxxxxxxx

Name:  Ms.Hideko/TAKADA
Date of Birth  xxxxxxxxxxxx
Passport #  xxxxxxxxxxxx
Date of Expiry xxxxxxxxxxxx
   
   We would highly appreciate your kind cooperation in this regard.
Yours sincerly
(signature of Agent)
Ch Faisal Saleem
Manager Operations
Cox & Kings Pakistan(Pvt)Ltd./Travel & Tours(Gov lic #ID-549)

要は、以下の2名の面倒はすべて当方が見ますから、New Visa Policyに基づいて、ビザを免除してほしいというものです。Press Briefing on New Visa Policyという新聞記者用のドキュメントが同封されているのは、この新規約を知らない入国審査官に知らしめるためのようです。
このインヴィテーションレターは、日付はありますが、期間の指定はなく、何回でも使えるようです。つまりぼくたちは、今後ビザなしで自由にパキスタンに何回でも入国出来るという、とんでもない文書ということになります。

英文でうんざりした方のために映像を...。
今度はほとんど撮っていないのですが。

DSC00203.jpg最初は、アマンの新妻のナディア。20歳です。
一緒にペシャワールに行きました。
話は戻りますが、実は、ドバイに飛ぶ前に1泊2日で大急ぎでペシャワールを往復したのです。
アマンが、車で同行してくれました。奥さんの実家がペシャワール近郊にあります。
背景は彼女の叔父の家で、ペシャワール近郊の荘園です。叔父は、スイスで時計工場を営み、始終行き来しているそうです。

DSC00195.jpgペシャワールを含むパキスタンの北西辺境州は、イギリス植民地時代にも統治を受ける事なく、独立を貫いたパタン族の国です。
だから、第二次大戦集結直後のいわゆるパーティション(印パ分離)の後も、国の支配を受ける事なく、従って農地改革も行われなかったようです。それがこのような広大な土地所有が続いている理由だと思われました。
この広大な荘園の中の邸宅の居間には、いにしえの銃器類や刀剣類が多数無造作に陳列してありました。

DSC00202.jpg このような歴史的な状況があって、現在でもカラチに陸揚げされた北西辺境州向けの船荷には課税されない。
そこは、パキスタンであってパキスタンでないがごとき状態が続いていて、パキスタンの軍隊も手が出せません。
数年前アフガン難民局の前長官のイムラン・カーンのドライブで、アフガニスタン国境の難民キャンプを視察した時のことです。
ペシャワール郊外のバザールを走り抜けながら、並んでいるマシンガンや、パズーカ砲を指差しながら、イムランは、
「ここでは、天国以外は何でも手に入るんだよ」といったものです。そうしたあたりに、ビンラディンは潜んでいると思われます。

DSC00212.jpgこれは、ぼくがちょっとびっくりしたものです。
世界中あらゆる飛行機会社がプラスティック製のナイフフォークを使うようになっています。
機内には凶器となる危険性があってはならない。この考えはどんどんエスカレートしてゆき、JALなどでは、一時爪切りも危険物扱いだったこともあるし、ライターも一個に制限されています。
そうした世界の情勢の中で、このPIA国内線のステンレスのナイフフォークにはちょっとびっくりました。
さすがパキスタンという感じ。使い捨てでない良さを取っているのかもしれません。

DSC00186.jpgついでにこれは何でもない写真。
イスラマバッドのマリオットホテルのJason’s Steak Houseと云う店のトマトスープです。
その細工に感心して写真に撮ったのですが、考えてみれば同心円を作っておいて、ナイフかなんかでカットすれば出来るんではないかと気付きました。なんじゃいこら。
この店のWagyuという300gの和牛(外国育ちの日本牛を外国でもそう呼ぶ)は、その値段なんと日本より高いくらいです。
興味に駆られて、実物を見せてもらったら、なるほどきれいな霜降り肉でした。たぶんオーストラリア産の和牛と思われました。
食べてみましたが、たいしたことはなく、損した気分になりました。

でも面白いことがありました。
このステーキハウスにアマンがくれたカベルネソービニヨンのフランスワインを、白ナプキンでくるんで持ち込んだのです。この国では、プライベートでない空間での飲酒は禁じられています。
でもぼくは、こうしたやり方でお酒を飲んだことが何度もありました。
ボーイに「グラスを持って来てちょうだい」と命じると、
「グラスで飲む事は困ります、カップで飲んでください」といって、そのワインをじゅ房に持ち去ってしましました。なんだか意味が分からずぽかんとしていると、ティーポットとカップが運ばれてきました。なるほど。これなら紅茶を飲んでるのかワインを飲んでるのかは分かりません。ポットには何も入っていません。カップが空になると、厨房に持ち去り注いで来てくれます。
紅茶カップでワインを頂いたのは、初めての経験で、なかなか新鮮でした。

さて、上記のInvitation Letterの効用は、予想していたより早く、ドバイ行きのチェックインで現れました。
Airblueのcheckin counterの女性は、パスポートを見て、「single entry Visa だからドバイには飛べない」とチェックインを拒否しました。
そこでこの文書を見せると、別の上役の女性を呼び、彼女は空港係官を呼び、彼がパスポートを持ち去りました。
しばらくしてパスポートが戻されると同時にチェックインが可能となったのでした。

Airblueのドバイ便は、エアバスA-32で、なかなかきれいな機材です。
同乗の200人ばかりの乗客は、ほとんどがパキスタン人の労働者です。彼らはドバイに出稼ぎに行くようです。
この事は、ドバイに着いてみて納得がゆきました。ものすごい建築ラッシュです。特に市街地周辺で建設中の高層ビルが林立していました。
快適なフライト2時間足らずでドバイ着。ちょうどカラチーイスラマの距離です。
パキスタンから旅行者のぼくは、ひどくきれいで、あまりに近代的な高層ビルに驚きながら、光きらめく高速道路のような夜の市街地を走り、HolydayInn downtawnに投宿しました。

久しぶりのパキスタン(5)

10月5日
イスラマバッドのいつものホテル、マリオットホテルに落ち着きました。
3年前は正面入り口の向こうの屋根の上に機関銃を構えた兵士が常駐していましたが、今回はそんな気配はありません。

一夜明けて、スルタンとアマンに連絡を取りました。
スルタンというのは、あのナジール・サビールエキスペディションという変わった名前のエージェントの筆頭職員です。

DSC00053.jpgエージェントのオーナーのナジール・サビールは、パキスタンの世界的登山家で、パキスタンにある8千メートル峰5座のうち4座を登頂しており、パキスタンで唯一人のエベレスト登頂者でもあります。
彼は、むかし日本の私の会社にコンピュータの特訓を受けにやってきて、40日間ほど滞在したことがありました。帰国して、すぐパキスタン北西辺境省選出の国会議員になります。
エベレスト登頂後、国会議員を辞め、現在はパキスタン山岳会の会長をしています。

PB110103.jpgアマンというのは古い付き合いのラワルピンディーの絨毯商、シャフィカーンの息子です。イギリスのカレッジを出て、昨年アメリカ生まれのパキスタン女性と結婚しています。
シャフィカーンは、昨年脳溢血で急死して息子のアマンが跡を継いでいます。
アマンが生まれた時、彼の祖父が孫の名前をつけた今のアマンカンパニーを立ち上げたのですが、父親のシャフィカーンがなくなり、アマンカンパニーは名実共にアマンのものとなった訳です。
こうした息の長さというか気の長さが、パキスタンの特徴といえそうです。
この首都イスラマバッドにしても、カラチからの遷都計画は15年計画で始まったのですが、実際はその倍近くかかったのかもしれません。

DSC00012_1.jpgアマンは、ぼくの突然の来パに驚きつつおおいに喜び、すぐにホテルに駆けつけてきました。
彼のメルセデスの新車で、ナジールのオフィスに向かいました。
イスラマバッドの巨大な方眼の道を走りながら、その1ブロックを占める建設が始まったばかりの建物を指差して、アマンはあれが今評判の大ホテルなんだと説明しました。ビッグホテル、ビックアパートメント、ビッグショッピングモール...といくつもビッグのつく単語を並べ立てました。
どこの資本?パキスタンかい。じゃぁアメリカ?
ちがうよ。ドバイだよ。
ドバイか。その時ぼくの頭が急に目覚めたように回転し始めました。
ドバイに行こう。

ドバイは、2・3年前から大いに気になっていたところです。
ドバイを意識し始めたのが、カラチのパルベイツがドバイに新店舗を2つ同時に立ち上げたときだとしたら、もう10年近く前になります。
最近では、テレビなどでも自由港や観光地として報道され始めています。
ぼくが興味を持ったのは、楓の葉っぱ状に海岸線を長くした人口島ではなく、世界最大といわれる人口スキー場です。
まだ完成していないかもしれないけれど、それを見てみたいと思っていたのです。

DSC00099.jpgナジール事務所に着いて直ぐ、スルタンにドバイ往復の値段を調べてもらいます。高ければ止めようと思っていました。
料金は6万円ほど。イスラマ→ドバイ→カラチの経路です。この場合、すでに買ってあるイスラマーカラチのチケットは不要になります。
アマンが横から、カラチに戻ってからドバイ往復した方が安いはずだといい、そのほうが1万円ほど安くなることが分かりました。
スルタンの航空会社との電話のやり取りを聞いていたアマンが、
「ぼくのコネクションでアレンジしそのあとにあなたに御願いしますよ」
と、割って入ったアマンがスルタンにもちかけ、話をつけました。
ドバイの入国ビザが問題になった時、95%ドバイ空港でもらえると断言したのはアマンでした。

まずチケットを手配しましょう。車を走らせながら、アマンはひっきりなしに電話しています。エアーブルーという昨年にできた航空会社がおすすめだそうです。
彼が、すごいディスカウントチケットがあるよといいました。60%オフ。
ただこれは、2日間とか3日間とかで日にちと日程が固定されているそうです。
でも、カラチからバンコックへは、オープンチケットなので、問題なし。
電話で話しながら、ちょっとパスポートを見せて、とアマン。
その時、ぼくも気付きました。日本で取ってきたパキスタンのビザは、シングルエントリービザ、つまり一回きりの入出国用のものなのです。
そうか、駄目か。と、一瞬思い、まあ今回は諦めるか。いやいや、戻ってきたカラチで、入国せずにトランジットでバンコックに飛べばいい。

アマンは、運転しながらあちこちに電話して情報を集めています。
まあ、むかしからぼくの信じることわざに<パキスタンには、不可能の文字はない>
というのがあったなあ、などと考えていました。
「ミスター・タカダ、大丈夫です」
最近、新しいパスポートプログラムが施行され、これは日本人用の特例処置のようですが、とにかくビザがなくとも、パキスタンのしかるべきところからのインビテーションレターがあれば、入国が許可されるという事なのです。友達のエージェントがすぐに作ってくれるそうです。

そのエージェントに行き、招待状用にパスポートのコピーをとり、次にエアーブルーに向かいました。2人の女性職員と男性が一人だけのきわめてこじんまりとしたきれいなオフィスです。
アマンは、電話で自分の店の店員を呼び寄せると、彼に私たちのカラチ行きのオープンチケットを渡し、フライトの予約に向かわせました。
こうしてぼくたちが、壁際の椅子に1時間足らず座っているうちに、ドバイ往復と帰路のバンコックまでの全行程のセットがすべて完了したのです。
ドバイ往復の料金は、なんと2名で5万円少々の安さとなりました。

アマンの働きは、全く目を見張るばかりでした。
シャフィカーンは生前、アマンは俺が稼いだ金をみんな外国旅行に使ってしまう、といつもぼくにこぼし、ぼくは決まったように、
「シャフィカーン。それは浪費ではないよ。投資と思うべきだ」
と、いっていたものでした。
彼の動きは、親父を遥かに越えたもので、彼も墓の下で喜んでいるだろうと思えたのです。
ホテルに戻る車のハンドルを握りながら、アマンは、
「あのエアーブルーの女性は、実はむかしのぼくの恋人なのです」といいました。
「今は結婚して子供もいる。でも友人です」
「そういうのを、本当の友人(リアルフレンド)というべきで、リアル・フレンドシップ(真の友情)があるんだよ」とぼくは答えました。
そして「ぼくには、そういう友人が何人もいるよ」 と付け加えると、アマンは
「後ろで奥さんが聞いているよ」といいました。

久しぶりのパキスタン(4)

10月3日
今日の夕刻、カラチを発ってイスラマバッドに移動してきました。
イスラマ行きの便を待つカラチの空港の待合室。夕方の6時20分。スピーカーからお祈りの声が流れ出します。
すると人々は、老若男女みんな、それこそ一斉に手にしたランチボックスの蓋を開きました。今日の断食が終わったのです。
断食月の間、正確には満ちた月が欠けて行く間の一ヶ月間、世界中のムスリムは太陽が空にある間、一切の食物を口にしない、という掟を守ります。
たばこも勿論いけません。つばを飲んでも駄目などという冗談をいうひともいます。

1日の断食が明けた時に、ムスリムは「アフタリ」と呼ぶ食べ物を食べます。干したナツメヤシから始まる単純なもので、断食後の胃を落ち着かせるような、一種の食前食になっています。
一方陽の上る前に食べる「セフェリ」は、各個人の好みにまかされています。みんな工夫を凝らして好きなものを食べる。

大分前、興味半分に断食を試みたことがありました。ちょうどそれは、遠征登山の帰りのキャラバンの終わりがたのことで、仲良しになった連絡将校と一緒に断食をやるといったのです。
夜になって、それを聞いた隊のコックは、はやくセフェリのメニューをいってくれと、大いに慌てたようでした。朝になると、早々に起こしにやって来て、早く顔を洗ってくれ、日が昇る、セフェリを食べる時間がなくなると大騒ぎでした。
で、その断食は、そんなつらいものとは感じませんでしたが、午後になってひどい眠気が襲ってきたのを記憶しています。

イスラム圏のどんな喧噪にあふれた都会のど真ん中でも、6時20分になると、突如、恐ろしいばかりの静寂につつまれる。
その前頃は、家に帰ってイフタリを食べようと家路に急ぐ車と人々で、町はごった返す。その後だからこの静寂はよけいに際立つのでしょう。
商店などでは、フロアに敷物を敷いて、店主店員車座になってイフタリを食する。
イスラム独特の臍帯感醸成の情景とぼくには映ります。

断食月というのは、聖なる月であり、世界中のムスリムが、神に対して敬虔なひと月を過ごす。
苦しいひと月が過ぎ、月が欠け尽き、そして現れてきて、細い三日月になる。これが断食明けの合図です。ムスリムの国の国旗に三日月があしらわれていることが多いのは、これによります。
雲が多くて、三日月が確認できなかったときはどうするのだろうと気になりますが、その時は、確認のため飛行機が飛ぶのだそうです。そして月を確認したと報告する。

その瞬間、人々は喜びの歓声とともに戸外に飛び出し、抱き合って断食明けを喜び合うのだそうです。こうしたことが、世界中のムスリムのすべてにおいて行われる。
月は地球上どこからでも同じように見えるはずで、この同時性はムスリムの一体感を高めるものだと思えます。

久しぶりのパキスタン(3)

DSC00014.jpg夕方、パールコンチネンタルと反対の通りの向側にあるセイロン・ジュエリーのお店を訪れました。 いまはもう、息子の代になっています。
このお店は、1965年初めてぼくがカラチに来た時、一等書記官の牧内さんの奥さんが、「奥さんのお土産を買いなさい」といって連れて来てくださったのが最初ですから、大変長い付き合いになります。

あれからもう41年になりますか。ほとんど毎年、多い時には年3回ということもありましたから、ぼくのパキスタン訪問は、30回はくだらないと思われます。
あれはいつだったか、だいぶむかしの話です。
教え子たちを連れてここに来たことがありました。京ちゃんたちは大学の卒業年で、修学旅行のつもりでやって来たようです。
ここを訪れる前に、ぼくは京ちゃんにこういっておきました。
「値切っていくらにしてもらおうかとかは考えるな。欲しい振りをしたら値切れないなどと思うな」
「気に入ったものがあったらほんとに気に入った欲しいと言いなさい」
京ちゃんはそのように振る舞い、そのようにいい、そして「でも私お金がない」といったのです。
おじさんは、しばらく考えてから、「いいよ。もって行きなさい。働いてお金を儲けたら、またやって来てうんと高い石を買ってください」
そんなに安い石ではありませんでしたから、一同ほんとうに驚いたのです。

おじさんは、かなり年老いた感じで椅子に座ったままでしたが、でも元気でニコニコして再会を大喜びしてくれました。
「身体に気をつけて。長生きしてくれる事を祈っています」といって別れました。